【つかまえて】
「霊夢はねぇ、追いかけちゃダメなのよね」
蝉の声がひどくうるさい。
私の呟きは庭で洗濯物を干している彼女に届いただろうか。
日陰に居る私は夏の強い陽射しが照りつける庭に目を向けることは出来ない。
濃い陰影はそれだけで断絶を感じさせる。結界のように――私と彼女を遮っている。
まあ――いいか。
届かなくても、遮られても構わない。
これはただのひとりごと。
みっともない愚痴のようなものだから。
ぱちりと、扇子を閉じる。
「あなたは風船みたいな子だから、追えば追う程ふわふわ飛んで遠ざかる。
手を伸ばせばするりとすり抜け捕まらない」
伸ばした手の先に少女の影を幻視する。
届かない。
私の手は彼女に届かない。
彼女は振り返らずにそのまま――
「追いかけさせなきゃダメ」
ぱたりと、扇子を開く。
濃くなった影に顔を上げれば、霊夢が私の横に立っていた。
「ひとが汗だくで働いてる横でぶつぶつと。殴るわよ」
「あら怖い」
スキマを開いて冷えた緑茶を出してあげる。
座った彼女に差し出すが、彼女が浮かべるのは困惑気味の表情。
「む……」
「お嫌いかしら?」
「慣れないだけ。美味しいわよ」
こっちじゃ水出しの緑茶は珍しいからね。
かっぱらうようにコップを受け取り彼女は飲み始めた。
向かいに座る彼女を扇いであげながら見詰める。
紅白の服を着たいつも通りの霊夢。
お葬式には程遠い。紅白。
モノクロームではない――黒髪の少女。
ふと、彼女の汗が首を伝い落ちていくのが見えた。
細くて白い、首。
襟が閉められタイが巻かれた――首。
「タイ、緩めたら?」
彼女は汗を拭いながら応える。
「ん、別に我慢できる範疇だし」
同じセリフ。
きっとただの偶然。
よくある会話だ。単なるデジャヴュ。
霊夢は、彼女ではないのだから。
違う。違うんだ。霊夢は……彼女じゃない。
「――りー」
え。
「ゆかりー、おかわりくれない? 一杯じゃ足りないわ」
「あ、あ……うん。緑茶でいいかしら」
「うん。慣れてきた」
――文字数すら合ってない。
なにかしらね、暑気あたり?
こんな酷い勘違い……自分で信じられないわ。
あの名前は――もう、私の名じゃないのに。
誰もあの名前を知らない。
誰もあの名前で呼んでくれない。
あの名はもう、私のものじゃない。
「ふぅ」
千年は前に、折り合いをつけたつもりだったのに。
沈思に耽ろうとしても、頬を伝う汗の感覚に惑わされる。
日陰に居るのにじりじりと焼かれていく錯覚。
ああ、考えが纏まらない。
暑くて暑くてたまらない。
蝉の声が、酷く煩わしい。
昔も、こんなものだったろうか。
遠い昔、私の起源。
八雲紫の始まる前。
ただ夏の風物詩と聞き流していた頃。
遺伝子操作で再生された合成蝉たちの鳴き声は――
「紫?」
霊夢の声。
どこか不機嫌そうに聞こえたのは――暑さのせいだろうか。
「なに? 妖怪のくせに夏バテ?」
ああ、暑いの嫌いだったわよね。
――昔から。
「ちょっと、考え事」
「似合わないわね」
苦笑する。
「あら失礼ね。これでも学者の端くれですのに」
「なんのよ」
「数学者」
「ごめん私文系だから興味ない」
「あらひどい」
本当に酷いわね、■子。
「あなたが理数系だったから追いかけたのに」
「?」
理解されない。
そういえば、あなたがいなくなってからだったかしら。
あなたが居た頃は――あなたの後なんて追わなかった。
「なに言ってんの? 私昔から算術嫌いよ?」
「今はね」
「だから昔から」
「追いかけちゃったから、なのかしらね」
いつも帽子を被っていた。
いつも白黒の地味な格好で、初めて会った時はお葬式みたいだと思った。
いつも私の手を引っ張ってくれて、あなたのおかげでとても楽しかった。
いつも率先するのは■子で、私はついていくだけで精一杯。
そうだった、筈なのに。
「私が追いかけたから、変わっちゃったのかしら――ね」
「……紫?」
――ああ、蝉が、うるさい。
あたまの中が――ぐちゃぐちゃだ。
「昔から――れいむはそうだった」
伸ばした手の先に黒髪の少女を幻視する。
「追いかけられなくて」
届かない。
「引っ張られるしかなくって」
私の手は彼女に届かない。
「あなたは、そのまま」
彼女は、振り返ら――――
熱い。
脳を蕩かす暑さよりも熱い手が私の手に触れている。
黒髪の少女が、私の手を取っていた。
「紫」
睨むように黒い瞳が細められている。
「やめて」
熱さが、より強く私の手に染み入る。
「私に誰かを重ねないで」
日蔭の中でも尚鮮やかな紅白が目に焼き付く。
伸ばした私の手を捕まえて……彼女は放さない。
「――――私を見て」
風が強く吹く。
一瞬、蝉の鳴き声が止んだ。
風が通り抜ける刹那の静寂。
少女と私の視線が交わる。
その瞬間、私は暑さを忘れていた。
「……紫」
風に揺らされた髪が視界を奪う。
ばたばたとはためく洗濯物。
揺れる木々のざわめき。
また響き渡る蝉の声。
幻想郷の音に、包まれる。
いつの間にか、少女は俯いていた。
それでも、彼女は私の手を放さない。
私は――少女の熱さに、少女の声に、包まれていた。
「――――紫」
ああ、そうだ。
ここは私の幻想郷。
ここは私の神社。
彼女は、
「――霊夢」
空いた手で取り落としていた扇子を拾う。
中途半端に開いていたそれをぱちりと閉じる。
「そうね」
扇子を置いて、再び空いた手で私を掴む少女の手を包む。
ああ、熱い。
胡乱な追憶など出来ぬ程に、熱い。
熱くて熱くて、否が応にもこの少女から目を離せない。
「私は八雲紫で――あなたは博麗霊夢だものね」
暫しの間、私たちはそうしていた。
互いの熱を確認し合うように。
まばたきすれば融けてしまいそうな世界を繋ぎ止めるように。
「ふふ」
手を離し、扇子をぱんと開いて口元を隠す。
「素直な霊夢もいいわねぇ」
「っ!」
あら残念。
弾けるように彼女の手も離された。
「な、ちょ、違うわよ! あんたがぶつくさうざったいから!」
「はいはい。霊夢は可愛いわ。食べちゃいたいくらい」
「気っ色悪いっての!」
日蔭の中でもわかるくらいに赤面した少女にくすくすと笑い掛ける。
「あら、直喩じゃなくて暗喩よ?」
「なお悪いわ!」
「霊夢は食べさせてくれないの?」
身を乗り出せば子犬さながらに震え出す。
本当に可愛いったらないわね。
我慢できなくなっちゃいそうだけど――我慢しなきゃ、ね。
だって私は妖怪、八雲紫なんですもの。
人間みたいに追いかけるわけにはいかないわ。
扇子をぱちりと閉じる。
なにも隠さず霊夢を見つめる。
「私を振り向かせてごらんなさいな。私に面影を忘れさせてみなさいな」
なにも隠さず霊夢に微笑みかける。
「あなたの良く知る『紫』は追われるのが大好きなの」
ここは懐かしいあの街ではなく幻想郷。
作り物じゃない太古からの自然が生き続ける箱庭。
そして私は人間じゃなくて妖怪。
私は八雲紫。
彼女が愛してくれる――とても幸せな妖怪よ。
「これからは私を追いかけてもらうわよ、霊夢」
すとん。
霊夢が私を逃がさないと確信して、スキマを開いた。
【幕】
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
【にがさない】
紫は、たまに私を見ない。
ちりん。
風鈴が鳴る。
今日は碌に風が吹かないな――暑くて堪らない。
風が無いなんてどうやって涼めって云うんだか。
チルノでも捕まえてこようかしら。幽霊捕まえてくるのでもいいかな。
この暑さは怪談程度じゃ紛らわせないしな――
くすくすと、笑われている気配。
「なによ」
「不機嫌」
むらさき色の目が私に向けられる。
「って顔に書いてあるわよ」
思わず触れて確認してしまった。
そんなことしてもわからないのに。
大体、見てわかる程表情に出ていたのだろうか。
私は今、紫のことじゃなくて暑さのことを考えていたのに。
暑くて嫌になるけれど……不機嫌になる程じゃない。
その筈だけれど。
「また適当なこと……」
「霊夢のことでわからないことなんて無いの」
うそつき。
私が嫌がってることに気づいてないくせに。
気づいててやめてない――はぐらかしてるだけって可能性も、あるけど。
こいつは、うそつきだから。
ちりん。
風鈴が鳴っても風は肌に届かない。
涼しさを感じさせる筈の音も、茹だる暑さに負けっぱなし。
やっぱり、いらいらする、かも。
「あらあら。昨日おせんべい拝借したのまだ怒ってる?」
「怒ってる」
それもね。
そもそもそんなことした翌日に遊びに来るんじゃないわよ。
さらっと「昨日はごめんなさいね」と言っただけで済ましおって。
「お詫びに西瓜持ってきたじゃない」
苦笑される。
ああ、そんなことも言ってたっけ。
現物を見たわけじゃないからどうにも実感が湧かない。
「さて、そろそろ西瓜も冷えたかしらね」
言いつつ紫は立ち上がる。
裏山の小川で冷やしてるらしい西瓜を取りに行くのか。
「スキマで持ってくればいいのに」
「なんでも術で済ましてると怠け癖がついちゃうわよ」
説教臭いヤツ。
他の奴にはいやに優しいくせに。
いつもいつも胡散臭く笑いながらお説教して。
それは、嫌じゃないけど。
私だけ違うから。
私だけ、特別だから。
それは――嫌じゃ、ない。
「待ってる間、それでも飲んでなさい」
ことりと、いつの間にかちゃぶ台の上にコップが置かれていた。
透明な硝子のコップ。中に満たされている液体は半透明の緑色。
からん。
融けたのか、コップの中で氷が音を立てた。
「なにこれ、お茶?」
「そ。グリーンティー」
ぐりーん……緑茶?
氷が入ってて、冷たそうなんだけど?
「アイスで飲む緑茶も乙なものよ? じゃ、行ってくるわね」
返事も聞かず紫は歩み去る。
残された私は、なんとなくちゃぶ台の上のコップを眺めていた。
緑色に紫を見る。
あいつは、歩いていった。
普段は超然とした雰囲気を纏っていて、あんな人間らしいところを見せない。
大体宙に浮いてるし、いつでも誰でも見下してるような奴なのに。
私の前では人間みたいなことばかり、している。
紫にとって、私は特別だから?
違う――気がする。
もしそうだったら私はこんなにいらいらしない。
紫は、私の前じゃなく……「誰かの前」だから、あんな風にしている気がする。
紫の見ている奴は、私に影を重ねて見ている奴は誰?
紫が人間らしく振舞わなきゃいけない相手は誰?
紫にそこまでさせる奴って、誰?
かろん。
氷がお茶に沈んでいく。
コップから垂れた汗がちゃぶ台に小さな水たまりを作っていた。
温く、なってしまう。コップを手に取る。
喉は――からからだ。飲まなきゃ。
ごくり。
「……変な味」
なんともいえない、嫌な味。
二口目にはもう別の味。とても爽やかで、美味しかった。
それが乾いた口の中のせいだったのか、私の気持ちのせいだったのか。
わからない。
紫が帰ってきたのは、お茶を飲み干して暫く経ってからだった。
にこにこ笑いながら木陰で西瓜を掲げる。
「よく冷えてるわよ」
言いながら縁側に上ってくる姿を、なんとなしに見詰めた。
「返事もしないでどうしたの?」
ぼうとしていたせいだろうか、近づかれたのに気づかなかった。
「あ、うん……」
なんと応えればいいのだろう。
頭は空転を続けるばかりで代替案さえ出てこない。
暑気あたり? と訊いてくる紫に生返事しか返せない。
「西瓜でも食べて少し休みなさいな。ほら、冷えてるから」
「ん……」
差し出された西瓜に手を伸ばす。
それを抱える紫の手に、指先が触れる。
「手、冷たい」
「あらそう?」
「っひゃ!?」
つめた、濡れてる!
ちょ、やめて首筋に触んないで!
「暑い時は首や腋、ふとももの内側を冷やすといいのよ」
「だからって襟首に濡れた手突っ込まないでよ!」
「どうせ汗で濡れてるんだから変わらないわよ。お台所借りるわね」
胡散臭く微笑んで紫は台所に消えた。
ったく、本当に行動の読めない奴……
触れられた首に指を添える。まだ、紫の冷たい手の余韻が残っていた。
数分後、切り分けられた西瓜を齧る。
余った分はスキマに入れて持ち帰るそうだ。
二人で一玉は多過ぎるものね。今日は紫以外誰も訪ねてこないし。
蝉の声を聞きながらもう一口。冷えた西瓜は美味しかった。
早く涼しくならないかな。こう毎日暑いと秋が恋しくなってしまう。
今年は雨も少ないし…………
ふと、感じる視線の変化に気づいた。
見れば紫は、微笑みながら私を見ている。
でも違う。
笑い方が、私の知る紫じゃない。
あ――――また、だ。
また、紫は……私を通して誰かを見てる。
私じゃない誰かを、見ている。
私を――――見ていない。
思わず顔を伏せていた。
私を見ていない時の紫の目は嫌い。
なにを見ているのかわからなくて。
なにも映していないようで。
硝子玉みたい。
――やめてと、一言言えばきっと紫はやめてくれる。
私が本気で拒めば、二度としないって信じられる。
だからやめてって、言えばいい。
言えば、いいのに――
「……紫」
「うん?」
でも、言ってしまったら、紫は帰ってしまいそうで。
ごめんなさいと告げて消えてしまいそうで。
言葉にする勇気が持てなかった。
「晩御飯、食べてく?」
「…………」
だから、繋ぎ止めたかった。
帰られるのが嫌で、消えられるのが怖くて。
嘘でもお芝居でもいいから私の傍に居て欲しくて。
手を掴めないから袖を掴むような真似を、している。
見透かされる、かな。
こんな、衝動染みた真似こいつにとってはお芝居ですらないだろう。
裏の裏まで見抜かれて、からかわれるかもしれない。
もしかしたら、気づかないでそのままの意味として受け取るかもしれない。
紫は、なんにつけ曖昧で――胡散臭いから、読み切れない。
不安が反発を越えてしまって、顔を上げてしまう。
あの目で見られるのが嫌だったのに、紫の顔を見ていないと、不安で。
見上げた先、紫は……微笑んでいた。
私のよく知る紫の笑顔。
思わず目を伏せた知らない笑い方じゃ、なかった。
「――そうね。たまにはいただこうかしら、霊夢の手料理」
気づいているのかいないのか、さっぱりわからない。
手の平の上で玩ばれている気分になってくる。
ふんと、鼻を鳴らしていた。
「不味く作ってやる」
「それは無理ね。霊夢はお料理上手だもの」
悪態も通じない。紫は笑ったまま。
私のことなんて、全部知ってると言わんばかり。
いつしか蝉の声は薄れ、ひぐらしの声が響いていた。
もう夕暮れ。食事の支度をするには頃合いだ。
立ち上がる。
余裕の笑みを浮かべた紫を一瞥して台所に向かう。
精々余裕ぶってなさい。そのうちそのすまし顔を崩してやる。
いつか振り向かせてやる。
あのなにも見てない硝子玉に、私しか映らないようにしてやるんだから。
とりあえずは――――今日、あいつを帰さないよう腕を揮ってやろう。
包丁を手に取り、料理を始める。
【幕】
でも、確かに自分に誰かを重ねられて見られたらイヤかなぁ…
それでも思い切ったのが前半に繋がるのかな。
さて、追う霊夢は、紫を捕まえることが出来るか…?
俺<もういない人と比べられると勝てる気がしないよねー蓮刈ちゅっちゅ
霊夢<その幻想をブチ壊す
本当に生まれ変わりだったとしても、これは空しい。でもいい。でも切ないうおぉお……
物陰で呼ばれたような気がする萃香もきっと思ってますよ。
(そんな雑念が浮かんだ私はスキマ送りでしょうが)
くぅっと来ちゃって仕方がなかったです。