注)これはただただ東方キャラが酒を飲むだけのSSです。
ひとり酒 手酌酒 演歌を聞きながら
ホロリ酒 そんな夜も たまにゃ、なァいいさ……
「いい曲ですよね」
突然話しかけられて、屋台の女将――ミスティア・ローレライは蒲焼きをひっくり返す手を止めた。
見ると、屋台のカウンターに座ったお客――燃えるような真紅の髪の門番――紅美鈴が、酒で朱に染まった顔で店の奥を指差した。
ミスティアは振り返って、「ああ……」と頷いた。
カウンター奥に置いてあるこの長方形の物体は、先ほどから渋い男の声でタイトルのわからない曲を歌っていた。この朗らかな門番が今日はやけに静かだと思っていたが、どうも今まで歌に酔いしれていたらしい。歌に聴き惚れながらぐい飲みを煽る美鈴に、ミスティアは思わず顔をほころばせた。
屋台を開けて数時間。今晩最初のお客がこの門番だった。彼女はまだ夕焼け空が残っている時分に一人でやってきて、蒲焼きを肴にちびりちびりと焼酎を飲んでいる。どこか物悲しいこの曲を一緒に聞くと、泣く子も黙る紅魔館の正門を預かる門番隊長の大柄も、どこか陰のあるものに見える。歌というものの魔力を思い知る瞬間だった。
闇世の中に燈る『うなぎ』の赤提灯と、夜風に揺れるあずき色の暖簾。暖簾を潜って湿気と脂に燻されたカウンターに座れば、そこは世にも不思議な光景――八ツ目鰻の開きが炭火に炙られている光景がある。夜雀である女将――ミスティア・ローレライが一人で切り盛りする八ツ目鰻の屋台は、リヤカーに屋根をつけただけ、といった見てくれの控えめな見た目とは裏腹に、常に客が途絶えることが無いの人気振りを誇る、幻想郷の知る人ぞ知る名スポットなのだった。
ぱちぱちと炭火のはじける音が聞こえたとき、門番が口を開いた。
「香霖堂? それとも河童ですか?」
「香霖堂の方。自動楽曲再生機……とでも言うのかな。デンチとかいうヤツと、カセットとかいう曲の種みたいなものをセットで売りつけられて、ずいぶん足元見られた気がするけどね」
「それでも、お値打ちものでしょう?」
「そうみたいね」
二人の笑い声が闇夜に染み渡る。この機械――店主は“ぱなそにっく”とか言っていたが――は、彼女がこの八ツ目鰻屋の屋台を始めたとき、ささやかな開店祝いとして購入したものだった。一体どういう仕掛けで動いているのか彼女には皆目見当もつかないのだが、ここへやってくるお客には気に入られている一品だった。もっとも、自分が歌う歌を聴いてほしい女将にとって、この“ぱなそにっく”の人気は隔靴掻痒の感がある代物でもある。ひとりで屋台を切り盛りするミスティアにとっては、“ぱなそにっく”は客寄せパンダであり、看板娘であり、大事な相棒でもあった。
そのうち、“ぱなそにっく”が最初の曲を歌い終わった。美鈴はほぅ、とため息を吐いた。
「外の世界にもいい歌があるもんですねぇ」
感心したという風にそう口走った美鈴の顔からは、いつものアジアンビューティーの美貌も、拳法の達人としての凛々しさも融け出てしまっている。万華鏡のようにくるくると表情を変える門番の表情七変化に、ミスティアは湧き出てくる可笑しさをかみ殺すのに必死だった。
串を打った八ツ目鰻をひとつ、炭の上に追加したところでミスティアは人の気配を感じて顔を上げた。
「あら、いらっしゃい」
「ああ、お邪魔するよ」
暖簾を潜ってやってきたのは、これまた大柄の女性だった。その人は一抱えもある狐の尻尾をフリフリとさせて、門番の横の席に座った。ぐい飲みを口に運ぼうとした門番を認めるや、その女性は、ん? と言うように目を瞬かせた。
「あぁ、お前さんは……」
「あぁ、あなたは確か、あの隙間妖怪の式の……」
「八雲藍」女性は微笑む。「そして主人の名前は八雲紫だ。以後お見知りおきを」
「そうでした。私は……」
「紅美鈴だね。ちゃんと覚えてるよ」
らん、と名乗った女性は、妙に色気のある顔で微笑んだ。途端に、門番の顔がだらしなく蕩ける。
「いやぁ、九尾の狐に覚えておいてもらうような凄い名前なんて持ってませんよぉ」
「謙遜するなよ、お前さんだって吸血鬼の眷属だろうに。……女将殿、私には冷やをひとつ」
「いやいや……テレるなぁ……はは、ははは、ははぁ」
門番は顔全体を使ってだらしなく笑い、まだぐい飲みに半分以上残っていた焼酎を一息に飲み干してしまった。
謙遜、ではないだろう。九尾が微笑んだ瞬間、九尾を中心に妖しい雌の香りが噴き出したのがミスティアにもわかった。この美貌で微笑まれたら、それこそ女でもアテられてしまって仕方がないかもしれない。
目先ひとつで国を傾け、指先ひとつで世を傾ける。これが三国を渡り歩いた大妖の実力か……。そんなことを考えながら、ミスティアが冷やの徳利と猪口を九尾の前に置くと、九尾は上品に頬杖をついたまま礼を述べた。
「ところで今日はずいぶん早いうちに来たわね。主のお守はいいの?」
「あぁ、紫様か」
ミスティアが尋ねると、八雲藍はため息混じりに苦笑した。
「もうお休みになったよ。あの人はロングスリーパーなんだ。あのまま明日の昼まではお目覚めにならないよ」
「へぇ、それは大変ねぇ」
「あぁ、本当にあの人には苦労させられる。結界の管理は丸投げだし、私は橙の面倒も見なくちゃならないし」
「ふわぁ……ごくろうさふぁふぇふ」
美鈴が八ツ目鰻を齧りながら言うと、藍も冷酒を旨そうに飲み干して言った。
「それはそうと、お前さんのところの主は? 仕事はいいのかい?」
「私は……げふん、私は今日は非番なんです。お嬢様も今夜は神社に遊びに行くとかで」
「神社か……」藍はまた苦笑した。「鉢合わせしなくてよかった」
「あぁ、そう言えば……あはぁ」
「私の主もあの神社のお得意様なんだよ……まったく、紫様の神社通いには困ったものさ」
従者の苦労……というものだろうか。二人は顔を見合わせて力なく笑った。こういう感覚は、生まれてからこの方人に傅いた経験の無いミスティアにはわからない感覚だった。ミスティアが八ツ目鰻の白焼きを出しながら「ご苦労様」と一声かけると、藍は静かに頷いてまた猪口を煽った。
「少しは従者の身にもなってくれ、ってね」
「ははぁ、そういうもんでしょうか」
「おや、お前さんはそうは思わないのかい?」
むーん、と門番は白焼きを口に頬張りながら考える顔つきになった。どうやら、この門番はあまりそういうことを考えない性質らしい。顔をいくら捻ってみたところで、出るのはうめき声だけだ。
ミスティアは串を打った八ツ目鰻をまな板の上に乗せたまま、しばし手を止めて二人の会話を聞いていた。
「いや、私はお嬢様によくしてもらってますからねぇ。八雲の大妖……えっと……」
「八雲紫」
「そう……紫さん……。あの人がそんなに横暴だと、苦労するんでしょうね」
その言葉に藍は失笑し、串を持ったまま遠い眼をした。
「紅魔館に雇ってくれるよう頼んでみるかなぁ。給料いいんだろう?」
「藍さんなら大歓迎ですよ。私の代わりに門番やってみます?」
「冗談だよ。そこまで主は嫌いじゃないし、尊敬するところは尊敬しているしね」
藍は笑いながら手をひらひらと振った。美鈴はからかわれたと知って頭を掻く。
ミスティアが笑ってやると、美鈴は最後の串を齧って立ち上がった。
「おや、帰るのかい?」
「はい。いくら非番とはいえ、妖精門番たちだけでは不安ですからね。少し休んだら休日出勤しますよ」
「紅魔館の門番も大変だなぁ。転職しなくてよかった」
「そう言わないでくださいよ。これでも結構楽しいんですよ? 花壇弄ったり、氷精と世間話したり」
「なるほど。そいつは今後の参考にするよ」
「あはは。ねぇ藍さん、また機会があったら飲みましょう。私が奢りますから」
「遠慮なくたからせてもらうよ。じゃあおやすみ」
美鈴はミスティアに軽く会釈すると、武芸の達人らしいきりりとした足取りで闇の中へ消えていった。
くらくら燃える 火をくぐり
あなたと越えたい 天城越え……
いつの間にか、“ぱなそにっく”がミスティアのお気に入りの曲を奏で始めていた。
「にぎやかな門番よねぇ」とミスティアが燗を追加すると、藍は急に真面目くさった顔になった。
「いやはや、どうしてなかなか見上げた奴だった」
「え?」
「あいつは私以上の苦労人なんだよ、ただ気にしてないだけでさ。天下の紅魔館の門番守備隊隊長が、頼まれれば買い物にも行くし、掃除も花壇の土いじりもするんだぞ? こなす仕事量ならあのメイド長に匹敵するさ。しかも私が散々主の話題を出してるのに、あいつは文句の一つも言わないで主を褒めていたよ。なかなか忠義の篤い奴じゃないか」
藍の口から出る冷静な人物分析に、ミスティアは舌を巻いた。藍は手酌で猪口を呷り、「紅魔館……先代の主は有能な従者を遺したもんだ」と感心したように頷いた。
「ということは、主の話題を出して試したのね? 悪い人」
ミスティアが美鈴の杯を回収しながら言うと、藍は「そう言ってくれるな」と苦笑した。
「狐相手にそりゃ禁句だよ、女将。狐は狡賢いものさ。今も昔もね」
「またそう言う。でも、便利なんでしょうね。あなたみたいに人を見分ける力があれば」
「簡単だよ。ほら、よく言うじゃないか、『虎は死んで毛皮を遺す、人は死んで名を遺す』って」
藍は猪口を呷る。“ぱなそにっく”がカチリ、と渋い音を立てて、別の曲を奏で始めた。
「一番優れた者は死んで人を遺す人だ。忠良なる部下、善い友達、優れた息子や娘……その人が育てた人を見れば、大体のことはわかるもんだよ」
「へぇ、冷静だね。それは耳学問かしら、それとも実地で学んだのかしら?」
「そりゃあもちろん――」
藍はにっ、という感じで笑い、ミスティアは少々拍子抜けする気分を味わった。
三国を傾けた狐の、人の裏を見透かす虎の巻。それがほんの一端であったとしても、それ自体は嘘でないらしい。「今後の参考にしようかしら」と苦笑したとき、背後の林から足音が聞こえ、ミスティアは顔を上げた。
「ありゃ、珍しいことに先客がいるな」
まだ幼い、少女の声が聞こえ、小さな影が千鳥足で闇の中からやってきた。
「あら、どこぞ鬼じゃない」
「やぁ夜雀。今夜もツマミをもらいに来たぞ」
小さな百鬼夜行……伊吹萃香は、そう言って大儀そうに屋台の椅子に飛び乗った。
藍は隣に座った小さな鬼をちらりと見る。それを見た萃香は「へへへ、ばれたか」と舌を出した。
「堪忍堪忍。なかなか楽しい分析が聞けて楽しかったんだよ」
「体を分散させて盗み聞きか。私が悪い人だと言うなら、お前さんもだ」
ミスティアは新しい串を炭にくべながら「それは九尾のお客さんに賛成」と声を上げた。
「このお客さんったら、私の屋台では蒲焼きしか頼まないんだよ? 屋台に酒持参する客なんて聞いたことないわ」
「それを言うなって。あんたたちが飲む酒は鬼にとっちゃ水と大差ないのさ」
ミスティアが大仰にため息をつきながら杯を差し出すと、萃香は腰につけた伊吹瓢から酒を注いだ。
なぜかこの鬼は屋台に来たときだけはラッパ飲みをやめて、きちんと杯に注いで飲むのだ。行儀の悪さを気にしてか、それとも屋台ではそういう風に飲むのがいいと心得ているからなのか。ミスティアが蒲焼きを乗せた皿を萃香に出すと、萃香は箸で蒲焼きをつつきながら感慨深げに、ほぅ、と息を吐き出した。
「はぁ。やっぱり夏の暑い盛りには蒲焼きだねぇ」
「お前さんはいつでも夏だろう」
そう言った瞬間、藍の手が素早く動いて萃香の杯を奪い取る。「あ、こら」と萃香が反応したときには、藍は鬼の酒を素早く飲み干した後だった。
萃香がぶぅ、と頬を膨らませると、藍は「ん、こいつは酔うな」と妖艶な笑みを浮かべた。
「そう軽く飲まれちゃ鬼も形無しだよ。これは他の妖怪には毒みたいなもんだろうに」
「むくれるなよ、日ノ本の三妖怪の仲じゃないか……っと、本当に強いな、鬼の酒は。この酒でやる酒池肉林はさぞ楽しいだろう」
「こらこら、趣味が悪い話はしないの」
ミスティアが菜箸で藍の頭を叩くと、萃香は酒臭い息で笑った。
「そういえばそうだな。ここに奇しくも三大妖怪の二人が揃ってる。なんとも豪勢な酒盛りになってるじゃないか、夜雀」
萃香が言う。確かに、九尾の狐や伊吹童子といえば、歴史にその名を残す大妖怪だ。彼女らが本気になればミスティアごとき、指一本で消し飛ばされてしまうことだろう。そんな弱小妖怪である夜雀が二人の大妖怪相手に酒と小料理を振舞っているのだから、よく考えれば可笑しな光景だと言える。
ミスティアが無言で頷くと、藍が少しだけ朱が差した顔を横に振った。
「仰るな、伊吹童子。私はもう八雲の式だし、とてもじゃないが全盛期ほどの力はない。もうその二つ名は私には重過ぎるよ」
「あら、そういうものなの?」ミスティアが訊ねると、萃香が深く頷いた。
「そういうものさ。私もやんちゃしてた時代もあったけどね。お互い、寄る年並みには勝てなくてねぇ。いやはや」
「そんなこと言って、年寄りじゃあるまいし。まだまだ現役でしょう?」
「老いるのは体だけじゃない、心は体よりも早く老いる」
藍が確信めいた口調で言い、猪口の残りを飲み干した。
外見の割にはやけに老成した見方……とは言うまい。外見そのものは若くても、彼女らは確実にミスティアの何倍という単位で歳を重ねているし、そりゃ衰えた部分もあれば心境の変化もあるだろう。
そしてなにより一番大きいのは、人間社会の変化だ。皇帝に取り入って国を傾けさせたり、天下の金太郎侍の前に立ちはだかって暴虐を働いたり、妖怪が人間の歴史をも左右した華々しい時代はもう過ぎ去ったのだ。そういう時代が到来すると、人間相手に悪さをするなんて馬鹿馬鹿しくてやってられなくなるのかもしれない。そんなことで妖怪の本分はどうなるんだという議論ですら、今日日もはや手垢のついた話題だとも言える。なるようにしかならないのだ。
三者が三者、そういう思いを同一にする妖怪同士だった。
なんとなくしんみりしてきた辺りで、藍が席を立った。
「おや、帰るのかい?」
「あぁ。お前さんの酒のおかげで気持ちよく酔えたよ。それに、そろそろ主を悪し様に言うのも心苦しくなってきたしな」
がはは、と萃香が笑った。
「では女将、これを」
藍が席を立ち、カウンターの横から空の徳利を差し出してきた。はいはい、とミスティアが反射的に手を伸ばした、その瞬間だった。
不意に手首を強く掴まれ、ミスティアはぐいと藍に引き寄せられた。
ゴト、という音を立てて、地面に徳利が転がる。
ミスティアが驚いて藍を見上げると、藍は酒のせいで赤くなった顔をミスティアに思い切り近づけ、蠱惑的に囁いた。
「貴方の料理のおかげで今夜は楽しかった、夜雀殿。また今度、今度は二人きりでお逢いしましょう」
溢れ出る雌の色香が、毛穴から浸透して入り込んでくる。
ミスティアの血圧が急上昇し、顔が真っ赤になるのを知覚した瞬間、藍はさっと体を離し、妖艶に微笑んだ。
「よかった。まだこいつは現役か」
それだけ言うと、呆気に取られているミスティアを置いて、藍はゲラゲラ笑って闇の中に消えていった。
しばらく呆然としていたミスティアは、同じく呆然とこちらを見ている萃香の両目に促されるようにして厨房に戻った。
「……あのキツネ、相変わらずだなぁ」
「……前言撤回だよ、鬼のお客さん。あのキツネのお客さんの方が悪い人だわ」
ミスティアは焦げかけていた白焼きをひっくり返した。
まだ心臓がドキドキ言っている。くやしい、あんな奴に。串を返す手つきが思わず乱暴になるのは怒りのためだ。決して興奮しているとかではなくて……。
「老いてますます盛ん、か。ああいうところだけはうらやましいねぇ」
「あらいやだ、あの人ってやっぱり若い頃からあんな風だったの?」
「いんや、あんなもんじゃなかったぞ。男だろうが女だろうが毎日とっかえひっかえだ」
「私には想像つかないわ」
言いつつ、萃香は伊吹瓢から酒を杯に注ぐ。顔より大きな丹塗りの杯を豪快に空けて、萃香は言った。
「あの狐と初めて会ったときは、なんとソリの合わない奴だと思ったよ。知恵が回るし、人を手玉に取るのが抜群に巧かったし。なによりも気に入らないのは、本心では平然と他人を疑ってるところだ」
「鬼は嘘を吐かないから?」
「そんなんじゃないな、もっとこう、生理的に、ね。最初から人の心の隙間に取り入るために貼りつけた笑顔っていうのかな。ああいう笑い方は鬼が一番嫌う笑い方だよ。本心がないんだ。笑える時ぐらいは笑っておけばいいのにねぇ」
ウソを吐かない鬼からの言葉でなくても、その語り口は辛らつなものになっていただろう。人間の歴史を影から操った大妖同士の、決して語られぬことのない交流……萃香は始めて他人に明かすのだろうその記憶を、ひとつひとつ思い出すように続ける。
「ところが次に会ったとき、あいつは式神になってるじゃないか。おまけにコブつきになってて二度ビックリさ。仮に一国を転覆させようとした狐がまともに母親みたいなことをしてるなんて、最初は信じられなかったな。けれど、今度はちゃんと笑うようになってた。それだけじゃない、泣くことも、恐れることも、慈しむことも出来るようになってた。もちろん本心からね」
萃香は不意に含み笑いをした。
「主とあいつの間に一体何があったのかは知らないよ。けれど、たぶん疲れたんだろうね。何か自分が生きた証を遺したい、壊すことでなくて創ることがしたい、ってね。そう思って、奴は式になるのを厭わなかったんだと思う。……これを老けたって言わないで、なんて言うのかね」
ミスティアは頷いた。それはなんとなくわかる。いずれにせよ、萃香が今しがた言ったように、主やあの黒猫との出会いは、まず間違いなくあの狐の生に新たな意味を付加したのだろう。それは子を成す機能を持って生まれた故なのか、女という生き物は、いつかは自分の遺したものに正対させられるときがある。「その時」が来るのも、それが来たことに気がつけるのも、おそらく女だけだろう。
「嫌だね、なんだか辛気臭い」
頭を掻きながら軽口を言うも、萃香はどこか浮かない顔をしている。
萃香には「その時」が来ていないのか、はてまたとっくに経験したばかりなのか。
その苦笑顔から窺い知ることは出来なかった。
お酒はぬるめの 燗がいい
肴は炙った 烏賊でいい……
“ぱなそにっく”が、物悲しく歌い上げたときだった。
「なんだか今日は妙に辛気臭い雰囲気じゃないか、鬼?」
不意に、闇の中から今晩四人目の来客を告げる声が発した。ミスティアが後ろを向くと、大柄の女性がのしのしと歩いてきて、どっかりと椅子に腰掛けた。
「んお? 神様じゃないか」
「よぅ、女将に鬼。今日も体に悪そうな呑み方してるな」
がはは、と萃香が照れたように笑った。
これまたビッグネームが来た。守矢神社の主祭神にして幻想郷最大のトラブルメーカー――八坂神奈子。ミスティアが「珍しいね」と一言かけると、「あぁ、今日は早苗が早く寝たからね」という声が返ってきた。
「早苗……というと、あの風祝かい? やだねぇこの神様は。まだ子離れしてないのか」
「抜かせ、鬼。アレは私の最高傑作なんだ、手出したら角引っこ抜いてやるからな」
「ぞっとしないな。私がアレを獲って喰うとでも言うんかい?」
「鬼のあんたが言うとシャレじゃなく聞こえるぞ」
神奈子が萃香の額を伊吹瓢の底で突いた。険悪な会話に聞こえるが、二人の間の空気は酒飲み友達のそれで、初対面の空気の重さは感じられなかった。酒を飲み交わせば皆友になるというのは、種族間の違いをも超えた不文律なのだ。
それにしても可笑しいものだ、とミスティアは内心で苦笑した。神様と鬼、本来であれば調伏する方と調伏される方が、今夜はこうして肩を寄せ合って酒を汲み交わしている。こういうおかしなことが平気で起こるのが幻想郷というところであり、不思議なところなのだと思う。
そうだ、この辺であれを出してみよう。ミスティアが鍋から料理をよそって神奈子に出すと、二人がその皿にぐいっと顔を近づけた。
「なんだい、この料理? すき焼きか?」
「新作よ。ヤツメウナギをぶつ切りにして、お醤油とお出汁で煮てみたの。ヤツメは歯ごたえがあるから煮崩れしないしね。ささ、これはサービスだから食べてみて」
ほほう、と感心したように二人は頷いた。神奈子がひとかけらを口に運び、瞑目したまま咀嚼する。
しばしの沈黙の後、神奈子の口から出たのは「旨い」の一言だった。
「なんだろう……食べたことのない不思議な食感だな。とにかく、こいつは酒には合いそうだねぇ」
屈託なく笑った神奈子に、ミスティアはほっとため息を吐いた。
どれどれ……と萃香も横からヤツメウナギの煮しめをつつき、「ん、これはイケる」と太鼓判を押した。鬼はウソをつかない。よかった、なんとかお客さんに出せそうだ。決して上等でない鳥頭を捻った甲斐があったと気を良くしたミスティアは、高級芋焼酎の瓶を開け、切子細工の杯と共に神奈子に出した。神奈子は酒を飲み干してから、満足そうに言った。
「やっぱり、こいつは酒と合う。後で早苗に作ってもらおうかな」
「こらこら、勝手に真似するな。発明した側から真似されたんじゃ商売上がったりなんだから」
「そうだぞ神様。お前さんは手が早すぎるんだ」
「冗談だったら、冗談」
二人につつかれると、神奈子は苦笑いして頭を掻いた。どうもこの神様は「思い立ったら即実行」の気が強すぎるのだ。それがこの神様がトラブルメーカーとして自他共に認められている所以でもあるし、神社ごと幻想郷に移住してくるという荒業を為さしめた背景なのだった。もっとも、日常的に国を作り、人を生みしていれば、神様とはすべからくこういう要素が出てくるものなのかもしれない。
「そうだ。手が早いといえば、お前さんが作ってる発電所とか言うのはどうなったんだい?」
萃香が話題を変える一言を発すると、神奈子は「あぁ……」と気の抜けたような相槌を打った。
「どうも思い通りに行かなくてねぇ。毎日河童やら地霊殿の烏をせっついてやらせちゃいるんだがさ。どうにも遅れが目立つ」
「へぇ、そうなんだ。河童から聞いた話ではもっと進んでるかと思ってたけど」
ミスティアが言うと、神奈子は力なく笑った。
「そうおいそれと行くもんでもないんだよね、電気を産むってのはやっぱりな」
「そんなに危険なものなのかい? その核なんちゃらってのは」
萃香が杯を傾けながら言う。聞きかじりでも、山の神様が核融合とかいう技術をもって何かとてつもないことをやろうとしているという話は、少しでも耳敏い者ならたいていが聞いている話だった。
神奈子は「あんまり部外者には聞いて欲しくない話なんだが……」と前置きしてから、ぼそぼそと言った。
「失敗すれば、山ひとつぐらいなら簡単に吹き飛ぶだろうさ」
その発言に、萃香がブッと酒を吐き散らした。開いた口が塞がらなくなったミスティアと萃香を見て、神奈子は「い、いや、もし事故が起こったらの話だぞ?」と引きつった笑い声を上げた。
「……"もし"、じゃないよ……。そんなおっかないもん、本当に大丈夫なのかい?」
「そうよそうよ。気がついたら焼き鳥になってました、とかイヤだからね?」
「おっ、おう。大丈夫だって、そんなに心配するなよ」
「本当に?」
「そっ、そんな目で見ないでおくれ。私は神様だぞ? いざとなったらどうにかするったら」
「なーんか大丈夫そうじゃないねぇ」
萃香はそう呟いて杯を舐めた。ミスティアも萃香の言う通りだと思う。そのデンキというものがいかに便利であるかというのは、ミスティア自身“ぱなそにっく”のおかげで十分承知している。とはいえ、それにしたって自分の命と天秤にかけてどっちが重いか、と比較するほどでもない。もともと今まで“ぱなそにっく”なんて無いのが常だったのだ。無くてもそれほど困りはしないものと心中する気はいくらなんでも……であった。
相変わらず納得しない様子の二人に、神奈子が苦笑する。
「大丈夫だって。鬼ともあろうものがそんなもんでいちいち心配するなよ」
「鬼とか神様とか関係ある話? 本当に頼むわよ、もう」
「大丈夫だったら。ほら昔から言うだろ、『なるようになる』ってさ」
「神様がいう台詞かい。いや、それにしてもおっかない話だ。……おっかないからそろそろ帰ろうかな」
ぐい、と杯を飲み干した萃香がぴょこんと椅子から飛び降りる。「あら、もう帰るの?」とミスティアが身を乗り出すと、萃香は大あくびをかきながら「おうおう」と呟いた。
「アブナイ神様と一緒に月見酒、ってのもいいと思ったが、もうツマミは貰ったしね。あとは帰って寝るとするよ」
萃香が言うと、神奈子の顔がぐしゃっと歪んだ。「勘弁してくれったら」と下唇を突き出した神奈子を見て、萃香は愉快そうに笑った。そしてもう一度、大分空の彼方へと傾いてしまった月を見上げて、そしてため息を吐いた。
「綺麗な月だよなぁ」
萃香が、やけに感慨深そうに呟く。その一言に、神奈子だけでなくミスティアまでもが身を乗り出し、月を見上げた瞬間だった。
月が、破裂した。
ぎょっと、ミスティアは目を剥いた。今まで完全な球形を保っていた黄金の球が突然弾け、盛大に破片を散らした。飛び散った月の欠片が光の尾を曳いて飛び散り、闇夜に吸い込まれるようにして消えると、月明かりが消えた辺りは一面、完全な闇に包まれた。
しかし、月が完全に消失したのは一瞬だった。数秒後にはどこかから生まれた光の欠片が空の一点を目指して、再び結集してゆく。まるで逆再生の映像を見ているかのようだった。たった今、夜空に四散したはずの月の破片が、数秒前と全く同じ軌道を描いて吸い寄せられ、寄り集まり、ジグソーパズルが組みあがるようにして形を取り戻し――そして数秒後には、月は完全な球形に戻っていた。
呆気に取られた、というより、狐に摘まれた、という方が正しかった。月は今しがた大爆発したはずではなかったか。いまだに事態が飲み込めないミスティアの耳を、くくく、という意味ありげな笑声が打った。
「壊して……また集めて、直す、か。私は腕っ節を振るうのが関の山か」
何かを確かめるかのような声が、やけに寂しく聞こえた。
沈黙している神奈子に代わってミスティアが何か言おうとする前に、萃香は千鳥足で闇夜へと消えて行き、戻っては来なかった。
「天蓋を割ってまた集めたのか。無茶をする、あの鬼」
驚いて開いた口が塞がらないミスティアに対して、神奈子は感心しているだけで驚いてはいない。今頃、妖怪の山は音も無く破裂した月に上を下への大騒ぎになっているのだろう。その気になったら天蓋を叩き割ることができる鬼と、その気になったら幻想郷を焦土にしてしまう神。退治する側とされる側の違いはあれど、危険度で言ったら神と鬼は案外近い生き物なのかもしれない。
じゅう、という音がして、ミスティアは我に返った。見れば、最後の蒲焼が炭の上で脂を弾けさせている。慌てて串を返すと、ちょうどいい塩梅に焦げ目がついている。危ない危ない、焦がすところだった。残りの蒲焼きも手早くひっくり返すと、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「やれやれ、鬼め。こっちにもそれなりに苦労があるんだってこと、わかってるくせにな」
ぽつり、という感じで、神奈子が呟いた。え? とミスティアが顔を上げると、神奈子は何か思いつめたような顔で切子の杯を見つめていた。
「あいつ、寂しそうに言ってただろ? 女には何か残したいって欲求があるってさ」
「あぁ、それはさっきの……」
「うん、聞いてたよ。さっきあんたらが言ってたことさ」
神奈子は苦笑して、自らもどこかしらで盗み聞きしていたことを白状した。神が盗み聞き。褒められた行為で無いと知りつつも、今それを白状したのには別の理由があるはずだ。
「なぁ女将、私たちが幻想郷に来た理由、聞いてるか?」
「え? あ、あぁ、大体はね」
こんな辺鄙な場所で女将をやっていると、畢竟、聞こえてくる与太話も多くなる。何でも、守矢神社の面々は外の世界で信仰を得ることが難しくなり、まだ神の存在が否定されていない場所――幻想郷にやってきたのだとか。その話を小耳に挟んだとき、ミスティアはその話についてあまり深く考えることはしなかった。自分は鳥頭だし、考え事を巡らすのは好きでないという以前に出来ないのだ。
しかし、一度聞いてみたい気はしていた。二千年間も自分が面倒を見てきた国を手放すのは、一体どういう気持ちなのか……と。
「発電所の建設がなかなか進まないっていう話も、したかな」
「聞いたわ」
「ごめん、ありゃウソなんだ。正確に言えば、私が遅らせてるんだよ」
神奈子が苦笑混じりに白状する。ミスティアが『それで?』と視線で先を促すと、神奈子は頭を垂れて水割り焼酎を煽った。
「なんだか、怖くてね」
「怖い?」
意外な言葉に、ミスティアは神奈子の顔を見た。神奈子は苦笑交じりに言う。
「なぁ女将よ、私は腐っても神なんだよ。二千年もの間、私はヤマトを守ってきたって自負もある。人を生んで、天候を操って、国を富ませてさ……言っちゃなんだが、それなり以上に民のことを思って政をしてきたって自負は、あるんだよ」
そういえば……と、ミスティア守矢神社にまつわるもうひとつの噂話を思い出した。その昔、天地がまだよく固まっていなかった頃。ヤマトの悲願であった扶桑の神格統一のため、神奈子は諏訪の地を侵攻し、その土地を手に入れた。しかし、その土地の土着神であった洩矢諏訪子の影響力を完全に取り除くことが出来ず、結局今に至るまでずっと一緒にいるのだという。
神奈子に関するあらかた全部の予備知識を引き出したところで、神奈子は続けた。
「でも、さ。私たちヤマトの神は負けた。他ならぬ人間に、さ。人間には神様はもう必要なくなったんだ。人間は私が産みもしないのに勝手に増えていったし、私が許可した覚えもないものも作り始めていた。私と諏訪子は声を枯らすほどに人間たちを戒めたけれど、もう何もかもが手遅れさ。私たちの方が人間に忘れ去られてたんだ」
手酌酒をしながらの神奈子の独白は続く。
「ここじゃそんなことは有り得ないと思っていても、さ。ああいうものを作っちゃうのは怖いんだ。生活が便利になったら、また私たちは忘れ去られるんじゃないか。幻想郷にあんなもん残したら、また皆が忘れられる幻想郷になっちまうんじゃないか。そう思ったら、なんだか及び腰になってさ……あれこれ難癖つけて工期を送らせて……言いだしっぺなのにひどいよな」
神様だって人間だって妖怪だって、自分の存在が忘れ去られることぐらいつらいことは無いのだと、ミスティア自身身に染みてよく知っている。やってくる人間を鳥目にしてみても、いかに歌で幻惑させてみても、近頃の人間はもうそれが夜雀のせいだとは考えなかった。空耳だ幻聴だと勝手に解釈して、自分の存在を綺麗さっぱり忘れてしまっていたではないか。
全然酷くない、それが普通じゃないか。そう言いたかったが、ミスティアは口を噤んだ。神奈子は神様なのだ。これまでも、そしてこれからも。そうやって自分たちを裏切ったものたちのことまで気にかけることができるのは、神奈子がひとえに潔癖だからなのか。おまけに自分は鳥頭、かける言葉など見つかるはずもない。
「それでも私は、やっぱり忘れられたのが悔しいんだよ」
神奈子はもう苦笑することもできず、じっと空になった切子細工を見つめている。
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに……
あ、この歌はまずい。いくらなんでも今の神奈子に聞かせるには少々重過ぎる。小さく丸まった神奈子の背中は、今にも本当に泣き出してしまいそうだった。
ミスティアが“ぱなそにっく”をとめようと、そちらに手を伸ばした瞬間だった。
「こんばんわ」
鈴を転がすような、凛と響く声が虚空から発した。声に驚いたミスティアが顔を上げると、いつの間にか豪奢な金髪の頭が忽然と現れ、神奈子の隣に座っていた。
ぎょっと目を見張ったミスティアに「あら、今日はお客よ?」と笑いかけた少女は、口元を隠していた扇子を折りたたむや、実に幽雅な所作でカウンターに頬杖をついた。
「紫じゃない……。どうしたの、こんな時間に」
幻想郷の創造者にして最強の妖怪、八雲紫だった。この屋台から言えば、少々意外すぎるとも言えるお客の登場だ。ミスティアがこの屋台を始めてからというもの、幻想郷にいる大半の人妖はこの屋台に来た覚えがある。しかしことこの隙間妖怪に限って言えば――弾幕勝負のときはともかくとして――ここに来るのは初めてのような気がした。
突然の来訪者に、神奈子も顔を上げて目を丸くした。
「おりょ、紫じゃないか。どうした、寝てたんじゃないのか?」
「それも藍から聞いたのね? 後でしっかり睡眠は摂るつもりよ。心配されるほどのことでもないわ」
それも、という言葉から察するに、どうもこの隙間妖怪は従者の愚痴をすべて聞いていたらしい。ということは、帰宅した後の藍の処遇は……ミスティアが第一にそんなことをぼんやり考えると、それを察してか紫は笑った。
「心配しなくても大丈夫よ。オフのときには従者が何を言っても関知しないことにしているの。……女将、私には熱燗をくださいな」
今しがたの従者の振る舞いなど先刻承知、と言った顔で紫は笑う。まぁ、胡散臭いと評判の紫の事だ。しばらく帰らなくてもあの狐は今更咎めやしないのだろう。ミスティアは今日はじめての熱燗を湯灌から出し、猪口と共にカウンターに置いた。
「じゃあ今日はいくら飲んでも大丈夫ってわけかい?」
にや、と笑ったのは神奈子だ。どうやら、相当に酒が回ったらしく、その顔は桃色を通り越して赤くなりかけている。一気飲みを強要する勢いで身を乗り出す神奈子にも、紫は微笑を崩さない。
「あら、いつも心置きなく飲んでるつもりですわ。……ちょっとお酒の方が力及ばないというだけで」
「ほほぅ、言うじゃないか妖怪。それじゃ私の驕りでいい、今夜はとことん……」
「申し訳ないけれど、飲み比べならまたの機会にして頂戴ね? あなたたち二人でかかられたらお酒の在庫がなくなっちゃうんだから」
一応釘を刺しておいたミスティアにも、神奈子は聞いているのかいないのか、へへへと不敵に笑っただけだった。この神がこうなれば人も妖怪もあったものではなく、文字通り見境無く酔い潰されてしまうしまことだろう。ま、相手があの八雲の大妖ならばその心配は無いだろうが。ミスティアが心中で苦笑すると、カウンターの鍋からいい匂いがし始めた。ミスティアが八ツ目鰻の串揚げを出すと、紫は「あら、ありがとう」と言って微笑んだ。
しばらく、神奈子と紫は取り止めのない話を続ける。従者の式や風祝のこと、外の世界のこと、今日の天気から気温の話に至るまで、実に静かに会話は続く。今日はよほど飲みたい気分なのか、げはげはと笑っては盛大に酒精を吐き出す神奈子の側で、紫はつくねんと座ってひたすら聞き役に回っている。どちらかと言うと大柄の部類に入る神奈子と、平均的な身長の紫が酒を酌み交わす様は、久しぶりに出会った旧友同士を思わせた。
飲めと言われて 素直に飲んだ
肩を抱かれて その気になった……
楽しげな音程と共に、“ぱなそにっく”がそう歌い上げたときだった。
不意に、二人の会話が途切れて、ミスティアは蒲焼を返していた手を止めた。
「お前はさ」神奈子がぽつりと言う。「何も聞かないのか?」
「何を?」
「とぼけるなよ。さっきの話、聞いてたんだろ?」
さて、というように紫は無言を通す。そのすまし顔を横目で見て、イエス、と受け取ったのだろう。「訳わからん奴だよ、本当に」と独り言のように言った神奈子は、カウンターに頭を垂れる。
「なぁ紫」
「何?」
「その……凄く失礼なことかもしれんが……」
神奈子は珍しく言いよどむ気配を見せた。
「お前は、その、後悔したことはないのかい? その、幻想郷を創ったことをさ」
その質問に、紫が微笑を消した。いきなり何を言い出すんだ、この神様は。
「なぜそんなことを?」
「なにもヘチマもない、単純な興味さ」
紫は何も答えない。じっと瞑目し、考えをまとめているようにも、神奈子の次の言葉を待っているようにも見えた。
その人柄を知るすべての者から「胡散臭い」という評価を下されている紫でも、幻想郷に対する愛情は本物だ。遊び半分で幻想郷を半壊させようとした天人相手に怒りを剥き出しにし、敗北を持ってそのツケを支払わせた過去の異変からもそれは明らかで、とにかく彼女が伊達や酔狂で幻想郷を創造したのではないことは誰もが知っているところであった。
幻想郷では新顔の部類に入るとはいえ、それを神奈子が知らぬはずはない。しかし、第三者のミスティアが慌てるのをよそに、神奈子は真剣な眼差しで紫の返答を待っていた。
しばしの沈黙の後、質問を投げ掛けられた紫は猪口を煽ると、「さて、どうでしょう」という言葉を答えにした。
「後悔したことはあったかもしれない、しなかったかもしれない。けれど、もう忘れた」
「忘れた?」
「そう、忘れた。毎日結界の管理に追われるのを百年も経験すれば、日常で起こった瑣事の大半は忘れてしまうもの。忘れてしまえば、それは最初から無かったことと同じじゃなくて?」
そう言って、紫は猪口にほんの少しだけ残っていた熱燗を飲み干した。神奈子はどこかまだ納得のいかない表情をしていたが、それ以上根掘り葉掘り聞くつもりもなかったのだろう。「そうかい」と応じて、自分も杯を煽った。ミスティアがほっとしたところで、じゅっと脂の弾ける音がした。ミスティアは反射的に串に手を伸ばした。
「……仕方ありませんわ」
不意に、そんな呟きが紫の口から漏れて、ミスティアは蒲焼きから顔を上げた。
ん? という風に顔を上げた神奈子に、紫は微笑しながら言った。
「子どもですら時として親を殺すことがあるように、自分が創ったものが思い通りにならないことはよくあると思う。それは誰だって同じじゃありません?」
酒のせいでわずかに紅潮した顔で、紫は独白のように続けた。
「私が幻想郷を創ったのは、全く思いつきと言ってもいいかもしれない。実際、そんなに大きな覚悟や将来の見通しがあったわけじゃありませんもの。私は私を含めた幻想を失わせたくなかった、あの時考えていたのはそれだけだった。けれど――」
紫の回顧は続く。
「私は結果的に、あまりに多くを巻き込んだ、結界の管理役としての博麗の巫女は言うに及ばず、そこに住む人間までも、この狭い温室に封じ込めてしまった。それは確かに私の行動の結果だし、恨まれこそすれ感謝される筋合いはないこと。私がもし、あそこで幻想が生きるこの郷を築こうとしなかったら、彼らには一体どんな未来があったのだろう。……そういうことなら、考えたことは、あるわ」
ミスティアは初めて聞く――否、あの狐の式ですら聞いたことがあるかどうか――幻想郷の誕生秘話の一ページだった。それは八雲の大妖に似合わぬ、迷いもすれば後悔もする、ごく当たり前の感情の発露だったと言えた。「忘れていた」とごまかすにはあまりにも生々しい言葉の群れは、きっと心の底で感じ続けてきた負い目から発したもの。誰かと弾幕を介して闘うたび、酒を酌み交わすたび、なんでもない会話を交わすたび……日常のごく些細なことをするたびに疼いていたのでなければ、今の告白はこれほどまでに瑞々しく響くことは無かっただろう。
こちらを注視する二人の視線に、喋りすぎた自分を察したのか。紫ははっとした表情になり、珍しく照れたような笑みを浮かべた。
「ま、そういうこともあったのよ。これでよかったかしら?」
「え、あ、ああ、ありがとうよ」
自分から振った話だと忘れていたのか、神奈子は少し慌てたように礼を述べる。紫は今しがたの言葉を忘れようとするかのように、「ささ、今日は飲みましょう?」と茶目っ気たっぷりに笑い、隙間から大振りのぐい飲みを取り出した。
「女将、あなたも一緒に飲みましょう? 私がツケとくから、ね?」
「発見。紫、あなたって意外に絡み上戸ね?」
「いいじゃないか、私からもお願いするよ」
「……仕方ないわね、今日だけよ?」
どうせこの二人のことだ。断ってもしつこく誘われるに違いない。それに、今日はなんだか飲みたい気分だった。ミスティアがカウンターから大吟醸の瓶を取り出すと、二人は手を叩いて喜んだ。
その後、三つ巴のどんちゃん騒ぎになった。二人は時に大きな笑い声を上げ、外の世界のことで盛り上がり、“ぱなそにっく”から流れてくる演歌を声上げて歌ったりしていた。珍しくあられもない姿を晒す神奈子と紫を眺めながら、ミスティアは黙々と串を返し、炭火の火加減を見て、口では二人の会話に相槌を打ち、笑い、せがまれて歌を披露して盛大な拍手を貰ったりし続けた。
数時間も経っただろうか。あらかた三本目の瓶を消費したあたりで、二人はようやく潰れる気配を見せ始めた。神奈子の顔は既に赤を通り越して赤黒くなり、切子の杯を摘んでプラプラと振っている。紫はといえば、くしゃくしゃになった金髪ごと頬をカウンターに押し付け、眠気に半開きになる目をどうにか開いているという有様だった。
ミスティアはカウンターから出て、彼女たちの頭の上でパンパンと手を叩いた。
「ほらほら情けないねぇ、仮にも神様や八雲の大妖ともあろうお方たちが。そんなんじゃしめしがつかないでしょうが」
「なにを、夜雀……私はもっと飲むぞぉ……」
「何を言いますか。神様とはいえもうこれ以上は毒だよ。明日のことも考えて、今夜はやめときなさいって」
「むぅぅ……ピーチクうるさいなぁ……」
カウンターに押し付けた顔を少しだけ動かして、紫は背後に立つミスティアの顔を恨めしそうに睨みつける。ほとんど気力で繋ぎとめた意識に縋っての虚勢だろうが、生憎体はもうついて行きそうにない。
カウンターに反吐でもぶちまけられた日には目も当てられないだろう。かといってテコでも動きそうに無い二人をどうするか考えて、ミスティアは「しょうがないなぁ」と腰に手を当てた。
「お二人とも、一人じゃ帰れなさそうだから、風祝と式の狐さんに迎えに来てもらおっか。おっと、あの狐のお客さんの方はもうウチで飲んだから、迎えに来るのはあの黒猫のほうかね」
「帰る」
がばっ、と二人は同時に顔を上げた。まるで機械のように顔を上げた二人は、それから何か互いに探るような顔をして、よろよろと椅子から立ち上がった。
「あらら、立ち上がって大丈夫なの?」
「大丈夫だって。さすがにそこまでは……酔ってない。歩いてでも帰れるさ」
「そうよそうよ。……ねぇ神様、今度また飲み直ししましょう? 今度は私が奢りますわ」
「何を言ってるんだい、お前さんを誘う私の方が払うに決まってるだろ?」
えへへ……と酒臭い顔で笑い合う二人は、数時間前まで初対面に近い状態だったとは思えぬ仲の良さだ。それに苦笑しつつ、「そう、それじゃ今度は在庫を多めに仕入れとくわ」とミスティアが言うと、神奈子と紫はひらひらと手を振り、それから肩を組んでよろよろと歩き始めた。
「じゃあおやすみ、女将。今日の酒は楽しかったよ」
「今度から贔屓にさせてもらうわ。それじゃあ」
「あぁ、それは楽しみにしてるわ。じゃあおやすみなさい」
いち、に、いち、にぃ、いち、に、いち、にぃ……
そんな声が、消えてゆく二人の背中から聞こえた。
仲良くなったもんだ、本当に……と半ば呆れて見ているうちに、二人の背中はふっと闇夜に消えた。
ほぅ、とため息が出た。空を見上げると、月は大分傾いていた。あと一時間もすれば、すっかり夜も明けるだろう。
最後の客を見送ったミスティアは提灯の灯りを消して、それからカウンターの火を落とした。フッ、と明かりが消え、夜明け直前の暗さが戻ってくる。
しばらく、もくもくと後片付けに追われた。カウンターを拭き、皿を洗い、ゴミを捨てる頃には、さらに一時間ほどが経過していた。そのうちに外はぼんやり明るくなってきて、先方まで闇そのものだった森の輪郭がおぼろげながらにわかるほどになってきた。
ようやくすべての洗い物が終わったミスティアは、ひとつ伸びをしてカウンターの椅子に座り込んだ。
体中に泥を詰められたような気だるさがあった。もう夜は終わり、それと共に夜雀である自分の時間も終わる。そうなれば後は寝るだけだ。仕込みは目を覚ましたらやればいいし、気が乗らなければ店を開かなければいいのだ。
ミスティアは割烹着を脱ぐことも忘れて、カウンターに頬杖をつくと、今晩出会ったお客の表情や言葉が脳裏に浮かんでは消えてきた。鳥頭でなければもう少しきちんと記憶に留めておけるのに……。少し悔しい気もしたが、考えても詮無いことだった。
『これでも結構楽しいんですよ? 花壇弄ったり、氷精と世間話したり』
目を閉じれば、凛と響く門番の声が聞こえた。そう言えば彼女が話すたび、笑うたび、どこかから鈴の音がしていたっけ。
今度はあのメイド長も誘ってきてくれたらいいのになぁ。
『虎は死んで毛皮を遺す、人は死んで名を遺す。けれど一番優れた者は、死んで人を遺す人だ』
あの女狐め、殊勝なことを。思わずアテられかけた自分が悔しい。
今度来たらきっとウナギでなくて泥鰌を食わせてやる。ま、悪い気はしなかったから、それも酷かな。
『壊して……また集めて、直す、か。私は腕っ節を振るうのが関の山か』
鬼のお客さんは明日も来るだろうか。きっと来るだろう、あれで以外に寂しがりやな人だから。
そうしたらまた歓迎してあげよう。鬼の酒を分けてもらって、それを新作料理に使ってみようかな。
『創る側にも苦労があるんだってこと、わかってるくせにな』
豪放磊落という言葉がぴったりのあの神様の、どこにこんな繊細な気持ちがあったんだろう。
もし今度、もう一人の神様が来たら、今日のしおれた彼女の話をしてやろう。なぁに、きっとあの神様も悪くは思わないだろう……。
『私がもし、あそこで幻想が生きるこの郷を築こうとしなかったら、彼らには一体どんな未来があったのだろう』
馬鹿だなぁ、どんな未来もありゃしないのよ。みんなあなたには感謝してるんだ。
もう先がなかった私たちの運命を未来へと繋げてくれたのは、他でもないあなたでしょう……?
季節が都会では 分からないだろと 届いたおふくろの小さな包み
あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな……
静かな明け方の空に、“ぱなそにっく”の歌だけが元気だった。
チチチ……という小鳥のさえずりが聞こえて、ミスティアは眼を明けた。うつらうつらと眠りかけていたらしい。
見ると、カウンターに一羽の雀が止まっていた。カウンターに客の食べ残しでもあるのか、それとも羽を休めているのか、雀はミスティアが視線を向けても逃げようとはせず、逆にこちらを茶色の瞳で覗き込んできた。
「あらら、あなたが最後のお客さん?」
雀は、そうだよ、という風に茶色い頭を傾げる
「ゴメンね、もう蒲焼きは下げちゃったの。今度来たときはお米とか粟粒の方がいいかしら?」
ご相伴に肖らせてもらうよ、と雀。
羽をせわしなく嘴で繕いながら、相変わらず逃げる気配は無い。
「……あなたはさ、誰かのために何かを遺そうって、考えたことがある?」
忘れちまったなぁ。
雀は尾羽を上下させてそう言う。
「私はね、この屋台がそうなのかもしれないわ」
へぇ、そいつは結構。
やけに斜っぱな態度を取る雀だが、少なくともこちらの話を聞き流してはいないらしい。
「私にはあのお客さんたちみたいに力も強くないし、家族も仲間もいない。もちろんいい男の人だっていない。だから、誰かのために何かを、って気持ちもわからないし、残せるものって言ったら本当に少ないのよ」
そう自分を卑下すんなよ。
雀に慰められた。
「でも、ここでは強い妖怪も、弱い人間も、皆来てくれる。八ツ目鰻を食べて、お酒を飲んで、互いに笑ったり、悩みを相談したり……」
大半は酒を飲みに来てたようだったけど?
雀はカウンターをコツコツと嘴で叩く。
「そんなものよね、私が幻想郷に残せるものって。人や国、発電所ってものも残せない。式も作れないし、月を割ることも出来ない。けれど、私にはこんな小さな屋台が合ってると思う。ここで皆に八ツ目鰻を振舞って、お酒を飲ませて、そうして生まれていくものもある――それは私がここで屋台をやることでしか生まれないものだよね?」
そうみたいだね。
雀は不意に動きを止め、こちらを正視する。
「でも私、本当にそれでいいのかな。こんな小さな屋台しか残せなくても……それでも、いいのかな」
いいんじゃないかな。
雀は首を傾げながらも、ささやかな肯定の意を示す。
「本当に、いいと思う?」
いいのさ。
「そうか――そうだよね。ありがとう、雀さん」
どういたしまして。
雀の茶色の瞳が、そう言ったようだった。雀はもう一度だけカウンターを突くと、パッと羽を広げて舞い上がり、明け方の空へ飛んでいった。
蒼に輝く空に、雀の群れが影になって飛んでゆく。
幻想郷の朝が始まりつつあった。
不意に、カチリ、という音がして、ミスティアは屋台を振り返った。
油と湿気に汚れたメニュー表の下、カウンターの隅に忘れ去られたように置いてあった“ぱなそにっく”が、キュルキュルと音を立てて五順目の演奏を終わらせたところだった。
あぁ、すっかり忘れていた。夜通し歌い続けた“ぱなそにっく”は、カウンターの上で疲れきったようにじっとしている。六順目を歌い始めようか、迷っている様子だった。
もう上がっていいよ。心の底でそう言うと、朴訥な四角で構成された“ぱなそにっく”が、少しだけ安堵したように見えた。
今夜はどんなお客さんが、この子の歌を聞きに来るのだろう――?
ミスティアはそう思いながら、“ぱなそにっく”の電源ボタンを押した。
了
この酒場で一晩過ごしてみたいもんだ。
ネタが被るのイヤだから、次の短編はまた方言SSにしよう…
そんなことよりなによりも…
あんたいくつだよ!
ほっこりする、いい話でした。
丘みすちー…新しい、惹かれるなっ…!
面白いSSにもいろいろあるけど、この作品は読んだあと幻想郷の皆がもっと魅力的に見える作品でした。
すごく良かったです!
みすちー屋台SS脳内ランキングに殿堂入りしました。
ヨッパライ紫が新鮮でよかったです
みすちーの屋台にくる面子はみな幻想郷のトップレベルの大物なのに、
うらぶれた、どこか物悲しい雰囲気があって、とても良かったです。
で、後書きの丘みすちーで台無しだw
藍様と天城越えしたい
いやマジで飲みたくなってきた
お酒が飲める場所を提供することがどれだけ素晴らしいことなのかみすちーに教えてあげたい
誤字?報告
>不意に、闇の中から今晩三人目の来客
神奈子は4人目では?
日が暮れる前に来た美鈴を除外していたならすいません
酒池肉林ってダッキ様かw
>>10
ロマン輝く二人ですよね。酸いも甘いも噛み分けてる感じが
>>11
酒飲んでる女はイイですよね。酒に酔ってる時の女ぐらい観察していて楽しい生物っていないもんです
>>12
屋台で飲むのって憧れますよねぇ。酔っ払いの調子外れの歌をBGMにして……みたいな
>>16
酒が飲めるぐらいの学生です。いつか神主と酒を飲み比べしてズダボロにされるのが夢なんだ
>>22
丘みすちー書きてぇって方がいたらどうぞご自由に(笑)
>>36
有難きお言葉です。いっそう精進いたします
>>39
望外の幸甚です、殿堂入り
>>47
いつか幻想入りできたらこの店でどぶろくを頼むのが夢なんだ。紫は酔っ払ったら一番面白い奴だと思います
>>51
そう、昭和臭です。この油と酒臭さの昭和臭を出すのは苦労しました。大物ほど苦労人なものですよね
>>56
ああ残念だが藍様なら今俺の隣で尻尾のお手入れしてるよ
>>59
これ書きながら酒飲みまくって朝までワンマンショーでふざけるというトシちゃんみたいなことをしてた日々も今となってはいい思い出です
>>63
誤字修正しました。昭和の漢はいいですよね。「三日家に帰らないのも男の甲斐性」とか言っちゃう理不尽さが
>>64
藍様って実は今も結構悪女っぽいところがあるんじゃないかと分析。悪気なく人を不幸にする魔性っぽいところが
誰も金を払ってねぇ!
なんてことは置いといて、いい雰囲気のSSでした。
普段はあまり飲まないけれど日本酒でも飲んでみるかなぁ。
そうでした。書き忘れましたが全員ツケです。まさか幻想郷で現金即売なんかやってないだろうと思ったので一応そうしました。大晦日にはミスティアが幻想郷中を回ってツケを回収してるんだと思います。
読んでる自分はまだ終わってくれるな!と思ってましたよ!
いいお話をありがとう
名曲は何十年経っても色あせない。
藍のエロさがヤバい
こんなに知っててもまだわかんないことや見せてないものがあるんだな長生き組は
また屋台であおうぜ
藍様エロいよ藍様
宴会の馬鹿騒ぎもいいが、こういったのも悪くない
酒の魅力もキャラの魅力もストンと心に落ちそれでいてじんわりと染みてくる
この作品を読めて良かったです
本当に