『あらすじ』
こいしは人間の男が廃家の井戸の底に落ちているのを偶然見つける。どうやら誰も助けに来る気配はない。
こいしは日記をつける夏休みの童子のような気分で、井戸の底での男の行動を観察することにした。
この世界にはバールなんてものは存在しない。
考えてみれば簡単なことだった。
バールとは、鉄製のくぎ抜きの巨大なやつを想像すればいい。
大方の場合、鉄の部分は赤く変色し錆びている。先の部分はレの字のようにまがっていて、蛇の舌先のように二股に分かれている。手に持つ部分は硬い樫の木のような材質でできている。
なにをするための道具かは知らない。
けれど、よく新聞で登場する場合には、バールのようなものと呼称されている。用途としてはやっぱり鈍器として、つまりは人間を撲殺するための道具としての場合が多い。人の頭よりも硬い物質でできているから、鈍器としては金属バットと同じかそれ以上に良い具合なのだろう。
ともあれ、ここで問題となるのは、社会的な認識としてバールはバールのようなものとして呼称されるということだ。たとえバールのようなものが真実バールであってもである。
だからこの世界にはバールなんてものは存在しない。
バールのようなものだけが存在する。
証明終了だ♪
こいしが気づいたのは偶然見つけた新聞にそのことが載っていたからだ。こいしは自分の無意識にしたがって情報を取捨選択するから、たとえばどうしてそう呼称するようになったのかという歴史的経緯、あるいは言語学的な見地などにはさほど興味がなかった。
ただ、人間には人間の方便があって、それはおそらく無意識にとても強い結びつきがあるように思えた。バールそのものなのにバールのようなものという言葉を用いるのは、バールそのものを凶器として見られることを防ぐ意味合いがあるのだろう。得体の知れない恐怖がバールという言葉に染みつくことを厭う気持ちがあったのかもしれない。
そんなふうに、人間の無意識と結びつけて考えていくとおもしろい。
バールのようなものに興味が湧いたのもそういった理由からだ。
こいしが地霊殿の中を探索すると、ちゃんとバールのようなものが存在した。
それで、こいしは誰にも見られていないのにちょこんと頷いた。
手触り良し。
重さ良し。
臭いもいい具合に凶器な感じ。
認識、認証、認容。
地底の世界も人間の無意識の世界と繋がっている。
こいしは普段から微笑みをたやさない少女であるが、このとき彼女の微笑み度が20パーセントほど増加したのは果たしてどのような理由によるのだろうか。
おそらくは捕食の対象である人間に対する好奇心のためだろう。
幼い好奇心は具体的行動に現れた。
すすきを剣に見立てる少年のように、こいしは今、バールのようなものを装備している。二本装備で二刀流だ。ブンブン振り回してもたいして危険はない。人のいない孤独の空間をふわふわ飛んでいるから、間違っても人間の頭にバールのようなものがぶち当たることはないといえた。行く当てもなくふらふらと飛んでいるけれど、周りに人間がいないことぐらいはすぐにわかる。無意識が教えてくれる。無意識さまの言うとおりに行動していれば間違いはない。
人間を探しているのかといわれればそれも違うとこいしは答えるだろう。こいしは人間を探しているわけではない。
こいしが探しているのは、先ほどのバールのようなものとの類比で言えば、
――人間のようなもの
を探しているのである。
ここで人間のことを考えてみよう。
人間は社会的生物であるから、社会という集団のなかでしか生きていけないとされている。孤独を愛する人もなかにはいるだろうが、そういう人も結局孤独な人というカテゴリーに属していて、そういうふうに多数派から認識されるのだから、完全に孤独な人はいない。
例外は多数派の認識からはずれた人たち。
つまり神隠しにあった人。誰にも覚られず、こっそりと存在がかき消えてしまった人たちだ。
そういう人は社会という枠組から逸脱してしまっている以上、社会的生物でなくなる。
人間が社会的生物であるという前提を是認するならば、上記の社会から逸脱した人間たちは人間であって人間ではない存在ということになる。
いわば、人間のようなもの。
人間のようなものはたとえ本当に人間であっても、人間のようなものとしてしか認識されない。
誰にとってか?
人外にとって。
例えば、こいしにとって。
そこはおそらく誰かが住んでいた場所なのだろう。
人間のようなものが住んでいた場所なのかもしれない。あるいは名も知れぬ妖怪が住んでいたのかもしれない。どうでもいいことである。今は誰にも使われなくなっていて、野ざらしのまま放っておかれたようだ。家のようなものは朽ち果ててしまっていて、いくつかの長い木の柱が残骸として横たえられているのみだ。
その横には古井戸があった。内壁が岩でできているからかろうじて形は保っている。しかし外の世界とつながっている部分は生い茂った草に隠れていて見えなかった。
そこに足を踏み入れた人間がいた。
人間は井戸のなかに落ちた。
落ちて、人間のようなものになった。
そんなところだろう。
こいしの耳には最初「おぉーい」という声が届いた。どうやら男の声のようだった。精力に溢れた男の声。若い声ではなかったが、人生の斜陽に入る前のようだ。
こいしはゆっくりと呼吸して、無意識の力を発動する。相手方に認識されない能力だ。ただこの能力は物理的に認識を遮断するわけではないから、井戸の真上の太陽をこいしの大きな帽子が覆ってしまったら、陽光を遮ることになってしまう。だからこいしは帽子をそっと脱いで、それから呼吸の音もしないように息を止めた。
そうして、こっそりと覗いてみると、その男は三十前半のようで、引き締まった体躯をしていた。体重は八十キロはあるだろうか。上半身はむきだしの裸で、褐色に染まった背筋が見えた。
一言で言えば、どこにでもいるような人里の男だった。
こいしは人間とあまり関係を持ちたくない。人間のことが嫌いなわけではないが、関係を構築することで自分の中に重力が生じる。それに人間というのは建前で生きているところがあるから、たとえ妖怪であっても目の前で認識された瞬間に、その人間の無意識を覗きこむことはできなくなってしまう。
こいしは人間の無意識に対して純粋に好奇心を抱いているのだ。
だから、こいしはその無意識の能力を使って、ときどき人家に侵入することがある。一番のねらい目は独り暮らしをしているところ。そういったところでは社会と遮断された空間で人間が人間のようなものに変容する瞬間が見れる。
たとえば、ある家ではこれ以上ないほど二重三重に蚊帳を広げて、まるで蜘蛛の巣のように寝床を確保してからでないと眠れない人がいた。朝になるとその人は何事もなかったかのように蚊帳を押入れの奥にしまって、元気に仕事に出て行って、他人とも普通に話をしていた。
また、ある家では家中の壁という壁が真っ赤に塗りたくられていて、動物の血の臭いが充満していた。すなわちその家の住人は飼っていた豚が死ぬと、まるで残しものをリサイクルするように血を抜いて、その血を壁という壁に塗りつけていたのである。動物の血液という点にほんのり自前の宗教臭がしないでもないが、よくよく観察するとどうやら生理的に落ち着くというのが理由の大部分らしい。普通の人間なら思わず顔をしかめてしまいそうな悪臭であったが、その住人はたとえようもない安らぎを得ているようであった。アロマの香りにでも感じるのだろうか。彼女は(驚くべきことではないかもしれないが女だった)外に出れば普通の人と変わらず、番台の仕事をしていた。ただじっと座っている姿はもしかすると外の世界にこそ嫌悪感を抱いており、必死に耐えている姿なのかもしれなかったが、いずれにしろこいしには知りようもないことだったし、こいしが知りたいのはただ外面上現れる奇形な行為だけである。番台での彼女はただの人間に過ぎなくて興味が湧かなかった。今でも彼女は犯罪を犯すこともなく、普通に生活しているはずである。
また、ある男は家の中では裸になって、たえずブリッジの格好で移動していた。なぞめいた行動だった。乙女心にちょっぴりダメージ。もちろん彼も家の外では服を着て二足歩行をしていた。
このように多かれ少なかれ、人は独りになるとわずかばかり社会という枠組からはずれた行動をするらしい。これはべつに必ずしも反社会的行動に限られない。ただ人の目があればあえてすることはないという意味で、抑圧された行動というふうには言えるかもしれない。無意識から直接的に導かれる行為だ。仮にその行動の意味を問うても誰も答えられないだろう。
けれど、そもそもこいしには意味を問う気持ちはなかった。人の秘密を握って脅そうとか、そういう二次的な使い方を考えたこともない。こいしにとってはあくまで無意識を窃視することが至上の命題だったのである。
無関係という距離感のなかで誰にも知られることなく相手を観察する。それでこいしのおなかは膨れるわけである。それをある種のアナロジーとして、恋と言い換えてもよいかもしれない。こいしは恋することで、食事を摂っている。
今回もそうだ。
こいしは井戸のなかの男に興味を抱いたが、助けようという気は起きなかった。
持っていたバールのようなものをそこらに投げ捨てて、思わず見入ってしまうほどの好奇心が湧き、男の生命の危機なんてとてもたいしたことのないように思えたからだ。ありていな言い方をすれば、好奇心に支配されて周りのことはまったく見えなくなっていたのである。
いや、正確に言えば、薄々わかってはいたけれど、実感が湧かなかったし、やっぱりこいしにとっては無関係な事柄であったし、無関係なままでいたかったというのが本当のところだろう。
男には見たところ外傷がないし、しばらくは死ぬこともなさそうだったので、こいしはひとまず地霊殿に帰ることにした。
2
「手を洗いなさい」
地霊殿に帰ると、こいしが姉のさとりに言われるのは決まってこの言葉だった。
手を洗うことで、地上の穢れから解放されると思っているのだろうか。
あるいはそういった穢れからできるかぎり遠ざかっていたいと、さとりは考えているのだろうか。
こいしは、ひとまず手を洗った。
食卓にはこいしの分も並べられており、さとりとは対のほうに座った。横に五人は座れるくらいの長いテーブルだ。つまり、さとりとの距離感は人妖五人分ということになる。その距離感は長年の経験に基づいて形成されていったものなのだろう。こいしもさとりもある程度の傷を負って、ようやく見出された距離感だ。居心地は悪くない。わずかながら空虚な感覚を覚えはするものの。
カチャ。カチャ。
金属質の音がする。スプーンと皿がキスをする音だ。しばらくスプーンをもてあそんでいた。
そして、こいしは不意打ちのように顔を上げた。
「お姉ちゃん」
「なんですか?」
「人間って飲まず食わずでどれくらい生きられるのかなぁ?」
「人間にとっては水が重要です。水がなければ一週間ほどで死んでしまうでしょう。水があれば場合によっては一ヶ月ほどは生きられます。しかし、なぜそのようなことが気になったのですか?」
「んー。ただなんとなく」
「そうですか」
沈黙。それからスプーンとフォークのカチャカチャ鳴る音だけが響く。
こういった揺らぎのないBGMを聞きながら、さとりの物憂げな顔を見るのも悪くない。
「ねえ。お姉ちゃん」
再びこいし。
「なんでしょう」
「例えば、道端で死にかけている人間がいて、その人を助けなかったら殺人になっちゃうの?」
「必ずしもそういうわけではありませんね。不作為――つまり、行為をしないことに責任を問うと、処罰対象が広がりすぎてしまうでしょう。だからなんらかの限定を加えなければならないとされています」
「限定って?」
「こいしにわかりやすいのは先行行為とかでしょうね。例えばなんらかの過失行為で怪我を負わせた人を放っておいて死なせた場合などですが……。まあほとんどの場合は過失致死となるか、特別法で処罰されるので、殺人になるのはよっぽどの場合でしょうね」
「じゃあ無関係の人が死にかけの人を放っておいてもいいのね」
「法律的には問題ないところですが、倫理的にはよくないでしょうね」
「どうして助けないといけないの?」
「同族だからでしょう」
「じゃあ片方が妖怪で片方が人間だったら?」
「その場合でも助けたほうがいいのではないでしょうか」
しばらく考えたあとで、さとりは言った。
「どうして?」
「どうしてでしょう。たぶん見殺しにすることが嫌だからだと思いますよ。善いとか悪いではなくて、死んでいくのをただ黙認するのはあまり気持ちのよいものではありませんから」
「それはお姉ちゃんが優しいからでしょ」
「優しいというよりは、そういう趣味なのでしょう」
「そういう趣味の人は多い?」
「一般的に言えば、無関係でありたいと思う人もかなりの数がいるとは思います。人を助けるというのは少なからず労力を伴うわけですし、他の誰かがしてくれるのならあえて自分がするまでもない。面倒くさい。などと考えてしまうこともよくあることですよ」
「ふうん。そうなんだ」
「けれど、そういった自分の被る不利益がゼロの場合、大多数の者は他者を助けようとすると思います。統計を取ったわけではないですが、それにそういった特殊事例に統計がどれほど効果があるのかもわかりませんが、私は今述べたような『善意の人』は多いと考えているのですよ」
「自分が不利益を受けないなら助けてもいいって人は多いってことね」
「そうです。と、いっても、それもまた私の信念に過ぎないわけですが……」
さとりは自省的な笑みを浮かべる。
こいしも釣られて笑った。いや、それはいつもの微笑だったのだけれども。
3
次の日、男はまだ生きていた。
地獄の底から響くような獣のような唸り声が聞こえてくる。
男は壁を殴りつけている。
井戸の壁面は男の血で紅く染まっているのかもしれないが、角度的な問題でよくわからない。もしかすると、夜が更けるうちには自分の力で脱出していることもあるかもしれないとは思っていたが、そうはならなかったらしい。男が自力で這い上がられるのなら、それでもよいとは思っていた。虫かごの虫を一晩放置して、逃げてもいいけど、逃げていなかったらまだ楽しめるというようなそんな恋にも似た心境である。否――恋そのものである。
これ以上ないほどに悪趣味ではあるが、しかしこいしの気持ちは純粋だった。
こいしの主観はどうであれ、現実的に見て、石がレンガのように綺麗に組まれた井戸は、足をひっかけるところもなく、空を飛べない人間ではどうしようもないらしい。
口で小さく息をする。溜息が漏れないようにそっと息を吐く。
男は一通り怒りを撒き散らしたあと、今度はすすり泣きをはじめた。
なぜ自分がこんなところに落ちなきゃいけないんだ、といったことを口にしはじめる。ぶつぶつと呟くように言っていて聞き取りにくいが、それも当然のことだろう。彼の言葉は誰かに聞かせるためのものではなく、抑圧されない感情が社会というフィルターを通すことなく発露しているのだ。いわば、無意識がダイレクトに表に出ているのである。
こいしの微笑度が45パーセントほど上昇する。
なんて愛らしくて、なんてかわいらしいのだろう。
こいしの中に生じたのは、男の命を擬似的に支配していることに対する優越感であるのかもしれない。ただ、こいしは男に早く死んでほしいと願っているわけではない。ギロチンで王様が処刑されるのを待ち焦がれる民衆のように、他人の苦痛を悦楽に変えているわけではない。こいしは単純に、人間のようなものの無意識的な行為が好きなのだ。
好きで、好きで、好きすぎて、大好きで、ぎゅっと抱きしめたいけれど、抱きしめてしまうと壊れてしまうから、そっと、そっと、そっと、見守る。
見守って、見続けて、そして対象が結果として死んでしまっても、それはそれでしかたないといったような気持ち。
だって、こいしと対象はいつだって無関係なのだから。
対象はこいしを知覚すらしていないのだし、知覚されていないのなら、存在していないのと同じなのだから。
4
「手を洗いなさい」
「はーい。うぉしゅうぉしゅ」
土と草のにおいがとれるまで石鹸でよく洗った。
テーブルに着席。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なんですか?」
「お姉ちゃんは私が死んだら悲しい?」
「それは当たり前です」
「ふうん」
「なぜ突然そんなことを聞くのですか?」
「よくわからないよ」
「よくわからないのに聞いたのですか? 変な子ですね」
「そうだね。私もそう思うよ」
カチャカチャ。
ナイフとフォークがダンスを踊る。
今ごろ、男は飢えているだろうか。水は井戸の底にわずかに残っていたかもしれない。そうでなければ落下の衝撃で死ぬだろう。汚水でなければある程度は生きられるだろう。そこには冷酷な感情はまったくといってない。ただこいしの意識の外側が好き勝手に計算をしているだけだ。こいしの自我は無数の意思がインテグレートされることで構成されている。こいし以外の生物もおそらくそうであるのだろうが、こいしの場合は統一された自我というものが存在しない。中心核が存在しない星のようなもの。ふわふわと漂う浮島のようなもの。
どうしてそうなったのか誰にもわからない。
ナイフとフォークが手のうちで勝手に踊っている。誰がその様子を眺めているのだろう。
「楽しいね、お姉ちゃん」
「なにがですか?」
「いっしょにお食事するの」
「ええ、そうですね」
5
男は神に祈っていた。
知っている神の名前を羅列して、助けてくれるように懇願している。
しかし、人間であるならまだしも人間のようなものの声を聞いてくれる稀有な神様が近くにいるとも思えない。もしも、こいしが呼んでくれば、たとえば神社であった神様あたりなら助けようとするのかもしれないが、多神教の神は全知全能ではないのだから、知覚されない人間のことまで気にかける余裕はないのだろう。
神。怨み。神。呪い。
どこかで計算しているかのように、きっちりとフィフティフィフティにわけられた言葉が男の口からこぼれだしていた。まるで蛇口の壊れた水道管のようだ。だが考えてもみてほしい。いくらこの場所が妖怪の跋扈する山の中であるとはいえ、人里の人間が誰ひとりとして近くに来ないというのもかなりの異常事態なのである。普通だったら(多数派だったらという言葉のほうを使ったほうがいいかもしれない)人里の人間が行方不明になれば、形だけでも探しにくるはずである。社会との関係が強ければ当然数も多いはずである。井戸の場所は人里からはさほど離れていない。それなのに誰ひとり探しにこないということは、男がもともと人間ではなく人間のようなものだったということを示唆している。こいしが能力を使えば、男の情報を里から入手するのはさほど困難ではないだろう。けれどわざわざそんなことまでする必要はない。推測すれば、男はたぶん孤独で、一人暮らしをしていて、誰とも会話をしない、そんな生活を送ってきたのだろう。
そして男を助けにくるものはいないということになる。
そこまでこいしのどこかが考えて、ひとまずフフとかわいく笑った。
こいしは持ってきたおむすびの包みを開けて、お昼ご飯を食べることにする。さとりが手ずからつくってくれた愛姉弁当である。おいしい!
そしてふと井戸のほうへと視線をやる。
もし、このおむすびをころりんと投げ入れてみたらどういう反応をするのだろう。
それは甘い誘惑である。『もしそうすれば』というのは好奇心にとっては抑え切れない衝動だ。それは学問的に緻密な研究を重ねるよりも本能に根ざしていて、回避することはほとんど不可能に近い。胸のあたりをかきむしりたくなるほどの恋焦がれ。こいしは胸のあたりをぎゅっと押さえて我慢した。
小さく息。
荒い呼吸を整える。
衝動は波のように引いては押し寄せてきたが、わずかずつだが収まっていった。それは無関係を貫きたいという意志のほうが強かった結果である。
ご飯を食べたあと、こいしは首の骨をぱきぱきと鳴らして、肩をぐるんぐるんとまわし、それからスナイパーのように定位置についた。
井戸の底にいる男は数日前とはすっかり様子が変わっていた。
髪の毛はまるで数年間洗っていないかのようにぼさぼさになって、狭い空間のなかで何度も脱出を試みたのだろうということをうかがわせる。ヒゲが伸び放題なのはよくあることだ。不精をしている男がテラリと光る剃刀である日突然ヒゲを切っているのを見て、驚き興奮したこいしはしばらくその男のもとへ通った。それでだいたい日にちょっとずつ伸びるということを発見したのだ。井戸の男の場合、一番変わっていたのは、普段ならほとんど変わりそうもない顔つきだった。まるで別人のように、目はぎょろりと天頂を見つめていて、こいしとは目が合っていないはずなのに、臓腑のあたりがわしづかみにされる感覚を与えてくる。頬の筋肉はなぜか緩んでいて、ひきつった笑いにも似た表情をしていた。
笑っているのは、絶望しているからではないし、楽観しているからでもない。
これも推測になるが、おそらくは笑わざるを得ないのだ。そうするしか男には残された表情はないのだ。哀しんだり怒ったり恐れたり、男は十分にめまぐるしく表情を変えていったが、いずれも状況を打開しなかった。だから男はもう笑うしかなかったのだ。これがもう少し進むとどうなるのだろう。最後には無表情になるのだろうか。それとも井戸の側面にこびりついたコケのように、にやけた笑いのまま死んでいくのだろうか。
興味はつきない。
こいしは少し休憩するために、はいつくばった姿勢のまま後退した。
服は土だらけになってしまうがしかたない。
今度は汚れないようにビニールシートでも持ってきたほうがいいかもしれない。いや――そうすると、好奇心の強い妖精に見つかってしまうかもしれない。自分だけの居場所にしておきたい。こいしは汚れることを選択する。さとりにはあまりいい顔をされないが、たいしたことではない。至福の時をできる限り長く引き延ばしておきたい。そのほうがこいしにとっては大事だ。
それにしても、男の顔は短期間でずいぶんと憔悴しているようだった。体力的にはまだ問題ないはずだと想像していた。男の体は筋肉が盛り上がっていて、エネルギーをたくわえている。水は井戸の底に残っている。ザバザバという音がこいしの耳にも届くほどだ。ただ溺れるほど多いわけでもない。
絶妙な分量というべきだろうか。
もし男が十分に慎重に使えば――例えば自分の排泄物である程度汚すことになっても、上澄みの綺麗な部分だけを飲んで生き延びることができるだろう。
今になって思えば水に濡れて体が冷たくなってしまうことも危惧すべきことがらであったが、どうやら水は男の足元ぐらいまでしかなく、体温が下がるほどではないようだ。ただ、夏とはいえ、夜にはずいぶんと鋭い寒さが襲う。こいしや妖怪ならまだしも、人間であれば凍死ということもありえる。男がしきりに動いているのも、もしかすると寒さを感じているせいかもしれない。井戸のなかで何度も登ろうとした結果か、男の着ているものは濡れて、ほとんど肌が透けてしまいそうなほどだった。濡れたままでいるのはよくないと聞いた覚えがある。けれど助言をすることもなく、結局そのまま見続けた。
男の体力が急速に低下した理由は、すぐに明らかになった。
男はいきなり胃の中のものを吐き出したのである。
あまりの突然の動き。
まったく予想のできない身体動作。
前振りのない行動は、こいしにとってはお手の物であるが、そんなこいしであっても少しは驚いて、「きゃ」と小さく声がこぼれたほどだ。
心臓が跳ねた。
気づかれたかもしれない。
ドキドキ。
ドキドキ。
恋をしている気分。
ドキドキ。
ドキドキ。
だが、男は気づかなかった。
さすがに吐いている最中に周りの物音に気づくのは難しかったようだ。
ほっとした。
しかし、これでわかったことであるが、どうも人間というものは、心理的な弱さが身体的な不調につながるらしい。
過度のストレス。
死の恐怖。
わずかな時間で胃に穴が空くほどの――。
あまり見ることのできないレアな現象だった。
こいしのドキドキは止まらない。
楽しい!
見ていて飽きない。
男が苦痛に喘いでいることに、こいしはまったく罪悪感というものを覚えていない。人間は人間にすぎないし、妖怪は妖怪だ。両者は無関係なのだ。さとりは助けるほうが倫理的に良いとか、趣味として助けるとか言ってたけれど、こいしはそんな趣味はもっていない。
人間は覚り妖怪にとって、いや――こいしにとって、勝手に生きて勝手に死ねばいい、そんな存在だ。
ただ、そのめまぐるしく変わる行動に、万華鏡を見ているような楽しさがあって、画面の向こう側の世界が見ていてとても楽しいのだ。無上の満足感があるのだ。
男の苦痛、死、不幸、そんなものに共感しているわけではない。
男の苦痛、死、不幸が伝播しないことを確信しているから、こいしの微笑度が上がるわけでもない。
無関係に見てるだけ。
ただ見てるだけ。
見てるのが楽しいから見てるだけ。
こいしは男をひとつの人格として捉えていないのだ。だから罪悪感なんてものが湧かないのも当然である。
マダシナナイカナ。
ちょいと頭を捻りつつ、こいしは再び地霊殿に帰ることにした。
6
「手を洗いなさい」
「お姉ちゃんは綺麗な私が好きだもんね」
「まあ、汚い子よりは綺麗な子のほうが好きですよ」
夕飯を食べて、お風呂に入って、それからこいしはさとりに近づいた。
「ねえ。お姉ちゃん」
「ん、どうしました?」
さとりはまだ公務についていて、なにやらやっていた。まあどうせこいしにはわからないことだし、あまり興味のあることではない。
さとりは机の上に見ていた書類を放って、こいしと視線を合わした。
こいしはニコリと笑う。
「仕事忙しい?」
「ええ、まあ。いつもどおりですよ」
「あのね。私、お姉ちゃんと今日はいっしょに寝たいって思ったの」
「珍しいですね」
「珍しいかな?」
「ええ。こいしの寝顔がどんなだったか忘れそうになるほどですよ」
さとりは微笑みを浮かべて立ち上がった。
こいしはすっと手を伸ばした。さとりはその行動の意味を『推測して』手を伸ばし返す。
こいしはさとりの手をとった。
ベッドのなかにもぐりこむ。
ふんわりベッド。
白いシーツ。
そばにお姉ちゃん。
こいしの中の誰かが考える。あの男はどうやって寝ているのだろう。
興奮と恐怖で寝ていないということも考えられたが、さすがに限界があるだろう。
男が井戸の底に落下してから、もう一週間が経過する。その間まったく寝ていないというわけではあるまい。こいしが観察しているときに男が寝入っている様子はなかったが、寝ている様子も一度ぐらいは見ていたほうがいいかもしれない。それなりに楽しいかも? いやどうなのだろう。こいしが見ていて楽しいのは外形上わかりやすい行為であって、眠っているときはほとんど動きがないに等しいから楽しくないかもしれない。
だが――
一度ぐらいは、
見ておこう。
こいしの心境は、たいして興味もないのに、思わず祭りのときに高いお金を払ってまで綿菓子を食べたくなる気持ちに似ていた。綿菓子ぐらい、地霊殿の財政にあやかれば、毎日何百本でも食べられるしろものである。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃんは綿菓子って好き?」
「よく意味がわかりませんが、それなりに好きですよ」
「わたしも好き」
味なんてほとんどしないけどね。
こいしは心の中で独語して、
それから、おやすみと言って、
会話の無い世界へ逃げこんだ。
7
男はまるで寝ているようだった。
死んじゃった?
と思ったが、大きく息をしている。
じゃあ寝ているのかな?
こいしは思ったが、そういうわけでもないらしい。時々思いついたように壁を殴りつけようとして、しかし途中で失速して、結果として壁をなでるような動作をしている。
男の様子は諦観に支配されているように見えた。
それから、こいしが数時間かけてじっと観察していても、男はさしたる動きを見せなかった。
もはや何をする気力もないらしい。
限界が近づいているのかもしれない。
肉体よりも早く精神が死にかけている。
これといってドキドキはしないが、しかし楽しくないわけではない。そういう無感動に支配された行為も、それなりに趣きがあって、侘びとか寂びとかがあるような気がする。
こいしは一人納得して、ウンウンとうなずいた。
今日は長丁場になりそうだ。
地霊殿に帰るのもやめて、しばらく観察を続けよう。
ずっと同じ姿勢のまま、こいしは男の観察を続けた。
日は天頂近くを指し、井戸の中の水は陽光を反射してテラテラと光っていた。こいしがいる地上はうだるような暑さだが、井戸の底はどうなのだろう。水が蒸発しないところを見ると、あまり暑くはないようだ。
男は日の光を浴びて、わずかに身じろぎした。まるで光線で焼ききれてしまうのを恐れているみたいに、手を上部へとかざし小さく呻き声をあげている。わずかな刺激でも今の弱りきった男にとっては、槍のような痛みを感じるのだろう。
夜になると、急に肌寒さを感じた。
こいしは休憩するために例によって匍匐の姿勢で後退し、ころりと仰向けになる。
いつのまにやら夜空には満天の星空が出ていて、こいしはアッと息を呑んだ。
これも綺麗。
あれも綺麗。
星をひとつずつ数えていく。ずっと近くを見つめていたから、遠くを眺めると目に心地いい。
それから十分ぐらい休憩したあと、再び定位置につく。
男は寝ていた。
どうやら井戸の中も完全にまったいらというわけではなくて、端のほうに少しだけ出っ張っている部分があるらしい。そこに腰掛けるようにして、それでも臀部がわずかに水につかってはいたが、なんとか安楽の格好を確保できる。ちょうど体育座りに近い格好だった。
体を横にしてしまうと水に全身が浸されるから、ギリギリ妥協できる姿勢だったのだろう。男はその姿勢でも二度と起き出さないと思えるほどに深い眠りに落ちていた。
お姉ちゃんも今ごろは寝ているかな?
こいしの一部が考える。
帰ろうか?
さとりはエントランスホールでこいしが帰ってくるギリギリの時間まで起きて待っている。そのことをこいしは知っている。
ズキン。
心のどこかにダメージがあったように感じた。
たぶん、気のせいだろう。
こいしにとってはさとりも男も、ただの画面の向こう側の存在のはずだから。
朝になると、男は石を手にとっていた。
井戸の底に沈んでいた石と、それよりもさらに小さな石を取って、なにやらしている。
どうやら、細い石のほうで指に傷をつけて、血で石のうえに文字を書いているらしい。
こいしはいっそ感心すらした。
人間というのはどこまで『自分』というものを残したがる存在なのだろう。
その爆発的エネルギーは超新星の爆発に匹敵する。
ドキドキ。
再びこいしの心臓がロックなビートを刻む。
どんなことを書いているのだろう。知りたい! 早く知りたい!
やきもきする前に、すぐにこいしの希望は叶った。
男は石を井戸の外へと放り投げてきたのだ。こいしはすぐさま石に飛びついた。
そこに書かれた文字を見る。
私の名前は×××といいます。
どうやら私はここで死ぬようです。
私には家族も仲の良い友もいませんでしたが、ただ一人の肉親に姉がいます。
姉とはずいぶん昔に仲違いしてしまい、それから疎遠なまま今に至ってしまいました。
どうか私が死んだあとは、私の持っている土地とわずかな蓄えはすべて姉に譲るとお伝えください。
かすれていてほとんど判読はできないが、なんとか読めなくもない。
血で書かれてあるから、おそらく雨でも降ればすぐにわからなくなるだろう。そういう冷静な判断能力も男には失われているということなのかもしれない。いやあるいは、単純に何かを残したいという気持ちが爆発した結果なのだろう。爆発に理由をつけるほうがまちがっている。
こいしは、男の遺書をそこらに放りなげて、男の観察を続けることにした。
8
もう男は動かない。
9
10
もう死んだのかもしれない。一種のやりとげた達成感とけだるい疲労に満足しながら、こいしは立ち上がる。
そのとき、
「……ちゃん」
かすれるような声が男の口から漏れた気がした。
気のせい?
こいしは注意深く耳を傾ける。
何度も同じ言葉を口にしているようだ。
ドキドキ。
ドキドキ。
最期の言葉はどんなだろう?
さあ、早く!
「お姉ちゃん。助けて」
男は言った。こいしの耳にもはっきりと聞こえた。
その途端、こいしはショットガンを至近距離で浴びたように後ずさった。ほとんど反射的にとびのいたと言ってもいい。
こいしの顔に混乱が浮かぶ。微笑度も78パーセントダウンだ。
どうして――、
こんな30に近い男が、姉に助けを求めるのだろう。こんな肉体的に完成したたくましい男がどうして『お姉ちゃん』に助けを乞うのだろう。
いっそ笑えるぐらい情けないことじゃないか。
こいしの一部がそんな声をあげる。
いや、こいしの多数派は、そんな思考をつむぐことすらできずに黙っていた。痛いほどの沈黙が心のなかで嵐の目のように覆っていた。
一瞬で押し寄せる罪悪感。
無関係でいたいという気持ちが必死になって防波堤を作ろうとしている。
こいしは――、
帽子をかぶって、
唇をきゅっとかみしめて、
あたりをきょろきょろとうかがって、
それから、
――なぜか近くに捨てられていたバールのようなものを見つけた。
二本ある。
こいしはほとんど無意識にバールのようなものを井戸の中に投げ入れた。
どうしてそうしたのか、こいしのなかの全ての人格は理解できない。なぜならその行為は明らかにこいしを逸脱していたから。
「誰かいるのか」
男は残された力を振り絞って声をあげる。
こいしは答えない。
今のこいしの心境をできるだけ言語化するなら、『いまさら』という言葉に収斂された。
いまさら男を助け出してどうしようというのだろう。こいしはいますぐ地霊殿に帰って眠りたい気分だった。目を塞いで、なにも見たくない。なにも見ないで帰りたい。
お姉ちゃんに手を洗いなさいって優しく言われて――
それからいっしょに寝るの。
こんな不快感は久しぶり。
いつ以来のことだろう。思い出せない。
ガツン。ガツン。
下のほうから響くような音が聞こえてきた。
放心しているこいしの耳にもしっかりと届く音だ。
男は力強くバールを握り締めて、二本のバールを石の間に突き入れて、井戸を登りはじめたのである。
こいしはそのまま結果がでるのを待った。
五分だろうか、あるいは二十分ぐらいはかかっただろうか。
男はついに井戸の縁に手をかけることに成功した。
こいしの姿は無意識に溶かされて見えないはずだ。こいしは男の顔を見つめる。精悍な顔つき。服ははだけ、髪もヒゲも臭いもひどい有様だったが、こいしは自分が感動に満たされていることを自覚することができた。
男は一匹の野獣のように、勝利の雄たけびをあげた。
普段草木に隠されてるが枯れること無く存在していた、なんて考えた。
男に移入してしまって胃が痛くなった。認識されないって怖い。
ラストはさとりんの努力が報われた感じがして良かった。
興味は尽きません。
若しかすると、私と同じ学問を信奉した徒輩であったのやもとの空想も禁じ得ません。
驚嘆すべきは、それを実に見事な昇華――イドから芸術的作品へと置換――をさせる、
あなたの才腕に於いてであります。
この様な傑作を拝読させて戴きまして、本当にありがとうございました。
心からの謝意を申し上げます。
描写が克明すぎず杜撰すぎず、読みやすい分量だった。
観察者が観察対象を意識した瞬間、観察者の視点ではいられなくなると思うと色々考えるものが。
こいしちゃんマジ無意識の彼方だわ
とか勝手な解釈も出来て楽しめました。
鳥肌ものです。このお話に出会えた事、及びその作者に感謝
いろんな解釈が出来そうだけどそんなことがどうでもよくなるくらい衝撃的だった
今回も面白かったです。こいしちゃん可愛くて怖くてマジ無意識。そしてまさしく無意識を感じる地の文が素晴らしい。
こないだもどっかのWeb漫画で見た気がします
男の全てはこいしちゃんのイドの真実を表していた
そう考えると悲しくなります
いつか誰かが彼女の心にバールのようなものを投げてあげられるといいのですが
イドの駄洒落じゃなくて、こいしちゃんは
なんちゅーかガチで超空気作家まるきゅーさんの独壇場な気がする。
途中は無表情。最後は、つまり今は忘我という感じ。キーを打つ手が冗談抜きに震えている。何だこれ。
この話が、そしてこれを話とし得たこいしという存在が好きだ、そーとしか言えない。
なるほど男がこいしちゃんのイドを表してると考えると妄想が止まらん
どうもありがとう。
それを自分でしていることに気づくかどうかはてさて
井戸の底の男というのは、こいしの無意識の権化というありきたりな読み方しか出来ませんが、それだけで満足に面白い話でした。
怖いはずなのになぜだか面白い素晴らしい作品でした
素晴らしいお話でした。
一番最後の、"男は一匹の野獣のように、勝利の雄たけびをあげた。"この一文に胸を撃ち抜かれました。
遺言もどこかに放ったらかしたりね。こいしちゃん酷い。でもだからこそこいしちゃん。
面白かったです。ハッピーエンドなのも良かった。
お姉ちゃん の一言がこいしの過去を少し彷彿とさせた
そして、こいしに感情移入しちゃう読者も怖えぇ。