雨、強くなってきたな。雨戸閉めなきゃ。
立ち上がり縁側に向かう。行燈の灯りが届かない庭はどこまでも暗い。
そんな中に人影があった。
「霊夢さん?」
驚いたけれど、それが見知った姿だったので声を掛ける。
雨の中に立っているのは間違いなく霊夢さん。夜闇に融け込む紅白の衣装。
濡れて鮮やかさを失っているけれど、見間違える筈がない。
この幻想郷にただ一人の博麗の巫女。
とても大切な――大切な、友人。
こんな時間にどうしたんだろう。
「早苗」
濡れた髪の奥から彼女の視線が届く。
縋るような、視線だった。
ここ数日、憐れみの目なら向けられた。
謝るような目なら数え切れぬほど向けられた。
でも、彼女のような目は一度たりとも向けられていない。
だからわからない。
何故彼女はそんな目で私を見るのか。
考えても、わからない。
まずは、見たままのことに反応しなければ。
「……風邪引いちゃいますよ」
タオルを持って庭に出る。
拭いてあげようとした手を、彼女は掴んだ。
「早苗」
霊夢さんは強く強く、私の手を握り締める。
痛い、くらい。
「――早苗、私と来て。私と――逃げて」
縋る視線で彼女は言った。
雨が、強くなった。
雨降る夜道を二人で駆ける。
彼女に手を引かれ何かに追われるように駆けていく。
強引に連れ出されて、わけもわからぬまま駆け続ける。
どこまで、行く気なんだろう。逃げられないって、わかってる筈なのに。
いつしか彼女は余裕を無くしていた。いや、初めから彼女に余裕なんて無かった。
私の手を掴む力は増す一方で、じわりじわりと爪が刺さってくる。
「霊夢さん」
掴まれた手から、血が滴る。
彼女は気づかない。走ることに逃げることに夢中で気づかない。
雨に血に滑る手を放さぬようより強く握り締めてくる。
痛いけれど、それよりも彼女を止めなければと強く叫ぶ。
「――霊夢さん!」
びくりと足が止まる。
立ち止まった彼女は顔に貼り付いた髪を払いもせずに私を見ていた。
ゆるりと、その視線が掴んだ手に落ちていく。
夜闇の中でもわかる、血の色。
「あ……」
弾かれるように手が放された。
「ご、ごめんなさい……」
狼狽する彼女に出来るだけ優しく微笑みかける。
こんな傷、彼女につけられたと思えば痛くもない。
まして悪意など無いと知っているのだから痛痒とさえ思わない。
「大丈夫です。ちょっと切れただけですよ」
傷を、彼女に見えないよう袖で隠す。
しかし隠し切れない。雨に濡れた傷は血を流し続ける。
ほんの一筋の血。
されど霊夢さんは見逃さないだろう。
誤魔化さなきゃ。
「霊夢さん」
それは。
彼女に心配をかけさせまいと思ったからなのか。
「霊夢さん――風邪、引いちゃいますよ」
それとも。
彼女が私を連れ出した理由に気づきたくないからなのか。
わからないけれども。
「……帰らなきゃ」
気づいてしまったら、きっと私は泣いてしまう。
彼女に残す最後の記憶が泣き顔なんて、嫌だった。
せめて、彼女の記憶の中だけでも……綺麗なままでいたい。
だけれど、そんなささやかな願いも、許されない。
「ダメよ」
再び彼女の手は私の手を掴んでいた。
流す血を止めるように強く、掴んでいる。
霊夢さん。あなたは――優しくて、ひどい人だ。
涙を堪える。笑みを作る。
「帰ったら、もう明日には、あなたは」
「はい」
せめてあなたには、笑顔を遺したい。
「妖怪の賢者様への人身御供として、捧げられます」
雨音にかき消されて聞こえずとも、彼女が歯軋りしているのがわかる。
事の始まりはなんだったのか――もう思い出せない。
とにかく里が妖怪の賢者に救われて、その代償として私が差し出されることしかわからない。
とても単純な式。既に解も出てしまっている。もうあれこれと考える必要などなかった。
思い出す必要もない程に……全てはもう、終わっていた。
ぎゅっと、掴む力が強くなる。
「逃げてよ」
一瞬、作った笑顔が崩れかけた。
「逃げてよ早苗。――死なないでよ」
終わった話に終わらないでと、霊夢さんは縋っている。
無理なのに。もう決まってしまっているのに。
言葉にしないで。霊夢さん。
覚悟を決めたのに、全部諦めたのに、未練が出来てしまう。
あなたの想いに気づいてしまったら、私は泣いてしまう。
お願いだから、あなたに縋らせないで。
「……ダメですよ、霊夢さん」
笑顔を取り繕って、彼女に微笑みかける。
「私が逃げたら、里の皆さんに迷惑を掛けちゃいますから」
「あなたを見捨てた連中じゃない。どうなったっていいでしょ」
「よくありません。身寄りのない私をずっと受け入れてくれてたんですから」
少しずつ、少しずつ幸せな記憶を掻き集める。
作った笑顔を保てるように。
少しでも綺麗な笑顔を作れるように。
「それに、ただ見捨てられたわけじゃありませんよ」
掬い上げる記憶は、私を庇ってくれた人たちの顔。
「神奈子様や諏訪子様は反対してくれました。まだ……解決策を探してくださってます」
感謝しているけれど、今はその記憶も掠れてしまう。
目の前の少女に掻き消されてしまう。
霊夢さんの前では、笑顔を作る、そんな簡単なことさえ困難だった。
「あんなに偉い方たちなのに、私なんかの為に身を張ってくれてるんです。こんな幸せなことはありません」
「でもっ」
彼女の空いた手が、私の肩に伸ばされた。
もう比喩でも何でもなく彼女は、私に縋っている。
私という支えがなければ立てぬと言わんばかりに。
「でも――助からないじゃない」
そんな筈がない。
霊夢さん、あなたが弱い筈がない。
あなたはずっと、博麗の巫女の役目を果たしてきたのに。
笑わなきゃ。
きっと霊夢さんは私を助けようとしてこんなことをしてるんだ。
私はもう大丈夫だって、納得ずくだって彼女に伝えなきゃ。
「このお役目が終わったら、私神様になれちゃうんですよ。里の守り神です」
「そんなの、ただの人柱じゃない……っ」
だけれど私の声は彼女に届かない。
どうすればいいのかな。
どうしたら、彼女を安心させられるんだろう。
「……人柱だって、ちゃんとしたお役目ですよ?」
「あんなの私は認めない! 私の代になってからは一度も許してない!」
「ええ、あなたは立派な巫女様です。立派に……お役目を続けています」
だから、私も……あなたのようになりたいから。
あなたみたいに誰かの役に立ったって、誇りたいから。
私なんかを受け入れてくれたあなたの世界を守りたいから。
妖怪の生贄になることを、命を差し出すことを、受け入れられた。
あなたの為だと納得できたのに、それであなたが傷つくのなら――私は、どうしたらいいんですか。
「霊夢さん、あなたは博麗の巫女様です。皆を困らせちゃダメですよ」
色んなものが崩れ出した頭では、そんな通り一遍のことしか言えない。
彼女に届かぬとわかっているのにそれを口に出すことしか出来ない。
「だからこんな真似、よしましょう? あなたの立場が悪くなっちゃいますよ」
「立場なんかどうなってもいい! 巫女なんてやめてやる!」
作った笑みが剥がれ落ちる。
彼女の、霊夢さんの言葉に、頭が漂白される。
決して勤勉とは言えない人だった。
修行嫌いで、よくサボって私のところに遊びに来た。
天賦の才と経験だけでどんな困難も乗り越える人だった。
だけれどいい加減な人じゃなかった。
誰かが困っていたら決して見捨てなかった。
己の役目を放棄するなんて口に出すこともなかった。
「だ、ダメですよ……あなたがいなくなったら、幻想郷のバランスが崩れちゃいます」
声が震える。
縋る彼女の肩を抱く。
そうしないと崩れてしまう。
私の大切な、なにかが音もなく崩れていく。
「賢者様に、山の鬼に、博麗の巫女――これは崩してはならない三竦みだって」
「関係ない」
彼女の声に迷いはない。
「そんなの、あなたを犠牲にしてまで、守りたくない」
彼女らしくなく。
博麗の巫女らしくなく。
されどとても人間らしい真っ直ぐな声で彼女は言う。
「私と来て。私と逃げて」
目を逸らすことなど出来ない真っ直ぐな視線。
彼女の瞳は揺れることなく私を見上げている。
「――霊夢さん」
頷いてしまいそうになって、慌てて踏み止まる。
ダメだ、そんなの――至れる末路なんて、一つだけなのに。
あの妖怪の賢者から逃げ切れる筈がない。
あの八雲紫から逃げおおせる筈がない。
そんなこと、あの大妖怪と一番関わり深い彼女がわかってる筈なのに。
「や、やめて――そんなことしたら、あなたまで」
嫌だ。それだけは嫌だ。
彼女が殺されるなんて、絶対に認められない。
彼女を守る為に私は生贄になった。
彼女は誰より大切な、大切な――
「倒してやる」
その視線は揺らがない。
「妖怪の賢者でも誰でも、早苗を喰おうとする奴なんて私が倒す。早苗を捕らえようとする奴なんて私が蹴散
らす。絶対にあなたを渡さない。いつまでも、どこまでもあなたと逃げ切ってみせる」
強く、強く……血の滴る手を握られる。
「私は――この手を放さない」
雨が私たちを打ち続ける。
冷えて、どんどん熱を奪われる体に、彼女の言葉が沁み渡る。
ダメ。ダメ――胸の奥にしまい込んだ感情が、溢れ出してしまう。
彼女の為だって、幾度も幾度も己に言い聞かせて封じ込めたのに。
「……霊夢、さん」
張り詰めていたものが、切れてしまう。
膝の力が抜けて、彼女に凭れかかる。
涙が――こぼれる。
「霊夢さん、霊夢さん……霊夢さん」
掴まれた手はそのまま。
空いた手で霊夢さんを抱き締める。彼女は、抱き返してくれた。
それが嬉しくて悲しくて、涙が、止まらない。
「霊夢さん」
堰を切った涙は言葉さえも溢れさせる。
「わたし、死にたくない。生贄なんて、やです。霊夢さんに会えなくなるなんて、やです」
「……うん」
「わたし、生きたい。もっと、ずっと、霊夢さんの傍にいたい。霊夢さんの隣にいたい」
「うん」
「霊夢さん、わたし、わたし――」
もう、ダメ。
伝えてはならないと封じていた。
彼女の為だとしまい込んでいた。
それも、なにもかも、涙と一緒にこぼれ落ちた。
「霊夢さんが、好きです」
その一言は――終わらない逃避行の始まり。
この一言できっと彼女は覚悟を決めてしまう。
止まぬ雨が暗示する艱難辛苦の道を駆け抜けることを。
「私も、早苗が好き」
応える声は軽やかだった。
宣言した通りいつまでもどこまでも行けそうな――鳥のように。
手を引かれる。
「どこまでも、いっしょに逃げましょう」
二人で――雨振る夜道を駆け出した。
掴まれた手から血が滴る。
それさえも今は嬉しかった。
私は生きている。その証だから。
私は、生きて……彼女の隣にいる。
彼女と手を繋いで――いっしょに走っている。
明けない夜でもいい。
止まない雨でも構わない。
霊夢さんといっしょなら、きっとどこまでだって行ける。
終わらない逃避行をいつまでだって、続けられる。
それが――とても幸せだった。
「その後――」
ぺらりと擦り切れたページがめくられる。
「二人は妖怪の賢者の元へ直談判しに行きました。当然賢者は激怒します。巫女の裏切りはもとより人間が勝
手に約束した生贄まで反故にされたのですから。巫女と賢者は切った張ったの大立ち回り。しかし最後は二人
の想いに心打たれた賢者が見逃すこととなったのです」
ちらと紫は聞き手に目を向ける。
聞き手は二人の巫女。どちらも幻想郷に欠かせぬ役目を背負った少女たち。
紅白の衣裳を着た巫女は顰め面で、青白の衣裳を着た巫女は溢れる涙をハンカチで拭いながら聞いていた。
くすりと微笑して締めの言葉を口にする。
「そして二人は故郷を捨て、いつまでも幸せに暮らしました」
ぱたん、と古びた――そう見える本が閉じられた。
「以上、自ら巫女の座を捨てた博麗の巫女のお話でしたとさ」
語り終えた紫は胡散臭い笑みを紅白の衣裳を着た巫女に向ける。
「ちなみにこれ、あなたの八代くらい前の巫女ね」
「ほう」
紅白の巫女――当代の博麗の巫女は短く返事を返した。
そのまま、ちゃぶ台があったらひっくり返していたであろう勢いで立ち上がる。
「それはそれは情熱的な先輩ね――なんで私と早苗の名前で語ってんのよ紫っ!!」
ただただ恥ずかしさに頬を染め霊夢は怒鳴り散らす。
さもあらん。語り聞かせられた恋物語の登場人物に己の名を使われてはこそばゆくて堪らない。
途中何度も文句を言ったがその度に窘められて最後まで聞かされたのだから怒りは膨れ上がっている。
「古過ぎる話だから現代語訳を」
「訳し過ぎでしょうが!」
「でも早苗ちゃんは気に入ったみたいよ?」
反射的に振り返ると青白の巫女、博麗の巫女ではなく風神を祀る風祝たる早苗は――
「うえええええ。な、な゛んでい゛い゛おはなぢなんでじょうううううううう」
鼻を啜りながら号泣していた。
感情移入し過ぎ。
霊夢は頭痛を堪えて座り直す。
「つーかそれに出てくる神奈子と諏訪子って誰よ。当時居なかったでしょあいつら」
「当時の里の長夫妻。良識的な方々だったわ、迷信とか全然信じてなかったし」
そういう役に神を宛がうってどうよ。
疲れてはいたが律儀に突っ込む霊夢である。
霊夢も年頃の乙女、恋物語は嫌いではないがこうもおちょくられては素直に楽しめなかった。
自分の名が出る度にびくびくと反応してしまい、疲れ果てているのだ。
「ま、こうして当時の巫女は一人の人間として生きることを選んだわけよ」
「へーえ……」
どこまでも胡散臭い、と生返事。疲れ果てて相手をするのも鬱陶しいと態度に表す。
しかし大妖怪で妖怪の賢者、霊夢が言う処の根性曲がりである紫にそれを見せたのは致命的な隙だった。
「そんなわけで霊夢、あなたが一人立ちするまでおかーさんは見守ってますからね。よよよ」
「嘘泣きやめいっ! 誰がおかーさんか!」
「お義母さま! 霊夢さんは早苗が絶対に幸せにします!」
「あらそーお?」
「昔話に影響され過ぎだー!!」
暴走を始めた早苗を取り押さえけらけら笑い出した紫に破魔札をぶん投げ――
霊夢が一息つけたのは十数分後。もう体力は残っていないと畳の上に大の字である。
まだ恋物語の余韻に浸ってぽーっとしている早苗の横に立ち、紫は紅白の少女を見下ろした。
「修行が足らないわねぇ」
「悪かったわね……」
ああ、八代前の先輩とやらも修行嫌いだったんだっけ。
目を閉じて霊夢は昔話を思い出す。
色々気になるところの多い話だったが――どう思い出しても単なる恋物語だった。
なにかにつけ裏のありそうな紫が語って聞かせるにはどうにも弱い。
少女には、その動機がさっぱりわからなかった。
「……で? なんでそんな話聞かせんのよ」
「このお話の教訓はひとつだけ」
「賢者様に逆らうな?」
「全然違うわ」
話聞いてた? と紫は呆れ顔。ぺちぺちと霊夢の頭をはたく。
少女は鬱陶しがりその手を払おうとした刹那、ぽんと手が置かれた。
「本当に大事なものの為なら、辞めちゃってもいいのよ」
殊の外優しい声。
虚を突かれた形で、何も言い返せない。
ただ、そうすんなりと聞き流せない言葉だと身を起こす。
「あなたも辞めたくなったら相談なさいね」
「……私なんて代わりがいくらでもいるっての?」
「全然違うわよ」
浮かべるのは微笑。
紫は屈み込み――
「あ」
「え」
霊夢の手と、隣に座る早苗の手を取りそっと重ねた。
「あなただって自由に生きていいってこと」
笑って妖怪の賢者は姿を消す。
後に残されたのは、重ねられた手を離せない二人の少女だけだった。
紫さんマジお母さんやでえ
紫が意地悪に優しくっていい感じでした。
話を聞いている間の霊夢を妄想したら……はぁ、霊夢可愛い。
――そして二人は幸せにちゅっちゅしましたとさ(捏造)。めでたい!
どうにもなりませんでしたオチも何処かで幸せに暮らしましたオチも許さんぞ! と思いながら中盤読んでましたが、こう締めてきたか。
ところどころ違和感があるなと思ってたら、そういうことか。
話してるのが紫だけに、こういうオチはありだと思う。
逃避行いいなあ
あ、もういますね。
逃げ出すのはアリだと思う。逃げ出す前の努力と逃げ出した後の覚悟が必要だとは思うけれど。
でもなにより必要なのはそういう風に言ってくれる人がそばに居てくれること。
羨ましいぜ、霊夢と早苗。自分も妖怪の賢者様に見守っていてもらいてぇ……
いいえ、ほのぼのです
シリアスにそそられて来たらこう来たか、れいさなアリです。
最後にあなたの名前を読んで、やられたと思いました。
安心と信頼の猫井印。
内輪話失礼。
前半の逃避行から後半の会話まで愛に溢れていた作品でした。
個人的には最後の紫と霊夢とのやり取りが気に入りました。
紫様いいですね。