総領娘様のお側にはいつも私が一緒にいてあげないと――
そんなお花畑の乙女みたいな事を大真面目の考えているのだから、あの夏の日からずっと、私の頭には花が咲いているに違いない。
自虐的にそんな事を考えて、衣玖は口もとを僅かに歪ませながら、帽子のつばをつまんだ。いつもかぶっているこの黒い帽子には、あの日以来、真紅のリボンの代わりに大きな花が一本、まるで頭から生えているようにとめてあって、自分はたいそう馬鹿みたいな格好をしているのだろう。なのに、そんな自分を恥ずかしいとは、これっぽっちも思わないのだ。
帽子に刺さっている花はきっと、大きな大きなヒマワリだ。
あの遠い日が何十年前の事なのか衣玖はもう覚えていない。それでもそれが夏の日であった事だけはしっかりと覚えている。頭に咲いた綺麗なヒマワリがそれを忘れさせてくれないのだ。
当時は、衣玖と天子が知り合ってしばらくたち、お互いの事をそれなりには知った気になった頃だったろうか。
特に運命的な出会いをしたわけではない。天界に移ってきた比那名居家の邸宅が永江邸に近かったというだけだ。天子が一人で暇そうにしているところに衣玖は何度か出くわし、しだいに言葉を交わすようになって、会うようになった。その過程が比較的スムーズに進んだことは、竜宮の使いと天人という、無い様で存在するヒエラルキー構造が作用したのは間違いない。
「あんた。永江だっけ。私、今暇だから遊びなさいよ」
天子が偉そうに言った出会い一言は、ほとんど命令だった。
天子の母は、天子がまだ幼かった頃に病死している。それ以後天子は父の手によって育てられたのだが、比那名居家総領主は異常なまでの寡黙として知られる男であり、どう贔屓目にみても子育てには向いていなかった。さらに、要石の管理者として多忙になってからは、父の意思がどうあったにせよ、やむをえず天子の養育は比那名居家の侍女達にゆだねられる様になる。天子は、母もまたそうであったらしいが生来じゃじゃ馬な性格であった。それを正しく乗りこなせる手腕は誰しもには備わっていないもので、比那名居邸で天子の世話をする侍女達にもそれは無かった。家族という絆で結ばれた父と母になら、あるいはできたのかもしれないが、そのどちらもが天子の側にはいてやれなかったのだ。
衣玖が知り合った頃、天子はすでに立派な暴れん坊天人になっていた。背丈はすでに衣玖とほとんど変わらなかったが、精神は随分幼く思えた。
とは言うものの、衣玖にはどうも世話好きの素質があったのか、そんな天子を妹のように可愛がり、その類まれなる天真爛漫さをも可愛いらしく思っていた。そういう気持ちが伝わったのか、天子も衣玖の事をそれなりに気に入っているようだった。
だがそんな衣玖も、天子の我侭たっぷりなお転婆にだけは、ちょくちょく頭を悩まされていた。
総領娘様はこれまでひどく甘やかされて育ってきた。もっと世間を知らねばならない。
自分のその考えは至極まっとうな論理に思えた。天子のワガママが発生させるあちらこちらの揉め事に、必死に頭を下げて回った衣玖である。自分もまた、天子を甘やかしている一人なのだとある時気づいた。
総領娘様は一度痛い目を見るべきなのだ!
忘れえぬその日、衣玖はとうとうその考えを実行にうつした。昼を回ってすぐの頃、地上に行くからいつものようについて来てという天子のお願いを、衣玖は適当な理由をつけて断った。普段なら一緒についていって、天子が地上人に迷惑をかければ相手に頭を下げ、危険な場所に向かおうとすればそれを止め、あれやこれやと世話を焼く。けれどそれでは駄目なのだ。痛くなければ覚えない。
不安な気持ちが無いわけではもちろんなかった。衣玖は天界の端に座って、もんもんとしながら天子の帰りを待った。村人に迷惑をかけても天子は謝りなどしないだろうから、天人と地上人との間に軋轢が生まれるのではないか……天子の教育のためとは言えそんな状況を看過してよいのか……。天子の後を追いかける為の口実が、次々にわいてくる。口実である。これも天子のためなのだと自分に強く言い聞かせ、膝を抱えながら耐えた。
やっと天子が帰ってきたのは幻想郷の空が赤く染まり始めた頃だった。
雲海を上昇してくる天子の姿を確認して、衣玖はほっと胸を撫で下ろした。
だが、天子の姿がはっきり見えてくるにつれ、衣玖の顔から急激に血の気が引いていった。天子の服はあちらこちらが酷く破け、裂け目から覗いている素肌には血が滲む切り傷やらかすり傷がたくさんついて、服にまで血が滲んでいる。帽子のつばは半分以上ちぎれとび、飾りの桃は半ば食いちぎられていた。天界の地を踏んだ天子は立っている余力がないのか、その場に膝を着いた。衣玖は本当に心臓が止まりそうになった。
「どうされたのです! いったい何があったのですか!」
「うう……えぐっ……衣玖ぅ……」
泣きべそをかいている天子は、衣玖がはじめて対面する姿である。悲しげに自分を呼ぶ天子の声が、衣玖の母性本能を何度も突き刺し、責めたてた。衣玖はたまらず自分も跪いて天子の肩を抱いた。
「はいっ。はいっ。衣玖はここにおりますよっ」
「痛いよぉ……風見幽香とかいう奴がきて……私……何度も謝ったのに……」
風見幽香! よりにもよってあの究極無敵銀河最強加虐女!!
天子の味わった苦痛を想像し、衣玖の鼓動が恐怖に追い立てられ加速した。
「幽香の花畑にいったのですか!? あそこは行ってはだめだとと何度もいったでしょう! だからこんな……!!」
衣玖の目論見通り、事は運んだ。天子は衣玖の言いつけを無視し、その結果痛い目を見た。望んでいた通りの展開である。だが衣玖の心には満足感などひとかけらもありはしなかった。そのかわりに、後悔という名のどす黒い花が、一面に咲き乱れていた。
「ひっく……花を一本引っこ抜いただけなのに……あいつすごい怒って……」
「っ! 馬鹿!」
動転した衣玖は思わず衣玖は天子に手を上げてしまいそうになっていた。自分の行為がどれだけ危険な事か天子が分かっていない事に腹が立ってしかたがなかったのだ。
あまりにも世間知らずすぎる!
「馬鹿! 馬鹿! 総領娘様の馬鹿! あれは花の妖怪なのですよ! あいつの花畑の花を抜くなんて、殺してくれと言っているようなものでしょう!!」
「うう……だってすごく大きくて綺麗なヒマワリが咲いてたから……逃げてる間に落としちゃったけど……」
「だってじゃありません! 何でも自分の思い通りにいくと思ったら――」
「だってぇっ衣玖にも見せてやろうと思ったのよぅ……!!」
「え……! 私の……ために……」
風見幽香のマスタースパークにも劣らぬ衝撃が衣玖を襲った。
衣玖の心は、ぐちゃぐちゃになって乱れた。天子を強く強く抱きながら、衣玖はとめどなく荒れ狂う思考の渦に巻き込まれる。
……総領娘様が自分のために花を取ろうとしてくれた! うれしい……でもそのせいでこんな……もし私が一緒にいっていれば二人で見る事ができたのだろうか……そうしたらこんな事には……いやそもそも幽香の花畑に近づけはしなかっただろう……自分がいなかったから総領娘様はそのヒマワリをみつける事ができたのか……でも幽香の花畑のヒマワリを抜くなんて何て恐ろしい事を……総領娘様はやはり何もわかっていない……怖い思いをしたのだろうか……殴られながら自分の名前を叫んだのだろうか……助けてと……風見幽香めあいつよくも……けれどあいつのテリトリーを犯したのは総領娘様なのだ……ああやはり私が一緒についていれば……ついていればこんな事には……けれど私は総領娘様に幻想郷の世界を学んでほしかった……じゃあこれで上手くいったというのか……これからもこんな事を繰り返せというのか……総領娘様はあまりに多くを知らないのに……ならこれからどれだけ傷つかなければならないのか……甘やかした自分達だって悪いのに……総領娘様一人に傷を負わせるのか……花をくれようとした……かけがえのないやさしさだって持っているのに……どうしたら……どうすることが正しいのか……こうやって総領娘様が泣いているのは自分のせいではないのか……自分は間違っていたのか……泣いて欲しかったわけではないのに……学んで欲しかっただけなのに……何が悪かったのだろう……自分が悪いのだろうか……分からない……ごめんなさい総領娘様……ごめんなさい総領娘様……
到底ささえきれない圧倒的な後悔と無力感が、衣玖を押しつぶしてしまった。衣玖は後になって気づいたが、どうもこの時、自分は頭のネジが一本吹き飛んでしまったらしい。あるいはこの時に、ヒマワリの茎が脳天に突き刺さったか。
「……総領娘様。もう大丈夫ですからね……今日は私の家に泊まっていってください。総領娘様は天人ですから、一晩寝れば傷は癒えます」
「え。いいの……?」
衣玖は自分の空間に他人が踏み入る事をあまり好まなかった。そうでなくても天子は家をしっちゃかめっちゃかにしてしまいそうなので敬遠していたのだが、今日だけは天子と一緒にいてやりたかった。自分のせいで天子がこうなったのだという意識が、どうしてもある。比那名居邸にこんな姿の天子を帰すわけにはいかないという思いも無いではないが、それは比較にならないほどに副次的な理由である。
「さ。私が背負ってあげますから、帰りましょう」
「う、うん……」
黄昏の中、一つになった二人の影が家路を歩く。
永江邸について、衣玖は恥ずかしがる天子を説き伏せ一緒に風呂にはいって傷を洗った。「痛い!」「しみる!」と天子は暴れたが、浴槽に一緒に浸かり衣玖がしばらく膝の上で抱いてやっているとそのうち大人しくなった。それから飯を食べさせ、その晩は早々に布団に入った。ベットは一つしかなく、並んで寝るという事にまた天子が恥ずかしがったが、今度はそれほど強く抵抗はしなかった。天子はもぞもぞベットに入り衣玖は明かりをけした。
並んで暗い天井を見上げていると天子がぽつりと言った。
「あぁ。怖かった……」
ほっと息をついただけの何気ない軽い一言である。けれどそれが、再び深い後悔と申し訳なさを衣玖の心に巻き起こした。
衣玖が天子を無理やりに抱き寄せた。
「ちょっ。離してよ……」
そう言いながらも、結局天子は抵抗しなかった。
大人しく自分に抱き寄せられる天子の顔を胸に抱く。
「私の言う事を聞かないからこうなるのです。馬鹿。本当に馬鹿。痛かったでしょうに……」
「だって……」
「だってじゃありません。これからは私がずっとお側にいますからね。嫌がらずに私の話をしっかりと聞くのですよ。私の言う事はすべて、総領娘様を思っての事なのですから」
「えー……」
「えーではありません。今日だって私が付いていればこんな事には……ああ……」
「子供扱いしないでよね……」
その晩衣玖はずっと天子を抱いて眠り、天子もまた衣玖の腕の中から逃げる事なくその胸に顔を埋めて眠った。
それは仲の良い姉妹というよりも、子育てに苦悩する母とその心を知らない娘といった情景であった。蛇足を言えば、確かに衣玖は天子より百歳以上年上である。
この日、自分の中のタガが一つ外れたのだと衣玖は思っている。天子に対して、愛情という名の差別が明確に始まったのだ。天子の衣玖に対する態度も、少し変わった気がする。
今もまったく同じ心境であるというわけではない。あの頃よりは、過保護な気持ちは薄れている。けれど、無くなったわけではない。
駄々っ子の矯正方法として自分のやり方が正しいとは考えていない。けれど自分という妖怪にはこうする事しかできないのだ。自分は知恵ある教育者ではなく、狭い視野と感情しか持ち得ない、凡夫なのだと思い知らされたのだ。
一緒に痛い目を見て、結果的に成長していけばよい
天子がくれようとしたヒマワリが、衣玖にもたらした覚悟である。
あのヒマワリは今でも私の頭に咲いているのだ――
「ねぇちょっと。話があるからこっちにきてよ!」
召使いでも呼ぶような口調で天子が声をかけたのは、「あの」八雲紫である。総領娘様は相変わらずなのだから……と衣玖は隣で頭を抱えた。
年明け。真っ青に広がる冬ばれの空の下に、一面の白に染まった大地がシンシンと輝く一月の日である。雪の積もる博麗神社にはあちらこちらから人妖が集まってきて恒例の新年会が正午間もないまっ昼間から繰り広げられていた。その酒の席の事。
「ねぇちょっと。話があるからこっちにきてよ!」
召使いでも呼ぶような口調で天子が声をかけたのは、「あの」八雲紫である。総領娘様は相変わらずなのだから……と衣玖は天子の隣でそっと頭を押さえた。
年明け。真っ青にどこまでも広がる冬晴れの空の下、一面の白に染まった幻想郷の大地がシンシンシンと輝く一月の日である。雪の積もった博麗神社にはあちらこちらから人妖が集まってきて恒例の新年会が繰り広げられていた。まだ正午を少し回ったばかりの真っ昼間であるが、楽園の住人達にそんな事は関係ない。そんな酒の席の事である。
「あら。いったい何の用かしら?」
あちらこちらから聞こえるドンチャン騒ぎの中、八雲紫はとくに不満そうな声色でもなく、しかし怪しげな微笑を携えてその場に立ち上がった。
八雲紫と言えば、人間達ですら知らぬ者のない幻想郷最強妖怪である。もし妖怪達に強さのランクをつけたとすれば、誰もが迷わず最強のカテゴリーに八雲紫を入れるだろう。むしろ『最強』というカテゴリー名を『八雲紫』に書き換えてもいいくらいだ。単純な力量で考えれば風見幽香も同等ランクになるのだろうが、八雲紫は幻想郷の創想にたずさわった大妖だという事実が単純な強さとはまた別種の畏怖感を備えさせている。
そういう相手なのだから、下手にでて出過ぎる事は無いというのが世間一般の常識なのだが……。
「ここじゃあれだから、廊下にでてよ」
これである。お姫様は今だに世間を知らない。
「かまいませんわよ?」
紫はそう答えて、天子と肩を並べて廊下に向かう。
たたみに転がっている泥酔した妖夢やウドンゲや早苗やらを踏まぬよう注意しながら、衣玖は二人の後を追った。
紫と肩を並べる天子の背中は、記憶にあるものより随分と頼もしく見えた。
総領娘様はただの世間知らずとは違う……という思いが今の衣玖にはある。むろん、世渡りを知らないという意見に異論はないのだが、そんな物に頼らずとも波を乗り越えていける精神を天子はもっているのではないかと数十年を共にした衣玖は考えるようになっていた。自分の贔屓目に過ぎないかも、という自戒はもちろん忘れてはいないが。だがあれほど泣かされた幽香にだって天子は物怖じしないのだ。そう思うと紫にたいする偉そうなモノ言いも不思議と頼もしく感じられてくる。力量的な面でも、天子はすでに衣玖を凌駕しているから衣玖はなお更そう感じてしまうのかもしれない。総領娘様には私がついていてあげないと――そういう過保護な感情は今にいたっても間違いなくある。けれど長い間にその一部が変質して、いわゆる人間の男女の間にあるような感情が生まれていないとは言えなかった。
その性質の異なる二つの感情を深いレベルで同時に抱えられるのは、本能が必ずしもは子の繁殖にこだわらぬ妖ならではの器用さなのかもしれない。
「で……いったい何の用かしら」
喧騒から障子一枚分だけ遠ざかった縁側で、白銀の庭を背景にしながら、天子と紫は対峙した。
「こないだ紫が私にやったあれ。もう一回やってよ」
「あれ?」
「去年の忘年会の時に、あんた私の身体を動けなくしたでしょ。あれよ」
「ああ……」
天子の慇懃に言う『あれ』とは、去年の忘年会での起こった出来事にある。酒の席で天子はレミリアにあおられて暴れ、周囲に少なからず迷惑を振りまいた。その折檻として、紫に罰をくらったのである。意識はあるが、身体に全く力が入らない状態にさせられてしまったのだ。さすがに呼吸などに必要な無意識の動作は奪われなかったが、手足を動かす事はもちろん、まぶたを開く事も、言葉を話す事もできなくなってしまっていた。マネキン状態である。--->(* 作品集123『衣玖さんが無理やりキスしてるだけ』より)
「あれをもう一度やってほしいの? ……よく分からないけど、新手の被虐趣味?」
「違うわよ。私じゃなくて、衣玖にやってほしいの」
紫はますますわけが分からないという顔になった。
「どういうことか説明してくれるかしら」
「さっさとやってくればいいのに……」
天子がそんな事を言うものだから衣玖はまたヒヤリとさせられた。この安寧した弾幕時代にそれほど手荒な事はしないだろうが、紫がその気になれば、ゆびぱっちんと同時に二人の体を爆散させる事ぐらいわけないのだ。とは言え、紫はとくに気分を害した様子は無い。
「身体が動かなくなった後、衣玖に天界へつれて帰ってもらったんだけどね。衣玖ってば私の身体が動かないのをいいことに、好き勝手私を弄んだの。で、そのお返しに今度は衣玖の身体が動かないようにしてほしいの」
天子があまりに赤裸々に言うものだから、衣玖は
「ぶっ」
と噴出して、一方紫は
「へぇぇ」
といやらしい顔でにやついた。
その歪んだ口もとを扇で隠しながら、興味深げな視線で衣玖をなめ回し見る。
「あなた。ただの保護者さんじゃなかったのねぇ」
居心地の悪い想いをしながら、衣玖は俯いた。口からでたのは妙な強がりであった。
「まぁ……保護者と呼ばれるのには、いささか納得がいかない部分もありますけど」
強がりとは言うもの、本心でもある。昔は保護者でもよかったが、けど今はせめて、パートナーと呼んで欲しい。まあそんな事はこの場ではどうでもよいのだが。
「おもしろい事になってるのねぇ貴方達……。で。貴方は動かなくった彼女に何をするのかしら?」
紫に問いかけられて、天子はむぐっと口を噤んだ。顔がすぐに赤くなる。
「まだ考えてないわよ! あ。それとね。今度は身体の自由だけじゃなくて、意識ってやつ?それもなくして欲しいの」
「へぇ。意識まで?」
「わ、私は衣玖みたいに変態じゃあないから、衣玖が見てると思うと、いたずらなんかできないもの!」
「総領娘様……変態はやめてくださいませんか……」
「でも意識まで奪ってしまったら、貴方がされた事の仕返しにならないのじゃないの?」
「いいのよ! 何をされたのか分からないのだって怖いでしょ! 私だって、好き勝手できればそれで仕返しした気分になるし」
「ふぅん。なるほどねぇ……」
紫は二人を並べて観察しながら、ニヤニヤと口もとを歪めている。
「で。やってくれるの?」
じれったそうに天子が言った。その間も衣玖は注意深く紫の様子をうかがっていた。
この話、紫にはなんのメリットもない。紫がそういう事を重視するのか衣玖には良く分からなかったが、頼まれて素直にハイハイと答える妖怪ではないと思っていた。天子は、生まれてこの方声をかければ周りがなんでもハイハイと従ってくれる環境にいたから、分からないのかもしれないが。
紫がごねた場合のオプションを衣玖は用意していた。
頼みを聞いてくれたら天界の桃一箱分。天界の桃はその美味でしてれいるから悪い条件ではない。そしてもし紫がそれでも渋るのなら……天界屈指の妙味をほこる、天楽樹園産の桃を五つ、というプランBも用意している。天楽樹園の桃は衣玖などには到底手に入れられない珍味であるが、天子の父にならなんとかなるだろう。確証を取り付けてあるわけではないので、かなり危ない橋なのだが。
こういうことも、衣玖が天子の影で行ってきた世渡りの一つである。
が、しかしである。
「いいわよ」
予想に反して紫はあっさりと承諾した。
あっさりすぎて衣玖はつい言った。
「いいのですか?」
「ええ。ごく簡単な事だし」
「そ、そうですか」
それはそれで、怖い事だ。
「わーい」
天子は裏表の無い顔で諸手を上げていた。
「ところで貴方はいいの? 意識を奪われて、好き勝手されるなんて」
「え、ええまぁ……私の方もいろいろしましたし……」
「ふぅん。おもしろいわねぇ」
何がなのか、紫は言わなかった。
それからたんたんと準備が進んだ。
準備と言っても、脱力した時に怪我をしないように、天子が衣玖を背負い、靴を履いて天界に帰る準備をするだけである。
「じゃあ、いいかしら? 私がこの指をならすと同時に彼女の意識は途絶える。目覚めるのは……今日の日没頃でいいかしら?」
「いいわ」
天子が頷いた。
「それではいくわよ」
「はい」
紫がすぅっと手を上げるのを衣玖はまじまじと見ていた。
気を失う瞬間は分かるのだろうか? どんな感じがするのだろう? 気が付いたら日が暮れているのだろうか? 総領娘様は……私にどんな事をするのだろうか……。
そんな事が瞬間的に頭の中に走り――
パチンッ!!
刻みの良い音が衣玖の耳を打った。
そして、全身から力がぬけて不思議な浮遊感につつまれ――
(あれ?)
衣玖は意識の中で首を捻った。何かがおかしい。
いや、そうやって考えることができる事じたい有り得ないはずなのだ。自分は意識を失うはずなのに。
「衣玖? 衣玖? もう意識がないの?」
そう呼びかける天子の声がはっきりと聞こえる。
天子がわずかに顔を後ろに向けて自分の顔を横目でみているのが、はっきりと見えた。
(え? え?)
おかしい! 意識がある! それどころか目もしっかり見えるし……!
(あ……身体は動かない……)
動かそうとしても身体が動かないというのは、非常にもどかしい感覚である。
「うわー。ぐっすり寝てるみたい……」
天子のその言葉に、おや、と衣玖は眉を寄せた。
周りが良く見えるという事は、自分は目を開けているはずなのだが……。
が、衣玖はまぶたの辺りに奇妙な感覚がある事に気が付いた。眼球が何かに包まれているような微かな感覚が、たしかにある。まぶたを閉じたときに感じる感覚だ、とすぐに気づいた。という事は自分はまぶたを閉じているのだろうか? 天子の言葉をかんがみるに、そうであるらしい。どうやら、内側からだけまぶたが透明になったような奇妙な状態であるらしかった。
あたりに目を向けようとして、眼球に力を入れるが、やはり動かす事はできなかった。
だが周囲に意識を向けて、衣玖は気づいた。
紫が衣玖の方を見ながら、意味ありげにニヤニヤと笑っていた。
(やられた!)
衣玖がやっとその事に気づいた。遅いくらいである。
紫はやはり天子の言葉に従わなかったのだ。衣玖の身体と意識両方を奪うという話だったのに、紫は意識だけは残しておいたのである。前回の天子の状態とほとんど同じという事だ。
少し違うのは、天子の時と違って衣玖は周りの様子を見る事ができるという事。天子は、あの時まぶたを閉じているせいで目は何も見えなかったと言っていた。ちなみに身体が脱力するとまぶたは開きっぱなしになるものだが、そうならないのはまた紫のせいなのだろうか。
さておき、言ってみれば天子は紫にはめられたようなものである。
(総領娘様ー。私はおきてますよー)
むろん、天子に伝わるはずもない。
「よーし。じゃあ私は衣玖をつれてかえるわね」
「ごゆっくりとお楽しみなさいな」
「う、うるさい! まぁ……礼は言っとくわ」
紫がいかにもという怪しい顔でニヤついているのに、天子はまったく何も気づかずに、馬鹿正直に礼を言った。
(やれやれ……だから世間知らずだというのですよ……)
地上では何事も疑ってかからねばならない……とまでは言わないが、少なくとも天狗やこの紫を相手にする時ぐらいは、話の裏を考えて当然なのだ。まぁ衣玖も紫の腹の中を読めていたわけではないのだが。
「いくわよ。衣玖。落ちるんじゃないわよ」
天子が独り言を言った。
(はーい)
だが衣玖がそれに答えた。
天子は縁側から飛び立ち、待ち望んでいた玩具をようやく手に入れた子供の顔で、澄み渡る冬空を急上昇していった。
ベットに寝かされた衣玖はなんだかんだでワクワクしながら天子の動向を観察していた。意識がなければ、また視界が利かなければ、そういう楽しみは得られなかったのだから、その点については紫に感謝したい気分であった。
場所はもちろん衣玖の寝室である。わざわざ人目につく比那名居邸に向かう理由はない。
天子は衣玖をベットにおろした後、まず寝室のドアをきちんと閉め、それから窓辺に移りそそくさと外を見回したあと、厳重にカーテンを締めた。時間は正午を回ってまだ間もないが、陽がさえぎられて部屋の中は薄暗くなった。怪しげな空気が流れだし、天子はベットの横にそそりたち、衣玖を見下ろす。
(総領娘様は何をするつもりでしょうか)
同じ状況に衣玖があったときは、欲望のままに天子の唇を奪った。天子がそれ以上の事をできるとは思えなかったが、わざわざ衣玖の意識を失わせてまでする事である。何かとんでもない事をされる可能性は十分にあった。
「うわぁ。こうしてみると寝てるだけみたいだけど……」
人体標本でも見るみたいに衣玖の顔を覗き込みながら、天子が言った。
起きてるどころか総領娘様鼻の穴の中までばっちり見えてますよ、と返事をしたら天子は驚くだろうか。衣玖はそんなことを考えたが、かなわぬ妄想である。
「……えい。えい」
天子は人形遊びの延長のような感じで衣玖の身体の各部をいじった。頬をつついたり、耳たぶを触ったり、興味は主として顔面に集中したのだが、ぶたっ鼻にされたのはかなり腹立たしかった。
かと思うと、衣玖の足元に移動した天子は、いきなり衣玖の足の裏をガリガリと爪でかき始めた。それはこそばすなどという生易しい感覚ではなくもはや拷問である。衣玖は声なき声で絶叫した。身体は動かないけれど感覚はしっかりとあるのだ。足の裏から極悪なくすぐったさが脳髄を伝ってくるというのに、まったく抵抗できない。もしこれを数時間続けられたら、自分は必ず自我崩壊するだろうと衣玖は恐怖した。
(ハァハァ……こ、子供のやることでしょう……)
ようやく拷問から開放された衣玖は、精神的に壮絶なアヘ顔になりつつ天子をなじった。
こんな無意味な事をするために、わざわざ自分の身体と心を喪失させようとしたのか。
天子からすれば、衣玖の意識がないのは分かっているのだから、こんな事をしても何の意味もないはずだ。いやひょっとすると、衣玖が本当に身体の自由と意識を失っているのか、確かめたつもりなのかもしれないが……。
その時。バサっという布の舞う音と共に、衣玖の太ももに布がこすれる感触があった。同時に足がスースーするようになって、天子が自分のスカートをべろんとめくったのだと分かった。
それから、おののいたような天子の声が聞こえた。
「うわ。衣玖……こんなのはいてんだ……」
(ちょ)
衣玖は今日はどの下着をはいていたのか、瞬時に記憶をさかのぼった。
この日は結構気合の入った一枚だった事に思い至り、安堵した。時々履いている使い古しのよれた下着でなくて、本当によかった。
「サタデーナイトフィーバー……」
よく分からない感想を述べながら、天子はめくりあげていた衣玖のスカートを元にもどした。
(だから! 子供の人形遊びかっつってんです!)
恥ずかしさも後押しして、馬鹿らしくなって衣玖は叫んだ。
人一人を自分の意のままに弄ぶことができる状況を作っておいて、天子がしている事といえば、お医者さんごっこですらないただのおさわり観察ごっこである。
もういっそ寝てしまおうか……。衣玖がそんな風に思い始めた時である。
ぷにぷに
(おおう)
天子が衣玖の乳房を指でつついた。
「柔らかい……」
天子は、ベットの上に身を乗り出し顔をぐぐっと衣玖の乳に寄せ、昆虫を観察するファーブルのような口調でそう言った。
何か思うところがあったのか、天子はウウムとうめきながら、次に、衣玖の乳房を手のひらでグワシッと鷲づかみにした。
(はう)
そのまま二度三度、ゆっくりと揉む。揉む。少し痛い。
ファーブルの鼻息はどうも荒くなっているようだ。
天子はもぞもぞとベットの上に乗り、さらに、衣玖の太ももの辺りに馬乗りになった。そのまま前のめりに倒れ、四つんばいになり、以前に衣玖が見せたような捕食姿勢をとった。異なっているのは、あの時衣玖は天子の唇に狙いを定めていたが、今天子はどうやら衣玖の乳房に狙いを定めているらしかった。
衣玖は視界の下方に天子の姿をうかがっている。
天子の顔は、薄暗闇――とまでは言わないが薄暗い天井を背に上気していた。
天子の手が伸びた。恐る恐る、という様子で衣玖の上着を捲りあげていく。
(む……)
ぺろん。という軽い感じで、衣玖の乳房が天子の眼前に晒された。
天子は、いったいそこに何があるのだと聞きたくなるような集中力で、あらわになった衣玖の乳房をじぃっと見つめている。
(なんなのでしょう……)
これにはさすがの衣玖も、先の展開を想像してドキドキする。ひょっとして、思ったよりも大胆な事になってしまうのだろうか。
そして、口が、天子の口が動いた。唇が上下に開いた。「くわえようとしている」という以外に、衣玖は天子のその動作の意味を類推できない。
天子の口がゆっくりと衣玖の胸に近づいて、類推が確信に変わった。
そして。
ちゅう。
(ふぇ)
天子は衣玖の乳房の先、乳頭をくわえた。いや違う。吸い付いたのだ。そしてそれは一度では終わらなかった。
ちゅう。ちゅう。
(ふぇぇぇ)
ちゅう。ちゅう。ちゅう。ちゅう。ちゅう。ちゅう。
(ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ)
天子は乳を吸い続けた。乳を吸いながら、もぞもぞと姿勢を変えて両腕を衣玖の胴体にまわしてがっちりとお互いの身体を固定した。そのまま一心不乱に乳を吸った。その姿はまるで、衣玖の乳を吸うためにだけ生きている生命体のようであった。
(総領娘様ったら……赤ちゃんみたいですねぇ……)
そう考えたとき、何かが衣玖の中で閃いた――
今まで霧に包まれて見えなかったものが突然見えるようになったような――
衣玖は聞いた事がある。人間の子供は時折、一度乳離れした後に何かのきっかけで赤ちゃんがえりする事があるという。天子はこれでもウン百歳なのだからさすがに赤ちゃんがえりというのではあるまいが、幼い頃に母親を失っているとうい事実がある。残された父は子育てに不得手で、天子は愛情に恵まれた幼年期を送ったとは言いがたい。生命が二次成長以前にだけ感じるという根源的でまだ明確に分化されていない感情、つまり、親を求める本能的な『寂しさ』のようなものが、幼少の不遇のために、癒される事なく今も天子の心の奥に潜み続けていたのではないだろうか――
(総領娘様……)
一心不乱に己の乳を吸う天子を感じながら、衣玖の中に近年は薄れていたある感情がむくむくと頭をもたげてくるのを感じていた。
それは、「母性」と呼ばれる心だろう。
『天子にとって君は母親代わりなのではと、私は思っている』--->(* 作品集122『ヴァリアブルお母さん』より)
天子の父にそう言われてから、まだそう日は経っていない。あの時自分は内心でその言葉に強く反発した。そんな穏やかな間柄ではなく、もっと情熱的な間柄でいたいと思った。
けれどかつては、母親代わりという言葉は使っていなかったにせよ、天子の側にいて守ってやるのだと息を荒げていた時期が確かにあった。天子への気持ちがいくらか変質した今だって、総領娘様には私がついていてあげないと、という気持ちは間違いなくある。
天子はそんな衣玖の母性を求めていたのだろうか。それが今の天子の行動に繋がっているのだろうか。
(私は……)
衣玖は、昨年の冬の夜、天子の唇を無理やり奪った事を後悔し始めていた。衣玖と天子の意識には明らかな隔たりがあったのではないだろうか。自分は急ぎすぎていたのだろうか。短命な人間達とは違い、二人にはこれからまだ長い時間が与えられているのだから、未成熟で未発達なそんな淡い関係をもっとゆっくりと楽しめばよかったのだろうか。
(総領娘様)
今、身体が動いてほしいと衣玖は心から思った。
身体が動けば、天子を抱いてやれるのに。
気がつけば、陽がくれ始めていた。
衣玖の寝室は暗闇といってよい状態に移り変わりつつある。シンと静まり返った部屋の中で、時折、ち、ち、と小さな湿った音が僅かに聞こえる。
あれから数時間たって、天子は今も衣玖の乳房を吸い続けていた。何度か乳首から口を離す事はあったが、天子は衣玖の胴にまわした手をほどきはせず、衣玖の乳房に頬擦りし枕のようにして休むだけで、またすぐにおっぱいを求めた。
衣玖はずっと意識を保っていた。身体にかかる天子の体重と、触れ合った暖かさ、そして赤子が力強く一途に自分を求める感触をずっと心地よく感じていた。天子の望むようにしたらいいと、とても落ち着いた気持ちになっていた。
そろそろ明かり無しではあたりが見えづらくなってきている。
そして、終わりは唐突に訪れた。天子がくわえていた口を離して、衣玖にしがみついていたとうとう手をほどく。それから身体をゆっくりと起こした。
暗闇のせいでその表情はよく見えなかった。濃い藍色の世界の中、静かに肩を上下させる天子の黒い影だけがぼんやりとうかがえる。
「ごちそうさま」
天子がとってつけたような口調で、ずれたような、ずれていないような事を呟いた。自分でもどう言っていいのかわからないのかもしれない。
それから天子はベットから降りて薄暗闇の中、トタトタと足音を立てて部屋から出て行った。それから水のはねるような音が聞こえて、どうやら天子が洗面台で顔を洗っているらしかった。
戻ってきた天子は、部屋の明かりをつけた。河童印の常夜灯である。
見慣れた天井が視界に広がる。天子は視界の範囲外で何やらごそごそとしていた。
その物音を聞きながら、後は自分が目覚めるまで、天子は適当に時間をすごすのかなと思った。
その時である。
ずるぅ!! と衣玖のスカートがずり下ろされた。
(へ!?)
今までの気分をすべてぶち壊しにする天子の行動に、衣玖はパニックを起こしかけた。
突然の事で意識が白黒しているうちに、今度はストッキングがズリズリと脱がされていく。
(ちょちょちょちょ! 総領娘様!?)
なんだったのか! さっきまでの、あの自分が聖母になったような一時はなんだったのか!
そしてとうとう、天子の手が唯一衣玖の下半身を包んでいる最後の下着にかかった。
(ぎゃー!)
と衣玖は悲鳴を上げたが、下着にかかった衣玖の手は、そこでピタリと止まり、最終防衛線ががずりおろされる事はなかった。
「さすがにね・・・」
意味はわからないが、天子のそんな囁きが聞こえた。
それから天子はそそくさという足取りでベット脇を移動し衣玖の上半身に近づき、すでに半分ずりあげられている衣玖の服をむんずとつかんだ。そしてブラジャーごと服をさらに引っ張りあげて、結果、衣玖の乳房が二つ、ぺろんぺろんと露出した。
自分はそうとうアレな格好になっているだろうと、衣玖は呻いた。
天子は腕を組みながらそんな衣玖をしばし見下ろし、満足気な顔でうんうんと頷いてから、ベットに腰掛けた。
(な、何をするつもりでしょうか)
が、それ以上は特に何もしないようであった。天子はあらわになった衣玖の乳房に時折チラチラと遠慮がちに目配せをするだけである。
(……吸いたきゃ吸っていいのですけど)
何てことを考えていると、衣玖は、何の前触れもなく、スゥっと身体に重量感みたいなものを感じた。
体の芯に何かが戻ってきたような、奇妙な感覚である。もしやと思い、指先を少し動かしてみる。すると確かに、指が動いてベットのシーツを擦った感触があった。
「あ……」
声が、でた。
「衣玖! 起きたの?」
天子が驚く。
「え、ええ」
久しぶりに、といっても数時間の事だが、自分の身体が思い通りに動くというのは奇妙なもので、衣玖はベットに横たわったまましばらく、腕を上げたり、首を曲げたり、足首を回したりした。それからようやく起き上がった。首を前に曲げて自分の身体を見下ろす。われながら形のいい乳房がむき出しにされて、下半身はやはりパンティーしかまとっていなかった。辺りを見ると、床に、スカートとストッキングが投げ捨てられていた。
「あの……」
数時間にわたる授乳の後の、最後の数分に行われたこの追い剥ぎの意味を衣玖が天子に問おうとしたときである。
「へへへーーーーん!!!」
鬼の首でもとったかのような、天子の雄たけびが寝室に響いた。
「驚いたかしら衣玖!?」
「へ?」
「自分が何をされたかわかる?」
「あの……いや……」
「ふふふ……とても人に言えないような事をたくさんしてやったんだからね!!」
「……ええと……」
「あれよ、衣玖はもう、お嫁にいけない身体ってやつになったのよ!!」
「……」
天子は衣玖の沈黙を恐怖だと勘違いしたらしく、よりいっそう得意げな顔で言った。
「何をされたかわからなくて怖いでしょ! 私にあんな事をするからこういう事になるのよ! 思い知りなさい!はっはっは!」
天子はそう言って腰に手を当ててふんぞり返り、ものすごいドヤ顔を衣玖に見せ付けた。
衣玖は、ぽかぁんとした顔でその天子のアホ面を眺めていたのだが……。
「ぷっ!」
唐突に笑いの衝動がこみ上げてきて、しばらくはフグのような顔になりながらもなんとか耐えたのだが、とうとう我慢できなくなって、衣玖はブフゥと吹き出してしまった。そして一度耐えられなくなると後はもうどうしようもなくなって、ベットの上で笑い転げた。
「え? え?」
天子は最初わけが分からないという顔をして衣玖を見つめていたが、衣玖があんまり笑い転げているものだから、なんだか腹立たしくなったらしく、顔を染めながら怒鳴った。
「な! な !なによ! 何がおかしいのよ!?」
衣玖は上体を伸ばしベットの側に立っている天子をむんずと捕まえ、そして馬鹿力でもってベットに引きずりこんだ。
「ひぇ!?」
抗議する天子の顔を衣玖は無理やりに抱きしめ自分の乳房に押し当て、そうして衣玖はまた笑い続けた。
「うわっぷ! は、はなしてよ!」
「総領娘様ったら! 総領娘様ったら!」
「なんなの……衣玖がおかしくなっちゃった……」
あきれたのか、押し当てられる乳に意識をとられたのか、衣玖の腕の中で天子はしだいに大人しくなっていった。
衣玖がようやく笑い終えた頃には天子はすっかりおとなしくなって衣玖の胸の谷間に鼻を埋めて、ぶぜんとした顔をしていた。それがあまりにも可愛くて、衣玖は天子の頭にちゅっと口付けをした。
「うむぅ……離してよ」
天子が呻く。
衣玖は天子を離さずに囁きかけた。
「総領娘様」
「何」
「私のおっぱいが欲しくなった時は、いつでも言ってくださいね」
それを聞いた天子は、しばらくは黙ってじっとしていたのである。
が、すぐに、
「ちょまぁ!?」
と意味不明な事を叫んで、ものすごい勢いで起き上がった。
「はっ……? えっ……? はっ……?」
目をまん丸にしている天子の顔を、ベットに横たわりながら衣玖は、優しい笑みで見上げた。
「やはりまだまだ総領娘様には、私が一緒にいてあげないといけませんね」
「い、い、い、いや、お、お、おっぱいとか、分けわかんないんだけど? な、なにいってんのかしら衣玖は? 自慢してんのかしららら?」
天子は視線をあちらこちらにさまよわせながら、震える声色で女々しく現実から逃げ続けている。蒸気が噴出しつつある顔からは羞恥心が結晶化した冷や汗がたれていた。
衣玖は天子の頬に手を当てて、幼子をいさめる口調で優しく言った。
「あの八雲紫が他人の言う事に素直に従うと思っていたのですか? やはり甘いですねぇ。うふふ」
そして、真っ赤な金魚になって口をパクパクする天子に、衣玖はとうとう決定的な言葉をかけた。
「私はずうっと、起きていましたよ?」
ピシリッ!
と音をたてて天子は凍り付き、数瞬後、
ぴちゅーん!
その顔が爆発した。
「あああああああらぎゃあああああああああああああああああくぁwせdrftgyふじこ!!!!!!」
天子は顔を溶鉱炉にして意味のわからない悲鳴をあげながら、寝室から飛び出していった。
さすがに衣玖があっけにとられていると、
ガチャッ!! バタン!!
と玄関のほうからドアが乱暴に開け閉めされる音が聞こえて、天子が家から飛び出していったのだと分かった。
衣玖はベットに仰向けになりながら、もう一度、今度は上品にくすくすと笑った。
衣玖が博麗神社の母屋脇に降り立つと、そこには八雲紫が待ち構えるようにして縁側に腰掛けていた。
「どうもこんばんわ」
会いたくない奴に会った、と内心顔をしかめつつも、挨拶は、衣玖の方からする。捻くれた連中とはできるだけ関わらないか、関わるなら穏便に手身近に、というのが衣玖の信条である。天子は例外。
「ええ。こんばんわ。月がきれいね」
八雲紫は腰を下ろしたままゆるりと首をかしげた。十六夜である。天子が飛び出していってから、まだ間もない。
あたりはすでに真っ暗だが、紫の背後の障子の向こう側からは、今だに続く宴の喧騒と共に、明るい光が染み出してきていた。
「皆さんタフですねぇ」
「ええ。ほんとうに」
紫がにこりと笑った。続けて言った。
「あなたは怒っていらっしゃらないのね?」
「おや。ということは」
やはり天子は、ここに来ていたのだ。
「一も二もなく切りかかってきましたわ」
紫は手にもっている傘の先を衣玖に見せた。つばぜり合いの跡か、傘の中程が少し焦げている。緋想の剣を受けとめられる傘というのも中々興味深いが。
「これはこれは……皆さんにご迷惑はなかったでしょうか」
「ご心配無く。きっと怒鳴り込んでくると思ったから、日没の頃から境内に立ってまっていましたの。それに、すぐに撃退させていただきましたから」
「それはそれは……さすがですねぇ」
うちの天子に何をしやがる! なんて事はとても言えない。
が、紫の隣に腰掛けながら衣玖が言った。
「悪趣味なことをなさるのですね」
「そうは言うけど貴方、あまり気分を害したようには見えないのだけれど?」
図星だった。境内ではなく縁側で衣玖を待っていたということも、その心情を正確に予測していたことの証明だろう。老獪である。
「はは……いやぁ、まぁ実際、感謝したいくらいです」
「ふふふ……やっぱりおもしろいわねぇ」
楽しそうに紫が笑った。
「貴方からはこちら側の匂いを感じる」
衣玖はとんでもないと首を振った。
「まさか。私はいたって普通のしがない竜宮の使いです」
「そうかしら」
「総領娘様の前では……どうも時どきおかしくなってしまうのですが」
「なるほど。うふふ」
「頭にヒマワリが咲いていまして。最近はヒマワリの変わりに別の花が……百合の花かなあ? そっちが大きくなっていたのです。が……どうやらまたヒマワリも大きくなってきたようです」
紫にしてみれば随分と唐突な話であるはずなのに、紫は何もかも分かっているというような顔で微笑み、うんうんと頷いていた。
なぜそんな話を紫にしたのか衣玖自身もはっきりとは分からなかったが、そういう事を誰かに話したいという思いがあったのかもしれない。紫にならすでにある程度状況を知られているのだから、良い。という事であろうか。随分と甘い判断ではあるのだが。これ以上はしゃべり過ぎないほうがいいのかもしれない。
「そうなの。どちらの花も綺麗なのでしょうねぇ」
「ええとても……。ところで総領娘様の行方をしりませんか?」
「ごめんなさいね。ちょっと、分からないわね」
「いえいえ。では、ご迷惑をおかけしました」
衣玖は紫の機嫌がいいうちにさっさと神社を後にした。
月夜を飛び、天子の居場所を思い巡らせながら、一方で衣玖はまったく違う事を考えていた。
夏になったら、天子と一緒にヒマワリを見に行こう。
幽香の花畑がいい。あそこの花は幽香の妖気を浴びているせいか、ほかでは絶対に見られないほど綺麗に咲くと言う。
二人で一緒にヒマワリを眺めて……そしてできれば、一本くすねて帰ろう。風見幽香が襲ってくるだろうが、二人でならばあるいは逃げ切れるかもしれない。もし逃げ切れなかったら……その時は、天子と一緒に泣きながら帰ろう。
そんなお花畑の乙女みたいな事を大真面目の考えているのだから、あの夏の日からずっと、私の頭には花が咲いているに違いない。
自虐的にそんな事を考えて、衣玖は口もとを僅かに歪ませながら、帽子のつばをつまんだ。いつもかぶっているこの黒い帽子には、あの日以来、真紅のリボンの代わりに大きな花が一本、まるで頭から生えているようにとめてあって、自分はたいそう馬鹿みたいな格好をしているのだろう。なのに、そんな自分を恥ずかしいとは、これっぽっちも思わないのだ。
帽子に刺さっている花はきっと、大きな大きなヒマワリだ。
あの遠い日が何十年前の事なのか衣玖はもう覚えていない。それでもそれが夏の日であった事だけはしっかりと覚えている。頭に咲いた綺麗なヒマワリがそれを忘れさせてくれないのだ。
当時は、衣玖と天子が知り合ってしばらくたち、お互いの事をそれなりには知った気になった頃だったろうか。
特に運命的な出会いをしたわけではない。天界に移ってきた比那名居家の邸宅が永江邸に近かったというだけだ。天子が一人で暇そうにしているところに衣玖は何度か出くわし、しだいに言葉を交わすようになって、会うようになった。その過程が比較的スムーズに進んだことは、竜宮の使いと天人という、無い様で存在するヒエラルキー構造が作用したのは間違いない。
「あんた。永江だっけ。私、今暇だから遊びなさいよ」
天子が偉そうに言った出会い一言は、ほとんど命令だった。
天子の母は、天子がまだ幼かった頃に病死している。それ以後天子は父の手によって育てられたのだが、比那名居家総領主は異常なまでの寡黙として知られる男であり、どう贔屓目にみても子育てには向いていなかった。さらに、要石の管理者として多忙になってからは、父の意思がどうあったにせよ、やむをえず天子の養育は比那名居家の侍女達にゆだねられる様になる。天子は、母もまたそうであったらしいが生来じゃじゃ馬な性格であった。それを正しく乗りこなせる手腕は誰しもには備わっていないもので、比那名居邸で天子の世話をする侍女達にもそれは無かった。家族という絆で結ばれた父と母になら、あるいはできたのかもしれないが、そのどちらもが天子の側にはいてやれなかったのだ。
衣玖が知り合った頃、天子はすでに立派な暴れん坊天人になっていた。背丈はすでに衣玖とほとんど変わらなかったが、精神は随分幼く思えた。
とは言うものの、衣玖にはどうも世話好きの素質があったのか、そんな天子を妹のように可愛がり、その類まれなる天真爛漫さをも可愛いらしく思っていた。そういう気持ちが伝わったのか、天子も衣玖の事をそれなりに気に入っているようだった。
だがそんな衣玖も、天子の我侭たっぷりなお転婆にだけは、ちょくちょく頭を悩まされていた。
総領娘様はこれまでひどく甘やかされて育ってきた。もっと世間を知らねばならない。
自分のその考えは至極まっとうな論理に思えた。天子のワガママが発生させるあちらこちらの揉め事に、必死に頭を下げて回った衣玖である。自分もまた、天子を甘やかしている一人なのだとある時気づいた。
総領娘様は一度痛い目を見るべきなのだ!
忘れえぬその日、衣玖はとうとうその考えを実行にうつした。昼を回ってすぐの頃、地上に行くからいつものようについて来てという天子のお願いを、衣玖は適当な理由をつけて断った。普段なら一緒についていって、天子が地上人に迷惑をかければ相手に頭を下げ、危険な場所に向かおうとすればそれを止め、あれやこれやと世話を焼く。けれどそれでは駄目なのだ。痛くなければ覚えない。
不安な気持ちが無いわけではもちろんなかった。衣玖は天界の端に座って、もんもんとしながら天子の帰りを待った。村人に迷惑をかけても天子は謝りなどしないだろうから、天人と地上人との間に軋轢が生まれるのではないか……天子の教育のためとは言えそんな状況を看過してよいのか……。天子の後を追いかける為の口実が、次々にわいてくる。口実である。これも天子のためなのだと自分に強く言い聞かせ、膝を抱えながら耐えた。
やっと天子が帰ってきたのは幻想郷の空が赤く染まり始めた頃だった。
雲海を上昇してくる天子の姿を確認して、衣玖はほっと胸を撫で下ろした。
だが、天子の姿がはっきり見えてくるにつれ、衣玖の顔から急激に血の気が引いていった。天子の服はあちらこちらが酷く破け、裂け目から覗いている素肌には血が滲む切り傷やらかすり傷がたくさんついて、服にまで血が滲んでいる。帽子のつばは半分以上ちぎれとび、飾りの桃は半ば食いちぎられていた。天界の地を踏んだ天子は立っている余力がないのか、その場に膝を着いた。衣玖は本当に心臓が止まりそうになった。
「どうされたのです! いったい何があったのですか!」
「うう……えぐっ……衣玖ぅ……」
泣きべそをかいている天子は、衣玖がはじめて対面する姿である。悲しげに自分を呼ぶ天子の声が、衣玖の母性本能を何度も突き刺し、責めたてた。衣玖はたまらず自分も跪いて天子の肩を抱いた。
「はいっ。はいっ。衣玖はここにおりますよっ」
「痛いよぉ……風見幽香とかいう奴がきて……私……何度も謝ったのに……」
風見幽香! よりにもよってあの究極無敵銀河最強加虐女!!
天子の味わった苦痛を想像し、衣玖の鼓動が恐怖に追い立てられ加速した。
「幽香の花畑にいったのですか!? あそこは行ってはだめだとと何度もいったでしょう! だからこんな……!!」
衣玖の目論見通り、事は運んだ。天子は衣玖の言いつけを無視し、その結果痛い目を見た。望んでいた通りの展開である。だが衣玖の心には満足感などひとかけらもありはしなかった。そのかわりに、後悔という名のどす黒い花が、一面に咲き乱れていた。
「ひっく……花を一本引っこ抜いただけなのに……あいつすごい怒って……」
「っ! 馬鹿!」
動転した衣玖は思わず衣玖は天子に手を上げてしまいそうになっていた。自分の行為がどれだけ危険な事か天子が分かっていない事に腹が立ってしかたがなかったのだ。
あまりにも世間知らずすぎる!
「馬鹿! 馬鹿! 総領娘様の馬鹿! あれは花の妖怪なのですよ! あいつの花畑の花を抜くなんて、殺してくれと言っているようなものでしょう!!」
「うう……だってすごく大きくて綺麗なヒマワリが咲いてたから……逃げてる間に落としちゃったけど……」
「だってじゃありません! 何でも自分の思い通りにいくと思ったら――」
「だってぇっ衣玖にも見せてやろうと思ったのよぅ……!!」
「え……! 私の……ために……」
風見幽香のマスタースパークにも劣らぬ衝撃が衣玖を襲った。
衣玖の心は、ぐちゃぐちゃになって乱れた。天子を強く強く抱きながら、衣玖はとめどなく荒れ狂う思考の渦に巻き込まれる。
……総領娘様が自分のために花を取ろうとしてくれた! うれしい……でもそのせいでこんな……もし私が一緒にいっていれば二人で見る事ができたのだろうか……そうしたらこんな事には……いやそもそも幽香の花畑に近づけはしなかっただろう……自分がいなかったから総領娘様はそのヒマワリをみつける事ができたのか……でも幽香の花畑のヒマワリを抜くなんて何て恐ろしい事を……総領娘様はやはり何もわかっていない……怖い思いをしたのだろうか……殴られながら自分の名前を叫んだのだろうか……助けてと……風見幽香めあいつよくも……けれどあいつのテリトリーを犯したのは総領娘様なのだ……ああやはり私が一緒についていれば……ついていればこんな事には……けれど私は総領娘様に幻想郷の世界を学んでほしかった……じゃあこれで上手くいったというのか……これからもこんな事を繰り返せというのか……総領娘様はあまりに多くを知らないのに……ならこれからどれだけ傷つかなければならないのか……甘やかした自分達だって悪いのに……総領娘様一人に傷を負わせるのか……花をくれようとした……かけがえのないやさしさだって持っているのに……どうしたら……どうすることが正しいのか……こうやって総領娘様が泣いているのは自分のせいではないのか……自分は間違っていたのか……泣いて欲しかったわけではないのに……学んで欲しかっただけなのに……何が悪かったのだろう……自分が悪いのだろうか……分からない……ごめんなさい総領娘様……ごめんなさい総領娘様……
到底ささえきれない圧倒的な後悔と無力感が、衣玖を押しつぶしてしまった。衣玖は後になって気づいたが、どうもこの時、自分は頭のネジが一本吹き飛んでしまったらしい。あるいはこの時に、ヒマワリの茎が脳天に突き刺さったか。
「……総領娘様。もう大丈夫ですからね……今日は私の家に泊まっていってください。総領娘様は天人ですから、一晩寝れば傷は癒えます」
「え。いいの……?」
衣玖は自分の空間に他人が踏み入る事をあまり好まなかった。そうでなくても天子は家をしっちゃかめっちゃかにしてしまいそうなので敬遠していたのだが、今日だけは天子と一緒にいてやりたかった。自分のせいで天子がこうなったのだという意識が、どうしてもある。比那名居邸にこんな姿の天子を帰すわけにはいかないという思いも無いではないが、それは比較にならないほどに副次的な理由である。
「さ。私が背負ってあげますから、帰りましょう」
「う、うん……」
黄昏の中、一つになった二人の影が家路を歩く。
永江邸について、衣玖は恥ずかしがる天子を説き伏せ一緒に風呂にはいって傷を洗った。「痛い!」「しみる!」と天子は暴れたが、浴槽に一緒に浸かり衣玖がしばらく膝の上で抱いてやっているとそのうち大人しくなった。それから飯を食べさせ、その晩は早々に布団に入った。ベットは一つしかなく、並んで寝るという事にまた天子が恥ずかしがったが、今度はそれほど強く抵抗はしなかった。天子はもぞもぞベットに入り衣玖は明かりをけした。
並んで暗い天井を見上げていると天子がぽつりと言った。
「あぁ。怖かった……」
ほっと息をついただけの何気ない軽い一言である。けれどそれが、再び深い後悔と申し訳なさを衣玖の心に巻き起こした。
衣玖が天子を無理やりに抱き寄せた。
「ちょっ。離してよ……」
そう言いながらも、結局天子は抵抗しなかった。
大人しく自分に抱き寄せられる天子の顔を胸に抱く。
「私の言う事を聞かないからこうなるのです。馬鹿。本当に馬鹿。痛かったでしょうに……」
「だって……」
「だってじゃありません。これからは私がずっとお側にいますからね。嫌がらずに私の話をしっかりと聞くのですよ。私の言う事はすべて、総領娘様を思っての事なのですから」
「えー……」
「えーではありません。今日だって私が付いていればこんな事には……ああ……」
「子供扱いしないでよね……」
その晩衣玖はずっと天子を抱いて眠り、天子もまた衣玖の腕の中から逃げる事なくその胸に顔を埋めて眠った。
それは仲の良い姉妹というよりも、子育てに苦悩する母とその心を知らない娘といった情景であった。蛇足を言えば、確かに衣玖は天子より百歳以上年上である。
この日、自分の中のタガが一つ外れたのだと衣玖は思っている。天子に対して、愛情という名の差別が明確に始まったのだ。天子の衣玖に対する態度も、少し変わった気がする。
今もまったく同じ心境であるというわけではない。あの頃よりは、過保護な気持ちは薄れている。けれど、無くなったわけではない。
駄々っ子の矯正方法として自分のやり方が正しいとは考えていない。けれど自分という妖怪にはこうする事しかできないのだ。自分は知恵ある教育者ではなく、狭い視野と感情しか持ち得ない、凡夫なのだと思い知らされたのだ。
一緒に痛い目を見て、結果的に成長していけばよい
天子がくれようとしたヒマワリが、衣玖にもたらした覚悟である。
あのヒマワリは今でも私の頭に咲いているのだ――
「ねぇちょっと。話があるからこっちにきてよ!」
召使いでも呼ぶような口調で天子が声をかけたのは、「あの」八雲紫である。総領娘様は相変わらずなのだから……と衣玖は隣で頭を抱えた。
年明け。真っ青に広がる冬ばれの空の下に、一面の白に染まった大地がシンシンと輝く一月の日である。雪の積もる博麗神社にはあちらこちらから人妖が集まってきて恒例の新年会が正午間もないまっ昼間から繰り広げられていた。その酒の席の事。
「ねぇちょっと。話があるからこっちにきてよ!」
召使いでも呼ぶような口調で天子が声をかけたのは、「あの」八雲紫である。総領娘様は相変わらずなのだから……と衣玖は天子の隣でそっと頭を押さえた。
年明け。真っ青にどこまでも広がる冬晴れの空の下、一面の白に染まった幻想郷の大地がシンシンシンと輝く一月の日である。雪の積もった博麗神社にはあちらこちらから人妖が集まってきて恒例の新年会が繰り広げられていた。まだ正午を少し回ったばかりの真っ昼間であるが、楽園の住人達にそんな事は関係ない。そんな酒の席の事である。
「あら。いったい何の用かしら?」
あちらこちらから聞こえるドンチャン騒ぎの中、八雲紫はとくに不満そうな声色でもなく、しかし怪しげな微笑を携えてその場に立ち上がった。
八雲紫と言えば、人間達ですら知らぬ者のない幻想郷最強妖怪である。もし妖怪達に強さのランクをつけたとすれば、誰もが迷わず最強のカテゴリーに八雲紫を入れるだろう。むしろ『最強』というカテゴリー名を『八雲紫』に書き換えてもいいくらいだ。単純な力量で考えれば風見幽香も同等ランクになるのだろうが、八雲紫は幻想郷の創想にたずさわった大妖だという事実が単純な強さとはまた別種の畏怖感を備えさせている。
そういう相手なのだから、下手にでて出過ぎる事は無いというのが世間一般の常識なのだが……。
「ここじゃあれだから、廊下にでてよ」
これである。お姫様は今だに世間を知らない。
「かまいませんわよ?」
紫はそう答えて、天子と肩を並べて廊下に向かう。
たたみに転がっている泥酔した妖夢やウドンゲや早苗やらを踏まぬよう注意しながら、衣玖は二人の後を追った。
紫と肩を並べる天子の背中は、記憶にあるものより随分と頼もしく見えた。
総領娘様はただの世間知らずとは違う……という思いが今の衣玖にはある。むろん、世渡りを知らないという意見に異論はないのだが、そんな物に頼らずとも波を乗り越えていける精神を天子はもっているのではないかと数十年を共にした衣玖は考えるようになっていた。自分の贔屓目に過ぎないかも、という自戒はもちろん忘れてはいないが。だがあれほど泣かされた幽香にだって天子は物怖じしないのだ。そう思うと紫にたいする偉そうなモノ言いも不思議と頼もしく感じられてくる。力量的な面でも、天子はすでに衣玖を凌駕しているから衣玖はなお更そう感じてしまうのかもしれない。総領娘様には私がついていてあげないと――そういう過保護な感情は今にいたっても間違いなくある。けれど長い間にその一部が変質して、いわゆる人間の男女の間にあるような感情が生まれていないとは言えなかった。
その性質の異なる二つの感情を深いレベルで同時に抱えられるのは、本能が必ずしもは子の繁殖にこだわらぬ妖ならではの器用さなのかもしれない。
「で……いったい何の用かしら」
喧騒から障子一枚分だけ遠ざかった縁側で、白銀の庭を背景にしながら、天子と紫は対峙した。
「こないだ紫が私にやったあれ。もう一回やってよ」
「あれ?」
「去年の忘年会の時に、あんた私の身体を動けなくしたでしょ。あれよ」
「ああ……」
天子の慇懃に言う『あれ』とは、去年の忘年会での起こった出来事にある。酒の席で天子はレミリアにあおられて暴れ、周囲に少なからず迷惑を振りまいた。その折檻として、紫に罰をくらったのである。意識はあるが、身体に全く力が入らない状態にさせられてしまったのだ。さすがに呼吸などに必要な無意識の動作は奪われなかったが、手足を動かす事はもちろん、まぶたを開く事も、言葉を話す事もできなくなってしまっていた。マネキン状態である。--->(* 作品集123『衣玖さんが無理やりキスしてるだけ』より)
「あれをもう一度やってほしいの? ……よく分からないけど、新手の被虐趣味?」
「違うわよ。私じゃなくて、衣玖にやってほしいの」
紫はますますわけが分からないという顔になった。
「どういうことか説明してくれるかしら」
「さっさとやってくればいいのに……」
天子がそんな事を言うものだから衣玖はまたヒヤリとさせられた。この安寧した弾幕時代にそれほど手荒な事はしないだろうが、紫がその気になれば、ゆびぱっちんと同時に二人の体を爆散させる事ぐらいわけないのだ。とは言え、紫はとくに気分を害した様子は無い。
「身体が動かなくなった後、衣玖に天界へつれて帰ってもらったんだけどね。衣玖ってば私の身体が動かないのをいいことに、好き勝手私を弄んだの。で、そのお返しに今度は衣玖の身体が動かないようにしてほしいの」
天子があまりに赤裸々に言うものだから、衣玖は
「ぶっ」
と噴出して、一方紫は
「へぇぇ」
といやらしい顔でにやついた。
その歪んだ口もとを扇で隠しながら、興味深げな視線で衣玖をなめ回し見る。
「あなた。ただの保護者さんじゃなかったのねぇ」
居心地の悪い想いをしながら、衣玖は俯いた。口からでたのは妙な強がりであった。
「まぁ……保護者と呼ばれるのには、いささか納得がいかない部分もありますけど」
強がりとは言うもの、本心でもある。昔は保護者でもよかったが、けど今はせめて、パートナーと呼んで欲しい。まあそんな事はこの場ではどうでもよいのだが。
「おもしろい事になってるのねぇ貴方達……。で。貴方は動かなくった彼女に何をするのかしら?」
紫に問いかけられて、天子はむぐっと口を噤んだ。顔がすぐに赤くなる。
「まだ考えてないわよ! あ。それとね。今度は身体の自由だけじゃなくて、意識ってやつ?それもなくして欲しいの」
「へぇ。意識まで?」
「わ、私は衣玖みたいに変態じゃあないから、衣玖が見てると思うと、いたずらなんかできないもの!」
「総領娘様……変態はやめてくださいませんか……」
「でも意識まで奪ってしまったら、貴方がされた事の仕返しにならないのじゃないの?」
「いいのよ! 何をされたのか分からないのだって怖いでしょ! 私だって、好き勝手できればそれで仕返しした気分になるし」
「ふぅん。なるほどねぇ……」
紫は二人を並べて観察しながら、ニヤニヤと口もとを歪めている。
「で。やってくれるの?」
じれったそうに天子が言った。その間も衣玖は注意深く紫の様子をうかがっていた。
この話、紫にはなんのメリットもない。紫がそういう事を重視するのか衣玖には良く分からなかったが、頼まれて素直にハイハイと答える妖怪ではないと思っていた。天子は、生まれてこの方声をかければ周りがなんでもハイハイと従ってくれる環境にいたから、分からないのかもしれないが。
紫がごねた場合のオプションを衣玖は用意していた。
頼みを聞いてくれたら天界の桃一箱分。天界の桃はその美味でしてれいるから悪い条件ではない。そしてもし紫がそれでも渋るのなら……天界屈指の妙味をほこる、天楽樹園産の桃を五つ、というプランBも用意している。天楽樹園の桃は衣玖などには到底手に入れられない珍味であるが、天子の父にならなんとかなるだろう。確証を取り付けてあるわけではないので、かなり危ない橋なのだが。
こういうことも、衣玖が天子の影で行ってきた世渡りの一つである。
が、しかしである。
「いいわよ」
予想に反して紫はあっさりと承諾した。
あっさりすぎて衣玖はつい言った。
「いいのですか?」
「ええ。ごく簡単な事だし」
「そ、そうですか」
それはそれで、怖い事だ。
「わーい」
天子は裏表の無い顔で諸手を上げていた。
「ところで貴方はいいの? 意識を奪われて、好き勝手されるなんて」
「え、ええまぁ……私の方もいろいろしましたし……」
「ふぅん。おもしろいわねぇ」
何がなのか、紫は言わなかった。
それからたんたんと準備が進んだ。
準備と言っても、脱力した時に怪我をしないように、天子が衣玖を背負い、靴を履いて天界に帰る準備をするだけである。
「じゃあ、いいかしら? 私がこの指をならすと同時に彼女の意識は途絶える。目覚めるのは……今日の日没頃でいいかしら?」
「いいわ」
天子が頷いた。
「それではいくわよ」
「はい」
紫がすぅっと手を上げるのを衣玖はまじまじと見ていた。
気を失う瞬間は分かるのだろうか? どんな感じがするのだろう? 気が付いたら日が暮れているのだろうか? 総領娘様は……私にどんな事をするのだろうか……。
そんな事が瞬間的に頭の中に走り――
パチンッ!!
刻みの良い音が衣玖の耳を打った。
そして、全身から力がぬけて不思議な浮遊感につつまれ――
(あれ?)
衣玖は意識の中で首を捻った。何かがおかしい。
いや、そうやって考えることができる事じたい有り得ないはずなのだ。自分は意識を失うはずなのに。
「衣玖? 衣玖? もう意識がないの?」
そう呼びかける天子の声がはっきりと聞こえる。
天子がわずかに顔を後ろに向けて自分の顔を横目でみているのが、はっきりと見えた。
(え? え?)
おかしい! 意識がある! それどころか目もしっかり見えるし……!
(あ……身体は動かない……)
動かそうとしても身体が動かないというのは、非常にもどかしい感覚である。
「うわー。ぐっすり寝てるみたい……」
天子のその言葉に、おや、と衣玖は眉を寄せた。
周りが良く見えるという事は、自分は目を開けているはずなのだが……。
が、衣玖はまぶたの辺りに奇妙な感覚がある事に気が付いた。眼球が何かに包まれているような微かな感覚が、たしかにある。まぶたを閉じたときに感じる感覚だ、とすぐに気づいた。という事は自分はまぶたを閉じているのだろうか? 天子の言葉をかんがみるに、そうであるらしい。どうやら、内側からだけまぶたが透明になったような奇妙な状態であるらしかった。
あたりに目を向けようとして、眼球に力を入れるが、やはり動かす事はできなかった。
だが周囲に意識を向けて、衣玖は気づいた。
紫が衣玖の方を見ながら、意味ありげにニヤニヤと笑っていた。
(やられた!)
衣玖がやっとその事に気づいた。遅いくらいである。
紫はやはり天子の言葉に従わなかったのだ。衣玖の身体と意識両方を奪うという話だったのに、紫は意識だけは残しておいたのである。前回の天子の状態とほとんど同じという事だ。
少し違うのは、天子の時と違って衣玖は周りの様子を見る事ができるという事。天子は、あの時まぶたを閉じているせいで目は何も見えなかったと言っていた。ちなみに身体が脱力するとまぶたは開きっぱなしになるものだが、そうならないのはまた紫のせいなのだろうか。
さておき、言ってみれば天子は紫にはめられたようなものである。
(総領娘様ー。私はおきてますよー)
むろん、天子に伝わるはずもない。
「よーし。じゃあ私は衣玖をつれてかえるわね」
「ごゆっくりとお楽しみなさいな」
「う、うるさい! まぁ……礼は言っとくわ」
紫がいかにもという怪しい顔でニヤついているのに、天子はまったく何も気づかずに、馬鹿正直に礼を言った。
(やれやれ……だから世間知らずだというのですよ……)
地上では何事も疑ってかからねばならない……とまでは言わないが、少なくとも天狗やこの紫を相手にする時ぐらいは、話の裏を考えて当然なのだ。まぁ衣玖も紫の腹の中を読めていたわけではないのだが。
「いくわよ。衣玖。落ちるんじゃないわよ」
天子が独り言を言った。
(はーい)
だが衣玖がそれに答えた。
天子は縁側から飛び立ち、待ち望んでいた玩具をようやく手に入れた子供の顔で、澄み渡る冬空を急上昇していった。
ベットに寝かされた衣玖はなんだかんだでワクワクしながら天子の動向を観察していた。意識がなければ、また視界が利かなければ、そういう楽しみは得られなかったのだから、その点については紫に感謝したい気分であった。
場所はもちろん衣玖の寝室である。わざわざ人目につく比那名居邸に向かう理由はない。
天子は衣玖をベットにおろした後、まず寝室のドアをきちんと閉め、それから窓辺に移りそそくさと外を見回したあと、厳重にカーテンを締めた。時間は正午を回ってまだ間もないが、陽がさえぎられて部屋の中は薄暗くなった。怪しげな空気が流れだし、天子はベットの横にそそりたち、衣玖を見下ろす。
(総領娘様は何をするつもりでしょうか)
同じ状況に衣玖があったときは、欲望のままに天子の唇を奪った。天子がそれ以上の事をできるとは思えなかったが、わざわざ衣玖の意識を失わせてまでする事である。何かとんでもない事をされる可能性は十分にあった。
「うわぁ。こうしてみると寝てるだけみたいだけど……」
人体標本でも見るみたいに衣玖の顔を覗き込みながら、天子が言った。
起きてるどころか総領娘様鼻の穴の中までばっちり見えてますよ、と返事をしたら天子は驚くだろうか。衣玖はそんなことを考えたが、かなわぬ妄想である。
「……えい。えい」
天子は人形遊びの延長のような感じで衣玖の身体の各部をいじった。頬をつついたり、耳たぶを触ったり、興味は主として顔面に集中したのだが、ぶたっ鼻にされたのはかなり腹立たしかった。
かと思うと、衣玖の足元に移動した天子は、いきなり衣玖の足の裏をガリガリと爪でかき始めた。それはこそばすなどという生易しい感覚ではなくもはや拷問である。衣玖は声なき声で絶叫した。身体は動かないけれど感覚はしっかりとあるのだ。足の裏から極悪なくすぐったさが脳髄を伝ってくるというのに、まったく抵抗できない。もしこれを数時間続けられたら、自分は必ず自我崩壊するだろうと衣玖は恐怖した。
(ハァハァ……こ、子供のやることでしょう……)
ようやく拷問から開放された衣玖は、精神的に壮絶なアヘ顔になりつつ天子をなじった。
こんな無意味な事をするために、わざわざ自分の身体と心を喪失させようとしたのか。
天子からすれば、衣玖の意識がないのは分かっているのだから、こんな事をしても何の意味もないはずだ。いやひょっとすると、衣玖が本当に身体の自由と意識を失っているのか、確かめたつもりなのかもしれないが……。
その時。バサっという布の舞う音と共に、衣玖の太ももに布がこすれる感触があった。同時に足がスースーするようになって、天子が自分のスカートをべろんとめくったのだと分かった。
それから、おののいたような天子の声が聞こえた。
「うわ。衣玖……こんなのはいてんだ……」
(ちょ)
衣玖は今日はどの下着をはいていたのか、瞬時に記憶をさかのぼった。
この日は結構気合の入った一枚だった事に思い至り、安堵した。時々履いている使い古しのよれた下着でなくて、本当によかった。
「サタデーナイトフィーバー……」
よく分からない感想を述べながら、天子はめくりあげていた衣玖のスカートを元にもどした。
(だから! 子供の人形遊びかっつってんです!)
恥ずかしさも後押しして、馬鹿らしくなって衣玖は叫んだ。
人一人を自分の意のままに弄ぶことができる状況を作っておいて、天子がしている事といえば、お医者さんごっこですらないただのおさわり観察ごっこである。
もういっそ寝てしまおうか……。衣玖がそんな風に思い始めた時である。
ぷにぷに
(おおう)
天子が衣玖の乳房を指でつついた。
「柔らかい……」
天子は、ベットの上に身を乗り出し顔をぐぐっと衣玖の乳に寄せ、昆虫を観察するファーブルのような口調でそう言った。
何か思うところがあったのか、天子はウウムとうめきながら、次に、衣玖の乳房を手のひらでグワシッと鷲づかみにした。
(はう)
そのまま二度三度、ゆっくりと揉む。揉む。少し痛い。
ファーブルの鼻息はどうも荒くなっているようだ。
天子はもぞもぞとベットの上に乗り、さらに、衣玖の太ももの辺りに馬乗りになった。そのまま前のめりに倒れ、四つんばいになり、以前に衣玖が見せたような捕食姿勢をとった。異なっているのは、あの時衣玖は天子の唇に狙いを定めていたが、今天子はどうやら衣玖の乳房に狙いを定めているらしかった。
衣玖は視界の下方に天子の姿をうかがっている。
天子の顔は、薄暗闇――とまでは言わないが薄暗い天井を背に上気していた。
天子の手が伸びた。恐る恐る、という様子で衣玖の上着を捲りあげていく。
(む……)
ぺろん。という軽い感じで、衣玖の乳房が天子の眼前に晒された。
天子は、いったいそこに何があるのだと聞きたくなるような集中力で、あらわになった衣玖の乳房をじぃっと見つめている。
(なんなのでしょう……)
これにはさすがの衣玖も、先の展開を想像してドキドキする。ひょっとして、思ったよりも大胆な事になってしまうのだろうか。
そして、口が、天子の口が動いた。唇が上下に開いた。「くわえようとしている」という以外に、衣玖は天子のその動作の意味を類推できない。
天子の口がゆっくりと衣玖の胸に近づいて、類推が確信に変わった。
そして。
ちゅう。
(ふぇ)
天子は衣玖の乳房の先、乳頭をくわえた。いや違う。吸い付いたのだ。そしてそれは一度では終わらなかった。
ちゅう。ちゅう。
(ふぇぇぇ)
ちゅう。ちゅう。ちゅう。ちゅう。ちゅう。ちゅう。
(ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ)
天子は乳を吸い続けた。乳を吸いながら、もぞもぞと姿勢を変えて両腕を衣玖の胴体にまわしてがっちりとお互いの身体を固定した。そのまま一心不乱に乳を吸った。その姿はまるで、衣玖の乳を吸うためにだけ生きている生命体のようであった。
(総領娘様ったら……赤ちゃんみたいですねぇ……)
そう考えたとき、何かが衣玖の中で閃いた――
今まで霧に包まれて見えなかったものが突然見えるようになったような――
衣玖は聞いた事がある。人間の子供は時折、一度乳離れした後に何かのきっかけで赤ちゃんがえりする事があるという。天子はこれでもウン百歳なのだからさすがに赤ちゃんがえりというのではあるまいが、幼い頃に母親を失っているとうい事実がある。残された父は子育てに不得手で、天子は愛情に恵まれた幼年期を送ったとは言いがたい。生命が二次成長以前にだけ感じるという根源的でまだ明確に分化されていない感情、つまり、親を求める本能的な『寂しさ』のようなものが、幼少の不遇のために、癒される事なく今も天子の心の奥に潜み続けていたのではないだろうか――
(総領娘様……)
一心不乱に己の乳を吸う天子を感じながら、衣玖の中に近年は薄れていたある感情がむくむくと頭をもたげてくるのを感じていた。
それは、「母性」と呼ばれる心だろう。
『天子にとって君は母親代わりなのではと、私は思っている』--->(* 作品集122『ヴァリアブルお母さん』より)
天子の父にそう言われてから、まだそう日は経っていない。あの時自分は内心でその言葉に強く反発した。そんな穏やかな間柄ではなく、もっと情熱的な間柄でいたいと思った。
けれどかつては、母親代わりという言葉は使っていなかったにせよ、天子の側にいて守ってやるのだと息を荒げていた時期が確かにあった。天子への気持ちがいくらか変質した今だって、総領娘様には私がついていてあげないと、という気持ちは間違いなくある。
天子はそんな衣玖の母性を求めていたのだろうか。それが今の天子の行動に繋がっているのだろうか。
(私は……)
衣玖は、昨年の冬の夜、天子の唇を無理やり奪った事を後悔し始めていた。衣玖と天子の意識には明らかな隔たりがあったのではないだろうか。自分は急ぎすぎていたのだろうか。短命な人間達とは違い、二人にはこれからまだ長い時間が与えられているのだから、未成熟で未発達なそんな淡い関係をもっとゆっくりと楽しめばよかったのだろうか。
(総領娘様)
今、身体が動いてほしいと衣玖は心から思った。
身体が動けば、天子を抱いてやれるのに。
気がつけば、陽がくれ始めていた。
衣玖の寝室は暗闇といってよい状態に移り変わりつつある。シンと静まり返った部屋の中で、時折、ち、ち、と小さな湿った音が僅かに聞こえる。
あれから数時間たって、天子は今も衣玖の乳房を吸い続けていた。何度か乳首から口を離す事はあったが、天子は衣玖の胴にまわした手をほどきはせず、衣玖の乳房に頬擦りし枕のようにして休むだけで、またすぐにおっぱいを求めた。
衣玖はずっと意識を保っていた。身体にかかる天子の体重と、触れ合った暖かさ、そして赤子が力強く一途に自分を求める感触をずっと心地よく感じていた。天子の望むようにしたらいいと、とても落ち着いた気持ちになっていた。
そろそろ明かり無しではあたりが見えづらくなってきている。
そして、終わりは唐突に訪れた。天子がくわえていた口を離して、衣玖にしがみついていたとうとう手をほどく。それから身体をゆっくりと起こした。
暗闇のせいでその表情はよく見えなかった。濃い藍色の世界の中、静かに肩を上下させる天子の黒い影だけがぼんやりとうかがえる。
「ごちそうさま」
天子がとってつけたような口調で、ずれたような、ずれていないような事を呟いた。自分でもどう言っていいのかわからないのかもしれない。
それから天子はベットから降りて薄暗闇の中、トタトタと足音を立てて部屋から出て行った。それから水のはねるような音が聞こえて、どうやら天子が洗面台で顔を洗っているらしかった。
戻ってきた天子は、部屋の明かりをつけた。河童印の常夜灯である。
見慣れた天井が視界に広がる。天子は視界の範囲外で何やらごそごそとしていた。
その物音を聞きながら、後は自分が目覚めるまで、天子は適当に時間をすごすのかなと思った。
その時である。
ずるぅ!! と衣玖のスカートがずり下ろされた。
(へ!?)
今までの気分をすべてぶち壊しにする天子の行動に、衣玖はパニックを起こしかけた。
突然の事で意識が白黒しているうちに、今度はストッキングがズリズリと脱がされていく。
(ちょちょちょちょ! 総領娘様!?)
なんだったのか! さっきまでの、あの自分が聖母になったような一時はなんだったのか!
そしてとうとう、天子の手が唯一衣玖の下半身を包んでいる最後の下着にかかった。
(ぎゃー!)
と衣玖は悲鳴を上げたが、下着にかかった衣玖の手は、そこでピタリと止まり、最終防衛線ががずりおろされる事はなかった。
「さすがにね・・・」
意味はわからないが、天子のそんな囁きが聞こえた。
それから天子はそそくさという足取りでベット脇を移動し衣玖の上半身に近づき、すでに半分ずりあげられている衣玖の服をむんずとつかんだ。そしてブラジャーごと服をさらに引っ張りあげて、結果、衣玖の乳房が二つ、ぺろんぺろんと露出した。
自分はそうとうアレな格好になっているだろうと、衣玖は呻いた。
天子は腕を組みながらそんな衣玖をしばし見下ろし、満足気な顔でうんうんと頷いてから、ベットに腰掛けた。
(な、何をするつもりでしょうか)
が、それ以上は特に何もしないようであった。天子はあらわになった衣玖の乳房に時折チラチラと遠慮がちに目配せをするだけである。
(……吸いたきゃ吸っていいのですけど)
何てことを考えていると、衣玖は、何の前触れもなく、スゥっと身体に重量感みたいなものを感じた。
体の芯に何かが戻ってきたような、奇妙な感覚である。もしやと思い、指先を少し動かしてみる。すると確かに、指が動いてベットのシーツを擦った感触があった。
「あ……」
声が、でた。
「衣玖! 起きたの?」
天子が驚く。
「え、ええ」
久しぶりに、といっても数時間の事だが、自分の身体が思い通りに動くというのは奇妙なもので、衣玖はベットに横たわったまましばらく、腕を上げたり、首を曲げたり、足首を回したりした。それからようやく起き上がった。首を前に曲げて自分の身体を見下ろす。われながら形のいい乳房がむき出しにされて、下半身はやはりパンティーしかまとっていなかった。辺りを見ると、床に、スカートとストッキングが投げ捨てられていた。
「あの……」
数時間にわたる授乳の後の、最後の数分に行われたこの追い剥ぎの意味を衣玖が天子に問おうとしたときである。
「へへへーーーーん!!!」
鬼の首でもとったかのような、天子の雄たけびが寝室に響いた。
「驚いたかしら衣玖!?」
「へ?」
「自分が何をされたかわかる?」
「あの……いや……」
「ふふふ……とても人に言えないような事をたくさんしてやったんだからね!!」
「……ええと……」
「あれよ、衣玖はもう、お嫁にいけない身体ってやつになったのよ!!」
「……」
天子は衣玖の沈黙を恐怖だと勘違いしたらしく、よりいっそう得意げな顔で言った。
「何をされたかわからなくて怖いでしょ! 私にあんな事をするからこういう事になるのよ! 思い知りなさい!はっはっは!」
天子はそう言って腰に手を当ててふんぞり返り、ものすごいドヤ顔を衣玖に見せ付けた。
衣玖は、ぽかぁんとした顔でその天子のアホ面を眺めていたのだが……。
「ぷっ!」
唐突に笑いの衝動がこみ上げてきて、しばらくはフグのような顔になりながらもなんとか耐えたのだが、とうとう我慢できなくなって、衣玖はブフゥと吹き出してしまった。そして一度耐えられなくなると後はもうどうしようもなくなって、ベットの上で笑い転げた。
「え? え?」
天子は最初わけが分からないという顔をして衣玖を見つめていたが、衣玖があんまり笑い転げているものだから、なんだか腹立たしくなったらしく、顔を染めながら怒鳴った。
「な! な !なによ! 何がおかしいのよ!?」
衣玖は上体を伸ばしベットの側に立っている天子をむんずと捕まえ、そして馬鹿力でもってベットに引きずりこんだ。
「ひぇ!?」
抗議する天子の顔を衣玖は無理やりに抱きしめ自分の乳房に押し当て、そうして衣玖はまた笑い続けた。
「うわっぷ! は、はなしてよ!」
「総領娘様ったら! 総領娘様ったら!」
「なんなの……衣玖がおかしくなっちゃった……」
あきれたのか、押し当てられる乳に意識をとられたのか、衣玖の腕の中で天子はしだいに大人しくなっていった。
衣玖がようやく笑い終えた頃には天子はすっかりおとなしくなって衣玖の胸の谷間に鼻を埋めて、ぶぜんとした顔をしていた。それがあまりにも可愛くて、衣玖は天子の頭にちゅっと口付けをした。
「うむぅ……離してよ」
天子が呻く。
衣玖は天子を離さずに囁きかけた。
「総領娘様」
「何」
「私のおっぱいが欲しくなった時は、いつでも言ってくださいね」
それを聞いた天子は、しばらくは黙ってじっとしていたのである。
が、すぐに、
「ちょまぁ!?」
と意味不明な事を叫んで、ものすごい勢いで起き上がった。
「はっ……? えっ……? はっ……?」
目をまん丸にしている天子の顔を、ベットに横たわりながら衣玖は、優しい笑みで見上げた。
「やはりまだまだ総領娘様には、私が一緒にいてあげないといけませんね」
「い、い、い、いや、お、お、おっぱいとか、分けわかんないんだけど? な、なにいってんのかしら衣玖は? 自慢してんのかしららら?」
天子は視線をあちらこちらにさまよわせながら、震える声色で女々しく現実から逃げ続けている。蒸気が噴出しつつある顔からは羞恥心が結晶化した冷や汗がたれていた。
衣玖は天子の頬に手を当てて、幼子をいさめる口調で優しく言った。
「あの八雲紫が他人の言う事に素直に従うと思っていたのですか? やはり甘いですねぇ。うふふ」
そして、真っ赤な金魚になって口をパクパクする天子に、衣玖はとうとう決定的な言葉をかけた。
「私はずうっと、起きていましたよ?」
ピシリッ!
と音をたてて天子は凍り付き、数瞬後、
ぴちゅーん!
その顔が爆発した。
「あああああああらぎゃあああああああああああああああああくぁwせdrftgyふじこ!!!!!!」
天子は顔を溶鉱炉にして意味のわからない悲鳴をあげながら、寝室から飛び出していった。
さすがに衣玖があっけにとられていると、
ガチャッ!! バタン!!
と玄関のほうからドアが乱暴に開け閉めされる音が聞こえて、天子が家から飛び出していったのだと分かった。
衣玖はベットに仰向けになりながら、もう一度、今度は上品にくすくすと笑った。
衣玖が博麗神社の母屋脇に降り立つと、そこには八雲紫が待ち構えるようにして縁側に腰掛けていた。
「どうもこんばんわ」
会いたくない奴に会った、と内心顔をしかめつつも、挨拶は、衣玖の方からする。捻くれた連中とはできるだけ関わらないか、関わるなら穏便に手身近に、というのが衣玖の信条である。天子は例外。
「ええ。こんばんわ。月がきれいね」
八雲紫は腰を下ろしたままゆるりと首をかしげた。十六夜である。天子が飛び出していってから、まだ間もない。
あたりはすでに真っ暗だが、紫の背後の障子の向こう側からは、今だに続く宴の喧騒と共に、明るい光が染み出してきていた。
「皆さんタフですねぇ」
「ええ。ほんとうに」
紫がにこりと笑った。続けて言った。
「あなたは怒っていらっしゃらないのね?」
「おや。ということは」
やはり天子は、ここに来ていたのだ。
「一も二もなく切りかかってきましたわ」
紫は手にもっている傘の先を衣玖に見せた。つばぜり合いの跡か、傘の中程が少し焦げている。緋想の剣を受けとめられる傘というのも中々興味深いが。
「これはこれは……皆さんにご迷惑はなかったでしょうか」
「ご心配無く。きっと怒鳴り込んでくると思ったから、日没の頃から境内に立ってまっていましたの。それに、すぐに撃退させていただきましたから」
「それはそれは……さすがですねぇ」
うちの天子に何をしやがる! なんて事はとても言えない。
が、紫の隣に腰掛けながら衣玖が言った。
「悪趣味なことをなさるのですね」
「そうは言うけど貴方、あまり気分を害したようには見えないのだけれど?」
図星だった。境内ではなく縁側で衣玖を待っていたということも、その心情を正確に予測していたことの証明だろう。老獪である。
「はは……いやぁ、まぁ実際、感謝したいくらいです」
「ふふふ……やっぱりおもしろいわねぇ」
楽しそうに紫が笑った。
「貴方からはこちら側の匂いを感じる」
衣玖はとんでもないと首を振った。
「まさか。私はいたって普通のしがない竜宮の使いです」
「そうかしら」
「総領娘様の前では……どうも時どきおかしくなってしまうのですが」
「なるほど。うふふ」
「頭にヒマワリが咲いていまして。最近はヒマワリの変わりに別の花が……百合の花かなあ? そっちが大きくなっていたのです。が……どうやらまたヒマワリも大きくなってきたようです」
紫にしてみれば随分と唐突な話であるはずなのに、紫は何もかも分かっているというような顔で微笑み、うんうんと頷いていた。
なぜそんな話を紫にしたのか衣玖自身もはっきりとは分からなかったが、そういう事を誰かに話したいという思いがあったのかもしれない。紫にならすでにある程度状況を知られているのだから、良い。という事であろうか。随分と甘い判断ではあるのだが。これ以上はしゃべり過ぎないほうがいいのかもしれない。
「そうなの。どちらの花も綺麗なのでしょうねぇ」
「ええとても……。ところで総領娘様の行方をしりませんか?」
「ごめんなさいね。ちょっと、分からないわね」
「いえいえ。では、ご迷惑をおかけしました」
衣玖は紫の機嫌がいいうちにさっさと神社を後にした。
月夜を飛び、天子の居場所を思い巡らせながら、一方で衣玖はまったく違う事を考えていた。
夏になったら、天子と一緒にヒマワリを見に行こう。
幽香の花畑がいい。あそこの花は幽香の妖気を浴びているせいか、ほかでは絶対に見られないほど綺麗に咲くと言う。
二人で一緒にヒマワリを眺めて……そしてできれば、一本くすねて帰ろう。風見幽香が襲ってくるだろうが、二人でならばあるいは逃げ切れるかもしれない。もし逃げ切れなかったら……その時は、天子と一緒に泣きながら帰ろう。
投稿の際のパスワード入力時にスペルミスをしてしまいました。そのスペルミスの箇所が分からないため実際に入力したパスワードが不明で、そのために作品編集時の認証を通過できません。
明らかに修正しなければならない箇所がいくつか見受けられますが、手を加える事ができない現状です。
お見苦しいかと思いますが、どうか、ご容赦ください。
たすけてえーりん……。
少々取り乱してしまいましたが、こう温かな雰囲気大好きですね。
序盤のひまわりの下りは何ともいいがたいですね、好きです。
そして最後に・・・エロイ!(某兄貴動画の空耳的に
セ、セーフなのだろうか……w
三人とも、いい性格してました。
天子の偽装が微笑まし過ぎる。
前半はいい話だったのに。いくてんもっと流行れ
でも低い点数つけられない文章力がすごいです。
天子が衣玖さんのパンツを下ろそうとした時は
アウトオォォッッと叫びそうになりましたが……