「ご主人、大変だ」
「ま、まさか、造花の内職の手間賃が下がったとか!」
人里にある貧乏長屋の一つ、朝日が昇ると同時に開け放たれた土間の方を見つめた星は、部下のナズーリンの言葉に顔を青くした。その拍子に作りかけだった白い花がぽとりと畳の上に落ち、茎とから花弁部分が剥がれ落ちてしまう。
「いや、そんな地味な職の問題ではない。別な意味で死活問題だけれどね」
ナズーリンは目を細め、眉を斜めに下げつつ苦笑い。耳を隠すために被っていたフードを取ろうとして、はっと外の細い路地を覗く。周囲に人影がないか一度確認してからゆっくりと入り口を閉じ、つっかえ棒で固定してから厚い布地を外す。
「そ、それでは、大通りのお肉屋さんが値上げを……いえ、あのお方はそういう人ではありませんね。となると噂に聞く局地的地震や異常気象により野菜の生産量が減っていたり……」
「食卓を直撃する問題でもない」
「そ、それでは……あ、そういうことですか……」
星は、悲痛な表情をしたまま視線を落とすが、首をゆっくり左右に振る。顔を上げたときそこには曇りのない笑顔だけが残っていた。
「ご近所のおフミさんの子供が産まれたのでしょう。構いません、ナズーリン。今週のおかずが一品減ることにはなるのは寂しいことです。しかし新しい命の祝福を怠るなど恥ずべき事で……」
「……キミは本当に救いようのない馬鹿だな」
「な、何を言うのですか。私は誠心誠意を持って、人間との温かいお付き合いを行っているというのに! その私を馬鹿などとっ、ば、馬鹿という方が馬鹿という言葉を知らないのですか!」
元々が虎の妖怪だと疑いたくなるほど、割烹着を着込み内職を行う姿が似合っている。そんな主人が造花の材料で囲まれている姿を眺めて、ナズーリンは深いため息をついて、材料の山から茎用の棒を一本取った。
「私達の使命を忘れたかい、ご主人?」
「何を言うかと思えばそんなことですか。寝る前にちゃんと10回復唱しているというのに忘れるわけがないでしょう。『我らは毘沙門天の正義の名の下に、聡明で美しさと愛らしさを併せ持ち、さらには神様の如き寛大さを持ち、その上寅丸星を心から愛する聖白蓮を封印から救い出すこと』だと」
「それを耳元で繰り返し聞かされる私の身にもなってくれ、しかも深夜に……とにかく、まあ、それだよ。ご主人は、恩義のため、私は従う形で協力している。しかしだね、それよりも先に毘沙門天の代理という立場を忘れてはいけないと思うんだが?」
長屋で内職生活の時点で立場を忘却している可能性もあるのだが、責任感のある星が意識していないわけがない。ナズーリンが二つの造花を作り上げているうちに、五つもの完成品を手元に置いていることからもわかるとおり。彼女は本来手際がよく、優秀すぎる妖怪なのだから。
「毘沙門天の使いであるナズーリンには苦労をかけていると思いますが、私とてしっかり帳簿を管理し、拠点を建設する費用を捻出するための努力はしているつもりですよ。生活費は労働で得て、私の力で集まる骨董品や宝物は質屋に売って資金に換えていますし。抜かりなしですよ」
一輪や水蜜といった封印された仲間の開放手段は未だ見つかっていないものの、もしその日がいきなりやって来てもいいよう。建設費用だけは最低限確保している。それは幻想郷が隔離されてからも同じ、目立たないように細々と生活し、妖怪が人間と住むことを隠してきた。
ただ、この時ナズーリンはこう進言した。
『隔離されてから人間と妖怪の立場は大分近くなった。今こそ拠点を先に建造し、毘沙門天の威光を広げるべきではないか』
しかし星はその意見に星は賛同しなかった。ナズーリンの耳を撫で、まっすぐに視線を合わせてこんな言葉を返した。
『この世界には、人間の神社があると聞きます。さらにもう一つ増えた神社では神と人が寝食を共にしているそうです。そんな中、妖怪である私たちが寺を建造した場合、初めは珍しがられるかもしれませんが、いずれ比べられることとなるでしょう。その際、妖怪であるがために心を痛めるはずです。特にあなたは私に隠して、苦しさを心に残すこととなるでしょう。でも、そんな思いはさせたくはありません。言い方が悪いかもしれませんが、万全を期するためには聖の存在が不可欠だと思っています。人間であり、求心力の高い存在が』
そう熱く語られて、ナズーリンは思わず首を縦に振っていた。冷静に判断せず、主人が自分のことを真剣に思ってくれている嬉しさで、肯定したと反省する点もある。それでも心を揺らす言葉が世界の真理だと思い込めるくらい説得力があったのだから仕方ない。ナズーリンの記憶が確かなら、その後無言で抱きついてしまったはずである。恥ずかしながら……感情に流されて……
しかし、しかしである。
内職をして生計を立てる現状を全面的に支持しているわけでもなく、むしろ頷いたことに後悔した点が多くなり始めたのが悩みだった。元々妖怪であるし、仕事や家事以外のことに関しては箱入り娘が腰を抜かすほど常識がないのだから。ナズーリンが耳と尻尾を隠し、危険を承知で外出しているのは星に奇怪な行動を取らせないためである。その妙な行動が実を結んでる例がすでに存在するのだが……
「ご主人、過去にも何度か言ったとは思うんだが、ここは一応毘沙門天様のご威光を広めるための本拠地と考えていいのだね?」
「ええ、もちろん。確かに外見では民家にしか見えないと思いますが、寺に住まうつもりで毎日を過ごしていますよ。ほら、お寺で販売する厄避けの道具を作る感覚を忘れないように、造花作りを行っているわけですし」
「むぅ、いや、しかしだね……」
百歩譲って、この作業が生活費を捻出する以外の意味を持っていたとしよう。それはいい。手先が器用になるのは望ましいし、庶民の生活を知るのも大切なことだ。体の横で小さな花の山が仕上がりつつある状況を冷静に観察し視線を前に動かせば。
「……職人の域まで達する必要はないと思うんだが」
ナズーリンの5倍以上。自分自身の座高を超える造花を一刻もしないうちに生み出す神がかった速度を見せつけられると、どうしても才能の無駄遣いとしか思えないのは何故か。優秀なのは悪いことではないのに、素直に喜べない。
「何を言うんですかナズーリン、仕事とは生きる糧。手を抜くわけにはいかないでしょう?」
「……まあ、そうなんだが、そこまでこだわるなら軒下のアレをどうにかできないか?」
「アレ、とは?」
「表札だ」
民家に住まうことにはなったが、毘沙門天の代理であることを忘れないようにと、実はこっそり寺の名前を表札として出していた。ただ長屋に住む者で表札を掲げる者はほとんどいなかったので、目立ってはいけないと屋根の影に吊してあるのだ。
「私としては自信作だったんですけど、どこか字体が崩れていましたか?」
「いや、綺麗なものだよ。感嘆するほどにね」
「ふふふ、そうでしょう。そうでしょう。心血を注ぐ意気込みで仕上げましたから。ナズーリンもあれくらい書いて貰わないと困りますよ?」
文字には生命が宿る。評論家の中には常人にはよくわからないことを言う人はいるが、星の字に限って言うならそれは正しい。元々、虎の妖怪であるからかは知らないが、静かながら躍動感があるというか、力強い書体なのである。それが筆の速度を速めてもほとんど崩れないのだから、見事としか言えない。その文字に関しては封印される前の聖にも褒められたことがあるので、仲間内しかいないときは謙遜することもない。
つまり字体に問題があるはずがないのだ。
問題は……
「文字を書く板が、『かまぼこの底に付いている板』なのは……」
「いけませんか?」
「ああ、うん、世間一般ではあまり見ないというかだね……」
「駄目ですよ、ナズーリン。他の家とここを比べては、めっです」
「いや、そう可愛く言われても、やはりあの板は仮とはいえ寺の雰囲気には合わないというか……」
むしろ比べられる他の家の表札に失礼ではないか。という言葉を喉で止め、なんとか通常の木片と交換させられないかとやんわり告げてみるものの。
「ナズーリン、確かにその意見は一理あります。僧侶などが魚にまつわる者を食べるのはあまり好まれることはない。その『かまぼこ』の原材料が魚であることは数日前に近所の奥さんから教えて頂きましたからね。ですが私たち妖怪に属する者は、罪深く他の動物の肉を最低限摂取しなければ生命活動すら危ういのです。ですからあの『かまぼこの板』は、寺と掲げながらも禁を犯さざるをえない私たちのあり方を示すもの。そう思いませんか?」
「……違うんだ。私が言いたいのは……」
「え、何か別の要因があるとでもっ!」
「……いや、もういい」
食べ物についていた板を、家の顔である玄関に置いておいて良いのか。たったそれだけのことを伝えられず、ナズーリンは心の中でため息をついた。
「しかしだね、ご主人。どうしても納得いかないことが一つあるんだ」
「おや、今日はやけにおしゃべりですね?」
「ああ、今のうちに意見をまとめておかないといけないからね」
残り一個の造花を作り終え、完成品を丁寧に箱に詰めていた星は、嬉しそうに微笑み作業を途中で切り上げてナズーリンの前に正座した。
「では、なんでもどうぞ」
「うん、今更このことを話に持ち出すのはどうかと思うんだが……宝塔や毘沙門天様の信仰の方法なんだが」
びくっと星の肩が跳ねる。
「まず、簡単な整理をしたい。宝塔がなくなった経緯はどうだったかな……」
先ほどの余裕がどこ吹く風。額からはじわりと汗が滲み始め、膝の上に置かれた手がぎゅっと着物の布地を握りしめた。
「団子が、美味しくて……」
「あぁ、思い出したよ」
世界が、幻想郷として取り込まれた後のこと。毘沙門天との連絡が取り辛くなったナズーリンが星に報告し、宝塔を持って調査を行っていたときのこと。その原因が大きな結界で遮られたためだと知った星は、ひとまずナズーリンと茶屋で休憩を取り。午後から詳しいことを報告する算段であった。しかしその団子がやけに美味しくて、ついつい長居してしまい。家に何本か持ち帰ってしまうほど。
そのとき家に入った星が放った第一声が……
『ナズーリン? 宝塔……持ってません?』
その瞬間、場の空気が停止し、ナズーリンの手から滑り落ちた団子の袋がぺたり、と土間に落ちる音だけ空間を支配した。
「そうだったよ、あれから幻想郷の中を駆けずりまわったんだった。団子屋に置き忘れた宝塔を光物が好きな鳥が持っていってしまったと店主から聞いて追いかけたが……外の世界との境界付近を飛んでいたそいつが宝塔を落としてしまってね」
「幻想郷の外へと出てしまったんでしたね……」
「普通なら内からの物は出ない結界なんだろうけれど、宝塔の力が干渉したのかな。しかし外の世界で忘却されたものはこちらに流れてくるそうじゃないか。一度幻想郷に入った物質が外に出たとしても、また戻ってくるのがオチさ。そのときはダウジングで見つけてみせるよ」
「ああ、ありがとうございます。私はなんと素晴らしい仲間を持ったのでしょう……」
両手を胸に当て、ほっと息を吐き両手を胸に当てる。柔らかい表情と仕草を見せる星を見ていると、和まされてそれ以上の追求ができなくなってしまう。しかしナズーリンは顔をぶんぶんっと左右に振り邪念を振り払い、びゅんっと風を切る音を残すほど速くダウジングロッドの一本を振った。
「しかしだね、ご主人……」
‘N’というマークがついた先端を鼻先に突きつけられた星は、わずかに身を引きながら不思議そうに座高の低いナズーリンを見下ろす。しかし不安げな瞳に誤魔化されることなく、キッと鋭い瞳で睨み返した。
「今までは我慢していたが、この際だからはっきりと言わせて貰うよ! 本殿の設備までとはいかなくても、大きな祭壇のようなものがあってもいいじゃないか! それがなんだ! あまりにも質素な、子供でも抱えられそうな神棚もどきを部屋の隅に置くなど! 毘沙門天様の弟子として恥ずかしくないのか!」
「う、いや、しかし……、本格的なものを設置すると費用がかさみますし……拠点を移す際の資金は多いほうがいいかなと……」
「忠誠心はないのかと言っているんだよ! キミは本当にどうしようもない愚か者だ! 使うべき資金と、残すべき資金の区別すらつかないのか」
「す、すみません……」
ナズーリンの指摘どおり、星はどこか抜けているというか無頓着なのである。信念を持ち強い気持ちで信仰することが第一だと考えているので、それ以外の形ある設備は後回し、拠点を移すときに新調すればいいと考えていた。しかし毘沙門天の使いであるナズーリンはそれに対して募る思いがあった。
「それに、なんだアレは! 最近供えられているあの奇天烈な物体は!」
「……えっと、蒟蒻とゆでたまごと、あとちくわを串に刺した料理で」
「なにかと聞いている!」
もう、こうなってはどちらが主人かわからない。星は勢いに押されるまましどろもどろになり、神棚もどきとナズーリンを交互に見つめてから、しゅんっと頭を下げてぼそりと答えた。
「お、おでん、です、はい……ほ、ほら! 蒟蒻の三角形と、卵の丸と、ちくわの四角形が合わさった形がどことなく宝塔に似て……」
「ん? 何か、言ったかな?」
「似て、ない……ですよねぇ……」
毘沙門天の暗黒面である黒いオーラを纏い始め、短めの髪の毛が逆立ち始める。そんなナズーリンにロッドで鼻を突かれては、もう笑うことしかできない。
『実は本気で宝塔の変わりだと考えてました♪』
なんて言えるはずがない。
「え、えと、山の幸が蒟蒻で、海の幸がちくわ、それで命を示す卵が子宝を……」
「毘沙門天様の軍神という部分はどこに?」
「……串?」
「あはははははは、そうかぁ、串かぁ、はっはっはっはっ!」
「ははは、ははははははははは……」
重苦しい空気の中で、二つの笑い声が重なり合うが、片方の目が獲物を狩る肉食獣の其れになっているのは何故だろう。
「ふざけるのも大概にしろ! ご主人っ!」
今朝一番の大声が家の中に響き渡り、その声で家の梁がビリビリと振るえる。本気でおでん串を宝塔の変わりに置いていた星は何も言い返すことができず、行動できたことと言えば近所の人が怒鳴り込んでこないか気を張ることだけ。
しかし、その気配りすら怒り狂うナズーリンを刺激するには十分で……
「ご主人が! キミがそんなだから、問題が発生するんだよ! 今までは私の報告で済んでいたはずなのに、毘沙門天様にも余計な心労を与えるんだ!」
「は、反省します! 反省しますから、ナズーリン、少し落ち着いて話を……」
「落ち着いていられるわけがないだろう!」
殺気に似た気配すら放出し始める仲間をなんとか諌めようと、おそるおそるナズーリンの肩に手を置くが簡単にそれは弾き飛ばされて……
「今朝、毘沙門天様から念話が降りてきたんだ」
「ですから落ちつい……っえ?」
ナズーリンをなんとか押さえ込もうとしていた星の動きが、壊れた操り人形のようにぴたりと停止する。手を伸ばしかけた微妙な体勢で。
「心配だから一度こちらに出向くと、そう私に語りかけてきたんだよ!」
「えっと、ナズーリン。まさか朝の大変な話というのは……」
「そうだよ、ご主人……」
そして、ナズーリンは表札があると思われる方向と、神棚もどきを順番に指差し、声を震わせる。
「来るんだよ、明日……、宝塔も、一旦戻せと……」
いきなり死刑宣告を耳にした星は、肩を震わせるナズーリンをじっと見つめて……
ぱたり、と昏倒した。
◇ ◇ ◇
「……昨日は言い過ぎたよ、すまなかった。毘沙門天様がいらっしゃると思っただけで気が動転してしまってね。情けない話だ」
ナズーリンは手鏡で身だしなみを確認しつつ、よし、と小さくつぶやく。言い方が悪いかもしれないが、ボロ屋敷に大事な客が来るのだから服装くらいは整えておきたいという心の表れである。その証拠にいつもの数倍の時間をかけて髪を整え、何度もネズミたちにチェックさせていた。
「しかし、ご主人は凄いな。昨日と慌て振りが嘘のようじゃないか」
いつもより長い時間を費やしたナズーリンと比べ、星は毎日と変わらない様子で静かに畳の上に正座し、入り口を見据えている。多く言葉を語らず、ずっしりと身構える姿に部下として喜びを感じるほど。その星の横に正座をし、そろそろやってくるはずの毘沙門天を思い心を落ち着かせていたら。
何故か、星が真剣な瞳でナズーリンを見つめていた。
「ナズーリン……」
「なんだい?」
重みのある声に、一瞬ナズーリンは胸を高鳴らせる。しかしそれを顔には出すことなく、いつもの平静な部下を装い続け……
「一つ、聞いても良いでしゅか?」
噛んだ。
明らかに、噛んだ。
ナズーリンは空気を読む能力を持ってはいないが、しかし一瞬で理解した。
上司に対し、これから不誠実な対応を取らなければいけない星の重い心情、それを考えれば絶対にやってはいけないことを、はっきりと把握した。
「ふ、くっ……」
絶対笑ってはいけない、と。
ただ、生命体というのは不思議なもので。
『やってはいけない』と、強制されると、無性に笑いたくなってしまうのだ。深く、暗い色をさせた瞳で見つめる星と、子供言葉のギャップがナズーリンを追い詰める。だが、この程度で噴き出してしまうほど愚かではない。
心を落ち着かせて、口元を押さえればなんてことは――
「ど、どこか具合でも悪いんですか。待っていてください、確か痛み止めは箪笥の二段目に……」
そんな中、正座して前かがみに上半身を倒し、口を押さえる。さらに体を小刻みに震わせている姿を見て病気か何かと判断した星は、慌てた様子で立ち上がり。
「すぐ薬を持ってきまっ、えっあ、あれっ?」
長く正座していたため痺れたのか。踏み出し始めたつま先が畳みの上に引っかかり、身体が大きく斜めに傾いた。転びそうになるのを何とか支えようと、星はおもいっきって右足を前に出した。
その途端――
「――――っ!」
がづっという生々しい音がしたかとおもうと、星の全身がぴたりと停止し。
進行方向とは逆の、ナズーリンの方へと倒れこんでくる。
「ひぐぃっ、いにゃぁぅっ……」
奇声を発し畳みの上をごろごろ転げ回りながら、両手で押さえるのは右足のつま先。ちょうど小指の辺り……
一般生活における最大の危険。
『箪笥に小指を強打』を勢いをつけた状態で実現させてしまったのである。いつしかごろごろの体勢は変化を見せ、畳の上で団子虫のように身体を丸めてみたり、じたばたと手を叩きつけ他の痛みで誤魔化そうとしたり、無意味にあうあう叫び始めたりした。
「…………」
一人前の大きさの女性が。
目の前ですっころび。
小指を強打して、奇怪な行動を眼前で見せられて。
「……ぶふっ!」
とうとう、ナズーリンの口元は決壊した。
むしろ耐えろという方が無理である。なんとか笑い声は含み笑い程度の音に抑えたものの、緊張の糸が切れた後の津波は瞳からも溢れて。
「ごしゅ、ご主人、き、キミは、どうしてそう馬鹿、ふふ、ふはははっ」
「ナ、なずぅりぃん! あ、あなたという人は! 私がこうも思いつめているというのに、涙まで浮かべて笑うとは、許せま、せ、んぅぅ~~~っ!」
「ぷはっ、ははははははははっ!」
叱ろうと正座したのが、悪かった。
強打した小指をかなり強く畳みの上で擦り付けることとなってしまい、自ら追い討ち。再び転げまわる主人の姿に、もう我慢することなく腹を抱えて笑う。ひっくり返った亀のように背中を畳につけて、足を振る。そのせいで彼女独特の穴の開いたスカートが、ヒラヒラと宙を舞い。
「こ、こら、そんなはしたない真似をするんじゃありません! すぐ笑うのをやめて、正座しなさい! 正座です! お説教ですよナズーリン」
ミシッ……がらがら……
「邪魔するぞ、達者であったか二人とも!」
「邪魔なら出て行ってください! これからじっくりと話し合いを行う必要があるのですから! 仲間としてのあり方というものを!」
「……ほぅ、では弟子としてのあり方を私が説法してもよいのだな?」
「えっ?」「へっ?」
入り口に誰か居る。
それに気付いた二人が、顔を上げたのと――
両手を付いて土下座するのは、ほぼ同時だった。
◇ ◇ ◇
誰も入らないように木の棒でツイタテをしていた入り口を、あっさりと開けた和装の中高年。落ち着いた藍色を記帳とする浴衣に似た衣服に身を包んだ凛々しい男性は、多少不機嫌そうに目を細めながらも二人が住む部屋を興味深そうに眺めていた。
何も知らない人が見れば白髪が目立つ一般的な初老の男性、と受け取れるかもしれないがそれは仮の姿でしかない。長屋でぶらぶらしていても気にされないざんばら頭と、立派な髭が特徴的な、どこか威圧感を漂わせるこの男がナニモノかと言えば……
震える手でお茶を差し出す星の態度からして、一目瞭然。
「び、毘沙門天様、ほんじちゅはおふぎゃらもにょく」
「すまない、できれば日本語で頼む」
彼こそ、軍神と名高き神仏の一人、『毘沙門天』なのだ。胡坐を書いて座る風貌ですら威厳を感じさせ、その場に居るだけで威圧感を滲み出している。
「あの、先ほどは本当に失礼いたしました。いつもはあのようなことなどないのですが……」
「好い好い、元気があって実に結構。しかし目上の者に対しては最低限の敬意を払うべきではあるな」
「はい、すみません」
聖に仲介されたとはいえ対面に座る星と彼は師と弟子の関係であり、敬うべき存在。星の横のナズーリンは星の部下でありながら、毘沙門天の使いという二つの微妙な立ち居地を取っている。
本来なら、星の近辺で監視をしつつ毘沙門天に報告する立場ではあるのだが……
「毘沙門天様、予定よりお早いようですが、よくここがわかりましたね。ご主人が正面に立って迎えるお約束になっていたと思いますが」
すみません、と頭を下げる星を庇い話題を切り替える姿はどちらかと言えば星よりの立場。それを感じ取った毘沙門天はわずかに怪訝そうな顔を浮かべる。しかしすぐさま気さくな笑顔を浮かべて、ひざをぱんっと叩いた。
「そうだったな、そういう約束ではあった。しかしだ。思ったより早く人里の観光、いや、見回りが終わってしまってな、こちらの方に足を運んでみたんだが」
「む、毘沙門天様、そのようなことをされると他の神様からどやされると思う」
さきほどの敬語はどこに行ったのか。星を咎めるように唇を尖らせたナズーリンの勢いに押され、男はいやはや面目ない、と後頭部を掻く。
「良いではないか、たまの下界なのだ。土産話の一つくらい持って帰らねば損というもの。それでこの長屋の細い通りを歩いておったら、ほれ、見覚えのある字の表札を見つけてのぅ」
「見覚えのある字の、表札?」
「ああ、星の字だと一目で気付いて、立ち寄らせてもらったわけだ。しかし、再建を目指すとは言っても寺の名前を掲げるのはわかりにくい。どちらかの名前をつけてはどうか」
「いえ、お言葉ですが、あれは私とナズーリンの決意の証と受け取っていただければ」
「……そうか、ふむ。そう真剣に考えておるのか」
正座し、熱い視線で訴える星に違えることなどなく。毘沙門天も満足そうにその言葉を受け止めた。
けれど、星とナズーリンを交互に見つめてから視線を天井に彷徨わせて髭を数回撫でる。
星はそれを疑問の瞳で眺め続け……ナズーリンは何故か目を見開いて星を見つめていた。
「ふむ……しかしあれは」
「何か、ご不満な点がございましたか?」
「いや、見間違いならいいのだが、あの表札の板があまり使われない材質に思えたのだ」
「そうでしたか、やはり毘沙門天様の眼力は鋭いですね」
「褒めても何もでぬぞ?」
「いえいえ、素直に感心したまででございます。あれは『かま――』」
「危ないっ!」
「んむぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
何かを言い掛けた星の口にナズーリンの手が伸びてきて、そのまま畳の上に押し倒す。抗議の声を上げようとする主人の口を押さえ、周囲をキョロキョロと見渡して。
「危ないところだったねご主人、もう少しで巨大な蚊に指されるところだった!」
「む、そんなもの、おったか?」
「毘沙門天様の死角に潜んでいたのでしょう」
「しかし、そうそう危ないものでもないだろう、今の行動で頭を打ち付けたことの方が危険に思えるのだが」
「いやいや、そう判断するのはどうかと思われます。動物に対し寄生虫を運ぶ虫もいるとのことですし、ご主人は元々虎ですから。もしかしたら……あ、やっぱり腫れてるじゃないかご主人、こっちですぐ治療しよう。毘沙門天様を待たせてはいけないし」
自分の体の周りにも蚊が居ないか視線を彷徨わせ始める毘沙門天を他所に、治療の名目で星を部屋の隅に移動させる。もちろん口を塞いだままで。十分引き離したところでやっと手を離せば、すぐにでも噛み付きそうな勢いでナズーリンに顔を寄せる。
(な、ナズーリン! いきなりなんですか。しかも毘沙門天様の前で私を獣扱いとは!)
本来は怒鳴りたいところなのだろうが、さすがに毘沙門天の前でこれ以上の醜態は見せられないと判断したのか。小声でナズーリンの耳に直接言葉をぶつけた。しかし、ナズーリンもぐぃっと星の耳を引っ張り、逆に攻勢に立った。
(何を言う! ご主人こそ毘沙門天様に何を言おうとした! かまぼこの板で出来た表札を堂々と上げていると本気で言おうとしたのか! いいかい、昨日の夜も説明しただろう。ご主人の常識と周囲の常識は大きくずれているんだよ! 神様が信仰のどうぐに食べものにくっついていたゴミを使われてうれしいと思うのか!)
(……む、それも一理ありますね)
(わかってくれたならそれでいい。お願いだから今回だけは言うことを聞いて欲しい)
しぶしぶ頷く主人の姿に胸を撫で下ろし、ナズーリンは薬箱の中身を開けて薬を塗る素振だけをみせる。その後すぐに毘沙門天の前に戻り、姿勢を正す。
「ん? 治療は終わったのかな?」
「はい、大事に至らなかったようでして」
「そうか、ところでさっきの『かま』といいかけたのは?」
「ああ、あの板は鎌倉時代に植樹された御神木の一部でできておりまして、霊験あらたかな一品なのです。しかし、学のないものは最近作られたかまぼこ板のように見えると申しまして困っているのですよ」
「ほぅ、見る目のない者もいるものだなぁ。あの光沢は千年を刻んだものと思えない材質であるが、我は最初から見抜いておったわ」
「いやぁ、勘違いする愚か者を見ると可哀想になってきますね。現にこうも易々と……」
「ん? 何か?」
「いえ、なんでも……」
軍神だからしかたない、そういう神仏なんだからしかたない。
毘沙門天の使いとして誇りを持って生きてきたはずなのに、なぜかナズーリンの胸に虚しさが溢れ出す。この二人の主人についてきたのは正しかったのかな、と。根底から何か覆された感覚であった。畳と隙間に指を這わせ、暗い空気を背負いだしたナズーリンから一旦目を離した毘沙門天は、部屋の中の一角にとあるものを見つける。
「……ふむ、小さいな」
「毘沙門天様も、そうお思いですか?」
「うむ、この家には相応なのかも知れぬが、さすがに民家の仏壇以下の代物は……」
「すみません、ナズーリンにも指摘を受けたところでして今後検討したいと思います」
「そうか、ならば頼む」
子供が両手で抱えられそうな神棚もどきである。
さすがに神としてもあまり貧相な代物では納得いかないのだろう。毘沙門天の指摘を受けて深々と頭を下げる星に、ナズーリンはほれ見たことかと勝ち誇った視線を向け……
神棚に視線を向けた瞬間、その動きを止める。
「ふむ、しかし奇妙なものを供えているな。煮物のようであるが」
「はい、下界の庶民料理でして、おでんと申すもの。どことなく特徴が似ていると思いません? 特に頭の三角――」
「あ、危ないっ!」
「はぁぅっ!?」
直後、ナズーリンからの頭突きが星の鼻の頭を襲う。
正座状態から、ほとんど立ち上がりの動作なしで放たれたそれを、毘沙門天との会話に夢中になっていた星が避けられるはずもなく。回避運動すらとれずに直撃してしまった。
「すまない、ご主人! 茶を入れ替えようとしたんだが、足が痺れてしまって! 大丈夫か、すぐ治療するから! すみません毘沙門天様!」
「うむ、大事にな」
鼻を押さえる星の背を掴み、畳の上を引きずってまた薬箱のある部屋の隅に移動。いきなりの反逆行為に、さすがの星も瞳に涙を浮かべつつ眉を吊り上げた。
(いきなりなにを――)
(何をとは、何だ! ご主人! 今朝私が確認したときにはおでんなんてなかったのに、いつ乗せた! 昨日の作戦会議ではもう絶対おでんは乗せないとそう決まったはずじゃないかっ! なんだ、何なんだ君は! あれが宝塔の変わりとでも口を滑らせればどうなると思う! キミは本当に、バカだな、大バカだ、救いようのない愚か者だ! 私が少しでも宝塔の話題から遠ざけようとしているのがわからないのか!)
(う、しかし、普段の生活を見ていただくためにあったほうがいいかなと……)
(供え物におでんのある一般生活など体験したくもない! あのおでんに関しては私が対応するから、ご主人様は口を開かないでくれ!)
(……強引ですね、あなたは。わかりました。今だけは従いましょう)
(絶対だぞ! 絶対だからな!)
星の鼻の頭に消毒液を塗る仕草だけをして、二人はまた定位置へと戻る。すると、おでんをじっと眺め続けていた毘沙門天が、ぽんっと手を叩いた。
「ふむ、似ているといえば確かに似ているな。それならば我の供え物に相応しい」
「び、毘沙門天様、ご主人が言ったのはただの世迷言。別にあれは単なる料理であって、食べ物だからと単純に置いただけで……」
「いやいや、星に限ってそのようなことはないだろう。少々変わったところはあっても根は真面目じゃからのぅ」
「……それは、そうなのですが。何かに似ているようには到底」
「いや、見える。見えるとも、なぁ、星」
何故だろう、とナズーリンは思う。
部下思いの発言が出たというのに、喜ぶ気すらおきず、うざったいと本気で考えてしまうのはいったい何故だろう。ナズーリンに下手なことは言うなと指摘されたばかりの星は、口では何も言わなかったが……毘沙門天の質問にこくり、と素直に頷いてしまっていた。
それをナズーリンが止めるより早く、とうとう毘沙門天がその単語を――
「足軽、じゃな」
「……え?」
「ほれ、あの一番上の部分が傘で、下が顔、最後の四角が鎧を表現しているのだろう。まさしく我に相応しい形」
「そうですか? 私には『宝と……』、っあぅ!」
「そう言われればそうですね! いやぁ、ご主人と毘沙門天様の感性には脱帽するばかりですよ」
「ふふ、ナズーリンよ。あまり硬い頭では何も解決せぬこともあるのじゃぞ?」
「肝に銘じておきます。ねえ、ご主人」
「そ、そうです、ね♪」
正座している足の裏を指でぐっと押し込まれ、引きつった笑顔を見せる。そんな星の横で胸を撫で下ろしたナズーリンは、これからどうするべきかを思案していた。表札と、おでんの問題を回避したのだから、後はどうやって手元にない宝塔のことを話すか。
できれば、世間話をして忘れたまま帰ってもらうのが一番なのであるが。
「ああ、そういえば星よ。噂で妙なことを聞いたのだが」
「噂ですか?」
ナズーリンが顎に手を当てているうちに毘沙門天が星を見つめ、さきほどのほがらかな表情とは違う。気温が幾ばくか下がったように感じさせるほど、引き締めた表情を作り出していた。
「幻想郷という場所では妙な事件が起きているそうではないか。それは特殊な力の持ち主や道具が引き起こしたものであると」
「……えっと、ナズーリン?」
「そうだよ、ご主人。私の情報網によれば、この世界では異変と呼ばれるものが何度も起きている。長い夜が続いた時だって、不可思議な力が働いていたんだ」
ふぅっと、ナズーリンは小さく息を吐く。
下手に知があるせいで、気付いてしまったのだ。
毘沙門天のこの話の切り出しがどこに続くのかということを。
「そう、つまりお主たちに預けてある我の宝塔も、今の状態では異変を起こす引き金になるのではないかとそういう話し合いが行われたのだ。神仏の間でな」
「その、結果というのが……先日の?」
「ああ、一度宝塔を預かり、力が漏れ出さないよう加工を行う。必要なとき、必要な量の力しか使わないようにな。そのために、我が足を運んだということだな」
宝塔から話を逸らすことができなかった。
星とナズーリンはお互い顔を見合わせて、大きく深呼吸。そして、大きく頷いてから微笑を向け合った。清々しいほどの笑みを作り、最初に口を開いたのはナズーリン。
「毘沙門天様、少々聞きたいのですが。宝塔を返さなかった弟子というのは今までに居るのでしょうか?」
「ん、なんだ? 藪から棒に」
「いえいえ、急な話だったものですから。昨日二人で相談しているうちに、妙な想像がうかんできまして」
「そうか、まあ、興味本位という意味で受け取ってよいのであれば、答えは『居る』だが……」
一度言葉を切った毘沙門天は、冷めた茶を手に取り間を計り、告げる。
その質問をしたナズーリンの本心を見定めるようにゆるりと。
「この世には、おらぬよ」
拒否した者は居る。
しかし、この世には居ない。
その答えが示すものは、拒否すれば滅びが待っている単純な結末だった。
「さあ、お主ら、預けてあった宝塔を差し出すがよい」
普通なら、ここで手早く渡すのが当然のこと。
二人とは懸け離れた存在が、所有物を返せと命令しているのだ。
それを拒否するなどありえるはずもなく、それこそ神をも恐れぬ禁忌。
「さあ……」
けれど、二人は動かない。
正座を続け、毘沙門天の瞳をまっすぐ見つめるだけでそれ以上の行動はとらない。痺れを切らした毘沙門天が三度目の要求をするより早く。
「できません」
星は、拒絶した。
はっきりと、怯える様子すらなく。
毘沙門天の表情が変わっても、しっかり前を見つめていた。
彼女たちはもう、決めていた。
宝塔を戻せと言われたら、どう対処するべきか。
「できぬ、とは?」
「そのとおりの意味でございます。私は、宝塔を預かり信仰を広げる立場にあるのは重々承知しているところ。しかし、今だけは……今だけは、お返しすることができません」
実物が、ないから。
返しようが、ないから。
物理的に、無理だから。
「いかなることが、あろうとも!」
開き直るしか、道がないから……
「ほほぅ、よくぞ答えた……先ほどの答えを聞きながら、何の迷いもなくとは見事。しかし、我に対する無礼、どう償えばいいかわかっておるな?」
「……はい、しかし、これは私の一存であり、私の失態。ナズーリンは軽い処罰を」
団子屋でなくした全面的責任があるのだから、確かに間違いない。
星は深く頭を下げ、懇願する。
だが、同じく頭を下げる者がもう一人。
「毘沙門天様、私も、ご主人と、星と同じ処罰を望みます」
「な、ナズーリン! な、なんてことを! 約束が違うではありませんか!」
「なに、そうでもないよ。私のような使い走りが一度主の信用を失えばどうなるか、火を見るより明らかだ。それならば……ご主人と道を共にするのも悪くない」
「ナズーリン……」
「そうか、よい忠義心だ」
互いを想い合う姿に感銘を口にしながらも、毘沙門天の手の中には棍棒が握られていた。毘沙門天が所有する武具で、一度振り払えば大地を両断するとも言われている。その身の丈6尺を超える棒先が、頭を下げ続ける星とナズーリンのちょうど真ん中に置かれた。
視線を向け合う二人の間を裂くようにして見せても、二人は何の変化を見せず。
「宝塔は、お主らを滅ぼした後にじっくりと探すとしよう……」
それが一度引かれるのを見て、同時に瞼を閉じた。
次にやってくるのは、どうしようもない威力の攻撃。
破壊という文字すら生易しい、命すら粉々に吹き飛ばすほどの一撃。
まさに『滅び』
来たるべき激痛を予想し身を固める二人の間に、とうとう大きく振りかぶった棒が振り下ろされて……
ゴツン……ゴツン……
「はぅっ!」
「あいたっ!」
予想以上に軽い打撃音が響き、可愛い悲鳴が続いた。
何がおきたかといえば、簡単なこと。
毘沙門天が、持っている棒で後頭部を突いた。ただそれだけである。
「うむ、見事なり。よく気付いた」
そして、二人が疑心を抱きながら見上げた先には、棒を畳の上に立て満足そうに微笑む毘沙門天の姿があった。
「あの、見事とは?」
「ふっ、騙し合いはもういいのだよ、ナズーリン。わかっておったのだろう? 今回の宝塔の回収が聖白蓮を救うための障害になるということが。事実、今回の加工は反対派からの提案でな、それを行えば我意外に宝塔の真の力を示すことなどできなくなる。お主たちの希望は成就しなくなるというわけだが、毘沙門天の弟子として今まで仕えてきた者にそんなことはできないと我が進言したら『では心から聖を救いたいと願っているか確かめろ』と言われたわけだ。それで試しにあのような連絡をしてみたのだが、いらぬ心配であったな!」
うんうん、と胸を張る毘沙門天と、いまいち理解できない二人。
そんな格差がある空気の中にあっても、熱弁は続き。
「なにせ、命を賭してまで宝塔を渡さぬと言ったのだから、もう反論のしようもあるまいて! はっはっはっ!」
「……あぁっ!」
気付いた。
耳と尻尾がぴんっと立ち、目を大きく見開いたナズーリンは、短い叫び声を上げ体を起こした。目一杯の笑顔を顔に貼り付けて。
「び、毘沙門天様もお人が悪い、そうならばそうと言っていただければよろしいのに」
「馬鹿を言うな、最初に告げては意味がないではないか」
「そ、そうですね、はっはっはっは!」
「はっはっはっはっは!」
つまり、どういうことかと言うと。
星が『無いから返せない』ことを遠回りに説明したところ、その言い回しを別な意味で解釈した毘沙門天が『聖救出のために返せない』と、間違った意味で捉えたのだ。
それをいち早く気付いたナズーリンは、ここで話を合わせるしかないと判断した。
「あの? 何か、勘違いを……こ、こらナズーリン! また、手が……わぷっ!」
「は、ははははっ! や、やったなご主人! 私たちの心意気が認められたんだ! ここは笑うしかないだろう!」
「へ、ひょ、ひょうなのれふか?」
「うむ、笑うがいい。星よ! 胸を張れ!」
「は、はははは……? はははっ?」
「はっはっはっはっは!」
「うむ、良いぞ! 二人とも、では、我は下界を堪能してから戻るとする。達者でな!」
部屋に響く威勢の良い声だけを残し、毘沙門天は意気揚々と外へ出て行く。足の方向からして、向かうは大通り。土産物屋へと向かうつもりか、はたまた腹ごしらえか。何はともあれ、確かなことは……命があるということ。
間違いなく、助かったということだ。
「はは、ははははは……はふぅっ」
「ナ、ナズーリン! しっかり! ナズーーーリーーーン!」
そして、二人の主の下で極限状態を味わったナズーリンは即座に気を失い。
星の胸の中へと倒れこんだ。
◇ ◇ ◇
「ご、ご主人、私は、生きているのだな?」
「ええ、ナズーリンもちろんですとも」
「で、ではこれは! 天国だからとか、そういったものではなく……」
「全部本物ですよ。今回ばかりは私も学習しました。そしてあなたに負担をかけていたことを反省し、償いをしなくてはいけないと」
「ああ、では、これも、これもこれも! 全部、私のチーズ!」
食卓の上に置かれた、乳白色から濃い黄色までの様々な物体。しかしそのほぼすべてが独特の芳醇な香りを発しており、中には腐っているのかと錯覚するほど匂いの強いものがある。そんな物体がナズーリンの前にいくつも置かれていた。
「ええ、たぶん。全部チーズだとは思うのですが、なにぶん知識がないもので。店の主人にどれがオススメか聞いたら、いくつも指差したものでして」
「それで、まさか!」
「はい、わからなかったので全部買ってきてしまいました。これからは能力で得た宝の収入も貯蓄分と生活費に当てますので、あなたにだけ負担をかけないようがんばりますよ」
「あぁ……ご主人……」
チーズに合わせて買ってきたのだろう。人里では珍しいワインがその横に添えられ、紅い色が無性に食欲を沸き立たせる。
「私も恥ずかしながら自分の好物ばかり揃えてみましたので、お互い遠慮なく新たな門出を祝うとしましょう!」
「ああ、そうしよう!」
星は日本酒を、ナズーリンはワインを。
各々がコップに注ぎ、カンッと高い音を鳴らして重ね合う。
そして、豪勢な料理が並ぶ食卓全体を見渡し……
「あの、ご主人?」
「はい? なんです?」
「今日だけは、おでんを私の視界に入れないで欲しい……後生だから……」
「熱々で美味しいですよ?」
「いや、美味しいとかじゃなく……」
ナズーリンは、悟った。
今後も絶対苦労する、と。
ピタゴラスイッチみたい。素敵です。
もうちょっと軽い文章でもよかったかと思いましたが、最期の展開をそえるならこんなかんじでいいのかも
星はもうちょっと空気読めwww
だけど、それをお供え物にするなんて発想するのは星ちゃんくらいです。
優秀すぎる設定と、本編のうっかりを上手く纏めていて素敵です。
ネズミとチーズは、
西欧で屋敷に小さいネズミ(マウス)が住んでいる時に、ペットのように巣穴の近くに餌をやる場合があり、
その時に置かれる典型的な食べ物がチーズだったらしいです。
人間の伝承でそう思われていた、という意味では兎と人参みたいなものかと。
しかし星、ナズを労わる前に自分への反省をしたほうがいいと思うぞw
(特におでんとかおでんとか)
いい具合な毘沙門天のボケっぷりがナイスでした。
星ちゃん真面目で優秀なのに、なんでこんなに面白い子なのwww