「あんめあんめふれふれ もっとふれ~」
降りしきる雨の中、茄子色の大きな傘を差した少女が楽しそうに道端をスキップしていた。
「ぴっちぴっちちゃぷちゃぷ らんらんら~ん」
少女は満面の笑みを浮かべて、歌詞通りに水溜りをちゃぷちゃぷしながら飛び跳ねている。
彼女の名は多々良小傘。
こう見えても、れっきとした妖怪である。
「およ?」
そんな小傘の目に留まったのは、お地蔵様が安置されている屋根付きの囲い。
その中で、一人の少女がなんとも陰鬱そうな表情で空を見上げているのが見えた。
「早苗?」
小傘はその少女に見覚えがあった。
山の神社に住み、風祝とかいう職に就いている少女だ。
名を、東風谷早苗という。
「おーい」
小傘はばしゃばしゃと水しぶきを上げながら、早苗の方へと駆け寄った。
早苗はすぐに小傘に気付き、はあと軽く溜息をついた。
「……小傘さん。あなた、随分普通に出現するようになりましたね」
「う、うぐっ。い、いいの。今は別にお腹すいてないから。それよりどったの? こんなとこで」
「……見て分からないですか? 雨宿りをしてるんですよ」
「雨宿り?」
「ええ」
しかし、小傘はすぐに首を傾げた。
早苗の手には、どう見ても傘としか思えない物体が握られていたからだ。
小傘は当然の疑問を口にする。
「なんで傘、差さないの?」
「…………」
早苗は小傘の問いには答えず、ぶすっとした表情でその傘を小傘に手渡してきた。
一体なんだろうと、それを受け取る小傘。
「開いてみてください」
「?」
自分の傘の柄を肩と首で挟みつつ、言われるがままに受け取った傘を開こうとする小傘。
ところが、なかなか上手く開かない。
「? な、なんでこれ、こんなに固……あ、骨が」
そこでようやく小傘は気付いた。
その傘は骨が一本、完全に折れており、開こうにも開かなくなっていた。
仮に無理やり開いたところで、傘本来の形状には到底ならないであろう。
「……さっき、突風が吹きまして。見事にやられてしまいました」
早苗は肩を竦めて言う。
「それで雨宿りしてたんだ」
「そういうことです」
早苗は再び溜息をつき、がっくりとうな垂れる。
この様子だと、もう相当な時間、ここでこうしているのかもしれない。
「!」
と、そこで小傘の顔がにぱっと輝いた。
「ふっふっふ」
「? 何ですか気持ち悪い」
「き、気持ち悪いとか言うな! せっかくいいこと思いついたのに!」
「いいこと?」
「うむっ!」
力強く頷き、誇らしげに胸を張る小傘。
(……まるで板のようだわ)
早苗は喉元まで出掛かったその言葉を飲み込むと、小傘に向かって問い掛けた。
「……何ですか? いいことって」
「ふふっ。聞いて驚くな。あ、いや、やっぱ驚け」
「何でもいいから早く言ってください」
「せ、急かすでない。……おほん」
演技ばった咳払いをしてから、小傘は大きな声で言った。
「このわちきの傘に、早苗を入れてあげてしんぜよう!」
小傘はそう言うや、自身の本体ともいえる大きな茄子色の傘を早苗に差し向けた。
傘は開いたままの状態だが、ほとんど囲いの中に突っ込むような形で差し出しているため、小傘自身はほぼ全身が雨に晒されている。
ぽかんと、呆けたように口を開ける早苗。
「……え?」
「う。な、なんだその微妙な反応は!」
「あ、いや……小傘さんからそんな親切な申し出を受けるなんて、予想だにしていなかったものですから……明日は晴れのちグングニルですね」
「何その物騒な天候!? っていうか何気に失礼だし!」
「ごめんなさい、私嘘つけない子でして」
「むぅ……で、ど、どうするのさ!?」
「え?」
「だ、だから、その、わ、わた……わちきの、傘に」
「……別に、こんなときまで無理してキャラ作らなくてもいいですよ」
くすくすと笑う早苗。
かああっと、小傘の顔が赤くなる。
「う、うるさいっ! べ、別にキャラ作ってなんか―――」
「じゃあ、お願いします」
小傘の反論を遮るような形で、早苗がぺこりと頭を下げた。
「へっ」
一瞬、何が起きたのか分からず、目をぱちくりとさせる小傘。
「……入れてくれるんでしょ?」
にっこり笑顔でそう言って、小傘の傘を指差す早苗。
小傘はしばし目を瞬かせた後、はじけるような笑顔を浮かべた。
「―――うんっ!」
―――こうして二人は、一つの傘の中で、身を寄せ合うようにして歩き始めた。
幸いにも、小傘の傘は大きめだったので、二人が濡れないだけのスペースは十分にあった。
……ただ、早苗には、それとは別に、少しだけ気になるところがあったようで。
「あの、小傘さん」
「ん?」
「やっぱり、私が持ちます」
「え、いいよ。ここはわた、わちきが」
「いえ、その……身長差的に」
「あっ……」
早苗の頭頂部が、若干傘の内側にグレイズしていた。
「じゃ、じゃあこれならっ!」
ぐおおっと、思いっきり腕を伸ばす小傘。
見ているだけで辛そうだ。
「もう、いいからよこしてください」
呆れたように言うと、早苗は傘の取っ手を小傘から奪い取った。
「あう」
「ほら、この方が傍目にも自然でしょう」
「むぅ……」
「悔しかったら、もう少し背を伸ばしましょうね」
ぽんぽんと、空いた方の手で小傘の頭を撫でる早苗。
小傘は不満げに口を尖らせる。
「むぅ……わちきは妖怪だから、人間と違って、そんなすぐには大きくならないのだ」
「そうですか……それは、なんとも」
かわいそうですね、と早苗はちらりと小傘の身体のとある部位を見て言いかけたが、空気を読んで喉の奥に飲み込んだ。
―――そうこうしているうちに、二人は守矢神社へと辿り着いた。
「今日はどうもありがとうございました。小傘さん」
「うむ、よいよい」
頭を下げる早苗に対し、至極ご満悦といった表情で頷く小傘。
なんだかんだいって傘なので、雨避けとして役に立てたことが嬉しいらしい。
「お礼も兼ねて、是非お茶でも飲んでいってください」
「いや、それは結構」
早苗の申し出に対し、小傘は掌をびしっと突き出した。
「でも」
「いいからいいから。ここ一応神社だし、わちきみたいな妖怪が蔓延るのはあんまり良くないと思うのだ」
「一応って……いやでも、何かお礼を」
「いいって。傘として当然の事をしたまでなのだ」
「小傘さん……」
小傘の言葉に、早苗も自然と表情を緩めた。
小傘はにぃっと笑うと、その場でふわりと浮かび上がった。
「そんじゃあまたね、早苗」
「はい。また……あっ」
「?」
そこで、何かを思いついたような表情を浮かべた早苗。
何だろうと小傘は首を傾げる。
早苗は、溢れんばかりの笑顔で言った。
「……また、今日みたいなことがあったら、そのときはよろしくお願いします!」
「!」
その言葉に、思わず小傘の涙腺が緩む。
「……お、おうっ。まかせとけなのだ!」
小傘はそれだけ言うと、くるりと背を向け、そのまま一気に飛び去った。
その心を充たすのは、言いようもないほどの満足感。
(……必要と、された……)
主に捨てられ、誰からも必要とされなくなった日々。
今なお、小傘の心の奥底に眠る、遠い日の記憶。
(……私を、必要としてくれてる……)
いつの間にか、小傘の瞳からは、堪えていた涙がぼろぼろと零れ始めていた。
(……この、私を。こんな、私を……)
―――小傘は思った。
これから雨の降る日は、たとえどんなに小雨の日でも、早苗の傘になってやろうと。
早苗のために、雨粒を一つ残らず、弾き返してやろうと。
「……ふ、ふふっ。ふふふふふっ」
込み上げてくる笑いを堪えることができず、小傘は泣きながら笑いながら、降り注ぐ雨の中を縦横無尽に飛び回った。
―――一方、神社の玄関前で、早苗は飛び去っていった小傘の後ろ姿を見送っていた。
「……さて。そろそろ中に入りますか」
小傘の姿が見えなくなったのを確認した早苗が、引き戸に手を掛けたそのとき。
「早苗。誰か来てたの?」
振り返ると、傘を差した諏訪子が立っていた。
反対の手に提げた買い物袋をみるに、どうやら人里からの帰りのようだ。
「ええ、ちょっと」
「ふぅん。もしかして男? だったらケロちゃんは直ちに祟りの儀式を始めないといけないんだけど」
「なんでいきなり祟るんですか! っていうか違いますから!」
「なんだ違うのか。ケロちゃんったら早とちり☆」
諏訪子は「ケロッ☆」とか言いながら自分の頭を軽く小突いていたが、早苗は華麗にスルーして引き戸を開けた。
涙目で後を追う諏訪子。
「ちょ、ちょっと早苗。なんかツッコんでよぅ……って、あれ? 早苗、その傘、壊れたの?」
「え? ああ……はい。今日、突風の餌食になりました」
「どれどれ。あー……これは確かに……。河童に頼めばなんとかしてくれるかもしれないけど、それよか新しいの買った方が安そう」
「ですよねぇ。まあかなり長いこと使ってましたし、替え時ってことなんでしょう」
「そうだねー……あ!」
壊れた早苗の傘を見ながら、諏訪子は何かを思い出したような顔になった。
何事かと首を傾げる早苗。
「どうしたんですか?」
「ちょっと待ってて」
とててて、と廊下を駆けてゆく諏訪子。
そのまま自分の部屋に入るや、一分もしないうちに、再び姿を現した。
「じゃーんっ!」
そう言って諏訪子が早苗に向けて差し出してきたのは、やや小さいサイズの白い傘だった。
「? 諏訪子様、これは……?」
「私が前に使ってたやつ。まだ全然使えると思うから、今度からこれ使いなよ」
「お古ですか……」
「あー! 何その不満そうな顔! これだから現代っ子は! 科学技術に溺れた物欲の権化が!」
「う、うそうそうそです、冗談ですよ! ありがたく使わせていただきます」
早苗は慌てたように弁解しながら、諏訪子からその傘を受け取った。
なるほど確かに、少し色褪せてはいるものの、特に故障などもなく、十分現役で使えそうな代物だった。
「これで、新しく買う手間が省けました」
「うむ。やはり使える物はきちっと使ってやらんとね」
笑顔で語り合う二人。
早苗はそのとき、自分の行動に何の疑問も感じてはいなかった。
―――それから数日間が経過した、ある日の早朝。
「雨降らないかなあ……」
小傘はぼんやりと空を見上げていた。
早苗を自分の傘に入れたあの日以降、ずっと晴れの日が続いている。
「早く雨降ればいいのに。そうしたら、また早苗の役に立てるのに」
傘として、道具として必要とされることの喜びを、またもう一度味わいたい。
小傘はその一心で、あの日からずっと、雨の降る日を心待ちにしていた。
「てるてる坊主でも逆さに吊るそうかな……」
そんなことを考え始めた矢先。
「ん?」
ぽつり、と小傘の頭に一滴の雫が落ちた。
「あ……」
それはぽつ、ぽつと次第に数が増えてゆき、一分もしないうちに、辺りには雨が間断なく降り注ぐこととなった。
「やった!」
歓喜に震える小傘。
その瞳がきらきらと輝く。
「ふふっ。こんなに降ってたら、早苗、出掛けるとき困るだろうなあ。早く行ってやんないと!」
くふふふと楽しそうに笑い、小傘は神社に向かって飛んでいった。
大きな茄子色の傘を、しっかりと広げて。
―――間もなく、小傘は神社の上空に到着した。
「ふふっ。早苗、早く出てこないかなぁ」
小傘はわくわくしながら、神社の玄関口を見つめていた。
何せこの雨である。
どこへ出掛けようにも、傘がなければどうしようもないであろう。
降りしきる雨を目の当たりにし、途方に暮れる早苗の姿が目に浮かぶ。
(……そこで私が颯爽と現れ、早苗を傘に入れてあげるんだ! ふふっ、楽しみ!)
そうほくそ笑んだ矢先、小傘ははっとした表情を浮かべた。
「……あ、そうか。そもそも今日、早苗が出掛けるとは限らないのか」
盲点だった。
もし早苗に外出する用事が無ければ、自分が傘として役に立つことはできない。
「……で、でも、きっと一回くらいは外に出る用事あるよね。かぜはふりって、結構忙しいみたいだし」
自分に言い聞かせるように、うん、うんと頷く小傘。
空は一面、灰色の雲で覆われている。
この分だと、今日は一日雨模様だろう。
たとえ一度でも外に出る用事があるのなら、早苗は傘を必要とするはずだ。
「早苗……」
祈るような気持ちで両手を組み、小傘は玄関口に視線を送り続けた。
……それから、およそ二時間後。
がらり、と、ふいに玄関の引き戸が開いた。
「!」
思わず、刮目する小傘。
中から人影が現れる。
「―――早苗!」
それは間違いなく、自分が待ち焦がれていた人物―――東風谷早苗だった。
小傘は待機していた上空から、一気に早苗目掛けて急降下する。
(早苗、今行くよ! 私が雨から守ってあげ……ん?)
―――その瞬間。
小傘の目に、入ったのは。
「えっ……」
―――何食わぬ顔で、手に持った白い傘を開く、早苗の姿だった。
「なん、で……」
くらり、と。
世界が横転したかのような錯覚に陥る。
降下速度は一瞬で減退し、ふらふらと風に煽られながら、小傘はゆっくりと着地した。
―――白い傘を差した早苗の、目の前に。
「あら、小傘さん」
早苗の暢気な声が聞こえる。
「…………」
小傘は何も言わず、ただただじっと、早苗が手に持つ、その物体を睨み付ける。
「? どうしたんですか?」
いつもと様子の違う小傘に、首を傾げる早苗。
小傘はその問いには答えず、すぅっと指を差した。
「……何、それ」
「え?」
その指先が示しているのは、早苗が先日、諏訪子から貰い受けた傘に他ならない。
早苗は、ああ、これはですね、と口を開いた。
「諏訪子様に貰ったんです。お古ですけどね」
「…………」
「元々諏訪子様が使っていた物なので、私には少し小さめなんですけど」
「…………」
「まあでもまだまだ使えるし、やっぱり物は大事にしないと―――って、小傘さん?」
「…………」
そこで早苗は気が付いた。
小傘が肩を震わせ―――泣いていることに。
「え? な、なんで泣いてるんですか? 私、何かしましたか?」
「早苗の……」
「え?」
「早苗の、ばかぁああああ!!!」
雨音をかき消すような大声で叫ぶと、小傘はその場から一気に飛翔した。
「ちょ、え、こ、小傘さん!?」
あまりにも唐突な事態に、早苗は狼狽するばかり。
しかしそんな早苗を余所に、小傘はどんどん遠くに飛び去っていく。
「ああ、もう! なんなんですか一体!」
そう声を荒げると、早苗も力強く地面を蹴った。
傘を閉じて抵抗を減らし、前を行く小傘を懸命に追い掛ける。
―――一方、早苗の先を飛ぶ小傘は。
「……うぐぅ、ひっく……」
嗚咽を漏らしながら、極めて不安定な軌道で飛行を続けていた。
彼女が手に持った傘は、開いた状態のまま、完全に下に向けられている。
そのため、彼女の顔は、もう雨と涙とでぐしゃぐしゃになっていた。
「……さ、さなえの、ばかあ……」
小傘は思い出す。
あの日、早苗を自分の傘に入れたときのこと。
―――また、今日みたいなことがあったら、そのときはよろしくお願いします!
あのときの早苗の言葉と笑顔が、小傘の胸に突き刺さる。
「うれしかった、のに……」
どこをどう飛んでいるかも分からず、降り注ぐ雨の中、小傘は滅茶苦茶な軌道で飛び続けた。
「さなえは、さなえは……」
つい先ほど見た、小さめのサイズの白い傘。
同居している神様から貰ったと、早苗は嬉しそうに語っていた。
「わたしじゃなくても、いいんだ……!」
馬鹿みたいだと、小傘は自嘲気味に笑った。
一人で勝手に舞い上がって。
一人で勝手に期待して。
早苗は単に、『傘』を必要としていただけで。
『自分』を必要としていたわけではなかったのだ。
(そりゃあ、そうか……)
段々と飛ぶ勢いも落ちていき、身体にかかる雨の重力に負けそうになる。
(傘は、雨を避けるためだけの道具だもん……)
少しずつ、小傘の高度が下がり始める。
(それさえできれば、別に何でもいいよね……)
―――私じゃ、なくても。
その事実が、小傘の心を抉り抜いた。
もはや飛行を続ける気力は失せ、やがて彼女は、ふらふらと山林の中に不時着した。
どさっと仰向けになり、土の上に寝転ぶ。
雨は木々に遮られてはいるものの、今なおそれなりの水量が、小傘の全身を穿つ。
小傘は目を閉じ、降りしきる雨に身を委ねた。
(ああ、なんかもう……いいや)
所詮、傘は傘でしかない。
雨を避けるためだけの、道具でしかない。
その役割さえ果たせるのならば、別に何だっていい。
自分じゃなくても。
他の傘でも。
……それなのに。
自分は。
…………自分は。
「……ばっかみたい」
小傘が吐き捨てるように呟いた、そのとき。
「…………?」
ふと、雨粒が顔に当たらなくなっていることに気付く。
目を開けると、真上に白い傘があった。
「……風邪引きますよ」
声のした方に振り向くと、にこりと微笑む早苗がいた。
中腰で、自分の方に傘を差し向けている。
「…………」
その笑顔からついと顔を背けると、小傘は頭上の傘に視線を戻した。
「……引かないよ。妖怪だもん、私」
「あれ? 今日はキャラ作りはしないんですか?」
「…………」
からかうような口調の早苗に対し、小傘は無言。
早苗は軽く溜め息をつくと、傘を差したまま、小傘の隣にしゃがみ込んだ。
「……濡れるよ。お尻」
「別にいいです。誰かさんを追いかけてる間に、全身びしょ濡れになりましたから」
「…………」
ちょっぴり嫌味を混ぜた台詞も、小傘の感情を動かすには足りないらしく。
小傘は無感動に、差された傘の裏側を見つめていた。
そして、独り言のように呟いた。
「……可愛い傘だね」
「え?」
「……これ」
「ああ、まあ」
小傘は、感情のこもっていない声で続ける。
「これがあれば、雨が降っても大丈夫だね」
「? ええ、まあ……」
「別に、私がいなくても平気だね」
「えっ?」
「…………」
小傘の言葉の意味が分からず、きょとんとする早苗。
すると徐々に、小傘の声が震え始めた。
「……私、なんか……」
「え?」
「こんな……こんな、茄子色の、不気味な傘なんか……」
「こ、小傘さん?」
「必要、ないよねっ……」
いつの間にか涸れていたはずの涙が、再び溢れ出す。
小傘はそれを拭おうともせず、嗚咽混じりに続けた。
「わ、わたしは、うれしかったんだ。早苗に、必要として、もらえて」
「…………」
「でも、でも早苗は、わたしじゃなくても、よかったんだね。ううん、わたしじゃないほうが、よかったんだ」
「…………」
「こんな、こんな不気味で大きいだけの傘より、こういう、小さくて可愛い傘のほうがっ……!」
「……小傘さん」
早苗は空いている方の手を、そっと小傘の顔へと伸ばした。
そして優しく、その涙を拭ってやる。
「……それで、拗ねちゃってたんですか。私が、この傘を使ってたから」
「…………」
小傘はぎゅっと唇を結んだ。
それは、事実上の肯定だった。
「―――もう、ばかねぇ」
早苗はやわらかく笑って言った。
「そんな、私が小傘さんを必要としなくなるなんて、あるわけないじゃないですか」
「……ふぇっ?」
「小傘さんは必要ですよ。私にとって」
「―――なっ」
「おっと」
そこで突然、小傘は上体を起こした。
慌てて、傘を少し高い位置に上げる早苗。
小傘は早口でまくし立てる。
「そ、そんな、そんなわけないでしょ。だって、じゃあ、なんで、この傘……」
「お、落ち着いてください。そうです、そうなんです。そこに、私と小傘さんとの間に行き違いがあったんです」
「? 行き違い?」
「はい」
早苗はきっぱりとした口調で言う。
「だって私は小傘さんのこと、大切な友達だって思ってましたから」
「とも……だち?」
「はい」
満面の笑みで、頷く早苗。
「だから私は、小傘さんのことを、傘としては見ていませんでした」
「…………」
「だってそうでしょう? 友達を道具扱いする人が、どこにいますか?」
「うっ……で、でも……。私は、やっぱり傘だから……。だから、その、傘として……必要とされたかった」
「そうなんですよね。だからそこが、行き違っていたわけです」
「…………」
諭すように言う早苗。
小傘はじっと聞き入っている。
「私は友達として、小傘さんのことを必要としていた。でも小傘さんは、道具として、傘として必要とされたかったんですよね」
「う、うん。……や、もちろん私も早苗のことは好きだし、友達だと思ってるよ」
「……ありがとうございます」
「うん。だから、その、友達として必要としてくれるのは、すごく嬉しいよ。でも、やっぱり私は、傘だから……」
もじもじと言う小傘に対し、早苗はにっこり笑って言った。
「はい。だから今日からは、傘としても、小傘さんのことを必要としたいと思います」
「……え?」
「まあ正直、友達を道具扱いすることへの抵抗が無くなったわけではないんですが……でも、他ならぬ友達の、小傘さんがそう望むなら」
「さ、早苗……」
「だから……私の傘になって下さい。小傘さん。そして雨の日は、どうか私を守って下さい」
そう言って頭を下げる早苗。
小傘はしばし呆然としていたが、やがて、満面の笑みを浮かべて言った。
「……うむっ! これからは、わちきを存分に使うがよいぞ!」
「あら? 今日はキャラ作りはしないんじゃなかったかしら?」
「う、うるさいっ! だからこれはキャラ作りじゃないのだ!」
「はいはい」
「むぅ……」
いつもの口調に戻った小傘の頭を、にこにこと微笑みながら撫でる早苗。
小傘は頬を膨らませながらも、満更でもなさそうな表情だ。
「……さて。実は私、今日は人里にお買い物に行かなければならないんです」
「ん? 人里?」
「はい。でもあいにくこの天気ですから……このままだと、濡れちゃいますよねぇ」
いつの間にか、早苗は手に持っていた傘を閉じていた。
服も髪もびしょ濡れのまま、笑顔で言う。
「……私を守ってくれますか? 小傘さん」
「…………!」
ぐっと込み上げてくるものを必死に抑えて。
ありったけの笑顔で。
「……おうっ! まかせとけなのだっ!」
そう言った小傘の表情は、どこまでも晴れやかだった。
―――それから、また数日が経過したある日のこと。
神社の縁側でぼんやりと外を眺めていた早苗の元に、空から一匹の傘妖怪が飛んできた。
「早苗ーっ! 今日はいい天気だねーっ!」
「……いや、普通に雨降りですけど……」
「早苗早苗、今日はどっか出掛けるよね? よね?」
「え、いや、今日は特に……」
「…………」
途端にしゅんとなり、上目遣いで早苗をじっと見る小傘。
「あー! そうでしたそうでした! 今日はお醤油が切れてたんで里まで買いに行かないといけないんでしたー!」
「えっ、そうなの!? でもでも、すごくすごく雨降ってるよ?? こんな中で傘も差さずに出掛けたら、きっとすっごく濡れちゃうよ?」
一瞬でテンションを回復させ、きらきらとした目で早苗に詰め寄る小傘。
そんな小傘にふっと笑い掛けると、早苗はその小さな頭にそっと手を乗せた。
「……ええ、そうですね。だから今日もお願いします。小傘さん」
「おうっ! まかせとけなのだっ! この多々良小傘、降り注ぐ雨粒を一つ残らず防いでしんぜよう!」
「ふふっ。まったく、もう」
得意げに胸を張り、開いた傘を差し出す小傘。
早苗は苦笑を浮かべつつ、その中に入った。
「さあ、行くでありんす!」
「あ、でも傘は私が持ちますね」
そう言って、ひらりと小傘から傘の取っ手を奪い取る早苗。
「ああっ、か、傘妖怪としてそれは……」
「だって、小傘さんに持たせていたら私の頭がつっかえるんですもの」
「むぅ……」
「悔しかったら、もう少し大きくなって下さいね」
「だからわちきは、妖怪だからそんなにすぐには……」
軽く頬を膨らませ、ぶうたれた表情を浮かべる小傘。
そんな小傘に、早苗は優しく微笑み掛ける。
「じゃあいつか、小傘さんが私よりも大きくなったら、そのときは……小傘さんが、傘を持って下さい」
「! でっ、でもそんなの……いつになるか、わかんないよ」
「いつになってもいいんですよ」
「え?」
きょとんとする小傘に、早苗は当たり前の事のように言った。
「だって、この先私が使う傘は、小傘さんだけなんですから」
「…………!」
「だから、いつまででも待ちますよ」
「……うむっ! りょーかいなのだっ!」
にっこり微笑む早苗を見ながら。
空は雨模様でも、小傘の心は快晴だった。
了
降りしきる雨の中、茄子色の大きな傘を差した少女が楽しそうに道端をスキップしていた。
「ぴっちぴっちちゃぷちゃぷ らんらんら~ん」
少女は満面の笑みを浮かべて、歌詞通りに水溜りをちゃぷちゃぷしながら飛び跳ねている。
彼女の名は多々良小傘。
こう見えても、れっきとした妖怪である。
「およ?」
そんな小傘の目に留まったのは、お地蔵様が安置されている屋根付きの囲い。
その中で、一人の少女がなんとも陰鬱そうな表情で空を見上げているのが見えた。
「早苗?」
小傘はその少女に見覚えがあった。
山の神社に住み、風祝とかいう職に就いている少女だ。
名を、東風谷早苗という。
「おーい」
小傘はばしゃばしゃと水しぶきを上げながら、早苗の方へと駆け寄った。
早苗はすぐに小傘に気付き、はあと軽く溜息をついた。
「……小傘さん。あなた、随分普通に出現するようになりましたね」
「う、うぐっ。い、いいの。今は別にお腹すいてないから。それよりどったの? こんなとこで」
「……見て分からないですか? 雨宿りをしてるんですよ」
「雨宿り?」
「ええ」
しかし、小傘はすぐに首を傾げた。
早苗の手には、どう見ても傘としか思えない物体が握られていたからだ。
小傘は当然の疑問を口にする。
「なんで傘、差さないの?」
「…………」
早苗は小傘の問いには答えず、ぶすっとした表情でその傘を小傘に手渡してきた。
一体なんだろうと、それを受け取る小傘。
「開いてみてください」
「?」
自分の傘の柄を肩と首で挟みつつ、言われるがままに受け取った傘を開こうとする小傘。
ところが、なかなか上手く開かない。
「? な、なんでこれ、こんなに固……あ、骨が」
そこでようやく小傘は気付いた。
その傘は骨が一本、完全に折れており、開こうにも開かなくなっていた。
仮に無理やり開いたところで、傘本来の形状には到底ならないであろう。
「……さっき、突風が吹きまして。見事にやられてしまいました」
早苗は肩を竦めて言う。
「それで雨宿りしてたんだ」
「そういうことです」
早苗は再び溜息をつき、がっくりとうな垂れる。
この様子だと、もう相当な時間、ここでこうしているのかもしれない。
「!」
と、そこで小傘の顔がにぱっと輝いた。
「ふっふっふ」
「? 何ですか気持ち悪い」
「き、気持ち悪いとか言うな! せっかくいいこと思いついたのに!」
「いいこと?」
「うむっ!」
力強く頷き、誇らしげに胸を張る小傘。
(……まるで板のようだわ)
早苗は喉元まで出掛かったその言葉を飲み込むと、小傘に向かって問い掛けた。
「……何ですか? いいことって」
「ふふっ。聞いて驚くな。あ、いや、やっぱ驚け」
「何でもいいから早く言ってください」
「せ、急かすでない。……おほん」
演技ばった咳払いをしてから、小傘は大きな声で言った。
「このわちきの傘に、早苗を入れてあげてしんぜよう!」
小傘はそう言うや、自身の本体ともいえる大きな茄子色の傘を早苗に差し向けた。
傘は開いたままの状態だが、ほとんど囲いの中に突っ込むような形で差し出しているため、小傘自身はほぼ全身が雨に晒されている。
ぽかんと、呆けたように口を開ける早苗。
「……え?」
「う。な、なんだその微妙な反応は!」
「あ、いや……小傘さんからそんな親切な申し出を受けるなんて、予想だにしていなかったものですから……明日は晴れのちグングニルですね」
「何その物騒な天候!? っていうか何気に失礼だし!」
「ごめんなさい、私嘘つけない子でして」
「むぅ……で、ど、どうするのさ!?」
「え?」
「だ、だから、その、わ、わた……わちきの、傘に」
「……別に、こんなときまで無理してキャラ作らなくてもいいですよ」
くすくすと笑う早苗。
かああっと、小傘の顔が赤くなる。
「う、うるさいっ! べ、別にキャラ作ってなんか―――」
「じゃあ、お願いします」
小傘の反論を遮るような形で、早苗がぺこりと頭を下げた。
「へっ」
一瞬、何が起きたのか分からず、目をぱちくりとさせる小傘。
「……入れてくれるんでしょ?」
にっこり笑顔でそう言って、小傘の傘を指差す早苗。
小傘はしばし目を瞬かせた後、はじけるような笑顔を浮かべた。
「―――うんっ!」
―――こうして二人は、一つの傘の中で、身を寄せ合うようにして歩き始めた。
幸いにも、小傘の傘は大きめだったので、二人が濡れないだけのスペースは十分にあった。
……ただ、早苗には、それとは別に、少しだけ気になるところがあったようで。
「あの、小傘さん」
「ん?」
「やっぱり、私が持ちます」
「え、いいよ。ここはわた、わちきが」
「いえ、その……身長差的に」
「あっ……」
早苗の頭頂部が、若干傘の内側にグレイズしていた。
「じゃ、じゃあこれならっ!」
ぐおおっと、思いっきり腕を伸ばす小傘。
見ているだけで辛そうだ。
「もう、いいからよこしてください」
呆れたように言うと、早苗は傘の取っ手を小傘から奪い取った。
「あう」
「ほら、この方が傍目にも自然でしょう」
「むぅ……」
「悔しかったら、もう少し背を伸ばしましょうね」
ぽんぽんと、空いた方の手で小傘の頭を撫でる早苗。
小傘は不満げに口を尖らせる。
「むぅ……わちきは妖怪だから、人間と違って、そんなすぐには大きくならないのだ」
「そうですか……それは、なんとも」
かわいそうですね、と早苗はちらりと小傘の身体のとある部位を見て言いかけたが、空気を読んで喉の奥に飲み込んだ。
―――そうこうしているうちに、二人は守矢神社へと辿り着いた。
「今日はどうもありがとうございました。小傘さん」
「うむ、よいよい」
頭を下げる早苗に対し、至極ご満悦といった表情で頷く小傘。
なんだかんだいって傘なので、雨避けとして役に立てたことが嬉しいらしい。
「お礼も兼ねて、是非お茶でも飲んでいってください」
「いや、それは結構」
早苗の申し出に対し、小傘は掌をびしっと突き出した。
「でも」
「いいからいいから。ここ一応神社だし、わちきみたいな妖怪が蔓延るのはあんまり良くないと思うのだ」
「一応って……いやでも、何かお礼を」
「いいって。傘として当然の事をしたまでなのだ」
「小傘さん……」
小傘の言葉に、早苗も自然と表情を緩めた。
小傘はにぃっと笑うと、その場でふわりと浮かび上がった。
「そんじゃあまたね、早苗」
「はい。また……あっ」
「?」
そこで、何かを思いついたような表情を浮かべた早苗。
何だろうと小傘は首を傾げる。
早苗は、溢れんばかりの笑顔で言った。
「……また、今日みたいなことがあったら、そのときはよろしくお願いします!」
「!」
その言葉に、思わず小傘の涙腺が緩む。
「……お、おうっ。まかせとけなのだ!」
小傘はそれだけ言うと、くるりと背を向け、そのまま一気に飛び去った。
その心を充たすのは、言いようもないほどの満足感。
(……必要と、された……)
主に捨てられ、誰からも必要とされなくなった日々。
今なお、小傘の心の奥底に眠る、遠い日の記憶。
(……私を、必要としてくれてる……)
いつの間にか、小傘の瞳からは、堪えていた涙がぼろぼろと零れ始めていた。
(……この、私を。こんな、私を……)
―――小傘は思った。
これから雨の降る日は、たとえどんなに小雨の日でも、早苗の傘になってやろうと。
早苗のために、雨粒を一つ残らず、弾き返してやろうと。
「……ふ、ふふっ。ふふふふふっ」
込み上げてくる笑いを堪えることができず、小傘は泣きながら笑いながら、降り注ぐ雨の中を縦横無尽に飛び回った。
―――一方、神社の玄関前で、早苗は飛び去っていった小傘の後ろ姿を見送っていた。
「……さて。そろそろ中に入りますか」
小傘の姿が見えなくなったのを確認した早苗が、引き戸に手を掛けたそのとき。
「早苗。誰か来てたの?」
振り返ると、傘を差した諏訪子が立っていた。
反対の手に提げた買い物袋をみるに、どうやら人里からの帰りのようだ。
「ええ、ちょっと」
「ふぅん。もしかして男? だったらケロちゃんは直ちに祟りの儀式を始めないといけないんだけど」
「なんでいきなり祟るんですか! っていうか違いますから!」
「なんだ違うのか。ケロちゃんったら早とちり☆」
諏訪子は「ケロッ☆」とか言いながら自分の頭を軽く小突いていたが、早苗は華麗にスルーして引き戸を開けた。
涙目で後を追う諏訪子。
「ちょ、ちょっと早苗。なんかツッコんでよぅ……って、あれ? 早苗、その傘、壊れたの?」
「え? ああ……はい。今日、突風の餌食になりました」
「どれどれ。あー……これは確かに……。河童に頼めばなんとかしてくれるかもしれないけど、それよか新しいの買った方が安そう」
「ですよねぇ。まあかなり長いこと使ってましたし、替え時ってことなんでしょう」
「そうだねー……あ!」
壊れた早苗の傘を見ながら、諏訪子は何かを思い出したような顔になった。
何事かと首を傾げる早苗。
「どうしたんですか?」
「ちょっと待ってて」
とててて、と廊下を駆けてゆく諏訪子。
そのまま自分の部屋に入るや、一分もしないうちに、再び姿を現した。
「じゃーんっ!」
そう言って諏訪子が早苗に向けて差し出してきたのは、やや小さいサイズの白い傘だった。
「? 諏訪子様、これは……?」
「私が前に使ってたやつ。まだ全然使えると思うから、今度からこれ使いなよ」
「お古ですか……」
「あー! 何その不満そうな顔! これだから現代っ子は! 科学技術に溺れた物欲の権化が!」
「う、うそうそうそです、冗談ですよ! ありがたく使わせていただきます」
早苗は慌てたように弁解しながら、諏訪子からその傘を受け取った。
なるほど確かに、少し色褪せてはいるものの、特に故障などもなく、十分現役で使えそうな代物だった。
「これで、新しく買う手間が省けました」
「うむ。やはり使える物はきちっと使ってやらんとね」
笑顔で語り合う二人。
早苗はそのとき、自分の行動に何の疑問も感じてはいなかった。
―――それから数日間が経過した、ある日の早朝。
「雨降らないかなあ……」
小傘はぼんやりと空を見上げていた。
早苗を自分の傘に入れたあの日以降、ずっと晴れの日が続いている。
「早く雨降ればいいのに。そうしたら、また早苗の役に立てるのに」
傘として、道具として必要とされることの喜びを、またもう一度味わいたい。
小傘はその一心で、あの日からずっと、雨の降る日を心待ちにしていた。
「てるてる坊主でも逆さに吊るそうかな……」
そんなことを考え始めた矢先。
「ん?」
ぽつり、と小傘の頭に一滴の雫が落ちた。
「あ……」
それはぽつ、ぽつと次第に数が増えてゆき、一分もしないうちに、辺りには雨が間断なく降り注ぐこととなった。
「やった!」
歓喜に震える小傘。
その瞳がきらきらと輝く。
「ふふっ。こんなに降ってたら、早苗、出掛けるとき困るだろうなあ。早く行ってやんないと!」
くふふふと楽しそうに笑い、小傘は神社に向かって飛んでいった。
大きな茄子色の傘を、しっかりと広げて。
―――間もなく、小傘は神社の上空に到着した。
「ふふっ。早苗、早く出てこないかなぁ」
小傘はわくわくしながら、神社の玄関口を見つめていた。
何せこの雨である。
どこへ出掛けようにも、傘がなければどうしようもないであろう。
降りしきる雨を目の当たりにし、途方に暮れる早苗の姿が目に浮かぶ。
(……そこで私が颯爽と現れ、早苗を傘に入れてあげるんだ! ふふっ、楽しみ!)
そうほくそ笑んだ矢先、小傘ははっとした表情を浮かべた。
「……あ、そうか。そもそも今日、早苗が出掛けるとは限らないのか」
盲点だった。
もし早苗に外出する用事が無ければ、自分が傘として役に立つことはできない。
「……で、でも、きっと一回くらいは外に出る用事あるよね。かぜはふりって、結構忙しいみたいだし」
自分に言い聞かせるように、うん、うんと頷く小傘。
空は一面、灰色の雲で覆われている。
この分だと、今日は一日雨模様だろう。
たとえ一度でも外に出る用事があるのなら、早苗は傘を必要とするはずだ。
「早苗……」
祈るような気持ちで両手を組み、小傘は玄関口に視線を送り続けた。
……それから、およそ二時間後。
がらり、と、ふいに玄関の引き戸が開いた。
「!」
思わず、刮目する小傘。
中から人影が現れる。
「―――早苗!」
それは間違いなく、自分が待ち焦がれていた人物―――東風谷早苗だった。
小傘は待機していた上空から、一気に早苗目掛けて急降下する。
(早苗、今行くよ! 私が雨から守ってあげ……ん?)
―――その瞬間。
小傘の目に、入ったのは。
「えっ……」
―――何食わぬ顔で、手に持った白い傘を開く、早苗の姿だった。
「なん、で……」
くらり、と。
世界が横転したかのような錯覚に陥る。
降下速度は一瞬で減退し、ふらふらと風に煽られながら、小傘はゆっくりと着地した。
―――白い傘を差した早苗の、目の前に。
「あら、小傘さん」
早苗の暢気な声が聞こえる。
「…………」
小傘は何も言わず、ただただじっと、早苗が手に持つ、その物体を睨み付ける。
「? どうしたんですか?」
いつもと様子の違う小傘に、首を傾げる早苗。
小傘はその問いには答えず、すぅっと指を差した。
「……何、それ」
「え?」
その指先が示しているのは、早苗が先日、諏訪子から貰い受けた傘に他ならない。
早苗は、ああ、これはですね、と口を開いた。
「諏訪子様に貰ったんです。お古ですけどね」
「…………」
「元々諏訪子様が使っていた物なので、私には少し小さめなんですけど」
「…………」
「まあでもまだまだ使えるし、やっぱり物は大事にしないと―――って、小傘さん?」
「…………」
そこで早苗は気が付いた。
小傘が肩を震わせ―――泣いていることに。
「え? な、なんで泣いてるんですか? 私、何かしましたか?」
「早苗の……」
「え?」
「早苗の、ばかぁああああ!!!」
雨音をかき消すような大声で叫ぶと、小傘はその場から一気に飛翔した。
「ちょ、え、こ、小傘さん!?」
あまりにも唐突な事態に、早苗は狼狽するばかり。
しかしそんな早苗を余所に、小傘はどんどん遠くに飛び去っていく。
「ああ、もう! なんなんですか一体!」
そう声を荒げると、早苗も力強く地面を蹴った。
傘を閉じて抵抗を減らし、前を行く小傘を懸命に追い掛ける。
―――一方、早苗の先を飛ぶ小傘は。
「……うぐぅ、ひっく……」
嗚咽を漏らしながら、極めて不安定な軌道で飛行を続けていた。
彼女が手に持った傘は、開いた状態のまま、完全に下に向けられている。
そのため、彼女の顔は、もう雨と涙とでぐしゃぐしゃになっていた。
「……さ、さなえの、ばかあ……」
小傘は思い出す。
あの日、早苗を自分の傘に入れたときのこと。
―――また、今日みたいなことがあったら、そのときはよろしくお願いします!
あのときの早苗の言葉と笑顔が、小傘の胸に突き刺さる。
「うれしかった、のに……」
どこをどう飛んでいるかも分からず、降り注ぐ雨の中、小傘は滅茶苦茶な軌道で飛び続けた。
「さなえは、さなえは……」
つい先ほど見た、小さめのサイズの白い傘。
同居している神様から貰ったと、早苗は嬉しそうに語っていた。
「わたしじゃなくても、いいんだ……!」
馬鹿みたいだと、小傘は自嘲気味に笑った。
一人で勝手に舞い上がって。
一人で勝手に期待して。
早苗は単に、『傘』を必要としていただけで。
『自分』を必要としていたわけではなかったのだ。
(そりゃあ、そうか……)
段々と飛ぶ勢いも落ちていき、身体にかかる雨の重力に負けそうになる。
(傘は、雨を避けるためだけの道具だもん……)
少しずつ、小傘の高度が下がり始める。
(それさえできれば、別に何でもいいよね……)
―――私じゃ、なくても。
その事実が、小傘の心を抉り抜いた。
もはや飛行を続ける気力は失せ、やがて彼女は、ふらふらと山林の中に不時着した。
どさっと仰向けになり、土の上に寝転ぶ。
雨は木々に遮られてはいるものの、今なおそれなりの水量が、小傘の全身を穿つ。
小傘は目を閉じ、降りしきる雨に身を委ねた。
(ああ、なんかもう……いいや)
所詮、傘は傘でしかない。
雨を避けるためだけの、道具でしかない。
その役割さえ果たせるのならば、別に何だっていい。
自分じゃなくても。
他の傘でも。
……それなのに。
自分は。
…………自分は。
「……ばっかみたい」
小傘が吐き捨てるように呟いた、そのとき。
「…………?」
ふと、雨粒が顔に当たらなくなっていることに気付く。
目を開けると、真上に白い傘があった。
「……風邪引きますよ」
声のした方に振り向くと、にこりと微笑む早苗がいた。
中腰で、自分の方に傘を差し向けている。
「…………」
その笑顔からついと顔を背けると、小傘は頭上の傘に視線を戻した。
「……引かないよ。妖怪だもん、私」
「あれ? 今日はキャラ作りはしないんですか?」
「…………」
からかうような口調の早苗に対し、小傘は無言。
早苗は軽く溜め息をつくと、傘を差したまま、小傘の隣にしゃがみ込んだ。
「……濡れるよ。お尻」
「別にいいです。誰かさんを追いかけてる間に、全身びしょ濡れになりましたから」
「…………」
ちょっぴり嫌味を混ぜた台詞も、小傘の感情を動かすには足りないらしく。
小傘は無感動に、差された傘の裏側を見つめていた。
そして、独り言のように呟いた。
「……可愛い傘だね」
「え?」
「……これ」
「ああ、まあ」
小傘は、感情のこもっていない声で続ける。
「これがあれば、雨が降っても大丈夫だね」
「? ええ、まあ……」
「別に、私がいなくても平気だね」
「えっ?」
「…………」
小傘の言葉の意味が分からず、きょとんとする早苗。
すると徐々に、小傘の声が震え始めた。
「……私、なんか……」
「え?」
「こんな……こんな、茄子色の、不気味な傘なんか……」
「こ、小傘さん?」
「必要、ないよねっ……」
いつの間にか涸れていたはずの涙が、再び溢れ出す。
小傘はそれを拭おうともせず、嗚咽混じりに続けた。
「わ、わたしは、うれしかったんだ。早苗に、必要として、もらえて」
「…………」
「でも、でも早苗は、わたしじゃなくても、よかったんだね。ううん、わたしじゃないほうが、よかったんだ」
「…………」
「こんな、こんな不気味で大きいだけの傘より、こういう、小さくて可愛い傘のほうがっ……!」
「……小傘さん」
早苗は空いている方の手を、そっと小傘の顔へと伸ばした。
そして優しく、その涙を拭ってやる。
「……それで、拗ねちゃってたんですか。私が、この傘を使ってたから」
「…………」
小傘はぎゅっと唇を結んだ。
それは、事実上の肯定だった。
「―――もう、ばかねぇ」
早苗はやわらかく笑って言った。
「そんな、私が小傘さんを必要としなくなるなんて、あるわけないじゃないですか」
「……ふぇっ?」
「小傘さんは必要ですよ。私にとって」
「―――なっ」
「おっと」
そこで突然、小傘は上体を起こした。
慌てて、傘を少し高い位置に上げる早苗。
小傘は早口でまくし立てる。
「そ、そんな、そんなわけないでしょ。だって、じゃあ、なんで、この傘……」
「お、落ち着いてください。そうです、そうなんです。そこに、私と小傘さんとの間に行き違いがあったんです」
「? 行き違い?」
「はい」
早苗はきっぱりとした口調で言う。
「だって私は小傘さんのこと、大切な友達だって思ってましたから」
「とも……だち?」
「はい」
満面の笑みで、頷く早苗。
「だから私は、小傘さんのことを、傘としては見ていませんでした」
「…………」
「だってそうでしょう? 友達を道具扱いする人が、どこにいますか?」
「うっ……で、でも……。私は、やっぱり傘だから……。だから、その、傘として……必要とされたかった」
「そうなんですよね。だからそこが、行き違っていたわけです」
「…………」
諭すように言う早苗。
小傘はじっと聞き入っている。
「私は友達として、小傘さんのことを必要としていた。でも小傘さんは、道具として、傘として必要とされたかったんですよね」
「う、うん。……や、もちろん私も早苗のことは好きだし、友達だと思ってるよ」
「……ありがとうございます」
「うん。だから、その、友達として必要としてくれるのは、すごく嬉しいよ。でも、やっぱり私は、傘だから……」
もじもじと言う小傘に対し、早苗はにっこり笑って言った。
「はい。だから今日からは、傘としても、小傘さんのことを必要としたいと思います」
「……え?」
「まあ正直、友達を道具扱いすることへの抵抗が無くなったわけではないんですが……でも、他ならぬ友達の、小傘さんがそう望むなら」
「さ、早苗……」
「だから……私の傘になって下さい。小傘さん。そして雨の日は、どうか私を守って下さい」
そう言って頭を下げる早苗。
小傘はしばし呆然としていたが、やがて、満面の笑みを浮かべて言った。
「……うむっ! これからは、わちきを存分に使うがよいぞ!」
「あら? 今日はキャラ作りはしないんじゃなかったかしら?」
「う、うるさいっ! だからこれはキャラ作りじゃないのだ!」
「はいはい」
「むぅ……」
いつもの口調に戻った小傘の頭を、にこにこと微笑みながら撫でる早苗。
小傘は頬を膨らませながらも、満更でもなさそうな表情だ。
「……さて。実は私、今日は人里にお買い物に行かなければならないんです」
「ん? 人里?」
「はい。でもあいにくこの天気ですから……このままだと、濡れちゃいますよねぇ」
いつの間にか、早苗は手に持っていた傘を閉じていた。
服も髪もびしょ濡れのまま、笑顔で言う。
「……私を守ってくれますか? 小傘さん」
「…………!」
ぐっと込み上げてくるものを必死に抑えて。
ありったけの笑顔で。
「……おうっ! まかせとけなのだっ!」
そう言った小傘の表情は、どこまでも晴れやかだった。
―――それから、また数日が経過したある日のこと。
神社の縁側でぼんやりと外を眺めていた早苗の元に、空から一匹の傘妖怪が飛んできた。
「早苗ーっ! 今日はいい天気だねーっ!」
「……いや、普通に雨降りですけど……」
「早苗早苗、今日はどっか出掛けるよね? よね?」
「え、いや、今日は特に……」
「…………」
途端にしゅんとなり、上目遣いで早苗をじっと見る小傘。
「あー! そうでしたそうでした! 今日はお醤油が切れてたんで里まで買いに行かないといけないんでしたー!」
「えっ、そうなの!? でもでも、すごくすごく雨降ってるよ?? こんな中で傘も差さずに出掛けたら、きっとすっごく濡れちゃうよ?」
一瞬でテンションを回復させ、きらきらとした目で早苗に詰め寄る小傘。
そんな小傘にふっと笑い掛けると、早苗はその小さな頭にそっと手を乗せた。
「……ええ、そうですね。だから今日もお願いします。小傘さん」
「おうっ! まかせとけなのだっ! この多々良小傘、降り注ぐ雨粒を一つ残らず防いでしんぜよう!」
「ふふっ。まったく、もう」
得意げに胸を張り、開いた傘を差し出す小傘。
早苗は苦笑を浮かべつつ、その中に入った。
「さあ、行くでありんす!」
「あ、でも傘は私が持ちますね」
そう言って、ひらりと小傘から傘の取っ手を奪い取る早苗。
「ああっ、か、傘妖怪としてそれは……」
「だって、小傘さんに持たせていたら私の頭がつっかえるんですもの」
「むぅ……」
「悔しかったら、もう少し大きくなって下さいね」
「だからわちきは、妖怪だからそんなにすぐには……」
軽く頬を膨らませ、ぶうたれた表情を浮かべる小傘。
そんな小傘に、早苗は優しく微笑み掛ける。
「じゃあいつか、小傘さんが私よりも大きくなったら、そのときは……小傘さんが、傘を持って下さい」
「! でっ、でもそんなの……いつになるか、わかんないよ」
「いつになってもいいんですよ」
「え?」
きょとんとする小傘に、早苗は当たり前の事のように言った。
「だって、この先私が使う傘は、小傘さんだけなんですから」
「…………!」
「だから、いつまででも待ちますよ」
「……うむっ! りょーかいなのだっ!」
にっこり微笑む早苗を見ながら。
空は雨模様でも、小傘の心は快晴だった。
了
俺の目から雨が降ってるよ…
っていう口調の小傘ちゃん可愛い。
早苗の毒気がまるで感じられない…!
キレイな早苗さん。きっと雨に毒を流されたのでしょう。
なにこのプロポーズ。
頬が緩みっぱなしでした
追撃のきっと絶対プロポーズで上記の状態でっせ。いいキャラだなー。
……嘘です。涙目の小傘ちゃんにテラテラと纏わりつくドSな早苗さんも大好物です。
要はどんなこがさなでも私は好きであり、作者様の物語も当然の如くそこに加わったのです。
素敵なこがさな作品集(俺専用)にですね。イヤイヤありがとうございました。
なんとも仕合わせなお話。感謝。