大学のあまり人の寄らない一角に、大きな鏡がある。由来も何も分からないその鏡の前に、休み時間の度に現れる人物が居た。薄紫の服を着て、白い顔をした女子学生。彼女の姿を偶然見かけた学生達の間で、ちょっとした噂が広がる事となり、噂はそう遠くない内に学校の怪談となったのだが……。
鏡の前に居た当の本人、マエリベリー・ハーンの耳に届くのは少し後の事だった。
枠の中を見つめた後、メリーは大きくため息をついた。一対の薄い色の瞳が、銀の表面から彼女を見つめている。
メリーは、こうして日に何度も鏡を覗いては自分の中に、あるモノを見つけようとしていた。とはいえ実はこれはすごく無駄な行為であり、本人も無為である事を知っていた。
彼女の見ようとしていたものは内面的な小さな境。
例えば物の輪郭、他人と自分。原子と原子の間にだって存在する境。涅槃寂静から無量大数までの宇宙的な範囲の、一体どの位を占めるのやら検討もつかない。
結界のように強力なものならいざ知らず、それら全てが可視となったら、受容した彼女の脳は処理しきれずに、たちどころに崩壊してしまうだろう。
『まあ、化け物じみた脳の持ち主なら、或いは大丈夫かもしれないけど……』
鏡の中にある顔は、連日の寝不足の所為でくまがあるものの、化け物のそれではない。見えないと言う事は、やはり脳の防衛本能であり。取捨選択の結果なのだ。
つまりは当たり前の事で、認知する必要などないから見えない……。
『……とは思うんだけど……』
鏡を見るのをやめられなかった。
『自分が “M” かどうだかなんて、別に気にしなければ良いんだけど……』
気になるものは気になる。
つまり彼女は精神の中にマゾヒズムの輪郭を求めていたのだが、結果としてはご覧の通り。見えないものが見えるわけもなく、毎回自分の顔と対面するだけだった。
今度こそ止めよう、次こそ止めようと思うのだが、本当にそれが無いという確証も無いので、休み時間の度についつい鏡をのぞいてしまう。
集中すれば、見えないものも見えるのではないかという淡い期待と共に。
『今回も見えず、か。無ければそれに越した事はないし、そろそろ諦めて……』
鏡から視線を外したその瞬間だった。
ある考えが閃いて、メリーの動きを止めた。世界が、すーっと暗くなった。
『……ひょっとして、完全にMだから輪郭なんて見えない、とか』
※全事象(私)=M(MASOCHISM)+N(NORMAL)
M∩N=φ(空事象)
N=0
M=全事象(ちーん!ご愁傷様/何故か嬉しそうな蓮子の顔が浮かんだ。)
ノーマル分0の可能性。
勿論ノーマル100パーセントの可能性もある。しかし、Mかもしれないと悩んだ挙句に寝不足の今のメリーには、N=100% まで頭が回らない。恐ろしい考えに身震いすると、再び彼女は大きなため息をついた。怖くて最早鏡を見れなかった。
毎回こんな事をしていては、鏡の国のメリーさんなんて怪談が出来かねない。見れないのは良い機会かもしれない。今度こそ鏡なんて見るのは止めよう。
鏡の国のメリーさん……。
「随分怖くなさそうなお化け」
自分で思いついたのに、あまりに素気無い感想を一言残して、彼女は立ち去った。鏡の中のメリーはこれを聴いて頬を膨らませると、メリーの後姿に向かってべっと舌を出した。
随分長いこと鏡を見ていたようだ。休み時間も残りもう2、3分ともなると、人の姿は殆ど無い。
建物は人気がなくなるだけで、博物館や美術館みたいな雰囲気を醸し出していた。
教室の中からは、漣のようなおしゃべりの声が漏れている。壁を挟む事によって教室の音はくぐもって和らいで、まるで別の世界から聞えるような錯覚を引き起こす。
メリーの目の前には階段があった。四角く切り取られた青が踊り場の上部で輝いている。
目に沁みる程鮮やかで透明なその色が、見上げたメリーの目を射た。
彼女が講堂に向かうべく一番下の段に足をかけたその時。きゅっと音をさせ、上の階から駆け降りてきた人物が踊り場を踏んだ。
影が青を一瞬浚う。急いでいるのだろう、その人物は身軽な動作でくるりとターンすると、大きくジャンプ!
スカートが翻り、空気をはらんでばさりと音を立てる。
「メリー!?」
「え……蓮……? きゃぅッ!!」
次の瞬間、その人物の革靴がメリーの脳天を直撃した。
もし周囲に人がいたら、メリーが思い切り踵落としされたところを目撃しただろう。もんどりうって転がって、ぶつかってきた当の本人……蓮子が先に慌てて身を起こした。
一方メリーは、落雷に撃たれたような痛みと共に広がる、あまりに甘美な脳内麻薬に……。
「メリー!メリーったら!生きてる?怪我してない?……まずいな、目が虚ろ……」
先刻悩んでいたのも何処へやら、
「うわ、魂が抜けてる……。先生呼んでくるね!」
うっかり広がった快感に悦びつつ、床に転がり
「そこで待ってて!」
軽快に去っていく足音を聞きながら、意識を手放したのだった。
※※※
メリーさん IN 保健室。
手当ても終わったのだが、念の為、彼女はベッドに寝かされていた。気分が悪くなったら呼んでね、と言い置いて白衣の人物はカーテンの隙間に消えた。
白いぱりっとしたシーツ。消毒薬のつんとした匂い。ちょっとだけ口の中に血の味がする。
蓮子の顔を思い出し、メリーは少しだけ悲しい気持ちになる。友人に対して疾しい気持ちを持ってしまった事で悩み、その結果の寝不足である。
もし自分が全くのMだったら……考えるとメリーは暗澹とした気持ちになった。今後蓮子とどうやって顔を合わせたら良いのだろうか。
『何時も通りにしてれば良いのよ、きっと』
出した答えは簡単。しかし思いを馳せてもそれがどんな物なのか具体的に思い描くことが出来ず、段々とメリーの考えは移ろいだす。
更にやる事が無く、天井しか見るものが無いとなると、思考は止め処なく流れいく。時に未来に時に現在に、そして当然過去にも心は飛んでいく。
……何時しかメリーの頭の中で、例の“あの日”の事が再生され始めた。
目の前には夕闇にほんのり染められた蓮子の顔がある。
気温と周囲の色に反して、至近距離で見る彼女の表情はとても冷たい。彼女の双眸に薄っすらと浮かぶ……それは嗜虐心にも似た、何かだった。
僅かに浮かんだ笑みが殊更に冷たさを引き立てている。
『……こんな顔、するんだ』
メリーの心臓が、どきりと大きく跳ねた。未だ嘗て蓮子にこんな表情を向けられた事は、記憶違いでなければ一度も無かった。
誰そ彼。
目の前に居るこの人は、だれ?
蓮子の目が鋭くなる。手が振り上げられた。背骨を鷲掴みにされたような感覚にぞくりと肌が泡立つ。気管が広がって吸い込む空気の量が増える。交感神経の伝達の結果、骨盤内部が刺激されて場違いなくすぐったさが下腹部に起こる。
そして……。
バシンと音がした。
『んぅッ』
漏れそうになった声を慌てて飲み込んで、メリーは思わず目を瞑った。広がった刺激にじわりと涙が浮かぶ。
この感覚はなんなのだろう? はっきりいって未知……否、以前にも感じたことがあるがこういうタイミングでは無かった。
身体の奥がずくんと疼いた。
『……ぅ、ぁ』
閉じた瞼の裏がストロボを焚いたように、断続的に白く光る。どこでスイッチが切り替わってしまったのだろうか。
『認めたくはないけど。でも、これは……』
蓮子の振り上げた手がメリーを打ち、そして下ろされるまでの造次顛沛の出来事だった。こんなに短い間に色々な反応を起こすなんて、人体が内に秘めた謎もまだまだ捨てたものでは無い。
「ごめん!痛かった?」
「ううん、大丈夫……じゃないかも」
「え」
サークルの活動中の出来事だ。二人は街の郊外まで足を伸ばしていた。陽に焼けて白茶けた建物が目的地。
黄昏の空を眺めながら、錆びの浮いた非常階段で身を寄せ合って境界が開くのを待っていたのだが。
蚊が。
一匹の蚊が、しつこく二人の周りを飛び回ったのだ。蓮子は最初こそ手で軽く払う程度で、余り気にしていなかった。しかし払ってもはらっても蚊は一向に何処にも行かない。おまけに遠近感の狂うこの時間帯のこと。
打ち落とすことも出来ず、気を抜くとあちこち刺されるので、段々と追いかける蓮子の手にも力がこもってきた。
敵も然る者、打たれないように影に消えては姿をくらまし忘れた頃に耳元で羽音を立てる。
『こんな小さな虫にも学習能力ってあるのね』
メリーは友人と小さな蚊のやり取りを少し感心して眺めていた。
本来、学習ってもう少し高等な動物に備わる行動の筈なのだけど、うーん。
幾度もの応酬の後、蓮子の苛立ちはとうとうピークに達した。同時に彼女の憎き相手が落ち着いたのはメリーの右頬……。
一瞬蓮子が見せた表情は獲物を追い詰めたハンター、若しくは死刑執行人のそれだった。メリーに向けられたものではなかったのだけれど、処刑の対象は何せ彼女の顔に居る。
メリーは、まるで自分が殺られるみたいな気分になった。
だのに怖いという感情は湧かない。代わりに何故だか、胸が騒いだ。これはなんなのだろう、こんなのは初めて……とメリーが当惑した瞬間、振り下ろされた手に頬を思い切り叩かれた。
カミナリが、落ちた。
信じたくは無いが、バチンと音を立てて何かのスイッチがオンになった感触。
内心、メリーは焦った。
『ああ、どうかどうか先刻のカミナリは間違いでありますように……!』
桑原桑原。
……メリーは、神様仏様と願う日本人の気持ちがちょっとだけ分かったような気がした。
「そんなに痛かった?」
蓮子は熱を持つメリーの頬にそっと触れた。そしてあんまり悪気の感じられない、何時ものしれっとした表情でメリーの顔を覗きこんでくる。
メリーは頬に触れる冷たい指を握り、もう平気と彼女に笑いかけた。友人に見つめられても、あんまり変にドキドキしない。やっぱり先刻のは気の迷いだったのだ。そう、ほらこうして蓮子に触れても、アブノーマルな気持ちは湧いてこない。
少し、ほっとした。
「大丈夫よ。蓮……
「あ!……またアイツ……メリー、動かないでね」
メリーが全ての言葉を言い終わらない内に、先刻の蓮子の一撃を逃げた蚊が今度はメリーの左頬に留まった。
ああ無常。
振り上げられた手に再び激しくなる動悸。必死で気持ちを押さえようと、打たれるのを避けようと思ったのだけれど。
「れ、蓮子駄目よ、まだ駄目!今打たれたら今度こそ私……やめて……あ……」
快感が身体におこり始める。
メリーの無二の親友は一瞬手を止めた。その際良く分からない表情を見せたのだが、すぐににっと笑って手を振り下ろす。
一度入ってしまったスイッチは中々元に戻らない。身体は正直で、メリーはその場をぴくりとも動かなかった。
そう、彼女の体は彼女の意思で、友人の手を避ける事をしなかったのだ。
出来なかったのでなく。
「『だめえええええッ!!!』」
高らかに頬を打つ音。
そして理性の抵抗虚しく、不覚にも甘さの掛かったメリーの声が
薄く星の見え始めた空にこだました。
同時に保健室の中でも声が響いていたようだ。
カーテンが再び揺れた。白衣を着た人物が慌てた様子で姿を現した。メリーは布団を目一杯引っ張り上げ……
「夢で、蚊に襲われたもので……」
……と釈明した。
※※※
保健室の日から、メリーは鏡を見に行くのをやめた。
色々な事が起こった所為で、行くのを忘れてしまっていたという方が正しいかもしれない。悩みからも少しは開放されたのだけれど、代償にここ数日間で彼女は沢山の怪我をしていた。
しかし彼女本人は怪我はしていても実にマイペース。
だから自分にも関係があるかもしれない或る噂を知るのはもう少し後の事。
踵落としの翌日。
天気が良かったのでメリーは中庭を抜けて帰宅する事にした。浮かぶ雲も綿飴みたいな平和な形。悩みも何処かに飛んで行きそうな空の色。
怪我は大したことが無く、メリーは大きな絆創膏を貼るだけで済んだ。それも帽子に隠れるからなんら問題は無い。
しかし。
悲劇とは繰り返すものだ。
渡り廊下の下に差し掛かった時にそれは起こった。上から何かが降ってきたのだ。
陶器のように硬くは無く、クッションのように柔らかくもないそれは、けだし化鳥の様に彼女に次々と襲い掛かってきた。
勿論全部直撃。
とどめの一撃を受けて地面にしゃがみこんだメリーの頭から、一撃の正体がばさりと落ちた。本――それも宇宙ヒモの本で、もしやと開くと裏表紙にサインがあった。
うさぎ れんこ
『え?』
平仮名で書いてあるものだから一瞬見間違えてしまった。もう一度見てみるとちゃんと、うさみ れんこ とサインしてあった。
メリーはなんとなく騙された気分になってむぅ、と眉間にしわを寄せた。見渡すと手元のヒモの本をだけでなく、周囲の地面にも物理関連の書籍が散らばっていた。
これらがニュートンの法則に従って落ちてきたものに違いない。
メリーは一筋垂れて来た血を拭いながら本達を集め、ベンチの上に丁寧に重ねて置いた。それが済むと首を傾げながらその場を立ち去った。
片付けている間に蓮子がやって来るのではないかと思ったのだが、彼女は現れなかったのだ。当たったのがもう少し大きな物だったら、色々な意味で危なかったかもしれない。
そしてまたある日のこと。
朝から雨が降っていた。ざざ降りで、雨音以外音らしい音のしないひっそりとした日だった。
この日メリーが見かけた蓮子は大きな望遠鏡を抱えていた。
メリーは廊下の角を曲がったところで彼女に遭遇したのだが、声を掛ける直前、教授らしき声が蓮子の名前を呼んだ。蓮子が呼び声に振り返った際に、振り回したそれはまさに凶器。
「……ッ!?」
メリーの目には死神の鎌に見えた。
宙を割く音がして、鈍い感触と共に身体にめり込む鏡筒。
メリーは痛み……と腰が砕けそうになる快感で壁に添って蹲り、その間に蓮子は行ってしまった。
顔を上げると、廊下の端にくの字に曲がった望遠鏡が見えた。
同日、図書館で本棚のドミノ倒しが起きた。メリーは自分の専攻分野の文献を漁っていた最中で、何か音がするなという程度にしか気にしていなかった。
その音は徐々に大きくなりながら遠くの方から響いてきた。
ごっすん ごごっすん ごご・ごっすん ごごご・ごっすん……ごごごごごごご……
音の雪だるまはリズミカルに図書館を揺らしながら巨大化してメリーに迫っていた。凄まじい音に彼女が顔を上げた時、目の前には逞しい本棚が力強く倒れてくるところだった。
彼女は持っていた大きな図版を咄嗟につっかえ棒にした。
……っ゛す゛ん゛!
隙間は体一つ分しかない。
「いたた……」
挟まれたスカートの裾を破って、なんとか脱出すると、辺りは本の山。呆然とするメリーが視線を感じて振り返ると、図書館から出て行く見知った後姿が見えた気がした。
ニ、三日後。
メリーは漸く復旧作業が終わった図書館から本を借りる事が出来た。彼女は論文に必要な貴重な資料を首尾良く手に入れて、ほくほくしながら歩いていた。
ところが、校舎の3階の廊下を歩いていた時。突然足元が抜けた。
彼女は思わず本を庇って身体を丸め、同様に抜けた2階の床を通過して1階に落ちた。
そのまま本を強く抱きしめて痛さに身体を震わせていると、
すとん。
……と、耳元で何かが刺さる音がした。
メリーの顔の横でびーんと音を立てたのは、一本のペーパーナイフ。ぱらぱらと上から埃が落ちてきたのに気がつき彼女が見上げると、三階の穴から黒いスカートの裾が見えた。
ある日など、地中から飛び出した電気ケーブルに感電。世界が虹色に見えた。痺れる感覚は癖に……ならない、とメリーは否定する。
研究室で液体窒素のタンクが爆発。咄嗟に机の下に避難して、顔を上げたらそこは氷に包まれていた。吐く息も真っ白になる極寒の世界。
爆発した辺りを調べてみるとドクロマークの付いた起爆装置が見つかった。
カフェテリアにて火事。まるで火の鳥のように炎が舞い踊る。辛うじて、メリーは炎の先を避けた。
その後手当てをして貰いながら聞いたところ、燃料がバーストするなんて創設以来始めての事だそうだ。火元に一番近かったメリーはコーヒーとケーキのチケットを二枚ずつもらった。
今度恋人とおいでと言われたけれど、
「そんな事より火傷が痛いわ」
つい昨日などは……これは規制の対象だ。
敢えて言うとしたら、「無かった事にしたい」かしら? 他人事のようにメリーは考えた。
思い返すと、随分スリリングな体験をしたものだ。
メリーは一つ一つの出来事を丁寧に思い出して改めて驚いた。体は今や鬱陶しいくらい包帯やギブスに巻かれているし、片目は眼帯に隠れていた。
満身創痍も良いところ。こんな厄でも憑いたような命懸けの日々に、相棒、蓮子の姿は何故だか無かった……気がする。
しかし。
彼女が居なくとも、この数日間における出来事からは十分な収穫があった。災難をぎりぎり避ける時の快感。
それはスポーツのように爽やかで、疚しいものでは決して無かった。
『もう、矢でも槍でもUFOでも……』
今日は昨日より酷い事が起きるに違いない。それでも随分鍛えられたからメリーには避ける自信があった。万が一避けられなくてもそれはそれでもう良い。潔さは大切だ。
『降ってくればいいじゃない』
メリーは空に向かってふん、とふんぞり返った。松葉杖をゆっくり振り上げてえいえいおー、とばかりに気合を入れてみる。すると、……拍子抜けするものが見えた。
太陽の横に結界。
その中に見える空間を、ロケットみたいなものが飛んでいた。予想外の光景を、彼女は思わずまじまじと見てしまった。
だから、この時後ろから迫り来る影にどうやって気がつくことが出来ただろう。
「やっと見つけた」
ぽんと肩を叩かれて、メリーは銅像よろしくそのままの姿勢で固まったのだった。
※※※
「はぁ、そんな事気にしてたの?人間の愚かさの度合いはひょっとすると宇宙以上だって言うけれど、それは我が友人にも当てはまる事なのね」
蓮子は、帽子を脱ぎながら呆れた声でそう言った。
「……宇宙よりも重大な悩みなのよ?」
おずおずと言うメリー。彼女はしゅんと縮まった。そんな事で一々悩んでいては倶楽部の活動が出来ないじゃない、と蓮子は尚も拗ねた顔。
「ただでさえ“不良扱い”のサークルなのにさ」
席についた今も、そんな風に口を尖らせて文句を言っている。
何時もの店でお茶をする。
数日ぶりの再会を祝してか、テーブルの上はかなり豪華だった。小さなケーキとフィンガー・サンドが数種類。あったかいスコーンと横に添えられた真っ赤なジャム。大きな丸いポットにたっぷりのミルクティー。
メリーは喜んで手を伸ばしたのだが、菓子の皿に彼女の指先が届く寸前、蓮子はそれらを容赦なく端に寄せて写真付きのノートを広げた。
仕方無しにメリーは紅茶のカップに手を伸ばした。なんだか申し訳ない気分になってくる。
友人は、自分に早く写真を見せたかったに違いない。元々細々と活動しているサークルだし、次の予定を組みたいところだが……。
メリーにはサークル活動を始める前にどうしても確認せずにはいられない事があった。その疑念を払拭しなければ、何時も通りに振舞えない。
彼女は落ち着く為に熱い紅茶を一口飲んだ。
そしてゆっくりと、友人に尋ねる。
「蓮子……あなたこの数日間、私の姿見かけた?」
蓮子はノートに書き込む手を止めて、黒い瞳を真っ直ぐにメリーに向けた。
「いいえ。見なかったわ」
ぴんと張った空気。けれど次の瞬間。彼女は持っていたペンをくるくると指先で回してから、相好を崩した。
悪戯っぽく笑うとペン先でメリーの鼻の頭をつつく。
「なに?私に会えなかった事がそんなに残念?」
メリーはペンを払うと、なんだか気の抜けた思いで彼女を見た。それでは、あれらの出来事はただの事故だったのだ。
踵落しの一件もあったし、蓮子が故意に起こしたのではないかと期待……いや少しばかり疑っていた事が馬鹿みたいに思えてくる。
「で、メリーさんは自分がマゾヒストになったんじゃないかって?」
「もう、言わないでよ……」
「うんうん、良い傾向だわ。やっと気付いたかって感じよね。研究者たる者時にマゾヒスト、時にサディストであるべきよ」
蓮子に笑い飛ばされたのは悔しくもあったが、気持ちは随分楽になった。
そうだ、確かに研究者でなくても、人は双方の気持ちを少なからず併せ持っているものだろう。
Mだけでなく、Sの要素だってあるはずだ。
……とすると
※S(SADISM)∩M(MASOCHISM)=N(NORMAL)
S∪M=全体集合つまり私。
SとMを兼ねる集合は双方がせめぎ合ってノーマルに。そういう意味ではノーマルは新しい集合かもしれないけれど。どの道、∩の外側に飛び出すショックさえ無ければいい。
この数日で、メリーはある事を悟っていた。Mだけで自分が構成されているとすると、どうにもおかしな点があるのだ。
快感はある要因に限定されて起きていた。
要因即ち、キーとなるのは蓮子の存在。
蓮子に何もされなければ、若しくはされたと考えなければ、メリーは平常でいられた。ここ数日の出来事に彼女が関与していないと考えると、ちっともドキドキしない。
確かに快感を感じたのは望遠鏡の一件くらいだった。平常で居られる事もあるということは、少なくともMのみで出来ているわけではない―――。
「そう言えばさ、」
蓮子が、再びペンを止めた。
「ほら、うちの大学で最近噂になってる鏡があるじゃん?……えーっと何処だっけ」
そしてぱらぱらと頁を捲って写真を探す。
伏した目元に睫の影が落ちた。
「あ、あったあった……ほら、これメリーにそっくり。このメリーのそっくりさん、夜になると学校を彷徨って色々悪戯を仕掛けるらしいよ」
メリーは差し出されたノートに貼ってある写真に目を丸くした。そこには誰も居ない廊下と鏡が写っていた。
鏡の中には確かに彼女そっくりの人物がいる。
「……これ、何時の写真?」
「えっと、記録によると……三日前ね」
三日前ではメリーは鏡の前に行っていない。ひょっとすると、“鏡の国のメリーさん”が本当の事になってしまったのかもしれない。
『随分怖くなさそうなお化け』
メリーは自分の台詞を思い出した。もしかして、今までの事故は“メリーさん”の怒りに触れたから起こったのかも……?
鏡なんて昔から強力な境界の一つに数えられていたではないか。三面鏡しかり、他国の大統領の死に際しかり。特に平行世界に通じやすいそれ。
見えない境に集中しすぎてそんな簡単な事を忘れ、もう一人の自分を想像、創造してしまうなんて。
ああ、言葉というのはその音で全て繋がっているのに、なんという為体!!
「メリー、メリーったら」
ちゃぽ、
明日学校に行ったら、鏡の前で謝ろう。
一人反省するメリーの嗅覚を、甘いミルクの香りが刺激した。
ちゃぽ ちゃぽ ちゃぽぽぽぽぽ
続いて、液体の垂れた通りの道筋で熱さが伝う。
「あ、熱ッ!何するの!?」
「……私の話聴いてた?」
メリーの目の前にはにこやかな蓮子の顔。彼女は頬杖をついて、まるで植物に水を遣る様にメリーの頭に紅茶をかけていた。ものすごい熱さと紅茶の香り、と同時にどうしようもない快感。
思わずメリーは涙目になる。
これではパブロフの犬と同じではないか。ベルが鳴ったらよだれが垂れる。蓮子が攻撃すれば身体がうずく。そうでなくても傷だらけなのに、これは酷い仕打ち。
傷だらけ……。そういえば、久々に会ったにしては蓮子はメリーの傷について何にも言及してこない。
まるで既に知っていたように。
「うん、いい顔。そんな顔されたら、また何かしたくなっちゃう」
また、ですって?
メリーは淡い色の目を大きく見開いた。
「知ってる?メリー。人間は学習する事が出来る。そして人間を教育することも出来る」
蓮子がキー、そして教育……つまり……。
あら?私が彼女に対して抱いた罪悪感ってどうなるのかしら?
メリーの中で何かが切れた。
彼女の手は、壁に立てかけておいた松葉杖に自然と伸びていた。表情を変えぬまま、彼女は考える。
ううん、怒ってなんかないわ。ただ、悪いうさぎにお仕置きしようと思ってるだけ。
「……嘘つき」
「なんの事やらって、メリーちょっと待って、それは死んじゃう!!!」
立ち上がって振り上げると、蓮子の強張った表情が目に入った。
何が姿を見なかった、よ。このッ
「ドS!!」
インパクトの瞬間。ぞくぞくする程の快感が起こった。メリーの中のメーターがSの方へと振り切れたのだけれど。
それはまた別の話。
※※※
校舎の一角。余り人の寄らない場所に、その鏡はあった。昨今、大学内部で起こった派手な事故は大方その鏡のお化けの所為とされていた。何故ならお化けの着ている薄紫の服が必ず目撃されたから。
鏡の前に二人の女子学生。
黒い帽子を脱いで謝る蓮子と、折れた箇所を補強した松葉杖をつくメリーの姿。
冤罪です。
……と逆さに書かれた鏡の中には、半べそをかいて隅っこに座る“鏡の国のメリーさん”の姿があった。
終わり!
御馳走様
リバーシブルで良いじゃない
オチが最高だった!
鏡の国のメリーさん可哀想www
美味しかったですおかわり
だからいつも二人一緒なんだ。
>>16 やだ、かっこいい。