「私に出来る善行は……」
彼岸にある裁判所の一室、大きな執務机に両肘を付き、私はため息を吐いた。
「本来なら菓子折りでも持ってお礼に伺うべきなのでしょうが、古事記ではありませんが、顕界の者に彼岸やら霊界の食べ物を食べさせるのはご法度です。しかし、妙な物を送っては邪魔になりかねません。だからといって死後の裁きでおまけなんて許されるはずありませんし……」
あーでもないこーでもないと、執務室でうなり続ける事半刻と少々。
その間、一件も死者を裁いていないが、後の仕事が滞ることは無い。
いや、こうして悩む時間をとるために仕事を片付け、うんうん唸っててもいい時間をつくり出したのだ。
「やはり、現地で菓子折りを購入するのが無難でしょうか?しかし、顕界の店に詳しくない私がきちんとした物を選べるのでしょうか?それならば現金のほうが?こういうものは気持ちの問題ですから、いっそ手ぶらで?……少し落ち着きましょう。だんだんと思考が駄目な方向へ行っている気がします」
こうして頭を悩ませている事の発端は3日ほど前にさかのぼる。
◆
「―――裁きを言い渡します。生前の行いを吟味した結果。あなたには畜生道へ落ちてもらいます。この部屋を出て左手にある畜生道の受付へ行き、係員の指示に従ってください。以上、退出して良し」
トボトボと部屋を出る幽霊の背中を見送り、先ほどの裁判の書類に判決を記入し判子を押す。
「これで43人目も終了ですね」
インクが乾いたのを確認し、"済"と書かれた箱の中へ書類を放り込み、大きく息をつく。
「そろそろ休憩を取りましょうか」
今日はろくに休憩も取らず死者を裁いてきたが、まだまだ待合室には裁判待ちの幽霊がたっぷりと残っている。
どうしてこんな状況なったかというと、部下の死神がサボっていた為だ。
ここ数日、彼岸に来る死者の数が少なかったのを不思議に思い、今朝から抜き打ちで視察を行ったのだが、そこにで見たものは岩の上に腰を下ろしこっくりこっくりと舟を漕ぐ赤毛の死神と、三途の河原を飛び回る幽霊達の姿。
部下にするときに面接した際、舟を漕ぐのは得意と言っていたので、三途の川の渡しに任命したのだが、仕事中に陸の上でも舟を漕ぐのは詐欺ではないだろうか?
そんなことを考えつつも、赤毛の死神を叩き起こし、さっさと仕事に戻るように説教をして、再開した渡し作業により数日分の死者が一気に彼岸に送り込まれて今に至る。
「あの子ももう少しちゃんとしてくれれば良いのですけどね。……とはいえ、この有様では私もあまり大きなことは言えませんね」
背もたれに体重を預け、自分の仕事机を眺める。
薄ら高く詰まれた書類、狭い机のあちこちに置かれた資料、それらに混じってバラ撒かれたメモ、書類仕事の邪魔にならない様に机の端に置かれた浄瑠璃の鏡と悔悟の棒、昼食に食べたサンドイッチの皿、飲みかけのお茶が入った湯呑、etc…。
足元にあるゴミ箱もひどい物で、書き損じのメモや、使用済みの悔悟の棒等で溢れ返っている。
いくら忙しいといっても目の前の惨状では、とてもしっかりした閻魔の机とは思えない。
「……掃除、したいですね」
そう呟いたものの、試験前の学生とは違う身分、仕事を放り出して掃除に耽るわけにも行かない。
自分が死者を裁かねば、後の業務が滞ってしまう。
そろそろ、業務を再開しましょうか。
すっかり冷えてしまったお茶をひと口飲み、次に裁かれる死者を呼ぼうとした時、何かが動くのが目に入った。
それは、木こりに倒されようとしている木のように、ゆっくりと、それでいて徐々に早く、重力に引かれつつある、白い塔。
つまりは、薄ら高く積まれた書類の束が崩れようとしているのだ。
「あぶない!」
飛ぶように立ち上がり、飛び込むように書類の頭を押さえる。
ふぅ、危ない、危ない……。
もう一瞬遅ければ数百枚書類の束は崩れ、机の周りにばら撒かれてしまうところだった。
書類の塔の崩壊の危機を食い止め、ほっとするのもつかの間、お腹から太ももあたりに違和感を感じた。
冷たい?
視線を下ろすと、其処には机の上に倒れている湯飲み、そしてこぼれたお茶が机とスカートを濡らしつつあった。
「きゃぁぁ!」
慌てて机上の書類やら資料をどけて、徐々に広がりつつある水溜りからの隔離にかかる。
書類の山が崩れるが気にしていられない。
落ちた書類は拾えばいいが、濡れてインクが滲んでしまった物は書き直さなければいけないのだ。
えいや、とばかりに書類を押しのけ、拭く物を探して周りを見渡し―――
―――カシャーン
一人で騒がしくしていた執務室に破滅的な音が響き渡った。
首をギリギリと鳴らしながら、恐る恐る破砕音の元へ顔を向ける。
床で割れていたのは先ほど倒した湯飲み……ではなく、大切な商売道具である浄瑠璃の鏡が机から落ち、ガラス部分が真っ二つに割れていた。
「いやぁーーーー!」
思わず大声を出し、頭を抱えうずくまる。
こんな忙しいときに限って、壊れるなんて。
どうして?
どうしてこんな事になったのでしょうか?
お、お、お、落ち着いて考えてみましょう。
深呼吸をしながら原因をまとめる。
Q.どうして浄瑠璃の鏡を落としてしまったのか?
A.机の掃除ができておらず、鏡を落としても不思議ではないくらい散らかっていたから。
Q.なぜ掃除が出来なかったのか?
A.仕事が立て込んでいて時間が無かったから。
Q.どうして仕事が立て込んでしまったのか?
A.部下がサボっていて仕事を溜め込んでいたから。
つまりはすべて小町サボっていたせい?
浄瑠璃の鏡が割れたのも、お茶をこぼしてスカートが濡れたのも、机の周りがこんなに散らかっているのもすべて小町が悪い?
いやいや、まてまて。
導き出された答えに、別の自分が待ったをかける。
Q.部下の不始末は上司の責任では?
A.……
Q.そもそも鏡を落としたのは私の不注意のせいでは?
A.…………
いや、いやいや、確かに鏡を落としたのは私ですが、こんなに簡単に割れてしまう浄瑠璃の鏡にも責任はあるのではないでしょうか?
昔ながらの銅鏡だったならば、こんな事態にはならなかったはず。
経費節減だかなんだか分かりませんが、こんなチャチな物を支給する冥界のシステムが悪い。
こんな世知辛い社会が悪いのだ。
つまり、浄瑠璃の鏡が割れたのは社会の責任!!!
「……少し落ち着きましょう。経費節減は組織として当たり前の流れですし、私が忙しいのは、あの子が反省して仕事を頑張っている証拠です。とりあえず、鏡を修理するか、替わりの物を手配しなければ……」
コンコン……ガチャリ
「しつれいしまーす。四季様、何かすごい声が聞こえましたけど大丈夫ですか?」
ノックの音に続き、三途の川から帰ってきた小町が執務室に入ってきた。
裁かれるべき幽霊をつれてきたという報告だろう。
本来なら了解の旨を伝え、次の仕事へ向かわせるのだが、今は事情が違う。
「ああ小町、良いところに戻ってきましたね。ちょっとした事情により、浄瑠璃の鏡が割れてしまいました。悪いのですが、浄瑠璃の鏡を貸してくれそうな閻魔か、修理できそうな職人を連れてきてはもらえないでしょうか」
「おおっと、そりゃ大変だ。すぐに連れて来ますよ。それにしてもひどい有様ですね。判決が気に食わなくて暴れだした幽霊でもいたんですか?」
書類やらゴミやらが床に散らばり、机の上は湯飲みが倒れ水浸し。
確かに机の周りを見れば、誰かが暴れたかの様な状況だ。
まさか自分が七転八倒して散らかしたなんて口が裂けてもいえない。
「……おほん。それはともかく急いでくださいね。このままでは死者を裁くことが出来ませんので」
「分かりました。行って来ます」
バタン
元気良く部屋を飛び出した小町を見送り、ほっとため息ひとつ。
とりあえず小町が帰ってくるまでに出来ることは……
「掃除ですかね」
◆
こぼれたお茶はふき取られ、卓上の書類や資料は綺麗にまとめられ、ゴミ箱も空。
すっかりと部屋が綺麗になった頃になって、ようやく執務室のドアが叩かれた。
コンコン……ガチャリ
「ただいま戻りました」
部屋に入ってきたのは、先ほどお使いを頼んでいた小町。
「失礼するよ」
そして、もう一人。
メガネを掛けた青年が小町の後に続き部屋に入ってきた。
「おや、貴方は森近霖之助さん?確か貴方の寿命はまだ先だった筈ですが、どうしてここに?」
「いや、それが僕にもさっぱりだ。少し前まで三途の川原を散策していたんだけど、そこの死神にいきなり『大変だ、大変だ!』と言って船に押し込まれて、ここまで引っ張ってこられただけで、どうして連れて来られたのか分からないんだよ」
「……小町」
説明を求めるように部下の死神に視線を向ける。
「いやー、最初は知り合いの閻魔様の所に行ったんですけど、留守だったり、仕事中だったりで誰も捕まらなかったんですよ。
次に工房のほうへも行ったんですけど生憎と休みだったんです。
浄瑠璃の鏡も修理できそうな職人も捕まらなくて、どうしようかと頭を抱えていた時に、三途の河原で香霖堂の旦那がうろついていたのを思い出した訳です。
いつも道具への愛について語っている旦那なら、浄瑠璃の鏡だって修理できるだろうと思って連れて来ちゃいました」
そう言って、どこか照れたように笑う赤毛の死神。
なるほど、私の指示では目的を達成することが出来なかったため、機転を利かせて何とか出来そうな人物を探してきたと言うわけですか。
色々考えて仕事をしてくれるのはありがたいのですが、だからといって生者を彼岸まで連れて来るのはルール違反だということを解かっているのでしょうか?
「ふむ、つまり僕は浄瑠璃の鏡を修理するために呼ばれたと考えていいのかい?」
「ええ、そういうことになります。顕界の方にこんな事をお願いするのはお門違いなのですが、一刻も早く鏡を修理して仕事に戻らねばなりません。よろしければ見て貰えないでしょうか?」
「あたいのほうからもお願いします。どうか旦那の道具愛ってやつを見せてもらえませんか」
霖之助は割れた鏡を前に、顎に手をやり考え込む。
「ふむ」
何かを思いついたのか、腹の鞄をゴソゴソとあさり、小さなチューブ状の物を取り出した。
そして、鏡の破片にチューブの中身を塗り付け、土台の部分に貼り付けること3秒。
「これでどうだろう」
組みあがったそれを私に差し出した。
「はやっ!」
「もう修理できたのですか!?」
「応急修理だけどね」
浄瑠璃の鏡を受け取りじっと見つめる。
ガラス面にヒビが入ったままですが、本当に大丈夫なのでしょうか?
恐る恐るガラス面を下に向ける。
……落ちない。
どうやらきちんとくっついているようですね。
それならばと、浄瑠璃の鏡に霖之助の過去を映してみる。
ヒビ割れた鏡面に映るのは、河原でオロオロとしている霖之助とそれを引っ張って行こうとしている小町の姿。
今写っているこれは、ここに来る直前の様子なのだろう。
「すごい!直っています。こんなに早く直るなんて、先ほど使ったチューブに入っていた物は魔法の薬か何かですか?」
「これかい?これは瞬間接着剤と言う物で、物質と物質をすぐさまにくっ付けてしまう性質を持った外の世界の道具だよ。米糊よりも短時間で強力に物をくっつけることが出来るので重宝しているんだ。それにしてもうまくいったようで何よりだ。今回は、瞬間接着剤の透明であると言う点がうまく作用したようだね。鏡はずっと昔から存在する物で、銅や銀、ガラスといった色々な材料で作られてきたが、原初の鏡は水鏡、つまり透明な水だ。だから僕は透明な水状の瞬間接着剤を使ったわけなんだが、効を奏したようだ。瞬間接着剤じゃなくて、白い米糊や黄色い木工用ボンドを使ったのでは、こんなにうまくはいかなかっただろうね。最初は鏡の語源である影見、つまり影の力を利用しようと、黒くて粘着性のあるコールタールを使う事も考えたんだけど、そうすると…………」
あー、そうでした。
この人は自分の興味が有る事となると何時までもしゃべり続ける性質だったはず。
……恩人の話を聞き流すのは心苦しいのですが、私はすぐにでも仕事に戻らねばならない身。
「えーっと、今日はありがとうございます。小町、早く森近さんを送っていってあげなさい」
「はいはい、香霖堂の旦那、船が出ますよ~」
「あ、ああ、分かった。それでは失礼するよ」
説明を聞いてもらえず、少し寂しそうな霖之助と、それを引っ張って歩く小町を見送り、ホッとため息をついた。
応急処置とはいえ浄瑠璃の鏡は直りましたし、部屋も片付きました。
先程までの遅れを早く取り戻さなければ!
「お待たせしました、次の者入りなさい」
◆
―――それから普段の五割り増しの速度で死者を裁き続けること3日。
裁判待ちの幽霊もいなくなったので、今頃にしてようやく霖之助に対するお礼について頭を悩ませる余裕が出来た訳だ。
「むむむ……どんな物が喜ばれるのでしょうか……」
コンコン……ガチャリ
「しつれいしまーす。今日の分の死者はもういないので、今日はこれで上がらせてもらいますよ」
ノックの音と共に執務室に入ってきたのは小町。
どうやら、仕事終わりの挨拶のようだ。
裁かれる死者がいないということは、私の仕事もこれで終わりのようですね。
それではこれからじっくりとお礼の品について考えることにしましょう。
「はい、ご苦労様です。私はもう少し残っていますが、先に上がってもらって結構ですよ」
「悩み事ですか四季様?眉間に皺がよっていますよ」
知らず知らずのうちに深刻な顔をしていたらしい。
慌てて眉間をマッサージする。
「先日浄瑠璃の鏡を修理していただいた、森近さんにまだ御礼をしていないのですが、お礼の品はどんなものがいいのかと頭を悩ませていたのですよ」
「はぁ、香霖堂の旦那にお礼ねぇ……。旦那はお礼とかそんなことを気にするタイプには見えないんですけどねぇ」
「相手が気にする気にしないは問題ではありません。助けていただいたら、感謝の意を示す。これが大事なのですよ」
「そういうもんですか」
どこか納得いかない風な小町。
この子もこういった社会のシステムの大事さを勉強してしっかりしてくれればいいのですけど。
「ところで小町。貴方は私よりも森近さんと顔を合わせる機会も多いですよね?よかったら知恵を貸してくれませんか?」
「ええ、そりゃかまいませんが……」
広い執務室で、腕を組み頭をひねる閻魔と死神。
「お礼の品ねぇ。定番としてはお酒か、タバコか、食べ物か…………そうだ!」
何か思いついたのか、大きな声を上げる小町。
「四季様、料理です。手料理なんかどうでしょう?」
「手料理ですか?私もそこそこ長く生きていますので、料理には自身はありますし、アイディアだとは思いますが、死者の国の食べ物を生者に食べさせるのはご法度ですよ」
「そこは、人間の里で材料を買って旦那の家で調理すればいいんですよ。やっぱり料理はできたてが一番です」
「しかし、人の家の勝手を使われるのは、家主としてはあまり気分がいいものではないでしょう」
「いやいや、旦那はさびしい男やもめですから、手料理を作ってくれる人がいるなら、喜びこそすれ、邪険に扱ったりはしないでしょう。そこで手間暇かかった煮物か何かでお袋の味的な物を出したら一発でコロリといきますって」
「いやいや、寿命が残っている者がコロリと逝ったら駄目でしょう」
「いや、そういう意味ではないんですが……」
コロリはともかく、小町のアイディアは悪くないかもしれません。
感謝の気持ちが判りやすく、食べ物なので処分もしやすいし、死者の国の食べ物でもない。
「その案を採用します。有給を申請して明後日にでもお礼に行って来るとしましょう。相談にのってもらいありがとうございます」
「いえいえ、力になれた様で何よりです。それでは失礼しますね」
「はい、ご苦労様です。私がいなくてもしっかりと仕事をするのですよ」
「はい!」
部屋を出て行く小町を見送り、ホッと一息。
やることも決まりましたし、有給の申請をしましょうか。
なにやら扉の外から「やったー!明後日はサボり放題だー!」と言う声が聞こえたような気もしますが……まぁ、相談に乗ってもらいましたし不問としましょう。
それにしても、私が休みでも、代わりの閻魔が来ることくらい判りそうなものなんですけど……。
代わりの閻魔にはしっかりと見ておくように言わないといけませんね。
◇
体を包む暖かな重み。
まぶたを照らすやさしい光。
鳥の鳴き声。
どこか懐かしい匂い。
だんだん近づいてくる足音。
パタパタパタ……バタン
寝室のドアを開ける音。
やさしく僕を呼ぶ声。
先程よりも強く感じられる匂い。
これは味噌汁の香りか?
「 さん ですよ ちかさん……」
呼ばれていると頭ではわかっているのに、まったく起きる気がしない。
ああ、懐かしい感覚だ。
こんな感覚はいつ以来だろう。
霧雨の店に厄介になっていた時?
それとも、もっと昔の……
「 さですよ てください 近さん……」
だんだんと大きくなる声。
優しくゆすられる体。
しかし、僕はまどろみの海から抜け出すことが出来ない。
「……もう、まったくしょうがありませんね」
何かをあきらめたようなため息。
すぅ、という息を吸い込む音。
そして……
「起きなさい、霖之助!」
耳元で発せられた大声により、急速に意識は覚醒する。
目を開くと、そこにあるのはいつもの天井、部屋を照らす朝の光、そして、膝をついた状態で僕を見下ろしている緑の髪の少女。
えーっと?
彼女はたしか幻想郷の閻魔をしている四季映姫だっただろうか。
しかし、どうして彼女がここにいるんだ?
「え……閻魔様?」
「はい、おはようございます森近さん。もう朝食が出来ていますので、早く着替えて居間にいらしてください」
そう言うと、彼女はすっくと立ち上がり、僕の寝室から出て行った。
何故幻想郷の閻魔が此処に?
いったいどうなっているんだ?
朝ごはんが出来ているとはどういう意味なんだ?
布団から体を起こし、起き抜けでまだ良く回らない頭をボリボリと掻く。
客なのか?
いや、普通客なら人の寝室まで上がってこないし、朝ごはんを準備したりもしないだろう。
この店に来る客は、非常識な行動をとる者も多いが、彼女は比較的常識的な人物だったはずだ。
ならば、あの世からのお迎えか?
いや、最近体に異変を感じたことはないし、僕はまだ老いて死ぬほど長く生きていない。
そもそも、死者のお迎えは死神の仕事であって閻魔の仕事ではないはずだ。
それならば何故彼女がここにいるんだ?
……判らない。
いくら考えていても、幻想郷の閻魔がここにいる事実は変わらない。
理解できないことは気にしない。
そんな人生におけるポリシーに従い、寝巻きを着替え、一抹の不安を感じながら居間に向かう。
「改めまして、おはようございます森近さん」
ダイニングで僕を待っていたのは、茶碗にご飯をよそいながらニコニコと微笑む緑髪の少女と食卓に並べられた朝食だった。
焼き鮭、キンピラゴボウ、ほうれん草のおひたし、ジャガイモとたまねぎの味噌汁。
ふむ、主菜1品に副菜2品、そして汁物。一汁三菜の基本を守ったいい料理だ。
だがしかし、幻想郷の閻魔が僕の家でそんな物を用意している理由がさっぱりわからない。
「……えーっと、どうして貴方が―――」
「おはようございます」
僕の言葉をさえぎるように口を開く映姫。
「え?」
「おはようございます」
「あ、あぁ、おはようございます」
「よくできました。挨拶は一日のはじまりです。挨拶は大きな声ではっきりとしなければいけませんよ。さぁ、暖かいうちに朝食を食べてくださいな」
彼女は満足そうに頷くと、僕に朝食を薦めてきた。
僕の前に置かれる茶碗。
促されるまま席に座り、箸を取り……っと、違う。
朝食よりも先に聞くことがある。
「……どうして貴方が―――」
「いただきます」
再びさえぎられる僕の声。
彼女の声にはどこか逆らえないような凄みが感じられる。
これが閻魔の貫禄というものだろうか?
「……いただきます」
「はい、お召し上がりください」
幻想郷の閻魔の様子を伺う。
映姫はニコニコとしながら、"早く食べないの?"とでも言いたげな目で僕を見つめている。
ただ質問をしたいだけなのだがどうにもやり辛い。
ともかく、なぜここで幻想郷の閻魔が朝食を作っているのか聞かなければ。
どこかこそばゆいような視線を振り切るように口を開―――
「おや、森近さん。襟元が乱れていますよ」
声を出そうとする瞬間、先に声を掛けられる。
僕はなぜか負けたような気持ちになりながら襟元に手を伸ばす。
今日は朝から閻魔に起こされるという不可思議な体験をしたため、少し混乱しながら服を着替えたのだ、襟元が乱れたりもするだろう。
「あーそこじゃありません。後ろ側が折れ曲がっているんですよ」
そんな声と共に、小さな手が首の後ろに回される。
突然の行為に驚き、僕は後ろに下がろうとした。
「こら、動かないでください。っと、これでよし」
映姫は首の後ろに回していた手を解き、僕の様子を見て満足そうに頷く。
「うん、男前になりました。貴方は客商売をしているのですから、身だしなみには気をつけなければいけませんよ」
「あ、あぁ、ありがとう」
これで3回質問を封じられたわけだが、どうにも余計なことを聞いてはいけないような、絶対に質問できないようなそんな運命を感じる。
まさかそんなことは無いとは思うのだが。
「あの―――
「森近さんお茶はいかがですか?」
「……いただきます」
とりあえず目の前の食事を片付けてしまうとしよう。
◇
「ご馳走様でした」
目の前の閻魔に要求されるよりも先に、食後の挨拶を口にする。
「はい、お粗末さまでした」
僕が学習していたのが嬉しいのか、それとも出された食事を平らげたことが良かったのか、ニコニコとした表情で食器を片付けはじめる閻魔。
さて、今なら質問をしても大丈夫だろうか?
「聞きたいことがあるんだがいいだろうか?」
「はい、なんですか?」
「君は確か幻想郷の閻魔をしていたとはずだけど、どうして彼岸じゃなくて僕の家にいるんだい?僕の朝食を作ることは閻魔の仕事とは思えないのだけど」
「あぁ、そうでした!」
少女は"思い出した"とでもいった風に手をパンと叩く。
「先日は浄瑠璃の鏡を修理していただきありがとうございました。おかげさまで無事業務を進めることが出来ました。今日はそのときのお礼として、お粗末ながら腕を振るわせていただきました」
なるほど、どうやら彼女は浄瑠璃の鏡を修理したお礼に、朝食を作りに来たというわけか。
生きたまま三途の川を渡るなどというめずらしい体験をさせてもらったのだ、御礼など要求するつもりは無かったのだが、なんとも義理堅い。
僕の知り合いは道具を修理しても、こちらから言い出さなければ対価を支払おうとしない奴らばかりだというのにさすがは閻魔、礼儀を心得ている。
「お粗末なんてとんでもない、とてもおいしかったよ」
「お気に召していただけたようでよかったです。食器は洗っておきますので、森近さんは店を開けてはどうですか」
ちらりと窓の外へ視線を向ける。
木々の間から見える太陽の位置は低く、朝露もまだ乾ききっていない。
現在の時間は8時前と言ったところだろうか。
いつもならまだ布団の中にいるような時間だ。
店を開けるには少々早いだろう。
「こんな時間に店を開けてもそうそう客は来ないよ。たまに尋ねてくるような客は閉まっていても勝手に店に入ってくるような奴らばかりさ」
「こらこら、客が来ないからといって、サボっていては一人前の店主とはいえませんよ」
「いやいや、僕すでに一人前の店主だよ。客は勝手に入ってくる、つまり僕が店を開けていてもなくても、何も変わらないということだ。
だからと言って、この店に僕が必要ないというわけではないよ。
香霖堂をたずねてくる客は皆、店が閉まっていても僕が家の方に居ることを知っており、店に入れば僕が出てくることを分かっているから入ってくるんだ。
もちろん僕も、店に入って来るのが客であるならばきちんと対応する。
僕が持てる知識を総動員し、客が望む物を提供する、これは僕にしか出来ない仕事だろう。
店主を頼り店を訪れる客と、店が閉まっていても対応する店主。これは一種の信頼関係が築けていると考えてもいいのではないだろうか。
つまり僕は、客に信頼される店主ということになる。なんとも店主冥利に尽きるじゃないか」
僕は自分の言葉に満足し、湯飲みに手を伸ばして食後の一服を―――
「―――霖之助」
底冷えするような声に、僕はギクリとして視線を向ける。
そこ立つ少女の顔には、さきほどまでのニコニコとしていた表情は無く、目を吊り上げ、絵本に描かれた閻魔にそっくりの顔が張り付いていた。
「貴方がそんな態度だから何時までたってもこの店に客が来ないんです!人が休んでいる時から働いている姿を見せてこそ、その店の商品を買おうという気にもなるというものです!
貴方は少々労働に対する意欲が薄すぎます!今からでも遅くありません、店を空けて掃除でもしていなさい!それが貴方にできる善行です!
私もこれを片付けたら手伝いますから、手を抜くんじゃありませんよ!」
「は、はい!」
僕は少女の剣幕に追い立てられ、店へと避難した。
◇
香霖堂の一角で、シャカシャカとほうきを動かしながらため息をついた。
少し掃いただけで結構な量のホコリが宙を舞っている。
たびたび、カビっぽいやら、ホコリっぽいやら言われていたが、こうしてみると確かにその通りだ。
この店も、気が向いたときに掃除はしていたが、ここまで汚れていたとは思いもしなかった。
喉に突き刺さるホコリ、チラリと視界に入る読みかけの本、やる気をそぐような虫の声、気を抜くとこぼれるため息。
どうしてこんな状況にになったんだろう?
原因となった幻想郷の閻魔の行動を振り返ってみる。
1.朝っぱらから僕の家に侵入する。
これはまぁいい。僕が寝ている時に、誰かが家の中に入ってくるのは、稀にあることだ。
2.人の家で勝手に食事を作る。
これも僕にとってはよくあることだ。
彼女の料理の腕は確かなものだったし、材料も彼女が用意した物だった。
僕にとってなんら不具合は無い。
3.店を開けて掃除をするように強制。
これはどういうことだろうか。
聞けば彼女は、僕が浄瑠璃の鏡を修理したことに対する礼に来たのだという。
しかし、いったいどこの世界に、お礼を言いにきた相手に説教をして、掃除を強制する人物がいるというのだ。
まったくおせっかいもほどほどにしてほしいものだ。
それにしても、人に言われて掃除をするなどいったいどれ位ぶりだろう。
霧雨の店で働いていたとき以来だろうか。
今も昔も変わらず、人に強制されての掃除というものはどうにも気が滅入る。
掃除など、”良し、やるぞ!”と自分で決めた時に一気にやってしまうのが効率の良いやり方じゃないだろうか。
今のテンションでは掃除もはかどる筈が無い。
だからといって、このまま逃げ出して、閻魔の機嫌を損ねるのは得策ではないだろう。
そんなことをすれば、後日何倍もの時間説教付で掃除をさせられるのは、目に見えている。
今日のところはおとなしく、閻魔様が満足するまで店を掃除をするしかないのだろうか。
ふぅ、まったく面倒なことになったものだ。
疲れない程度に頑張るとしようか。
「こらこら、だめですよ」
突然掛けられた声にビクリとして振り返る。
そこには、洗い物を終えた閻魔が、バケツとハタキを持って立っていた。
「掃除の基本は上から下です。上の汚れを落としてからじゃないと、せっかく床を掃いてもまたホコリだらけになってしまいますよ。
本来なら物を一旦運び出してから始めたいのですが、さすがにそこまで時間をかけていられませんね。私は入り口側からハタキをかけますので、貴方は反対側からやっていって下さい。さぁ、お客さんが来る前に終わらせますよ」
「あ、ああ」
僕はバツの悪さを感じつつ、手の物を箒からハタキに変更して掃除を再開した。
のだが……
「どうして貴方の服が店内に置いてあるのですか」
「いや、それは夜中に冷え込んだ時に羽織ろうと置いてる物で……」
「今は夏の終わりでですよ、いったい何時から置いてるんですか。他に汚れ物があるなら出しなさい、後で洗濯してきます」
「……」
パタパタパタ
「さて、ホコリも落とせましたし、私は棚を拭いていきますので、貴方は床を掃いていってください」
「分かった」
ザッザッザッ
「……四角い部屋を丸く掃く」
「え?」
「隅の方がゴミだらけですよ。せっかく掃除をするのですから隅々まで綺麗にしましょう」
「……」
フキフキ
「それにしても、本が多すぎです。少しは処分したらどうですか?」
「いずれ読み返そうと思っておいてあるんだ。全て必要な物だよ」
「そうですか?このあたりの本はホコリをかぶっていて、何年も触っていないように見えます。物を大切にする事と物を腐らせる事は違うのですよ」
「……」
といった具合に次々と駄目出しをくらい、ただでさえ少なかったやる気はどん底まで落ち込んでいた。
おせっかいやお小言はいい加減にしてもらえないだろうか。
ここは僕の店にして僕の家だ。
掃除のタイミングや方法など僕の好きにさせてくれ言いたい。
そもそも、ろくにこの店に来る事も無いのにグチグチと言われる筋合いは無いはずだ。
「む、この箪笥、引き出しが重いですね。陰干しをしましょうか」
「……」
「どうかしましたか霖之助?陰干しをするので、一旦物を出しますよ」
「……僕がその内やるから、ほっておいてくれ」
「何を言っているのです。何時までもほっておくと湿気を吸いすぎて変形してしまいますよ。やるなら私がいるうちにやったほうが……」
「だからほっておいてくれと言ってるだろう!ここは僕の店だ、僕の好きにさせてくれ!」
「しかしですね―――」
「―――いい加減にしてくれ!貴方のお小言はもういい加減にうんざりなんだ!」
僕の怒鳴り声に目を丸くする幻想郷の閻魔。
そして、どうしたものかと、僕を観察するように見つめる。
僕は気圧されない様に彼女の瞳を睨みつける。
二人の間にピリピリとした空気が流れる。
「……ふぅ。しょうがありませんね」
ふっと、どこかあきらめたようなため息が聞こえた。
そのため息に僕は見捨てられたような寂しさと、取り返しのつかないことをしてしまったかのような恐怖を感じた。
「貴方は少し頭を冷やしたほうが良いようですね」
怒るでもなく、馬鹿にするでもなく、彼女は寂しげに呟くと、僕に背を向けて歩き出した。
カランカラン―――バタン
店内に響くドアベルの音と扉の閉まる音。
それらが消え去った後、静寂が店内を支配する。
彼女が出て行った扉を睨みつけ、歯をギリリと鳴らす。
厄介者を追い出してやったという爽快感は無い。
胸中に残るのは寂しさ。
そして、そんな寂しさを感じる自分に対する怒りだった。
「クソッ!」
僕は口汚く吐き捨て、勘定台の内側の指定席に腰を下ろした。
◇
夕日によって赤く染められた香霖堂。
中途半端に片付けられた店の中で、僕は勘定台に片肘を付き、水タバコをふかし、時折思い出したようにお気に入りの本の頁をめくる。
こんなやる気の無い店主のいる店に客など来るはずもなく、暇にあかせて怠惰をむさぼっているわけだが、まったくもって気が晴れない。
それどころか、何度読んでも新しい発見があると気に入っていたはず本でさえ、内容が頭に入ってこない。
原因は昼間のあれだ。
幻想郷の閻魔との喧嘩せい……いや、あれは喧嘩とも呼べない、僕が一方的に癇癪を起こしただけだった。
彼女の言葉が正しい事はわかっている。
だが、些細なお小言だったとしても、数が重なればイライラとする。
アドバイスの内容が正しいかったとしても、すべてを聞いていられない。
誰だって楽がしたいのだ。
彼女だって何百年と生きているのに、どうしてそれを分かってくれないのだ!
……いや、善悪を司り、生き物を正しい道へ導くことを善しとする閻魔としては、彼女は何も間違っていない。
むしろ、それを受け入れられない僕が悪なのだろう。
だけど今の僕には、彼女の望むようなきっちりとした生活は出来そうにない。
霧雨の店にいるときは、もう少しまともな生活をしていたはずなのにそれさえできない。
僕はだんだんと駄目になっているのだろうか?
ああ、きっとそうなのだろう。
もういっそ僕のような奴は、残りの人生を自堕落に過ごして、地獄に落ちてしまえばいいのだ。
そして、死後に彼女に馬鹿にしたような目で”貴方は地獄行きです”と告げられるのだ。
「クソッ!」
ああ、分かってるさ!
僕が間違っていることくらい十二分に分かっている!
だからといって、”反省しました”と言いながら、掃除の続きでもするのか?
ふざけるな!
そんな情けない真似がいまさら出来るはずがないだろう!
頭をガリガリと掻き、大きく息を吐く。
いったい、どうすれば良いのだろう。
死後の地獄に落ちる事を取るか、くだらないプライドを捨ててしまうか。
いや、ほかに方法はないのか?
彼女をギャフンと言わせるような何か。
……普通に考えればそんなものはない。
なぜなら彼女が正しいからだ。
不死に成る、幻想郷を出るといった普通では無い方法なら彼女から逃げることは出来るだろう。
しかし、そんな事はとても常人には実行できないし、出来たとしても幸せな人生ではないだろう。
だが、それでも今の状態で悩み続けるよりはマシではないだろうか?
……そんなはず無いだろう。
とっとと自分が間違っていることを受け入れて、彼女の閻魔の望むような人物になればいい。
だがそんなものは受け入れられない。
ならば僕はどうすればいい。
「お風呂に入ってさっぱりして来てはどうですか?」
突然の背後からの声。
帰ってしまったはずの少女の声。
「っ!?」
僕は弾かれた様に振り返る。
そこには、頭に三角巾をつけた幻想郷の閻魔が居間の方から顔を出していた。
なせ彼女がここにいるんだ?
混乱する頭でどうにか言葉を搾り出す。
「貴方は……どうしてここにいる。帰ったんじゃなかったのか?」
「夕飯の買出しやら、洗濯やらをしていただけですよ」
そう言って彼女はニコニコと笑いかける。
数刻前の諍いなどなかったかのように、今朝と同じ、三途の川や、神社の宴会などで会った時と変わらない態度。
ピンと胸を張り、年下の子供を見るかのような優しげな眼差し。
その姿をみていると、僕の中にあった怒りやイライラは小さくなっていく。
そして、自分の矮小さに胸が締め付けられる。
「てっきり……帰ったものだと……思っていた……」
「何を言っているのですか。帰るときはちゃんと一声かけてから帰りますよ。それに私は貴方にお礼をしに来たのです。気分を害したまま帰っては閻魔の名折れです」
太陽の匂いがする服と、ピカピカ磨かれた木桶が差し出される。
「今日の仕事は終わりにしましょう。私は夕飯の仕上げを行いますので、その間に貴方は今日の汚れを落としてきなさい」
服と木桶を受け取り小さくため息を吐く。
僕がふてくされているあいだに彼女は、炊事や風呂焚きまでしてくれていたというのか……
こうもしっかりとした仕事ぶりを見せ付けられると、自分の情けなさが身にしみる。
いったい今日の僕はどうしたというのだろう。
正論に対して声を荒げ怒鳴り付けたり、人と自分を比較して落ち込んだりと、どうも今日の僕はおかしい。
「どうかしましたか?早く入らないとお風呂が冷めてしまいますよ」
「ああ、すまない。すぐに入らせてもらうよ」
「十分暖まったらので声をかけてください。背中を流してあげますよ」
僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女はとんでもない事を言い出した。
「い、いや、結構だ。大丈夫、風呂くらい一人で入れる」
微妙に人を子ども扱いする彼女のことだ、このままグズグズしていては背中を洗うどころか、服まで脱がされかねない。
逃げるように風呂場へ向かう。
まったく、人が自分の矮小さに悩み、酷い事をしてしまったのかと反省していたというのに、いったい彼女は何を考えているのだろう。
「ふふ、大丈夫ですよ。私は怒ってなんかいません。少しは反省したのでしょう。
少しでも自分の行いを反省し、善行を積もうとする者を閻魔は決して見捨てたりなんかしません。
まったく見込みのないものには声すらかけたりなんかしません。私は貴方達の幸せを願っているのです」
僕の態度に怒っていないのか?
僕は閻魔に見捨てられたんじゃないのか?
恥ずかしくて出来なかった質問の答えが後ろから聞えた。
まるで心が見透かされているかのような気がして、僕は逃げ足を早める。
いつの間にか、心の中に残っていたイライラは気にならなくなっており、風呂から上がる頃には完全に消え去っていた。
◇
「ふぅ……いいお湯だったよ」
「それは何よりです。お水はいかがですか?」
「ああ、頂くよ」
映姫からコップを受け取り、中身を飲み干す。
井戸から汲みたてとしか思えない程、良く冷えた水が体に染み渡る。
太陽は沈んでしまっているとはいえ、まだまだ残暑の厳しい季節。
風呂上りに飲む一杯の水は何よりのご馳走だ。
里のほうでは、冷えた牛乳や、果物の絞り汁を飲む習慣もあるらしいが、汲みたての井戸水もそれに負けないほど素晴らしい物だろう。
「夕飯の準備をしますので、居間でお待ちくださいな」
僕の手から、コップを受け取り、台所に向かう映姫。
さて、夕飯は何を作ったのだろうか?
居間に向かう途中、チラリと台所を覗く。
五徳に掛けられた鍋。
醤油と出汁の香り。
あれは煮物だろうか。
随分と手間のかかった物を作ってくれたようだ。
霊夢や魔理沙は焼き物や鍋のような手間のかからない料理を作ることが多く、僕も酒の肴くらいしか作らないので、こういった料理を食べるのは随分久しぶりだ。
少し浮かれた気分で食卓に着く。
「お待たせしました」
食卓の上に並べられる、ご飯、味噌汁、煮魚、山盛りの筑前煮、ほうれん草のおひたしの合計五つの皿。
五つの皿……一人分だけ?
「それでは私はそろそろ帰りますが、貴方はゆっくり食べていてください」
「君は夕餉を食べて行かないのかい?」
「ええ、今日は有給をいただいたとはいえ、全て代わりの者に仕事を押し付けるわけにも行きません。帰って仕事の引継ぎをしなければいけないんですよ」
少しくらい良いじゃないかと、引きとめようかと思ったが、窓の外はすっかりと日は沈み、帰るのには遅すぎるくらいの時間だ。
「そうか、それじゃあ元気で」
「はい、貴方もお元気で」
どこか寂しげな感情を胸に抱きつつ、僕は彼女を玄関先まで見送る。
しかし、不思議なものだ。
今朝まで、さして親しくも無かった相手、ほんの一日ほど一緒にいただけなのに、それどころか、つい数刻前までうっとおしいとさえ思っていた相手なのに、いざ彼女が帰る寂しいなどと思える。
これも彼女の人徳だろうか。
「あ!」
玄関から数歩歩いた彼女は、何かを思い出したように声を上げ、クルリと振り返った。
「そうそう、さっき作った筑前煮ですが、お鍋にいっぱい残っているので暖めなおして食べてくださいね」
「鍋に一杯だって?」
チラリと炊事場を覗いたときに見えたのは、ずいぶんと大きな鍋だったような……
あの鍋に一杯となると、軽く十人前はあるんじゃないだろうか。
彼女の料理の腕はなかなかのものだが、鍋に一杯も同じ物を食べるのはさすがにきつい。
「僕は生きるのに食事を必要としないせいか、毎日バクバクと物を食べる習慣が無いんだ。そんなに大量に作ってもらっても食べきれないよ」
「それはいけませんね。食べる事は生きる事ですよ」
「え?」
「人は食べ物を得るために働き、妖怪は人の心を食べるために人間を脅かす。行き過ぎた食欲は悪ですが、食べる事は善行の根源なのです。半分とはいえ貴方も人間なのですから、しっかりとご飯を食べ、良く働く、これが貴方に出来る善行です」
人指し指をピン立て、僕に説教をする閻魔。
その表情には、怒りや、傲慢さといったネガティブな感情は見受けられない。
これは本当に僕のことを思っての言葉なのだろう。
それを数刻前の僕は、払いのけてしまったのか……
胸に残るチクリとした痛みが、僕にらしくない決断をさせる。
「わかった。何とか食べてみるよ」
そして、明日は掃除の続きをするとしよう。
そうすればきっと、店に引きこもって本を読んだり、水タバコをふかすよりも気が晴れるだろう。
「よろしい。それでは私が見ていなくてもしっかりと食事と仕事を行うのですよ。また抜き打ちで見にきますからね」
「えぇ!?また来るのかい?」
「ええ、貴方は私の恩人ですからね。貴方が死んだときに天国にいけるように、立派な半妖にする。それが私に出来る恩返しです。それではまた」
ヒラヒラと手を振りながら、空へと浮き上がっていく少女。
僕はそれをポカンと口を空けたまま見送った。
彼女が完全に見えなくなった頃、ようやく息を吐く。
「閻魔よけのお札とかあったかな」
しかし、感情とは不思議なものだ。
つい数分前まで、別れるのが寂しいとさえ思っていたのに、「また来る」という言葉を聞いただけで、もう来なくていいと思うようになっている。
きっと今の僕は、霊夢や魔理沙が、映姫の事を話す時と同じような顔をしているだろう。
嫌っているわけではないが、苦手。
それなりに尊敬しているが、普段から顔を合わせたいとは思わない。
きっと幻想郷の閻魔とはそういうものなのだろう。
彼岸にある裁判所の一室、大きな執務机に両肘を付き、私はため息を吐いた。
「本来なら菓子折りでも持ってお礼に伺うべきなのでしょうが、古事記ではありませんが、顕界の者に彼岸やら霊界の食べ物を食べさせるのはご法度です。しかし、妙な物を送っては邪魔になりかねません。だからといって死後の裁きでおまけなんて許されるはずありませんし……」
あーでもないこーでもないと、執務室でうなり続ける事半刻と少々。
その間、一件も死者を裁いていないが、後の仕事が滞ることは無い。
いや、こうして悩む時間をとるために仕事を片付け、うんうん唸っててもいい時間をつくり出したのだ。
「やはり、現地で菓子折りを購入するのが無難でしょうか?しかし、顕界の店に詳しくない私がきちんとした物を選べるのでしょうか?それならば現金のほうが?こういうものは気持ちの問題ですから、いっそ手ぶらで?……少し落ち着きましょう。だんだんと思考が駄目な方向へ行っている気がします」
こうして頭を悩ませている事の発端は3日ほど前にさかのぼる。
◆
「―――裁きを言い渡します。生前の行いを吟味した結果。あなたには畜生道へ落ちてもらいます。この部屋を出て左手にある畜生道の受付へ行き、係員の指示に従ってください。以上、退出して良し」
トボトボと部屋を出る幽霊の背中を見送り、先ほどの裁判の書類に判決を記入し判子を押す。
「これで43人目も終了ですね」
インクが乾いたのを確認し、"済"と書かれた箱の中へ書類を放り込み、大きく息をつく。
「そろそろ休憩を取りましょうか」
今日はろくに休憩も取らず死者を裁いてきたが、まだまだ待合室には裁判待ちの幽霊がたっぷりと残っている。
どうしてこんな状況なったかというと、部下の死神がサボっていた為だ。
ここ数日、彼岸に来る死者の数が少なかったのを不思議に思い、今朝から抜き打ちで視察を行ったのだが、そこにで見たものは岩の上に腰を下ろしこっくりこっくりと舟を漕ぐ赤毛の死神と、三途の河原を飛び回る幽霊達の姿。
部下にするときに面接した際、舟を漕ぐのは得意と言っていたので、三途の川の渡しに任命したのだが、仕事中に陸の上でも舟を漕ぐのは詐欺ではないだろうか?
そんなことを考えつつも、赤毛の死神を叩き起こし、さっさと仕事に戻るように説教をして、再開した渡し作業により数日分の死者が一気に彼岸に送り込まれて今に至る。
「あの子ももう少しちゃんとしてくれれば良いのですけどね。……とはいえ、この有様では私もあまり大きなことは言えませんね」
背もたれに体重を預け、自分の仕事机を眺める。
薄ら高く詰まれた書類、狭い机のあちこちに置かれた資料、それらに混じってバラ撒かれたメモ、書類仕事の邪魔にならない様に机の端に置かれた浄瑠璃の鏡と悔悟の棒、昼食に食べたサンドイッチの皿、飲みかけのお茶が入った湯呑、etc…。
足元にあるゴミ箱もひどい物で、書き損じのメモや、使用済みの悔悟の棒等で溢れ返っている。
いくら忙しいといっても目の前の惨状では、とてもしっかりした閻魔の机とは思えない。
「……掃除、したいですね」
そう呟いたものの、試験前の学生とは違う身分、仕事を放り出して掃除に耽るわけにも行かない。
自分が死者を裁かねば、後の業務が滞ってしまう。
そろそろ、業務を再開しましょうか。
すっかり冷えてしまったお茶をひと口飲み、次に裁かれる死者を呼ぼうとした時、何かが動くのが目に入った。
それは、木こりに倒されようとしている木のように、ゆっくりと、それでいて徐々に早く、重力に引かれつつある、白い塔。
つまりは、薄ら高く積まれた書類の束が崩れようとしているのだ。
「あぶない!」
飛ぶように立ち上がり、飛び込むように書類の頭を押さえる。
ふぅ、危ない、危ない……。
もう一瞬遅ければ数百枚書類の束は崩れ、机の周りにばら撒かれてしまうところだった。
書類の塔の崩壊の危機を食い止め、ほっとするのもつかの間、お腹から太ももあたりに違和感を感じた。
冷たい?
視線を下ろすと、其処には机の上に倒れている湯飲み、そしてこぼれたお茶が机とスカートを濡らしつつあった。
「きゃぁぁ!」
慌てて机上の書類やら資料をどけて、徐々に広がりつつある水溜りからの隔離にかかる。
書類の山が崩れるが気にしていられない。
落ちた書類は拾えばいいが、濡れてインクが滲んでしまった物は書き直さなければいけないのだ。
えいや、とばかりに書類を押しのけ、拭く物を探して周りを見渡し―――
―――カシャーン
一人で騒がしくしていた執務室に破滅的な音が響き渡った。
首をギリギリと鳴らしながら、恐る恐る破砕音の元へ顔を向ける。
床で割れていたのは先ほど倒した湯飲み……ではなく、大切な商売道具である浄瑠璃の鏡が机から落ち、ガラス部分が真っ二つに割れていた。
「いやぁーーーー!」
思わず大声を出し、頭を抱えうずくまる。
こんな忙しいときに限って、壊れるなんて。
どうして?
どうしてこんな事になったのでしょうか?
お、お、お、落ち着いて考えてみましょう。
深呼吸をしながら原因をまとめる。
Q.どうして浄瑠璃の鏡を落としてしまったのか?
A.机の掃除ができておらず、鏡を落としても不思議ではないくらい散らかっていたから。
Q.なぜ掃除が出来なかったのか?
A.仕事が立て込んでいて時間が無かったから。
Q.どうして仕事が立て込んでしまったのか?
A.部下がサボっていて仕事を溜め込んでいたから。
つまりはすべて小町サボっていたせい?
浄瑠璃の鏡が割れたのも、お茶をこぼしてスカートが濡れたのも、机の周りがこんなに散らかっているのもすべて小町が悪い?
いやいや、まてまて。
導き出された答えに、別の自分が待ったをかける。
Q.部下の不始末は上司の責任では?
A.……
Q.そもそも鏡を落としたのは私の不注意のせいでは?
A.…………
いや、いやいや、確かに鏡を落としたのは私ですが、こんなに簡単に割れてしまう浄瑠璃の鏡にも責任はあるのではないでしょうか?
昔ながらの銅鏡だったならば、こんな事態にはならなかったはず。
経費節減だかなんだか分かりませんが、こんなチャチな物を支給する冥界のシステムが悪い。
こんな世知辛い社会が悪いのだ。
つまり、浄瑠璃の鏡が割れたのは社会の責任!!!
「……少し落ち着きましょう。経費節減は組織として当たり前の流れですし、私が忙しいのは、あの子が反省して仕事を頑張っている証拠です。とりあえず、鏡を修理するか、替わりの物を手配しなければ……」
コンコン……ガチャリ
「しつれいしまーす。四季様、何かすごい声が聞こえましたけど大丈夫ですか?」
ノックの音に続き、三途の川から帰ってきた小町が執務室に入ってきた。
裁かれるべき幽霊をつれてきたという報告だろう。
本来なら了解の旨を伝え、次の仕事へ向かわせるのだが、今は事情が違う。
「ああ小町、良いところに戻ってきましたね。ちょっとした事情により、浄瑠璃の鏡が割れてしまいました。悪いのですが、浄瑠璃の鏡を貸してくれそうな閻魔か、修理できそうな職人を連れてきてはもらえないでしょうか」
「おおっと、そりゃ大変だ。すぐに連れて来ますよ。それにしてもひどい有様ですね。判決が気に食わなくて暴れだした幽霊でもいたんですか?」
書類やらゴミやらが床に散らばり、机の上は湯飲みが倒れ水浸し。
確かに机の周りを見れば、誰かが暴れたかの様な状況だ。
まさか自分が七転八倒して散らかしたなんて口が裂けてもいえない。
「……おほん。それはともかく急いでくださいね。このままでは死者を裁くことが出来ませんので」
「分かりました。行って来ます」
バタン
元気良く部屋を飛び出した小町を見送り、ほっとため息ひとつ。
とりあえず小町が帰ってくるまでに出来ることは……
「掃除ですかね」
◆
こぼれたお茶はふき取られ、卓上の書類や資料は綺麗にまとめられ、ゴミ箱も空。
すっかりと部屋が綺麗になった頃になって、ようやく執務室のドアが叩かれた。
コンコン……ガチャリ
「ただいま戻りました」
部屋に入ってきたのは、先ほどお使いを頼んでいた小町。
「失礼するよ」
そして、もう一人。
メガネを掛けた青年が小町の後に続き部屋に入ってきた。
「おや、貴方は森近霖之助さん?確か貴方の寿命はまだ先だった筈ですが、どうしてここに?」
「いや、それが僕にもさっぱりだ。少し前まで三途の川原を散策していたんだけど、そこの死神にいきなり『大変だ、大変だ!』と言って船に押し込まれて、ここまで引っ張ってこられただけで、どうして連れて来られたのか分からないんだよ」
「……小町」
説明を求めるように部下の死神に視線を向ける。
「いやー、最初は知り合いの閻魔様の所に行ったんですけど、留守だったり、仕事中だったりで誰も捕まらなかったんですよ。
次に工房のほうへも行ったんですけど生憎と休みだったんです。
浄瑠璃の鏡も修理できそうな職人も捕まらなくて、どうしようかと頭を抱えていた時に、三途の河原で香霖堂の旦那がうろついていたのを思い出した訳です。
いつも道具への愛について語っている旦那なら、浄瑠璃の鏡だって修理できるだろうと思って連れて来ちゃいました」
そう言って、どこか照れたように笑う赤毛の死神。
なるほど、私の指示では目的を達成することが出来なかったため、機転を利かせて何とか出来そうな人物を探してきたと言うわけですか。
色々考えて仕事をしてくれるのはありがたいのですが、だからといって生者を彼岸まで連れて来るのはルール違反だということを解かっているのでしょうか?
「ふむ、つまり僕は浄瑠璃の鏡を修理するために呼ばれたと考えていいのかい?」
「ええ、そういうことになります。顕界の方にこんな事をお願いするのはお門違いなのですが、一刻も早く鏡を修理して仕事に戻らねばなりません。よろしければ見て貰えないでしょうか?」
「あたいのほうからもお願いします。どうか旦那の道具愛ってやつを見せてもらえませんか」
霖之助は割れた鏡を前に、顎に手をやり考え込む。
「ふむ」
何かを思いついたのか、腹の鞄をゴソゴソとあさり、小さなチューブ状の物を取り出した。
そして、鏡の破片にチューブの中身を塗り付け、土台の部分に貼り付けること3秒。
「これでどうだろう」
組みあがったそれを私に差し出した。
「はやっ!」
「もう修理できたのですか!?」
「応急修理だけどね」
浄瑠璃の鏡を受け取りじっと見つめる。
ガラス面にヒビが入ったままですが、本当に大丈夫なのでしょうか?
恐る恐るガラス面を下に向ける。
……落ちない。
どうやらきちんとくっついているようですね。
それならばと、浄瑠璃の鏡に霖之助の過去を映してみる。
ヒビ割れた鏡面に映るのは、河原でオロオロとしている霖之助とそれを引っ張って行こうとしている小町の姿。
今写っているこれは、ここに来る直前の様子なのだろう。
「すごい!直っています。こんなに早く直るなんて、先ほど使ったチューブに入っていた物は魔法の薬か何かですか?」
「これかい?これは瞬間接着剤と言う物で、物質と物質をすぐさまにくっ付けてしまう性質を持った外の世界の道具だよ。米糊よりも短時間で強力に物をくっつけることが出来るので重宝しているんだ。それにしてもうまくいったようで何よりだ。今回は、瞬間接着剤の透明であると言う点がうまく作用したようだね。鏡はずっと昔から存在する物で、銅や銀、ガラスといった色々な材料で作られてきたが、原初の鏡は水鏡、つまり透明な水だ。だから僕は透明な水状の瞬間接着剤を使ったわけなんだが、効を奏したようだ。瞬間接着剤じゃなくて、白い米糊や黄色い木工用ボンドを使ったのでは、こんなにうまくはいかなかっただろうね。最初は鏡の語源である影見、つまり影の力を利用しようと、黒くて粘着性のあるコールタールを使う事も考えたんだけど、そうすると…………」
あー、そうでした。
この人は自分の興味が有る事となると何時までもしゃべり続ける性質だったはず。
……恩人の話を聞き流すのは心苦しいのですが、私はすぐにでも仕事に戻らねばならない身。
「えーっと、今日はありがとうございます。小町、早く森近さんを送っていってあげなさい」
「はいはい、香霖堂の旦那、船が出ますよ~」
「あ、ああ、分かった。それでは失礼するよ」
説明を聞いてもらえず、少し寂しそうな霖之助と、それを引っ張って歩く小町を見送り、ホッとため息をついた。
応急処置とはいえ浄瑠璃の鏡は直りましたし、部屋も片付きました。
先程までの遅れを早く取り戻さなければ!
「お待たせしました、次の者入りなさい」
◆
―――それから普段の五割り増しの速度で死者を裁き続けること3日。
裁判待ちの幽霊もいなくなったので、今頃にしてようやく霖之助に対するお礼について頭を悩ませる余裕が出来た訳だ。
「むむむ……どんな物が喜ばれるのでしょうか……」
コンコン……ガチャリ
「しつれいしまーす。今日の分の死者はもういないので、今日はこれで上がらせてもらいますよ」
ノックの音と共に執務室に入ってきたのは小町。
どうやら、仕事終わりの挨拶のようだ。
裁かれる死者がいないということは、私の仕事もこれで終わりのようですね。
それではこれからじっくりとお礼の品について考えることにしましょう。
「はい、ご苦労様です。私はもう少し残っていますが、先に上がってもらって結構ですよ」
「悩み事ですか四季様?眉間に皺がよっていますよ」
知らず知らずのうちに深刻な顔をしていたらしい。
慌てて眉間をマッサージする。
「先日浄瑠璃の鏡を修理していただいた、森近さんにまだ御礼をしていないのですが、お礼の品はどんなものがいいのかと頭を悩ませていたのですよ」
「はぁ、香霖堂の旦那にお礼ねぇ……。旦那はお礼とかそんなことを気にするタイプには見えないんですけどねぇ」
「相手が気にする気にしないは問題ではありません。助けていただいたら、感謝の意を示す。これが大事なのですよ」
「そういうもんですか」
どこか納得いかない風な小町。
この子もこういった社会のシステムの大事さを勉強してしっかりしてくれればいいのですけど。
「ところで小町。貴方は私よりも森近さんと顔を合わせる機会も多いですよね?よかったら知恵を貸してくれませんか?」
「ええ、そりゃかまいませんが……」
広い執務室で、腕を組み頭をひねる閻魔と死神。
「お礼の品ねぇ。定番としてはお酒か、タバコか、食べ物か…………そうだ!」
何か思いついたのか、大きな声を上げる小町。
「四季様、料理です。手料理なんかどうでしょう?」
「手料理ですか?私もそこそこ長く生きていますので、料理には自身はありますし、アイディアだとは思いますが、死者の国の食べ物を生者に食べさせるのはご法度ですよ」
「そこは、人間の里で材料を買って旦那の家で調理すればいいんですよ。やっぱり料理はできたてが一番です」
「しかし、人の家の勝手を使われるのは、家主としてはあまり気分がいいものではないでしょう」
「いやいや、旦那はさびしい男やもめですから、手料理を作ってくれる人がいるなら、喜びこそすれ、邪険に扱ったりはしないでしょう。そこで手間暇かかった煮物か何かでお袋の味的な物を出したら一発でコロリといきますって」
「いやいや、寿命が残っている者がコロリと逝ったら駄目でしょう」
「いや、そういう意味ではないんですが……」
コロリはともかく、小町のアイディアは悪くないかもしれません。
感謝の気持ちが判りやすく、食べ物なので処分もしやすいし、死者の国の食べ物でもない。
「その案を採用します。有給を申請して明後日にでもお礼に行って来るとしましょう。相談にのってもらいありがとうございます」
「いえいえ、力になれた様で何よりです。それでは失礼しますね」
「はい、ご苦労様です。私がいなくてもしっかりと仕事をするのですよ」
「はい!」
部屋を出て行く小町を見送り、ホッと一息。
やることも決まりましたし、有給の申請をしましょうか。
なにやら扉の外から「やったー!明後日はサボり放題だー!」と言う声が聞こえたような気もしますが……まぁ、相談に乗ってもらいましたし不問としましょう。
それにしても、私が休みでも、代わりの閻魔が来ることくらい判りそうなものなんですけど……。
代わりの閻魔にはしっかりと見ておくように言わないといけませんね。
◇
体を包む暖かな重み。
まぶたを照らすやさしい光。
鳥の鳴き声。
どこか懐かしい匂い。
だんだん近づいてくる足音。
パタパタパタ……バタン
寝室のドアを開ける音。
やさしく僕を呼ぶ声。
先程よりも強く感じられる匂い。
これは味噌汁の香りか?
「 さん ですよ ちかさん……」
呼ばれていると頭ではわかっているのに、まったく起きる気がしない。
ああ、懐かしい感覚だ。
こんな感覚はいつ以来だろう。
霧雨の店に厄介になっていた時?
それとも、もっと昔の……
「 さですよ てください 近さん……」
だんだんと大きくなる声。
優しくゆすられる体。
しかし、僕はまどろみの海から抜け出すことが出来ない。
「……もう、まったくしょうがありませんね」
何かをあきらめたようなため息。
すぅ、という息を吸い込む音。
そして……
「起きなさい、霖之助!」
耳元で発せられた大声により、急速に意識は覚醒する。
目を開くと、そこにあるのはいつもの天井、部屋を照らす朝の光、そして、膝をついた状態で僕を見下ろしている緑の髪の少女。
えーっと?
彼女はたしか幻想郷の閻魔をしている四季映姫だっただろうか。
しかし、どうして彼女がここにいるんだ?
「え……閻魔様?」
「はい、おはようございます森近さん。もう朝食が出来ていますので、早く着替えて居間にいらしてください」
そう言うと、彼女はすっくと立ち上がり、僕の寝室から出て行った。
何故幻想郷の閻魔が此処に?
いったいどうなっているんだ?
朝ごはんが出来ているとはどういう意味なんだ?
布団から体を起こし、起き抜けでまだ良く回らない頭をボリボリと掻く。
客なのか?
いや、普通客なら人の寝室まで上がってこないし、朝ごはんを準備したりもしないだろう。
この店に来る客は、非常識な行動をとる者も多いが、彼女は比較的常識的な人物だったはずだ。
ならば、あの世からのお迎えか?
いや、最近体に異変を感じたことはないし、僕はまだ老いて死ぬほど長く生きていない。
そもそも、死者のお迎えは死神の仕事であって閻魔の仕事ではないはずだ。
それならば何故彼女がここにいるんだ?
……判らない。
いくら考えていても、幻想郷の閻魔がここにいる事実は変わらない。
理解できないことは気にしない。
そんな人生におけるポリシーに従い、寝巻きを着替え、一抹の不安を感じながら居間に向かう。
「改めまして、おはようございます森近さん」
ダイニングで僕を待っていたのは、茶碗にご飯をよそいながらニコニコと微笑む緑髪の少女と食卓に並べられた朝食だった。
焼き鮭、キンピラゴボウ、ほうれん草のおひたし、ジャガイモとたまねぎの味噌汁。
ふむ、主菜1品に副菜2品、そして汁物。一汁三菜の基本を守ったいい料理だ。
だがしかし、幻想郷の閻魔が僕の家でそんな物を用意している理由がさっぱりわからない。
「……えーっと、どうして貴方が―――」
「おはようございます」
僕の言葉をさえぎるように口を開く映姫。
「え?」
「おはようございます」
「あ、あぁ、おはようございます」
「よくできました。挨拶は一日のはじまりです。挨拶は大きな声ではっきりとしなければいけませんよ。さぁ、暖かいうちに朝食を食べてくださいな」
彼女は満足そうに頷くと、僕に朝食を薦めてきた。
僕の前に置かれる茶碗。
促されるまま席に座り、箸を取り……っと、違う。
朝食よりも先に聞くことがある。
「……どうして貴方が―――」
「いただきます」
再びさえぎられる僕の声。
彼女の声にはどこか逆らえないような凄みが感じられる。
これが閻魔の貫禄というものだろうか?
「……いただきます」
「はい、お召し上がりください」
幻想郷の閻魔の様子を伺う。
映姫はニコニコとしながら、"早く食べないの?"とでも言いたげな目で僕を見つめている。
ただ質問をしたいだけなのだがどうにもやり辛い。
ともかく、なぜここで幻想郷の閻魔が朝食を作っているのか聞かなければ。
どこかこそばゆいような視線を振り切るように口を開―――
「おや、森近さん。襟元が乱れていますよ」
声を出そうとする瞬間、先に声を掛けられる。
僕はなぜか負けたような気持ちになりながら襟元に手を伸ばす。
今日は朝から閻魔に起こされるという不可思議な体験をしたため、少し混乱しながら服を着替えたのだ、襟元が乱れたりもするだろう。
「あーそこじゃありません。後ろ側が折れ曲がっているんですよ」
そんな声と共に、小さな手が首の後ろに回される。
突然の行為に驚き、僕は後ろに下がろうとした。
「こら、動かないでください。っと、これでよし」
映姫は首の後ろに回していた手を解き、僕の様子を見て満足そうに頷く。
「うん、男前になりました。貴方は客商売をしているのですから、身だしなみには気をつけなければいけませんよ」
「あ、あぁ、ありがとう」
これで3回質問を封じられたわけだが、どうにも余計なことを聞いてはいけないような、絶対に質問できないようなそんな運命を感じる。
まさかそんなことは無いとは思うのだが。
「あの―――
「森近さんお茶はいかがですか?」
「……いただきます」
とりあえず目の前の食事を片付けてしまうとしよう。
◇
「ご馳走様でした」
目の前の閻魔に要求されるよりも先に、食後の挨拶を口にする。
「はい、お粗末さまでした」
僕が学習していたのが嬉しいのか、それとも出された食事を平らげたことが良かったのか、ニコニコとした表情で食器を片付けはじめる閻魔。
さて、今なら質問をしても大丈夫だろうか?
「聞きたいことがあるんだがいいだろうか?」
「はい、なんですか?」
「君は確か幻想郷の閻魔をしていたとはずだけど、どうして彼岸じゃなくて僕の家にいるんだい?僕の朝食を作ることは閻魔の仕事とは思えないのだけど」
「あぁ、そうでした!」
少女は"思い出した"とでもいった風に手をパンと叩く。
「先日は浄瑠璃の鏡を修理していただきありがとうございました。おかげさまで無事業務を進めることが出来ました。今日はそのときのお礼として、お粗末ながら腕を振るわせていただきました」
なるほど、どうやら彼女は浄瑠璃の鏡を修理したお礼に、朝食を作りに来たというわけか。
生きたまま三途の川を渡るなどというめずらしい体験をさせてもらったのだ、御礼など要求するつもりは無かったのだが、なんとも義理堅い。
僕の知り合いは道具を修理しても、こちらから言い出さなければ対価を支払おうとしない奴らばかりだというのにさすがは閻魔、礼儀を心得ている。
「お粗末なんてとんでもない、とてもおいしかったよ」
「お気に召していただけたようでよかったです。食器は洗っておきますので、森近さんは店を開けてはどうですか」
ちらりと窓の外へ視線を向ける。
木々の間から見える太陽の位置は低く、朝露もまだ乾ききっていない。
現在の時間は8時前と言ったところだろうか。
いつもならまだ布団の中にいるような時間だ。
店を開けるには少々早いだろう。
「こんな時間に店を開けてもそうそう客は来ないよ。たまに尋ねてくるような客は閉まっていても勝手に店に入ってくるような奴らばかりさ」
「こらこら、客が来ないからといって、サボっていては一人前の店主とはいえませんよ」
「いやいや、僕すでに一人前の店主だよ。客は勝手に入ってくる、つまり僕が店を開けていてもなくても、何も変わらないということだ。
だからと言って、この店に僕が必要ないというわけではないよ。
香霖堂をたずねてくる客は皆、店が閉まっていても僕が家の方に居ることを知っており、店に入れば僕が出てくることを分かっているから入ってくるんだ。
もちろん僕も、店に入って来るのが客であるならばきちんと対応する。
僕が持てる知識を総動員し、客が望む物を提供する、これは僕にしか出来ない仕事だろう。
店主を頼り店を訪れる客と、店が閉まっていても対応する店主。これは一種の信頼関係が築けていると考えてもいいのではないだろうか。
つまり僕は、客に信頼される店主ということになる。なんとも店主冥利に尽きるじゃないか」
僕は自分の言葉に満足し、湯飲みに手を伸ばして食後の一服を―――
「―――霖之助」
底冷えするような声に、僕はギクリとして視線を向ける。
そこ立つ少女の顔には、さきほどまでのニコニコとしていた表情は無く、目を吊り上げ、絵本に描かれた閻魔にそっくりの顔が張り付いていた。
「貴方がそんな態度だから何時までたってもこの店に客が来ないんです!人が休んでいる時から働いている姿を見せてこそ、その店の商品を買おうという気にもなるというものです!
貴方は少々労働に対する意欲が薄すぎます!今からでも遅くありません、店を空けて掃除でもしていなさい!それが貴方にできる善行です!
私もこれを片付けたら手伝いますから、手を抜くんじゃありませんよ!」
「は、はい!」
僕は少女の剣幕に追い立てられ、店へと避難した。
◇
香霖堂の一角で、シャカシャカとほうきを動かしながらため息をついた。
少し掃いただけで結構な量のホコリが宙を舞っている。
たびたび、カビっぽいやら、ホコリっぽいやら言われていたが、こうしてみると確かにその通りだ。
この店も、気が向いたときに掃除はしていたが、ここまで汚れていたとは思いもしなかった。
喉に突き刺さるホコリ、チラリと視界に入る読みかけの本、やる気をそぐような虫の声、気を抜くとこぼれるため息。
どうしてこんな状況にになったんだろう?
原因となった幻想郷の閻魔の行動を振り返ってみる。
1.朝っぱらから僕の家に侵入する。
これはまぁいい。僕が寝ている時に、誰かが家の中に入ってくるのは、稀にあることだ。
2.人の家で勝手に食事を作る。
これも僕にとってはよくあることだ。
彼女の料理の腕は確かなものだったし、材料も彼女が用意した物だった。
僕にとってなんら不具合は無い。
3.店を開けて掃除をするように強制。
これはどういうことだろうか。
聞けば彼女は、僕が浄瑠璃の鏡を修理したことに対する礼に来たのだという。
しかし、いったいどこの世界に、お礼を言いにきた相手に説教をして、掃除を強制する人物がいるというのだ。
まったくおせっかいもほどほどにしてほしいものだ。
それにしても、人に言われて掃除をするなどいったいどれ位ぶりだろう。
霧雨の店で働いていたとき以来だろうか。
今も昔も変わらず、人に強制されての掃除というものはどうにも気が滅入る。
掃除など、”良し、やるぞ!”と自分で決めた時に一気にやってしまうのが効率の良いやり方じゃないだろうか。
今のテンションでは掃除もはかどる筈が無い。
だからといって、このまま逃げ出して、閻魔の機嫌を損ねるのは得策ではないだろう。
そんなことをすれば、後日何倍もの時間説教付で掃除をさせられるのは、目に見えている。
今日のところはおとなしく、閻魔様が満足するまで店を掃除をするしかないのだろうか。
ふぅ、まったく面倒なことになったものだ。
疲れない程度に頑張るとしようか。
「こらこら、だめですよ」
突然掛けられた声にビクリとして振り返る。
そこには、洗い物を終えた閻魔が、バケツとハタキを持って立っていた。
「掃除の基本は上から下です。上の汚れを落としてからじゃないと、せっかく床を掃いてもまたホコリだらけになってしまいますよ。
本来なら物を一旦運び出してから始めたいのですが、さすがにそこまで時間をかけていられませんね。私は入り口側からハタキをかけますので、貴方は反対側からやっていって下さい。さぁ、お客さんが来る前に終わらせますよ」
「あ、ああ」
僕はバツの悪さを感じつつ、手の物を箒からハタキに変更して掃除を再開した。
のだが……
「どうして貴方の服が店内に置いてあるのですか」
「いや、それは夜中に冷え込んだ時に羽織ろうと置いてる物で……」
「今は夏の終わりでですよ、いったい何時から置いてるんですか。他に汚れ物があるなら出しなさい、後で洗濯してきます」
「……」
パタパタパタ
「さて、ホコリも落とせましたし、私は棚を拭いていきますので、貴方は床を掃いていってください」
「分かった」
ザッザッザッ
「……四角い部屋を丸く掃く」
「え?」
「隅の方がゴミだらけですよ。せっかく掃除をするのですから隅々まで綺麗にしましょう」
「……」
フキフキ
「それにしても、本が多すぎです。少しは処分したらどうですか?」
「いずれ読み返そうと思っておいてあるんだ。全て必要な物だよ」
「そうですか?このあたりの本はホコリをかぶっていて、何年も触っていないように見えます。物を大切にする事と物を腐らせる事は違うのですよ」
「……」
といった具合に次々と駄目出しをくらい、ただでさえ少なかったやる気はどん底まで落ち込んでいた。
おせっかいやお小言はいい加減にしてもらえないだろうか。
ここは僕の店にして僕の家だ。
掃除のタイミングや方法など僕の好きにさせてくれ言いたい。
そもそも、ろくにこの店に来る事も無いのにグチグチと言われる筋合いは無いはずだ。
「む、この箪笥、引き出しが重いですね。陰干しをしましょうか」
「……」
「どうかしましたか霖之助?陰干しをするので、一旦物を出しますよ」
「……僕がその内やるから、ほっておいてくれ」
「何を言っているのです。何時までもほっておくと湿気を吸いすぎて変形してしまいますよ。やるなら私がいるうちにやったほうが……」
「だからほっておいてくれと言ってるだろう!ここは僕の店だ、僕の好きにさせてくれ!」
「しかしですね―――」
「―――いい加減にしてくれ!貴方のお小言はもういい加減にうんざりなんだ!」
僕の怒鳴り声に目を丸くする幻想郷の閻魔。
そして、どうしたものかと、僕を観察するように見つめる。
僕は気圧されない様に彼女の瞳を睨みつける。
二人の間にピリピリとした空気が流れる。
「……ふぅ。しょうがありませんね」
ふっと、どこかあきらめたようなため息が聞こえた。
そのため息に僕は見捨てられたような寂しさと、取り返しのつかないことをしてしまったかのような恐怖を感じた。
「貴方は少し頭を冷やしたほうが良いようですね」
怒るでもなく、馬鹿にするでもなく、彼女は寂しげに呟くと、僕に背を向けて歩き出した。
カランカラン―――バタン
店内に響くドアベルの音と扉の閉まる音。
それらが消え去った後、静寂が店内を支配する。
彼女が出て行った扉を睨みつけ、歯をギリリと鳴らす。
厄介者を追い出してやったという爽快感は無い。
胸中に残るのは寂しさ。
そして、そんな寂しさを感じる自分に対する怒りだった。
「クソッ!」
僕は口汚く吐き捨て、勘定台の内側の指定席に腰を下ろした。
◇
夕日によって赤く染められた香霖堂。
中途半端に片付けられた店の中で、僕は勘定台に片肘を付き、水タバコをふかし、時折思い出したようにお気に入りの本の頁をめくる。
こんなやる気の無い店主のいる店に客など来るはずもなく、暇にあかせて怠惰をむさぼっているわけだが、まったくもって気が晴れない。
それどころか、何度読んでも新しい発見があると気に入っていたはず本でさえ、内容が頭に入ってこない。
原因は昼間のあれだ。
幻想郷の閻魔との喧嘩せい……いや、あれは喧嘩とも呼べない、僕が一方的に癇癪を起こしただけだった。
彼女の言葉が正しい事はわかっている。
だが、些細なお小言だったとしても、数が重なればイライラとする。
アドバイスの内容が正しいかったとしても、すべてを聞いていられない。
誰だって楽がしたいのだ。
彼女だって何百年と生きているのに、どうしてそれを分かってくれないのだ!
……いや、善悪を司り、生き物を正しい道へ導くことを善しとする閻魔としては、彼女は何も間違っていない。
むしろ、それを受け入れられない僕が悪なのだろう。
だけど今の僕には、彼女の望むようなきっちりとした生活は出来そうにない。
霧雨の店にいるときは、もう少しまともな生活をしていたはずなのにそれさえできない。
僕はだんだんと駄目になっているのだろうか?
ああ、きっとそうなのだろう。
もういっそ僕のような奴は、残りの人生を自堕落に過ごして、地獄に落ちてしまえばいいのだ。
そして、死後に彼女に馬鹿にしたような目で”貴方は地獄行きです”と告げられるのだ。
「クソッ!」
ああ、分かってるさ!
僕が間違っていることくらい十二分に分かっている!
だからといって、”反省しました”と言いながら、掃除の続きでもするのか?
ふざけるな!
そんな情けない真似がいまさら出来るはずがないだろう!
頭をガリガリと掻き、大きく息を吐く。
いったい、どうすれば良いのだろう。
死後の地獄に落ちる事を取るか、くだらないプライドを捨ててしまうか。
いや、ほかに方法はないのか?
彼女をギャフンと言わせるような何か。
……普通に考えればそんなものはない。
なぜなら彼女が正しいからだ。
不死に成る、幻想郷を出るといった普通では無い方法なら彼女から逃げることは出来るだろう。
しかし、そんな事はとても常人には実行できないし、出来たとしても幸せな人生ではないだろう。
だが、それでも今の状態で悩み続けるよりはマシではないだろうか?
……そんなはず無いだろう。
とっとと自分が間違っていることを受け入れて、彼女の閻魔の望むような人物になればいい。
だがそんなものは受け入れられない。
ならば僕はどうすればいい。
「お風呂に入ってさっぱりして来てはどうですか?」
突然の背後からの声。
帰ってしまったはずの少女の声。
「っ!?」
僕は弾かれた様に振り返る。
そこには、頭に三角巾をつけた幻想郷の閻魔が居間の方から顔を出していた。
なせ彼女がここにいるんだ?
混乱する頭でどうにか言葉を搾り出す。
「貴方は……どうしてここにいる。帰ったんじゃなかったのか?」
「夕飯の買出しやら、洗濯やらをしていただけですよ」
そう言って彼女はニコニコと笑いかける。
数刻前の諍いなどなかったかのように、今朝と同じ、三途の川や、神社の宴会などで会った時と変わらない態度。
ピンと胸を張り、年下の子供を見るかのような優しげな眼差し。
その姿をみていると、僕の中にあった怒りやイライラは小さくなっていく。
そして、自分の矮小さに胸が締め付けられる。
「てっきり……帰ったものだと……思っていた……」
「何を言っているのですか。帰るときはちゃんと一声かけてから帰りますよ。それに私は貴方にお礼をしに来たのです。気分を害したまま帰っては閻魔の名折れです」
太陽の匂いがする服と、ピカピカ磨かれた木桶が差し出される。
「今日の仕事は終わりにしましょう。私は夕飯の仕上げを行いますので、その間に貴方は今日の汚れを落としてきなさい」
服と木桶を受け取り小さくため息を吐く。
僕がふてくされているあいだに彼女は、炊事や風呂焚きまでしてくれていたというのか……
こうもしっかりとした仕事ぶりを見せ付けられると、自分の情けなさが身にしみる。
いったい今日の僕はどうしたというのだろう。
正論に対して声を荒げ怒鳴り付けたり、人と自分を比較して落ち込んだりと、どうも今日の僕はおかしい。
「どうかしましたか?早く入らないとお風呂が冷めてしまいますよ」
「ああ、すまない。すぐに入らせてもらうよ」
「十分暖まったらので声をかけてください。背中を流してあげますよ」
僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女はとんでもない事を言い出した。
「い、いや、結構だ。大丈夫、風呂くらい一人で入れる」
微妙に人を子ども扱いする彼女のことだ、このままグズグズしていては背中を洗うどころか、服まで脱がされかねない。
逃げるように風呂場へ向かう。
まったく、人が自分の矮小さに悩み、酷い事をしてしまったのかと反省していたというのに、いったい彼女は何を考えているのだろう。
「ふふ、大丈夫ですよ。私は怒ってなんかいません。少しは反省したのでしょう。
少しでも自分の行いを反省し、善行を積もうとする者を閻魔は決して見捨てたりなんかしません。
まったく見込みのないものには声すらかけたりなんかしません。私は貴方達の幸せを願っているのです」
僕の態度に怒っていないのか?
僕は閻魔に見捨てられたんじゃないのか?
恥ずかしくて出来なかった質問の答えが後ろから聞えた。
まるで心が見透かされているかのような気がして、僕は逃げ足を早める。
いつの間にか、心の中に残っていたイライラは気にならなくなっており、風呂から上がる頃には完全に消え去っていた。
◇
「ふぅ……いいお湯だったよ」
「それは何よりです。お水はいかがですか?」
「ああ、頂くよ」
映姫からコップを受け取り、中身を飲み干す。
井戸から汲みたてとしか思えない程、良く冷えた水が体に染み渡る。
太陽は沈んでしまっているとはいえ、まだまだ残暑の厳しい季節。
風呂上りに飲む一杯の水は何よりのご馳走だ。
里のほうでは、冷えた牛乳や、果物の絞り汁を飲む習慣もあるらしいが、汲みたての井戸水もそれに負けないほど素晴らしい物だろう。
「夕飯の準備をしますので、居間でお待ちくださいな」
僕の手から、コップを受け取り、台所に向かう映姫。
さて、夕飯は何を作ったのだろうか?
居間に向かう途中、チラリと台所を覗く。
五徳に掛けられた鍋。
醤油と出汁の香り。
あれは煮物だろうか。
随分と手間のかかった物を作ってくれたようだ。
霊夢や魔理沙は焼き物や鍋のような手間のかからない料理を作ることが多く、僕も酒の肴くらいしか作らないので、こういった料理を食べるのは随分久しぶりだ。
少し浮かれた気分で食卓に着く。
「お待たせしました」
食卓の上に並べられる、ご飯、味噌汁、煮魚、山盛りの筑前煮、ほうれん草のおひたしの合計五つの皿。
五つの皿……一人分だけ?
「それでは私はそろそろ帰りますが、貴方はゆっくり食べていてください」
「君は夕餉を食べて行かないのかい?」
「ええ、今日は有給をいただいたとはいえ、全て代わりの者に仕事を押し付けるわけにも行きません。帰って仕事の引継ぎをしなければいけないんですよ」
少しくらい良いじゃないかと、引きとめようかと思ったが、窓の外はすっかりと日は沈み、帰るのには遅すぎるくらいの時間だ。
「そうか、それじゃあ元気で」
「はい、貴方もお元気で」
どこか寂しげな感情を胸に抱きつつ、僕は彼女を玄関先まで見送る。
しかし、不思議なものだ。
今朝まで、さして親しくも無かった相手、ほんの一日ほど一緒にいただけなのに、それどころか、つい数刻前までうっとおしいとさえ思っていた相手なのに、いざ彼女が帰る寂しいなどと思える。
これも彼女の人徳だろうか。
「あ!」
玄関から数歩歩いた彼女は、何かを思い出したように声を上げ、クルリと振り返った。
「そうそう、さっき作った筑前煮ですが、お鍋にいっぱい残っているので暖めなおして食べてくださいね」
「鍋に一杯だって?」
チラリと炊事場を覗いたときに見えたのは、ずいぶんと大きな鍋だったような……
あの鍋に一杯となると、軽く十人前はあるんじゃないだろうか。
彼女の料理の腕はなかなかのものだが、鍋に一杯も同じ物を食べるのはさすがにきつい。
「僕は生きるのに食事を必要としないせいか、毎日バクバクと物を食べる習慣が無いんだ。そんなに大量に作ってもらっても食べきれないよ」
「それはいけませんね。食べる事は生きる事ですよ」
「え?」
「人は食べ物を得るために働き、妖怪は人の心を食べるために人間を脅かす。行き過ぎた食欲は悪ですが、食べる事は善行の根源なのです。半分とはいえ貴方も人間なのですから、しっかりとご飯を食べ、良く働く、これが貴方に出来る善行です」
人指し指をピン立て、僕に説教をする閻魔。
その表情には、怒りや、傲慢さといったネガティブな感情は見受けられない。
これは本当に僕のことを思っての言葉なのだろう。
それを数刻前の僕は、払いのけてしまったのか……
胸に残るチクリとした痛みが、僕にらしくない決断をさせる。
「わかった。何とか食べてみるよ」
そして、明日は掃除の続きをするとしよう。
そうすればきっと、店に引きこもって本を読んだり、水タバコをふかすよりも気が晴れるだろう。
「よろしい。それでは私が見ていなくてもしっかりと食事と仕事を行うのですよ。また抜き打ちで見にきますからね」
「えぇ!?また来るのかい?」
「ええ、貴方は私の恩人ですからね。貴方が死んだときに天国にいけるように、立派な半妖にする。それが私に出来る恩返しです。それではまた」
ヒラヒラと手を振りながら、空へと浮き上がっていく少女。
僕はそれをポカンと口を空けたまま見送った。
彼女が完全に見えなくなった頃、ようやく息を吐く。
「閻魔よけのお札とかあったかな」
しかし、感情とは不思議なものだ。
つい数分前まで、別れるのが寂しいとさえ思っていたのに、「また来る」という言葉を聞いただけで、もう来なくていいと思うようになっている。
きっと今の僕は、霊夢や魔理沙が、映姫の事を話す時と同じような顔をしているだろう。
嫌っているわけではないが、苦手。
それなりに尊敬しているが、普段から顔を合わせたいとは思わない。
きっと幻想郷の閻魔とはそういうものなのだろう。
タイトル通りのイメージで最後まで読む事が出来ました。
ぶっちゃけ香霖の心境にあるある感を感じすぎてヤバイ。
発見した時の映姫ママの反応が凄ぇ見たいぜ。
強引だろうがウザかろうがやっぱり母親には勝てん。
無条件でこちらを愛するというアドバンテージがある限りは。
偶の里帰りで、御馳走より普段の総菜を無理言って食わせてもらう年齢になれば分かると思うよ。
くそぅ、思い出させやがって。酷い作者様だぜ。
本当にカーチャンには勝てないぜ。
沼の深さは計り知れないですねぇ。あとえーきさまかわいい