Coolier - 新生・東方創想話

衣玖と黒電話

2010/09/04 23:42:52
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 目の前には黒い箱がある。
 私の番号は100.001.19だ。
 『天界』の局番である100、その一番最初に設置された機器だから001、私の名前を表す19。8桁の数字は私がこの箱の所有者であることを示した。
 床に置かれた「幻想郷で最初の電話」の前に私は正座をしている。
 私はダイヤルに指を伸ばした。

#

 呼び出し中の電子音が5回、通話相手が受話器を取った。私は呼び掛ける。
「もしもし」
 返事はない。
 相手は一瞬、戸惑ったようだった。ただ回線で繋がれた先の、部屋の空気が僅かな音と吐息になって伝わってくる。
「――総領娘様? 」
「なによ」
 不機嫌な女の子の声だった。
 私はそれを聞いて無性に嬉しくなる。
 電気機器と通した彼女の声はいつもよりも少し低く聞こえた。けれどもそのぶっきらぼうな口調は間違いなく比那名居天子その人のものである。
 私は幻想郷で最初の電話による、最初の通話が成功したことを確信し、続いて最初の会話をする為に口を開いた。

「衣玖です。永江の」
「分かるわ、そりゃあ衣玖でしょうよ」

 総領娘様の指摘は当然だった。だって、今日の昼間に彼女の私室に黒電話を設置したのは私なのだから。
 私は口を開く。誰も居ない部屋で機械に向かって話すのは愉快な気分だった。
「電話では最初に名乗るものだと思うのです。誰が出るか分からないと不安でしょう」
「でも、声で分かるもの。もしもしって言った時、すぐ衣玖だって思った」
「そうですか。私はちょっと不安になりました」
 総領娘様が返事をして下さらないから。
 そう言うと彼女は普段の調子で話し始めた。声の硬さは大分和らいでいた。
 ぎしりという音がした。彼女の寝台が沈んだ音だろうか。
「だってびっくりしたのよ! 黒い箱が急に鳴るから。音が凄く大きいのよ。昼間にあんたが言っていた『受話器を取る』っていうのもよく意味が分からなかったし。相変わらず説明が下手ね。……つまり、これが電話の効果というわけね」
「はい。概ね、外の世界で普及しているものと同等の技術になっているようです」
「もしもし、ってどういう意味? 」
「電話における挨拶です。相手が聞こえているか確認する呼び掛けですね」
「なんか変な感じだわ」
 彼女は小さく笑った。
 電話での通話は自然と相手と交互に話すような形になる。相手の姿が見えない分、声に意識が集中する。私は目を伏せて総領娘様のことを考える。空色の髪の女の子。彼女の寝台のすぐ脇に設置をしてきたから、寝そべっていたのなら吃驚して跳ね起きたのだろうか。大きな音に戸惑い、恐る恐る受話器を取ったのだろうか。
 彼女はいつも退屈している。黒電話が少しは彼女の興味を引いたらいいのだけれど。
「いま、何をしていらっしゃいました? 」
「もう寝ようかと思っていたところよ」
「やっぱり」
「え? 」
「今。寝そべったまま電話しているでしょう」
「……なんで分かるの? 」
「分かりますよ」
 込み上がる笑みを抑えて私は言った。彼女は電話の仕組みが分かって、すっかり安心したようだった。聞きなれた私の声に気を許し、警戒を解き脱力して会話している。声しか聞こえなくても私にはその光景が目に浮かぶようだった。
 反撃のつもりか、彼女はとりすました声で言った。
「衣玖は、まだ寝ないのね」
「ええ」
「化粧は? まだ落としていないんじゃないからしら? 」
「はい」
「お酒を呑んだ? 」
「呑んでいませんよ? 」
「変ね。あんたの声が随分浮付いて聞こえたけど」
 愉快な気分だというのは当たっている。けれどもそれは私が酔っているからではない。
 こんな他愛もない会話を私はいつも以上に楽しんでいた。
 居心地良い空気を満喫していると、不意に数秒の沈黙が降り立った。もとより、私と総領娘様が何か有益な話をするということはあまり無い。話題はそのうちに途絶えてしまった。
「衣玖。わたし、そろそろ寝るね」
「そうですか。夜分に失礼致しました」
「まぁまぁ楽しかったわ。じゃあね」
「おやすみなさい、総領娘様」
 ぷつりと通話が途絶えて、無機質な電子音が流れた。私はそれを数度聞いてから、ゆっくりと受話器を置いた。

 まるで彼女と顔を突き合わせて話しているみたいだった。
 驚くほど、心が高揚しているのを自覚する。
 私は暫くそこから動くことが出来なかった。
 部屋は相変わらずしんと静まり返っていて、冷えた夜の気配が辺りを包んでいる。
 会話で得た熱が引いていくのを感じた。
 私はようやく現実に帰ってきた気分になる。

 そして、彼女に指摘されたからというわけではないが、とりあえず化粧を落とそうと立ち上がった。

#

 山の河童は産業革命の重要性を私に説いた。
 山に棲まう神々へ龍神の言葉を届けた帰りのことだった。
 外の世界の技術をどんどん取り入れれば幻想郷はもっと便利で楽しいところになると彼女らは熱心に語る。
 私は単純にそうかもしれないなと思った。
 技術的な事は私にはさっぱり分からないが、少なくとも外の世界から持ち込まれたものを改造したという黒電話の仕組みは素晴らしいと感じた。私の持つ雷の力を動力として提供するのもやぶさかではなかったし、実験的に天界に電話器を設置するのも請け負った。
 河童の技術者が言うには天界の方が地上より人口が少ない分、試験地として向いているらしい。将来的にはもっと台数を増やして幻想郷の各所に設置する計画なのだそうだ。

 私は件の黒電話についての感想を求められ「すごぶる良い」と答えた。
 河童は二、三質問を繰り返すと興奮した口調で、実験が順調である事を感謝するのだった。

 以来、私はときに総領娘様と電話をし、彼女と短い時間話すようになった。
 毎日はしない。
 私と総領娘様は電話などせずとも日中一緒にいることも多かったから、そういう日は改めて電話で話すことも無かったのだ。
 電話は二人が会わなかった日の夜にする。
 いつもかけるのは私からで、総領娘様からかけてくることは決して無かった。

 かけて下さればいいのに、と何度も思った。
 でも、総領娘様はそういった付き合いを恥じらう方だから、それできっと自分からは出来ないのだろう。
 私が電話をかけると、総領娘様は決まって3回の呼び出し音で出た。何度やっても彼女は「もしもし」という挨拶にくすぐったそうにして、私の質問にぶっきらぼうに答える。大した話はしなかったけれど、私はそれをとても楽しみにしていた。
 本当は私も電話をするときは緊張しているのだと思う。相手の姿が見えないから、いつも以上に細かく声を聞き、彼女の纏う空気を逃さないようにしなければならない。

 私はいつも独りで雲間を泳ぐばっかりで、そうしていると感情が鈍る一方な気がしている。
 ――ダイヤルに指を伸ばす瞬間のあの鼓動。
 ちゃんと私はまだ心を揺らしていると確かめることが出来るのだ。
 私はここに居るのだと。

#

『……もしもし、衣玖? わたしよ。天子。 』
「ええっ総領娘様?! 」
『ちょ、なんで驚くのよ』
「だって総領娘様からかけて下さるなんて」

 明日には槍でも降るのだろうか。
 私の声は喜びに跳ねる。最近では彼女からの電話なんて期待してなかったし、この着信も大方河童の技術者からの連絡か何かだろうと思っていたのだ。総領娘様は途端に不機嫌な口調になって言う。

『あんたが電話してこないからわたしからかけてみたの。二回しても出なかったから諦めようかと思ったわ。っていうかすぐに出なさいよ。わたしがわざわざかけてるんだから』
「申し訳ありません。少々家を空けていたのです」
『それは分かってたわ、今日まで仕事だったんでしょ。観察……だっけ? 』
「ええ」
『それにしたってあなた、夜中にならないと家に戻らないのね。どうせ家でも料理したりとかしないんでしょう。また面倒~とかいって。まったく、枯れ過ぎよ衣玖! 』
「えー、でもですねぇ」
 それを言われると痛い。思わず地が出てしまった。私の表情はくにゃりと歪む。彼女との間に最初はあった立場の違いによる緊張感のようなものは殆どなくなっている。長い付き合いになってきたからだろうか。
「仕事上がりにはお酒を入れないとやってられないですし。なにより妖怪は夜行性です」
 屁理屈だった。私は天界(正確には天界に近い雲海だが)に棲む者にしては地上に入り浸っていることが多い。もちろん地上といっても人里ではない。妖怪の山の勢力内で、行く店も下級妖怪しかいないようなところばかりで、ようするに「近場」に過ぎないのだが。総領娘様と私の関係が砕けたものになったのは、総領娘様の地上好きが大きな要因だろう。彼女と連れ立って地上へ降りることもある。
 総領娘様が不満げな声を上げた。
『地上のお店に行く時はぜっったい私にも声掛けてねって言ったのに。美味しいものを衣玖だけが食べるなんて許さないんだから。今日は最悪だったのよ。わたしの為の宴会って名目だったのに、酒も桃も不味すぎて! こんな事なら萃香のとこで昼寝でもしてた方がマシだったわ……』
 総領娘様は自分の置かれた立場が窮屈すぎて、私のような一介の妖怪すら羨ましい生活をしているように映るらしい。そのあんまりにも「悲惨な目に合いました」といった口調がおかしくて、私は声に出して笑った。
「まあ。では次は必ずお誘いしますから」
『そう、是非そうしてちょうだい! 』
 総領娘様の声は一転してパッと明るい声になる。忙しいお方だ。
 今、きっと彼女は微笑んでいるのだろう。そう思うと私も嬉しかった。
「生憎また明日から観察に入りますので、暫くお目にかかれませんが」
『いいわよ、待ってる』
 彼女はあっさりと言った。
 「あの総領娘様」が待っているとは……。
『絶対だからね。夜中でも起こしてね! 』

 総領娘様はそう念押しして騒々しく電話を切ったのだった。

 これは随分な期待をかけられたものだ。
 不思議と気分は重くならなかった。
 
#

 さて。電話が出来るのはあと7日後か。

 竜宮の使いの役割の内、龍神と緋色の雲の動向を観察する仕事は連続10日間に及ぶこともある。
 使い達は交代でこの任に就き、休日を挟んでまた観察に戻る。この繰り返しだ。龍の言葉を賜り人妖に伝言するなどは有事以外では多くない。
 平和だからこそ、竜宮の使いは人前に姿を現さないのだ。
 多くの使いは住処である雲海から離れる事を嫌がるし、同族以外との関わりも希薄である。
 現状、竜宮の使いは天人の庇護下にあり、彼らの命には逆らえないのだが。 しかしそれさえ、抵抗する力も気力も無いから仕方なく長いものに巻かれているだけなのだ。
 ……好んで天人の従者の真似事をするなど、よほどの俗な使いだけだろう。
 私は天界そのものに興味がある。天人と、その政にも。
つまり私は変わり者で、最高に俗っぽい使いということだ。
 でも私とて竜宮の使いという役割を大事に思っているし、それなりの誇りもある。龍に仕えるという本分を外れることはしないつもりだ。

 観察の仕事に就いて3日目。今日も幻想郷に何の異常もなかった。緋色の雲は暫く気にする必要はない。例の異変は私たちの仕事をさらに退屈なものにした。
 私は無心で風の音に耳を澄ます。すると世界のあちこちから声が聞こえる。幻想郷に棲む神々のさまざまな囁き。その中から重要と思われるものを抽出し、心に留めておく。
 万一、龍の声があればどんな事態にも即応しなればならないが……まぁ今日は大丈夫だろう。
 まだあと7日もあるが、終わったあとの楽しみを考えれば我慢出来ないことはない筈だ。

 早く仕事が終わればいいのに。

 早朝の雲海は見渡す限り白い靄に包まれている。澄んだ空気が肺を緩やかに冷やす。夜と朝とが入れ替わる瞬間。地平の彼方が赤く色付いてくる。もう何度も繰り返し見た光景だ。
 誰も居ない空をゆっくりと泳げば、自分自身が大気に溶け込んでいってしまうかのようだ。
 それは心地良くて、少しだけ危うい感覚だった。

 総領娘様の言葉を借りれば、これが退屈ということか?

 確かにあまりにもつまらない。

 この世界はいくつもの声に溢れている。
 それはこんな高いところでは聞こえない、感情をもった生きている声だ。
 誰かと話すことが出来たなら、なんらかの反応がある。それは凄く魅力的だった。
 私は、いや私たちはその機会をみすみす見過ごしてしまうのか?
 竜宮の使いはヒトを避けてばかりいる。
 だから種として衰退する。だから何の意思も通せないし、私たちの話をまともに聞こうとする者もいないのだ。
 少し前までこんなこと、考えもしなかった。

 異端の私は思う。
 本当は今すぐにでも誰かと繋がりを持ちたいのだと。自分が自分であるまま、誰かに自分が存在しているということを伝えたい。

 雲の中は静かだ。静かすぎる。
 どうして私はこんなにも――

「ッ?! 」

 その瞬間。
 世界がぐるりと回った。
 悪寒が身体のてっぺんからつま先まで走り抜けたかと思うと、臓腑に拳が叩きこまれたかのような衝撃を受ける。胃液が込み上げてくる。気持ち悪い。吐き出してしまいそう。
「くぅ……っ、うえっ」
 今度は身体が燃え上がるように熱い。頭の中が無茶苦茶に乱される。がつん、がつんと脳内にも拳が刺さる。それに、眠いのだ。我慢できないほどの猛烈な眠気。でもこんな状態で意識を失ったらまずい。もう二度とは起き上がれなくなる。残った理性で自分で自分の手首に爪を立てる。血が伝い、痛みが少しだけ正気を呼び戻す。
「はぁ……ふは、はぁ」
 これで墜落しないのが不思議だった。そもそも空中では倒れ込みたくても倒れる場所がない。私はなんとか踏みとどまった。全身に冷や汗が伝っている。 眩暈は収まったが、吐き気はまだじくじくと続いていた。滲んだ血がブラウスの袖口に染みを作る。

「はぁー……は、いま、のは」

 「消耗」と。
 私たち竜宮の使いはそう呼ぶ。

 通常、竜宮の使いは7日から10日程度、雲の間を漂いっぱなして観察をする。その間は飲まず食わず、もちろん睡眠もとらない。が、何の問題も起きない。
 それはあたかも魚が水の中に漂い続けるかの如く。霞のように存在を無に近づけることであらゆる肉体の機能を鈍化させるのだ。それは冬眠にも似ている。寝ている間は時間の経過を感じないように、雲に漂っている間に知らず知らず数日が経ってしまうのだ。
 ただ空が飛べるだけの人妖ではこうはいかないだろう。いくら強い妖怪といえど、空を飛びっぱなしで何も考えず10日間。肉体は勿論、精神的な負担も大きい。
 「消耗」とは、竜宮の使いとしての存在が揺らぐこと。
 何らかの雑念によって、ふとした瞬間に身体が通常生活の状態に揺り戻されてしまうことを指す。飲まず食わず寝ずの状態から蓄積された疲労が一気に襲いかかるのだ。この時においては竜宮の使いはただの人間並みの生命力しか持たない。飢えや乾きを感じ、もちろん死に至る場合もある。
 これであっけなく死んでしまう使いは多い。
 地上に打ち上げられる使いの死因の大半はこれだ。「空中で溺れる」だとか、「干からびる」といった表現もある。とにかく竜宮の使いは皆この「消耗」を恐れている。
 これを起こさない為には余計な思考をひたすらに削ぎ落とし、自然と同化するように職務に集中するしかないのだ。

 雑念にはさまざまな要因がある。叶わぬ恋に身を焦がす、地上の諍いの行方に心を痛める等……私とて経験がないわけではない。だが、こんなに酷いのははじめてだ。

 完全な油断だった。
 慣れた仕事だからと甘く見て集中力を欠いていた。

 ふ、と私の口元は歪んだ。分かっている。
 根本的な要因はそれではない。
 私が「竜宮の使いらしからぬ」ことを考えたからだ――。
 自嘲の笑いが込み上げる。竜宮の使いという存在はこんなに容易く揺らぐのか。
 
 一度でも「消耗」を引き起こした使いは、観察の任務を畏れるという。それはそうだろう。誰だって苦しみながら死にたくはない。恐怖心は雑念の引き金になるし、そんな不安を抱えたままで集中するのはますます難しくなる。
 幸い、私は半人前の使いではないし「消耗」もこれが初めての経験ではない。

 目を伏せ深呼吸をする。少し落ち着けば、やり直せる。
 大丈夫、私なら出来る。
 何も考えなくていい。ただ耳を澄ますだけでいい。

 次に目を開いた時、世界はちゃんと「普段通り」だった。
 まるで変わり映えのしないものが見えた。
 つまらない光景が、しっかりとそこにある。

#

「100.002.10……」

 仕事上がりの夜半のことだった。
 私は帰って早々に家にあるお酒を空け、とてもいい気分のままダイヤルを回した。なにしろ暫くぶりの電話だ。はやく彼女と話したい。

 ところが呼び出し音が10回続いても、総領娘様は一向に電話に出ない。

 今までこんなことは無かった。
 総領娘様だってあんなに楽しみにしていたのに、どうしてだろう。

 何らかのお仕置きでまた物置か何かに閉じ込められているのだろうか?
 十分にあり得ることだ。
 けれど私は考えずには居られない。
 総領娘様はわざと電話をやりすごしているのではないかと。
 電子音が続くたび、私の焦りは増す。

 総領娘様は泣き叫ぶような電話の音に辟易し、耳を塞いでいる。或いは、黒電話を冷めた目で見て、回線の向こうの私を嘲笑う。

 ああ、十分にあり得ることだ。
 総領娘様は無邪気な顔をして、ときに悪魔のような容赦ない仕打ちをなさるから。私が信じてあげないのも可哀想だが、それが比那名居天子だ。気まぐれでしでかす嫌がらせは彼女の最も得意とするところである。しかもそれは全く突拍子もない。根は優しいお方なのだと期待すればするだけ裏切られてしまうのだ! 恐ろしい子……!

 ――馬鹿ね。
 こんなことを考えるなんて、私は子供か。
 これも「消耗」を起こしたから?
 そんなわけないじゃない。ぜんぶ私の妄想に過ぎない。

 相手が出ないのなら早く切ってしまわなければならない。誰か、彼女以外の家人が出たらそれこそ面倒臭いのに。
 15回目の呼び出し音で堪えられず私は受話器を置いた。驚くほど鼓動が早い。

 居ても経ってもいられなくなっていた。
 私は急に怖くなったのだ。
 総領娘様が電話に出なかった事が、ではない。
 相手が電話に出ない。そんな「仕方の無い事」を「諦めきれない自分」に気付いてしまったからだ。

 100.003.31

 衝動のまま、私はダイヤルを乱暴に回す。
 相手は2コール目で受話器を取った。

『やぁ、久しいね。竜宮の使い』

 聞こえた声に、私はゆっくりと息を吐く。
 良かった。繋がった。
 天界で三番目の電話器は鬼の処にある。 そもそも私に思いつく電話の設置場所など限られている。伊吹萃香は天界で数少ない知人の一人だった。

『あんたの電話を待ってたよ』
「待っていた? 」

 意外な言葉に私は挨拶すらおざなりになる。まるで彼女は私がかけてくるのを分かっていたみたいだ。

『あんた、全然電話してくれなかっただろ』
「しましたよ何回か。出てくれなかったじゃないですか」
『じゃあその時は寝ていたんだねぇ』
 彼女は寝ていなければ飲んだくれているだけだ。今も、電話を通してまで酒の匂いが香ってきそうだ。
『んで、何の用だい? 』
「え? 」
『何か用があったからコイツを使ったんじゃないのかい』
 待っていた、というわりに彼女の言葉は酷く冷たい。もっとも、いつも彼女はこういう口調だから気にする必要はないかもしれないが。 けれど、今はそれが妙に刺さる。

 何かが変だった。

「ただ、誰かの声が聞きたくて」
『へえ』
「それじゃいけませんか」
『竜宮の使いの言葉とは思えないねぇ』
「そうでしょうか」
『可愛い奴め』
「それこそ、鬼の言葉とは思えません」

 あれ――どうしたんだろう私は。

 全く分からないのだ。
 彼女は今、笑っている? それとも怒っている?
 彼女の空気が、その表情が読めない。総領娘様と電話で話した時は、こんなこと絶対になかったのに。
 酩酊した彼女の空気が私の心を乱す。

『あんた、あの天人とはもう少しマトモな会話してるんだろうね』
「……」
『あの天人の代わりなんてまっぴらごめんだよ』

 ああ、見通されている。

 彼女の声に疲れが滲む。
 どうして彼女にはそれがわかったのだろう?
 私は努めて普段通りだった筈なのに。私の表情は歪む。わけもなく泣きそうになった。構うことはない、どうせ相手には見えない。
 そう思うのに、それさえも彼女は。

『泣かないでよ、竜宮の使い』
「泣いてませんよ……」
『泣きたいのはこっちだわ』

 萃香はそう言って笑った。

『あんたがこの黒いのを持ってきた日、随分あんた楽しそうだったよ。あんたがあの天人と話したいんだってのはすぐ分かったけどさ。あんたが本気でかけてくるとしたら、あの天人が出なかった時かなって……あー、大当たりしちゃったかね』

「ごめんなさい……萃香……私……」

 消え入るような声は、自分のものとは思えなかった。なんてみっともない。
 私は酷い女だ。どうしようもなくて、私は彼女に許しを乞うしか出来なかった。
 読めない。もう何も分からない。
 取り繕いようがなかった。声がどうしようもなく震えてしまうのだ。なんたる失態だろう。こんな風に感情を制御出来なくなるなんて。
 私はこんなにも周りが見えなくなっていたの? 
 今まで一度だって、こんな風に他人を傷付けてしまう事なんてなかった。

 ただ声が聞きたかっただけで? 一歩他人に踏み込んだだけで?

『それでいいんだよ衣玖。あんた、いっつも当たり障りなくってさ。つまらないじゃない? たまには失敗した方がいいんだよ』

 彼女は静かな口調で言った。ぐびぐびと酒を嚥下して、鬼は続ける。

『あんたがそんな風に謝ってんのも……名前を呼ぶのも。初めて聞いたからさ。だからちょっと嬉しかったよ』

 あーもうっ! と、完全に沈黙した私に焦れ、鬼は声を上げた。

『でも、こういうのはなんというか……面倒臭いやね! だから今度はもうちょっと冷静な時にかけなよ。愚痴ぐらいは聞いてやるからさ。じゃあね』

 ぷつんと、そこで通話は途絶えた。

 込み上がる感情を抑えきれない。
 破裂しそう。
 今までならやり過ごせた筈の痛みが、本心を曝け出すという羞恥が、恐怖が、溢れて止まらない。

 私はその夜、声を上げて泣いた。
 まだこんなにも感情があったのかと、自分で呆れた。
 私は竜宮の使い以外の何かになってしまったんだろうか。

#

 あの夜の顛末はありふれたものだった。
 やはり総領娘様はお父上を怒らせ、折檻された揚句、一晩中物置に放り込まれていたのだ。翌日になって総領娘様は出会い頭に私にそう愚痴を零した。相変わらずお仕置きが堪えた様子はまったくないし、それは比那名居家の日常茶飯事だった。私はひどく拍子抜けしてしまった。
 同時にまた恐ろしくなった。そんな事で、私は冷静さを失い、あんなに取り乱したのか。
 ありもしない妄想に怯え、萃香にまで醜態をさらしてしまった。

 電話は人と人との距離感を狂わす。私にはそう思えた。相手の姿を見せない事は気楽で心地良く感じたものだけど、そのことが一方的な会話を強要したりもする。
 不意に、相手が何を考えているのか分からなくなって混乱してしまう。
 この黒電話を持ってから私は変わった。たぶん、良くない方向に。楽しかったけれど、もう潮時かもしれない。河童への協力はこれくらいで十分だろう。 電話がなくたって、必要な事は直接伝えればいいのだし。

 けれども。
 夜になると、私はやっぱり思わずには居られないのだ。

 誰かと話したいと。

 仕事をして、軽くお酒を入れて、誰も居ない部屋に戻ってきた時はいつもそうだ。

 なんにも得るもののない話がいい。
 最高に下らなくて意味の無い話がいい。
 馬鹿馬鹿しくて楽しくて。
 そんな他人の息遣いにちょっと触れるだけの会話。

 深く踏み込む勇気も無いくせに、私はそんなことばかり考えていた。

#

「もしもし、総領娘様。御機嫌いかが? 衣玖です、永江の。今日は歌会と聞いておりましたが。準備されていたあの歌の評判はどうだったでしょうか。散々? 変ですねぇ、私は一番あの歌が好きでしたのに。どうも天人様方とは感性が合わないのですね私は。総領娘様もそう思われますか? 全くです。あの歌の良さが分からない天界の感性が時代遅れなんですよ。何も恥ずかしがることはありません。もちろん踊りもです。総領娘様の踊りは素敵ですから。――私ですか? 私は普段通りですね。異常は何も。それが仕事ですので仕方ありません。……そうですね、少し疲れました。仕事が続くと、自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなってくることがあります。でも、今は」

『衣玖、衣玖ったら』
「はい? 」
『随分楽しそうに話すのね』
 
 楽しそうだ、と指摘する彼女の声は、やはり楽しそうだった。総領娘様は声に出して笑う。

『あなた、寂しいのね』

 総領娘様の不意打ち。
 電話の向こうで彼女が寝がえりを打ったのだろう。声がくぐもって聞こえた。

『ふふ、変な衣玖。直接会った時に言えばいいのに。……寂しいからわたしなんかとわざわざこうして話したがるんだわ』

 言葉の剣が喉元に突き付けられている。
 息が詰まる。
 総領娘様は私に踏み込んでいた。深く、私の心の奥底までを暴いた。

『独りでいるのが嫌になったの? ねぇ、そんなのいつもの事じゃない。いつも衣玖は独りだったじゃない。こんな道具一つで我慢できなくなるなんて変な話よ』

『でもね。わたしもいつも電話を待っているのよ。もしあなたからの電話が途絶えてしまったら、わたし、きっと堪えられない』

 そういう風にさせられたんだわ、と彼女は吐き捨てるように言う。

『おやすみなさい、寂しがりの衣玖』

 そこで通話は乱暴に途絶えた。

 総領娘様の言葉は鋭かった。
 彼女がこんな告白をするなど、恐らく相当の勇気が必要だったのだろう。
 けれども悲しいかな、響きはどこか甘く、僅かな痛みしか私にもたらさない。
 私はずるい。総領娘様もまた孤独であることを確信しているから、私は彼女に電話をかけ続けるのかもしれない。彼女はとうにその事に気付いている。

 嫌じゃないのなら……
 ねぇ、だったらいいじゃないですか?
 そんなこと言う必要があるの。
 
 私は受話器を置いて、いつまでも続く電子音を遠ざける。

 ――寂しさなんて、そんな、今更。

 誰も居ない部屋で、行き場の無くなった言葉を私は飲み込んだ。

#

 その日は早めに仕事を終えた。
 ぼんやりしていたら後輩の使いに早退してはどうかと勧められたのだ。自分でもあまり良くない精神状態だと思っていたので、その申し出は有難かった。こういう場合に何があったのかと決して聞いてこない仲間達の優しさは本当に身に染みる。

 暫く総領娘様と電話はしていなかった。
 さりとて、特に周りに変化はない。彼女の顔を見れば挨拶をしたし、向こうも何もない風に振る舞っていた。
 全ては相変わらず、変わり映えもしない。

 体調が悪いわけではないので、そのまま真っ直ぐ何もない家に帰りたくはなかった。
 かといって呑みに行くには早すぎる時刻で、私は時間潰しの為に行きつけの喫茶店へと足を向けた。

 夕刻の喫茶店はがらがらだった。
 この店の主な客である山の妖怪は夜になってから動くことが多い。空いた店内は私にとって居心地が良かった。私はコーヒーを注文し、棚に乱雑に積まれている新聞のいくつかに目を通した。天狗が趣味の延長で発行しているような新聞に元々大した記事は載っていない。けれども暇潰しには丁度いい。

 斜め読みで今日も幻想郷が平和だということを把握する。
 あとは見開きで載っていた地底の橋姫のインタビューが興味深かった。負の感情を原動力に生きる妖怪は珍しくないが、彼女まで突き抜けられれば尊敬に値する。写真の彼女はカメラを睨みつけるかのように納まっている。線の細い、綺麗な子だった。

 あ。
 私は声に出して呟きそうになった。
 インタビューの下、見覚えのある名前が出ていた。私に電話を渡した河童の技術者が記事になっている。

『電話の普及に成功。幻想郷内十数か所に公衆電話設置へ』

 もうそんなところまで開発が進んだのか。
 よくよく記事を読み進めると、遂に電話技術は地上に実験の場を移すことになったようだ。まずは人里や神社などの人が集まる場に、試用として無料で電話が掛けられるらしい。設置場所のリストも掲載されていた。

 私は顔を上げる。殆ど人の居ない店内を見渡すと、奥まったところに見覚えの無かったモノが置かれている。――電話だ。
 この店の名前も記事に載っていた。私は立って電話へと足を向けた。

 厨房の近くに置かれた電話は見知った黒ではなく、くすんだピンク色をしていた。大きさも家にあるものよりも幾分大型である。
 今まで電話となると、天人の不良娘と鬼と私のところに限られていたわけだが(我が事ながらなんて辺鄙な設置場所だ)、これからはもう少し有益な道具になるのだろうか。電話が置かれている場所のリストが壁に張り付けられていた。
 紅魔館、永遠亭、守矢神社……なるほど。
 緊急時に有力者が居る場所に誰でも連絡が取れるというのは便利かもしれない。
 というか、それがもともとの開発理念だったか。変な使い方をしている内に忘れてしまっていた。

 私は受話器に手を掛けていた。
 それは衝動といっていい。
 私は何処かに電話をかけてみたくなったのだ。勿論、誰にも、何の用もないけれど。
 ああ、むずむずする。そんなことをすれば迷惑がられるに決まっているが―――。

 すとん、とある考えが胸に落ちた。

 電話の脇に置かれていたボールペンを取る。
 私はひどい癖字なので、なるべく丁寧に、誰にでも読みやすいように気をつけなければ。

 永遠亭  400.002.81
 香霖堂  300.003.50
 紅魔館  300.001.03 
 ……
 命蓮寺  600.001.00
 守矢神社 200.003.37

 私はその下に「永江 衣玖」と書き、その隣に「100.001.19」と記した。

 永遠亭  400.002.81
 香霖堂  300.003.50
 紅魔館  300.001.03 
 ……
 命蓮寺  600.001.00
 守矢神社 200.003.37

 永江衣玖 100.001.19


 ……やってしまった。書き終わった後で気付く。
 馬鹿だなぁ。
 私、頭おかしいんじゃないの。

 でも、どうなるのか興味があった。
 これなら多分、誰にも迷惑は掛からない。

 何もこちらからかけることは無い。
 「用がある人に掛けて貰えば」いいのだ。

 その夜、さっそく電話が鳴った。
 それから暫く、電話は鳴り続けた。

#

『こんばんは! あなたは神を信じますか?』

 それが最初の電話。
 あまりにも早い反応に私は驚いた。
 家に帰ってすぐに電話は鳴った。
 ……神を信じるというか、一応、神に仕えている身なのだが。

『突然ですが新しい神を信じませんか? 今なら特典を多数ご用意しておりますっ』

 明るく元気な声が一生懸命に語る。
 私たちと違って布教に熱心なのだなぁ。
 私はぼんやりとそんなことを考える。

 電話はまだまだ続く。

『すげぇ! この箱しゃべる! ……すげぇ!』
『妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい』
『う、うらめしやぁぁぁぁああああ!』
『♪上司に恵まれなかったらスタッフサービス♪』
『私の歌を聞けぇ―! 』
『はぁはぁはぁおねえさんパンツの色教えて』

『あなたは仏の世界を信じますか? 』

 じきに気付いたことがある。
 関係なかった。「私」が誰であろうと関係ない電話ばっかりだった。
 こうなると想像出来なかったわけではないと思うが……少しがっかりした。
 でも暫く騒々しいのが続いて、それはそれで楽しかった。
 何度か、見知らぬ誰かとの会話が弾む事もあった。

『おねえさん、竜宮の使いでしょ。何でこんなことしてるの? 』
「さぁ、どうしてでしょうね」
『あたし、毎日退屈しているの。おねえさんもそうなのかしら? 』

 総領娘様みたいな事を言う女の子も居れば、親切にも私の行いを諌める電話をしてくる者も居た。

 そして、終いには妖怪の賢者からの電話がきた。

『ごきげんよう、竜宮の使いさん』

 声には聞き覚えがあった。
 八雲紫。幻想郷の創造に関わった大妖だ。

「誰ですか」
 私は分かっていて、不躾に聞く。
 もとより彼女には地震の一件であまり良い印象を抱かれてないだろうから構わない。
 さすがに少しは緊張したが、それだけだった。一向にやる気は出ない。というか、もはや彼女に対してもさしたる興味を抱けなかった。今までに話した有象無象と比べれば、彼女が一番の大物であることは間違いない。けれども私はもう、相手が誰であっても同じ感情しか抱けないのだろう。気持ちは乾くばかりだ。
 八雲紫がゆったりとした口調で応える。

 『わたくしは名乗る程の者じゃありませんわ。あなたの書いたメモを見つけてね、試しにかけてみたのです』

 八雲紫はどうしてか、急に声のトーンを落とすのだった。

『一体どうしたのです? こんなこと、あなたのような妖怪らしい妖怪のすることではありません。まるで外の世界の人間ですわ……いえ、外の世界においてさえ、ふしだらな女だと非難されるでしょうね』

 馬鹿にされている。
 反射的に電話を切りそうになったが、残された矜持で何とか堪えた。
 八雲紫の言葉には色濃い非難がうかがええる。

『幻想郷に便利な外の技術を取り入れる、それは大いに結構。幻想郷は全てを受け入れますわ。……でも幻想郷らしさを失っては駄目なのです』
「幻想郷らしさ、ですか」
『わたくしの意見を言うのなら。……個人所有の電話なんてここには不要です、永久にね』
 先の発言とは矛盾しているが、だからこそ、これが彼女の本音なのではないだろうか。
 鈍った私にも八雲紫の意図は読めた。表立って唱えている題目と異なる感情を抱いたから、彼女はわざわざ私に電話をかけてきたのだ。
 密やかに、彼女は幻想郷を監視している。
『寂しさを埋める為に不特定多数と繋がろうとするあなたの行いは、いづれ大きな歪みを生むわ』
 これは警告です、と八雲紫はまるで指導者みたいに告げる。
 しかし彼女はすぐに普段の調子に戻って、かるく笑った。
『ああ、でも御安心を。あなたの番号はわたくしが塗りつぶしておきましたから』
「何ですって」
『もうこれ以降、おかしな電話に悩まされることはないでしょう』
「勝手なことを」
 どうしてか、それを惜しいと思う自分がいた。
 ろくでもない電話ばかりだったけれど、私は確かにその遊びを楽しんでいたのだ。
 もうそれも終わりか。
 だからそれは多分、恨み節だった。読んだ彼女の感情をそのままに言い当ててやる。

「あなたは電話を恐れているの? 」
『まさか』

 彼女は朗らかに笑う。

『狂人は刃物を持つなと言っているのです』

 次の暴言は冷静に受け止めた。彼女の纏う空気に僅かに誤魔化すような色が見えたからだ。こちらを怒らせて、混ぜっ返そうとしている。

 ……なんだ、私にもまだ読めるじゃない。

 どちらにしてもあまり愉快なことではなかった。
 それ以来、本当にぱったりと電話は途絶えてしまったから。

#

 ねぇ誰か。

「たすけて……」

 今日も着信はない。
 あっけなく私は追い詰められていた。
 電子音を刻み続ける受話器に、私は呟く。
 誰も居ない部屋の中、言葉を発するのは虚しい。おかしくて、でも笑う気にもなれない。
 逃げ道は全て塞がれてしまった。

 孤独で死ぬ。死んでしまう。
 血の通った人間みたいに。
 私は妖怪だ。竜宮の使いという妖怪だ。
 雲みたいに、何も話さなくても、神の囁きを聞いているだけで生きていける。
 でも私にはまだ感情がある。どうしようもなく誰かを求めている。心の隙間を埋めようとしている。

 一度その味を知ってしまったら、もう二度とは元に戻れないのに。 

 ――黒電話は答えない。

 救いなんてどこにもないことは分かりきっていた。当たり前だ。だって電話はただの道具にしか過ぎないのだから。

 じゃあ、どうすればいいのか。
 本当はそれも薄々分かっている。

 私は子供じゃない。周りから与えられるものなんて、ほんの僅かなものだ。 誰も助けてはくれない。私がそうであるように、誰も、他者にさしたる興味はない。

「わかってますよ」

 何かを変えるには自分しかない。
 自分から変えていくしかない。

「嫌だし……面倒臭いし……」

 傷付くのも嫌だし、努力するのも嫌、自発的に何かするのなんて大嫌い。
 ましてや勇気を出すなんて私にとっては本当に途方もないことだった。

「でも、認めるしかない」

 私は寂しかった。
 他人の息遣いに触れるだけではなくて、深いところで誰かと繋がりたかった。
 たとえその生き方が竜宮の使いとしての存在を擦り減らしてしまうものだとしても。
 それに最初に気付かせてくれたのは、彼女だ。彼女の問い掛けから、私は一度は逃げ出してしまった。

 目の前には黒い箱がある。
 私の番号は100.001.19だ。
 『天界』の局番である100、その一番最初に設置された機器だから001、私の名前を表す19。8桁の数字は私がこの箱の所有者であることを示した。
 床に置かれた「幻想郷で最初の電話」の前に私は正座をしている。

 ゆっくりと息を吐く。電子音はまだ続いている。
 私はそっと受話器を置いた。

#

「わかったんですよ全部」
「何が? 」

 メロンソーダを弄ぶ総領娘様は今日も不機嫌な顔をしている。
 湯気を上げるコーヒーが冷めきるまで、たっぷりとした沈黙を挟んだ後、私は口を開いた。
 件の、電話のある喫茶店に二人で向き合って座っている。今日も店はガラガラだった。

「電話の話です」

 壁に貼られた電話帳を見たところ、本当に私の名前の上は墨で塗りつぶされていた。これをあの八雲紫がやったのだと思うと面白かった。
 総領娘様は私の視線の先にある電話に気付いて「ここにもあるのね」とだけ呟いてた。

「また、電話……」

 総領娘様はうんざりとした口調で言う。彼女は手元のバニラアイスクリームをスプーンで砕く。メロンソーダと混じったそれは、炭酸の中で雲のように形を変えていった。

「総領娘様の仰った通りでした。私は寂しかったんですね」

 私は総領娘様の眼をじっと見た。彼女の赤い瞳が意外そうに私の眼を見返していた。
 こうやって話すのはいつ以来なのだろう。
 ああ、これが初めてかもしれないな。私が本心から何かを言うのは。

「孤独でそろそろ死ぬかもしれません、私」
「……死んじゃうの? 」
「ええ、実際死にかけましたし、この前」
「天人五衰の、竜宮の使い版ってこと? 」
「まあそんなようなものです」
「そう、なんだ」
「助けて」
「え、」
「たすけてください」

 総領娘様が驚愕に目を見開いた。
 告白してしまえば、こんなに楽なことはなかった。
 声はもう震えない。
 誰かに弱さを晒して、寄り掛かること。苦しくて溺れる直前でも、声を上げることは出来る。私はそれがずっと出来なかった。
 言えて良かった。総領娘様が、私に気付いてくれて良かった。
 彼女が私を必要としていることが、とても嬉しかった。

「な……何言ってるの衣玖、そんなにニヤニヤ笑いながら! 」
「わ、笑ってませんよ」
「死ぬとか冗談でしょ。余裕じゃない! 」
「そんなことないです、ふふふ」
「何よ! 馬鹿にしてんの?! 」
「総領娘様、私を気にかけて下さったでしょう? だから元気になったんですよ」

 総領娘様の表情がくしゃくしゃに歪む。
 彼女はわんわん声を上げて泣き始めた。

 泣かせるつもりじゃなかったんです。心配かけてごめんなさい。私はもう大丈夫ですからね。

 言葉はあとからあとから零れた。
 私は本当に何も見えなくなっていたのだ。
 私の様子がおかしかった事に、総領娘様は随分前から気付いていた。
 私は彼女を気遣っているつもりで、彼女に気遣われていたのだ。私が意地を張って弱味を見せなかったから、だから彼女も――。
 私と総領娘様はよく似ていた。

「ほんとに? 本当に死んだりしない? 」

 総領娘様が問いかける。
 大丈夫、あなたが居る限り、私はまだ私で居られる。私は頷く事で答えた。

 危なくなったら、今度こそ叫びますから。
 助けて! って。
 総領娘様もそうして下さい。
 私はどこに居たって、飛んでいきますからね。

 そう言うと、彼女はようやく微笑んでくれた。総領娘様は笑っている方がずっと似合う。

「総領娘様、お腹空きませんか」
「……空いたわ」
「ラーメン食べに行きましょう」
「ラーメン! 」

 彼女の目がぱあっと輝く。さっきまで涙を孕んでいた瞳はキラキラと瞬いた。

 私はにやりと笑う。
 もう一人の私に似た彼女のことを、思ったからだった。私からの電話を、待っていてくれた優しい彼女を。

「ついでに萃香も誘いましょうか」
「萃香? 別にいいわよ。衣玖って萃香と仲良かったのね」
「ええ、まぁ」
 っていうかそんな呼び方してたんだ……と総領娘様は不思議そうに言う。

 幸いこの店には電話がある。
 彼女を誘うことは容易いだろう。

 ピンク色の受話器を取り上げた時、私の胸は大きく高鳴った。
 「ねぇ、わたしにも話させてね」と総領娘様が言う。

 100.003.31……

 もしもし?
 衣玖です。 永江の。
 ――起きていますか。
 二作目です。
 最初は天子と衣玖の電話での会話だけで話が進む短編でしたが色々足している内にこんなことに。
 まさかこんなに衣玖さんが手ごわいとはな!
 大変でしたが楽しかったです。それぞれ違う方向に不器用そうな天界組(萃香含む)ですが。好きです、天界。
 ここまで読んで下さってありがとうございました。
影武者
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コメント



0.1780簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
いやいやいやすごいですよこれ。
こんなにも儚い衣玖さんは初めてでしたが、そこに魅力を感じられる良い文章でした。
萃香こわっ!って思ったんですが、追い詰められつつある衣玖さんの一人称で描かれていたことを考えると
怖く見えたのは自然っていうか、衣玖さんの主観なのかっていうか、そんな感じ?
うーん、何言いたいんだろう、難しいですw
6.100名前が無い程度の能力削除
これは大作ですね。今まで寂しいという感情を知らなかった人が一旦覚えてしまうと、こうも弱くなってしまうのかというのがとても伝わりました。
7.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
8.100名前が無い程度の能力削除
初めは幻想郷に文明の利器が入っていじりました、という作品かなーと思ってました。
それが電話で追いつめられる衣玖さんに流れが変わり、最終的に天子と顔を合わせるシーンにつなげる。
その各所に入る衣玖さんの心理描写と合わせてやられた、という感じ。

ところで、多分おかれているであろう博麗神社で霊夢が掛ってくるのをはうはうと正座して待っているイメージが出て来ました。
なぜだろう。
12.90名前が無い程度の能力削除
これはうまい。
随所に働いている、作者さんの想像力が柔軟で、かつキャラに対する思い遣りに満ちていて。
ラストの二人に心底、心を温められました。ちゃんと萃香も掬ってくれて、いやいい話だなー。
14.100名前が無い程度の能力削除
プロットから文章表現までとにかく惹きつけられる作品ですね
電話でここまで話を広げられるのはすごいです
15.100名前が無い程度の能力削除
自分のなかの衣玖さん像がこんな感じです。
20.100名前が無い程度の能力削除
ゆかりんが頑張らないと幻想郷も外の世界と同じ方向に進んでしまいそうで怖いですね。
とりあえずいくてんご馳走様でした。
24.100名前が無い程度の能力削除
電話に対するそれぞれの感情が面白かったです。
特に衣玖さんと紫の会話は素晴らしいシーンでした。受話器ごしだからこそ感じる緊迫感とでもいうのかな?うまく表現できないけど。
そして最後に、早苗さんの電話には笑ったw
典型的なカルトの勧誘の常套句じゃないですかw
35.100名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです。
37.100名前が無い程度の能力削除
電話の雰囲気を見事に表現。
なるほど!
39.100名前が無い程度の能力削除
いくさんがかわいすぎていきるのがつらい
ぼくにもいくさんとつながるでんわをください
43.100名前が無い程度の能力削除
イクさんに共感しすぎて胸が苦しい。