*
からん、ころん。
下駄を鳴らし、歩く。
珍しく和服でだ。
霧雨に唐傘。風流かと思ったのだが、どうも私には似合う気がしない。
そもそも、見てくれる人などいないのだけれど。
ああ、帰ったらすぐにいつもの洋服に着替えよう。どうせこのまま着ていれば、ペット達の毛だらけになってしまうし。
期待するだけ無駄だったのだ。
誰かが声をかけてくれるのでは、など。
「あっちいけよ!」
その時突然、怒号が聞こえた。
「こっち見るな!」
「ここからいなくなれよ!」
まだ幼い声だ。いくつも聞こえてくる。
この旧街道では怒号なんてものは珍しくもない。
酔った鬼達がそこら中にいるのだ。それすら粋として受け入れられているのである。
しかし、聞こえてきた声は明らかな敵意を含んでいた。
私は、この敵意を良く知っている。それも、ごく近しい所で。
まぁ、なんのことはない。
その感情は、普段私に注がれているそれそのものだ。
心が読める私は、いつも煙たがられていた。
心の読めない遠い所から、心を抉るような言葉を投げかけられた。
しかし、今日は違う。
普段私に浴びせられるそれは、私以外の誰かに投げかけられていた。
誰だろう?
同族意識でも、嫌悪でもなく。
助けるつもりもなく。
ただ純粋な好奇心で、その声を向けられている主の正体を確かめたくなった。
「揉め事ですか?」
私は、そっと近付き、いつもの様に静かに訊ねる。
「え…うわ!さと…うわぁぁぁあああああああああ!」
「にげ…」
(「ぁぁあ…ああぁぁぁああぁあ!」)
訊ねられた子供達は私を見て、いつもの様に「叫び」、走り去って行く。
全部いつもの通り。吐き気がする。
取られる態度に?いいや、それに慣れ、浸かっている自分にだ。
走り去った子供達が居なくなったのを確認し、私はそこにうずくまっている人物に目をやった。
あたりには石が散らばっている。恐らく投げつけられたのだろう。
それが証拠に黄と緑を基調とした、フリルの多いかわいらしい洋服はところどころ破れていて。
少し癖がありそうだけれど、長く綺麗な緑色の髪も煤けている。
だが、何よりも目を引いたのが。
うずくまった彼女の代わりに、私と目を合わせる、
第三の目。
驚いた。
自分以外のサトリを見たのは本当に久しぶりだ。
成程、石も投げつけられる訳である。
「貴女は…」
言葉を投げかけて気付く。そんな必要はないのだ、と。
本当に久しぶりだったのである。そんなことすら失念する程に。
本当に小さく。
(「たすけて」)、と聞こえた。
だから、私は手を伸ばした。
これだけで、全て伝わる筈だから。
だって、これは私だ。
私の時は、誰も助けてくれなかった。
それが今、目の前で助けを求めているのだ。
同族意識でも、嫌悪でもなく。
彼女を助けるつもりもなく。
きっと寂しかったのは私で。
同じように寂しい者を見つけて嬉しかったのは私で。
それでも手を伸ばした手を、この子は掴むだろうか。
いや、掴みたいと思っている事すら分かっている私の手でも、掴んでくれるのだろうか。
ふるふる、と小さく指が動いた。
私の人差し指を、小さな手が包む感触。
私は、傘を放り出して、彼女を抱きしめる。
言葉なんて必要なく。
過ごしてきた時間なんて関係なく。
私達は出逢ったのだ。
欠けている心を、埋め合う事のできる人に。
これが、私が姉になった日だった。
*
私の名前は、誰かに与えてもらった訳ではない。
だから、種族の名前がそのまま、今の私の呼び名になった。
もちろん、それが少なからず軽蔑の意を含んでいる事も知っている。
だから、私は彼女に名前を付けた。
蔑ろにされたりなんかしない様、誰からも愛される様。
だって、こんなに可愛い子が、愛されなくてはおかしいのだから。
(「こいし。」)
そう呼ぶと、少し小首を傾げて、
(「なぁに?お姉ちゃん。」)
私に用が無い事なんて知っていても、可愛く応えるのだ。
もう私はこいしを手離せなくなっていた。
ずっと、「仲の良い姉妹」でいたかった。
離れて欲しくなかったから。
だから、私は気付かない振りをしていた。
「お姉ちゃん」。
そう呼ぶ度に、こいしの心に靄がかかっていくのを。
*
私のお姉ちゃんは寂しがり屋さんだ。
手持無沙汰になると、私の名前を呼ぶ。
寂しいから呼んでいる事も気付かれているのに、それでも呼ぶのは、やっぱり寂しがり屋さんなんだと思う。
でもそれは、きっと今まで誰も甘えさせてくれなかったから。
私と会うまで、誰も助けてくれなかったから。
その事を思うと、何も言えなくなる。
だって、「あれ」は本当に辛かったから。
全ての言葉が心を抉って、
全ての行為が身体を傷つけて、
全ての存在が敵に見えて、
全ての想いが否定される。
「あれ」を独りで耐え抜いて来た、お姉ちゃんなんだから。
だから、私はいい子の妹を作り続ける。
お姉ちゃんが寂しくて私を呼んだのなら、
(「こいし。」)
それは、妹の私に傍に居てほしいのだから。
(「なぁに?お姉ちゃん。」)
小首を傾げて、応える。
私は、可愛い妹でいれているだろうか?
ねぇ、お姉ちゃん。
ううん、さとり。
私はもう、妹としてしか、貴女の傍に居られないの?
だって貴女は、この想いに気付いているでしょう?
気付かない振りをして、私の名前を呼ぶのでしょう?
「お姉ちゃん」と呼ぶ度に、
その裏にある想いを知っても尚、
妹としての私を望んでいるのでしょう?
貴女は、それがどれほど心を抉る事かも気付いている。
ただ気付いていないのは一つだけ。
私は、貴女ほど強くはないという事。
敵意でも、好意でも、
身を裂くように投げられた言葉に、
私は自分を守る術も、耐え抜く力も持ってはいない。
それでも、大好きな、
それがどんな意味を孕んでいたとしても、大好きな「お姉ちゃん」から、
離れられないのは、私だって同じなのだから。
だから、気が滅入る。壊れそうになる。
離れられないのに、
近づけば身を削られるこの時間が、
貴女が望む限り、永久に続くのだから。
*
歌が聞こえる。
ドア越しで心の声が聞こえなくても、誰が歌っているかなんて言うまでもない。
これは、お姉ちゃんがいつも歌ってくれた子守唄だ。
地霊殿に来た頃、お姉ちゃんは私によく膝枕をしてくれた。
多分、半分は私を安心させるためで。
多分、半分は自分が寂しくない様に。
もちろん、私とお姉ちゃんに「多分」なんてないのだけど。
私を膝に乗せたお姉ちゃんは、小さく歌を歌いながら、いつも編み物をしていた。
私も少しだけ教えてもらったことがあるが、どうにも上手くいかなかった。
(「ふふ、こいしは編み棒の扱いが苦手みたいね。」)
それでも、お姉ちゃんは笑っていた。それが嬉しくて、私も笑った。
それからは、いつも膝の上からお姉ちゃんの手が動くのを見ていたと思う。
あたたかいお姉ちゃんの膝の上と、
ふんふん、というお姉ちゃんの上機嫌そうな歌声と、
淀みなく動く編み棒を眺めていると、
すぐに私はまどろんでしまう。
(「ふふ、こいしったら。」)
そんな「声」が聞こえる頃には、私の意識は途切れてしまうのだった。
間違いなく、その時間は幸せだったと思う。
私達が、いや、私が仲の良い姉妹で満足していた時間。
でも、この気持ちに気付いてしまってからは。
いや、気付かれてしまってからは。
私は膝枕をしてもらうのをやめた。
それがどれほど幸せで、
それがどれほど残酷な時間かを、
既に知られてしまっていても、これ以上知られたくはなかったから。
だから、この子守唄を聞くのは久しぶりだ。
きっとお姉ちゃんはソファーに腰掛けて、編み物をしている。
最近少し肌寒くなってきたから、私に何か作っているのかもしれない。
私は、お姉ちゃんの妹でいられて、本当に幸せだと思う。
だから、ごめんね?
この気持ちが膨れ上がって、私が壊れてしまう前に。
さとり、貴女の「眼」を潰します。
私の気持ちが分からなくなれば、
「妹」でいてくれるか分からなくなれば、
私がいなければ壊れてしまう貴女は、きっと私を求めるでしょう?
縋りついて、当たり前に居る「妹の名前」ではなく、
もっとたくさん「私の名前」を呼んでくれるでしょう?
大丈夫だよ、「お姉ちゃん」。
ずっと、一緒だもの。
*
ドアが開いた。
私は編み物の手を止め、そちらに目をやる。
きちんとドアを開けて入って来るのは、この館に私とこいししかいない。
「こいし?どうしたの?」
訊ねても返事はなく、ドアの陰に隠れたままだ。
この距離では「声」も、隠す気があれば聞こえない。
「こいし、こっちにいらっしゃい。」
私は自分の膝をぽむ、と叩き言う。膝枕をしてあげる、と。
しかし返事はない。
おかしい。
私はようやく気付いた。
『この距離では「声」も、隠す気があれば聞こえない。』のだ。
それは、こいしが意図的に「声」を隠しているという事。
その意図は分からないが、決定的にいつもとは違うのだ。何かが。
私にとって「いつもと違う」という状況は、有り体に言って本当に怖い。
「いつもと同じ」であるから、辛い状況にも耐えられる。
「いつもと同じ」であるから、幸せな状況が恒久的に続いていくのだと錯覚していられる。
だから、急激な不安に襲われた。
それも、明確な形をもたないままで。
「ねぇ、こいし?どうしたの?」
私は編み棒を傍らに置く事も忘れ、ふらふらとドアの影に近づく。
どうか、次の瞬間には(「なんでもないよ、お姉ちゃん」)とあの子が笑ってくれる事を願いながら。
突然、影が動いた。
「きゃっ…!」
手にしていた編み棒が奪い取られる。
床に強く尻もちをつく。
見上げた私の眼に映ったのは。
もちろん、編み棒を奪い取ったのはこいしで。
こいしの目は私の「眼」を向いていて。
こいしの「眼」からは透明な雫が零れていて。
こいしの「声」が流れてくる。
(「お姉ちゃん」)
(「ごめんね」)
(「さとり」)
(「すき」)
(「だいすき」)
(「だから」)
(「ごめんね」)
(「さよなら」)
(「ずっと一緒」)
時間も、言葉もいらなかった。
私はサトリだから。
その「声」で全てを悟った。
私は「お姉ちゃん」だから。
そんな「声」なんてなくても全てが分かった。
だから、優しい声で、名前を呼ぶ。
「こいし。」
(「ごめんね」)
「ごめんね。お姉ちゃんが悪かったね。」
(「すき」)
「ね、だから、それを渡して?」
幸せな時間が積み上げてきた笑顔で。
私は彼女の名前を呼ぶ。
誰からも愛されるようにと付けた名前。
私は、彼女を愛していただろうか?
それはわからないけれど。
依存していただけかもしれないけれど。
このまま、「私達」を終わらせたりはしない。
「こいし。」
どうか、届いて。
*
お姉ちゃんの声が聞こえる。
たくさん謝っている。
たくさん好きって言ってくれている。
嬉しい。
嬉しいな。
でも、「私達」の好きはきっと重ならないから。
それでも、貴女の傍に居たいから。
お姉ちゃんの「声」が聞こえた。
(「こいしは編み棒の扱いが苦手なんだから」)
最後まで、お姉ちゃんは笑っていた。それが嬉しくて、私も笑った。
大丈夫、ちゃんと出来るよ。
第三の眼に向かって。
私は手を振りおろす。
ごめんね。
*
いつもの様に、子守唄を歌う。
膝にはこいしが気持ちよさそうに頭を乗せている。その目は、私の編み棒を追っているようだ。
「こいし。」
名前を呼ぶ。きちんと、唇を動かして。
「…なぁに、おねえちゃん。」
こいしが応える。幸せそうに笑いながら。
少し遅れたのは、眠たいのかもしれない。
あの時、私はこいしを止める事が出来なかった。
彼女は、自分が望んだとおりに、
「自らの」第三の眼を潰した。
全部分かっている。
壊れそうになった貴女は、私の「眼」を潰そうとして。
優しい貴女は、そんなことが出来なくて。
壊れそうになった貴女は、貴女の「眼」を潰して。
優しい貴女は、最後まで謝っていた。
貴女は、ただ一緒に居たかっただけだった。
私も、ただ一緒に居たかっただけだった。
たった、それだけのことだったのに。
だから、私は貴女の名前を呼び続ける。
誰からも愛される様に。蔑ろにされないように。
私が愛している事を伝える為に。蔑ろになんてしないように。
大丈夫よ、「こいし」。
ずっと、一緒だもの。
「こいし。」
「なぁに、お姉ちゃん。」
ずっと一緒に、幸せであってもらいたいです。
ああパクる訳じゃないよ
二人で幸せな未来を迎えてほしいです。