やってしまった。
油断した後悔と一緒にレミリアの白い頬に小さな汗が垂れる。
自分の口元へ差し出された銀色のフォークをそのままに、幼き夜王は動揺を隠せなかった。
そんな体裁よりも、これへの対応を懸命に考えていたのだ。
しかし、焦る心では、少しもよい考えは得られなかった。
+++
この日、久しぶりにテラスでお茶をしたくなったレミリアは咲夜に銘じてお茶とケーキを作らせた。
そのあと出来たケーキを外に運ばせて用意された椅子に座り、お茶を楽しみながらゆっくりと優雅に妖精メイドのドジを見たり、花に水をやる門番を観察したりするのがいつものお茶会だ。
しかし今日は少し勝手が違った。
咲夜の出したケーキがクセモノだったのだ。
名はミルクレープ。
こいつはクレープ生地と生クリームを何重にも重ね作られたあまーいケーキであり、レミリアの好物のひとつである。
そして食べにくい。
少し力の入れ方を間違えれば崩れ、慎重に口へ運ばないと落ち、口へ入れるときもクリームがつかないよう気をつけねばならない。
レミリアはまだ500年ほどしか生きていない少女である。
ミルクレープのように、その道を修めたプロですらミスをするようなお菓子相手だとさすがの吸血鬼も苦戦は必至。
かといって、悪魔の館の主がそこらへんの495歳児のように口にクリームをつけていたらきっと笑われてしまうだろう。
だがこのミルクレープを食べないなどあり得ない。
それは彼女にとって敗北に他ならぬのだ。
敗北の二文字など崇高な吸血鬼にあってはならない。
偉大な吸血鬼レミリアは焦らなかった。
ならばと言わんばかりに指を鳴らす。
ぱっつんと可愛らしい音が鳴り、誰も反応してくれなかった。
「……咲夜」
「え? ああはい、かしこまりました」
レミリアは発想を変えた。
自分で食べると失敗するのなら、従者に食べさせてもらえばいい。
全ての妖怪から畏怖される吸血鬼らしい非の打ちどころのない考えであると、思わずレミリアは心の中で笑う。
彼女は自分の恐ろしい発想力にある種の高揚感を覚えた。
まさに完全、満月のよう。
この発想力を応用すれば紅魔館だけでなく幻想郷全体までも、否、湖周辺くらいなら支配できる。
これが後の紅魔アイドル異変の原因となるとは、この時はまだ誰も知らなかった……。
確かに、その発想のプロセスのうちに「少し甘えたい」なんて心もあったことも否定できない。
重ねて言うが彼女はまだ500歳程度、普段は夜の王だと肩を張っていても心は甘えたいお年頃。
本来ならば孤高だ高潔だと言わず、もっと年相応の少女らしく振る舞ってもいいだろう。
彼女だってこの肩書きは重荷なのだ。
日々の重圧の中で出来た小さな憩いの空間で、思わず油断した幼心を誰が責めようか。
「失礼します。では、お口を」
「ああ」
咲夜が手際よくミルクレープを切っていく様をレミリアは脚を風になぐ小枝のように泳がせて待つ。
すぐに少しも崩れていないかけらが作られ、銀色のフォークに刺された。
食べやすいよう小さめに切られたそれはゆっくりレミリアの口に近づいていく。
視線だけ咲夜に向けるとほほ笑みながら手を添えてくれている。
レミリアはちょっと首を伸ばしてそれを迎え入れ――
「あぁ! 悪魔がメイドにあーんしてもらってる!」
――た瞬間、湖の氷精が声を上げた。
やってしまった。
銀色の柄を口から生やした状態で、時間を操っているわけでもないのにレミリアの時間が凍った。
「ふぁ、ヴぁあな! もごわたひふぁひぅかな……ごふごふん! (訳:ば、バカな! この私が気付かな……ごふごふん!)」
「お、お嬢様大丈夫ですか? 『はい、あーん』の方が良かったでしょうか?」
焦ってしまいむせるレミリアに咲夜は背中をさすりつつ、すばやく口に布巾を持っていく。
レミリアはこの時ばかりは咲夜の完璧な行動を恨んだ。
「おぉう、今度は口を拭いて貰ってる。あんた子供みたいね」
やっぱり言われた。
心の中で呟きながらレミリアの顔に汗が垂れる。
この強大な吸血鬼である自分が、「あーん」してもらっているところを、さらには口を拭かれているところまで見られた。
このようなことを言いふらされた日にはもう外に出られない、神社にも行けない。
どうにかせねば……。
動揺を隠しきれないまま吸血鬼の優秀な頭脳がフル回転する。
(殺すか?)
いやそれでは駄目だ。
妖精は自然の権化、殺されてもしばらくすれば再生する。
(黙っておくよう頼んでみるか?)
それもいけない。
妖精に頭を下げるなど恥の上塗りだ、第一チルノの頭で隠し事なんて高等な行動できるわけがないのだ。
(今ならなんとか誤魔化せるかもしれないわ)
レミリアは目の前のチルノの顔ををうかがった。
幸い騙しやすそうでバカそうな顔である。
あれは「あーん」してもらっていたわけじゃないと言い張ればなんとかなるのではないのだろうか、という考えがよぎった。
悪くないと思える。
レミリアは弁論に自信があった。
(これでいこう)
ここまでおよそ二秒。
たぶん全く無駄のない思考だったと思う。
「ねぇねぇ、いつもこういうことしてるの?」
「ん? ああいたのね妖精。そうよ、お嬢様のお食事はいつも私が」
「おいばかやめて」
「はい、なんでしょうかお嬢様」
「いや、あの……だな」
咲夜は向き直り無垢な笑顔をみせた。
彼女の発言に悪意はないらしい。
レミリアはそんな咲夜から思わず視線を外す。
まさかこのとびっきり可愛らしいほほ笑みに「発言が所々ヌケてるんだよ、黙ってろ」とは言えまい。
しかし恐るべき吸血鬼の思考能力はすでに次の一手を導いていた。
「……この氷精の分のお茶とケーキを」
「はい、かしこまりましたわ」
「ゆっくりでいいよ。二人で少し話したい」
完璧、人払いと口止めを同時にこなすベストな回答だった。
加えて客人をもてなす館の主としての余裕も見せつけることができた。
彼女は吸血鬼、頭も切れるのだ。
一礼をしてから下がる咲夜を横目に、レミリアはチルノに向き直って座りなおす。
チルノは何が嬉しいのか、ニコニコしたままテーブルに飾ってある花を見つめている。
逃げられる心配はなさそうなのでレミリアは顎を上げ、頬づえをつく。
そして斜め上に視線を移し、まずは言い訳をどう切り出すべきだろうかと考えてみる。
下手に切り出すと傷を広げかねない。
ここは慎重な切り出しが必要だ。
慎重かつ大胆に襲うのが吸血鬼のモットーである。
「ところでアンタさ、よく『あーん』してもらってるんでしょ? あれなんか楽しいの?」
氷精は大胆だった。
「……氷精、あれはな。その、あの、あ、ぁー……んなんていうのではなくて」
「え、そうなの?」
白いほっぺを朱色に染めながら、レミリアはやはり誤魔化すのが上策なのではないだろうかと思った。
この残念そうな頭の持ち主になら、それっぽい適当な単語を並べておけばどうにでも出来そうだ。
吸血鬼の儀式〈ジ・リチュアル・オヴ・ヴァンパイア〉には銀〈サ―クリッド〉のフォークをくわえた状態で人間〈サクリファイス〉にそれを抓ませ、そのまま血を吸って自分に従属〈サブジクション〉させてしまう恐ろしい方法があるのだ、とか。
少なくとも妹にはこの方法で凄いお姉ちゃんだと思わせることに成功している。
毎回勝手におやつ食べられ、「お前」扱いされ、最近お昼寝タイムに咲夜を取られることを除けば。
「でも口は拭いてもらってるんでしょ?」
「それがあったかッッ!!」
焦ったレミリアの強力な魔力が気迫となり、あたりの木々をなびかせ、テーブルにヒビを入れ、ついでにチルノのスカートの中を駆け巡った。
え、なに? というような顔をするチルノを無視し、レミリアは頭を抱える。
そうだ、そうなのだ。
いくら「あーん」を誤魔化そうとも、それを誤魔化せなければ意味がない。
二つとも誤魔化すなんて高等技術、いくら吸血鬼だろうとあと千年は専門書による単語を蓄えなければならない。
就寝前のパチュリー絵本タイムは短いのである。
それにしても、とレミリアは頭を抱えた腕の間からチルノを盗み見る。
こいつは自分の見落としたことを、さらりと言ってのけた。
レミリアの中で、もしやバカでないのだろうか。という考えが浮かんだ。
そうなるとマズイ。
誤魔化す作戦は、相手が人を疑わないバカであることが大前提である。
そうでない場合だと、必死に誤魔化そうとするこちらに対して心のうちで笑われるなんてことになってしまったりする。
まさか、そこまで読んだ上でバカの演技をしていたのだろうか。
それならば自分にとってかつてないほど恐ろしい敵となりえる。
そしておそらく、それは正しい。
レミリアの直感はそうだと言っていた。
レミリアは焦った。
思わず下唇を噛みしめる。
(こいつがバカでないとすると、この作戦は……。くそ、振り出しに戻ったか)
次の一手を考えなければいけない。
チルノはテーブルのティーカップを覗きこみそこに映る自分の顔を観察するという、バカの演技をしていた。
もうこちらにはバレているのに。
そこでまたレミリアの口の端に笑みが作られる。
そうだ、まだ負けているわけではない。
むしろ自分が相手の本性を見破り、一歩リードした状態だと言える。
(いやまてよ、バカでないなら……)
レミリアは新たな作戦を考え付いた。
「ねぇ、氷精」
「ん? あー、チルノよチルノ」
「ああそう。チルノ、あのね?」
レミリアはゆっくりと艶めかしい仕草でチルノの隣に座る。
そして柔らかく彼女の肩に手を置き、顔を耳の横まで近づく。
レミリアの暖かい息が、チルノの髪を少し揺らした。
頬が少しだけ赤くなる。
レミリアの潤んだ熱い視線はそれを見逃さない。
そして。
「あなた、欲しいものはない? 私が、なんでも叶えてあげるわ。なんでもよ」
悪魔の囁きだった。
普通、人妖の違いなく誰にでも欲はある。
悪魔はそんな人の欲から心の中へ入り込む。
ひとたび入ってしまえば、もう悪魔の思い通りとなってしまうのだ。
これは欲のないバカや、自分より高位の者には効かない。
だが先ほどチルノはバカではないとわかったし、かといって妖精ごときが自分より高位なはずはない。
そうなればこれは必勝法と言ってよかった。
「ね、チルノ。なんでもいいのよ?」
そう言ってチルノの手に自分の手を重ねる。
きゅっと小さく握ってやり、自分の胸元へ誘う、もう片手はチルノの首へ。
そして顔を近づける。
目の星の数まで分かる距離。
後はレミリアと目を合わせれば、チルノは魅了されて全て終わりだろう。
そして、二人の目があった。
「いや、特にない」
「なっ!?」
思わず間抜けな声が出た。
チルノは悪魔の魅了にかからなかった。
レミリアは魅了に掛からなかった理由を即座に理解し、嫌な汗を流した。
彼女はバカではない、つまり理由はひとつだ。
(そんな……私より高位の妖精なんて……っ!)
あり得なかった、いやあり得ないと信じたかった。
妖怪ですら自分より強いものなどいないと確信していた。
なのに、今妖精に負けた。
それはすなわち、必勝常勝しか許さぬ彼女の自尊心の崩壊、そして人生そのものを否定されたに等しかった。
急に肩の力が抜ける。
そして、目に押さえられない何かが込み上げてきた。
気付いた時にはもう駄目だった。
「ちょ……ねぇ、な、なに泣いてるのさ!?」
心配そうにするチルノの顔がにじんで見える。
悔しくて、恥ずかしくて、いろんな感情が一度に押し寄せ、顔がどうなっているのか自分で分からなかった。
これが、敗北か。
背中をさすろうとしたチルノの手を振り払う。
これ以上恥をさらしてたまるかというレミリアのせめてもの意地だった。
顔を膝にうずめ、世界を見ないようにする。
もうなにもかもが嫌だった。
さっさとこの化け物氷精を追い出して咲夜の膝枕で夢の世界に逃げ出したかった。
この際門番の腕枕でも、パチュリーのおっぱいでも、もう妹でもなんでもいいと思った時だ。
(あれ? いやまてよ)
しかし、泣いて逆に冷静になったのだろうか。
レミリアは自分のちんまい膝の上で最後の希望を見つけ出した。
まだ一つだけ方法が残っている。
出し惜しみした方がラスボスっぽくてカッコいいという理由で使わなかった能力が。
今まで使ったことないが、なんだか響きからして凄そうな能力が。
正直、能力の効果と使いどころもいまいち分からなくて使えなかった能力が。
そう、『運命を操る能力』が。
(私には、あるじゃないか!)
あまりにも使わないせいで完全に選択から消えていた。
そうだ、自分にはこれがある。
どんな強い妖怪だろうと運命という確率を超越した存在にはあらがえない。
「ふ、ふふふ……」
「おっ、泣きやんだ」
「ふんっ、残念だったなチルノ!」
「え?」
「私には最強の能力がある! この能力を使い、あ、ぁー……「あーん」……とか、そんなのをバカにされない運命を紡ぐのだ!!」
「何いってんのさ」
「余裕ぶっていられるのも今のうちだ、私は運命を変えて勝利する!――――」
――運命よ、変われ。
「お嬢様、紅茶とお茶受けをお持ちし」
「うおぉー!」
――カッ!――----………ッ。
+++
そして幻想郷は、紅い光に包まれた。
+++
梅雨も終わり、博麗神社では久しぶりの大宴会が行われていた。
夜だというのに神社の周りは松明で明るく、また、賑やかであった。
既に境内には飲みつぶれている者がちらほら覗えて、その幸せそうな顔に松明の揺らぎを映している。
異様なのは宴会をしているほとんどが見るからに人外であることだ。
しかしそれは神社ではいつものことであるし、誰もが知っていることであるため、これ以上は書かないこととする。
「ねぇ、魔理沙」
「なんだ霊夢」
その一角では実に珍しい人間の参加者が二人で喋っていた。
両人とも頬がほんのり赤く、かなり酒に酔っていることが分かる。
魔理沙と呼ばれた少女は眠そうな顔で隣の少女を見る。
その金色の髪が松明の明かりできらめいた。
「レミリアって、あんなんだっけ?」
「あー? ……あんな感じだろ。少なくとも最近は」
つまらなそうに、眠たそうに魔理沙は答える。
霊夢はお猪口にお酒をついで、それから首を傾げた。
「そうだっけ」
「そうだろ」
「……そうね」
あまり深く考えないこの少女は、違和感を振り払うように酒をあおった。
魔理沙のコップにも並々ついでやる。
そしてこの話題は終わり、またアルコールで内臓をいじめ抜く作業に戻るのだった。
以前なら異様な光景だったそれを見るもせず、参加者たちは気にせず酒を飲みほしていく。
「咲夜」
「かしこまりました。はい、あーん」
「あーん!」
ぱっつんと可愛らしい音の指鳴らしをする吸血鬼の、精神の幼児退行という異様な光景はもはや異様ではない。
元からそうであったかのように受け入れられていた。
もう誰も吸血鬼に「あーん」をバカにしない。
だって元からそんなもんだから。
むしろそれこそが正しいから。
運命は変わってしまったのだ。
大きな満月の下、バカみたいな騒ぎは未だおさまる気配はない。
いつものように明日の朝まで宴会は続くだろう。
とても楽しげに。
「咲夜、もう一回!」
「はい、あーん」
おわり
幼児退行してもお嬢様の魅力は衰えないどころかむしろ増大するから何の問題もない
はじまったな