○
夕焼けで世界が映えていました。湖はオレンジに燃えていました。
ゆるい風がふいてさざ波が起きます。さざ波は一定の角度を保ちません。一秒ごとに様変わりします。
そこに陽射しが降ると、あちらこちらへ光が反射します。
その光は白とか透明とかいう感じの色で、とてもまぶしい。わたしは手でひさしをつくりました。
夏が過ぎていました。過ぎたら、秋になります。けれども夏がなくなるわけではありません。
空気のなかに、夏のかけらがちらほらあります。目には見えませんが、はっきりと存在を感じます。
手応えも香りも音もない物質を、明確に受けとることができる。とても奇妙で、うれしく思えます。
秋は不思議な季節だと思います。真水のような、純な季節だからです。
冬のある日に外にでると、周囲が輝いて見えます。きらきらしています。
低い気温により、辺りに結晶が生まれているからなのかもしれません。
あるいは寒さで空気がきゅっと引き締まり、余分を削っているからなのかもしれません。
とにかく、秋にはそういうものがないのです。秋が来た。それだけで終わりなのです。
だからきょうもまだ秋ではない。長月から神無月へ変わろうかというころでは、まだ秋ではない。
じゃあ夏なのかといえば、首を傾げたくなります。夏はもう過ぎているのですから。
夏でもなければ秋でもない。もちろん春や冬なんかでもない。いったい、いまはいつなのでしょうか。
こんな微妙な時期に、わたしたちは秘密基地をつくりました。
§
その日も夕方でした。
わたしは湖のほとりに座っていました。そしてひとつの石をじぃっと見つめていました。
ぺしゃんこの石です。それだけならざらに見かけます。特徴があったのです。
「なあに、それ」
石だよ。拾ったんだ。ほら、なかが透けて見えるでしょう? めずらしいから、見てたんだ。
そんなぐあいに、パッとこたえがひらめきました。口を開く寸前、わたしは振り返ります。
さっきまでここにはわたしひとりしかいなかったのに、いつの間に誰か来たんだろう?
そういったふうに、驚いたのです。で、振り返った。声の主はチルノちゃんでした。
彼女は両手を背後にやり、身体を斜め前にかたむけていました。
首をすこしつきだしてもいます。わたしの手をのぞきこもうとする体勢です。
一方、表情はきょとんしています。目を丸くしているのはことわざ通りの意味ではないでしょう。
いったいなんだろうか。その疑いのこころが、目を丸くさせているにちがいありません。
全身をつかって、まさしく興味津々な体ができあがっています。
わらえてしまうくらい素直です。じっさい、わたしはわらいました。
そのわたしの応対に、チルノちゃんはまた疑問を持ったようでした。
「なにか顔についてる?」
「ううん、そういうわけじゃないよ」
石を手渡して、わたしは説明しました。
拾った場所――ここです。見つけた日――きょうです。どうして見てた――きれいだから。
ところが言い終わらないうちに、
「大ちゃん、これ、ほしいんだ?」
チルノちゃんはいかにも不思議そうな声色で言ってきたのです。
「どういうこと?」
「これ、もっとたくさんあるよ。ここにはないけど」
「え、そうなの。どうして知ってるの」
「だって、あたいが持ってきたんだもん」
「どこから?」
「連れていってあげようか?」
「うん。見たいな。だけどきょうはもう遅いし、明日に行こう」
わたしの提案はあまり好ましくなかったようです。
「べつにいいじゃない。それほど遠いわけじゃないんだし、いまから行こうよ」
「でも、凶暴な妖怪がでてくるかもしれないよ」
「あたいが誰だか、忘れた?」
「チルノちゃんでしょ」
「よくわかってるじゃないの。じゃあ、だいじょうぶよね」
そして彼女はさっさと行ってしまいました。
わたしたち妖精族のなかにあって、チルノちゃんの速さは随一です。誰も追いつけない。
一所懸命追いすがれば、引き離されはしません。抜くのはむりだけれど。
そんなわけで、はやく動かないと置いてけぼりにされてしまいます。
わたしはあわててチルノちゃんの背中めがけて飛びはじめました。
遠音に羽虫の鳴き声がなっています。エコーがかっているみたいに響いています。
輪唱という言葉を思いだし、いや考えている場合じゃないぞと、またがんばって飛びました。
あざやかにきらめいていた夕焼けが、みるみるうちに沈んでいきます。
§
目的地についたころにはすっかり夜でした。
森の近くで、生き物の気配がまるでない、ひっそりとした場所でした。
わりに広いし、大金持ちが別荘を構えていてもおかしくない雰囲気があります。
ここから湖を見ることはできませんが、においは風に乗ってやってきます。清々しさがあります。
チルノちゃんでなければ見つけられなかったでしょう。
ふつうの人間たち、あるいは妖精たちなら、妖怪や天変地異を怖れ、こんなところまで来られないから。
最近は巫女や魔女がすこぶる活躍していますが、彼女らは面倒くさがりとも聞きます。
たいしたできごともないのに、わざわざこんなところまでやってこないでしょう。
そういうほど、不親切な位置にあった、離島めいた土地でした。
ゆがみなく伸びる木がいっぱいあります。
でも枝葉が茂っていません。おかげでたいへん見通しがいい。
近いうち豪雨が降るだろうと推測されているそうです。捨てられた新聞に書かれていました。
どうやらその予報は正しいようで、影より暗い雲が、もくもくと空に浮いていました。
ふつうの雲とは様相が異なっています。なるほど、確かにそういったさまも雨雲らしい。
ふわり。そういう形容は彼には似合わないと思えます。むしろズシリとした重量感を与えてきます。
根を張って、居丈高にかまえていました。輪郭の大きさが、その印象をより強くさせています。
いま、星がちらついています。そこからの光はかぼそく、照明の機能は期待できません。
礼儀正しいと言えば聞こえはいいかもしれませんが、時には強気になってほしいものでした。
時間が過ぎ、雲が流れれば、星々は隠されてしまいます。
そうなると、もうわずかの光も届きません。だからもっと、強情なくらい光ってほしかった。
残念がりながら空を見上げていました。ふと気がつくと、チルノちゃんがいません。
きょろきょろ首を巡らせても見つかりません。どこに行ってしまったんだろう。
迷子になってしまった。困った。そうやって頭をかいていたら、声が聞こえてきました。
「おーい、なにしてるの。こっちだよ」
「あ、チルノちゃん。ごめん、ごめん。ぼうっとしてたよ」
「お目当てのブツがたんまりありますぜ」
変な言い回しは、どこかで聞いた台詞をまるまる流用したのでしょう。
前にも似たことがありました。
変わらないな。
思って、苦笑いしてしまいました。
そこは砂漠のような場所でした。
立ち並んだ木々の間をするりと抜けたら、とたんに視界が開けました。
横から前方に至る一八〇度がみんな砂でした。でこぼこもなく、一律平面を保つ砂の地面。
夏だったら、反射的に水を求めたがったかもしれない。視覚は完全に砂に埋められていました。
けれども暑くはありません。時期が幸いしました。そうです。いまは夏ではないのです。
でも、わたしがほんとうに驚いたのは別のことでした。
まるで太陽を通して世界を見るみたいに、風景が発光していたのです。
空中にいくつか点が設置され、その点が光る。そういう想像が頭をよぎります。
点は自動の性質をかかえています。空気から空気へ、東側から北側へ、自在にあばれます。
位置によって光の色はさまざまに変化しますが、いずれの色であってもかがやいていました。
わたしは夕焼けの湖を思い起こしました。
いまかがやいているの例の小石でした。あれは透けるのではなく、光っていたのです。
小石は無数にあります。無限にあるようにさえ思えます。
石がぺしゃんこだったのは、この場所に適応するためだったのでしょうか。
ふくれていたら、地面が平らでなくなる。だから、ぺしゃんこになった。ありえることです。
あらゆるものが光っています。わたしは見とれていました。
雲がさっきの場所から動いていませんように。
願います。だって、もしまだ星が見えていたら、世界のすべてがきらめきに満ちるから。
確認したくて上をむきたいのはヤマヤマだったけれど、できません。
この光景を、ひとときたりとも逃したくない。その思いが強くわたしを縛っていたためです。
きらきらしています。
初日の出の、どことない予感を秘めた光ともちがいます。
ありのままを受けて、ありのままに光っていました。
砂漠の中央にチルノちゃんはいました。
彼女も、暗いなかではいっとう光って見えます。
全身に氷が宿っているからなのでしょう。くわえて、いまは別の光もあります。
わたしの目に映るものすべてが、生きていました。
チルノちゃんの声がしました。
「ね、拾い放題でしょう?」
「それどころじゃないよ、チルノちゃん。すごいよ、ここは」
「なあに? 気に入ったの?」
「気に入ったのかといえば、確かにそうだけど……それどころじゃないよ」
「どうしたの、大ちゃん。やけに興奮してるじゃん」
「チルノちゃん、ここから石を持っていっちゃいけないわ。置いておきましょう」
「どうしてさ。ほしいんじゃないの」
「いらない。でも、無くしたいって意味じゃないの。ここにあるべきなのよ」
「意味がわかんないな。もっとわかりやすく言ってよ」
「むずかしいな、それは。とにかく、ね、やめよう。お願いだから。ね」
「ふうん。まあ、大ちゃんが言うなら。べつにあたいはいらないし」
言って彼女は前屈し、砂を手ですくいました。
砂は重力にしたがい、チルノちゃんの手皿の指の隙間から、さらりと落ちていきます。
軌跡が糸のようになめらかでした。
その砂のなかにも石が混ざっていて、滝状になった砂から、光が雑っぽく四方に散りました。
見ているうちに、子どもっぽい考えが浮かんできました。
「チルノちゃん、ここ、わたしたちの秘密基地にしましょうよ!」
§
数週間前にあったこのできごと以来、定期的にここに通うのが習慣になりました。
行く時間は夜が基本でした。
基本というからには例外もあるわけで、それはたいていわたしのわがままが原因でした。
夜に行けば、まぼろしさながらの幻想的な風景の一員になれる。よく理解しています。
かといって昼はきれいじゃないのかと訊かれたら、すぐに反対を表明します。
正午に訪れると、太陽の光のほうが強くて、地表のかがやきは微かになります。
そしてわたしは、その微かなかがやきも、とても好きだったのでした。
この点について理由を訊かれたら、こたえるのはむずかしい。好きは、好きでしかないからです。
重要なのは、わたしは昼でも夜でも、あの場所が好きだという、ひとつの事柄なのです。
チルノちゃんは秘密基地を文字通り秘密にしていました。
失礼なことを言います。
チルノちゃんはすごく口が軽いのです。内証だよと教えた内容は、一日経てば話題の的です。
秘密基地も、すぐに秘密でなくなるだろうなと思っていました。覚悟はできていました。
仮にそうなったとしても、わたしはよかった。どうせ、いずれは知られるだろうから。
ややこしい言葉をつかえば、いずれ知られることこそが、秘密基地の宿命なのではないか。
わたしはそんなふうに考えていました。だから、あっさりチルノちゃんに提案したのです。
ところがあの場所を知っているのは、まだわたしたちふたりだけ。
ルーミアちゃんやリグルちゃん、ミスティアちゃんもあそこを知りません。
七日に六度は見る砂漠。そこをわたしとチルノちゃんだけが自由に駆け、飛びます。
友人と、しかと共有できる場所があることが、すこし誇らしかった。
そして、チルノちゃんに謝りたい衝動がわきました。
ある晴れた日の朝、わたしは湖の上空で、彼女に言いました。
「チルノちゃん、例の場所、誰にもしゃべってないんだよね」
「うん。あたりまえじゃない。秘密の基地なんだから」
「そっか。ごめんね。わたし、てっきりみんなに言いふらすかと思ってた」
「あたいが? 失礼ねえ。でも、言われてみれば前科はあるかな」
「とってもね」
「謝らないよ。今回ダンマリ決めこめてるから、おあいこさ」
「うん、いいよ……ルーミアちゃんとか、いつも仲よくしてる子たちにもダンマリ?」
「大ちゃんは報せたいの?」
「チルノちゃんに任せる」
「じゃあ黙っとく」
その日、基地には行きませんでした。
ここ数日晴れつづきだから、景色がいつも一緒。飽きてしまうかもしれない。
ふたりの考えは同じでした。だから行きませんでした。
ふたりとも、怖れているのは飽きでした。
きっとチルノちゃんも、いつまでも内々にしておけるわけはないと気づいているでしょう。
べつにかまわないのです、新しいひとに見つかっても。
人数が増えて変わるようなものは、もともといずれ変わるはずだったものに決まっているから。
みんながみんな、基地に行くようになったとしても、わたしたちは残念に思わないでしょう。
ほんとうに口惜しく思うなら、飽きてしまったという、こころ変わりが出現すること。
不可思議なかがやきを発した景色と、それに見とれたわたし。
そしてわたしは、まるで発光する石たちに後押しされたかのように、秘密基地の提案をした。
行動の流れにためらいはありませんでした。そうせよと、こころが言っていたのです。
わたしが怖れているのは、そのこころが潮に流されていってしまうことでした。
チルノちゃんも、たぶん同じ思いのはずです。
ちがう思いなら、きょう行くかどうかで、軽い悶着があってもおかしくないはずです。
メンタルな話は論理めかした発想とはかけ離れています。それはわかっています。
けれども、たぶんこの考えかたは正しい。
証拠のない確信をわたしは持っていました。
もっとも、べつの考えもあって、それはたいへんわたしに都合がよい解釈でした。
チルノちゃんがわたしを親友と認めてくれていて、親友と秘密を共有したかった。
そんなうれしい想像も、ないではありません。
§
ようやく秋になりました。
湖の近くでふわふわしていると、早苗さんがやってきました。
「こんにちは。おかげんいかが?」
「とってもいいです」
「季節の変わり目だから、カゼには注意しないといけない」
「そうですね。でも、妖精だから、だいじょうぶですよ」
早苗さんはいつもの正装ではありませんでした。変な服を着ていました。
山吹と黒のチェックスカート。白いカッターシャツ。
「それはなんの衣装ですか?」
「衣装じゃないよ。制服よ。学校の制服」
「早苗さんは、人里の寺子屋に通っていたんでしたっけ」
「いいえ。もう忘れちゃったかな。わたし、もともと幻想郷の人間じゃないの」
「ああ……そうでした。すっかり忘れてました」
「ここに来てから、きょうで十五年になるわ」
「そんなになりますか。で、それはもともといた世界での制服?」
「そういうこと」
「ずいぶんヘンテコな服なんですね。へそが見えてる」
早苗さんは口に手をあて、けらけらわらいました。
「びっくりする話だけど、わたし、ちかごろ数年でずいぶん背が伸びたの」
「へえ、そうなんですか? 人間の背は、成人前後で伸びなくなると聞いていたんですが」
「ふつうはね。どうやらわたしは、ふつうではなかったみたい」
「いいことですよ。特別って言われたら、なんだかうれしいじゃないですか」
「かもしれない。で、ひさしぶりに制服を着てみたら、やっぱり小さかった」
「スカートの丈も、あまり褒められた長さじゃないですね」
「とても飛べないわ」
言ったとおり、早苗さんは飛びませんでした。
わたしが動いたら、その方向へと歩くようにしていました。
なんだか悪い気がしてきたので、わたしも飛ぶのをやめました。
ほとりをふたりで歩きます。風くらいしか目立つ音はなく、静かでした。
ほかの妖精はどうしたのと早苗さんが訊いてきました。
自由人ばかりなのでわかりませんねとわたしがこたえました。
会話が終わるとまた静かになって、わたしたちが砂を踏む音だけがなります。
まだ昼前で、景色はひどく明るいのに、道や音は空いています。
コントラストにおもしろみを感じていました。
「ここはいつもこんな感じ? つまり、これくらいガラガラなの?」
「ですね。立地が悪いですから、しかたありません」
「そうかな? 里のひとたちだって、来ようと思えば来られる気がするけど」
「正確に言うと、湖の位置がまずいという意味ではないんです」
わたしが紅魔館を指さすと、早苗さんはまた声を出してわらいます。
「わたしたちの神社と似たようなものだわ」
「山にあるんですよね」
「そう。ただの山だったら、きっとたくさんのひとが来てくれたと思う」
「妖怪の山。まあ、好んで行くひとはいませんよね」
「道の整備もされてないし。いろいろ負の要素が多かった」
「最近はどうなんですか」
「むかしと変わらない。みんな博麗神社を頼る。手立てを講じるのも、つかれちゃった」
内容とは逆に、早苗さんの表情は晴れ晴れとしています。
「でも、すくなからずわたしたちを信仰してくれるひともいるの。だいじょうぶ」
「日に日に増えていきますよ。きっとね」
「そうかな? わたしにはわからないな」
「早苗さん、がんばってますもの。わたし、知ってます」
「ありがとう」
「ふだん、あなたと会う機会はない。なのに、がんばってることがわかるんです」
「照れるな。わたし、それほどたいそうなことをしてるわけじゃないのに」
「努力は報われますよ」
「わたしもそう思う」
気がつけばほとりの端でした。行き止まり。
身体を反転させ、来た道をもどります。
自分に言い聞かせていることがある、と早苗さんが切りだしました。
「努力を報わせるために言い聞かせてるんだ。なんだかわかる?」
「想像もつきません」
「努力が報われないのは、周囲が努力を報わせなかった、という考えかた」
「あまり聞かない発想です」
「責任転嫁のように聞こえるかもしれない。でもね、真実そうだと思うの」
「早苗さんはそうやって、信仰を集めてきたんですね」
「ところがそうじゃない。ちがうから、いまはこういった考えをしてる」
「あ、なるほど」
「じつは跡継ぎができたの」
「跡継ぎ?」
「うん。熱心な子がいてね。わたしよりずっと年下。才能もある」
「ふうん……」
「わたしはあの子をサポートしなくちゃいけない。だから、ね」
早苗さんの話はどこか遠い世界のことのようで、実感がわきませんでした。
けれど、とても大事な事柄がふくまれていたのではないか。
直感でそう思っていました。
どれが大事な事柄なのかは、さっぱりわからないけれど。
「ごめんね、急に変な話して」
「いえ、全然」
そのときチルノちゃんがやってきました。
「こんにちは。ひさしぶりね」
「なに、その妙ちくりんな恰好。まあいいや。大ちゃん、秘密基地のことなんだけど」
「秘密基地?」
「あ」
こうして初めて第三者に秘密基地のことが知られました。
§
早苗さんを秘密基地に上げてみないかと言ったのはチルノちゃんでした。
へえ、そんな場所があるんだ。知らなかったな。
うん、おもしろそう。機会があれば案内してほしいな。
あの日、わたしたちは秘密基地について早苗さんに説明しました。
むやみやたらに隠すのはイメージが悪いし、早苗さんならという信頼もありました。
景観を荒らすとか、いきなりひとりで占拠しだすとか、そういう困ったこと。
早苗さんがそれらをやりはじめるなんて、想像できません。だから、もう教えました。
案内しようか。チルノちゃんが言いました。渋面なのは、教えてしまったからでしょう。
でも早苗さんは手を振り振り、
気にしないで。せっかくの秘密基地、ふたりで秘密にしておいて。
わたしも言いふらしたりしないから。情報が広まっていく心配はないよ。
そのこころづかいが、逆に案内させたいという気持ちをつくったのでした。
また、わたしは早苗さんの話を聞いてしまいました。そのお礼もしたいと思っていました。
できごとそのものだけを取りだしてみると、お礼なんて変です。
わたしが話を求めていたわけではないのですから。早苗さんが勝手に話しただけ……。
そうやってザックリ切り捨てることもできました。むしろそのほうが自然かもしれない。
でも、事の起こりなんてきわめて些細なことではないでしょうか。
そして、話の内容さえも、たいしたウェイトを占めません。
失礼な言いかたですが、そのように感じるのです。だからわたしはお礼がしたかった。
早苗さんがお話になったこと。内容が、細かいことはどうでもよく、おもしろかった。
おもしろいというのは、わたしの琴線に触れたと解釈できます。
ゴキブリを殺す。カマキリを殺す。蝶を殺す。
行為は同じで、ちがいを唱えろと言われたってできませんが、なにかがちがいます。
そのなにかが、早苗さんの話のなかに確かに存在していました。
ならばお礼をしてもおかしくはないと思います。
誰がなんと言おうとも、おかしくないはずです。
そうだね。いつか早苗さんも連れていこう。
わたしはチルノちゃんに賛成しました。
それから数日後、ひとりで秘密基地に行きました。
早苗さんをいつ誘っても、どこがああでそこがこうだと説明できるようにするためです。
思ってみれば、わたしもここについてあまり知らなかった。
不思議な砂漠がある。それしか知らなかったのです。
ほんとうはチルノちゃんと行こうと考えていました。
湖の周辺で、昼前からずっと待っていました。だけど彼女は来ませんでした。
気がつくと夜でした。雨はまだ止みません。
雨か。そうか。わたしはハッとしました。きょうは朝から雨が降り続いていました。
字面的には霧雨のほうが正しいかもしれません。雨粒が見えないほど小さいから。
けれども降水量で見れば、確かに雨でした。音はざあざあと鳴っています。
初めて基地を見つけた日の翌日、予報が当たって雨が降りました。
なんとそれ以来の雨だったのです。ここ最近はいやになるくらいの晴れ日でした。
雨か。わたしはさっきそう思いました。で、ひとつの連想が起きたのです。
――カエルがよろこぶだろうな。
なら、チルノちゃんはそちらで遊んでいるのかな。たぶん、そうだ。
気がつくのが遅かったなあとため息をもらします。
で、わたしはひとりで行くことにしたのでした。
砂漠につきました。きょうも光っています。
天気が天気なので、星はありません。かがやいているのは小石たちだけでした。
霧雨のすがたが見えました。小粒なのは変わっていませんが、見えるようになりました。
雨に光の輪郭が帯びたためでした。太陽の暈みたいでした。
落下中の雨粒すべてに、平等に光が行き渡るわけではありません。光らないものもあります。
だから、まばらなかがやきになっていました。切れかけの電球。そんなイメージがあります。
とはいえ、そういった最後の灯火とはまるでちがいます。
地面についたときも、跳ねたときも、雨粒は光るのですから。
考えて、ふと足元を見ました。足元はオーロラでした。
虹よりもはるかに多くの色が層を成しています。わたしの足はそこに浸かっていました。
すべての色は、淡く、かぼそかった。光は足元を覆ってはいません。
覆うに足る光量ではなかったのです。足をまぶしくさせるくらいしか、光れない。
わたしは顔を上げました。遠くを見ました。暗い。あたりまえです。夜だから。
そして左見右見しながら歩きました。
どこまで行っても背景は黒一色で、ここだけが光っています。
銀河だ、と思いました。
だけど現実はちがって、ほどなくすると立ち並ぶ木々の世界にたどりついてしまいました。
終わりの見えなかった砂一面の世界にも、端があったのです。
わたしは木々のほうを背にし、あらためて砂漠を見て、そしてまた身体のむきを変えました。
庭師がいるのかもしれないと疑ったのは最初だけでした。
整列したみたいにきちんと木が生えていたのは砂漠との境界あたりだけだったのです。
進めば進むほど、生え方は乱雑になり、幹に傷がついているようになったりしました。
わたしとチルノちゃん以外はここに来ません。なのに傷ついている。
風で石が飛び、直撃したのでしょうか。考えてもわかりませんでした。
現場を目撃しようとしばらく待ってみたものの、まず風がありません。
雨はあいかわらず降っています。身体もつめたくなってきました。
そのなかでじっと風を待つわたし。なんだかバカにされているように感じます。
嫌になって、奥へ奥へと進みだしました。
やがて森につきました。夜の暗闇以上の闇に包まれました。
あれっ。おどろいて、わたしはもどります。
ところがちゃんと振り返ったはずなのに、なかなか砂漠へ出られない。
幹の間を抜け、足元が雑草から砂へと変わったのに、砂漠につかない。
入口の、整列された木々にたどりつかないのです。
壁のない迷路ほどおそろしいものはありません。よすがなく進まなければいけないから。
罠にかかった気分でした。
しっかり区画されたものを見たとき、それをもっと知ろうとしてしまいます。
知るために、深みへ入りこむ。深みに進めば進むほど、だんだん荒れてくる。
でも、乱れに気づいたときにはもう遅いのです。
そのときには、区画されていたはずの場所が、すっかりわからなくなっている。もどれない。
そんなぐあいに、心理を巧妙についた罠。わたしはそれにかかった気分でした。
ようやく砂漠についたとき、雨は止んでいました。
雨の風景を見ていたぶん、かがやきがすこし鈍っているように思いました。
あらためてそこを見ているうち、ふと、
――飛べばよかったな。
あたりまえのことに、やっと気がついたのでした。
§
湖のほとりでのんびりしていると、早苗さんがやって来ました。
「こんにちは。きょうは、制服ではないんですね」
「やっぱり恥ずかしいからね。もうおばさんだし」
「その容姿でおばさんなんて言ったら、怒られますよ」
「お上手ね。ありがとう。ところで、時間、すこしいい?」
「奇遇ですね。わたしも用があるんです。チルノちゃんが来るまで、待っていただけます?」
やがてチルノちゃんがやってきました。
早苗さんがくすりとわらいました。
「なによ」
チルノちゃんが悪態をつきます。
「あら、誤解させちゃったわね。あなたを見てわらったんじゃないの」
「思いだしわらいですか?」
「いいえ。勘なんだけど、わたしたちの用事、同じな気がする」
「へえ。どうして?」
「だから勘だって。もし合ってたら、わたしも霊夢さんに似てきたってことかしら」
「それで、わらったと。なるほど。どちらから話しましょう?」
「じゃあ、わたしのほうからでいい?」
「どうぞ」
言ったものの、早苗さんはすぐにはしゃべりはじめませんでした。
わたしたちから視線をそらし、湖をながめていました。
湖を俯瞰しているようにも思えますし、水面の一部だけを見ているようにも思えます。
それが長いことつづいて、ついにわたしたちのほうへ向き直り、
「一晩、秘密基地に泊めてもらえないかな」
わたしとチルノちゃんが思わず声を出しました――えっ!
「リアクションから察するに、やっぱり同じ内容だったのかな」
「ですね。びっくりしました。ただ、こまかい点でちがいはあるんですが」
「どういうことかしら」
「泊めるつもりはなかったんです。案内しようかなって。ただそれだけのつもりでした」
「うーん。やっぱり宿泊はまずい?」
「そうじゃないんです。あそこは施設じゃないから、食べ物も寝床もいっさいないんですよ」
ははあ、と合点がいったふうに、早苗さんはなんどもうなずきました。
「つまり、泊まること自体はかまわない?」
「ええ、それはもちろん」
「じゃあ問題ないわ。食事は自分で用意するし、わたしは座りながらでも寝られる性質なの」
「そうですか……」
「だめかな。ひょっとして、座る場所や背もたれ代わりにつかえるものもない?」
「いや、女性がそうやって眠ることについて、考えていたんです」
「痛いところを突くなあ。なにぶん、がさつなもので」
と、チルノちゃんが割って入ってきました。
「それよりさ、どうして泊まりたいわけ? 家を追い出されでもしたの?」
口調も内容も年上に対する敬意がまるでなく、わたしはチョップでたしなめました。
早苗さんはさして気にしたようすもなく、
「修行なのよ。前に大ちゃんには話したわよね。跡継ぎの子について」
「ああ、はい。聞きました」
「勉強も一緒なんだけど……」
そこで早苗さんはやや時間を置き、つぎのような旨を語りました。
野生の鳥は、親鳥にえさの取りかたを学ぶ。
学習の第一歩は真似である。
親鳥がえさをにらむ位置、飛びこむタイミング、さらには食べかた。
それらすべて、見よう見まねで、まずやってみる。
失敗してしまうかもしれない。いきなり成功するかもしれない。
けれども成否は重要な問題でない。大事なのは真似をできたかどうかである。
いつか親鳥はいなくなる。あるいは子のほうから巣を離れる。
その際にいちども真似の経験がなかったら、子は生きていけない。
学ぶ機会は一生でない。タイミングがある。それを逃すのはきわめてまずい。
裏を返せば、タイミングさえまちがわなければ、あらゆる事柄は習得できる。
早苗には跡継ぎがいる。跡継ぎの子もわりと本気で、修行にも耐えている。
走るのが好きな人間だって、足につかれを覚えないわけではない。
つかれ。だるさ。
そういったもの以上のなにかを、走るという行為を通じたのちに得られる。
だから走るのが好きなのである。
では嫌いなひとはそれが得られないかと言えば、そうでない。
彼らは得たものに対して大きな意味を感じないのである。
苦労して手に入れたものに、意味がなかった。
つまり、骨折り損のくたびれもうけ。あるいは徒労。そういった感覚に陥る。
だから嫌いなのである。
跡継ぎの話だ。
跡継ぎは修行をする。毎日おこなう。だが弱音を吐かない。耐えている。
傍目から判断して、ずいぶん力量はついた。早苗も跡継ぎも満足している。
そろそろ一歩踏み出さねばならない。お互いそう思った。
しかしうまくいかなかった。
できないことがあると、跡継ぎは早苗を頼る。
頼られると、早苗は断れない。
甘えであり、甘やかしである。
早苗はどうしようかと悩み、むりやりその場をつくろうと決心した。
その場というのは、修行場の意味である。
「当日の朝、あの子に黙ってそっと抜け出るつもり。そのまま二、三日もどらない」
「さっき一晩って?」
「何日も同じ場所にいると、迷惑だからね。前もってほかのひとにも話してあって、宿はあるの」
「でも、もしかすると、ほんとうにどうしようもない事態になってしまうかも」
「それはないよ。だって、八坂様も諏訪子様もいるもの」
「あ、そうでしたね」
チルノちゃんは長い話に飽きてしまったようで、
「とにかくさ!」
一挙に切り上げにきました。
「よくわかんないけど、要は泊まれるかどうかでしょ? べつにいいよ」
「ありがとう。理由を訊いてきたのは、あなたのほうだけどね」
早苗さんがからかうと、チルノちゃんはむくれました。
「ほんとうにいいの?」
再確認を求められました。
「はい、いいですよ。早苗さんには、いつか来てもらいたいなと思ってましたから」
「そっか。光栄だな。それじゃあ、いきなりだけど、明日でもいい?」
「オーケーです」
「あの子にばれないように、やたら早い時間に出ることになるけれど」
「問題ないです。わたしたち、ここで待ってますので」
「なんだか全部受けいれてもらって、恐縮しちゃうね。わがまま言って、ほんとうにごめん」
おおげさにあやまる早苗さんは、なんだかかわいらしく見えました。
幻想郷に来て十五年経つと早苗さんは言っていました。
人間にとってその歳月は大きいのでしょうか。小さいのでしょうか。
いまの早苗さんを見ていると、小さいどころでないように思えます。
――ほんとうは早苗さんが来て、一日すら経っていないんじゃないかしら?
でも、そんなはずはありません。だって早苗さんは、こうも言っていました。
「ところがそうじゃない。ちがうから、いまはこういった考えをしてる」
「ちがう」という動詞のあとに、助詞「から」をつけられるようになった。
それを思えば、途方もない年月が経ったようにも感じられるのです。
§
つぎの日、早苗さんは同じ服装でやってきました。
「荷物はそのリュックだけですか? お食事とか、着替えとか」
「わたしは一日一食しか食べないの。着替えはまだ寒くないから、薄手を一着だけ」
わたしたちは移動を開始しました。時間はありすぎます。ゆっくり飛びました。
移動中は他愛ない話題が盛りあがりました。例を挙げることさえできない、他愛ない話題。
しだいにくだらないアイデアも尽きてきました。
沈黙がいよいよ近づいてきたそのとき、誰かが天気について触れました。
このところ晴ればかりで、嫌になったね。雨より晴れのほうがいいが、つづくと困る。
自分勝手な言い分かもしれないけど、気持ちはわかってくれるんじゃないかな?
確かそういった内容だったと思います。で、みんなが同意した。
そこから派生して、わたしは話題を思いつきました。
「早苗さんは天体観測をしますか」
「わたし? 幻想郷に来る前は、趣味でやってたかな」
「へえ。お金持ちだったんですね」
「そう来ると思った。いまのは嘘よ。見栄をはったの。望遠鏡なんて持ってなかった」
「夜空をながめてはいた、という意味ですか?」
「まあね。だけど、むこうの世界はまぶしすぎた。譬喩じゃなくてね。光が多すぎた」
「灯りがあちこちに設置されていたんですか」
「つまりはそういうことかな。星も月も、全然かがやいてなかった。急にどうしたの」
わたしは砂漠の銀河について説明しました。
早苗さんは、わたしのひと言ひと言に、ていねいに相槌を打って聞いてくれました。
「あんがい、例の小石がなくても光るのかもしれないね」
そしてそんな返事がありました。
「と、いうのは?」
「砂漠そのものが光りかがやいている。そんな可能性もあるんじゃない?」
「まさか」
「石も、砂漠にある間だけかがやくのかもしれない」
その考えは正しいかも、と思いました。
小石がぺしゃんこになっているのは、砂漠にあるためだ。
わたしのあの発想と、似通っていたから。
まず砂漠を見せました。
ふうん。早苗さんはぽつりとつぶやきました。それだけでした。
「お気に召しませんでした?」
「雨になると、確かにきれいになりそうだわ」
「ですね。かなりうつくしいですよ」
「でも、眠るには不向き」
と、チルノちゃんが不思議そうに、
「大ちゃん、雨の日にここに来たこと、あったっけ?」
「このまえ、ひとりで来たんだ」
「ええ、なによお、それ。誘ってくれたらよかったのに」
「誘おうと思ったよ。でもチルノちゃん、いつまでも経っても顔を見せなかったんだもの」
「……あ、そっか。この前の雨の日だよね? カエルを凍らせてたよ」
――罰当たり。
にやりとわらって言ったのは早苗さんです。
「うちの神様から天罰がくだるわよ」
それから森のほうへ行きました。
「この森はどこへつながっているの? 魔法の森?」
「そういえば、どこなんでしょう? わかんないです、ごめんなさい」
「ちょっと探検してみようかしら」
とはいえすぐに探検ははじまりません。
近辺をうろうろして、ひときわ太い幹を見つけました。
早苗さんはその根元に座りました。
「うん、いい位置ね。風も来るし」
「寝ます?」
「え?」
「早起きでつかれてるでしょう? それに、せっかくなんだからひとりでいたいのかな、と」
「なるほど……それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
「はい。またそのうちようすを見に来ますので、のんびりしていてください」
「なにからなにまで、ありがとう」
早苗さんはすぐにすやすやと寝息をたてはじめました。
§
わたしは修行の類をおこなったことがありません。させる側に回ったこともありません。
気ままに生きています。風が東にふいたから、あえて西に行く。そんなことはしません。
流れる時間のなかに身を放りこんでいました。
受身な生活。そこに疑問を持ったりしませんでした。
妖精はそういう生き物だと知っていたから。
けれどもそれはまちがっていたのかもしれません。
わたしは知ったつもりになっていただけではなかったか。
そんな奇妙なこころもちが、最近になって生まれてきたのです。
なにがきっかけだったのだろうと考えても、こたえはでません。
発端と終端のどちらが見えにくいか。発端に決まっています。
終わりはいつも決まっています。終わりのない物事などありはしない。
仮に終わりのないことがあったとしても、絶対に終わってしまうのです。
なぜなら、関係者がいつか場を去るからです。
その理由はさまざまです。飽きたから。ふぞろいな深みに耐えきれなくなったから。
なかには一生を捧げて、奥へ奥へと歩みつづけようとするひともいます。
しかし、そのひとも去るのです。死んでしまえば、去らざるを得ない。
死について思います。一般的に命が消えるという意味です。
ところが命について思うと、それはさまざまな意味があるのです。
辞書に載っている定義以上のものが、「命」この単語のなかにあるのです。
それは「なにか」としか表現できないものであり、きっと誰もがまだ知らない。
まさしく神のみぞ知る、なのでした。
とにかく終わりは目に見えるものなのです。
はじまりはどうかといえば、一概に見えるとは言えません。
歯車のひとつひとつを点検する者がいないからです。
ありとあらゆるできごとが、歯車を整え、歯車を外すのです。
わたしはある日、燃えるような夕焼けを見ました。
湖と、空と、わたしと、世界までも、オレンジ一色に染まりました。
照りつける陽射しは、陽射し以外の何者でもありません。
だけど、陽射しはわたしのなかで、陽射し以外の別物へと再形成されるのです。
種になるのです。
それから砂漠の銀河を訪れました。
この世のものとは思えない風景に、頭がしびれました。
しびれるほどの風景なのに、それは単に風景でしかないのです。
そして同じように、風景としてわたしが取りこんでのち、風景以外になるのです。
水であり、肥料です。あるいは耕すひとかもしれない。
で、夕焼けの種が育ちます。が、すくすくとは育ちません。
立方体をゆるやかな坂道に置いてみても進まないのと同じです。
これらの過程がいくどもいくども繰り返され、種はやっと生長を遂げるのです。
と、想像してはみますが、まちがっている可能性も充分あります。
ひょっとしたら種は、砂漠の銀河のほうだったかもしれないのです。
物事の進行は、時制と一致しません。だから発端は見えません。
わたしたちは目に見えないものをつねに受けいれ、つくり変えていく。
成長とは、それを数えきれないくらいこなしていくことなのです。
わたしとチルノちゃんはほとりにいました。
辺りは暗かった。見上げると、典型的な雨模様が広がっていました。
「早苗さん、傘あるのかな」
「じゃあ、つくろう」
「つくる?」
チルノちゃんは広げた両手をつきだし、なにやら唱えはじめました。
たちまち氷が空中に発生し、傘のかたちへと変化していきました。
「どうよ」
「つめたくて持てません。それに、溶けちゃうじゃない」
「ちぇ、せっかくつくったのに」
彼女は氷の傘を気に入ったようでした。消さずに、そのまま持っていました。
しばらくすると、
――そうだ!
と言って傘を前方にかまえました。
なにをするのかと見ていたら、そこから弾幕を発射しました。
でーん、でーん。奇妙なかけごえもあげています。
湖にむかって、チルノちゃんの爽やか色の弾が飛んでいきます。
形はてんで統一性がありません。
あるものは四角で、あるものは丸で、あるものはいわく言いがたい形でした。
ほうぼうに散ったそれらが着水し、しぶきがあがります。
どこからか見ていたのでしょう、妖精たちが寄ってきました。
至るところに噴水ができたみたいに、水がどんどんわきでています。
妖精たちはその近くでたわむれています。水をかけあったり、泳いだり。
チルノちゃんもいよいよエンジンがかかってきました。
弾幕量を一気に増やし、いまや大事件みたいなことになっています。
火山が噴火したら、これくらい烈しい噴煙が舞うのでしょうか。
ずっとそうしていたら、虹がかかりました。
かといって弾幕もおさまらなければ水しぶきも上がったままなので、見づらい。
ふきあがる波がわずかおさまる瞬間があります。そのポイントで、虹を見る。
認めたと思ったらまた水に隠れてしまいます。その連続。
虹の光は弱い。
あの小石たちのように、周囲までもかがやかせる強い光ではありません。
けれども虹は虹なりに光っています。
それにわたしはとても勇気づけられるのです。
長い間、わたしは虹を見ていました。
夜になって秘密基地に行くと、早苗さんがいませんでした。
チルノちゃんとふたりでうろつき回りましたが、見つかりません。
探検しようかなと言っていたから、森の奥へ行っているのかもしれない。
それとも緊急の事態があって、帰ったか。
どちらであるかは早苗さんに訊くしかなく、その早苗さんはいません。
せっかく傘を持ってきたのに、とチルノちゃんが毒づきます。
とはいえ雨は降っていません。
仮に早苗さんがいたとして、チルノちゃんはどうするつもりだったのか。
苦笑しつつ、声をかけました。
「そのうちもどってくるよ。わたしたちも、きょうはここで寝よう」
「そういや、いちどもここに泊まったことなかったね。基地なのに」
「だね。記念すべき第一夜」
わたしたちは寝床を探しました。
「いいところがないね。藁があったら敷けばすむんだけどな」
わたしが言うと、
「ねえ、砂のところで寝ない?」
チルノちゃんがハッとしたような顔つきで提案してきました。
「あそこで?」
「うん。きれいじゃん」
「見た目はそうだけど。でも、地面は砂だよ」
「うん?」
「だから、なんていうかな、砂だから、背中が汚れる」
「汚れるかなあ。あんなにきれいなのに」
「うーん」
議論が堂々巡りしそうになったので、とりあえず砂漠へ行きました。
きょうもぴかぴかしていました。
「ほらね。きれいでしょ」
「どうも論点がずれてるんだよ、チルノちゃん。空気はきれいだけどさ……」
「ここで寝たら、気持ちいいだろうねえ!」
わたしの話を聞かずに、さかさかとチルノちゃんは進んでいきます。
「ほら、大ちゃんも来なさいよ」
「もう。しょうがないなあ」
そうして砂の上に寝転びました。
チクチクするので、背中の下の小石は脇にやりました。
わたしたちの周りが宇宙でした。
悪く言えば三途の川、よく言えば天の川。
そういった風景が、わたしたちを包んでいました。
結果、わたしたち自身までもがかがやいていました。
いいえ、錯覚です。
わたしたちはかがやいていません。わたしたちの下に小石がないからです。
小石はすべて、わたしたちの周りにしかありません。
周囲の光によって、わたしたちはかがやいているのです。
早苗さんの言葉が頭をよぎりました。
周囲が努力を報わせなかった、という考えかた。
責任転嫁のように聞こえるかもしれない。でも、真実そうだと思う。
わたしは周囲になれたでしょうか。
周囲が努力を報わせなかった、という考えかた。
それについて、ぼんやり考えつづけていました。
いつ寝入ったのか、まったくわかりません。
§
ふっと目が覚めました。
早苗さんが立っていました。
「おはようございます」
「おはようなんて。早起きね。いま深夜よ。気がはやいな」
言われて首を動かすと、まだまっ暗でした。
確かにまるで寝た気がしません。ふらふらする。視界がにじむ。
チルノちゃんは幸せそうに眠っていました。
「昨日はようすを見に来られず、すみませんでした」
「え? ああ、いいよ、そんなこと。几帳面ねえ」
「言いわけになるんですが、一応、夜になってから来たんです。でも、いらっしゃらなかった」
早苗さんは手を口元にやって、くすくす。
「なんだか大ちゃんと話していると、むかしにもどった気になるな」
「え、どうしてですか」
「大人としゃべってるみたいだもの。丁寧語だし、話の中身が整理されてるし」
「そうかな……」
「どちらが年上だか、わからなくなっちゃう」
「わたしです」
「あ、そうか。大ちゃん、妖精なんだった」
「そうです、そうです。いまのは失言ですよ」
「あはは、ごめん。そうか。じゃあ、むかしにもどった気になって当然なんだね」
「と、いうと?」
「子どものころは、アタリマエだけど、年上のひととばかりしゃべるじゃない」
「いまは、そうでもないんですか」
「わたしの歳が上がったからね。下としゃべる機会が増えちゃった」
わたしは早苗さんの隣へ移動しました。
「銀河、見てたよ」
早苗さんの言葉は、発声とは思えませんでした。
喉が圧迫され、からだが不必要と判断した部分が吐き出された。
そういうイメージでした。受動的な発言。
「すごかった。きれいというより、すごかった。圧倒された」
「雨がやんでしまったのが残念です。雨の日もすごいのに」
「あの石はなんなんだろう?」
「さっぱりわからないです。でも――変なこと訊いていいですか」
「どうぞ」
「石を調べたいって気になりました?」
「ならなかった。不思議なんだけどね。やっぱり大ちゃんも?」
「はい。この石たちはそのままにしておいたほうがいい。そういう気がしています」
「石たち、か」
静かになりました。
風はありませんでした。虫の鳴き声も同じくありません。静かでした。
ふたり、黙って立ちつくす。音のない空間でそうしていると、孤島に来た気がします。
と、背後でジャリという砂の音が響いてきました。
小さな音でしたが、ほんとうになんの音もなかったので、必要以上におどろいてしまいました。
早苗さんもまったく同じリアクションを取りました。肩が一気につりあがる。
同時にふりかえりました。
チルノちゃんの姿勢が、仰向けから俯せに変わっていました。
わたしと早苗さんは顔を見合わせてわらいました。
空の奥の奥を見ようとしても、銀河系まではとてもむりです。
雲のせいでしょうか。雨は止んでいますが、雨雲はまだあります。
晴れだったら。
考えるまでもありません。絶対に見えません。
「魔理沙の家に行っていたの」
とつぜん早苗さんが言いました。
「言ったとおり、森を探検したのよ。そうしたら、やっぱり魔法の森につながってた」
「そのまま魔理沙さんの家へ」
「うん」
――魔理沙と会ったのはすごくひさしぶり。年単位で会っていなかったから。
――扉をノックして、魔理沙が扉を開けるまでの時間が、すごく長く思えた。
――わたしと魔理沙の目が合って、瞬間、ふたりともわらった。
――どちらさまですか、新聞配達員です、なんて冗談を言ってね。
――魔理沙さん。わたしはそう言った。むかしは彼女をそう呼んでいたから。
――すると魔理沙は苦笑いした。手を振り振り、やめろって言ってきた。
――「さん」やら「ちゃん」やら、もういいだろ。歳が歳だぜ。呼び捨てでいいよ。
――初めは抵抗があったのに、わたしはすぐに慣れてしまった。
――わたしは早苗で、彼女は魔理沙になった。
――積もる話がたくさんあると思ったけど、そうでもなかった。
――いざ会ってみると、話題なんてなにもなかった。
――となると、わたしたちがよく会っていたころの回想話になるのは自然の流れ。
――妖怪退治中に起きた珍事とか、そのころに会ったどちらかが知らないできごととか。
――そんなどうでもいい話を何時間もつづけるのだと思っていた。
――だけど、ふいに魔理沙が言ったの。
――よし、じゃあきょうは泊まるか。寝床を貸してやろう。
――わたし驚いたわ。だって、まだ二一時だったんだもの。
――はやすぎない? そう言ったら、最近はいつもこんなんだって。
――そのとき、ふとあなたから聞いた銀河のことが思い浮かんだ。
――どうしてかはわからない。とにかく銀河を思ったの。
――それからわたしが幻想郷に来る前によく見た夜空。あれも思った。
――わたしはふたつのちがいを見たくなった。
――で、魔理沙に言ったの。残念だけど、遠慮するわ。
「魔理沙さんは、どう返事されたんですか」
「なにも。二、三度うなずいて、わたしが家を出るときに、じゃあなって」
空が白んできました。
雨雲もいつの間にか消えています。
「もしも」
わたしは一旦そこで言葉を切り、あらためて、
「もしも時間がもっと遅かったら、泊まると言いましたか」
「きっとね」
背中に石の光を感じます。
朝になりました。
「お帰りになるんですね」
「そうね」
「昨日はけっきょくなにをお食べに?」
「じつはなにも食べてないの。魔理沙の家でも食べてない。ダイエットしてるみたい」
早苗さんはリュックを背負い、伸びをしました。
さあ、またあの子をたたきまわしてやろうかしらね。
わざとらしくそんな声まであげます。わたしはわらいました。
チルノちゃんはまだ寝ていました。
自分の周りも上空もやたらにまぶしいのに、気づかずぐっすり眠っています。
けっきょく、チルノちゃんと早苗さんはあまりしゃべってないなと思いました。
「あの、早苗さん」
「なにかしら」
最後に質問することにしました。
「正直にこたえてくださいね。ここは、どうでしたか」
早苗さんは数秒、目をそらしました。
やがてまぶたが落ち、すうと開き、こまったようにわらいながら、
「あまり、わたしには合わなかったみたい」
わたしはほっとしました。
「よかった。本心でこたえてくれて」
「嘘をついたら、大ちゃんは合わせてくれそうな気がしたの。それは悪いなって」
「そうですか」
「こたえは質問する前からわかってた?」
「なんとなく。表情が冴えていなかったものですから」
「そっか」
早苗さんはひとつ深い息を吐きました。
そして清々しい表情になり、大きな声で言いました。
着てくる服をまちがえたな!
制服を着てくればよかった。へその見える、変な制服を。
そうしたら、もっとここが居心地よかったような気がする。
「早苗、帰るの?」
そのときチルノちゃんが起きだしました。のろのろとこちらに近づいてきます。
「ええ、そろそろ」
「早いよ。まだ全然遊んでないじゃん」
「だって、あなたずっと寝てた」
「眠かったんだもんよう」
残念だけど、またの機会にね。
言って、早苗さんはわたしたちに背を向けました。
でも、すぐにこちらを見直して、
「チルノちゃん、ひとつ訊いてもいいかな」
「なに」
「わたしの服、似合ってる?」
早苗さんは自分の服の胸元をつかんで、言いました。
すこしの間を置いて、
「うん。すごく」
チルノちゃんがこたえました。
早苗さんは満足そうにほほえみました。
それを見て、わたしはなんだか泣きたくなりました。
§
冬になりました。
わたしたちは秘密基地に行かなくなりました。
飽きが来たからではありません。基地がなくなったからでもありません。
時間が流れ、季節がめぐり、わたしたちが生きている。
その経過のなかで、秘密基地に行かなくなることは、義務のように思われたのです。
けれども記憶のなかに、あの光景は残っているのです。
かがやく石。
きらめく砂漠。
足を照らすオーロラ。
そのなかで眠るわたしたち。
遠くからこれらをながめる早苗さん。
すべてがあるべき場所に配置されていました。
わたしたちが秘密基地に行かなくなるのもまた、配置の一部でありました。
もう、あそこへ行くことはないでしょう。
もう一度見たいと思いはします。
また行きたいなと空想もします。
でも行きません。
正確には、もう行けないのです。わたしにはそれがよくわかっています。
きっとチルノちゃんもわかっているでしょう。
もちろん、誰よりもわかっているのは早苗さんなのでしょうけれど。
さようなら、砂漠の銀河!
○
形容しがたいのですがとにかく良かった。
久々に良い「小説」を呼んだ気分です。
ああ、表現できないのがもどかしい
ボキャブラリーが無くて賛美できないのがもどかしいのですが、すげぇ
いやはや、いやはや。久しぶりにss読んでこの感覚を呼び起こされた気がします。眼福!
素晴らしい作品に出会えて嬉しいです。
次回は内容にも期待します!
様な文体がとても素敵で。とても良かったです。
ありがとうございました
小学生のお姉さんっぽい大妖精と、角が取れた早苗さんが良い感じでした。
柔らかく、そして優しい雰囲気と、どこか人とは違った、妖精らしい考えがしっかりとあらわれていたような気がします。
なんとも言い難い世界観、頭の中に浮かび上がってきました。
この、柔らかくも暖かい幻想郷が、私は大好きです。
たまにしか会えなくなったその友人を思い出しました。
妖精の好奇心、動かされる原動力。
そんなものがありありと書かれていてとても素敵な作品でした。
ありがとうございます。
体の底が燃えるよーな感動というか感慨を覚えたのは、久々でした。ありがとうございます。
霊夢でも魔理沙でも無く
早苗だけですね。
素晴らしいお話でした。
ありがとうございました。
早苗視点で見てみたいような、これはこれで終わらせたほうがいいような、どっちつかずな思いが。
大妖精の、柔らかい感じだけど確かな知性を感じさせるの口語体が印象的でイメージにぴったりでした。
自作も期待してます。
内緒だよと教えた~でしょうか
美しさは感じられたのですが、内容が少し退屈に感じられました
面白かったです、ありがとうございました。
しんみりとしたいいお話でした。
そしてなんだかわからないけどいい話しだった
美しく、不思議な話を堪能させていただきました。
なんというか…日常的で、のんびりと溶け込めました。
装飾が多い文章は多分合う人には物凄く合うと思うんだけど、
単純に展開のある物語を求めてる人から見ると、何故こんな迂遠かつ
必要の無い文章で満ち溢れてるんだろう、と読んでいてじれったくなる。
少々冗長な感じもしましたが面白かったです
なんだろうな、何とは無しに、大ちゃんの気持ちが分からなくもないってことは、俺も大人になったんだろうかな。
素晴らしいお話を、ありがとうございました。
個人的に知的でしゃべり方が柔らかい大ちゃんがすごくお気に入り。
これで真っ先に浮かんだのが鴨川会長でした。
早苗の言葉には全ての努力を報わせたい、報われるべきだ、という意思が、優しさが、垣間見えました。
そこには幾つもの成長を重ね、達観した、あるいは大人になった彼女の姿があるように思えました。
魔理沙の誘いを断って、大妖精には砂漠が合わなかったと話す早苗。
それは自分を偽らない強い生き方で、とても大人らしい姿でした。
砂漠の銀河という場所は、子ども時代のようなもの。
懐かしく、輝かしい日々だけど、そこはもう通り過ぎた場所。
話のテーマは「成長」なのかなと読みながら思いました。
努力については自分はそういった考えはなく、
積んだ経験は全て自分の血となり肉となっている、という考えです。
それが例え周囲との交わりの中でまったく役に立たないものだとしても、自分にとっては価値のあるものだと考えます。
つまり報われる、報われない、の基準はありません。
こんな考えだから話のような早苗が嫁に欲しくなるってものですね。
話的には雰囲気は良かったですが、冗長性を感じました。
妖精も「辞書」を見るのだな、と思ったり。
ちょっとこの大人っぽい大妖精の日常が気になります。
成長の中でいろんな種が育っていく。それはとってもいいことなんだけど、同時に砂漠の銀河に合わない、砂漠の銀河から遠い人物になっていく。
制服よりもいつもの服が似合って、また砂漠の銀河に合わぬ自分をどこか満足気に肯定する早苗を見て、大妖精がそのことに自覚的になって何だか泣きたくなったのかなと思ったり。
でも彼女たちが飽きでない心の変化で、ある種の明るささえをもたたえて砂漠の銀河に行かなくなったというのは幸せなことなんだろう。きっと時間の流れも成長も肯定的に捉えた証なんだから。
もう一度行くんじゃなくて、記憶に刻んで思い出すからこそ砂漠の銀河はそのいつまでもその輝きを失わずに在り続けることができるのかもね。
綺麗で幻想的で優しくて、ちょっぴり切ないお話でした。
大ちゃんが案内人を務めた事で、情景に幻想的なものが付加され、綺麗な話だと思いました