幻想郷に住まう河童はみな、揃って科学技術に関心がある。妖怪の山の中腹にある未踏の渓谷には、河童の河童による河童のための技術学校なるものまであった。まだ技術者として未熟な幼い河童たちが、そこで腕を磨くのだ。それは長年受け継がれてきた風習であり、子どもが技術学校で学ぶのは河童社会の常識であった。
だが――子ども河童のすべてが、何の迷いもなしに技術者を志しているわけでは、なかった。
それは今から、数年前の話。
「にとりさん?」
真上から名前を呼ばれて、にとりは我に返った。顔を上げると、技術学校の先生が呆れ顔でこちらを見つめている。
「どうしたの、設計図が描けないのかしら? もう皆、実習に取り掛かってるわよ」
「あ……」
あたりを見回す。すでに机に座っているのは自分だけで、ほかの生徒はみな、思い思いの場所へ散っていた。保管庫を物色している者、煙の上がるはんだごてを手に金属板と格闘している者……。騒がしく、楽しそうに実習を進める彼らを一通り眺め、にとりは手元の設計図帳に視線を落とす。分厚い紙束は、多種多様な発明品のデザインで埋め尽くされている。しかしそれはあくまでアイデア段階であり、きちんとした設計図と呼べるものはどこにもない。
「あら、これなんかいい発想じゃない。……これも、独創的よ。ねえ、形にしてみたいと思わないの?」
隣の椅子に腰掛け、先生が聞いてくる。にとりは設計図帳を見つめたまま、首を傾げた。
「……思えないです」
「うーん、そうなの……。でも、にとりさんは面白い発明をたくさん考えるし、構想で止まってしまうのはもったいないと思うわ」
「……考えるのは好きです。だけど、作りたいと思えません」
「そう。……どうして?」
先生の問いに、少しだけ戸惑った。こっそり視線を上げ、周りで作業にいそしむ生徒たちを見つめる。すると彼女の心の中を察したのか、先生は笑って、声を潜めて言った。
「みんなは聞いていないから、言ってみなさいな」
にとりは頷いて、呟くように本音を告げた。
「……面倒だって思っちゃうんです。図を描いていくのは好きだけど、それを作ろうと思うと、急に興味がなくなっちゃう。思いついたもののデザインを描くのは簡単だけど、形にするのって大変だから……きっと、そこまでしたいと思えるほど、あたしは発明が好きじゃないんです」
自分は、技術者に向いていないんだ。にとりはうなだれた。技術学校に入ってからずっと、こうだった。他のみんなほど、発明に情熱を持てない。もちろん興味がないわけではない。むしろいろんな発明品のアイデアを考えるのは大好きだ。でもそれはあくまで趣味程度であって、実際に形にするほどの労力を割こうと思えるほどの熱意も、理由もなかった。なんとなく、で、技術学校に通っていた。
「そうね……。わかった。それじゃあ、にとりさんはこの一週間、みんなとは違う授業をしましょう」
「え?」
先生はにとりの肩に手を置いて、いたずらっぽく笑う。
「この一週間、技術学校には来ても来なくてもいいわ。気が向いたら来てね。そのかわり、にとりさんは自分が本当にやりたいと思えることを見つけてくるの。発明品のことじゃなくていいのよ、河童だって全員が全員、技術者になっているわけじゃないもの」
にとりももうすぐ、子どもとは呼べない年になる。一人前の『何か』にならなくてはいけない。その道しるべを、自分の力で見つけなくてはいけないのだ。
「……わかりました」
「さあ、それじゃあ、今日は帰ってもいいわよ」
にとりは頷いて立ち上がる。設計図帳をリュックサックにしまって先生に一礼すると、歩き出した。
その小さな後ろ姿を見送り、先生は腕を組む。
「一週間でやりたいことを見つけるのは難しいわよね……。でも、自分の本心と向き合うにはちょうどいい時間かもしれないわね」
滝の音が、遠くなる。渓谷からだいぶ離れてきてしまった。
家に帰らず、技術学校で使う道具が入った大きなリュックサックを背負ったまま、にとりは川沿いに下って歩いていた。滝から続いている澄みきった川が、涼やかにせせらぎを響かせる。それ以外は何も聞こえない、ひとりぼっちの山道。生い茂る水辺の草をかきわけ、途中で手折った蒲の穂をくるくる回しながら、何も考えないで歩き続けた。
やがて水辺の彩りは紫陽花の群れに変わっていく。じきに満開になるだろう紫陽花は、早咲きのものがいくつか、山の緑に淡い色彩を添えていた。きれいだ。空っぽの心に、優しい紫色が焼きつく。
――その、深緑と淡色のむこうに。にとりの目は、不自然な真紅を捉えた。河原に立ち並び青々とした葉をつけている木々の中、たしかに、真っ赤な何かが動いている。
(なんだろう? 動物じゃないよな。河童でも……ない。ああ、そういえばここはもう、河童の行動圏からずいぶん離れてしまってるか)
だとしたら……にとりは、はっとして足を止めた。
(人間かな? だったら、ちょっと怖いな)
少し屈んで、紫陽花の群れに身を隠す。人間は怖い。いいや、怖い、というのはちょっと違うかもしれない。恐れているのではなく、会うのが恥ずかしいのだ。人間は好きだけど、どう接したらいいのか、人見知りな河童にはいまいちわからない。最近の人間は怖いもの知らずで、河童に興味津々で近づいてくるとも聞いている。
だけど、あの赤は何なのか、確かめてみたくもあった。にとりは屈んだままそっと紫陽花の垣根を抜け出て川沿いを離れ、木の幹に隠れながら赤いものに近づく。
それは、女の子だった。赤い赤い、フリルのたくさんついたワンピースを着て、大きなリボンを頭に飾り、くるくると回りながらゆっくりと、どこへともなく進んでいく。よくよく耳を澄ませば、鼻歌も歌っている。あっちへ行き、こっちへ行き、まるで一人でダンスでもしているかのようだった。
しかし彼女が人間でないことは、妖怪の一員であるにとりにはすぐにわかった。
彼女からは、強烈な禍々しい力が感じられた。妖怪が持つ独特の気配や魔力、威圧感――というにはなんだか少し違う気もしたが、とにかく、人間の持ちえるものではない恐ろしげな気を、少女は放っていた。
(楽しそう……)
行く当てもなく、ゆくべき道もなく。ひとりきりで、ただ無心に山を下ってきた自分と同じく、彼女もひとり、目的地もないようだった。なのに、楽しそう。にとりは思わず、隠れるのも忘れてぼんやりと彼女を見つめた。
「あら?」
そのとき、回転している少女と目が合ってしまった。慌てて木陰に身を隠そうとしたが、少女は回るのをやめてこちらをじっと見ている。観念し、にとりは歩み出た。でも、何も言うべき言葉が見つからず、ただ黙ってうつむいてしまう。
「ねえねえあなた、迷子?」
少女はにとりのそばに近づいては来ないで、距離を置いたまま、にとりに聞こえるように大きめの声で聞いてきた。
「え、えっと、ううん。迷子ってわけじゃ……」
でも、心は迷子のようなものかもしれない。そんなことを思っていると、無意識のうちに語尾が消え入ってしまった。
「そう。どこへ行くの?」
少女は距離を詰めようとしないままで聞いてくる。私から近寄ってもいいのかな。不自然な距離感に戸惑いつつも、にとりは答えた。
「目的地は、ないんだ」
「あら、お散歩なのね」
「うん……。そんなもの、かな」
近づいてみよう。にとりは彼女に向かって歩き出した。初めて会った、不思議な雰囲気を持つ少女に、なんとなく興味が沸いていた。
しかし、近づいてくるにとりを見て、少女は半歩だけ後ずさった。
その顔はあくまで微笑を浮かべており、にとりを嫌がっているのでもおびえているのでもなかったが、確かに少女は、わずかではあったがにとりと距離をとろうとした。
「あのさ……あなたは、誰?」
赤い少女に聞いてみる。少女はそれ以上後ずさることはなく、近くに来たにとりに笑顔で答えた。
「私は鍵山雛よ。あなたは?」
「あたしは、にとり。谷河童の、河城にとりって言うんだ」
「へえ、河童なの。じゃあやっぱり、発明が得意なんだ?」
「あ……」
雛の口から出た言葉に、にとりは思わず視線を泳がせた。河童全体としてはそれで正しいのだが、自分に対して聞かれてみれば、肯定できなかった。
「どうしたの? 私、変なこと言っちゃったかしら……元気なくなっちゃった?」
雛が心配そうにこちらを伺う。そして、彼女はふいに笑みを潜ませて少しだけ真面目な顔をし、続けて独り言のように呟いた。
「厄の気は……ないみたいだけど」
「えっ?」
聞き取れずに雛の顔を見たにとりに、雛は微笑んでみせた。
「いいえ、なんでもないの。――ねえ、何か困っているの?」
雛の笑顔はどこまでもほがらかで、その雰囲気はどんな心の闇も包んでくれそうなほど温かかった。進むべき道がわからない、行き場の無い焦りを相談したい。にとりは雛の優しい問いに頷きかけたが、思いとどまった。初対面の人にするような話じゃない。
それに、雛と自分の間に依然としてある微妙な距離が、何とはなしににとりの言葉を阻んだ。
「ううん、大丈夫だよ、別に何も……。そうだ、雛さんは人間じゃないよね。種族は何?」
すると雛は一瞬だけ目をぱちくりさせ、すぐにまたほんわかした笑顔に戻った。呼び捨てでいいよと言って、かわいらしく首をかしげる。
「私はー……神様なの」
「神様! ええっと、ダンスの神様とか?」
先ほどの雛の回転を思い浮かべながら聞くと、彼女はくすくすと笑った。
「いいえ、なんて言うのかしらね……。人間が好きな、ただの神様よ。たまーに、人間のお手伝いをするの」
どうも漠然としたことを言う。にとりにはその『人間が好きなただの神様』のイメージがよくつかめなかった。だが、会って間もない相手に、あまり質問ばかり浴びせるのはあまりよくないだろう。
「へえ! あたしも、人間のことは好き――あわっ!」
雛のほうに一歩踏み出す。しかしそのとたん、水辺のぬかるみに足を取られたのか、にとりは派手に転んだ。
「あらら、大丈夫?」
「あっちゃー……う、うん、平気」
雛が駆け寄り、起き上がるのに手を貸してくれる。そっと触れた手のひらはあたたかい。
「おかしいなー、いくら水辺とはいえ、転ぶほど悪い足場でもないのに。だいいち、川のそばなんて歩き慣れてるし……」
怪我はないが、スカートが汚れてしまった。でもちょっと水にさらせばすぐ落ちるだろう。河童特製の生地でできているのだ。防水効果があるし、湿った不快さもない。
「……にとり」
ふいに名前を呼ばれ、にとりは雛を見た。彼女は緑の髪をそよ風になびかせ、にっこりと笑った。
「服が汚れちゃったわね。早く帰って洗うといいわ」
「あ、ううん、これは特殊な生地でできてるから、これくらいの泥なら川に少しひたせばすぐに――」
「いいえ。やっぱり、ちゃんと洗ったほうがいいわよ」
雛は変わらず、完璧な笑顔のままにそう言う。どことなく有無を言わせぬ感じがあり、にとりはあいまいに頷いた。
「それもそうかな……」
「ええ、そうよ。――それじゃあね」
「あ……」
初夏の青い空に、雛の赤色のシルエットが浮かび上がった。笑顔でにとりに手を振ると、彼女はそのままくるくる回転しながらどこかへ行ってしまう。その様子も、特に目指す場所があるようではない。それでも、なぜだか楽しそうに見えた。
ぽつんと取り残されたにとりは、雛の姿が木々の向こうに消えてしまうまで見送り続けた。
「不思議な子だな……」
呟いた言葉は、山の静けさに吸い込まれていった。
また、会えるかな。会いたいな。神様と河童は、友達になれるかな。
足元を見つめて、考える。ほんの少し言葉を交わしただけだったけど、雛は優しくてほがらかで、何でも前向きに考えているような心地いい雰囲気があった。それともあれが、神様の持つ貫禄なのだろうか。
それに、人間が好きというのはにとりと一緒。神様に年齢があるのか知らないが、見た目に関すればにとりとさほど変わらない年頃の女の子だ。仲良くなってみたいと思った。それは純粋な親しみだったのかもしれない。――興味だったのかもしれない。にこやかで明るい雛が持つ、不似合いなほどの禍々しい気配。そのギャップが、心の隅にひっかかるように気になっていた。
とりとめもなくいろいろなことを考えてからにとりは歩き出し、川に飛び込んだ。水の中は空気中よりも温度が低く、ひんやりと身体を包み込む冷たさが気持ち良い。水底まで潜り、上流にある家に向かって流れに逆らうように泳ぎだした。
家のそばまで着いたにとりが川から出るころには、スカートの泥はすっかり流れて落ちていた。
* * *
翌日。にとりは技術学校へは行かず、手ぶらで昨日と同じように川を下っていた。心を空っぽにして、山の今まで行ったことのないところまで行ってみようと思ったのだ。家の中であれこれ悩んでいても、進むべき道はみつからない。
しかし、昨日と同じ道をついつい選んでしまったのはきっと、心のどこかで、雛に会えるかもしれないと期待していたからだろう。
(ここだったよなぁ……)
木々の立ち並ぶ森を背にし、紫陽花の葉も青々とした川べりに立つ。昨日、雛と出会った場所だ。とはいえ、彼女は目的地もなく漂っているふうに見えた。今日も同じ時間に同じところを通るとは限らない。それに加えて、こんな待ち伏せじみたこと、変かもしれない。
「どうしよう、やっぱりやめようかな……」
考えれば考えるほど、自分が無意味で変なことをしているように思えてきてしまい、にとりは水面に映る自分の顔を眺めた。落ち込んだ顔が見える。無意識のうちに、ため息が出た。
すると突然、水面を見つめる視界の中に鮮やかな赤が飛び込んできた。何かが、上流から流れてきたのだ。
「人形?」
思わずそれを拾いかけたが、はっとして伸ばした指を引っ込める。白、緑、赤の着物を重ねて着、竹舟に乗って川を流れていく紙人形に、見覚えがあった。――流し雛だ。人間の厄を引き受けて流されていくと聞いたことがある。人間がおこなう、厄を引き受けてくれる神様への祈りごとだ。第三者が勝手に拾っていいものではない。
(……雛、みたいだ)
白、緑、赤の色彩。川の流れにのって、くるくる回りながらたゆたっていく姿。それは、鍵山雛によく似ていた。その名前も流し雛、お雛様だ。
何とはなしに、遠ざかっていく流し雛の行き着く先を見届けたくなった。立ち上がって、歩き出す。
(流し雛も……ちゃんと目的を持って、流されていくんだよな)
平穏に過ごせますようにという祈りを込められて、人間の厄を負って神様のもとへ向かう。ただの紙人形ではあるが、とても立派なものではないか。
ゆっくりと回転しながら、流し雛は水面を滑る。ただそれだけをぼうっと見つめながら歩いていくと、ふいに、白い手が流し雛を川から拾い上げた。
「あっ」
思わず声を上げ、流し雛を拾った手の主を見た。そこでにとりは、再び声を上げそうになる。
「あら? にとりじゃない」
そこにいたのは雛だった。水がしたたる流し雛を大事そうに両手で持ったまま、にとりを見つめて驚いたように目をぱちくりさせている。
なんという偶然だろう。たまたま流れてきたお雛様を、雛に似ていると思って追いかけてきたら、その本人に行き当たった。
「雛! ……あ、えっと、おはよう……」
何と言っていいのかわからずに、とりあえず挨拶だけ。妙なところで人見知りが顔を出してしまう自分の性格を恨めしく思ったが、昨日と変わらない雛の笑顔を目にすると心が温かくなった。
「おはよう、にとり」
雛は拾い上げた流し雛を手に持ったままだ。にとりがそれをじっと見つめているのに気づき、雛は言った。
「安心して。これは、私のもとに流れ着くべきものだから」
「……え? それって」
少しだけためらったように視線を落としてから、雛は流し雛を愛しそうに見つめた。
「ええ。私は流し雛の神――厄神なの」
そう告げると、流し雛をふわりと宙に浮かべる。すると流し雛は音も無く霧散し、深い紫色の気体を発した。その気体は雛のほうに吸い込まれるように消えていく。唖然として眺めるにとりにもわかった。あの紫色の霧状のものが、厄なのだろう。人間が祈りを込めて流した厄。雛は、それを引き受ける厄神様なのだ。昨日、雛から感じ取った妖力でも魔力でもない禍々しい気配は、彼女が回収した厄の気だったのだ。
「ね……わかったでしょう。私の周りには、厄がいっぱい溜まっているの。私がいつも回っているのは、厄が私から離れていかないようにするおまじない。人間の元に返っていってしまわないように、留めているの。それが、私のやるべきことだから」
雛はそこで言葉を切った。ためらうような沈黙をおき、小さくかすれた声で続けようとする。
「だから、私の近くにいたら――」
「すごい!」
しかし、か細い声は、にとりの歓声にかき消された。ぽかんとする雛の目の前、にとりは純粋な目をきらきらさせている。
「人間のお手伝いをするって、昨日言っていたのはそういうことだったんだ!」
「あ、えっと……。ええ、そうよ」
にとりは頬を紅潮させて雛を見つめた。人間が好きな河童としては、人間のためにとても素晴らしいことをしている神様の雛に、尊敬の眼差しを送らずにはいられなかった。
「雛は、優しいな。すっごく、優しい神様だね」
にとりは無邪気に笑ってそう言った。何気ない本心だった。しかしそれを聞いた雛は、一瞬だけ呆然とした無表情を浮かべ、笑顔になりきれない笑みでぎこちなく返す。
「……そう、なの? かな……」
「うん!」
「……そんなこと、初めて言われたわ。ありがとう」
相変わらず、雛の周りは禍々しい気が漂っている。でも、それが人間から引き受けた厄なのだとわかった今では、そんな厄さえも輝きを放つものに見えた。
「……私は、ね」
雛は宙に浮き、川の流れの中にぽつぽつと顔を出している岩の一つまで飛んでいく。くるりと一回まわって、ごつごつした岩の上に立った。赤いリボンが、フリルのついたワンピースの裾が、翡翠色の髪がそよ風に可憐に揺れている。神様というよりは、妖精のようだった。
「私は……厄神になろうと思ってなったわけじゃないの。……自分の種族を選んで生まれることはできないなんて、当たり前のことだけど。でも、厄神として目覚めた初めのころは、自分がすごく嫌だったわ。私の周りにある厄は、私自身を不幸にすることはないけど――……その、いろいろと……辛いことも、多かったから」
雛は言葉を濁した。負のエネルギーを人から引き受け、溜め込んでいくというのは、傍目に見れば献身的ですばらしいことのように思える。しかし当の本人にとっては、辛いことだろう。人の幸せを守る力ではあるが、雛が自分のために使える力でもない。
「でもね、今はそう思ってない。厄を引き受けることばかりに考えがいってしまっていたけど――あるときに、気づいたの。私の元へやってきた流し雛に、厄だけじゃなくて……感謝の気持ちが込められていたわ。雛人形を流した人間の、『お雛様、ありがとう』っていう気持ちが確かにあったの。それに気づいたとき、まるで自分の世界が拓けたようだった。たったその一言だけで救われた。私がやっていることは、ちゃんと人間のためになることなんだって、誰かを笑顔にできているんだって、はっきりとわかったの」
私は、やっぱり人間が好きなんだわ。雛は微笑んだ。
「そのときと同じ気持ちよ、にとり。優しいねって、私に似合う言葉かはわからない。でもとてもとても嬉しいわ」
細い手が、すっと伸びる。両手を広げて、雛はまたくるりと、一度だけ回った。
「にとり、あなたもね。あなたは、優しい子だわ」
「えっ……」
「あなたのような心の優しい子が――純粋な言葉とか気持ちが、私たち神を生かすのよ」
にとりは、微笑む彼女をぼうっと見つめた。――自分とは、到底違う。生まれる種族を選べなかったのは同じ。けれど雛は、自分の役割にきちんと意味を見出して生きている。河童として生まれ、なんとなくで、技術学校に目標もなくずるずる通い続けている自分とは、雛は全然違うのだ。
陽の光を受けて、水面がきらめく。その中に立つ雛は、眩しすぎた。
「雛――」
彼女に吸い寄せられるように、川の中に足を踏み入れた。河童の衣装は帽子から靴まですべて耐水特殊生地でできている。もちろん滑ることもないように加工を――
「うわああっ」
しているはずだった。が、あろうことかにとりは足を滑らせ、水の中に倒れこむ。
「に、にとり!」
しかも、泳ぎはお手の物であるはずの河童なのに、水中で一回転しバランスを崩し、にとりはそのまま流されてしまった。雛の声がぼやけて聞こえる。息はできるが、水中で一瞬でも恐怖感を味わったのは初めてだ。
(ああ……でも、きれいだなあ)
水底から見上げる水面は、陽光に光り輝いている。きれいだった。差し込んでくる屈折した光がベールのようで、手を伸ばせば触れられそうにすら思えた。
唐突に、視界が赤色に覆われた。腕を引き上げられ、水を滴らせながら空中に出た。
「大丈夫?」
にとりの腕を掴み、びしょ濡れの雛が心配そうな顔をしている。ふと下をみれば、川の流れの真ん中に大きな岩が陣取っていた。このまま流されていたら頭からぶつかってしまっていただろう。溺れることのない河童でも、それは痛い。
「う、うん。ありがとう、雛」
河原に降りてスカートの裾を絞る。水分はすぐに抜けていった。二つに結った髪先も絞ると水が落ちていき、たちまち乾き始める。技術で撥水効果を得た服だけでなく身体的にも、河童は水の影響を受けない。
「河童の川流れなんて、恥ずかしいな……」
苦笑しながら袖の水を抜く。昨日も、歩き慣れたはずの河原で転ぶという醜態をさらしてしまったことを思い出した。
「そういえばあたし、昨日も転んじゃったよね。なんかさ、雛には……」
雛には――。にとりの隣でスカートを絞っていた雛は、はっと息を呑んで手を止めた。すぐ隣にいるにとりの横顔を見ることができない。滴り落ちた水が露の玉となり、足元の草の葉に乗って震えている。それを凝視したまま、何も言わないでにとりの言葉を待った。
「雛には格好悪いところばかり見せちゃってるね、あたし」
にとりは恥ずかしそうな笑みを浮かべ、雛のほうを向いた。その言葉がとてつもなく意外なものであるかのように呆けた顔をしていた雛は、すぐに首を振る。うつむいた彼女が今にも泣き出しそうな微笑を浮かべていたことを、にとりは知らない。
「……そんなこと、ないわ」
「ほんとに、いつも失敗ばかりなわけじゃないんだよ。……って」
にとりは改めて雛の様子を見て、思わず声を上げた。当たり前だが服も髪も、全身水浸し。河童のにとりと違い、彼女の服は防水でもなければ、髪もすぐに乾かない。
「ご、ごめん! あたしのせいで……。そうだ、あたしの家に行こう。飛んで行ったらすぐだし、ドライヤーってのがあるんだ。服も髪もすぐに乾く機械で――」
「あら、平気よこれくらい。気にしないで」
雛は頭につけたリボンの裾をぎゅっと握って水分を落とす。しかしそんなことをしてもリボンはしおれたままで、ほとんど意味はない。
「……そうね、でも今日はもう帰ったほうがいいかしら」
その言葉に、にとりはうろたえた。先ほどから彼女は、にとりと目を合わせようとしない。怒らせてしまっただろうか。
「ひ、雛、ほんとにごめん――」
「にとり」
雛はふわりと浮き上がり、どこか悲しそうに笑う。
「にとり、気にしないで。あなたのせいじゃないわ」
「だって――」
「本当に、そうなの。あなたのせいじゃないのよ。……ごめんなさい」
まるで自分が悪いことをしてしまったかのように、雛はわずかにうなだれる。その顔は怒ってなどいない。ただただ、辛そうに悲しそうに微笑んでいた。しかし、その表情の奥にあるものを、にとりは悟れない。
「雛、待って!」
「ごめんね、にとり」
雛はそのまま、空を蹴って飛んでいってしまった。回転することもなく、一直線にどこかへ。
にとりも飛ぶことはできたが、追いかけるのは憚られた。
まだ高い太陽が放つ強い光のなか、雛の赤いワンピース姿が消えていってしまうのを、泣きそうな気持ちで見つめていた。
* * *
その次の日、にとりは川を下っていくことはしなかった。上流を目指し、山において河童より上位である天狗の活動領域内には入らないように注意しつつ、初夏の瑞々しい匂いで溢れる山の中をどこへともなく歩き続けた。
雛のことが気になっていた。怒らせてしまったなら、もう一度会ってちゃんと謝るべきだ。しかし、別れ際、自分に対して謝罪の言葉を言った雛の悲しげな笑顔が、妙に引っかかる。彼女には何か他に思うところがあるのだろうか。にとりがまったく知りえないような、神様の感覚で。
(やっぱり、河童と神様は違うのかな。種族が違ったら、友達にはなれないだろうか)
でも、人間と河童は盟友だ。にとりが知っている中でも、人間と友人関係を築いている河童は何人もいる。培った技術力を駆使し、便利な道具を作って売り、人間に感謝されている河童もいる。曰く、人間の喜ぶ顔が、ありがとうという言葉が、嬉しいのだそうだ。
(発明品を作るって、そういう……ことなのかな)
昨日の雛の言葉を思い出す。ありがとう、という言葉が流し雛に乗せられてきたとき、すごく嬉しかった――。河童の技術者たちと同じことだ。彼女たちはそれぞれの方法で、人を幸せにしている。
あたしも――。にとりは立ち止まる。
「あたしも、何か作ることで、誰かを笑顔にできるかな」
誰もいない静かな昼の山道で、声に出して呟いてみた。風が吹き、頭上はるか高くで鳥の鳴き声がする。
胸の奥に浮かんだのは、雛の悲しそうな微笑みだった。できることなら、それを心からの笑顔にしたい。
(……無理だよね、そんなの)
しかし、自分は技術学校に通いながら何も作らず、お荷物生徒になっている身分だ。技術を以って人を幸せに、だなんてそんな尊い志、誰より似合わない。
自嘲的に笑い、にとりは歩き出す。いつの間にかずいぶん遠くまで来てしまったようだ。遠くに滝の音が聞こえる。ふと横を見上げればそこは蔦の這う絶壁、崖になっていた。上を振り仰ぐと、遠くに木々が立ち並んでいるのが見える。耳を澄ますと聞こえてくる滝がしぶきを上げる音も、このはるか高いところから落ちている音だろう。
(ああ、とりあえずは……雛に謝ろう。それから、先生との約束も一週間だし、早く答えを見つけないと)
ぼんやりしながら崖沿いに歩いていると、ふいに、軽い音と共に目の前に何かが落ちてきた。
「……?」
しゃがみこんで目を凝らす。土と石の塊だ。だが今歩いているこの山道のものとは少し質が違うように見えた。崖の上から落ちてきたものだろうか。
「え? 崖の、上……から……」
すっと血の気が引くのを感じる。弾かれたように上を見上げ、にとりは目を見開いた。崖の上から巨大な岩が大きく傾き、ものすごい勢いで音もなく落ちてきたのだ。嵐も大雨も降っていない、地盤が緩んでいるはずもないのに、なぜ。
逃げなきゃ。でも、足がすくんで動けない。岩が視界をいっぱいに覆う。にとりは頭をかばって目を固く閉じ――
「にとり!」
後ろから、思い切り引っ張られた。転がるようにして、しかし間一髪で落石を避ける。轟音とともに岩は地面に衝突し、砕けた。今までにとりがしゃがみこんでいた地面は土煙の中、無惨にえぐられている。
青い顔で振り向き、にとりは自分を救ってくれた人物に驚いた。
「……雛」
赤いリボンを風に揺らし、鍵山雛が立っていた。彼女もまた、にとりと同じように顔面蒼白で、息が上がっている。
「……怪我は?」
膝をついてにとりと目線をあわせ、雛は問いかける。にとりは声を発することができなくて、震えながら首を振った。地面に足をこすった気もしたが、そんなかすり傷は痛いとも思わなかった。命があるだけでいい。
「そう……よかった」
真っ白い雛の手が、にとりの両手を包む。彼女もまた、小さく震えていた。手のひらの温度は驚くほど冷たい。
「な、なんか……あたしって、ほんとに、ドジだなぁ……。雛に助けられてばかり――」
「違う」
引きつった笑みで冗談めかして言った台詞は、鋭い一言に遮られた。うつむいて、その顔が見えないままに、雛は続ける。
「違うわ。私のせいなの。全部、私が……」
痛いほど強くにとりの手を握り締め、雛は黙り込む。乾いた風が山道を、沈黙が落ちた二人のあいだを吹きぬけていく。やがて、雛はゆっくりと顔を上げた。いつものような完璧な笑顔はなく、強張った無表情だった。
「私は……厄をこの身にためこんでいく厄神。私自身は厄神だから、人の厄を受けてもなんの影響もないけれど、私の傍にいる存在は違う。人間だろうが妖怪だろうが関係なく、私の近くにくるものはみんな不幸になってしまうの」
「え……?」
「初めて会ったとき、あなたは転ぶはずもない水辺で転んでしまったわね。昨日は川に流された。そして今日は危うく命も落としかけて――それはぜんぶ、私のせいなの。私があなたを、不幸にしてしまったのよ」
ごめんなさい――雛は頭を下げる。しかし、にとりには彼女の言っていることがまだよく飲み込めない。
「昨日の時点であなたの周りには、普通じゃ考えられないくらいひどい厄の気があったわ。これ以上近づかないほうがいいとは思っていたけど、どうしても心配で探していたの。……にとり」
雛はワンピースのポケットから、千代紙で丁寧に折られた流し雛を取り出した。それをにとりの手に乗せる。
赤、緑、白。雛と同じ色彩の着物を着た人形が、黒い切り紙の目でにとりを見上げている。お雛様――彼女が……厄神、鍵山雛が持つ色彩は、ひな祭りの色。赤は桃花、白は残雪、緑は若草――
まるで儚い、春の色だ。
「この後すぐに、これに厄祓いの祈りを込めて川に流して。私がちゃんと引き受けるから。――そして、もう、私に近づいては駄目」
「なんで!」
最後の一言に、にとりは弾かれたように叫んだ。思わず渡された流し雛をつき返そうとしてしまう。しかし、雛の腕がしなやかにそれを押し戻した。
昨日の、河原での会話が耳の奥でよみがえる。
――私の周りにある厄は、私自身を不幸にすることはないけど。……辛いことも、多かったから。
それは、こういうことを言っていたのだろうか?
「こうしている間にも、あなたに不幸が移っていってしまうわ。……じゃあね、にとり。それを流してくれれば――」
「待ってよ、雛!」
立ち上がって去っていこうとする雛のスカートの裾を掴んだ。昨日も一昨日も、もっと一緒にいたいと思いながら見送ってしまった。だけど今だけは、臆病になったら駄目だ。ここで無言のうちに雛を見送ってしまえば、きっと二度と会えない。そんな確信と焦燥から、にとりは必死に叫んだ。
「そんなこと言ったら、誰が雛と一緒にいられるの!? 誰が雛の友達になるの!」
「……わ、私は」
にとりの言葉を予想もしていなかった雛は視線をさまよわせ、何かを押し殺すような声で呟く。
「私は厄神なの。人の厄を引き受けるものなのよ……。友達があるべき存在じゃない」
「だったら、雛の厄は誰が払うのさ!」
「……だ、だから……。私は、厄神なの……厄の影響なんて、受けないって――」
「そういうんじゃないよ、厄って……厄じゃない、そうじゃなくて」
いつの間にか、にとりは泣いていた。ぼろぼろと涙を零しながら、縋るように雛の服の裾を握り締める。離しちゃ、だめだ。
「厄って、不幸だけじゃないでしょ……悲しいとか辛いとか、さみしいとか……そういう気持ちだって、持ってて苦しいものじゃないか。雛がそんな気持ちになったとき、誰が助けてあげられるの……?」
言葉の端が、山道の静寂に消えていく。座り込んだままの膝の上に乗せた流し雛に涙が落ち、着物の千代紙の赤が、ぼやけて濃くなった。
やがて、長い沈黙のあと。かたくなに雛の服を握り締めるにとりの手の甲に、何かあたたかいものが落ちてきた。
顔を上げる。――雛が泣いていた。
唇を真一文字に結んで、顔をゆがめて、必死に涙をこらえるようにして、それでも雛の両の瞳から大粒の涙が零れている。
彼女は声にならない声でささやいた。
「しょうがないじゃない……」
その涙声が、雛の感情のすべてを語っていた。人の前には現れず、人の厄を受け入れ、人の幸せを守り、人に感謝されることに喜びを見出す。そんな秘神としての在り方を嘆いているわけではない、けれど。
彼女の隣には誰もいないのだ。鍵山雛は、ずっとずっとひとりぼっち。
「……優しい」
雛は涙を拭って、無理に笑顔を作った。
「にとりは、優しいわ」
完璧が少しだけ崩れてしまった笑顔があまりに痛ましい。雛の細い指が、にとりの手に触れる。自然と、裾を掴む指の力を緩めてしまった。手が解かれる。雛は流し雛を再びにとりの両手に包ませ、地面を蹴る。
赤いスカートが翻った。
「雛……!」
「だからね……だからこそ、ね。私は、あなたを不幸にしたくない。さみしいのも悲しいのも、我慢できるわ。でも、私は……私のせいであなたが不幸になってしまうのは、嫌なの。どうしても、耐えられないの」
雛が背にした東の空は灰色に曇っていた。先ほどまで青く高く晴れていたのに、山の天気は変わりやすい。にとりは、雛がまるでその暗い雲の渦の中に吸い込まれて消えてしまうようで、怖くて、何も言えないままに何度も首を振った。
「さよなら」
別れの言葉が、最後に残った涙の一雫を落として、空間に滲んで溶けていく。雛はそのまま、振り返らずに空の中へ去った。
にとりは地面にぺたんと座ったまま、流し雛を胸に抱いた。涙が地に点々と落ちる。あっちにも、こっちにも――雨が、降り始めていた。
「ひなぁ……」
優しい人の言葉が、まだ心の表層で鳴り続けた。嗚咽をこぼし、上体を折り曲げて流し雛を抱きしめる。鼻先が千代紙の着物に触れた。赤い赤い着物からは、淡く桃の花の香が漂っている。
しかしそれもすぐに、雨の匂いにかき消されていった。
* * *
滴が屋根を、窓を叩く音で、目が覚めた。ぼんやりした頭で部屋の天井を見つめ、目をこする。まぶたがはれぼったく、重い。
「……寝てたんだ」
それも床で。風邪の心配も少ない初夏の季節に妖怪の身とはいえ、よろしくないとは我ながらに思う。おまけに帽子は横に投げ捨てられるように転がり、玄関には青色のブーツが脱ぎ散らかされている。なんて投げ遣りな。薄暗い部屋を横切り、にとりは照明のスイッチを入れた。何度か点滅したのち、電球は白い光を放つ。――机の上に置かれたものが、目に入った。
「雛……」
流し雛。雨の帰り道、無意識のうちに両手で大事に抱えてきたのだろうか、それはちっとも濡れていない。
(厄……か)
雛が言っていたことが事実なのは、わかっている。昨日今日と、こまごまとした不運なできごとに見舞われていた。機械が壊れた、物を失くした、妖精にちょっかいをかけられた――自分でもここ数日は妙についてないな、と思ってもいた。
流し雛を、流してしまおうか。雛に言われたとおりに。そうすればすべてもとどおり、自分についた厄は祓われ、何もかも終わる。
雛と出会ったことさえも。あったかい空気を持つ雛と、友達になりたいと思った。その気持ちも一緒に、流してしまえるのだろうか。
「……そんなの、やだ」
流し雛を手に取り、にとりは寝台に横になった。かざして眺める。人々に幸せになってほしいという雛の想いがこめられているのだろう、丁寧に丁寧に、折られていた。
厄がどうの、不幸がどうの。そんなものは欠片も気にならない。雛に厄神の真実を告げられたときも、何も思わなかった。ただ、雛が、私たちは一緒にいちゃ駄目、友達にはなれない、これでさよなら……そう言っていなくなってしまう、二度と会えなくなってしまうのだけが嫌だった。だから必死に、彼女を引き止めた。
でも、雛はそれを望んでいない。いいや、彼女はにとりのことが嫌いなのではない。自分の近くにいることで、にとりが不幸になってしまうのが耐えられないのだ。
(あたしは、そんなの、気にならないのに)
それでも――にとりにとってはかまわないことでも、雛が気にして心を痛めるのなら、それは間違っているのかもしれない。一緒にいたいというにとりの願いのほうが、抑えるべきことなのかもしれない。
にとりは寝返りを打つ。すると真横の壁に掛かっていた時計が落下し、鈍い音をたてて頭に直撃した。
「あはは……ほんとに、ついてない」
ついてない。――流し雛を、見つめる。別れ際の雛の言葉が、悲しい笑顔が思い出される。
笑っていてほしいと、にとりは思った。雛が人間の厄を引き受け、笑顔を守っているのと同じように。雛にも笑っていてほしい。できれば、ひとりぼっちでなく――
――あたしも、何か作ることで、誰かを笑顔にできるかな。
昼間、あの山道でふと心に浮かんだ気持ち。あのときはすぐに、やる気も何もない自分には無理だと自嘲して投げ捨ててしまった。けれど。
(あたしの力でできることで……雛を笑顔に、してあげたい)
もう一度、流し雛を手に取った。それは雛が、にとりの不幸を祓って――にとりが幸せであってほしい、笑っていてほしいと、願って作ったものだ。
うなだれていた顔を、あげた。
背筋をまっすぐに伸ばした。
流し雛を包む両の手のひらがあたたかくなっていく。手のひらは、何かを作り出すものだ。そこから、熱が伝導するように全身にあたたかさが広がる。未だ、雛の別れ際の言葉が渦巻き続けている胸の奥で、心臓の鼓動が鳴っている。
にとりは寝台から降りると、作業机の椅子を引いた。机上照明をつけて筆記具を手に取り、定規分度器その他を引き寄せる。設計図帳を開いた。
心臓の音は、どきどきしている、と言っていいほどに鳴っていた。それは緊張でも不安でもない。たとえて言うなら、幼いころ、おもちゃ箱をひっくり返してたくさんの玩具に囲まれ目を輝かせたときのような。こんなものを作りたい、あんなものがあったらいいなと、あらゆる希望を形にできると信じて、真っ白な紙に無限の夢を描き続けていたときのような。
情熱という不可視のものが本当に存在しているなら――この心の音が、そうなのだろうと思った。
雨は、その日の夜には上がっていた。
* * *
それから数日。
梅雨入りしたにもかかわらず晴天が続いている。フリルのついたカーテンを開いた丸い窓枠の向こうに見える、からっとした青空を眺めて、雛は小さくため息をついた。にとりとは、あれから会っていない。それもそのはず、雛はあの日以降、外に出ていないのだ。
自分のことを思いやって、叫んで、泣いてくれたのは彼女が初めてだった。なんて心の優しい子なのだろうと思った。だけど、だからこそ、自分のせいで不幸にしてしまいたくなかった。外に出て万が一、にとりの姿を見かけてしまったら――せっかく厄神として感謝だけを糧に、支えに、一人で生きることに慣れたのに、そんな生き方が揺らいでしまいそうだ。
厄を負った雛人形が近くまで流れてくれば、すぐにわかる。それなのに、あの日から雛人形がやってくる気配は一向にない。にとりはあれだけの厄を身にまとっておきながら、未だに祓いをせず過ごしているのだろうか。それとも――
(……にとり、大丈夫かしら)
急に不安に襲われる。もしかして別れた後、危ないことに巻き込まれていたら。雛人形も流しに行けないほどの大怪我や……病気かもしれない。もしかしたら、もしかしたら、命を――
「!」
ぐるぐると悪循環する思考回路に息が詰まりそうになる寸前、弾かれたように立ち上がった。雛人形が流れてくる気配がする。にとりが流したものかはわからないが、雛は家を飛び出し、川へ向かった。
にとりの厄を負った人形であればいい。だけどもし本当にそうだったら、なぜかさみしい。ふたつの気持ちを抱えて木々の間を走り抜け、川にたどりついた。
「わあ……きれい」
淡い、優しい紫色の紫陽花が、太陽の光のもとで一面に咲き誇っている。息を整えながらそれを眺めて、うらやましい、と思った。この身の周りに漂う厄も、あんなふうに素敵な色で、あんなふうに人の心を豊かにできるものならよかったのに。自分には、こんな紫陽花を一緒に眺めて、きれいだね、素敵だね、なんて言いあえる友人もいないのだ。素敵なものを素敵だと分かちあえる人がいれば……。ただそれだけを願っても、叶わない。どこに行くにも、何を背負うにも、何を守るにも――ずっと、ひとり。
そこまで考えて、雛は慌てて首を振った。厄を疎むなんてこんなこと、考えたことはなかった。この濁った紫色の厄は、自分が人々の幸せを守った証、勲章のようなものだとずっと信じてきたのに。
にとりを不幸にしてしまい、親しくなりたかったのに一緒にいられない、その原因……いつの間にかそんなふうに、見てしまっていた。
――でも、それもまた事実なのだ。
川べりに近づくと、ちょうど上流から水面を滑るように流れてくる小さなシルエットが見えた。水に片手を浸して、それを待つ。だんだん高くなっていく昼前の気温のなか、川の涼しさは指先に心地よい。
やがて、流し雛が近づいてくる。……が、その奇妙な姿に、雛はぽかんとした。何か……両手に乗るくらいの大きさの、薬カプセルのようなものに雛人形が括りつけられているのだ。
「……?」
雛人形と不思議な物体は手元までやってきた。すくい上げて、滴を払う。カプセルをひっくり返して表面を調べ、小さく記された「河城」の文字を見つけた。――にとりだ。
「なんだろう?」
カプセルの中身は気になるが、とりあえず厄祓いが先決だ。雛は流し雛をふわりと宙に浮かべる。人形は濃い紫の霧を発して消えた。だいぶひどい厄を負っている。これでにとりの不幸も消えただろう。ほっとする反面、胸の奥が少しだけ軋むように痛んだ。
「……さて」
カプセルに視線を戻す。ひねりながら左右に引っ張ると、簡単にカプセルは開いた。
中には、雛が見たこともない機械が入っていた。両手に収まるサイズで、長方形の角を丸くした――カステラに似ている形。けれど少しだけ湾曲していた。緩いカーブの内側のほうに、赤と青のボタンがついている。
機械というものはあまり知識もなしにいじるのはよくない。カプセルの中を再びのぞくと、小さな紙切れが一枚、入っているのに気づいた。両脚を揃えて地面に座り、それを拾い上げてみる。この機械の取り扱い方を簡潔に記した説明書だ。雛宛てと書かれており、にとりの署名も入っているが、雛への私的なメッセージは何もない。箇条書きで機械の扱い方が書いてあるだけだ。
「えっと……青いボタンを一回押します」
恐る恐る押してみる。電子音がして、青いボタンが光った。
「押したら、図のようにして機械を顔に当てます。……こんな風に?」
わかりやすい上になかなか達者な絵が描かれている。機械の上下の端を片耳と口の傍まで持ってくるかたちになった。
その後については、説明はない。機械はどうやら既に作動を始めているようで、耳元で鈴の転がるような音が聞こえる。オルゴールかな? と思ったところで鈴の音は止み、
――雛?
にとりの声が聞こえた。びっくりして機械を取り落としそうになる。
「えっ、に、にとり!?」
これは、にとりの声が入っている機械なのだろうか。驚きながら黙ったままでいると、また呼びかけられる。
――雛ー? 聞こえてる?
「えっ、えっと……?」
――ああ良かった、ちゃんと作動してるみたいだね。
「にとり……なの?」
――うん、そうだよ。
「どこか、私の近くにいるの?」
――いいや、違うよ。この機械は電話機って言ってね、離れたところにいる二人が会話できる物さ。
驚いたことに、この場にはいないにとりと会話をしていた。それも、こんな小さな機械越しに。河童の――いや、にとりの技術力に、雛は感嘆した。
――あのさ、あたしは……。
電話機の向こうから、くぐもったにとりの声が聞こえる。少しの間をおいて、にとりは語りだす。
――あたしは、厄とか不幸とかそんなの関係なくって、全然怖くもなくって……だから、ええと……、あたしは、雛と、仲良くなりたいんだ。でも、雛の近くにいったら厄が移っちゃうんでしょ? それが事実だってのはわかるし、そうなったら雛が辛い思いをするのもわかったよ。でもさ、あたしは、雛に笑っていてほしい。雛が人間の厄を引き受けて、人間の笑顔を守りたいって思ってるのと、同じ気持ちだよ。
「……うん」
――それで、そのために何ができるかなって、考えたんだよ。あたしは河童だけど、実は……ほかのみんなと違って、何かを作り出そうと思える意欲なんてない、落ちこぼれだったんだ。でも、どうしても、雛のために何かしたいって思った。あたしの力で何ができるかなって考えて……やっぱり、物を作るっていうことに行きついたんだ。そしたら、不思議なくらい力がわいてきた。楽しいって思えたんだ。何かを作ることがこんなに楽しい、意味のあることなんだって思えたのは初めてだよ。……それで、勢い任せにこれを作ったんだけど……あたしとしか会話できないし、あんまり……雛にとっては面白いものじゃないかも――
「そんなことない! すごく……すごく嬉しいわ、私……。ありがとう、にとり。本当に……」
うまく言葉が出てこない。気持ちのすべてを伝えられない。胸に詰まる嬉しさは涙になって零れ落ちてくるばかりだ。それでも、言葉にならない気持ちは小さな機械越しに、にとりには伝わったようだった。
――ありがとう。……あはは、なんだかくすぐったいな。何か作って、そんなふうに言ってもらえたの、初めてだよ。あのさ、これなら、違う場所にいても話ができるから……今は、一番いい方法かなって思うんだ。
照れたような小さな笑い声が聞こえる。はにかんだにとりの顔が目に浮かぶ。
――でも、ちゃんと顔見ておしゃべりしたいとも思うから、そのうち映像と一緒に会話もできる仕様に改良したいなって、考えてる。
「うん、うん」
泣きながら何度も頷く。涙でぼやけた視界は、一面、紫陽花の淡紫。いつか、いつか……機械の映像越しにでもいい、にとりと一緒にこの風景を見て、美しさを分かちあえたら、それはなんて素晴らしいことだろう。
――でもね。
にとりが、いたずらっぽく言う。笑みをこらえているのがわかった。
――どれほど先になるかわからないし、やっぱり映像じゃさみしいなって、思うから……
「たまに、こうして会いにきてもいいかな?」
電話機を当てた右耳と、そうじゃないはずの左耳から、同じ言葉が聞こえた。そして、座り込んだままの背中に、軽く、何かが当たる。
「にとり……!」
雛は肩越しに振り向いた。緑の帽子の下で、青い髪が風に揺れている。
にとりが、雛と背中を合わせるかたちで、そこに座っていた。
「あたしが転んだときに手を差し伸べてくれたのも、川で滑ったときに引き上げてくれたのも、落石に巻き込まれそうになったときに助けてくれたのも。それから、厄が祓えるようにって流し雛をくれたのも全部、雛でしょう。ほんと、なんだか雛に迷惑ばかりかけちゃうかもしれないけどさ」
にとりは電話機を耳元から離し、通話ボタンを切った。雛のほうを向いて、にこっと笑う。
「あたしは、雛と一緒にいたい。厄が移っちゃったなら、流し雛を送るからさ。ときどきは、こうやって会いに来たいな」
近くにいられなくても、そばにいる。そんなかたちで、一緒にいよう、と。
「うん……!」
「もう、泣かないでよ、雛」
「にとりだって、泣いてるじゃない」
「もらい泣きだよ」
二人して笑った。雨上がりのやわらかい日差しのなかで、泣きながら笑いあった。
しばらくして、雛は目じりに残った涙を拭いながら言った。
「でも、私がここにいるって、よくわかったわね」
「うん、電話機は流し雛にくっつけたから、拾い上げた雛が川のそばにいるのは予想できたし……」
にとりはそこで一度言葉を切り、川沿いに咲き誇る紫陽花の列を眺めた。
「ここは紫陽花が咲いてるから。なんとなく、雛は紫陽花のところにいそうな気がして」
「えっ……」
目を細めて紫陽花を眺めるにとりの横顔はどこまでも純粋だ。その言葉にはきっと、なんの深い意味もない。
にとりは両手を広げてくるりと一回まわり、微笑んだ。
「ね? 実際、そうだったでしょ」
「そっか……。うん、そうだわ」
胸に手を当てて、雛は答えた。体の奥で心臓が動いていた。神様でも、鼓動は存在する。神様でも、自分は生きている。
目の前の彼女が笑っていてくれるなら、そんな彼女と友達になれたなら、もう、この身を覆う紫色の厄を悲しいものだなどと思うことはないだろう。
「きれいだよね。きっと、今がいちばんの満開だ」
「ええ……とっても」
露を湛えた淡色の花弁が陽の光をうけて、きらりと輝いている。青々とした、形の良い葉の緑や、紫陽花の向こうを流れる澄みわたる川のせせらぎもさわやかだ。幻想郷のなかでも一番に幻想的な場所なのではないかといえるほどに、美しかった。
「……そうだ、にとり」
「んん?」
無邪気な顔でこちらを向くにとりに、雛は右手を差し出した。今さらかもしれないけどね、と恥ずかしそうに前置いて、にとりの目をまっすぐに見つめる。
「私と、友達になってください」
目をぱちくりさせながら、にとりは雛を見た。その視線がゆっくり、差し出された雛の手まで降りていく。
そして、照れくさそうに笑って少しだけ首を傾け、結った髪先をいじった。
「えへへ……、うん」
にとりの手が、そっと伸ばされる。
「よろしくね、雛」
触れた手のひらは、初めて会った日と同じように、あたたかかった。
* * *
「おーっ、にとりちゃん!」
「にとり、おはよう!」
未踏の渓谷、河童の技術学校。数日振りに顔を見せたにとりの姿に、生徒たちが声をかけた。にとりは工具を手にし作業台についたまま彼女たちのほうを振り向き、笑顔で応える。
「おはよう!」
「……あら、にとりさん」
にとりがそれぞれの準備に取り掛かる生徒たちの背を見送っていると、驚きを含んだ声で呼びかけられる。作業台のむこう側で、先生が目を丸くしていた。
「ああ、そうよね。そういえば一週間、よね。……なんだかずいぶん、凛々しく――というのかしら、地に足が着いたように見えるわ。成長期かしらね、少し見ない間に」
先生は感心したようににとりを上から下まで眺め、独り言を呟きながら、帽子の乗ったにとりの頭にぽんぽんと手をやった。
「それで、どうかしら。やりたいと思えること、見つかった?」
「はい! 今、作りたいものがあるんです」
「それって……エンジニアになる、ってことかしら。驚いたわ、先生てっきり、にとりさんはエンジニア以外の道を見出してくるものだと思ってた」
「ああ……、えっと、あたしは、技術者になろうと思ってるわけじゃないんです」
にとりは手にした工具をもてあそびながら、言葉を探すように、うつむき加減に黙りこんだ。やがて、まっすぐに顔を上げ、一週間の約束の問いに答えた。
「自分がやりたいこととして、何かを作ることがぴったり当てはまったというか……技術者を目指そうと思ったんじゃなくて、発明した物で、誰かに楽しいなとか、便利だなとかって、思ってもらえたらいいなって。あたしが作り出したもので誰かが笑顔になってくれたら、それはすごく素敵なことだなって、思ったんです」
先生は驚いたような、感心したような顔で何度も頷きながら、にとりをまじまじと眺めた。一週間前、あんなに自信のなさそうにうなだれていた生徒が、今はとても晴れやかな表情できりりと前を見つめている。
「うん。そうだわ、エンジニアとか発明家とか……そんな名前は、きっと後からついてくるのよね。にとりさん、あなたはあなたがやりたいと思うことを、あなたの信じた方法で叶えなさい」
「はい!」
先生はにとりの肩に手を置いて言った。力強い返事が返ってくる。自分の力で、誰かが笑顔になってくれたら――。それはなんと妖怪らしくなく、なんと河童らしい考えだろうか。きっとこの子は、人の幸せをつくりだせる存在になるだろう。
自分の持ち場へ歩きながら一度だけ振り返って、作業台に向かうにとりの横顔を窺い、先生は満足げに頷いた。
「よーし……がんばるぞ!」
今は、大切な友達のために。そして、まだ見ぬたくさんの人たちのために。
帽子を被り直し、にとりは真新しい設計図を広げた。
だが――子ども河童のすべてが、何の迷いもなしに技術者を志しているわけでは、なかった。
それは今から、数年前の話。
「にとりさん?」
真上から名前を呼ばれて、にとりは我に返った。顔を上げると、技術学校の先生が呆れ顔でこちらを見つめている。
「どうしたの、設計図が描けないのかしら? もう皆、実習に取り掛かってるわよ」
「あ……」
あたりを見回す。すでに机に座っているのは自分だけで、ほかの生徒はみな、思い思いの場所へ散っていた。保管庫を物色している者、煙の上がるはんだごてを手に金属板と格闘している者……。騒がしく、楽しそうに実習を進める彼らを一通り眺め、にとりは手元の設計図帳に視線を落とす。分厚い紙束は、多種多様な発明品のデザインで埋め尽くされている。しかしそれはあくまでアイデア段階であり、きちんとした設計図と呼べるものはどこにもない。
「あら、これなんかいい発想じゃない。……これも、独創的よ。ねえ、形にしてみたいと思わないの?」
隣の椅子に腰掛け、先生が聞いてくる。にとりは設計図帳を見つめたまま、首を傾げた。
「……思えないです」
「うーん、そうなの……。でも、にとりさんは面白い発明をたくさん考えるし、構想で止まってしまうのはもったいないと思うわ」
「……考えるのは好きです。だけど、作りたいと思えません」
「そう。……どうして?」
先生の問いに、少しだけ戸惑った。こっそり視線を上げ、周りで作業にいそしむ生徒たちを見つめる。すると彼女の心の中を察したのか、先生は笑って、声を潜めて言った。
「みんなは聞いていないから、言ってみなさいな」
にとりは頷いて、呟くように本音を告げた。
「……面倒だって思っちゃうんです。図を描いていくのは好きだけど、それを作ろうと思うと、急に興味がなくなっちゃう。思いついたもののデザインを描くのは簡単だけど、形にするのって大変だから……きっと、そこまでしたいと思えるほど、あたしは発明が好きじゃないんです」
自分は、技術者に向いていないんだ。にとりはうなだれた。技術学校に入ってからずっと、こうだった。他のみんなほど、発明に情熱を持てない。もちろん興味がないわけではない。むしろいろんな発明品のアイデアを考えるのは大好きだ。でもそれはあくまで趣味程度であって、実際に形にするほどの労力を割こうと思えるほどの熱意も、理由もなかった。なんとなく、で、技術学校に通っていた。
「そうね……。わかった。それじゃあ、にとりさんはこの一週間、みんなとは違う授業をしましょう」
「え?」
先生はにとりの肩に手を置いて、いたずらっぽく笑う。
「この一週間、技術学校には来ても来なくてもいいわ。気が向いたら来てね。そのかわり、にとりさんは自分が本当にやりたいと思えることを見つけてくるの。発明品のことじゃなくていいのよ、河童だって全員が全員、技術者になっているわけじゃないもの」
にとりももうすぐ、子どもとは呼べない年になる。一人前の『何か』にならなくてはいけない。その道しるべを、自分の力で見つけなくてはいけないのだ。
「……わかりました」
「さあ、それじゃあ、今日は帰ってもいいわよ」
にとりは頷いて立ち上がる。設計図帳をリュックサックにしまって先生に一礼すると、歩き出した。
その小さな後ろ姿を見送り、先生は腕を組む。
「一週間でやりたいことを見つけるのは難しいわよね……。でも、自分の本心と向き合うにはちょうどいい時間かもしれないわね」
滝の音が、遠くなる。渓谷からだいぶ離れてきてしまった。
家に帰らず、技術学校で使う道具が入った大きなリュックサックを背負ったまま、にとりは川沿いに下って歩いていた。滝から続いている澄みきった川が、涼やかにせせらぎを響かせる。それ以外は何も聞こえない、ひとりぼっちの山道。生い茂る水辺の草をかきわけ、途中で手折った蒲の穂をくるくる回しながら、何も考えないで歩き続けた。
やがて水辺の彩りは紫陽花の群れに変わっていく。じきに満開になるだろう紫陽花は、早咲きのものがいくつか、山の緑に淡い色彩を添えていた。きれいだ。空っぽの心に、優しい紫色が焼きつく。
――その、深緑と淡色のむこうに。にとりの目は、不自然な真紅を捉えた。河原に立ち並び青々とした葉をつけている木々の中、たしかに、真っ赤な何かが動いている。
(なんだろう? 動物じゃないよな。河童でも……ない。ああ、そういえばここはもう、河童の行動圏からずいぶん離れてしまってるか)
だとしたら……にとりは、はっとして足を止めた。
(人間かな? だったら、ちょっと怖いな)
少し屈んで、紫陽花の群れに身を隠す。人間は怖い。いいや、怖い、というのはちょっと違うかもしれない。恐れているのではなく、会うのが恥ずかしいのだ。人間は好きだけど、どう接したらいいのか、人見知りな河童にはいまいちわからない。最近の人間は怖いもの知らずで、河童に興味津々で近づいてくるとも聞いている。
だけど、あの赤は何なのか、確かめてみたくもあった。にとりは屈んだままそっと紫陽花の垣根を抜け出て川沿いを離れ、木の幹に隠れながら赤いものに近づく。
それは、女の子だった。赤い赤い、フリルのたくさんついたワンピースを着て、大きなリボンを頭に飾り、くるくると回りながらゆっくりと、どこへともなく進んでいく。よくよく耳を澄ませば、鼻歌も歌っている。あっちへ行き、こっちへ行き、まるで一人でダンスでもしているかのようだった。
しかし彼女が人間でないことは、妖怪の一員であるにとりにはすぐにわかった。
彼女からは、強烈な禍々しい力が感じられた。妖怪が持つ独特の気配や魔力、威圧感――というにはなんだか少し違う気もしたが、とにかく、人間の持ちえるものではない恐ろしげな気を、少女は放っていた。
(楽しそう……)
行く当てもなく、ゆくべき道もなく。ひとりきりで、ただ無心に山を下ってきた自分と同じく、彼女もひとり、目的地もないようだった。なのに、楽しそう。にとりは思わず、隠れるのも忘れてぼんやりと彼女を見つめた。
「あら?」
そのとき、回転している少女と目が合ってしまった。慌てて木陰に身を隠そうとしたが、少女は回るのをやめてこちらをじっと見ている。観念し、にとりは歩み出た。でも、何も言うべき言葉が見つからず、ただ黙ってうつむいてしまう。
「ねえねえあなた、迷子?」
少女はにとりのそばに近づいては来ないで、距離を置いたまま、にとりに聞こえるように大きめの声で聞いてきた。
「え、えっと、ううん。迷子ってわけじゃ……」
でも、心は迷子のようなものかもしれない。そんなことを思っていると、無意識のうちに語尾が消え入ってしまった。
「そう。どこへ行くの?」
少女は距離を詰めようとしないままで聞いてくる。私から近寄ってもいいのかな。不自然な距離感に戸惑いつつも、にとりは答えた。
「目的地は、ないんだ」
「あら、お散歩なのね」
「うん……。そんなもの、かな」
近づいてみよう。にとりは彼女に向かって歩き出した。初めて会った、不思議な雰囲気を持つ少女に、なんとなく興味が沸いていた。
しかし、近づいてくるにとりを見て、少女は半歩だけ後ずさった。
その顔はあくまで微笑を浮かべており、にとりを嫌がっているのでもおびえているのでもなかったが、確かに少女は、わずかではあったがにとりと距離をとろうとした。
「あのさ……あなたは、誰?」
赤い少女に聞いてみる。少女はそれ以上後ずさることはなく、近くに来たにとりに笑顔で答えた。
「私は鍵山雛よ。あなたは?」
「あたしは、にとり。谷河童の、河城にとりって言うんだ」
「へえ、河童なの。じゃあやっぱり、発明が得意なんだ?」
「あ……」
雛の口から出た言葉に、にとりは思わず視線を泳がせた。河童全体としてはそれで正しいのだが、自分に対して聞かれてみれば、肯定できなかった。
「どうしたの? 私、変なこと言っちゃったかしら……元気なくなっちゃった?」
雛が心配そうにこちらを伺う。そして、彼女はふいに笑みを潜ませて少しだけ真面目な顔をし、続けて独り言のように呟いた。
「厄の気は……ないみたいだけど」
「えっ?」
聞き取れずに雛の顔を見たにとりに、雛は微笑んでみせた。
「いいえ、なんでもないの。――ねえ、何か困っているの?」
雛の笑顔はどこまでもほがらかで、その雰囲気はどんな心の闇も包んでくれそうなほど温かかった。進むべき道がわからない、行き場の無い焦りを相談したい。にとりは雛の優しい問いに頷きかけたが、思いとどまった。初対面の人にするような話じゃない。
それに、雛と自分の間に依然としてある微妙な距離が、何とはなしににとりの言葉を阻んだ。
「ううん、大丈夫だよ、別に何も……。そうだ、雛さんは人間じゃないよね。種族は何?」
すると雛は一瞬だけ目をぱちくりさせ、すぐにまたほんわかした笑顔に戻った。呼び捨てでいいよと言って、かわいらしく首をかしげる。
「私はー……神様なの」
「神様! ええっと、ダンスの神様とか?」
先ほどの雛の回転を思い浮かべながら聞くと、彼女はくすくすと笑った。
「いいえ、なんて言うのかしらね……。人間が好きな、ただの神様よ。たまーに、人間のお手伝いをするの」
どうも漠然としたことを言う。にとりにはその『人間が好きなただの神様』のイメージがよくつかめなかった。だが、会って間もない相手に、あまり質問ばかり浴びせるのはあまりよくないだろう。
「へえ! あたしも、人間のことは好き――あわっ!」
雛のほうに一歩踏み出す。しかしそのとたん、水辺のぬかるみに足を取られたのか、にとりは派手に転んだ。
「あらら、大丈夫?」
「あっちゃー……う、うん、平気」
雛が駆け寄り、起き上がるのに手を貸してくれる。そっと触れた手のひらはあたたかい。
「おかしいなー、いくら水辺とはいえ、転ぶほど悪い足場でもないのに。だいいち、川のそばなんて歩き慣れてるし……」
怪我はないが、スカートが汚れてしまった。でもちょっと水にさらせばすぐ落ちるだろう。河童特製の生地でできているのだ。防水効果があるし、湿った不快さもない。
「……にとり」
ふいに名前を呼ばれ、にとりは雛を見た。彼女は緑の髪をそよ風になびかせ、にっこりと笑った。
「服が汚れちゃったわね。早く帰って洗うといいわ」
「あ、ううん、これは特殊な生地でできてるから、これくらいの泥なら川に少しひたせばすぐに――」
「いいえ。やっぱり、ちゃんと洗ったほうがいいわよ」
雛は変わらず、完璧な笑顔のままにそう言う。どことなく有無を言わせぬ感じがあり、にとりはあいまいに頷いた。
「それもそうかな……」
「ええ、そうよ。――それじゃあね」
「あ……」
初夏の青い空に、雛の赤色のシルエットが浮かび上がった。笑顔でにとりに手を振ると、彼女はそのままくるくる回転しながらどこかへ行ってしまう。その様子も、特に目指す場所があるようではない。それでも、なぜだか楽しそうに見えた。
ぽつんと取り残されたにとりは、雛の姿が木々の向こうに消えてしまうまで見送り続けた。
「不思議な子だな……」
呟いた言葉は、山の静けさに吸い込まれていった。
また、会えるかな。会いたいな。神様と河童は、友達になれるかな。
足元を見つめて、考える。ほんの少し言葉を交わしただけだったけど、雛は優しくてほがらかで、何でも前向きに考えているような心地いい雰囲気があった。それともあれが、神様の持つ貫禄なのだろうか。
それに、人間が好きというのはにとりと一緒。神様に年齢があるのか知らないが、見た目に関すればにとりとさほど変わらない年頃の女の子だ。仲良くなってみたいと思った。それは純粋な親しみだったのかもしれない。――興味だったのかもしれない。にこやかで明るい雛が持つ、不似合いなほどの禍々しい気配。そのギャップが、心の隅にひっかかるように気になっていた。
とりとめもなくいろいろなことを考えてからにとりは歩き出し、川に飛び込んだ。水の中は空気中よりも温度が低く、ひんやりと身体を包み込む冷たさが気持ち良い。水底まで潜り、上流にある家に向かって流れに逆らうように泳ぎだした。
家のそばまで着いたにとりが川から出るころには、スカートの泥はすっかり流れて落ちていた。
* * *
翌日。にとりは技術学校へは行かず、手ぶらで昨日と同じように川を下っていた。心を空っぽにして、山の今まで行ったことのないところまで行ってみようと思ったのだ。家の中であれこれ悩んでいても、進むべき道はみつからない。
しかし、昨日と同じ道をついつい選んでしまったのはきっと、心のどこかで、雛に会えるかもしれないと期待していたからだろう。
(ここだったよなぁ……)
木々の立ち並ぶ森を背にし、紫陽花の葉も青々とした川べりに立つ。昨日、雛と出会った場所だ。とはいえ、彼女は目的地もなく漂っているふうに見えた。今日も同じ時間に同じところを通るとは限らない。それに加えて、こんな待ち伏せじみたこと、変かもしれない。
「どうしよう、やっぱりやめようかな……」
考えれば考えるほど、自分が無意味で変なことをしているように思えてきてしまい、にとりは水面に映る自分の顔を眺めた。落ち込んだ顔が見える。無意識のうちに、ため息が出た。
すると突然、水面を見つめる視界の中に鮮やかな赤が飛び込んできた。何かが、上流から流れてきたのだ。
「人形?」
思わずそれを拾いかけたが、はっとして伸ばした指を引っ込める。白、緑、赤の着物を重ねて着、竹舟に乗って川を流れていく紙人形に、見覚えがあった。――流し雛だ。人間の厄を引き受けて流されていくと聞いたことがある。人間がおこなう、厄を引き受けてくれる神様への祈りごとだ。第三者が勝手に拾っていいものではない。
(……雛、みたいだ)
白、緑、赤の色彩。川の流れにのって、くるくる回りながらたゆたっていく姿。それは、鍵山雛によく似ていた。その名前も流し雛、お雛様だ。
何とはなしに、遠ざかっていく流し雛の行き着く先を見届けたくなった。立ち上がって、歩き出す。
(流し雛も……ちゃんと目的を持って、流されていくんだよな)
平穏に過ごせますようにという祈りを込められて、人間の厄を負って神様のもとへ向かう。ただの紙人形ではあるが、とても立派なものではないか。
ゆっくりと回転しながら、流し雛は水面を滑る。ただそれだけをぼうっと見つめながら歩いていくと、ふいに、白い手が流し雛を川から拾い上げた。
「あっ」
思わず声を上げ、流し雛を拾った手の主を見た。そこでにとりは、再び声を上げそうになる。
「あら? にとりじゃない」
そこにいたのは雛だった。水がしたたる流し雛を大事そうに両手で持ったまま、にとりを見つめて驚いたように目をぱちくりさせている。
なんという偶然だろう。たまたま流れてきたお雛様を、雛に似ていると思って追いかけてきたら、その本人に行き当たった。
「雛! ……あ、えっと、おはよう……」
何と言っていいのかわからずに、とりあえず挨拶だけ。妙なところで人見知りが顔を出してしまう自分の性格を恨めしく思ったが、昨日と変わらない雛の笑顔を目にすると心が温かくなった。
「おはよう、にとり」
雛は拾い上げた流し雛を手に持ったままだ。にとりがそれをじっと見つめているのに気づき、雛は言った。
「安心して。これは、私のもとに流れ着くべきものだから」
「……え? それって」
少しだけためらったように視線を落としてから、雛は流し雛を愛しそうに見つめた。
「ええ。私は流し雛の神――厄神なの」
そう告げると、流し雛をふわりと宙に浮かべる。すると流し雛は音も無く霧散し、深い紫色の気体を発した。その気体は雛のほうに吸い込まれるように消えていく。唖然として眺めるにとりにもわかった。あの紫色の霧状のものが、厄なのだろう。人間が祈りを込めて流した厄。雛は、それを引き受ける厄神様なのだ。昨日、雛から感じ取った妖力でも魔力でもない禍々しい気配は、彼女が回収した厄の気だったのだ。
「ね……わかったでしょう。私の周りには、厄がいっぱい溜まっているの。私がいつも回っているのは、厄が私から離れていかないようにするおまじない。人間の元に返っていってしまわないように、留めているの。それが、私のやるべきことだから」
雛はそこで言葉を切った。ためらうような沈黙をおき、小さくかすれた声で続けようとする。
「だから、私の近くにいたら――」
「すごい!」
しかし、か細い声は、にとりの歓声にかき消された。ぽかんとする雛の目の前、にとりは純粋な目をきらきらさせている。
「人間のお手伝いをするって、昨日言っていたのはそういうことだったんだ!」
「あ、えっと……。ええ、そうよ」
にとりは頬を紅潮させて雛を見つめた。人間が好きな河童としては、人間のためにとても素晴らしいことをしている神様の雛に、尊敬の眼差しを送らずにはいられなかった。
「雛は、優しいな。すっごく、優しい神様だね」
にとりは無邪気に笑ってそう言った。何気ない本心だった。しかしそれを聞いた雛は、一瞬だけ呆然とした無表情を浮かべ、笑顔になりきれない笑みでぎこちなく返す。
「……そう、なの? かな……」
「うん!」
「……そんなこと、初めて言われたわ。ありがとう」
相変わらず、雛の周りは禍々しい気が漂っている。でも、それが人間から引き受けた厄なのだとわかった今では、そんな厄さえも輝きを放つものに見えた。
「……私は、ね」
雛は宙に浮き、川の流れの中にぽつぽつと顔を出している岩の一つまで飛んでいく。くるりと一回まわって、ごつごつした岩の上に立った。赤いリボンが、フリルのついたワンピースの裾が、翡翠色の髪がそよ風に可憐に揺れている。神様というよりは、妖精のようだった。
「私は……厄神になろうと思ってなったわけじゃないの。……自分の種族を選んで生まれることはできないなんて、当たり前のことだけど。でも、厄神として目覚めた初めのころは、自分がすごく嫌だったわ。私の周りにある厄は、私自身を不幸にすることはないけど――……その、いろいろと……辛いことも、多かったから」
雛は言葉を濁した。負のエネルギーを人から引き受け、溜め込んでいくというのは、傍目に見れば献身的ですばらしいことのように思える。しかし当の本人にとっては、辛いことだろう。人の幸せを守る力ではあるが、雛が自分のために使える力でもない。
「でもね、今はそう思ってない。厄を引き受けることばかりに考えがいってしまっていたけど――あるときに、気づいたの。私の元へやってきた流し雛に、厄だけじゃなくて……感謝の気持ちが込められていたわ。雛人形を流した人間の、『お雛様、ありがとう』っていう気持ちが確かにあったの。それに気づいたとき、まるで自分の世界が拓けたようだった。たったその一言だけで救われた。私がやっていることは、ちゃんと人間のためになることなんだって、誰かを笑顔にできているんだって、はっきりとわかったの」
私は、やっぱり人間が好きなんだわ。雛は微笑んだ。
「そのときと同じ気持ちよ、にとり。優しいねって、私に似合う言葉かはわからない。でもとてもとても嬉しいわ」
細い手が、すっと伸びる。両手を広げて、雛はまたくるりと、一度だけ回った。
「にとり、あなたもね。あなたは、優しい子だわ」
「えっ……」
「あなたのような心の優しい子が――純粋な言葉とか気持ちが、私たち神を生かすのよ」
にとりは、微笑む彼女をぼうっと見つめた。――自分とは、到底違う。生まれる種族を選べなかったのは同じ。けれど雛は、自分の役割にきちんと意味を見出して生きている。河童として生まれ、なんとなくで、技術学校に目標もなくずるずる通い続けている自分とは、雛は全然違うのだ。
陽の光を受けて、水面がきらめく。その中に立つ雛は、眩しすぎた。
「雛――」
彼女に吸い寄せられるように、川の中に足を踏み入れた。河童の衣装は帽子から靴まですべて耐水特殊生地でできている。もちろん滑ることもないように加工を――
「うわああっ」
しているはずだった。が、あろうことかにとりは足を滑らせ、水の中に倒れこむ。
「に、にとり!」
しかも、泳ぎはお手の物であるはずの河童なのに、水中で一回転しバランスを崩し、にとりはそのまま流されてしまった。雛の声がぼやけて聞こえる。息はできるが、水中で一瞬でも恐怖感を味わったのは初めてだ。
(ああ……でも、きれいだなあ)
水底から見上げる水面は、陽光に光り輝いている。きれいだった。差し込んでくる屈折した光がベールのようで、手を伸ばせば触れられそうにすら思えた。
唐突に、視界が赤色に覆われた。腕を引き上げられ、水を滴らせながら空中に出た。
「大丈夫?」
にとりの腕を掴み、びしょ濡れの雛が心配そうな顔をしている。ふと下をみれば、川の流れの真ん中に大きな岩が陣取っていた。このまま流されていたら頭からぶつかってしまっていただろう。溺れることのない河童でも、それは痛い。
「う、うん。ありがとう、雛」
河原に降りてスカートの裾を絞る。水分はすぐに抜けていった。二つに結った髪先も絞ると水が落ちていき、たちまち乾き始める。技術で撥水効果を得た服だけでなく身体的にも、河童は水の影響を受けない。
「河童の川流れなんて、恥ずかしいな……」
苦笑しながら袖の水を抜く。昨日も、歩き慣れたはずの河原で転ぶという醜態をさらしてしまったことを思い出した。
「そういえばあたし、昨日も転んじゃったよね。なんかさ、雛には……」
雛には――。にとりの隣でスカートを絞っていた雛は、はっと息を呑んで手を止めた。すぐ隣にいるにとりの横顔を見ることができない。滴り落ちた水が露の玉となり、足元の草の葉に乗って震えている。それを凝視したまま、何も言わないでにとりの言葉を待った。
「雛には格好悪いところばかり見せちゃってるね、あたし」
にとりは恥ずかしそうな笑みを浮かべ、雛のほうを向いた。その言葉がとてつもなく意外なものであるかのように呆けた顔をしていた雛は、すぐに首を振る。うつむいた彼女が今にも泣き出しそうな微笑を浮かべていたことを、にとりは知らない。
「……そんなこと、ないわ」
「ほんとに、いつも失敗ばかりなわけじゃないんだよ。……って」
にとりは改めて雛の様子を見て、思わず声を上げた。当たり前だが服も髪も、全身水浸し。河童のにとりと違い、彼女の服は防水でもなければ、髪もすぐに乾かない。
「ご、ごめん! あたしのせいで……。そうだ、あたしの家に行こう。飛んで行ったらすぐだし、ドライヤーってのがあるんだ。服も髪もすぐに乾く機械で――」
「あら、平気よこれくらい。気にしないで」
雛は頭につけたリボンの裾をぎゅっと握って水分を落とす。しかしそんなことをしてもリボンはしおれたままで、ほとんど意味はない。
「……そうね、でも今日はもう帰ったほうがいいかしら」
その言葉に、にとりはうろたえた。先ほどから彼女は、にとりと目を合わせようとしない。怒らせてしまっただろうか。
「ひ、雛、ほんとにごめん――」
「にとり」
雛はふわりと浮き上がり、どこか悲しそうに笑う。
「にとり、気にしないで。あなたのせいじゃないわ」
「だって――」
「本当に、そうなの。あなたのせいじゃないのよ。……ごめんなさい」
まるで自分が悪いことをしてしまったかのように、雛はわずかにうなだれる。その顔は怒ってなどいない。ただただ、辛そうに悲しそうに微笑んでいた。しかし、その表情の奥にあるものを、にとりは悟れない。
「雛、待って!」
「ごめんね、にとり」
雛はそのまま、空を蹴って飛んでいってしまった。回転することもなく、一直線にどこかへ。
にとりも飛ぶことはできたが、追いかけるのは憚られた。
まだ高い太陽が放つ強い光のなか、雛の赤いワンピース姿が消えていってしまうのを、泣きそうな気持ちで見つめていた。
* * *
その次の日、にとりは川を下っていくことはしなかった。上流を目指し、山において河童より上位である天狗の活動領域内には入らないように注意しつつ、初夏の瑞々しい匂いで溢れる山の中をどこへともなく歩き続けた。
雛のことが気になっていた。怒らせてしまったなら、もう一度会ってちゃんと謝るべきだ。しかし、別れ際、自分に対して謝罪の言葉を言った雛の悲しげな笑顔が、妙に引っかかる。彼女には何か他に思うところがあるのだろうか。にとりがまったく知りえないような、神様の感覚で。
(やっぱり、河童と神様は違うのかな。種族が違ったら、友達にはなれないだろうか)
でも、人間と河童は盟友だ。にとりが知っている中でも、人間と友人関係を築いている河童は何人もいる。培った技術力を駆使し、便利な道具を作って売り、人間に感謝されている河童もいる。曰く、人間の喜ぶ顔が、ありがとうという言葉が、嬉しいのだそうだ。
(発明品を作るって、そういう……ことなのかな)
昨日の雛の言葉を思い出す。ありがとう、という言葉が流し雛に乗せられてきたとき、すごく嬉しかった――。河童の技術者たちと同じことだ。彼女たちはそれぞれの方法で、人を幸せにしている。
あたしも――。にとりは立ち止まる。
「あたしも、何か作ることで、誰かを笑顔にできるかな」
誰もいない静かな昼の山道で、声に出して呟いてみた。風が吹き、頭上はるか高くで鳥の鳴き声がする。
胸の奥に浮かんだのは、雛の悲しそうな微笑みだった。できることなら、それを心からの笑顔にしたい。
(……無理だよね、そんなの)
しかし、自分は技術学校に通いながら何も作らず、お荷物生徒になっている身分だ。技術を以って人を幸せに、だなんてそんな尊い志、誰より似合わない。
自嘲的に笑い、にとりは歩き出す。いつの間にかずいぶん遠くまで来てしまったようだ。遠くに滝の音が聞こえる。ふと横を見上げればそこは蔦の這う絶壁、崖になっていた。上を振り仰ぐと、遠くに木々が立ち並んでいるのが見える。耳を澄ますと聞こえてくる滝がしぶきを上げる音も、このはるか高いところから落ちている音だろう。
(ああ、とりあえずは……雛に謝ろう。それから、先生との約束も一週間だし、早く答えを見つけないと)
ぼんやりしながら崖沿いに歩いていると、ふいに、軽い音と共に目の前に何かが落ちてきた。
「……?」
しゃがみこんで目を凝らす。土と石の塊だ。だが今歩いているこの山道のものとは少し質が違うように見えた。崖の上から落ちてきたものだろうか。
「え? 崖の、上……から……」
すっと血の気が引くのを感じる。弾かれたように上を見上げ、にとりは目を見開いた。崖の上から巨大な岩が大きく傾き、ものすごい勢いで音もなく落ちてきたのだ。嵐も大雨も降っていない、地盤が緩んでいるはずもないのに、なぜ。
逃げなきゃ。でも、足がすくんで動けない。岩が視界をいっぱいに覆う。にとりは頭をかばって目を固く閉じ――
「にとり!」
後ろから、思い切り引っ張られた。転がるようにして、しかし間一髪で落石を避ける。轟音とともに岩は地面に衝突し、砕けた。今までにとりがしゃがみこんでいた地面は土煙の中、無惨にえぐられている。
青い顔で振り向き、にとりは自分を救ってくれた人物に驚いた。
「……雛」
赤いリボンを風に揺らし、鍵山雛が立っていた。彼女もまた、にとりと同じように顔面蒼白で、息が上がっている。
「……怪我は?」
膝をついてにとりと目線をあわせ、雛は問いかける。にとりは声を発することができなくて、震えながら首を振った。地面に足をこすった気もしたが、そんなかすり傷は痛いとも思わなかった。命があるだけでいい。
「そう……よかった」
真っ白い雛の手が、にとりの両手を包む。彼女もまた、小さく震えていた。手のひらの温度は驚くほど冷たい。
「な、なんか……あたしって、ほんとに、ドジだなぁ……。雛に助けられてばかり――」
「違う」
引きつった笑みで冗談めかして言った台詞は、鋭い一言に遮られた。うつむいて、その顔が見えないままに、雛は続ける。
「違うわ。私のせいなの。全部、私が……」
痛いほど強くにとりの手を握り締め、雛は黙り込む。乾いた風が山道を、沈黙が落ちた二人のあいだを吹きぬけていく。やがて、雛はゆっくりと顔を上げた。いつものような完璧な笑顔はなく、強張った無表情だった。
「私は……厄をこの身にためこんでいく厄神。私自身は厄神だから、人の厄を受けてもなんの影響もないけれど、私の傍にいる存在は違う。人間だろうが妖怪だろうが関係なく、私の近くにくるものはみんな不幸になってしまうの」
「え……?」
「初めて会ったとき、あなたは転ぶはずもない水辺で転んでしまったわね。昨日は川に流された。そして今日は危うく命も落としかけて――それはぜんぶ、私のせいなの。私があなたを、不幸にしてしまったのよ」
ごめんなさい――雛は頭を下げる。しかし、にとりには彼女の言っていることがまだよく飲み込めない。
「昨日の時点であなたの周りには、普通じゃ考えられないくらいひどい厄の気があったわ。これ以上近づかないほうがいいとは思っていたけど、どうしても心配で探していたの。……にとり」
雛はワンピースのポケットから、千代紙で丁寧に折られた流し雛を取り出した。それをにとりの手に乗せる。
赤、緑、白。雛と同じ色彩の着物を着た人形が、黒い切り紙の目でにとりを見上げている。お雛様――彼女が……厄神、鍵山雛が持つ色彩は、ひな祭りの色。赤は桃花、白は残雪、緑は若草――
まるで儚い、春の色だ。
「この後すぐに、これに厄祓いの祈りを込めて川に流して。私がちゃんと引き受けるから。――そして、もう、私に近づいては駄目」
「なんで!」
最後の一言に、にとりは弾かれたように叫んだ。思わず渡された流し雛をつき返そうとしてしまう。しかし、雛の腕がしなやかにそれを押し戻した。
昨日の、河原での会話が耳の奥でよみがえる。
――私の周りにある厄は、私自身を不幸にすることはないけど。……辛いことも、多かったから。
それは、こういうことを言っていたのだろうか?
「こうしている間にも、あなたに不幸が移っていってしまうわ。……じゃあね、にとり。それを流してくれれば――」
「待ってよ、雛!」
立ち上がって去っていこうとする雛のスカートの裾を掴んだ。昨日も一昨日も、もっと一緒にいたいと思いながら見送ってしまった。だけど今だけは、臆病になったら駄目だ。ここで無言のうちに雛を見送ってしまえば、きっと二度と会えない。そんな確信と焦燥から、にとりは必死に叫んだ。
「そんなこと言ったら、誰が雛と一緒にいられるの!? 誰が雛の友達になるの!」
「……わ、私は」
にとりの言葉を予想もしていなかった雛は視線をさまよわせ、何かを押し殺すような声で呟く。
「私は厄神なの。人の厄を引き受けるものなのよ……。友達があるべき存在じゃない」
「だったら、雛の厄は誰が払うのさ!」
「……だ、だから……。私は、厄神なの……厄の影響なんて、受けないって――」
「そういうんじゃないよ、厄って……厄じゃない、そうじゃなくて」
いつの間にか、にとりは泣いていた。ぼろぼろと涙を零しながら、縋るように雛の服の裾を握り締める。離しちゃ、だめだ。
「厄って、不幸だけじゃないでしょ……悲しいとか辛いとか、さみしいとか……そういう気持ちだって、持ってて苦しいものじゃないか。雛がそんな気持ちになったとき、誰が助けてあげられるの……?」
言葉の端が、山道の静寂に消えていく。座り込んだままの膝の上に乗せた流し雛に涙が落ち、着物の千代紙の赤が、ぼやけて濃くなった。
やがて、長い沈黙のあと。かたくなに雛の服を握り締めるにとりの手の甲に、何かあたたかいものが落ちてきた。
顔を上げる。――雛が泣いていた。
唇を真一文字に結んで、顔をゆがめて、必死に涙をこらえるようにして、それでも雛の両の瞳から大粒の涙が零れている。
彼女は声にならない声でささやいた。
「しょうがないじゃない……」
その涙声が、雛の感情のすべてを語っていた。人の前には現れず、人の厄を受け入れ、人の幸せを守り、人に感謝されることに喜びを見出す。そんな秘神としての在り方を嘆いているわけではない、けれど。
彼女の隣には誰もいないのだ。鍵山雛は、ずっとずっとひとりぼっち。
「……優しい」
雛は涙を拭って、無理に笑顔を作った。
「にとりは、優しいわ」
完璧が少しだけ崩れてしまった笑顔があまりに痛ましい。雛の細い指が、にとりの手に触れる。自然と、裾を掴む指の力を緩めてしまった。手が解かれる。雛は流し雛を再びにとりの両手に包ませ、地面を蹴る。
赤いスカートが翻った。
「雛……!」
「だからね……だからこそ、ね。私は、あなたを不幸にしたくない。さみしいのも悲しいのも、我慢できるわ。でも、私は……私のせいであなたが不幸になってしまうのは、嫌なの。どうしても、耐えられないの」
雛が背にした東の空は灰色に曇っていた。先ほどまで青く高く晴れていたのに、山の天気は変わりやすい。にとりは、雛がまるでその暗い雲の渦の中に吸い込まれて消えてしまうようで、怖くて、何も言えないままに何度も首を振った。
「さよなら」
別れの言葉が、最後に残った涙の一雫を落として、空間に滲んで溶けていく。雛はそのまま、振り返らずに空の中へ去った。
にとりは地面にぺたんと座ったまま、流し雛を胸に抱いた。涙が地に点々と落ちる。あっちにも、こっちにも――雨が、降り始めていた。
「ひなぁ……」
優しい人の言葉が、まだ心の表層で鳴り続けた。嗚咽をこぼし、上体を折り曲げて流し雛を抱きしめる。鼻先が千代紙の着物に触れた。赤い赤い着物からは、淡く桃の花の香が漂っている。
しかしそれもすぐに、雨の匂いにかき消されていった。
* * *
滴が屋根を、窓を叩く音で、目が覚めた。ぼんやりした頭で部屋の天井を見つめ、目をこする。まぶたがはれぼったく、重い。
「……寝てたんだ」
それも床で。風邪の心配も少ない初夏の季節に妖怪の身とはいえ、よろしくないとは我ながらに思う。おまけに帽子は横に投げ捨てられるように転がり、玄関には青色のブーツが脱ぎ散らかされている。なんて投げ遣りな。薄暗い部屋を横切り、にとりは照明のスイッチを入れた。何度か点滅したのち、電球は白い光を放つ。――机の上に置かれたものが、目に入った。
「雛……」
流し雛。雨の帰り道、無意識のうちに両手で大事に抱えてきたのだろうか、それはちっとも濡れていない。
(厄……か)
雛が言っていたことが事実なのは、わかっている。昨日今日と、こまごまとした不運なできごとに見舞われていた。機械が壊れた、物を失くした、妖精にちょっかいをかけられた――自分でもここ数日は妙についてないな、と思ってもいた。
流し雛を、流してしまおうか。雛に言われたとおりに。そうすればすべてもとどおり、自分についた厄は祓われ、何もかも終わる。
雛と出会ったことさえも。あったかい空気を持つ雛と、友達になりたいと思った。その気持ちも一緒に、流してしまえるのだろうか。
「……そんなの、やだ」
流し雛を手に取り、にとりは寝台に横になった。かざして眺める。人々に幸せになってほしいという雛の想いがこめられているのだろう、丁寧に丁寧に、折られていた。
厄がどうの、不幸がどうの。そんなものは欠片も気にならない。雛に厄神の真実を告げられたときも、何も思わなかった。ただ、雛が、私たちは一緒にいちゃ駄目、友達にはなれない、これでさよなら……そう言っていなくなってしまう、二度と会えなくなってしまうのだけが嫌だった。だから必死に、彼女を引き止めた。
でも、雛はそれを望んでいない。いいや、彼女はにとりのことが嫌いなのではない。自分の近くにいることで、にとりが不幸になってしまうのが耐えられないのだ。
(あたしは、そんなの、気にならないのに)
それでも――にとりにとってはかまわないことでも、雛が気にして心を痛めるのなら、それは間違っているのかもしれない。一緒にいたいというにとりの願いのほうが、抑えるべきことなのかもしれない。
にとりは寝返りを打つ。すると真横の壁に掛かっていた時計が落下し、鈍い音をたてて頭に直撃した。
「あはは……ほんとに、ついてない」
ついてない。――流し雛を、見つめる。別れ際の雛の言葉が、悲しい笑顔が思い出される。
笑っていてほしいと、にとりは思った。雛が人間の厄を引き受け、笑顔を守っているのと同じように。雛にも笑っていてほしい。できれば、ひとりぼっちでなく――
――あたしも、何か作ることで、誰かを笑顔にできるかな。
昼間、あの山道でふと心に浮かんだ気持ち。あのときはすぐに、やる気も何もない自分には無理だと自嘲して投げ捨ててしまった。けれど。
(あたしの力でできることで……雛を笑顔に、してあげたい)
もう一度、流し雛を手に取った。それは雛が、にとりの不幸を祓って――にとりが幸せであってほしい、笑っていてほしいと、願って作ったものだ。
うなだれていた顔を、あげた。
背筋をまっすぐに伸ばした。
流し雛を包む両の手のひらがあたたかくなっていく。手のひらは、何かを作り出すものだ。そこから、熱が伝導するように全身にあたたかさが広がる。未だ、雛の別れ際の言葉が渦巻き続けている胸の奥で、心臓の鼓動が鳴っている。
にとりは寝台から降りると、作業机の椅子を引いた。机上照明をつけて筆記具を手に取り、定規分度器その他を引き寄せる。設計図帳を開いた。
心臓の音は、どきどきしている、と言っていいほどに鳴っていた。それは緊張でも不安でもない。たとえて言うなら、幼いころ、おもちゃ箱をひっくり返してたくさんの玩具に囲まれ目を輝かせたときのような。こんなものを作りたい、あんなものがあったらいいなと、あらゆる希望を形にできると信じて、真っ白な紙に無限の夢を描き続けていたときのような。
情熱という不可視のものが本当に存在しているなら――この心の音が、そうなのだろうと思った。
雨は、その日の夜には上がっていた。
* * *
それから数日。
梅雨入りしたにもかかわらず晴天が続いている。フリルのついたカーテンを開いた丸い窓枠の向こうに見える、からっとした青空を眺めて、雛は小さくため息をついた。にとりとは、あれから会っていない。それもそのはず、雛はあの日以降、外に出ていないのだ。
自分のことを思いやって、叫んで、泣いてくれたのは彼女が初めてだった。なんて心の優しい子なのだろうと思った。だけど、だからこそ、自分のせいで不幸にしてしまいたくなかった。外に出て万が一、にとりの姿を見かけてしまったら――せっかく厄神として感謝だけを糧に、支えに、一人で生きることに慣れたのに、そんな生き方が揺らいでしまいそうだ。
厄を負った雛人形が近くまで流れてくれば、すぐにわかる。それなのに、あの日から雛人形がやってくる気配は一向にない。にとりはあれだけの厄を身にまとっておきながら、未だに祓いをせず過ごしているのだろうか。それとも――
(……にとり、大丈夫かしら)
急に不安に襲われる。もしかして別れた後、危ないことに巻き込まれていたら。雛人形も流しに行けないほどの大怪我や……病気かもしれない。もしかしたら、もしかしたら、命を――
「!」
ぐるぐると悪循環する思考回路に息が詰まりそうになる寸前、弾かれたように立ち上がった。雛人形が流れてくる気配がする。にとりが流したものかはわからないが、雛は家を飛び出し、川へ向かった。
にとりの厄を負った人形であればいい。だけどもし本当にそうだったら、なぜかさみしい。ふたつの気持ちを抱えて木々の間を走り抜け、川にたどりついた。
「わあ……きれい」
淡い、優しい紫色の紫陽花が、太陽の光のもとで一面に咲き誇っている。息を整えながらそれを眺めて、うらやましい、と思った。この身の周りに漂う厄も、あんなふうに素敵な色で、あんなふうに人の心を豊かにできるものならよかったのに。自分には、こんな紫陽花を一緒に眺めて、きれいだね、素敵だね、なんて言いあえる友人もいないのだ。素敵なものを素敵だと分かちあえる人がいれば……。ただそれだけを願っても、叶わない。どこに行くにも、何を背負うにも、何を守るにも――ずっと、ひとり。
そこまで考えて、雛は慌てて首を振った。厄を疎むなんてこんなこと、考えたことはなかった。この濁った紫色の厄は、自分が人々の幸せを守った証、勲章のようなものだとずっと信じてきたのに。
にとりを不幸にしてしまい、親しくなりたかったのに一緒にいられない、その原因……いつの間にかそんなふうに、見てしまっていた。
――でも、それもまた事実なのだ。
川べりに近づくと、ちょうど上流から水面を滑るように流れてくる小さなシルエットが見えた。水に片手を浸して、それを待つ。だんだん高くなっていく昼前の気温のなか、川の涼しさは指先に心地よい。
やがて、流し雛が近づいてくる。……が、その奇妙な姿に、雛はぽかんとした。何か……両手に乗るくらいの大きさの、薬カプセルのようなものに雛人形が括りつけられているのだ。
「……?」
雛人形と不思議な物体は手元までやってきた。すくい上げて、滴を払う。カプセルをひっくり返して表面を調べ、小さく記された「河城」の文字を見つけた。――にとりだ。
「なんだろう?」
カプセルの中身は気になるが、とりあえず厄祓いが先決だ。雛は流し雛をふわりと宙に浮かべる。人形は濃い紫の霧を発して消えた。だいぶひどい厄を負っている。これでにとりの不幸も消えただろう。ほっとする反面、胸の奥が少しだけ軋むように痛んだ。
「……さて」
カプセルに視線を戻す。ひねりながら左右に引っ張ると、簡単にカプセルは開いた。
中には、雛が見たこともない機械が入っていた。両手に収まるサイズで、長方形の角を丸くした――カステラに似ている形。けれど少しだけ湾曲していた。緩いカーブの内側のほうに、赤と青のボタンがついている。
機械というものはあまり知識もなしにいじるのはよくない。カプセルの中を再びのぞくと、小さな紙切れが一枚、入っているのに気づいた。両脚を揃えて地面に座り、それを拾い上げてみる。この機械の取り扱い方を簡潔に記した説明書だ。雛宛てと書かれており、にとりの署名も入っているが、雛への私的なメッセージは何もない。箇条書きで機械の扱い方が書いてあるだけだ。
「えっと……青いボタンを一回押します」
恐る恐る押してみる。電子音がして、青いボタンが光った。
「押したら、図のようにして機械を顔に当てます。……こんな風に?」
わかりやすい上になかなか達者な絵が描かれている。機械の上下の端を片耳と口の傍まで持ってくるかたちになった。
その後については、説明はない。機械はどうやら既に作動を始めているようで、耳元で鈴の転がるような音が聞こえる。オルゴールかな? と思ったところで鈴の音は止み、
――雛?
にとりの声が聞こえた。びっくりして機械を取り落としそうになる。
「えっ、に、にとり!?」
これは、にとりの声が入っている機械なのだろうか。驚きながら黙ったままでいると、また呼びかけられる。
――雛ー? 聞こえてる?
「えっ、えっと……?」
――ああ良かった、ちゃんと作動してるみたいだね。
「にとり……なの?」
――うん、そうだよ。
「どこか、私の近くにいるの?」
――いいや、違うよ。この機械は電話機って言ってね、離れたところにいる二人が会話できる物さ。
驚いたことに、この場にはいないにとりと会話をしていた。それも、こんな小さな機械越しに。河童の――いや、にとりの技術力に、雛は感嘆した。
――あのさ、あたしは……。
電話機の向こうから、くぐもったにとりの声が聞こえる。少しの間をおいて、にとりは語りだす。
――あたしは、厄とか不幸とかそんなの関係なくって、全然怖くもなくって……だから、ええと……、あたしは、雛と、仲良くなりたいんだ。でも、雛の近くにいったら厄が移っちゃうんでしょ? それが事実だってのはわかるし、そうなったら雛が辛い思いをするのもわかったよ。でもさ、あたしは、雛に笑っていてほしい。雛が人間の厄を引き受けて、人間の笑顔を守りたいって思ってるのと、同じ気持ちだよ。
「……うん」
――それで、そのために何ができるかなって、考えたんだよ。あたしは河童だけど、実は……ほかのみんなと違って、何かを作り出そうと思える意欲なんてない、落ちこぼれだったんだ。でも、どうしても、雛のために何かしたいって思った。あたしの力で何ができるかなって考えて……やっぱり、物を作るっていうことに行きついたんだ。そしたら、不思議なくらい力がわいてきた。楽しいって思えたんだ。何かを作ることがこんなに楽しい、意味のあることなんだって思えたのは初めてだよ。……それで、勢い任せにこれを作ったんだけど……あたしとしか会話できないし、あんまり……雛にとっては面白いものじゃないかも――
「そんなことない! すごく……すごく嬉しいわ、私……。ありがとう、にとり。本当に……」
うまく言葉が出てこない。気持ちのすべてを伝えられない。胸に詰まる嬉しさは涙になって零れ落ちてくるばかりだ。それでも、言葉にならない気持ちは小さな機械越しに、にとりには伝わったようだった。
――ありがとう。……あはは、なんだかくすぐったいな。何か作って、そんなふうに言ってもらえたの、初めてだよ。あのさ、これなら、違う場所にいても話ができるから……今は、一番いい方法かなって思うんだ。
照れたような小さな笑い声が聞こえる。はにかんだにとりの顔が目に浮かぶ。
――でも、ちゃんと顔見ておしゃべりしたいとも思うから、そのうち映像と一緒に会話もできる仕様に改良したいなって、考えてる。
「うん、うん」
泣きながら何度も頷く。涙でぼやけた視界は、一面、紫陽花の淡紫。いつか、いつか……機械の映像越しにでもいい、にとりと一緒にこの風景を見て、美しさを分かちあえたら、それはなんて素晴らしいことだろう。
――でもね。
にとりが、いたずらっぽく言う。笑みをこらえているのがわかった。
――どれほど先になるかわからないし、やっぱり映像じゃさみしいなって、思うから……
「たまに、こうして会いにきてもいいかな?」
電話機を当てた右耳と、そうじゃないはずの左耳から、同じ言葉が聞こえた。そして、座り込んだままの背中に、軽く、何かが当たる。
「にとり……!」
雛は肩越しに振り向いた。緑の帽子の下で、青い髪が風に揺れている。
にとりが、雛と背中を合わせるかたちで、そこに座っていた。
「あたしが転んだときに手を差し伸べてくれたのも、川で滑ったときに引き上げてくれたのも、落石に巻き込まれそうになったときに助けてくれたのも。それから、厄が祓えるようにって流し雛をくれたのも全部、雛でしょう。ほんと、なんだか雛に迷惑ばかりかけちゃうかもしれないけどさ」
にとりは電話機を耳元から離し、通話ボタンを切った。雛のほうを向いて、にこっと笑う。
「あたしは、雛と一緒にいたい。厄が移っちゃったなら、流し雛を送るからさ。ときどきは、こうやって会いに来たいな」
近くにいられなくても、そばにいる。そんなかたちで、一緒にいよう、と。
「うん……!」
「もう、泣かないでよ、雛」
「にとりだって、泣いてるじゃない」
「もらい泣きだよ」
二人して笑った。雨上がりのやわらかい日差しのなかで、泣きながら笑いあった。
しばらくして、雛は目じりに残った涙を拭いながら言った。
「でも、私がここにいるって、よくわかったわね」
「うん、電話機は流し雛にくっつけたから、拾い上げた雛が川のそばにいるのは予想できたし……」
にとりはそこで一度言葉を切り、川沿いに咲き誇る紫陽花の列を眺めた。
「ここは紫陽花が咲いてるから。なんとなく、雛は紫陽花のところにいそうな気がして」
「えっ……」
目を細めて紫陽花を眺めるにとりの横顔はどこまでも純粋だ。その言葉にはきっと、なんの深い意味もない。
にとりは両手を広げてくるりと一回まわり、微笑んだ。
「ね? 実際、そうだったでしょ」
「そっか……。うん、そうだわ」
胸に手を当てて、雛は答えた。体の奥で心臓が動いていた。神様でも、鼓動は存在する。神様でも、自分は生きている。
目の前の彼女が笑っていてくれるなら、そんな彼女と友達になれたなら、もう、この身を覆う紫色の厄を悲しいものだなどと思うことはないだろう。
「きれいだよね。きっと、今がいちばんの満開だ」
「ええ……とっても」
露を湛えた淡色の花弁が陽の光をうけて、きらりと輝いている。青々とした、形の良い葉の緑や、紫陽花の向こうを流れる澄みわたる川のせせらぎもさわやかだ。幻想郷のなかでも一番に幻想的な場所なのではないかといえるほどに、美しかった。
「……そうだ、にとり」
「んん?」
無邪気な顔でこちらを向くにとりに、雛は右手を差し出した。今さらかもしれないけどね、と恥ずかしそうに前置いて、にとりの目をまっすぐに見つめる。
「私と、友達になってください」
目をぱちくりさせながら、にとりは雛を見た。その視線がゆっくり、差し出された雛の手まで降りていく。
そして、照れくさそうに笑って少しだけ首を傾け、結った髪先をいじった。
「えへへ……、うん」
にとりの手が、そっと伸ばされる。
「よろしくね、雛」
触れた手のひらは、初めて会った日と同じように、あたたかかった。
* * *
「おーっ、にとりちゃん!」
「にとり、おはよう!」
未踏の渓谷、河童の技術学校。数日振りに顔を見せたにとりの姿に、生徒たちが声をかけた。にとりは工具を手にし作業台についたまま彼女たちのほうを振り向き、笑顔で応える。
「おはよう!」
「……あら、にとりさん」
にとりがそれぞれの準備に取り掛かる生徒たちの背を見送っていると、驚きを含んだ声で呼びかけられる。作業台のむこう側で、先生が目を丸くしていた。
「ああ、そうよね。そういえば一週間、よね。……なんだかずいぶん、凛々しく――というのかしら、地に足が着いたように見えるわ。成長期かしらね、少し見ない間に」
先生は感心したようににとりを上から下まで眺め、独り言を呟きながら、帽子の乗ったにとりの頭にぽんぽんと手をやった。
「それで、どうかしら。やりたいと思えること、見つかった?」
「はい! 今、作りたいものがあるんです」
「それって……エンジニアになる、ってことかしら。驚いたわ、先生てっきり、にとりさんはエンジニア以外の道を見出してくるものだと思ってた」
「ああ……、えっと、あたしは、技術者になろうと思ってるわけじゃないんです」
にとりは手にした工具をもてあそびながら、言葉を探すように、うつむき加減に黙りこんだ。やがて、まっすぐに顔を上げ、一週間の約束の問いに答えた。
「自分がやりたいこととして、何かを作ることがぴったり当てはまったというか……技術者を目指そうと思ったんじゃなくて、発明した物で、誰かに楽しいなとか、便利だなとかって、思ってもらえたらいいなって。あたしが作り出したもので誰かが笑顔になってくれたら、それはすごく素敵なことだなって、思ったんです」
先生は驚いたような、感心したような顔で何度も頷きながら、にとりをまじまじと眺めた。一週間前、あんなに自信のなさそうにうなだれていた生徒が、今はとても晴れやかな表情できりりと前を見つめている。
「うん。そうだわ、エンジニアとか発明家とか……そんな名前は、きっと後からついてくるのよね。にとりさん、あなたはあなたがやりたいと思うことを、あなたの信じた方法で叶えなさい」
「はい!」
先生はにとりの肩に手を置いて言った。力強い返事が返ってくる。自分の力で、誰かが笑顔になってくれたら――。それはなんと妖怪らしくなく、なんと河童らしい考えだろうか。きっとこの子は、人の幸せをつくりだせる存在になるだろう。
自分の持ち場へ歩きながら一度だけ振り返って、作業台に向かうにとりの横顔を窺い、先生は満足げに頷いた。
「よーし……がんばるぞ!」
今は、大切な友達のために。そして、まだ見ぬたくさんの人たちのために。
帽子を被り直し、にとりは真新しい設計図を広げた。
ストレスなく読み進めていくことができました。
風景描写の量は多くないのに、自然と景色が目に浮かぶようで……私も見習いたい。
紫陽花っていいですよね、紫陽花って。
新人さんのようですが期待してます。がんばってください。
読み終わった後のこの爽やかな後味… これが青春の味なのかww
読めてよかったです!
読み終わった今、僕の脳は「もし自分の子供時代にタイムスリップをすることができるとしたら是が非でもこのお話を読ませたいなぁ」ということを考えてしまっています。
……興奮し過ぎですね。ごめんなさい。
けれど、こんなことを本当に考えてしまったくらい、この作品からは幼き日に得るべきであろうキラキラしたものを受け取ることができました。
今の自分の心は温かい気持ちでいっぱいです。
素晴らしい作品を読ませて頂き、本当にありがとうございました。
流し雛の三色や紫陽花など、情景描写も鮮やかで、お話の健気さやすがすがしさと相まって、本当に青春だなあ!という感想です。
可愛くて健気で前向きなにと雛が見れて幸せです。
あと、技術学校の設定が斬新で良かった!河童の学び舎!
にとりよ、どんどん発明するんだ。みんなを笑顔にする道具を作るんだ。
物質的だけではなく精神的にも豊かになれる道具をね。
雛と四六時中会っていても、偶にクソ不味いキュウリに当たってしまう程度の厄しか
彼女が放てなくなる位に世の中を明るくする大発明家になってくれ。
良いにと雛でした。青春最高!次回も楽しみにしています
こんな汚れた私には、眩しい、只只眩しい作品でした。
小道具としての香蒲の然りげない扱い方も素敵です。にとりとは迚も素敵な絵になりますね。
一服の清涼散をありがとうございました。
読ませてどうなるかっていったらどうにもならないんだけど
電話って、素敵な道具だな。
>4様 初めてそんな光栄なこと言われました……! 嬉しいです。
>8様 ありがとうございます( ;∀;)
>拡散ポンプ様 幻想郷は風景の美しさが重要だと思い、苦戦しつつも描写をがんばりました……!
紫陽花いいですよねー、淡い青紫色が一番好きです。
>12様 彼女たちの作品、増えてほしいですねー。にとりの口調は独特でとても好きです。ひゅい!?
>あとどうしても突っ込みたいのがあとがきww
ばれたか。私はキュウリには胡麻ドレッシングをかけて食べます。
>14様 友情ものはほっこりできるので好きです!
>15様 ありがとうございます。これからも面白いと感じていただける話を書けるよう精進していきます。
>17様 ありがとうございます。頑張っていきます!
>22様 平易かつしっかり、を描写の目標にしていたので、とても嬉しいお言葉です。
この味は! ……青春をしている「味」だぜ……。なんて、感じていただけたら幸いです。
>即奏様 私が描き出したかったものを即奏様にお伝えできたようで、とても嬉しいです。
>今の自分の心は温かい気持ちでいっぱいです。
有難いお言葉です。そんな気持ちになっていただけるような物語を目指していました。
こちらこそ、読んでくださって本当にありがとうございました!
>24様 嬉しいお言葉、ありがとうございます!
>可愛くて健気で前向きなにと雛
目指していた二人の姿は、まさにそんな感じでした!
技術学校なんてものがあって、そこで子ども河童が腕を磨いていたらほほえましいな、なんて思っていました。
>コチドリ様 友情最高にと雛最高! 加えてオリキャラも取り上げていただけるとは!
>~世の中を明るくする大発明家に
そうか……これがグッドフォーチュンか……!
>桜田ぴよこ様 あわわ、恐縮です。次もマイペースに投稿したいなと思っています。ありがとうございます。
>ice様 蒲は初めてにとりのカットインを見たときからかわいいなあと思ってました。絵になりますよね!
>32様 最終的に叶おうが叶うまいが、夢を持って生きている人は素晴らしいですよね。
こんなに多くの方々に読んでもらえたの初めてだよあたい……投稿してよかった。
本当にありがとうございました!
素敵なお話をありがとう。
にとりには雛の厄をかいくぐって友達になれる程度の能力がある
という落とし方が斬新。
にとりと雛の魅力が膨らみました。
いやあ……うまい言葉が見つからないです。荒んだ現実に対する、川の流れのようにさわやかな清涼剤という感じでしょうか?
あなたの作品をこれからも楽しみにしていいでしょうか?
感動、の一言です。とてもとても感銘を受けました。
私も技術系の事を学んでいますが、特に明確な目標無く漫然と取り組んでいる情けない自分に思い悩んでいました。
しかしこの作品を読んで、技術者はこうあるべきだという根源的な気持ちが心に染み入りました。
まるで心に停滞していた厄を吸い取ってもらえたみたいです。
これからの指針を導いてくださった作者様に、今一度の感謝を申し上げます。ありがとうございました。
こちらこそ、読んでくださって本当にありがとうございました。
>37様
おもしろかったと感じていただけて嬉しいです。
>40様
月並みな表現ですが、心をこめて書きました。絆を描く話は真摯に、という目標が伝わっていればとても嬉しいです。
>42様
にとりと雛はとても魅力的なキャラクターですよね。大好きです。
>43様
ありがとうございます。これからも少しずつ作品を書いていこうと思いますので、お暇でしたらぜひ読んでくださると嬉しいです。
>がま口様
技術系のことを学んでいらっしゃるのですか! 目に見えて、手に取れるかたちで人を笑顔にできる、助けられる、すてきな道ですよね。応援しております。
感想ありがとうございました!