その出会いは――
……何だろう、ここ……
あの時から随分経ってしまった今でも、はっきりと思い出せる。
……薄暗くて、でも、何だか……
幼い私は、その扉を確かに開いて、
……すっごく、張り詰めてるみたいな……
そして、
「……あぁ? なぁんだぁ? ここはガキの入って来ていい場所じゃぁないぞぉ」
「……っ!?」
金色の髪を揺らして、頭の上に付いた目玉をぎょろぎょろ光らせて、お酒の匂いをさせて呑んだくれている、
「ここはぁ、神の坐す場所なんだからなぁ」
蛙に、出会ったのだ。
1
抜けるような、昼下がりの青の下で二人の女性が向かい合っていた。
二人の今いるその場所は、厳かな雰囲気を纏わせる豪壮な神の社の前、その広い境内の中。
「とりあえずはまあ、出迎え御苦労だったわね」
二人の内の片方が、まずはそう切り出した。深い紫の頭髪、肩に届く程度の長さのそれを膨らませるようにした髪型の、荘厳な、赤を基調とした服を身に纏い、巨大な注連縄を背に負った女だ。
女は本殿を背後に構え、そこへ続く階段の途中へ腰を降ろし、片足の脛をもう一方へ乗せるようにして組み、その上へさらに肘をついて手に顔を置き、気怠そうな雰囲気を漂わせながら向かい合うもう一人を見ていた。
「ええ、まったく……久々の遠出は、老体には堪えました」
そう応えてもう一人。紫髪の女の正面に立ち、苦々しい笑いを零しながら応じる、白の上衣と淡い青をした袴を身に付けた、薄く緑を混ぜたような白髪を直ぐに垂らした老女。
恰好から察せられるに、この神社の神官であろうその老女は、恭しく、丁寧な態度を崩さないようにしながら、目の前のその女との会話を続ける。
「だから、苦労だったと労っているじゃないか、早恵」
冗談を言うような調子で不敵に笑みながらそう告げる紫髪へ、早恵と名を呼ばれた老女もくすりと笑みを返しながら、
「ふふ、そうですねぇ。ありがとうございます、我が神社の奉りし御祭神様から直々の労いですから、ありがたく拝領させていただきますとも」
「まあ、労いの内訳はそれだけじゃあないけどね」
そう言って、ふぅと息を吐き出して笑みを消すと、この神社の祭神たる紫髪はゆっくりと立ち上がる。
「――あいつには会えたか?」
笑いのない顔から発せられる問いに、
「……」
まず無言をもって一応の答えとしながら、深く息を吐いて老女――早恵はそこへ言葉を続ける。
「私が駅へ……待ち合わせの場所へついた時は、あの子が一人でぽつんといるだけでした。問い質してみたら、ここで待っていれば迎えが来るからとだけ言い残して、どこかへ行ってしまったとか……ほとんど置き去りでしたよ」
「……逃げやがったか……」
答えて苦い顔をする早恵に並ぶくらい、眉根を寄せてこちらも苦虫を噛み潰したような表情で紫髪は呟き、
「お前の前でこんなことあまり言いたかないけど……どうしてあんなのに修行つけてしまったかなぁ、ああ全く! 最低だよ、最悪だ、あんな奴ぁこの地に我が子らを生して以来初めて――」
耐えきれず爆発するように、そう悪態を捲し立てる途中で、はたと気づいたように紫髪は急に言葉を止めた。
「……いや、すまん、言い過ぎたわ」
そう謝る紫髪へ、いえ、と、苦い笑いをこぼしながら、早恵も同じように、
「まったく言う通りですものね……私も今回のことでほとほと、本当にもう呆れ果ててしまいました。返す言葉もありません、全てはあれをあんな風に育ててしまった私の責任ですよ」
それを見て、
(……まあ、私よりはこいつの方がずっと怒ってるやもしれんよなぁ)
紫髪はそう思って心を鎮め、それからその老女を宥める側へ回る。
「いいや、お前の教育は少なくとも間違っちゃいなかったことはずっと見てきた私らも知っていることだし、それでもああなってしまったのは、そりゃもうそいつの変えようのない性分ってやつだろうよ」
言って、紫髪は思い出すように空を見上げ、
「神に仕えるとはいえ人間だしね。さっきは言い過ぎたけど、ああいう奴がこれまで出て来なかったわけじゃあない。どんな性分であったろうと、やっぱり結局は……」
それから視線を早恵に戻して、少しその怒りが表に出ているその顔を、頭を優しく、これまでずっと、昔からこの子へそうしてきたように抱き寄せる。
「結局は、誰も彼も愛しい我が子孫なのよ、早恵。それだけはずっと、変わることも変えることも出来ない。だから安心おしよ、これまでもそんな風にやってきたんだ、これからもきっと――」
自分の胸の辺りにある抱き寄せた早恵の頭の後ろをあやすように優しくぽんぽんと叩き、しかし紫髪は言葉を途中で切って、
……まあ、これから……は、ちと危ないかもしれないが……
声に出さず思った。そして、しばらく互いに無言の時間が経ってから、
「……ありがとうございます、神奈子様……」
そう紫髪の祭神の名を呼んで、されるがままだった早恵がゆっくりと身を離す。
「すみません、もうこんな齢だというのに、いつまでも子供の頃みたいに」
「なあに、私から見りゃ、どんなに年を経ようがいつまでだって子供だよ、お前達は」
少し頬を朱に染める老女へ、神は笑いながら答えた。
§
「それで結局、その子だけ引き取ってきたってわけかい?」
先の話題を再開するように、問いかける祭神――神奈子。
「ええ、あれがあの子を置いて雲隠れしたのは、その時点では聞いたところ三十分も前のようでしたし、追いかけるのも無理でしたから……」
「三十分もか……」
「ええ、まるで捨て子ですよ」
言って、早恵も神奈子も同時に深く溜息をつく。
「次はあまり期待しないで聞くが、その子はあいつから私らへの言伝か何か受け取ってなかったのか?」
苦い顔のままのその神奈子の問いに、
「あの子の言うことには、『おばあちゃん達にはお前からよろしく言っておいてくれ』と、それだけだったようで……」
同じくらい苦い顔で早恵も答えて、同時に二人また溜息をついた。
「――あいつは……!」
思わずそうこぼして、しかしまたこみ上げそうになる怒りをぐっと押さえこんで神奈子は、
「まあ……いい。まあいいさ、このまんまじゃ堂々巡りだ。あいつが自分一人じゃ育てられないからって、子供をこっちへ寄越してきた……そう出来ただけで御の字としようじゃないか」
「……ええ、そうですね」
神奈子のその言葉に、ふいに早恵の表情が曇る。
それに神奈子は気づきながらも、言わなければならないことだと考えて、言葉を続けていく。
「……嫁さん亡くしてから、あいつも思うところが色々あるだろうことはわかるけれどね。それで、父一人、子一人では生きていけないと感じたのか……」
「それでも、親元を離すのはどうかと思いましたけど、男手一つでは、あのいい加減な息子一人では、あの子を幸せに出来ないと、そう決断した……」
そう神奈子の言葉に続けるように言いながら、そしてそれを思いながら早恵は、悲しそうに笑って、
「本当に、それだけでも良しとしなければいけないのかもしれませんね。最低限ですけれど、自分の子の幸せを願った選択をしたんですから」
「……ああ」
その言葉に、優しい笑顔を向けて神奈子も頷いた。
§
「そうだ、それで今その子はどうしてるんだ?」
それから、思い出したように神奈子がそう問いかける。
「連れて帰って来たんだろう?」
「ええ、とりあえず着替えている間に、私は少し用事があるから、家の中でも探検しておいでと言っておいたんですけどねぇ」
ふうん、と、その言葉に神奈子は納得して、
「まあ、今では子供にとってはこんな所も珍しい場所なのかもしれないからな」
「そうですねぇ。今よりずっと小さい頃には、あの子も一度だけここへ来たことがあるはずなんですけれど、何分歩き始めくらいの頃のことですからね、覚えていないのかもしれません」
「うーん、私もその子のことはおぼろげに覚えちゃいるけれど、今はそれよりもっと大きくなっているんだろうなぁ。五、六年、は経ってるか、あれから」
「はい、私は定期的に写真とかが送られてきていたので知っていますけれど、神奈子様達にとっては別人のように見えるかもしれませんね」
くすくすと笑いながらそう言う早恵へ、神奈子も困ったような笑みを返しながら、
「まあ、楽しみにしておくさ。そう言えば、その子の名前はなんて言ったっけなぁ……」
「やだもう、ちゃんとご自分の係累の名前くらい覚えていてくださいよ。これから一緒に住むことになるんですからね」
そこまで言って、ふと何かに思い当たり、早恵も少し困ったような笑顔になる。
「まあ、あの子には神奈子様達は見えないかもしれませんが……それでも、これまでの私達のように、あの子のことも、見守ってあげてくださいね」
その言葉への返答には、神奈子は何かを思うように少しの間を置いて、
「……もちろんだよ」
心配するな、と、言い聞かせるような調子でそう応えた。
「ま、それはそれとして、とりあえずその子の……」
「ええ、そうでした、あの子の名前は――」
早恵がその名を言いかけた、その時、
「お、おばあちゃぁぁん!!」
そんな叫び声が響くと共に、驚いて声の方に振り向いた二人は、こちらへ向かって小さな女の子が必死で駆け寄ってくるのを見た。
§
「さ、早苗ちゃん!?」
駆ける女の子は、向かう先の祖母が驚いて自分の名前を呼ぶのを聞いた。
その声にようやく安堵を少し得たような表情になり、肩くらいまである黒い直ぐ髪を風に揺らして、身につけた半袖の白いワンピースもなびかせながら、必死に祖母の元へと駆け寄る。
「……っ……おっ……おばあちゃん……!」
そうして祖母の目の前まで来て立ち止まると、女の子――早苗は息を切らしながらも話しかけようとして、しかし、
「……あっ……こ、こんにちは……」
祖母の横にもう一人、見知らぬ紫色の髪をした女性が立っていることに気づいて、慌ててまずそちらへ挨拶をした。
「んっ、あ、ああ、こんにちは」
それに思わず紫髪の神奈子の方も挨拶を返し、
「……ん?」
何か引っかかるような違和感を覚えて首を傾げたが、それが形になる前に早苗の祖母、早恵が何やらただ事ならぬ孫の様子に驚いて問い返す。
「どうしたの、早苗ちゃん? 何かあったの?」
早恵の言葉に、早苗は思い出したようにはっとなって、
「――お、おばあちゃん、あの、あのね、お、おうちのなかにね」
早苗は叫ぶように、
「お、おっきな、すごくおっきなカエルがいたの!!」
§
「か、蛙?」
「うん! 人間くらいおっきくて、そんで私を追っかけて……ああっ!」
ぽかんとしながら問い返す早恵に、早苗は相変わらず興奮したまま言葉を続け、その途中でまた何かを思い出したように声を上げた。
「お、おばあちゃん、か、隠れさせて……!」
そして、そう言って早苗が早恵の後ろに回って抱きつくと同時に、
「ぐえへへへへ~! 待ぁてぇ、こんの悪ガキがぁ~!」
早苗が走って来た方角からそんな大声が聞こえたかと思うと、
「二度と神殿なんぞに悪戯で忍び込めないようにしてやるぞぉ~!」
びょんびょんと、蛙跳びで飛び跳ねるようにしてこっちに近づいてくる、金色の髪、ぎょろ目を天辺に二つ付けた帽子をかぶった少女のような姿が三人の目に映った。
「ひぃっ!」
その姿を見て早苗が小さな悲鳴を上げ、
「す、諏訪子様……」
早恵がその少女の名を呼びながら愕然とし、
「はぁ……」
神奈子が呆れたような溜息をもらした。そのどうにも冷めた雰囲気の中へびょんびょんと少女――諏訪子は飛び跳ねながらやって来て、
「見つけたぞぉ~! ――のわっ!?」
「何やってんのよ、あんたは」
早恵の後ろに隠れた早苗へ飛びかかろうと一際大きく飛び跳ねたところを、見事に神奈子に捕まえられて、長身の彼女に小柄なその体を抱きかかえられる形となっていた。
「あえ? いよう、神奈子ぉ、こんなとこで何やってんだぁ?」
「こっちの台詞よ……うわっ、この馬鹿また飲んだくれてやがったな」
抱いた体の酒臭さと、とろんとした目を見て一気に渋い顔になり、おら、しっかりしろ、と、神奈子は抱きかかえを胸倉を掴んで支える形に変えてから、諏訪子の頬を二、三発張り倒す。
その間、早恵は自分の後ろで怯えながらその光景を恐る恐る眺めている早苗へ、安心させるように笑いかけて、
「ごめんごめん、ほらもう大丈夫だよぉ、早苗ちゃん」
「……お、おばあちゃん……あの人達は、おばあちゃんの知ってる人なの……?」
自分に向き合って、目線を合わせるようにしゃがみこんで頭を撫でてくれる早恵へ、早苗はそう、ゆっくりと安心を得ながら尋ねかける。
「そうだよぉ、あのお二方はね、この神社の神さま――」
そう言いかけた早恵が、言葉の途中で驚いたように何かに気づいてそれを止め、
「いっ、いてっ! 痛い痛い! おいもういいだろ! うぅ……いててて……」
「ったく、神が酒に呑まれてどうすんのよ……ほら、残りの酒気くらい自分で抜け、本当にもう……」
神奈子がようやく諏訪子を地面に降ろして立たせ、そして涙目で自分の頬を撫でる諏訪子と、まだ呆れ足りない神奈子が視線を向ける中、
「――早苗ちゃん、もしかして、あの神様達の姿、見えるの?」
静かな、微かに震える声で早恵が早苗にそう問う。
その言葉に神奈子がようやく先程感じた違和感の正体に思い当り、まだ酒の抜けきらない諏訪子はおぼろげに今の状況を理解しようと首を捻る。
そんな中で、その女の子は――東風谷 早苗は、ゆっくりと頷き、
「う、うん……はっきり見えるけど……それがどうかしたの……?」
確かにそう言って、自分を見つめる祖母の視線の真剣さに、首を傾げた。
2
「なんとまあ……」
あれから場所を移して畳敷きの茶の間、神社と併設された家屋部分のそこにて、少し大きめの四角い卓袱台を挟んで座る四人。
一人左右を前に構える席に胡座をかいて陣取り、そんな声を出しながら神奈子は目の前に置かれた湯飲みから一口熱い茶を含む。
「小さな子供の時分なら、姿が見えるってのは稀によくあったもんだが」
そう言って湯飲みを置くと、自分の右側の方に座した早恵の横奥にちょこんと座っている小さな姿へ目を向ける。
自分への視線に気づいた早苗が顔を上げて向かい合うのに、神奈子は薄く笑いかけながら無言で右手を差し出した。
不思議そうな顔で早苗もそれに応えて自分の左手を差し出すのを、一度、よしという風に頷いて神奈子は差し出した手で握り、握手の形で軽く握り返される手をゆっくり縦に揺らしてから放すと、
「こんだけはっきりお互いの存在に干渉……ま、要は触ったり出来るってことだが、そこまで出来るってのは中々ない……っつか、ちょっと異常だぞ」
言って、真面目な顔を向ける神奈子に、向けられた早恵もあれからこっち、困惑したままの表情で応答する。
「いえ、私も知りませんでしたよ。前にあの子が連れて来た時は、まだ物心もつくかつかないかの時でしたし、それ以来は……あれですしね。それに、手紙やなんやの連絡にもそんなことは微塵も書かれていませんでしたから……」
「ふぅん……しかしまあ、この子のこれに関しては、異常というよりは……」
腕を組んで神奈子は早恵と早苗の顔を交互に見比べ、
「血、だろうねぇ。完全に。お前からあいつに継がれた、あの力も本物っちゃあ本物だったからね」
そして、よくわからない話をする大人達に混乱したような様子で、とりあえず自分の目の前の小さな湯飲みから恐る恐るお茶を飲んでみたりしている早苗へ視線を固定して、小さな溜息を吐く。
「そんで、また着実にこの子へと受け継がれたってわけだ。実は最初はあんま実感なかったんだがね、こうなると改めて……うちの血族だよ、この子も」
そう言って苦い顔で笑いかければ、早恵もとりあえず心をどこに置いたものやらまだ決めかねた風な、作ったようなそれで応じた。
そこから、
「……しかし……」
しばしの間を置いて、神奈子が喉を潤すようにまた茶を一口含みながら、
「もしかしたらあいつ、この子の力を見越した上で、自分の代わりのつもりも込めて、ここに預けたんじゃあるまいな――」
冗談めかしてぼそりとそうこぼした瞬間、それを聞いた早恵の表情が強張った。
「まさか、そんな――あ、あの子、本当に、そんなつもりで……」
「お、おい、ちょっと待て、そんな本気で言ったつもりじゃないぞ、こんな冗談みたいな話」
「です、よね……そうですよね……そんな、流石にそんな人でなしの考えでここに送ってきたんだとしたら、あの子……」
「ああ、もう落ち着きなさいってば」
思い詰めたような表情で早恵が虚空を睨むのに焦りながら神奈子は宥めようとし、横に座った早苗も祖母のただならぬ様子と張りつめる場の空気に少し怯えた様子になる。
その時、
「あのさあ!」
張り上げたようなその声に、一瞬ぴたと止まって全員が視線を向けた、その先では、
「……いや、あの、ちょっと待って欲しいっつーかね」
神奈子から見て左、早恵と早苗から見て正面に胡座をかいて憮然と座っていた諏訪子が、場所を移してから初めて声を発していた。
「さっきからさ、てか丸々最初から、私だけ話が見えてないっつーか、あんたらの言ってることがまるでわからんというか」
なんとなく焦ったような様子で、ようやく酒の抜けてきた諏訪子は訝しげに自分を見ている神奈子と早恵へ語りかける。
「いや、もう、なんかそもそもまずさぁ」
それから早苗を見て、その視線にびくっと竦む少女をずびしと指さし、
「その子誰?」
言われた神奈子も早恵も、一瞬呆れの境地に達したような無表情になった。それから早恵はとりあえず気を取り直し、その顔のまま平坦な声で、
「私の孫です」
「ああ、なんだ、そうなの……って、孫ぁ!?」
諏訪子が素っ頓狂な声を上げて驚くのに、また同じ表情を向ける二人。
そして早苗は自分のことが誰だかわかっていない様子の諏訪子に、ようやく自分がし忘れていたことに気づいた様子で慌てて、
「あ、あの! わたし、東風谷早苗です! その、早恵おばあちゃんの孫です! はじめまして!」
いきなり立ち上がってそう叫ぶと、神奈子と諏訪子へ向かってぺこりとお辞儀をした。
「ん、ああ、はいよろしくね」
「ああ、どうもこちらこそ……って、違う!」
された神奈子も諏訪子もとりあえずそう応じてから、しかし諏訪子はまたも叫ぶ。
「なによもう、うっさいわねぇ」
「そうじゃないだろ!? 何でその、早恵の孫がいきなりここにいるんだよ!?」
叫ぶ諏訪子へうざったそうな視線を向ける神奈子に、座り直して緊張しているような早苗を再度指さして金髪の神はまだ叫ぶ。
「今度うちで預かるというか、一緒に住むことになったんです」
それから早恵が茶を飲みながらさらりとそう答えた。
「なにそれ初耳なんだけど!?」
「言いましたよ、一週間くらい前から食事の時とかに何度も」
「どうせまたお前適当に聞き流してたんだろ、自業自得じゃないか」
諏訪子は自分にとってあまりのいきなり過ぎる状況に、片手で頭を覆うように押さえて息を吐き、心を落ち着かせようとする。
「……よしわかった、とりあえず少しはわかった。その子は早恵の孫で、今日からここで預かることになった、と。そこまではわかった。じゃあ……」
それから頭の中で色々な情報をかみ砕いて整理しながら、
「早恵の孫ってことは、早恵の子供の子供、だよな。て、ことは……」
独り言のようにぶつぶつ呟いて、行き当たったその疑問を、真面目な顔になって静かに発する。
「あいつの、娘、ってことか?」
低い声のその問いに、早恵も真剣な表情に戻ってゆっくりと頷いて答えた。
「……あいつも来るのか?」
「……いえ、預けただけで、自分は行方をくらませました」
続けて発せられた問いに早恵がそう答え、
「そうか……」
その答えに、諏訪子は苦虫を噛み潰したような表情になって、それから一旦考え込むように押し黙った。
しばしの重い沈黙が場に降りる。
諏訪子は相変わらずそっぽを向いて黙ったまま、神奈子も何も言わずにゆっくりと茶を味わい、早恵も重い表情で黙り込んで、一人気持ちの寄せ場も、こんなことになっている状況も何もまるで飲み込めない早苗が居心地の悪さのようなものを感じてそわそわし始めた。
「反対だよ」
その時、諏訪子がゆっくりと、そう口を開いた。
「私は反対だ、預かるなんてな。あいつの娘だ? 冗談じゃないね」
舐め回すように三人を一人ずつ睨みつけ、最後にそうされてびくっと怯える早苗からまた神奈子へ視線を移してそう言い終える。
「……子供に罪はないだろ、それに」
神奈子は蛙のガンつけへ真っ正面から自分も蛇のようなそれを返しながら、
「反対ってもな、ならどうしろって言うんだ、諏訪子。こんな子供一人、他に身よりもない、言い方は悪いが……親父は逃げた、そんなどうしようもない状況へ放り出せとでも言うのかい?」
頑とした声でそう言い放った。
それに対して、
「くっ……」
諏訪子は言い返せずに、小さく呻くような声を出して視線だけを返す。
「……すみません、諏訪子様。仰りたいこともわかりますし、私だってまだ許せないことも、納得できないこともあります、でも」
そして、そんな二人の間へ割って入るように早恵が重苦しく、絞り出すような声を発した。
「それでも、この子自身にはそんな、私達の気持ちや事情なんて一切関わりがないし、関わらせてはいけなくて……そして、結局事実だけを見るならもう、この子にはここしか来られる場所がないんです」
隣へ座る早苗へ視線を向け、不安そうなそれを返す少女へ大丈夫だよという風に笑いかけて、
「だから、どうかお願いします、諏訪子様。この子をここで預かることを、お認めいただけないでしょうか」
それから諏訪子へ向き直ると姿勢を正し、頭を下げた。
「……うっ……」
それを受け、
「くっ、うぅ……ああ、もう!」
諏訪子はまるで自分ひとり駄々をこねているような、何か悪いことをしているような居心地の悪さに唸り、耐えかねたような声を上げて、
「ガキでも何でも、そんなんの一匹や二匹、もう勝手にすりゃいいだろ! どうせ私にゃ本気で反対する権利もないんだからな!」
そう叫ぶと、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「ああ、ありがとうございます、諏訪子様」
「けっ、どうせまあ、お前の神社だ、神奈子。主神の意見に従うさ」
嬉しそうに上げた頭をまた下げる早恵を横目に、拗ねたような声を出しながらそう言って諏訪子は神奈子へ視線を流す。
「そうかい、だったら改めて……」
その言葉に、神奈子はそんなやりとりをにやにやと眺めていた顔を薄い微笑に戻すと、
「そして正式に、この社の主としての託宣を打ち出すとしようか」
そう言って神奈子は一度拍手をぱんと打ち鳴らした。
§
「えっ……!?」
瞬間、それによって引っ張られたように部屋の空気が一気にぴんと張り詰める。
さっきカエルのいた部屋に入り込んだ時に、そこから感じたその息も出来なくなりそうな緊張と、全ての何か澱んだものが取り除かれたような清らかさとでもいうようなそれがまた、何の前触れもなく部屋全体を満たしたことに驚いて早苗は小さく声を上げ、
「東風谷早苗」
「あっ……」
そう、厳かに自分の名を呼ばれ、返事も出来ずにただ顔と体だけをそこへ向ける。
「この神社を預かる祭神の御名、八坂神奈子の名において、お前の身柄をここに預けることを許し、そしてしかと預かろうじゃないか」
自然、ぴんと伸びる背筋に任せて姿勢を正し、そう声を発する目の前の神へ、まるでこの場に自分とその神しか存在しないような感覚と共に向き合って、早苗は息を呑む。
「ようこそ、守矢神社へ」
その言葉へ、かろうじて早苗が小さく頷きだけを返すと同時に、部屋の空気は一気に緊張を失って急速に元に戻り、
「ま、自己紹介も兼ねてこんな感じかね」
目の前の光景にはそう言って笑う紫髪の女性と、隣に座って苦笑いをしている祖母と、
「最近の子供にゃ、もう少しフランクな方がいいんでないかい」
そう言って呆れたような視線を女へ向けているカエルが帰ってきて、大きな安堵のようなものと同時に恐ろしいほどの疲れを感じ、早苗は伸ばしていた背をぐにゃりとへたれさせて、大きく息を吐いた。
「ありゃりゃ、それもそうみたいね。そんじゃ」
やや呆れたような声を出しながら神奈子はへたりこんでしまった早苗を見て頬をかく。それから、さっきとは違う、安心感を与えられるような笑顔で、
「あらためて、この神社の神様、八坂神奈子よ。どうぞよろしく」
片手を軽く上げてそんな挨拶をしてくる神に、さっきとは別の意味で頷きを返すことしかできない早苗。
「そんで、まあ、このさっきから拗ねたようなことばっかり言ってるのが」
「私ぁ、よろしくだなんて言わんぞ。自己紹介もな。まだ完全に認めた訳じゃないからな」
神奈子の促しを歯を剥いて突っぱねると、また睨むような視線を一度早苗に送ってそっぽを向く。
そんな諏訪子に早恵も神奈子も呆れたような溜息をついて、
「まあ、カエルの祟り神さんだ。こっちも相当なガキだから、ま、その内気が合うだろうさ」
「んだとぉ! つか何だそのカエルの祟り神って!」
「事実だろうがよ」
神奈子が代わりに紹介し、それに対して諏訪子が文句をつけて言い争おうとする。そこへ、
「あ、あの」
とりあえず気を取り直した早苗が、まだ少し緊張の余韻と、新たなそれとで震える体をなんとか立たせて、体を曲げ、
「わたしも、その、よろしくおねがいします!」
深くお辞儀をしながら、震える声でそう言った。そんな早苗に、神奈子は笑顔で視線を向けて一度頷き、諏訪子もとりあえずは喧嘩をやめてまた元の位置に座り直した。
「私もよろしくねぇ、早苗ちゃん」
隣に座る早恵も、そんな孫の姿を見て微笑みながら言葉を贈る。
そんな様子を見ながら、神奈子は咳を一つして、
「それじゃあ、まあ一旦落ち着いたことだし、そろそろ戻るとするか、早恵。まだ少し話の続きもしたいしな」
そんで、と、次に諏訪子に視線を向け、
「せっかくここまでお互い干渉出来るんだ、お前がちょっとその間、早苗の面倒見といてやりなさいな」
「はぁ!? ちょっと待て、何で私がそんな子守りじみたこと」
「どうせお前自由になってもまた飲んだくれるだけだろ。認めないってんなら、そうやって親交でも深めて認められるようになってこい」
慌てて抗議する諏訪子に、神奈子は存外強い視線を向ける。
「いつまでもお前だけ拗ねてるわけにもいかんだろうが。お前自身だけじゃなく、あの子のためにもな」
そう言ってまた示すように別の方を見て、つられて諏訪子も同じ方向を向く、その先で、
「すみません、諏訪子様、少しの間だけ、お願いします。私もずっとは見てられませんので……」
早恵はそう言って頭を下げ、それから上げて次は早苗の方を向く。
「ごめんねぇ、早苗ちゃん。おばあちゃん、まだちょっとお仕事しなきゃいけないから、その間一人で諏訪子様と遊んでてくれるかい?」
そう言われ、祖母と向き合う早苗はその言葉に反応して一度、外からわからない程度に身を震わせ、
「……うん、わかった」
消え入るような声でそう返してから、小さく頷いた。
「よかったぁ。ごめんねぇ、えらいねぇ、早苗ちゃんは。……それじゃ、諏訪子様も、ちょっとだけお願いしますね」
「あ、おい、まだ私は」
その答えに、早恵は早苗の頭を撫でて、諏訪子へもう一度頭を下げてから立ち上がろうとし、そんな早恵へ諏訪子がまだ不満そうな声を出すのを、
「いやぁ、話がついてよかったよかった。それじゃ頼むぞ諏訪子。それと早苗も」
神奈子も立ち上がりながら強引にねじ伏せるようにそう言葉を被せ、次に早苗を見て、
「存分に、こいつに遊んでもらうといい。神様は遊ぶのが大好きだからね」
笑いかけながらそう言って、早恵を引き連れて神奈子は出て行った。
残された二人は、
「……」
「……」
何となく無言のままお互い一瞬見つめ合い、それからまた互いに視線を外してから、諏訪子はやりきれないといったような溜息を吐いた。
3
そして、しばらくそんな風に無言で茶の間に、卓袱台を挟んで座り込んでいた二人。
だが、突然、
「……私ぁ、出かける」
飲み干した、すっかりぬるくなっていた湯飲みをことりと置くと、呟くように諏訪子はそう言った。
「へ……?」
「勝手ばかり言いやがってあいつら、冗談じゃないね」
言葉の意味がよく飲み込めないといった風な間抜けな声を出す早苗に、あれから一度も合わせようとしなかった視線を向けると、
「お前だってそうだろう? こんなカエルの祟り神様と二人っきりだなんて、息苦しくてしょうがないよなぁ」
だから出てってやるよ、と、そう言い放って諏訪子はすくっと立ち上がった。
それを見て早苗は、
「あ、あの!」
実際は諏訪子の言っていた通りのことを感じていたのに、何故だか自分でもよくわからないほど慌てて、思わず諏訪子を呼び止めてしまっていた。
「そんな、そんなことない、よ。私は……」
「ウソつけ、さっきなんてこーんなビビって慌てて逃げてったじゃねえか」
見上げて必死にそう言う早苗へ、諏訪子はあの時の再現をするような驚き顔を作って見せる。
「私だってそんな暇じゃないんだ。お前もまさか右も左もまだわからないって歳でもないんだろうし、だから」
そうしてすたすたと歩き出し、早苗の横を通り過ぎて縁側へ向かいながら、
「一人だけで遊んでな、その方がお前も楽しいだろ」
慌てて振り向く早苗に、背中だけ向けて、切り捨てるようにそう言い放った。
その背中が縁側からぴょんと飛んで庭へ降り立ち、ゆっくりと遠ざかろうとするのを呆然と眺めながら、
「あ……」
早苗は思う。告げられた言葉の意味を。
一人で。一人で、待ってて。今日の初めからずっと言われた、その言葉を。部屋を見回して。
一人で?
知らない場所だった。初めて来て、誰も、いなくて。
ここで?
§
「ま、待って!」
自分でも驚くほど大きな声が出て、それは相手にも同じだったのだろう、カエルの祟り神はビクッと身を震わすと、呆気にとられたような顔で振り向いて止まっていた。
「あ……わ、た……わたしも、いっしょにいく!」
自分自身にも本当によくわからない、締め付けられるような苦しさと、じっとしていられないような焦燥に駆られて早苗は一気に立ち上がる。
立ち上がって、庭に降りてその背中に姿に追いつこうとして、
「あっ、く、靴、玄関だ」
縁側の縁でギリギリつんのめるようにして立ち止まる。それを呆れた様子で眺めて、カエルの神はまた背を向けてゆっくりと歩き出した。
「ああっ、ま、待ってよぅ! 靴、すぐとってくるからぁ!」
そんな背中へ慌てて、懇願するような調子で叫びながら、早苗は慌てて廊下を玄関の方へと走っていった。
§
神社と家屋は小高い山の中腹にあり、そして周囲を山自身の抱える鎮守の森で囲まれ、取り囲むそれを踏み分けて進んで行けば、すぐに周りは手つかずの自然に囲まれた深山の真っ只中となる。
そんな、人には道とも行き止まりともつかぬ、かろうじて長い時間をかけて獣達に踏み慣らされたような山路を、今諏訪子は無言でずんずんと進んでいた。そして、
「ま、待ってぇー……!」
その姿がまだギリギリ見える程度に後ろの方を、ぜいぜいと荒い息を吐きながら早苗が何とかついていこうと頑張っていた。
§
「ったく……」
後ろから飛んできた、今にも泣き出しそうなその声に舌打ちし、諏訪子は立ち止まって振り返る。
「だから、ついてくんなって何度も言ったろーが! 子供どころか、大人も登れないってんだよ、この山は!」
「そ、そっちだって子供じゃないのー!?」
「私ぁ神様だっつーの!」
諏訪子はそう叫んで、勾配のきつい斜面の上から、下にいる早苗を見下ろす。
そう、見下ろすその姿は、腕と足の出た服を着ていたせいで擦り傷切り傷だらけのぼろぼろで、何度も転けたせいでどろどろで、今もほとんど転けるようにして立ち止まり、そこら辺に生えた藪の葉に掴まってようやく斜面から落ちないように踏ん張っているような有様だった。
九歳そこらの子供が、
「まあ、大分頑張った方だわな」
聞こえない程度にそう呟いて、諏訪子は再度声を張る。
「それに、待てっていうがな、お前さんもう限界だろーが! 帰れ帰れ!」
「か、帰れって……」
言われた早苗は、ゆっくりと辺りを、まるで同じ風景をぐるりと貼りつけたように区別のつかない景色を見回す。
そして最後に自分の後ろを、いままで進んできたそれがまるで最初から存在しなかったかのように閉ざされた草と木だらけのそこを見て、また泣きそうな声で、
「戻る道なんて全然、もう、わかんないよぅ!」
「だから、早い内に何度も帰れっつったろーが!」
叫び返して諏訪子はため息をつき、それから仕方ないといった風に早苗を見据える。
「……じゃあ」
早苗から見ると、ぞくりとするほど冷たいその目で、
「もうそこら辺でじっと待ってろ。覚えてたら、帰りに拾って家に連れてってやるから」
見据えて、きっぱりと諏訪子は早苗にそう言い放った。
§
「そ、そん、な……」
その言葉に、早苗は掠れた息と共に、もう諏訪子には聞こえない程度にしか張れない声を絞り出す。
ここまで進んでくるだけでも、正直死にそうな思いだった。都会育ちの早苗はそもそもこんな田舎に来るのも初めてで、こんな険しい山を登るのだって初めてで、それでも怖くても、大変でも、死にそうになっても、置いて行かれるのだけはもっと嫌で、だから必死でついてきた。
早苗がその姿が見えなくなりそうになる度に声を上げれば、カエルの神様は立ち止まって振り向き、ついてくるなと言ってきた。でも、それでも勝手に置いていこうとだけはしなかった。
だから、早苗は心のどこかにまだ安心を持って、たとえ登れなくなってもあの神様は自分を置いていこうとはしないはずだ、と、そう信じてついてこれた。
でも、もう本当に体の限界が来て、本当に一歩も進めないような、そんな風になった時、神様もやっぱり、最後には早苗を置いていこうとしていた。
早苗から、離れていこうとしていた。
「まっ……」
神の姿が背を向ける。向けて、ゆっくりと遠ざかっていく。
「待って、よぅ……!」
その背中に最後の力を振り絞って手を伸ばして、それでもやはり掴むことは出来なくて。
「おいてか……ないでよぉ……」
絞り出すようにそう、鼻をすすりながら呟いて早苗は、立ち上がろうとするも、
「あ……っ」
踏ん張りがきかずによろけ、近くにあった大きな木にぶつかるようにしてもたれかかり、力を失ったように、そのままずるずると座り込む。
「ひとりは……やだよ……」
消え入りそうな声でそう呟いてから、抵抗できない眠気のような脱力感に捕らえられ、早苗はゆっくりと目を閉じた。
4
あれから諏訪子は一度も振り返ろうとはせずに進み続けていた。
勾配をまるで平坦な道のごとく、木と草に閉ざされた正面をまるで遮るものなどないかのように踏み行きながら、諏訪子は、
「……」
声に出さず、思う。思うのは、さっき自分が置いてきた幼い少女。
「……知るもんかよ」
呟いて。そうだ、知ったことではない。
「あいつの、あんな奴の子供なんざ」
言葉の裏で思い返す。自分を、神奈子を、そして早恵を裏切り、去っていったそいつを。
「あんなのが……!」
今までにいなかったわけじゃない、全部が全部望むように生きてくれる奴らばかりではなかった。それでも、された仕打ちに対する憤りが、失望がおさまるわけじゃない。
「あんなのが、私の、諏訪の子孫だなんて……!」
小さく、荒い息と共に叫び、その感情を地にぶつけるように片足を踏み下ろした。
その十四、五歳程度の少女の体躯から生み出されたとは想像も出来ないほどの衝撃は、地を揺らし、木々を揺らし、枝葉を揺らして、その先に止まっていた鳥や虫達を驚きと共に飛び立たせ、あるいは千切れた葉と共に地面に降り注がせる。
「……」
踏んだそのまま立ち止まり、諏訪子は無言。気を一度吐き出したせいか、思考が冷静さを取り戻していく。
その頭が紡いでいく続きは、
「……ああ、ったく……」
それでも、あんな奴でも。
「めんどくさいよなぁ……」
己の子孫であるという、その事実だけは、叫んでも、地に当たってみても消せなくて。
だから、気づいてしまった。
「……あの子も」
あの少女も、あいつの娘で、早恵の孫で、
「つまりは、私の遠い子孫……か」
小さくこぼして、振り返る。姿は見えるわけもない、自分がさっき置いてきたのだから。
「……ああ、もう!」
一度盛大に溜息を吐いて、金色の髪をぐしゃぐしゃと腹立ち混じりにかくと、
「仕方ねえなぁ!」
叫んで、諏訪子は、進んできた道を飛び降りるようにして駆け戻る。
§
そして黒髪の少女は落ちていく、暗い暗い、底のない海のような意識の隙間の中へ。
目をつぶったまま、何も見えずに、ゆっくりと。
§
今よりずっと幼い頃、少女の世界は、自分と、母親と、父親の三人だけで出来ていた。
本当はもっと多く、たとえば幼稚園の先生や、そこでの友達や、その子達の両親や、そんなたくさんの人達とも関わり合うことで構成されていたのかも知れない。
あるいはそれより幼い時期に一度だけ訪れたことのある、父の母親であり、母の方は共にすでに死別しており、少女にとっては唯一の祖母というのもその中には含まれていたのかもしれない。
しかし結局少女の認識出来る究極にして絶対的な単位はその三人で、そしてそれはある時が来るまで増えることも減ることもなかった。
§
兄弟姉妹はおらず、少女も別段それを欲しいとも思わなかった。何故なら少女には両親がおり、そしてそれは時折自分を叱ったり、そうして泣かせて悲しくもさせたりはしたが、決して自分を裏切ったり、一人にしたり、離れていったりするものではないのだと信じていた。
この人達がずっと側にいて、この人達にずっとついていけば、自分は迷うこともなく、はぐれることもなく生きていけると、幼い子供なら誰しも思うように、少女もそう思っていた。
そう、信じていた、しかしその信奉が揺らぐのは、誰しもが感じるよりも大分早く訪れた。
少女がそんな風にして生きていた、幼稚園の卒園も近づいたある日、母親が病に倒れた。
結局その時の少女には、最後までそれがどんな病気で、どうして母親がそんなものを患ってしまったのか、理解できることはなかったが、たとえそんなものがわかっていたところで、少女にとって一番わかりやすく、単純で何より重要な事実と比べたら何の役にも立たず、また慰めにもならなかっただろう。
そうだ、事実は、何よりも少女の目の前に立ちはだかったそれは、もはや母の病は治ることはなく、いずれゆっくりと、確実に死に至るだろうということだった。
§
最初の頃は、母親は定期的に入退院を繰り返して、その短い退院期間の間に出来るだけ少女との思い出を増やそうとしてくれた。
卒園の日も一緒に幼稚園へ行ってくれたし、小学校の入学式にも来てくれた。
二人で買い物にも、散歩にも、手を繋いでたくさん行った。
しかし、それも入学してから夏が過ぎ、秋の半ばまでのことだった。
それ以降は少女と母親が顔を合わせるのは殺風景な病室の中だけになり、手を繋いで歩くことも最期の時までもはや二度となかった。
§
父親は、母がそうなる以前にもそこまでずっと一緒にいられたわけではないが、こうなってからはもうほとんどとりつかれたように、母親の治療費などを作るために以前にも増して仕事に没頭し、一緒の家に住んでいながら娘とほとんど顔を合わせる時間というものがなかった。
父親は朝早くに起き出して仕事に出かけ、夜遅くに帰ってきてはすぐ床につき、その間少女は学校へ行き、家に帰ってきたら一人きりで過ごし、たまに病院へ母親の見舞いへ行き、そしてそれはたまに父と同行する形になり、そんな繰り返しの日々を、この父子は一年半ほど過ごしていた。
§
そして、常日頃一人きりで家に居る間、少女は何をするでもなく、ずっと、それを見ながら過ごしていた。
最初はぼんやりとして形がなく、日々を重ねるごとに次第にはっきりと形を表してくるような、そんなものが、いつの間にか目の前にあったのだ。
最初は何だろうと気になって、けれど一向に形を見せなくて、ただそこに在るだけだった。
だからいつしかはっきりとそれを見ようとは思わなくなって、いつかその姿が見えるようになるまで放っておけばいい、そう思って。
そしてある日、ふとそれを見ながら少女の口が、心が、耳が、その形をようやく、少しだけ捉えた。
このまま。
問いかけのような、
このまま母が。
その一端を、
私の世界の中の誰かが欠けてしまったら。
わたしは、どうなるの?
それが初めて、一瞬だけその姿を見せた時、全身が凍り付きそうな感覚と共に、縫いつけられたようにそれから目が離せなくなっていた。
そして、静かに理解した。
それから逃げたくても、逃げようとして当て所もなく走り出したり、布団に潜り込んだりしても。
気づけばそれはいつも目の前にいて、そしてゆっくりと自分に迫ってきているのだと。
だから、それから逃げることも出来ず、目を逸らすことも出来ず、家の中に一人でいる間中ずっと、少女は震えながら、静かにそれを見つめ続けることしか出来なかった。
§
母親は、少女が自分の見舞いに来る度に、その体を優しく抱きしめて、そして別れる時間が来るまでずっと、色々な話をたくさん、たくさんしてくれた。
それは、少女の最近の生活のことであったり、学校であったことであったり、あるいは母親の昔話だとか、他にも、どんな話題でも、数え切れないくらいのことをずっと話しあった。
少女の母親はそうすることによって、少女の心に自分が出来る限りの、せめてずっと後になっても思い出せるようなものを残そうとしたのかもしれない。
そして、それは少女が今よりもう少しだけ大きければ、あるいはこれから先もっと大きくなってからなら、かけがえのないものだと認識できたのかもしれない。
しかしその時の少女が本当に、母親と居ることで本当に欲しかったものは、そんなものではなかった。
ただ一言、自分の前からいなくなったりなんてしないと、離れいったりなんかしないという、その言葉だけが欲しかった。
膝の上で握り締めて誤魔化している、震える手を取って、これからもずっと繋いでいてくれる。自分を導いてくれる。
その事実だけが、何よりも、欲しかった。
§
結局、どれだけ少女が欲しても、どれだけ望んでも、その言葉も、事実も、最期まで与えられはしなかった。
§
自分の手を引いてくれるはずの人が一人いなくなって、もう、繋いでいる手が片方だけになってしまって。
それでも、だからこそ少女は、もうそれだけしかない繋がりは絶対に離れないし、強く握り返してもらえるものだと思っていた。
この少女の世界に二人だけになってしまって、そうなってしまったのならあの父親も、きっと自分のことを見てくれる、自分と向き合って、自分のことを引っ張ってくれる。
自分に思い込ませるように、以前よりもずっと強く自分のことを見つめ返して追いつこうとしてくるようなものからどうにか逃れるために、少女はそう、強く信じた。
しかし、そうしてようやく向き合った時に父親の口から出た言葉は、少女のその想いとは、まるで正反対の――
§
「……ごめんなぁ」
ごつごつとして大きなその手が、昔からこれまで何度もそうしてくれたように少女の頭を優しくゆっくりと撫でる。
「俺では……父さんでは、お前を幸せにしてやることは、出来ないよ」
目線の高さを合わせるように座り込んで、真正面にあるその顔が、ようやく自分を見てくれたその顔が、そう言って、悲しそうに笑った。
§
その日朝早くから、父親に手を引かれて大きな駅へ行って、それから午前中の殆どをかけて二人で電車に揺られていた。
目的地は、父親の故郷であるということしかわからなかった。
四人掛けボックス席の向かい同士に座って、人の少ない車内で父と子は向かい合い、そしてあまり言葉を交わさなかった。
父親は肘掛けに手を置き頬杖をついて、ずっとぼんやりと窓の外を眺めていた。
娘も同じように父親の見ている窓の外を向いてみたり、持ってきた荷物の中にあったおもちゃのロボット人形を無言で手持ちぶさたにいじったりしていた。
そんな風にして必要最低限以外のことをまるで話さずに親子はやがて目的地につき、電車を降り、改札を出て、まばらに人の出入りするそのエントランスの中のある柱の一本の前まで来ると、歩みを止めた。
「ここで待ってれば、おばあちゃんが迎えに来るから」
見下ろしながら父親はそう言って、ここまでずっと繋いできた手を、ゆっくりと離した。
「あと、三十分くらいだろうなぁ……それまで、一人で待っててられるか?」
それから娘の前にしゃがみこんで顔の高さを合わせると、そう言った。
「……おとうさんは……」
それを聞いた娘はそこまで言い掛けて、しかし紡ぐ続きをどうすればいいのかわからずに、詰まらせる。
一緒に待っててくれないのか? 一緒に来てくれないのか?
どれを聞けばいい? いや、本当に聞きたいのは、そんなことだろうか。
本当に……声に出したいのは……
一緒に……、もう、わたしの手を
「……おばあちゃんに、会わせる顔がなくてな」
しかし、父親はそんな娘の言葉を促さずにそう答えて、
「……」
無言で見つめ合う。
しばらくそうしてから、父親は不意に優しく笑うと、その大きな手でいつものように娘の頭をゆっくりと、慈しむようにして撫でた。
「……っ!」
そうされて娘は、どうしようもない痛みのような、衝動にかられて、咄嗟に頭の上の父親の腕を自分の胸の前まで引っ張るようにして、持ってくると、その袖をぎゅっと掴んで握りしめたまま、
「……!」
少し驚いた顔をしている父親を強く、声を出さずに、睨むようにして見つめた。
違う、声を出さないわけじゃない。出したいのだ。
出して、今、何か言わなかったらきっと、そうなってしまうのに。何か、言わなければいけないのに。
「……っ……!」
どうして、この喉から何も、蓋をされたかのように出てこない。
どうして、その顔を、すがりつくように見つめることしか出来ない。
……どうして……
そんな風にしている間に、
「……」
父親は、また不意に動いて、娘の体を己の胸の中へ抱き寄せた。そうして、娘の頭の後ろを優しく撫でながら、
「……ごめんな」
決して自分の顔を見せないようにしながら、小さく、抱き寄せた己の子にだけ聞こえるようにそう呟いた。
「あ……」
それを聞いた娘は、きっともう変わることも、変えることもできないその心を感じて、理解して、必死で掴んでいた手から、全身から、力が抜ける。
そして、ゆっくりと目を閉じた。きっと、そうしなければ耐えられないと思ったから。
目を閉じて、耳も、口も、肌の感覚も、何もかもを閉じて。
そうして、しばらくしてからゆっくりとそれらを、恐る恐る開いた時には、もう少女は一人だけで、そこに立ち尽くしていた。
§
ほどなくして、少女の祖母と思しき老女が迎えにやって来た。
少女の話を聞くと、しばらく言葉をなくしていたようだが、次に父親がそうしたのと同じように自分の孫の体を優しく抱き寄せて、頭を撫でた。
それから、少女の手を引いて歩き出した。
少女は何を言うでもなく、ただ素直にそれに従った。
知らない土地だった、見たこともないような田舎だった。一度、覚えていないほど幼い頃に来たことのある場所と、会ったことのある祖母だった。
不安も、寂しさも、悲しみも、少しの好奇も、色んな想いが少女の心の中にあったが、全部敢えて奥に押し込めて、少女はなるべくそれを表さないようにした。
表そうとすると、それと向き合おうとすると、きっと今ならまたそれが見えてしまう。
だからそれを見ないために、それに追いつかれないために、少女は必死で、父親が最後に渡してくれた、祖母の皺だらけの手を握りしめた。
もう絶対にこれを離しては、いけなかった。
それから、今までに経験のない、びっくりするくらいの長い時間を、祖母に連れられてバスに乗った。
乗ってそれから、見回しても人工の建造物の方が圧倒的に少ないような、山と木々と田んぼの間にぽつんと立った看板の前でバスを降りた。
さらにしばらくそんな、夢でも見ているんじゃないかと思うほどの緑の風景の中を歩いて、またびっくりするくらい長い石段を上って、ようやくそこについた。
立派で、大きく、厳かで、そして何故か、どこか懐かしい、その神社に。
§
それからまた色々あって、
「諏訪子様と、遊んでてくれるかい?」
その手はまた、唐突に放され、次に渡されて、
「そこで」
そして、
「一人で、遊んでろ」
どれだけ放されないように必死でしがみつこうとしても、置いていかれないようについていこうとしても、最後の最後にはそれらは全部自分からすり抜けて。
気づけば、誰もいなくなっていた。
§
そして結局、結局少女は追いつかれた。
ずっと前から薄ぼんやりと見えていたそれは、今、はっきりとした形となって目の前に広がっている。
そこには、その目の前には誰もいない。
その手は誰とも繋がっていない。
ただ先の見えない真っ黒な、あるいは目が潰れそうなくらい真っ白なその中に、両手をだらりと下げて、立ち尽くして。
そうして、少女は、ひとりぼっちだった。
どうして?
どうして、こうなってしまったんだろう。
何か悪いことをしたんだろうか、その罰があたったんだろうか。
だったら、そのことはなんどでも、謝るから。
いい子にしてなかったのがいけなかったんだというのなら、これからはずっと、ぜったい、みんながそうしてほしい私になるから。
だから、みんないなくならないで。
わたしから、はなれていかないで。
一人でなんて生きていけない。
こんなものを抱えたまま一人だけで、それだけで生きていくだなんて、想像するだけで身が引き裂かれそうな心地だった。
ひとりはいやだ。
ひとりはいやだ。
ひとりはいやだ。
一人は……
5
「……いやだよぅ……」
うなされるように、そう口に出した、と同時に、
「……ぅ……?」
早苗はぼんやりと意識を取り戻して、溜まった涙で掠れた視界がその目の前に戻ってきた。
茜に渡っていく途中の空と、それに照らされて濃い陰影を抱き始めた樹木達が、一定の間隔でゆっくりと目の前を流れていく。
次に静かに、優しいリズムで揺られている己の身体と、その前面、胸や腹から感じる、心地よい温かさに気づいて、
「んお? ようやく起きたか」
不意に、その声が目の前から聞こえた。
驚いて、しかし疲労の色濃い早苗の身体は激しい動きを拒否し、
「……っ」
それでもなんとか頑張って、完全に何かにもたれるようにしていた上半身を少し起こして状況を確認する。
「あ……」
そうして気づいたのは、すぐ目の前で揺れる金色の髪。そして、それを抱くその少女に、カエルの神様におんぶされて、運んでもらっている自分。
「どう、して……」
思わず、そんな問いかけが早苗の口からこぼれていた。
どうして。自分を、私を、置いていったんじゃないの? 離れていったんじゃ、なかったの?
そんな思いと共に。
「あー、んまぁ、なんていうか……」
そして、その問いに、神はばつのわるそうな声を出して、
「……やっぱ悪かったよ、ほっといたりしてさ。あの後すぐ戻って、こうして連れて来てやってんだから、勘弁してくれ」
それから、ぶっきらぼうな調子で、恥ずかしさを隠すようにしてそう謝った。
その言葉に、
「……っ、あ……」
その、不意打ちで感じた温かさと優しさに、早苗は声を詰まらせる。
鼻の奥がつんとして、目の端が熱くなって、耐えきれずに目の前の、穏やかな温度を持った背中に顔を押しつけた。
「ん? おい、どうし――」
少女を背負う神は、いきなり背部に現れた新しい感触に、何事かと問いかけようとする、
「……ねえ」
その声を遮るようにして、少女は逆に自分から問いかける。
「カエルさんは、神様なんだよね……?」
必死にそれをこらえようとしながら、その言葉を作る。
「? ああ、まあな……」
それに気づかずに、まだ訝しげな調子で返答する神に、
「だったら、カエルさんなら、神様なら」
少女は震える声で、
「お母さんのこと、生き返らせられる……?」
それを、その祈るような問いかけを吐き出した。
§
その言葉を吐いた瞬間、それを聞いた瞬間、少女を背負う神の身体が一瞬びくっ、と、大きく震えて、
「……っ」
何かを飲み込んだかのような無言になった。
しかし、それに気づかずに、少女はその、一度堰を切ればもう止まらずに溢れ出る言葉を続けていく。
「カエルさんが、そうしてくれて。もし、お母さんが生き返って……そうしたら」
何か大きな力に、すがりつくように。
「そうしたら、わたしは、ひとりじゃなくなるのかな……」
祈るように。その、もうはっきりと見えてしまった、自分の今と、触れたら壊れそうな願いを込めて、
「そうしたら……」
そして、ぎゅう、と、その温かい背の服を、自分がこれから言おうとする言葉に耐えるために掴んで、
「お母さんが生きてて、そうしたら……」
それを放つ。
「お父さんも、もどってきてくれるかなぁ……?」
§
それを、その言葉を、
「……っ、ぅ……」
その事実を、口に出してしまった瞬間、少女は今一度、はっきりと悟った。
「あぁ……」
その時までは、まだ少しだけ淡く、その手の温もりも数時間前のもので、まだそれは残っていて、だから、どこか夢のようだったから、だから、淡く信じていた。
本当は、戻ってきてくれるんじゃないかと、信じていた。
でも、もう違う、口に出して、そうすることで、今はっきりと少女は理解した。理解してしまった。
「うあぁ……」
もう父親も、そして母親も、そんな、途方もないような奇跡でも起こらない限り、自分の元へはもう戻ってこないのだと。
いつも、最後の瞬間まで自分を抱いてくれた温かさも、最後に痛いほどの別れの決意を込めて抱いてくれた温かさも、もう二度と、戻ってはこないのだ。
「っ、あ、ああぁぁ……う、あぁ、っ、あぁ……」
そして、今はっきりそれを理解した瞬間、こらえきれなくなったその涙が溢れ出した。涙も、泣き声も、鼻水も、全身から湧き出るように溢れ出す悲しみの全てが、もう止まらない。
「――――ッ!」
もう、違った。少女をそうさせているのは、自分はひとりぼっちだという思いでも、誰も手を引いてくれる人がいないというそれでもなかった。
ただ、もう自分には、父親も、母親も、いない。世界でただ一人ずつしか存在しない、その人達が、もう、いない。
その純然たる事実だけが、少女の今の悲しみの全てだった。
§
「……」
そして諏訪子は、そうして己の背で泣きじゃくる少女の心を黙って聞いたまま、何も言わなかった。
何も言わず、少女のしたいままにさせておいて、そして静かに考え続けていた。
今まで多分、自分だけが知らずに、何も知らずに騒ぎ続けていたことを、少女の言葉から知ったそれを、ゆっくりと噛みしめるようにして思う。
「っく……ひっ、ぅ……」
そして少女の泣き声が、枯れ果てたような嗚咽に変わる頃、
「……お前の……」
ゆっくりと諏訪子は口を開き、
「……お前の母ちゃん、死んじまったのか……?」
開いてそう、確認するように静かに問いかけた。
「……っ」
問われて、しかし、背中に顔を押しつけたまま無言しか返さない少女から、
「……そうか」
その無言から答えを得て、諏訪子は溜め込んだ息と共にそう吐き出した。
そして、今までそうしている間にも歩き続けていたことで、少しずり下がり始めていた少女の身体を軽く揺すって背負いなおすと、
「……すまんな」
静かに、そう前置いてから、
「私は、神様っていっても、もうとっくに何もかも失って、枯れ果てたような、情けない神でな……だから」
はっきりと、それを告げる。
「お前の母ちゃんを生き返らせることは、できないよ……」
§
「そして、どんな神様だろうがそんなことはできんだろうし、絶対にしちゃいけないんだ」
続けるように諏訪子はそう言って、息を吐く。
小さく震え続ける、背負った身体へ、そして自分へもそう、言い聞かせるように。
「……じゃあ……っ」
その言葉に、少女は嗚咽を飲み込んで、
「……じゃあ、わたしはっ……どうしたらいいの……」
まだその神へすがるように、祈るようにその言葉をぶつける。
「……ひとりは、いやだよ……ひとりは、こわいよ……っ」
呟いて。
どうしても、追いつかれたその現実が怖かった。そんなものに、まともに向き合えるはずがなかった。
「……どうしたら、いいの、かな……」
だから、少女は望まずに、願わずにいられない。
「……わたしにも、カエルさんみたいな力があったら、こんな山道も、ひょいひょい登っていけるような力があったら……っ」
そんな力が、あったなら。
「そうしたら、ひとりでも生きていけるの、かな……っ」
その背に額を押しつけて、求める。
「そう、したら、ひとりが怖くなくなるのかな……っ」
もし、そうなれたならば。
「そうしたら……っ、誰も、わたしから離れていかないで、ひとりじゃなくなるのかなぁ……!」
§
服の背が最早引っ張られるような強さで握られている。
「……」
しかし、それに対して何も咎めず、代わりに諏訪子は深く吐き出す息と共に、思い出していた。
その少女の、何かにすがりつくような願いを聞いて、
「……そんな力が……こんな力があったところでな」
諏訪子は静かに、呟くようにして言葉を返す。
「結局、一人になる奴は一人で……そして、どんだけ力があったところで、そんな事実に抗えるわけじゃあないさ」
溜息を吐いて。それから、決心したように、
「……お前が、母ちゃんと父ちゃんのこと、話してくれて……そんで私に、頼ろうとしてくれたからな」
だから。震える少女を、もう一度背負い直して、気を整える。
「代わりっちゃあ、なんだが……私も、私のことを一つだけ、話してやるよ」
そう言って、目をつぶる。つぶって、更に深く。
潜り込んで引き上げるのは、土着自然の、その信仰――
6
「私はな、今の私ぁ、”神様だ”……じゃないんだよな」
穏やかにそう言って、神は、
「私はな、”神様だった”んだよ」
繋げて、そう言い直し。静かに自嘲の笑い声を発する。
「確かに、人智を超えた力は今もある、存在だって確かにここに在って、でもな」
でも。その笑い声に、胸を締め付けるような、切なさを混ぜながら、
「ただ、私を知っている……私のことを信じて仰いでくれる奴だけが、今はもう、何処にも居りやしないのさ」
「…………?」
そして、その神の笑い声の切なさを、感じ取った少女が身の震えを少しずつ小さくしていく。
何故なら感じたその手触りが、余りにも――
「わかるかい? 神っていうのは、神様っていうのは、誰かに信じて、祀ってもらえなけりゃあ、存在する意味なんてありゃあしないんだ」
そんな背負った少女の変化を気にすることなく、カエルの神は言葉を続けていく。
「そんで、神奈子……あの蛇みてえな婆の言った通りで、今の私なんざぁ、精々が祟りを司る化身でしかなくて」
身を切るような、声に含んだそれと共に、今の己を断ずる。
「だから、きっと……私は神様だったんだ」
§
「それでもな」
それでも、と、そう続けて。
かつての神の身は、少女への問わず語りと、己の記憶へ潜り込んでいくのを併行させる。
暗き思考の井戸の底に、かつての己を見出すために。
§
そうだ、それでも。
それでもずっと大昔、お前にゃ想像も出来ぬほどの八千代の果ての昔には、私を信じてくれる奴らが、人間達がいたんだ。
荒ぶる風の御魂を鎮め、私はこの地に平穏と繁栄をもたらしていた。
そうすることの出来る私の力を、存在を、知って、信じて、そうして仰いでくれる人間が、私の下にたくさんいた。
だから私も信じていたんだ。永遠に続くこの地の平和と、それを治める己の存在を信じていた。
手を伸ばせば届くような傍に在る、その数多の想い達と共に、ずっと私は一緒でいられるものだと信じていた。
けれど、そんなものは結局、幻想だった。
……いや、違うな、幻想ですらない、きっと己の身の丈もわからぬような井の中の蛙の、お前みたいな餓鬼の考えだったのさ。
それから、私はそうして、そんな甘い思いを抱いたままに、この地へ攻めて来た倭の神と戦って、そして、負けた。
打ち倒され、組み敷かれて、治めていた地も、信じてくれていた民も、神として行うべき己の役も、全てを奪われた。
たった一度の敗北で、私は一気に全てを失ってしまった。
当時は滅茶苦茶に悔しがったよ。そんな理不尽な戦いを吹っかけてきた倭の神も、そしてそれに屈した己の不甲斐なさも、全てを呪ってやったものさ。
けれどな、今にして思えば、それだって随分マシな方だったんだ。
全てを失った私は、しかし、それだけのものを分捕っておきながら、更には私の身体まで余すことなく欲した欲深い倭の神に奪われて、そして結局そいつと二人でこの地に在ることになったんだ。
私の存在が、かつてのように表に出るわけではなくなった。私を知る者は、信じる者は減り、けれど、それでも細々と、未だ私はこの地の人間達と共に在れた。
だから、一旦はそれで十分だと納得もしたんだ。かつてより小さく、少なかったとしても、確かに其処に私を信じる人間達がいるならば、私が存在出来る理由になった。
そんな風にして、それから数え切れないほどの時を過ごしてきたよ。ああ、過ごしてきた……。
時を重ねるごとに、小さくて、弱く、打ちひしがれるしかなかった人間達は、次第に、子供が大人へと変わっていくように、自分達の力を得て、それを揮えるようになっていった。
神の代が終わり、人の代へと渡って行き、私も神ではなく国ではなく、人を産み、そしてその人の子達が、神の役を代わるようになっていった。
けれど、そうして人共が自分の力で歩いて行くようになるとね、段々と、私を知る者が少なくなっていった。私を信じる者が、減っていったんだ。
親の手元を離れていくように、私の周りからそれがゆっくりといなくなっていった。
§
……ああ……
でもね、私はなまじ力があったから、己の中のそれを、誰よりも盲信していたから。
……ああ、いいよ。私は、大丈夫だから……
それを、そのことを、仕方のないことなのだと、そう思って、諦めたんだ。
奪われたわけではない、取り返すわけでもない、自然と自分から離れていくそれに手を伸ばすのを、躊躇した。
力では引き戻せない、きっとそれは自分よりもっと大きな力の流れだった。
だから、それに対する私の力の使い方は、自分を守るために。
……幸せにおなりよ、私のことなど気にせずに……
誰かの離れていく痛みを、引き裂かれるようなその痛みを、誰にも見えないところで蹲って、そうして耐えられるものだと決めつけて、そして耐えていた。
……私は、大丈夫……
§
人と、神とは違う。だから時の移ろいと共に、その在り方も変わるべきで、それは自然なことで、抗いようのないことで……
神の視点は、どこまでも見えるような気で、遠くばかりを見据えて、誰よりも近い己の周りへ目を向けられなかった。
違う……向けられなかったんじゃない、逸らしていたんだな。気がつきたくなかったんだよ。
本当は――
本当は、こんな痛み……こんな、誰かが自分の傍から離れていく、その時に感じる、突き刺されるような、どうしようもない痛みは、耐えるべきものじゃなくて、耐えようとしてちゃいけないものだったんだ。
どうしようもない、こんなものは、吐き出すべきで……そうして、そんな痛みを感じないために、私は躍起になるべきだったんだ。
大事だったんだ。本当は、何よりも大事な物だったんだ。
手放していいものじゃなかった。そうするくらいなら、それを諦めるくらいなら、どんなにみっともなくても、必死で、泣き喚いて、しがみついて、絶対に離しちゃいけないものだったんだ。
そのことに、そんなことに、神と人との、もしくはそれ以外との、全ての存在に、違いなんてあるはずがなかった。
何よりも一番大きなその根っこは、神も人も違いなんてなくて、そんなものがあっていいはずがなかったんだ。
だから、それに気づけなかった……気づいていても、手を伸ばせなかった私は、伸ばさなかった私は、本当に、永劫に、失ってしまった。
神ですらなく、人ですらなく、暗い暗い、井戸の底に取り残されて、這い上がれず、それを見上げ続ける、まさに蛙の祟りが身。
もう……誰も私の周りにいないんだ。私を知っている者も、私を信じてくれる者も、私から全て離れていき、私は全てを失った。
私は、一人だ。
そうさ、お前と私の何が違う。
こんな力なんてあったところで、結局は同じだよ。
わたしは、ひとりなんだ。
ひとりぼっちさ……。
§
自分はひとりぼっちだ。
そう言って、目の前の揺れる金髪が止まった。
同時に周りの動き続けていた景色も止まって、それは、歩き続けていた神様の足が立ち止まったということで。
「あ……」
少女はその言葉と、そして急に歩みが止まったことから得た驚きで、今までのどこか別の時へ迷い込んだような昔語りの酔から醒めた。
醒めて、いまだぼんやりする頭で何か言おうとして、
「……そういや、私がどこに向かっているのか、まだ言ってなかったな……」
不意に表情を見せぬ神がそう言った。
そしてまた、よいしょと揺すって少女を背負い直し、
「まあ、もうすぐそこが目的地さ。しっかり掴まってなよ」
そう言うと、またしばらく歩いて、目の前にあった、恐ろしいほど太い幹を持つ樹木の一本に近づいていく。
気づけばもう、周りの道に傾斜はなく、平坦な林のような場所が広がっている。
その背中で、近づいていく、近づいてくるその大樹を見つめながら、少女はこれ以上どこへ行くのだろうかという疑問を新たにした。
登る道がないのならば、ここが山の頂上ではないのかと。木々の間から見える、燃えるような空に黒く連なる山の影を見ながらぼんやり思って。
「よっと」
「へ……?」
突如、ぶつかるのではないかと思うほど近づいたその幹に、神は歩みの勢いを止めずに片足を振り上げると軽くあてがい、踏みしめて、
「え、ええっ!?」
心底から出て来た少女の驚きの声と共に、軽く地を蹴ってもう片足を、踏みしめた足の先へと持ち上げて、またその足で幹を踏むと、そこから軽々と、いままでと全く同じペースのまま足を交互に動かして、幹に対して垂直を保ったまま歩いて登り始めた。
「ふえええ!?」
相変わらず少女は驚きの声しか発せずに、慌てて今まで少し離していた体を、その首にしがみつくようにして神の背に押し当てる。
まったく理解できない状態に今自分が置かれていた。後ろを向けばどんどん離れていく地面があり、それでいて、背中の方に引っ張られないのだ。
少女のこれまで生きていた常識と照らし合わせても、まったくそれは捉えられない。地面の方ではなく、自分が垂直にいる方向へ、神が踏む幹の方へ引っ張られているのだ。
「なっ、な、な……」
「……今の私に残ってるもんなんてのは、これくらいの力とな」
首をきょろきょろ動かして、言葉にならないそんな声しか発せられない少女へ、神がまたぽつりと語り始める。
「後は……もう、この先から見えるものくらいさ。いや……それも、もう、私のもんじゃないな……」
「……?」
歩みを止めず、登り続けながら。
そうする内に、枝葉に覆われた薄暗い景色を越えて、
「この山の頂上にある、さらに一番高いこの樹の上が……一番、それを見渡せるんだ」
「っ、わぁ……!」
周囲の全ての樹木の天辺を越えて更に上、滲むような茜の空が一気に開けて、そしてそれに照らされた。
「ここが、この景色が、この大地が、私に最後に残された――諏訪の地だよ」
山々の連なりと広がりと、それに囲まれた人の集落と……少女が今まで見たこともないような、赤い日の本に横たわる自然の原風景が、その目の前に広がっていた。
§
それを見たまま、丸ごと呑まれたように声一つ出せない少女を背負って、地面と平行だった身体を見晴らしのいい、ある太い一本の枝の上で元の垂直に戻し、その枝の途中でようやく神は歩くのを止めた。
そして眼下に広がるは、己のかつての――
「昔はな……」
その地を、郷を、煙る夕陽に目を細めて見つめながら、誰に向けるでもなくぽつりと、こぼすように。
「昔はこの山を越えてどこまでも、どこまでも私の国は広がっていたんだ」
その向こうを、見つめて。
「けれど、今はもう、これだけだ。これだけが、私の、諏訪の国で」
背負われる少女からは、どうしてもその表情を確かめることは出来ない。
「そして多分、もうこのちっぽけな郷にすら、最早私の力も、及ばないんだ」
そう呟いて、滲む、陽の赤のように。
「それでもな、それでもここに来てしまう。来ずにはいられないんだ」
その声に、混ざる。
「未練がましく、みっともなく、眺めに来ずにはいられないんだよ。私の、郷を……」
その言葉は、背に負った少女にでも、己にでもなく、ただ誰へも向けられずに、焼けたような空に向かって放たれて、消えた。
§
そして、神は何も言わなかった。
少女も、何も言うことが出来なかった。
二人とも黙ったまま、その景色を眺めて。
しばらくしてから、
「……私みたいな力があれば……一人が怖くなくなるか、って……確か、そう聞いたよな……?」
静かに問われたその言葉に、少女は小さく頷きだけを返す。
「……確かにな、一人でいることは、怖くなくなるさ」
その返答を得て、カエルの少女は言葉を紡いでいく。
「ただ、そうしたらな……そうしたら、一人でいることが、寂しいだけになっちまうんだ」
穏やかな調子で、少女へ優しく、言い聞かせるように。
「寂しいだけになっちまうとな、お前みたいに一人を怖がって、怖いと感じて泣くことが、泣いて誰かにすがることが、出来なくなってしまうんだ」
そして、渇いたように、
「ただ、ひどく寂しいだけなんだ……」
その声が、細くなってゆく。
「さびしくて、たまらない……それだけなんだ」
7
「……っ」
そして、少女はその喉に張り付いたような言葉に触れて。
目の前の、自分より身体が大きくて、力も強くて、ずっと長く生きてきた、かつての神の身を持った、同じ少女の吐き出した、身を切るような孤独に触れて。
「――」
息を呑んだ。
そして、思う。
さっきまで、自分だけがこんな理不尽に置かれているのだと、思い込んでいた。ここが、自分のいるここだけが、孤独の中心なのだと思っていた。
でも、自分を背負う神の吐き出したそれも、その手触りも、何もかも、自分の抱いたそれと同質で。何もかも、そっくりで。
「っ、う……」
不意に、涙が溢れてきた。
溢れて、零れて、そして、止まらない。
そうだ、世界には、自分だけの世界の外の、その果ても見えない場所には、自分のような、彼女のような孤独も、恐怖も、寂しさも、当たり前のようにどこにでも転がっている。
少女はようやく、その事実に行き当たった。
ようやくそれを思いついて、それを想像することが出来た。
そして、そう出来た時、それがとても悲しかった。それが、悲しくてたまらなくなった。
誰もがこんなものを抱えているなら、今じゃなくても、誰もがいつかそれに出会うとしたなら、どうしたらいいのだ。
この切り裂かれるような、向き合う度に涙が溢れて止まらなくなるような、そんな孤独を、どうしたらいいのだろう。
自分と同じそれを抱えて、それでもただ一人だけで立っている少女のようにすればいいのだろうか。
「……っ」
そんな、そんなはずがない。そんなはずがないんだって、それを誰よりも、誰よりもここから見えない、その表情が語っているはずだ。
だったら、どうする。自分のこの、抑えきれない涙も、立ち尽くす少女の、固まってしまったその心も、私は。
……私は……!
強く、背の服を掴んでいるその手を握る。
そして、考える。
自分以外の誰か……たとえば父も、母も、こんな孤独を抱えていたんだろうか。
母がいなくなった時に得た自分のそれと同じものを、父も同じように得ていたのだろうか。
だとしたら、それはどうして生まれたのだろう。
孤独を生む前には、きっとそこにはそれとは違うものがあって。
だとしたら、それは。
「あっ……」
そして、少女はその答えを理解する。それは、きっと本能のように、誰しもが最初から知っていて、でも気づけなければ手に入れられない。
けれど、今はそれが本当に答えなのかどうか、正解なのかどうかも、少女にはよくわからない。
だとしても、今の自分のこの潰れてしまいそうな心を、同じようにむき出しで目の前にある、金色の髪をした少女の心を、そのままにはしておけなかった。
自分のそれも、彼女のそれも、気づいたからにはもう、放っておくわけにはいかなかった。
「あ……ぅ……」
だから、少女は手を伸ばす。今どうしようもないこの中で、かすかに見えた光を掴むために。
渇いてしゃがれた喉を動かして、震えるその声で。
その言葉を、紡ぐ。
§
「……った、ら……」
不意に、諏訪子の首の後ろでそう聞こえた。
今まで静かに、声を押し殺して泣き続けていた少女の発したそれは、
「……だったら、私が……!」
次に強く自分の首に抱きついてきた衝撃と共に届いた。
「私が、カエルさんのこと、覚えるよ……! 私が、忘れないよ……!」
そして、さらに続けて届くその言葉と共に、
「私が、カエルさんの傍にいるよ……!」
その言葉と共に、心臓がどくんと跳ねた。
§
「だから……」
それでも、答えを得たのに、それを行おうとしているのに。
どうして、それでも涙が止まらないのだろう。少女の次の言葉は、またすがるように紡がれる。
「だから、カエルさんも、私の傍から、離れないで……」
伸ばした手は、向こうからも伸ばして、掴んでもらえなければ、きっと届かない。
「そうしたら、私の周りに誰もいなくても、カエルさんの周りに誰もいなくても……」
でも、届いたならば、そうしたならば。
「それでもお互いだけは、ひとりじゃなくて、すむでしょう……?」
きっと、一人じゃなくて二人で、抱えられるから。
だから少女は――早苗は、言葉に変えて、必死でその手を伸ばし続ける。
§
そして、しばらくの沈黙がそこに降りた。
少女はその背に抱きついたまま、カエルの少女の答えを待って静かにしゃくり上げを小さくしていき、背負う神は何も言わずただじっと立ったまま。
それから不意に、
「……私を、覚えてくれるのか……?」
そっと、少しだけ震える声でそう問うてきた。
「お前は……私と、一緒にいようと……共に在ろうと……そうして、くれるのか……?」
それは、少しばかりの期待と不安と、そして恐る恐るといったような、そんな感情を込めた声で。
「そうしようと、言ってくれるのか……?」
その問いかけに、少女はただ黙って、抱きつく力をぎゅっと強めることで答えた。
「……っ」
そして、それは何よりも、どんな言葉での答えよりもしっかりと、その身体に伝わって。
「……なあ」
神は声をいつもの調子に戻して、また問いかける。
「少しだけ、この枝の上、自分だけで立てるか?」
今度は少女がびくっと震える番だった。そーっと首を離して、下をのぞき見てから、しかし急いで首を戻し、
「が、頑張る」
その返答に、神はくすりと声に出して笑って、
「よし、じゃあ、頑張れ。降ろすぞ」
そう言うと、器用に少女の体を自分の体をぐるっと回らせるようにして前へ抱き上げる形で持ってきて、そのまま横を向いて、自分の正面へ静かに立たせた。
「っ、と……」
枝の太さは普通の木の幹より一回り小さい程度だが、二人の少女がその上で向かい合って立つには十分の幅を持っていた。
手が離れて少しよろけた身体を踏ん張って持ち直すと、少女は目の前の神を見上げ、神もその少女を真っ直ぐと見下ろす。
さっきから泣いて腫らした少女の目のような夕陽が、二人を横から照らしていた。
「……なあ」
そして、神が口を開いた。
その瞬間、あの居間で感じた時のように一気に周囲の空気が張り詰めて、そして世界に二人だけしか存在しないかのように音が消え、その声だけが少女の耳へ真っ直ぐと届く。
「本当に私を、信じてくれるんだな?」
問いかけに、答えは必要なかった。ただ見つめるだけで、神は納得したように、
「……そうか。だったら我が小さな信徒よ、お前がそうしてくれるというならば」
見つめて、告げる。
「今一度、お前の名を、私に教えてくれ」
§
その言葉を受け止めると同時に、考えるより先に、口から出てきていた。
「わた、しは――」
その顔を真っ直ぐ見つめ返して。
「私の名前は、東風谷早苗、です」
§
「早苗……」
初めて神の口が、その名を呼ぶ。
「早苗」
確かめるように、二度。
「早苗――」
慈しむような声で、三度目を呼び、
「ならば次は、覚えてくれ。そして、この先お前がどう在ろうと、せめて、忘れないでくれ」
願うように、語りかけて、告げる。
「私の名前は――」
見上げる顔がふっと少しだけ笑みを作ると同時、一陣の風が吹いて、
「私は、洩矢諏訪子だ」
二人の髪を揺らして、抜けていった。
§
吹き抜けた風と共に、いつの間にか二人の間から先程までの張り詰めたような空気もどこかへ消えていた。
残っているのは、見とれるように見上げたまま動けない少女と、その視線の先の優しい笑顔。
段々とそれが、またいつものぶっきらぼうな調子を取り戻しながら、
「ま、今更諏訪子じゃしっくりこないってんなら。呼び方は早苗の好きなようにしたらいいさ」
カエルさんでも何でもな、と、諏訪子はそう言っていつもの、出会ってこれまでそうしていたように笑う。
そこには、しかし、確かにさっきまでの優しさもちゃんと残っていて、
「あっ……じゃ、じゃあ」
だから、早苗はそれを言おうとする。きっとこの手は、届いたから。
繋がって、二人になったから。だからこれは、その証に。
「と、友達、だから、私と、諏訪子さん。だから、あだ名で呼んでもいい……です、か?」
はにかみながら、頬を染めてそう言った先の諏訪子は、笑顔に若干苦さを混ぜて、
「友達……ね。まあ、今はお前の好きなように思ってくれたらいいさ。呼び名だってね。それに、友達だってんならそんな堅っ苦しい言葉遣いもなしだ」
その言葉に早苗はやや緊張気味に頷き、
「は、はい……じゃなくて、うん」
「そうそう、そんでいい。それで、私のことをどう呼びたいんだ?」
「あ、うん、えーとね」
若干の溜めを早苗は作り、少しわくわくしながら待っている諏訪子へ、さっきまでの涙も何もかも、全部吹き飛ばし、満面の笑みを作って、
「ケロちゃん! って、呼んでいい?」
言い放つと同時に、諏訪子が全身から力が抜けたかのように体勢を崩してずるっと足を滑らせ、枝から落下しそうになった。
「うおっ、危な!」
が、何とか気合いで踏ん張り、持ち直すと、身体を半回転、早苗ではなく、広がる空と景色の方へ向かってしゃがみ込む。
「け、ケロちゃんか……も、り、や、す、わ、こ、どの文字も一つも入ってないとは、ある意味すごいわ」
ため息と疲れたような笑いを同時に出す諏訪子へ、早苗は不安気な表情で、しゃがみ込んだその視線に合わせるように身を屈め、
「やっぱり、ダメ?」
「……」
その声に、もう諏訪子は逆らえるはずもない。もう一度盛大にため息をついて、
「いいよ、もうケロちゃんでも何でも。好きにしな」
腕を動かすと、その黒い直髪の頭を優しく撫でる。
「……うん、ありがとう」
そうされて早苗は気持ちよさそうに目を細めると、静かにそう言った。そこに、色々な自分の想いを全て込め、それが少しでも、伝わるように。
§
そして、二人しばらくそうしながら、ぼんやりと空を眺めていた諏訪子だが。
「っと、いけね」
その見つめていた銅色の空の端に、少しだけ群青が混ざり始めているのを確認して、慌てて腰を上げる。
「そろそろ、帰らんとな」
不思議そうな顔で見上げる早苗にそう言って背を向けると、しゃがみ込み、
「ほれ、乗りな」
「あっ……」
しかし、早苗はまだ目の前の神がそうしてくれることに、若干の戸惑いを得てしまう。
そんな、まだ少しだけ臆病な少女へ、諏訪子は苦笑しながら、
「それとも、早苗の自力でまた降りてく自信でもあるのかい?」
「そ、それはない」
「だろ? じゃあ、ほら」
慌てて強く否定するその声に、今度は自然な笑い声を出して促す。
「……うん!」
そして、力強い返事と共に勢いよく飛びついてきたその小さな身体を受け止めて、背負い、よいしょと声に出しながら立ち上がると、
「よし、そんじゃあしっかり掴まってろよ」
「うん! ……うん?」
そう言われて、疑問の声を出す早苗へ、答えるように諏訪子は、
「ちょっと飛ばしていくぞ!」
「えっ」
大きくそう叫んで、気の抜けたような早苗の声を後ろに残し、
「っぅええーっ!?」
諏訪子は背負った身体をしっかり掴んで固定したまま枝からひょいと飛び降りると、背中から聞こえる絶叫を縦に伸ばしながら、重力と、他の枝を蹴る勢い任せに、猛然と駆け下り始めた。
8
届く陽の光が段々と細くなり、夜へと渡りかける山の中を、一人の少女を背負って駆け下りる、金色の髪を揺らす神の姿があった。
いや、それはもはや走って下りるなどというものではなく、一歩を踏むごとにその姿は遠く、高く跳び上がり、そうして跳ねて跳ねて、猛スピードで斜面を下って行くのだ。
「っ! わぁ! おおぅ!」
そして、その首に、背中に、必死にしがみつく早苗は、糸を引いて流れてゆく景色を見ながら、そんな感嘆の声を出し続けるしかできない。
「すっ、すごい! ね! ケロちゃん!」
「おいおい、こんなんまだまだ序の口だからな。もっと早くも出来るけど、どうする?」
「そ、それはいい!」
笑い声混じりの問いかけに、ぶんぶんと首を振って拒否し、そして早苗はふと、
「っ、あれ!?」
自分の身体の違和感に気づいて、声を上げた。
その違和感は悪いものというわけではなく、確か疲れて眠る直前まで感じていたはずの、全身のズキズキするような痛みがいつの間にかなくなっていて、
「あ、あれ!?」
そして、若干速度に慣れて余裕の出てきた思考で、少し自分の身体を見下ろして調べてみると、いつの間にかむき出しの足や手に無数にあったはずの擦り傷や切り傷が、全部治っていた。
「け、ケロちゃん、これ!」
驚いて、腕を片方離して前へ突きだし、見せようとしてくる早苗に、諏訪子はあっさりと、
「ああ、それな。まあ、そいつも私に残った力で、そんくらいの傷の治療くらいなら、出来るから……やっといた。早苗の体質のおかげもあるけどな」
怪我さしたまんまだとお前に悪いし、怒られるしな、と、諏訪子は苦笑する。
「……やっぱりすごいね、ケロちゃんは」
そんな神の力に、しみじみ感心してそうこぼす早苗。
しかし、そんな早苗の言葉に、諏訪子はふっ、と、声を穏やかにして、
「……そういやさ、まだ早苗に、言ってないことがあったんだ」
「へ……?」
間の抜けた声で問い返す少女に、神は静かに、ゆっくりと、
「実はな……本当は、私は本当は、ひとりぼっちじゃないんだよ」
そして、はっきりと、それを告げる。
「そして、それは、お前もだぞ――早苗」
§
「っ……?」
そう言われて、まるで思いがけないその言葉に少しこわばる背中の少女へ、神は、
「私には、私にはまず神奈子がいてな――まあ、あいつは数千年の腐れ縁ってだけだが」
まず、恥ずかしさを隠すように少しだけ憎らしさを込めてそう言い、次に、
「そんでな、もう一人いるんだ」
それを思い出しながら、優しい声で、
「お前の他にもう一人、私と共に在ると、そう、言ってくれた人間がいるんだ」
少しだけ首を振り向かせて、少女を見ながら、
「それが、早恵だ。お前のばあちゃんだよ、早苗」
§
「おばあ、ちゃんが……?」
呆然と、こぼれ出たような問い返しに、
「ああ、そうさ」
諏訪子は笑いかけて、答える。
「早恵が……あいつがそう言って、そして、そうしてくれているから、私の身体にはなけなしの力が残って……そんでこんな風に走ったり、お前の怪我を治したり出来るんだ」
そう言って、次は優しく少女へ言い聞かせるように、
「そしてな、それはきっと、お前にも同じことだぞ、早苗」
告げる。
「……お前が私にそう言ってくれたように、あいつが私にそうしてくれてるように……早苗がここにいるのは、早恵がお前とも、一緒にいようと、きっと、そうしようと思ったからだよ」
§
「……っ」
その言葉に、早苗はただ無言を返すことしか出来なかった。
「……信じられないか?」
そんな早苗へ、諏訪子は優しく問いかける。
しばらくの無言。
そして、静かに、
「……だって、会ったのは本当にずっと、ずっと昔で……そして私は、それを覚えてすらいなくて……そんな風なんだよ……?」
また少し震え始めた身体を抑えるように、早苗は諏訪子の背へぎゅっと抱きつく。
「信じたくないわけじゃないよ……でも、わからないの……おばあちゃんが私をどう思ってるのか……私は、どうしたらいいのか……」
不安も恐怖も、向き合えるようになってもまだ、この胸にはしっかりとあった。
繋いだ手はまだ一つだけ。早苗は、それを恐る恐るぎゅっと握りしめてみる。
「大丈夫だよ」
そして、それはすぐに握り返された。優しく、強く。
「全然そんなこと、心配するのも馬鹿らしいようなことだ。だってな……」
それから、あー、と、恥ずかしそうに一度唸ってから、
「お前のばあちゃん――早恵も、そんでついでに神奈子もな、絶対にお前から離れたりしないよ……、っ、ああ、いいやつだよ! 二人ともな!」
そう叫んでから、絶対二人には言うなよ!、と、釘を刺すような言葉がきた。
そして、それに、その言葉に呆気にとられて何も言えない早苗へ、畳みかけるように、
「私のこと、信じてくれるんだろ?」
その問いかけがきて、早苗は慌てて首を縦に振って返事をする。
「う、うん!」
「だったら、信じろ!」
そんな大声と、
「お前が信じる私が保証してんだ、何の不安も恐怖も、感じる必要なんてないってな! さあ!」
着地と同時に、地へ沈むような踏み込み。
「到着、だ!」
「っ、わあー!?」
そして、もう深い青ばかりの空へと、木を、藪を、突き抜けて二人は跳び上がる。
§
そして、赤から青へ変わってゆく空を見上げる、紫色の髪をした背の高い女が縁側に腕を組んだまま立って一人。
「少し、遅い……かねぇ? どこ行ってんだか」
そうしながら、ぽつりとそうこぼした言葉に、縁側のさらに奥、居間から、
「そうですねぇ……けれどまあ、準備が進めやすいんで、少しありがたいですけど」
食卓を整える手をふと止めて、縁側のその背と、向こうの空を同じように見据える薄い緑色を混ぜた白髪の老女。
「んー、まあそうだな、あの子も帰ってきてこれ見りゃ驚くだろうよ」
後ろからの言葉へ軽く笑いながら神奈子は首だけ振り向き、その食卓を見る。
「そうですね、そう思ってくれたら、嬉しいですねぇ」
早恵も神奈子へそう笑いかけ、そして準備を再開しようとする。
その時、
「……ん?」
ふと、山の方から何やら小さな悲鳴のような声が聞こえた気がして、神奈子は縁側から庭、それを囲む藪と樹木の方を向く。
次にがさがさとその奥、少し離れたところで鳴るような音が聞こえてきた。
はてな、と、首を傾げて、果たして山の獣でも近くに来てるのだろうかと考え、
「どうかしましたか?」
神奈子のそんな、何かを訝しむような様子を見て、早恵も問いかけと共に腰を上げて、そちらへ近づこうとする。
「ん、ああ……いや、なんか聞こえたようなというか……聞こえてるような……?」
いまだその方向を睨んだまま、こちらへ近づく気配の早恵へそう答える神奈子の耳へ、先程よりも段々近づいて、その伸ばしたような、絶叫というか、悲鳴というか、
「……ぁあーーっ!?」
「っ!?」
いや、もうはっきりと目の前で聞こえ、驚愕と共に神奈子が睨む先、
「わあーっ!?」
「到着、だ!」
藪を木を、がさっと突き抜けて、悲鳴を上げる少女を背負ったカエルが跳び上がって現れ、
「あらよー、っと!」
「わっ! あぁー……」
そのまま庭へ飛び込んでくると、どすんと着地、と同時、勢いそのまま地面をしばらく土煙を上げて滑り、呆れた様子の神奈子と、遅れて縁側へやってきて驚きを顔に表す早恵の前へと、
「おい、着いたぞ。降りろ降りろ」
服に付いた土煙をぱんぱんとはらいながら、首にしがみつく少女へそう促す諏訪子と、
「も、もう少し待ってぇ……」
いまだ着地の衝撃から立ち直れずに、震える足をなんとか地面につかせようと頑張る早苗。
そんな二人の姿が降り立っていた。
§
「ほら、しっかりしろ。ったく、あんくらいで情けないなぁ」
諏訪子は呆れたようにそう言いながら、首にしがみつく腕を剥がすと、半回転してつかみ直し、そうして早苗を宙吊り状態にする。
「だ、だってぇ……あ、ゆっくり、ゆっくりおろしてね!」
口をとがらせてそう言う早苗へ、わかったわかったと適当に返事してやりながら、その足を地面へ降ろして、
「あとは自分で頑張れ」
「わわっ」
ぱっと腕を放すと、早苗は大きくぐらっとよろけるも、何とか踏ん張って地面に立つことが出来た。
「まったく……」
「こっちの台詞だわ、諏訪子」
溜息と共に吐き出した言葉にそう返ってきて、諏訪子はようやく縁側、神奈子と早恵の立つ方へと向き直る。
「随分、楽しくやってたようじゃあないか、なあ?」
「うっ……」
視線の先の神奈子は、意地の悪そうな顔でにやにやと笑いながら。
その様子に、ばつが悪そうに一瞬うめき声を諏訪子はあげる。
が、
「……まあ、な」
恥ずかしさを少し混ぜて、頬をかいて視線を逸らしながらも素直にそう言った。
そんな諏訪子の様子に、
「へえ……」
少しだけ、驚きと感心を顔に出しながら、神奈子は諏訪子と、次にふらふらとようやくこちらを向く少女を見つめる。
§
視線を向けられるその少女は、
「っ……」
縁側に集まった神と、そして自分の祖母を見上げて、何か言おうとして、しかし言い澱み、下を向く。
手が、身体が、まだ少しだけ震えるのは、さっきの余韻だけのせいではなくて。
「っと、家に上がる前に言わなきゃいけないことがあったな」
その時、ふっと頭の上に優しくその手が乗せられた。
「なっ?」
見上げれば、そこには優しく笑いかける諏訪子がいて、
「……」
その姿に、早苗は視線だけで問いかける。
果たして自分が、それを言ってもいいのだろうかと。大丈夫なのだろうかと。
その問いかけを、不安をしっかりと受け止めて、
「……当たり前だろ」
乗せた手を、ぐしゃぐしゃと動かして撫でてきた。
「ほら」
だから、早苗はくすぐったさに目を細めながら、その手を信じて、前を向く。
「あっ……」
視線の先には、祖母がいる。不思議そうな顔で、こちらを見て、立っている。
それに向かって、早苗は、震えてつかえる喉を、必死に動かし、
「っ、た」
言う。
「た、ただいま!」
自分でも驚くほどの大きさで出たその言葉は、はっきりと目の前の祖母まで届き、
「……!」
そして、一瞬だけ驚いた顔と、次に満面の笑顔へと変わって、
「はい、おかえり」
何よりも待ち望んでいたその言葉が、確かに返ってきていた。
9
「う、わぁー……!」
居間へ上がった早苗は、食卓の上を見るなりそんな感嘆の声を上げた。
「すごい……!」
何故ならそこには、どうやって作ったんだろうというくらい所狭しと料理が並べられており、そして、そのどれもが、
「私の、好きなのばっかり……」
その声には、どうしてという素直な疑問が混ざっていた。
だから、食器や箸を最後に並べながら、早恵は笑顔で、
「早苗ちゃんのくれたお手紙に、好きな食べ物、たくさん書いてあったからねぇ」
その言葉に、そんなに食べ物のことしか書いてなかっただろうかと早苗は少し頬を染め、しかしそんな手紙をしっかりと読んでくれていたことに驚きを得ながら、祖母を見つめる。
「今日は早苗ちゃんが来てくれた日だからね、特別」
向き合う祖母は笑顔のままそう言ってくれた。
その後ろを回り込むように自分の席へ向かいながら、
「いわゆる、ハレの日ってやつだな。うお、しかし本当に豪華じゃないか、今夜は」
諏訪子はそう言うと、どすんと腰を下ろした。
「え? ケロちゃんも食べるの!?」
「なんだよ、独り占めする気か早苗ちゃんは」
「い、いや、そうじゃなくてぇ!」
驚きと共に問う早苗へ、軽口で答える諏訪子の代わりに、こちらもすでに自分の席へついていた神奈子が、
「まあ、神様は食事をしなくても平気だといえば平気なんだが。食べられないこともないし、何より早恵が私達の分まで作るのよ」
「だって、一人で食べる食事なんて寂しいじゃあないですか」
「というわけさ。……っつか、諏訪子、お前、ケロちゃんて……」
「聞くな……みなまで聞くな……!」
目の前でいきなりそんな会話が繰り広げられて、思わずどうしたらいいのかわからない戸惑いを抱えたまま、少女は立ち尽くしてしまう。
こんなにおいしそうな料理も、人がたくさんいる、楽しそうな食卓も、何もかも忘れていたもので、思い出せなかったもので、初めてのように感じて。
こんなことになるなんて、こんなものがあるなんて、あの時からは、まるで予想もつかなくて。
「どうしたの、早苗ちゃん?」
不意に早恵にそう呼びかけられて、早苗はびくっと少し震える。
「一緒に、食べよう?」
顔を向ければ、笑顔と共に、そう言われて。
「そうだぞー、早くしないと私が全部食うぞー」
「ええ、やだぁ、ケロちゃんてば神様なのにそんなに食い意地張ってるのかぁ、醜いねぇ」
「よし、神奈子、ちょっと表行くか」
「早く席ついて飯食うんじゃなかったのかい」
「もう、ご飯の前にやめてくださいよぉ。ほら、早苗ちゃんも、早く」
その温かい場所が、自分を待っていて、受け入れようとしてくれていて。
「あ……う、うん!」
早苗は自分でもよくわからない高揚と、まだ少しの戸惑いを抱えたまま、急いで自分の席につく。
そして、
「それじゃあ、早苗ちゃんを迎えてこれから四人、みんなで仲良くしていきましょう……というわけで」
早恵がそう音頭をとってから、続けて全員で声を合わせて、
「いただきまーす!」
言うと同時に、食事が始まる。
§
そんな風に、
本当においしくて、予想以上にお腹の減っていたこともあって、夢中になって食べ始めた料理や、
数分おきにおかずの取り合いで喧嘩しだす神二柱や、
そんな二人をなだめながら、自分の隣で本当に嬉しそうに笑う祖母や、
酒を開けるとまた二柱で飲み比べ、酔っ払って昼間の時みたいになっていく様子や、
そんなものが溢れる食卓の中で、自分でも抑えられないくらいたくさん食べて、大声で笑って、
そうしている内に、いつの間にか夜が更けていた。
§
「ぐへへへ、この本部は既に我々が占拠したぞぉ」
「むむっ、くそぉ! あきらかにグリフォンより強かったハヌマーン部隊め! くらえ! 零式貫手! 零式貫手!」
「うわっ! なんだその凶悪な攻撃! 明らかに正義の味方じゃないだろ!」
そんな寸劇を繰り広げながら、すでに食器の片づけられた居間で、荷物に入れて持ってきたロボットの人形で遊ぶ早苗と諏訪子。
「つーか、設定が細かすぎて全然わからん!」
そんなことを叫ぶ丸々とした形の諏訪子が持つ人形へ、自分の持っているシャープな顔のロボットを馬乗りにおおいかぶさせ攻撃を繰り返す早苗。
とりあえず、そんな早苗の攻撃に、やられたやられたと適当に倒れたポーズを取らせると、諏訪子は、
「あー、もういいだろぉー……疲れた。つーか、花も恥じらうような女子の趣味がロボット人形でごっこ遊びってなんじゃそりゃ」
そう言って仰向けに背中から倒れてごろんと寝転がると、首を動かし縁側の方を見て、
「そろそろ夜も遅いしなぁ、子供は寝る時間だよ」
「え、ええー、も、もう少し、もう少しいいでしょ? 遊ぼうよぉ」
「ダメだダメだ。つーか、お前のごっこ遊びは何かディープ過ぎて疲れるんだよ……」
「ううー……」
にべもない諏訪子の態度に、早苗は少し焦りのような感情を抱く。
確かに、夜も遅いし寝た方がいいことはわかるし、実際早苗は眠かった。
しかし、
……ひとりで、寝るのは……
そうだ。一人で眠るのが、少し怖いのだ。不安なのだ。
色々なことがあった一日だった。あり過ぎたと言っていい、今日一日だった。
その一日の終わりの最後に眠ることは、今日出会ったその全ての出来事をゆっくりとまとめ上げ、思い返すようなものだ。
たった一人で布団にくるまり、今日抱いた悲しみも、失った事実も、寂しさも、全てにまた、向き合わねばならない。
でも、そんな悲しみばかりの感情だけではなく、新しい喜びや嬉しさも今日の日にはあった。
しかし、どうしても一人でそれを抱いて眠るのが、嫌だった。一人だけというのが、怖かった。
だから、早苗はまた、
「ね、ねえ、じゃあ、ケロちゃんが私と……一緒に……」
繋いだ手に、もう一度頼ろうとした。
その時、
「ああ、諏訪子様も、早苗ちゃんも、ここにいたんですか」
そう言いながら、縁側の廊下を通って、早恵が居間へ入ってきた。
§
「早苗ちゃん、もう眠いでしょう? お布団敷けたから」
その姿に、言葉に、まだ早苗は一瞬身構えてしまう。
あれから色々あって、諏訪子の言葉を、祖母のことを、本当に信じても大丈夫なのかも知れないとは思えている。
でも、まだ、まだ少しだけ、早苗には勇気が足りなくて。何かが見えなくて。
「う、うん……」
躊躇してしまう。
早苗はそう、小さな声で返事をすると、力なく立ち上がろうとして、
「うん。じゃあ、今日はね早苗ちゃん、おばあちゃんと、一緒に寝ようか?」
またそんな、思いがけない言葉がきて、
「え……?」
思わずそんな、間抜けな声で問い返してしまっていた。
§
「いやだった?」
早苗の疑問の声に、早恵は少しだけ不安そうな声で。
「え、う、ううん、ち、違うの! 嫌じゃなくて!」
その早恵へ、早苗は立ち上がりの動作を終えながら、慌てて否定する。
そうだ、そうじゃなくて。
「どう、して……」
それは、一緒に寝ようと言ってくれることだけではなくて、早苗自身にもわからない、色々なことに対しての疑問が含まれていたが、
「……早苗ちゃん、今日色々あったでしょう? そんなことがあった後で、一人で眠るのって、すごく怖いよね」
早恵はそれを知ってか知らずか、ただ優しい笑顔と声で、答えていく。
「まだ、こんなに小さいんだもんね……今日はずっと一緒にはいてあげられなくて、早苗ちゃんの思ってるいろんなこととか、聞いてあげたりできなかったから」
言いながら、早苗へとゆっくりと近づいて、
「だから、夜はずっと早苗ちゃんの傍にいるよ。今日は、本当にごめんね」
そして、ゆっくりと、優しく、早苗の頭を撫でる。
そうされて、
「あっ……」
そうされて早苗には、ようやくそれが見えた。
早恵が、おばあちゃんがずっと、自分の前に伸ばして、差し出してくれていたその手が。
自分がケロちゃんへそうしたように、おばあちゃんも自分へずっとそうしてくれていて、自分も手を伸ばせば、すぐに掴めるようなところにそれはあって。
「……っ」
言葉に詰まって、何を言っていいのかわからなくて、早苗はただ目の前の祖母へと抱きついた。
抱きついて、その胸へ顔を埋めて。
「ふぇ……えぇ……」
静かに、涙が溢れてきた。
自分は、自分は馬鹿だ。
こんなに近くにいて、手を繋いでくれようとした人がいたのに、それを信じないで、ひとりぼっちだなんていじけて。
……ひとりじゃ、ないんだ
私は一人なんかじゃなかった。
すり抜けてなどいなかった。離れてなどいなかった。
父が最後に渡してくれた手は、確かに繋がっていたのだ。新しい手だって、繋げることが出来るのだ。
そんな、改めて得た嬉しさと。
「――――」
それでも、失ってしまった繋がりを、もう離してしまった手を思い出して、それをまだ、忘れることは、思わずにいることは出来なくて、早苗は抱きついたまま泣き続ける。
「……よしよし……ごめんねぇ、辛かったよねぇ……大丈夫だよぉ、おばあちゃんはここにいるから……」
そんな早苗を抱き返して、早恵は自分も少しだけ抑えられなくなった涙を流しながら、優しく胸にあるその頭を撫で続ける。
「やれやれ……」
そんな二人を静かに見守っていた諏訪子は、そこまで見てからようやく満足したような、そんな笑顔と溜息をこぼすと、黙って気づかれないように、居間から姿を消すのだった。
§
塗り込めたように深い夜の時。満天の星空と、
「……」
神社が本殿、そこに背を向けて無言でその空を見上げる金髪の少女の姿があった。
「あの子とは……」
不意に、そんな声が響いて、その横に新たな姿が立っていた。
「上手くいったようじゃないか。あんだけごねてたっていうのに」
注連縄を背負った、紫髪の女が神の姿。
その言葉に、
「……あの子はさ、やっぱり確かにあいつの娘なんだろうけど」
見上げたまま、
「それ以上に、やっぱりどうしようもなく、私達の子孫だよ……どうしたって、泣きたくなるほど、そうなんだよなぁ」
そう答えて、笑った。
それを見て、神奈子はふ、と、淡い痛みを胸に抱く。
自分の横のその笑い声は、その顔は、あまりにも、
「随分、寂しそうな顔してるじゃないのよ」
穏やかな声でそう言って、
「そんな顔するくらいだってんなら、早恵と同じように、久しぶりに私が添い寝してやろうか?」
次に、そんな雰囲気を吹き飛ばすようにそう軽口を叩く。
にやりと、蛇のような笑顔と共に放たれたそれに、諏訪子はゆっくりと首を動かして向き合い、
「おいおい、勘弁しろよ」
やれやれと言った感じの表情で、肩をすくめる。
「いくら欲求不満だからってさ、こういうのにまでかこつけて求められてもさぁ……仕方ないね、お前も」
まったく、まさしく蛇だねぇ。
そう諏訪子が言い終えると同時に、神奈子の全力での振りかぶりと共に放たれた拳が真っ直ぐ吸い込まれるようにその顔面をぶち抜いていた。
<続く>
映画を一本見終えたあとのような気分です。
素敵な作品をありがとうございました。
百点入れたいところですが、続くということで敢えてこの点数で。
この年にして既にパトレイバー(ですよね?)に目覚めているとは…素晴らしい素質だw
ただ、早苗さんがケロちゃんに置き去りにされたシーンで、早苗さんの感じたであろう絶望感が辛すぎて、
一度読むのを中断してしまいました。
母親に捨てられて父親に置き去りにされ、祖母(ほとんど面識がない)にたらいまわしにされた相手に途中で置き去りって、
これ下手したら人格に影響与えちゃうような辛さですよね。
過去に早苗さんの父親にどんな仕打ちを受けたにせよ、子に罪はないことくらい分かっているでしょうし、
ちょっとここの諏訪子は配慮が無さ過ぎたような。とちょっと信仰を失うのもやむなしかなと思ってしまいました。
ここがちょっとこの話のとげだなーと感じました。もやもやします。
でもそれを抜いてもとても魅力的なお話でした。続編も期待しています。
中編も既に投稿済みのようでしたが、
そこに行き着くまでにまだ時間が掛かりそうです。
いくらかギミックの仕込みを感じましたが、中編・後編でどう生きてくるのか楽しみです。
もうなんていうかこう、早苗ちゃんが可愛らし過ぎる!!
氏の文章が大好きな身としては、もうバカみたいにスゲースゲー思いながら、キャッキャキャッキャとはしゃぎながら読み進めてしまいました。
それでは、中編に期待を馳せつつ。