竹の葉から漏れる日光に照らされて、彼女はそこに横たわっていた。
現実のものとは思えぬほど整った顔立ちの少女。
老婆のように白く長い髪が、乱れて地面にうねっている。
彼女は白いブラウスに赤いモンペを身につけていた。
モンペを止めていたはずのサスペンダーは外れて、蛇のように髪の上を這っている。
少女の懐を寝床にして褐色の野ウサギがうつらうつらとしていたが、何かの物音を聞いたのか耳をピクンとそばだてると身を翻し、竹林の奥へと消えていった。
少女の姿は打ち捨てられた人形のようだった。
彼女の周りだけは時が止まっているかのように思われた。
強い風が吹く。
竹林全体がまるでそれがひとつの生き物であるかのように風とともに揺れる。
竹の葉がさわさわと泣いた。
遠くで鳥が歌っている。
名も知らぬ虫が彼女の頬を這い上る。
だが彼女はぴくりとも身体を動かさない。
透き通るように白い肌には血の気がなく、生きているようには見えない。
その上を這いずり回る虫も興味を失ったのかどこかへと去った。
開いてはいるが何も見ていない少女の目は本物の人形のようでもあり、また死体のようでもあった。
輝きのない瞳からは何の感情も読み取れなかった。
「探したわよ、妹紅」
蓬莱山輝夜は、白髪の少女の顔をのぞき込み、冷たい声で言った。
妹紅と呼ばれた少女は何の反応も返さない。
「殺していいのかしら」
妹紅は何も言わない。
「殺すわよ」
輝夜は妹紅の首に手をかける。輝夜の小さな手のひらでも簡単に絞められるほど細い首だった。
手のひらから妹紅の体温と血液を巡らせる心臓の鼓動が感じられた。
手の力をだんだんと強めていく。妹紅の脈拍はあくまでも落ち着いていた。それは輝夜を悲しくさせるリズムだった。
妹紅は生きている。生きてきた。生きていく。これからもずっと。
妹紅は死んでいる。死んでいた。死んでいく。永遠に、輪廻の輪へと解き放たれることもなく。
私も同じだ、と輝夜は思った。影のない世界には光もなく、死のない世界には生もない。私たちはそんな残酷な世界に生きている。いや、ただ存在している。
輝夜は妹紅の首から手を離し、彼女のそばにぺたりと座った。
妹紅の髪の毛を撫でる。
千年以上前、それは緑なす美しき黒髪だった。
だが絶望の千年を経て色を失い、艶を失い、輝きを失った。
今はもう、抜け殻となってかたちだけが残っている残滓にすぎなかった。
それでも輝夜はその髪を撫で続ける。
白髪の少女は意志を持たぬただの物であるかのように、ただじっとしていた。
「永琳の薬、飲み忘れたのね」
自分もこうなっていたかもしれないのだと輝夜は思った。
いや、こうなるべきだったのだ。
永琳の調合する薬なしでは一分とまともな精神ではいられない。
万年先も、億年先も存在し続けることへの虚無感にどうして心を壊さずにいられようか。
妹紅が放浪の果てに幻想郷にたどりつき、輝夜と邂逅したとき、既に彼女の精神は崩壊しかけていた。
永琳が調合した薬は輝夜と永琳自身の精神を永遠に安定させた。その薬の効果が、妹紅には同じようには効かなかった。
定期的に飲み続けなければ、自身の思考に押しつぶされて――こうなるのだった。
「慧音も探してたわよ。あんまり心配させてはいけないわ」
輝夜は妹紅の身体を後ろから抱き起こし、懐から櫛を取り出すと彼女の髪を梳き始めた。
「今日は薬を持っていないの。さっき、兎にもってくるよう言ったから、もう少しの我慢よ」
妹紅の髪の毛は美しいとは言えない。あちこちが枝毛になり、水分は失われて櫛がひっかかる。輝夜は丁寧に梳き続ける。
「今日ね、死ぬ夢を見たの。貴女に殺される夢」
妹紅に自分の声は届いているのだろうか。わからない。
ただ、心の中では記憶が異常な反応を起こして暴れ回り、思考は闇から闇へと飛び跳ね回ってとどまることなく、彼女の精神を永遠に蝕み続けるのだという。
「夢の中でね、貴女、笑ってた。とっても優しそうな顔。わたしも笑ってたと思うわ。
あのね、夢って匂いがするのね。甘い香り。とってもいい気分だった。
やっとこれで楽になれるって。貴女が私に幸せをくれるの。やっと死ねるんだねって。
もう生きなくてもいいんだねって。でも貴女を残して私だけ解放されるなんて。
ごめんねごめんねって謝りながら私は死んでいったの」
妹紅の毛先はぼろぼろで、櫛をいくら通してもきれいになりそうになかった。あとで慧音に舶来物の高価なシャンプーとリンスをあげようかしら、と思った。慧音からなら妹紅も受け取るだろう。でもこの子、ちゃんとお風呂入れているのかしら。里の人間ともいまいち仲良くなりきれていないみたいだし、銭湯なんて行かなそうだ。その辺も慧音に頼んでおこう。
「髪は女の命なんだからね」と小さく囁いた。
「あら、貴女、リボンはどうしたのかしら」
輝夜は妹紅の身体をまさぐる。その身体は輝夜と同じく悲しくなるくらい華奢で、体幹は薄く、腕は細かった。しかし、この頼りない身体で永遠を過ごさねばならないのだった。
蟷螂の斧だと思った。
月を知っている輝夜は、宇宙の大きさを知っている。
無限に広いこの宇宙で無限に小さい魂と身体だけを味方に無限の時間と闘っていくのだ。
諦めと絶望の入り交じった苦笑が口の端を歪めた。
リボンは妹紅のモンペのポケットに入っていた。
くしゃくしゃになっていたそれを手のひらで挟み込み、なんとか皺をとろうとする。
きれいにはならなかったが、「あとで慧音にアイロンかけてもらいなさいね」と呟き、皺の残っているリボンで妹紅の髪を飾る。
あまり慣れていないので、リボンは斜めに傾いて、不格好になってしまった。
いつもの凛々しい妹紅を思い出す。自分の力では妹紅の髪すらまともに整えられないのだと思うと、こんな小さな事なのに涙が出るほど切ない気分になった。
ブラウスの裾をモンペに押し込み、サスペンダーで釣る。座ったままの体勢なのでうまく行かず、やはり変な格好になってしまった。
輝夜の力では妹紅の身体を持ち上げることはできないので、これで勘弁してもらおう、と思った。妹紅の髪の毛をかき上げ、その耳元に「ごめんね」と囁いた。
先ほどの野ウサギが首に巾着を下げて戻ってきた。
巾着の中から薬のビンを取り出すと、「ありがとう」と野ウサギの頭を撫でた。
野ウサギは会釈するようにぴょこんと頭を下げると、竹林の奥へと駆けていった。
妹紅の身体を後ろから抱きしめる。
思い切り息を吸い込んだ。
土の匂い、汗の匂い、妹紅の肌の匂い。
やっぱりお風呂あんまり入っていないみたい。うちのお風呂には入りにきてくれないのかな。駄目かな。私がいないときならいいのかな。でも嫌がるよね。何度も殺し合いして、きっと私のことはずっとずっと憎んでいるんだよね。
もう千三百年も前のことだから、そろそろ許してくれないかな。
たった千三百年だもの、まだ許してくれないよね。
私たちはいつまで苦しむのかな。
死ねれば楽になれるのにね。
これからもずっと殺し合いするのよね。
何かの間違いでほんとに死ねてしまったらどうしよう。
残された方は、どうするんだろう。
ねえ妹紅。
これほどの苦しみを受けるほどの罪を、私たちは本当に犯したのかなあ。
私と永琳はともかく。
ねえ、妹紅。
貴女は、少なくとも貴女は。
「こんな目に遭うほどの罪を貴女は犯していないのに」
ゆっくりと妹紅の身体を横たえる。
瓶の蓋を開けると、輝夜はその中の液体をくいっと自分の口の中に流し込んだ。
妹紅の首に腕を回して上を向かせる。
生気のない乾いた唇。
感情のない開けたままの目。
その目を手でそっとふさぐ。
ゆっくりと顔を近づける。
唇を重ねた。
かさかさして薄い唇。
でも、これが妹紅の唇。
ゆっくりと液体を妹紅の口の中へと流し込む。
妹紅の喉がコクリと鳴った。
唇を離すと、輝夜は妹紅の頬を撫で、ほうっと息を吐いた。
「ねえ。この前、永琳が危篤の人間を看たの。
重い病気だったんだけど、末期的な症状もでていて、
永琳も手の施しようがなかったの。
その患者がね、言うのよ、死にたくない、死にたくないって。
もっと生きたいって。
別れたくない家族がいたのかもしれないわね。
未来を見たい子供たちがいたのかもしれない。
まだやりたいことがあったのかもしれない。
未練があったのかも。
不安や心配を残してたのかも。
どうであれ時間は進むわ。
その先に希望が見えている人は、死にたくないっていうのよ。
死にたい死にたいって言ってる私は贅沢なんだと思う?
私たちには時間が進んだその先に、希望もないかわりに不安も心配もないわ。
死がなければ生もない。
不安や心配がなければその逆もない。
なんにもないの。
なんにもないわ。
なんにもないのよ。
その患者は死にたくないって言いながら死んだわ。
ねえ、妹紅。
私はその患者が幸せだったと思う。
だって、死にたくないほどこの世の中が良いものに見えていたのだもの。
それほどの幸せってあると思う?
死んで去りたくない世界。
貴女にある?
私にはないわ。
私にはない。
死んで去りたい世界しかないわ。
私も、死にたくないって言いながら死ねる世界を手に入れたい」
妹紅は眉をピクリと動かして、「うんっ……」と呻いた。
開いたままだった目を今は閉じ、悪夢にうなされているかのような苦悶の表情を浮かべている。
薬が効いてきたのだろう。
あと小一時間もすれば薬の効果で妹紅はいつもの妹紅になる。
小さな身体を炎で包み、皮肉な笑みを浮かべつつ、にくまれ口を叩いては輝夜を殺そうと元気に襲いかかってくる。
「今日はそんな気分になれないから帰るわ。じき慧音がここに来る。
お風呂、入れてもらいなさいね。
……なんなら、うちにきたっていいんだから」
妹紅をそのままに、輝夜は竹林の中を永遠亭へと歩き始めた。
まだ日は高く、月は見えない。
いつの日か、死が私を救う時がくるだろうか。
甘美なる願い。
母親のように温かい手でこのくそったれな世の中から私を連れ去ってくれる死。
決してありえないことは知っている。
でも。
そのくらいの希望はもってもいいんじゃないかと思った。
薬で自分を騙しているんだもの。
もう一つくらい自分を騙してもいいはず。
明日またここに来よう。
そして妹紅に殺してもらおう。
この身体を引き裂かれ、脳が痺れるほどの痛みを味わい、竹林中に響き渡るほどの叫び声をあげてやろう。
ひょっとしたら二度と目を覚まさないかもしれない。
きっとその日がくると信じよう。
殺されても死なない小さな身体と薬なしでは正気を保てない弱い心と共に無慈悲な世界で永遠の日々を送っていくのだ。
嘘の希望をひとつ持つくらい、許されるだろう。
嘘にすがってこれからも過ごしていく。
嘘だけが、彼女の友人だった。
〈了〉
現実のものとは思えぬほど整った顔立ちの少女。
老婆のように白く長い髪が、乱れて地面にうねっている。
彼女は白いブラウスに赤いモンペを身につけていた。
モンペを止めていたはずのサスペンダーは外れて、蛇のように髪の上を這っている。
少女の懐を寝床にして褐色の野ウサギがうつらうつらとしていたが、何かの物音を聞いたのか耳をピクンとそばだてると身を翻し、竹林の奥へと消えていった。
少女の姿は打ち捨てられた人形のようだった。
彼女の周りだけは時が止まっているかのように思われた。
強い風が吹く。
竹林全体がまるでそれがひとつの生き物であるかのように風とともに揺れる。
竹の葉がさわさわと泣いた。
遠くで鳥が歌っている。
名も知らぬ虫が彼女の頬を這い上る。
だが彼女はぴくりとも身体を動かさない。
透き通るように白い肌には血の気がなく、生きているようには見えない。
その上を這いずり回る虫も興味を失ったのかどこかへと去った。
開いてはいるが何も見ていない少女の目は本物の人形のようでもあり、また死体のようでもあった。
輝きのない瞳からは何の感情も読み取れなかった。
「探したわよ、妹紅」
蓬莱山輝夜は、白髪の少女の顔をのぞき込み、冷たい声で言った。
妹紅と呼ばれた少女は何の反応も返さない。
「殺していいのかしら」
妹紅は何も言わない。
「殺すわよ」
輝夜は妹紅の首に手をかける。輝夜の小さな手のひらでも簡単に絞められるほど細い首だった。
手のひらから妹紅の体温と血液を巡らせる心臓の鼓動が感じられた。
手の力をだんだんと強めていく。妹紅の脈拍はあくまでも落ち着いていた。それは輝夜を悲しくさせるリズムだった。
妹紅は生きている。生きてきた。生きていく。これからもずっと。
妹紅は死んでいる。死んでいた。死んでいく。永遠に、輪廻の輪へと解き放たれることもなく。
私も同じだ、と輝夜は思った。影のない世界には光もなく、死のない世界には生もない。私たちはそんな残酷な世界に生きている。いや、ただ存在している。
輝夜は妹紅の首から手を離し、彼女のそばにぺたりと座った。
妹紅の髪の毛を撫でる。
千年以上前、それは緑なす美しき黒髪だった。
だが絶望の千年を経て色を失い、艶を失い、輝きを失った。
今はもう、抜け殻となってかたちだけが残っている残滓にすぎなかった。
それでも輝夜はその髪を撫で続ける。
白髪の少女は意志を持たぬただの物であるかのように、ただじっとしていた。
「永琳の薬、飲み忘れたのね」
自分もこうなっていたかもしれないのだと輝夜は思った。
いや、こうなるべきだったのだ。
永琳の調合する薬なしでは一分とまともな精神ではいられない。
万年先も、億年先も存在し続けることへの虚無感にどうして心を壊さずにいられようか。
妹紅が放浪の果てに幻想郷にたどりつき、輝夜と邂逅したとき、既に彼女の精神は崩壊しかけていた。
永琳が調合した薬は輝夜と永琳自身の精神を永遠に安定させた。その薬の効果が、妹紅には同じようには効かなかった。
定期的に飲み続けなければ、自身の思考に押しつぶされて――こうなるのだった。
「慧音も探してたわよ。あんまり心配させてはいけないわ」
輝夜は妹紅の身体を後ろから抱き起こし、懐から櫛を取り出すと彼女の髪を梳き始めた。
「今日は薬を持っていないの。さっき、兎にもってくるよう言ったから、もう少しの我慢よ」
妹紅の髪の毛は美しいとは言えない。あちこちが枝毛になり、水分は失われて櫛がひっかかる。輝夜は丁寧に梳き続ける。
「今日ね、死ぬ夢を見たの。貴女に殺される夢」
妹紅に自分の声は届いているのだろうか。わからない。
ただ、心の中では記憶が異常な反応を起こして暴れ回り、思考は闇から闇へと飛び跳ね回ってとどまることなく、彼女の精神を永遠に蝕み続けるのだという。
「夢の中でね、貴女、笑ってた。とっても優しそうな顔。わたしも笑ってたと思うわ。
あのね、夢って匂いがするのね。甘い香り。とってもいい気分だった。
やっとこれで楽になれるって。貴女が私に幸せをくれるの。やっと死ねるんだねって。
もう生きなくてもいいんだねって。でも貴女を残して私だけ解放されるなんて。
ごめんねごめんねって謝りながら私は死んでいったの」
妹紅の毛先はぼろぼろで、櫛をいくら通してもきれいになりそうになかった。あとで慧音に舶来物の高価なシャンプーとリンスをあげようかしら、と思った。慧音からなら妹紅も受け取るだろう。でもこの子、ちゃんとお風呂入れているのかしら。里の人間ともいまいち仲良くなりきれていないみたいだし、銭湯なんて行かなそうだ。その辺も慧音に頼んでおこう。
「髪は女の命なんだからね」と小さく囁いた。
「あら、貴女、リボンはどうしたのかしら」
輝夜は妹紅の身体をまさぐる。その身体は輝夜と同じく悲しくなるくらい華奢で、体幹は薄く、腕は細かった。しかし、この頼りない身体で永遠を過ごさねばならないのだった。
蟷螂の斧だと思った。
月を知っている輝夜は、宇宙の大きさを知っている。
無限に広いこの宇宙で無限に小さい魂と身体だけを味方に無限の時間と闘っていくのだ。
諦めと絶望の入り交じった苦笑が口の端を歪めた。
リボンは妹紅のモンペのポケットに入っていた。
くしゃくしゃになっていたそれを手のひらで挟み込み、なんとか皺をとろうとする。
きれいにはならなかったが、「あとで慧音にアイロンかけてもらいなさいね」と呟き、皺の残っているリボンで妹紅の髪を飾る。
あまり慣れていないので、リボンは斜めに傾いて、不格好になってしまった。
いつもの凛々しい妹紅を思い出す。自分の力では妹紅の髪すらまともに整えられないのだと思うと、こんな小さな事なのに涙が出るほど切ない気分になった。
ブラウスの裾をモンペに押し込み、サスペンダーで釣る。座ったままの体勢なのでうまく行かず、やはり変な格好になってしまった。
輝夜の力では妹紅の身体を持ち上げることはできないので、これで勘弁してもらおう、と思った。妹紅の髪の毛をかき上げ、その耳元に「ごめんね」と囁いた。
先ほどの野ウサギが首に巾着を下げて戻ってきた。
巾着の中から薬のビンを取り出すと、「ありがとう」と野ウサギの頭を撫でた。
野ウサギは会釈するようにぴょこんと頭を下げると、竹林の奥へと駆けていった。
妹紅の身体を後ろから抱きしめる。
思い切り息を吸い込んだ。
土の匂い、汗の匂い、妹紅の肌の匂い。
やっぱりお風呂あんまり入っていないみたい。うちのお風呂には入りにきてくれないのかな。駄目かな。私がいないときならいいのかな。でも嫌がるよね。何度も殺し合いして、きっと私のことはずっとずっと憎んでいるんだよね。
もう千三百年も前のことだから、そろそろ許してくれないかな。
たった千三百年だもの、まだ許してくれないよね。
私たちはいつまで苦しむのかな。
死ねれば楽になれるのにね。
これからもずっと殺し合いするのよね。
何かの間違いでほんとに死ねてしまったらどうしよう。
残された方は、どうするんだろう。
ねえ妹紅。
これほどの苦しみを受けるほどの罪を、私たちは本当に犯したのかなあ。
私と永琳はともかく。
ねえ、妹紅。
貴女は、少なくとも貴女は。
「こんな目に遭うほどの罪を貴女は犯していないのに」
ゆっくりと妹紅の身体を横たえる。
瓶の蓋を開けると、輝夜はその中の液体をくいっと自分の口の中に流し込んだ。
妹紅の首に腕を回して上を向かせる。
生気のない乾いた唇。
感情のない開けたままの目。
その目を手でそっとふさぐ。
ゆっくりと顔を近づける。
唇を重ねた。
かさかさして薄い唇。
でも、これが妹紅の唇。
ゆっくりと液体を妹紅の口の中へと流し込む。
妹紅の喉がコクリと鳴った。
唇を離すと、輝夜は妹紅の頬を撫で、ほうっと息を吐いた。
「ねえ。この前、永琳が危篤の人間を看たの。
重い病気だったんだけど、末期的な症状もでていて、
永琳も手の施しようがなかったの。
その患者がね、言うのよ、死にたくない、死にたくないって。
もっと生きたいって。
別れたくない家族がいたのかもしれないわね。
未来を見たい子供たちがいたのかもしれない。
まだやりたいことがあったのかもしれない。
未練があったのかも。
不安や心配を残してたのかも。
どうであれ時間は進むわ。
その先に希望が見えている人は、死にたくないっていうのよ。
死にたい死にたいって言ってる私は贅沢なんだと思う?
私たちには時間が進んだその先に、希望もないかわりに不安も心配もないわ。
死がなければ生もない。
不安や心配がなければその逆もない。
なんにもないの。
なんにもないわ。
なんにもないのよ。
その患者は死にたくないって言いながら死んだわ。
ねえ、妹紅。
私はその患者が幸せだったと思う。
だって、死にたくないほどこの世の中が良いものに見えていたのだもの。
それほどの幸せってあると思う?
死んで去りたくない世界。
貴女にある?
私にはないわ。
私にはない。
死んで去りたい世界しかないわ。
私も、死にたくないって言いながら死ねる世界を手に入れたい」
妹紅は眉をピクリと動かして、「うんっ……」と呻いた。
開いたままだった目を今は閉じ、悪夢にうなされているかのような苦悶の表情を浮かべている。
薬が効いてきたのだろう。
あと小一時間もすれば薬の効果で妹紅はいつもの妹紅になる。
小さな身体を炎で包み、皮肉な笑みを浮かべつつ、にくまれ口を叩いては輝夜を殺そうと元気に襲いかかってくる。
「今日はそんな気分になれないから帰るわ。じき慧音がここに来る。
お風呂、入れてもらいなさいね。
……なんなら、うちにきたっていいんだから」
妹紅をそのままに、輝夜は竹林の中を永遠亭へと歩き始めた。
まだ日は高く、月は見えない。
いつの日か、死が私を救う時がくるだろうか。
甘美なる願い。
母親のように温かい手でこのくそったれな世の中から私を連れ去ってくれる死。
決してありえないことは知っている。
でも。
そのくらいの希望はもってもいいんじゃないかと思った。
薬で自分を騙しているんだもの。
もう一つくらい自分を騙してもいいはず。
明日またここに来よう。
そして妹紅に殺してもらおう。
この身体を引き裂かれ、脳が痺れるほどの痛みを味わい、竹林中に響き渡るほどの叫び声をあげてやろう。
ひょっとしたら二度と目を覚まさないかもしれない。
きっとその日がくると信じよう。
殺されても死なない小さな身体と薬なしでは正気を保てない弱い心と共に無慈悲な世界で永遠の日々を送っていくのだ。
嘘の希望をひとつ持つくらい、許されるだろう。
嘘にすがってこれからも過ごしていく。
嘘だけが、彼女の友人だった。
〈了〉
永琳や妹紅は、彼女にとって友たりえないのでしょうか。退廃的なこの話の中で、この最後の一文が一番悲しいと思いました。永遠を共有する人たちの間でも、友人と思えないなんて。
言い回しが良かった。
特に、
>無限に広いこの宇宙で無限に小さい魂と身体だけを味方に無限の時間と闘っていくのだ。
の前後の言い回しが素敵。