Coolier - 新生・東方創想話

死んだ彼女がもう笑った

2010/08/24 16:46:39
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 ミスティア・ローレライは最高の気分だった。
 八つ目鰻は綺麗にはけた。予備にと持ち込んだ虹鱒だの里芋だのも、火の通るそばからどんどん売れる。味付けを忘れても、客が自分で勝手に塩を振って持っていくから楽でいい。たまに勘定まで忘れるけれど、ご愛敬ってものだ。
 上機嫌になって喉を鳴らせば、手拍子が起こる、声が重なる。山道をえっちらおっちら、屋台を引いて上ってきた労苦も、どこかへいってしまった。いつもこんな客ばかりならいいのにと、歌声にも熱が入る。
 だから、被捕食者として警戒が足りなかったとしても、彼女を責めないで欲しい。
「ひぃっ」
 のど元に、そっと白い手が回されたときには、もう手遅れだ。ゆるゆると柔らかなくせにその動きには、一切の抵抗を許さない強引さがあった。
「亡霊の姫……」
 桜色の細かい髪が風に揺れる。冥界の番人だという彼女は、不思議な瞳でミスティアを見おろしていた。
「な、なにか用? 鰻ならおあいにく、もう売り切れちゃったからね!」
 夜道で悪戯をしかけて返り討ちにあって以来、どうも苦手な相手なのである。さわらぬ何とかに祟りなしと、屋台の周りにつめかけていた者たちが、そそくさと逃げ出した。
 舐められてはならじと強がってみせたものの、亡霊の耳には届いたかどうかも疑わしい。蛇のように首筋を這い上がる指の動きはよどみなく、有無をいわさずミスティアは、その胸元にしっかり絡めとられてしまう。
「い、嫌……」
 哀れな夜雀の面前で、ふくよかな唇が割れ白い歯がのぞく。吐息が額にかかる。赤い舌が波打ちながら迫ってくるのを、ミスティアはまばたきもできずに見つめていた。



    
     ------------------------------------------------------------

 絹を裂くような悲鳴がこだました。もっともあたりの賑やかさに、それは真夏の雪のようにさっととけ込んでしまうのだった。
「あー、羽の付け根を噛まれたわね」
 あそこは夜雀四十八の弱点のひとつなのよね、と目配せされても、正直困る。
「そうなんですか。多いですね」
 適当に相手を決め込むさとりである。
「そうでもないわ。年を経て力を得れば、それだけ弱点も増えるのが妖怪というものですからね」
 長い睫の下の瞳が、水に浮かぶ浮き草のように愉しげにゆらいだ。
「信じていないわね。私のこと、胡散臭いと思っているのでしょう」
 心を読まないでください。それは私の仕事です。
 亡霊の腕からようやく解放された夜雀が、へなへなとへたり込む。可愛らしい一対の翼はさいわい、無事に背中にくっついている。やがてのろのろと立ち上がり、川縁に置かれた屋台へ戻っていく。
 山ふもとの川原一帯にめいめい陣取っての大宴会だった。山に住まう者に森や湖に暮らす者、両者の交わりのため間をとってこういう場所で開かれることとなったらしい。さとり達地底の者まで誘いがかかったのは、ついでのようなものだろう。
 地霊殿の天井に突如隙間をつくって現われ、宙に腰をかけて見おろしたその目つきは、いまだにさとりを緊張させている。
 妖怪の賢者、八雲紫。
「どこが賢者なのよ、と思ってる」
 だから読むなっての。
 実はこやつ、覚りなんじゃないのか。その豊かな胸の膨らみには、さとりの胸元にある「眼」と同じものがしまいこまれているんじゃないか。
「紫。気を利かせなさい」
 すると横合いからぐいと、猪口を持った手が紫の鼻先に突きつけられる。
「あらら。空きましたか」
 とたんに、二十日鼠みたいにすばしこく紫が首をすくめる。きちんと膝を正して座った映姫が、ゆらり眦を吊り上げて、逆さまにした猪口を振った。
 ろくに面識のなかった紫とは違い、四季映姫・ヤマザナドゥは地霊殿を任された経緯もあり、さとりにとっては上役のようなものである。数年に一度は目通りして報告するし、こうやって酒席をともにしたことだって、ないわけではない。
 だから心得ている。閻魔というのは、用もないのに顔をあわせたい存在ではないことを。 
 上司に、スキマ。
 四角四面に、面妖。
 さとりは、杯にちびりと口をつける。ああ、お酒がおいしいなあ。味も何もわかりゃしない。
 なまじ力のあるもの同士だから始末が悪い。性質の異なる引力源にはさまれて座っているようで、いちいちどちらかに引きずられて、落ち着かないのだ。
「ええと、徳利は」
 紫の手がさまようより早く、あわてふためいた気配とともに、徳利がずいっと差し出される。
「ごめんなさい、ぼーっとしていて」
 彼女は今まで、亡霊と夜雀の顛末にずっと見入っていたのだ。
「いいのですよ魂魄妖夢。私は紫に酌をせよと頼んだのですから」
「そういうわけにもいきません」
(いけない、ちゃんとしないと。幽々子様に申し付けられたのに。お二人をちゃんと応接するようにって。よそ見してる場合か)
 二人ということは、さとりはその対象には含まれないらしい。そもそも気づいているかもあやしいものだ。挨拶して以来、妖夢の思考にさとりは登場していないのだから。忘れられているのかもしれない。三歩あるいた地獄鴉のように。
 思い切りよく切りそろえた妖夢の銀髪が元気に跳ねて、なみなみと猪口に注がれた閻魔がかすかに苦笑する。




 さとりとしても、望んでこんなややこしい相席をたのんでいるわけではない。
 大体、大勢の集う宴席というのは、あまり好きではないのだ。心が読めるせいで喧しさも二倍――というのは誇張だけれども、それに近いところはある。心を覗き放題なのは確かだけれど、相手を特定できないというのは、趣きがない。興がそがれる。弱音やトラウマは、それが誰のものかわかるから面白いのだ。また酔うにつれ、心を読まれるのを怖れなくなる者もいる。それはそれでつまらない。
『読心というのはやはり、相手と差し向かいでしっぽり静かにやるんがええんじゃろ』
 とは、かつて地上でめぐりあったとある老人の弁である。皺深い額に憂愁を漂わせてもっともらしいことを口にしながら、破壊力たっぷりの変顔のビジュアルをでかでかと思い浮かべている、実に油断のならない男であった。覚りの目を閉じる前のこいしを、よくその手で笑わせていたものだ。あんな人間ばかりなら、地上に住み続けられたかもしれない。
 かの八雲紫じきじきの(スキマ移動だが)誘いとはいえ、燐や空が行きたがらなければ、さとりは重い腰を上げなかっただろう。
 しかし地上との行き来も始まったばかり。自らのペットが招いた事態がきっかけになったわけでもあるし、立場というものもある。日頃はさとりのことを陰湿だのとあげつらうくせに、こういうとき表に出たがらない鬼たちは、ずるいと思う。
 仕方がない、腹をきめて、紅白の巫女あたりを見つけて燐たちと一緒に、端の方で大人しくしていよう――というつもりだった。
 形式として挨拶に出向いた紫のところでつかまり、席を立とうとしても引き止められて、それを何度か繰り返して、この有様である。
 ちびり口に含んだ酒を、ため息に変えて吐き出して、さとりは夜を仰ぐ。――ああ、紅茶が飲みたいな。酒は嫌いじゃないし弱くもないけれど、せっかく天井のない空の下にいるのだから、酒精の力は借りずに酔いしれたかったのだ。
 春を終えたばかりの森は、日が落ちても青々としている。昇ったばかりの上弦の月が、初々しく輝き出し、見渡せばそれぞれ好き勝手にゴザや筵を広げた中に、里の人間らしき姿もちらほら混じって妖怪たちと杯を交わしている……世の中も変わったものだ。
 川原は広いけれども川の流れは細々としている。しばらく雨が降っていないのかもしれない。川向こうの楡の根元には燐がいて、山の妖怪たちと車座になっている。上流の小さな澱みに月明かりが落ちて、その近くにあぐらをかいて陣取る後姿は紅白、博麗霊夢だ。主に子供の妖怪や妖精に取り囲まれ、その中には大きな翼をたたんだ空の姿も見える。飼い主を放り出して、薄情なペットもあったものだ。
 いや、まあ、そりゃね?
 さとりも期待したところがなかったわけではない。大妖といわれる内でも特別の存在の心を覗けるチャンスなのだから。覚り妖怪としては本懐である。しかし、「かけつけ一杯」とさとりに杯をすすめた紫は、「ぜひ読んでみてくださる?」と何も言う前から挑戦的にうすら笑いを浮かべた。
「藍に指示して、心に結界をつくってみたの! 大結界の応用としてね。パスワードを探して入れれば簡単に破れるから、試してみて? ただし二秒に一度ランダムで文字列が入れ替わる仕組みだけれど」
 覗いてみれば確かに、紫の思考には壁のようなものが立ちふさがっている。ところどころ隙間があるようで、たまに断片が「見える」のがからかわれているみたいで腹が立つ。妙な横文字使いおってからに、ぱすわーどってなんだ。結局、明晰に読み取れたのは、
「紫。ここ、失礼しますよ」
 そう言って四季映姫が紫の隣に座りこんだときの、
(面倒なのが来た、お酒がまずくなるわ)
 という諦めまじりの意思だけだった。
 その映姫の心は、読もうとすれば読める。しかしどうしたわけか、彼女はさとりが読み取った瞬間、それと察知するのである。時間差もなしに睨みつけてくる。あげく「ばりやーっ!」とか珍妙な呪文をとなえて鏡をかざしてきたりする。ちなみに浄玻璃の鏡である。うっかり見入るとさとり自身の過去、罪悪感を感じているトラウマを抉り出されてしまう。主にこいしのことや、ただ一人の妹のことや、眼を閉ざした覚り妖怪について。
 なのでなるべく、覚りの眼はこの二人に向けないようにしている。それでもはっきりした意識は伝わってしまうが、二人ともそこは曲者、そう簡単に腹の内は見せない。おかげで平穏ではあるが、妖怪の本音としては、正直少しも楽しくない。
(うわ、幽々子様、どうしてまた抱きつくの。よりにもよって吸血鬼じゃないですか! 怒るよー怖いよー、あの吸血鬼子供だもん。ほらメイドも見てますって。咲夜、飯炊き場の前ですんごい目つきしてるじゃないですか。うう、どうしよう……行ったほうがいいかな。でも動くなって、ここにいろって言われたんだよな……。主の命は絶対だよね。たぶん今お傍に行ったら怒られる。従者として、咲夜の前で恥はかきたくないなあ。――レミリアの髪が逆立ってる!? うう、一触即発だあ。……どうして笑ってるの幽々子様。笑ってるときが一番わけわかんないんだよね。あ、やっと離れてくれた。どどどどーしてそこで咲夜の肩を抱くんです! ナイフ出す絶対あの人ナイフ出すよ。吸血鬼がなんか言ってる? よかった、何事もなかった。もう、じっとしていてくださいよー。あとで文句言われるの私なんだから)
 これだ。
 これですよ。ああ癒される。
 そうだった。彼女がいるじゃないか。さとりは妖夢の、子供らしさの残るあごの線を眺める。
 もう今夜は、キミのことだけ見ていることにするよ。――迷惑な決意を密かに固めるさとりであった。




      ◇ ◇ ◇
   

(あはは、天狗がびっくりしてる。やっぱりあの羽、触られると敏感なんだな。幽々子様って気配がないもんね。お一人で部屋にこもられてると、誰もいないみたいになっちゃうんだよね。川べりは、ぬかるんでます。お着物が汚れますよー。……蛍が飛んでるな。今年は早いね。幽々子様に纏いついてると、魂みたいだな。……今度はどちらへ? 人形遣いの、あれはたぶん自前のお酒だな、美味しいですか? 今夜はずいぶん人懐っこいんですね。髪を触ったりして。あれは……紫様のとこの猫の式か。いや尻尾を握ったりしたら、そりゃ驚きますって)
 克明である。彼女の主が現在進行形で何をやっているのか、見なくてもわかる。
「妖夢。あなたの主は何をやっているのでしょうね」
 しかし覚りでない閻魔には分からないのか。いや、質問ではなく咎めているのだとさとりは気づく。なまじ心が読めるだけに、思考より先に言葉を聞いてしまうと鵜呑みにしがちなのが、覚り妖怪の弱点である。
「はあ、すみません」
 反射的にぺこりと頭をさげ、連係した一連の動作みたいに、妖夢は映姫の猪口に酒を足していく。
「ああいや、催促したわけじゃ……おっとっと。別に今日のことを言っているわけじゃありません。妖夢、以前あなたに半人半霊としての立場をわきまえよと言ったけれど、西行寺幽々子は全くの死人ですよ。普段からふらふらと幽明の境をまたいで生者と触れ合っているようではないですか。全くけしからん」
「テンプレ使いましょうよ、閻魔様」
 異国風の長衣の腰から下を横たえた紫が、たたんだ扇子で宙に円をえがく。
「あなたは少し、ナントカすぎる。あれ、おやりにならないんですか」
「私だって、気を使っているのです。宴席で説教などと、無粋きわまる」
 憤然として酒を呷る。仰向いた映姫の首筋が綺麗な紅に染まっているのが、夜目にもはっきりとわかる。意外と酒に呑まれるタイプなのかもしれない。
「あなたを前にして、それを我慢するのも一苦労なのですがね!」
 手にした愛用の勺で膝をぱしりと叩く。どうやら本心から紫は苦笑している……。おや閻魔様、『痛い』って思いましたね。ああ、睨まないでごめんなさい。
 さとり達の陣取った場所は、川原を見下ろす岩肌の上だ。若い桜が枝をさしかけて、川下はるかに瞬く人里の明かりも見てとれる。
 西行寺幽々子は、こちらに背を向けて歩いていく。叫んだり歌ったり寝転がったりする面々を避けていく足取りは、渓流に棲む岩魚や山女のようだ。
 彼女は亡霊である。亡霊とは、生きているふりをしている亡者だ。生と死の連環からはずれた向こう岸に佇む者だ。
(おのれ牛鬼の分際で。幽々子様に助平な眼を向けるな。私にだって男の下心くらい、わかるんだぞ。ああ幽々子様、そのような者の手など触れてはいけません。笑いかければ図に乗ります。ツマミが欲しいのなら、私を呼んでくださればいいのにぃ)
 幽々子と入れ違いになって、彼女の居た場所に座っているさとりは、手酌で飲みながら考える。隣で顔を赤らめ、物騒な業物を握りしめている従者は、果たして己が仕えている主が何者であるか、知っているのだろうか。
 あれは西行寺幽々子であり、西行寺幽々子であった何者かであるということを。
「だいたい幻想郷に暮らすものは、総じて生きるも死ぬも不真面目に考えすぎなのです。この前私のところに来たある死者が、口をきけるようになってなんと言ったと思います? 『命ばかりはお助けを』ですよ。救いがたい暢気さです」
 あははははっ、と紫の軽い笑いが空を駆け上がる。
「我々は獣と違うのです。自らがいずれは滅ぶと知っているということが、どれだけの意味を持つのか、考えたことがありますか」
「猫なんかは、自分の死期をさとるとも言われますけどね」
「まぜっかえさないの」
「四季様。その我々とは、妖怪を指すのですか。それとも人間のことなのですか」
 向けられる剣呑な視線を受け流して、紫は妖夢に、「何か食べ物をとってきて頂戴」と手招きした。
(よし、ついでだから幽々子様を呼び戻してこよう)
 何の迷いもなく、妖夢は二刀を携える。
「ねえ、古明地さとり。あなたは、どう思うかしら? ほの暗く寒い地の底で、ずっと考えていたのではなくて」
 敷物を撫でつけていた紫の白い指が、くいと鎌首を持ち上げてさとりに向いた。
「何をですか」
「あやかしと人間は、何が違うのか、ということを」
 履物をはいた妖夢がふと振り返る。ほとんどはじめての興味がさとりに注がれていた。
(誰だったっけ。このちっこいの)
 やっぱり忘れられていたらしい。ちっこい?
「同じですよ。人間も妖怪も」
 しかつめらしい飾りのついた冠帽をはずして膝におき、水草のように艶やかな髪を、映姫は指でたぐる。
「外の世界の新聞などもたまに手元に届くのですけれど、妖怪の骨やら化石やらが見つかったなんてニュース、私は一度も見たことはありませんよ? すべてそれは、人間として、見つかっているんです。死ねばみな同じなのです。人間が一所懸命に調べても違いが見つからないくらいにね」
「河童のミイラとか。見つかってるはずですけれど」
「屁理屈ねえ。紫、あなたはいつもそう」
「ふふふ」
 半霊を曳いて川原へ下りていく妖夢を目で追って、紫は肘掛けによりかかって、長く柔らかなため息を吐いた。
「そうね。違うとしたら、妖怪はけっして自殺しない。自ら命を絶った妖怪の話なんて、きいたことがありますか」
 質問ではなく、それは独り言のようにさとりには聞こえた。




「古明地さとりです」
「魂魄妖夢です」
 大皿にそら豆やら、佃煮やら載せて戻ってきた妖夢と、仕切りなおしである。深々と頭を下げる妖夢の背中で、半霊がぽよんと弾む。
(そっか、巫女が話してた……地底の住人か。確か、心を読むっていう。嫌だなあ)
 こんな反応も、このメンツの中ではむしろ微笑ましい。妖夢は短く整えた前髪の下の目をくりくり見開いて、さとりの杯に酒をついでくれる。たぶん、覚りの妖怪に会ったことがないのだろう。
(あの胸元の眼を叩き斬れば、読めなくなるのかな)
 ぜんぜん微笑ましくなかった。なにこの子こわい。
 水音があがる。川の広々とした中州には火が焚かれ、河童たちがつめかけている。中州の縁にそって並び、次々と水に飛び込んでいく。やんやと喝采があがる。杯が上がる。色とりどりの花びらが川面に撒かれる。
 水から上がる河童たちの前を、青い衣がふらふら横切っていく。
(幽々子様、何を考えているんだろ)
 小さく首を振り、戻るように促す幽々子の姿を、さとりは妖夢の中に見つけている。ほんのり心細い感情が、そこに寄り添っていた。
「こちらには、はじめて?」
 それでも殊勝に接待しようと思っているらしい。しかしぎこちないにも程がある。さとりは、口の中の笑いをぐっと飲み込んだ。
「いえ近頃は何度か出てきてますよ。それに昔は、地上で暮らしていましたからね」
「はあ、そうなんですか」
 基本的に、自身の関心に正直なのだろう。地底や洞窟で生まれ育ち、目が弱って退化した魚や蛇のことを、妖夢は遠慮なく連想している。
 映姫に紫は、そんなさとり達を愉快に酒の肴にしていると思いきや、
「あ、これ美味しい。どうにも堕落しそうです」
「どれどれ? あら。いけるわね。これはただ焼いてあるだけじゃないわね」
 妖夢の持ってきた、川海老を焼いたものに二人して夢中になっていた。口の中に海老を押し込んだ指を、紫がぺろりと舐める。
「んー。火加減かしらね……。川原で焼いただけに見えたけど。この時期は身も熟れてるけれど、泥の臭みも強くなりがちなのよね」
「シェフを呼べ! ですかね」
「吸血鬼のメイドも居たし、ひと工夫あるんでしょう。教わって帰りたいわねえ」
「お酒のような気もしますね。私も教わろうかしら」
(連れ立って飲食に来たおばちゃんみたいですね)
 間髪いれず妖夢の考えたことを、そのまま口に出しかけて、寸前さとりは踏みとどまった。なにくわぬ顔で妖夢はそら豆を噛んでいる。殺す気ですか。
 覚り妖怪殺すにゃ刃物はいらぬ。それはともかく海老である。なまじ映姫の心いっぱいに広がる香ばしい風味を感じてしまったために、唾が湧いてしかたがない。
 さとりの伸ばした手は無情にも、裁きの勺で払われる。
「あなたは私の心を読んで味わえばいいじゃないですか」
 うわ大人気ない。第一、それじゃお腹が満たされません。
(ぶつかる)
 妖夢はまた幽々子を見ていた。
 川原へ下る斜面で妖精を追い掛けまわしていたちみっこい妖怪が、幽々子の腰に後ろから手を広げて突っ込んでいく。
 頼りなげに見える背中はびくともせず、振り向いた幽々子の表情はわからないが、たおやかな物腰でかがみこんで、鼻を押さえる娘の脇に手をいれて抱え上げる。
(たかいたかーい)
 喜んでいるのか、うっすらと球形の闇を放出する娘は、夜魔のたぐいなのだろう。
「ああら妖夢。うらやましくなっちゃった?」
 紫が身を乗り出した分、妖夢は首を縮めてのけぞる。
「何をおっしゃいますか。私がどうして」
「遠慮しなくてもいいのに。あの子だってもっと、甘えて欲しいって思ってるんじゃないかしらね。あれでも昔は、人間だったんだから」
「私が幽々子様に甘えるなんて、滅相もない。お守りし支えねばならない立場なんですから」
「あら。支えているつもりだったの?」
「あう」
「ふふふふ」
 しかしからかわれている妖夢にも、余裕がある。たぶん、よくあるやりとりなのだろうとさとりは推測する。
「いけませんよ。死者に甘えれば未練が増える。罪深いばかりです」
 ばりばりと雄雄しく海老を噛み砕くのは映姫である。じっとり眺めていた紫が差し出した懐紙を、「ありがとう」と受け取って指を拭う。返された紙を、紫は小さくあけた空間の隙間にぽいと放り込んだ。
「西行寺幽々子に母親や、姉を期待すれば、彼女はそう演じるだけのこと。肉親の愛情を真似ることしかできないのです。死者は生者の生きるかたちに沿って変化する。主従の節度にのみ甘えていてもいけない。あなたはただ幽々子を幽々子として、過たず対等に接するべきなのです」
「そんな器用なこと」
 できっこない、と珍しく紫の心の声がはっきりと吐き棄てた。
(対等……ってことは呼び捨てなきゃいけないのかな。幽々子! なーんて。幽々子、お茶。なんてね! ちょっといいかも。それで、縁側で膝枕なんかしてもらって……)
 亡霊に仕える忠実なるサムライは、盛大に勘違いしているようだ。赤らめた頬を指でつつんでうつむいている。
 けれど彼女の思考の底に横たわるのは、ぬるく輪郭の崩れた感情でしかない。それは幽々子に向かって流れているようなのだけれど、あまりに抽象的で要領を得ない。
 どことなくそれは、さとりと暮らす地霊殿のペットたちの心境にも似ているのだ。妖夢にとっては、主の手や目や声が伝えることがすべてであって、そのほかはないのと同じなのではないか。つまり彼女の腹を探ったところで、幽々子について分かることはあまりないということだ。
(……読んだな?)
 ぞくりと、さとりは大きく身震いした。妖夢の声は耳のすぐ後ろに、刀の切っ先のように禍々しく突き立った。
 横目でさとりをうかがう頬はふくれて、むしろ可愛いくらいなのだけれど、その手はしっかと刀の柄を握りしめている。そしてその心象においては、さとりの胸の前に浮いている「眼」が、縦横十文字に、短冊に、端から薄切りに、まな板にのせた赤カブのごとくその刀によって――。
 やめてやめて! 読んだけど読んでませんから!
 この場にもう一人覚り妖怪がいて、平身低頭しているさとりの気持ちを読んでくれるなら、どんなに助かることだろう。




 膝立ちになった閻魔が、敷物の端まで這いずっていく。
「ご不浄ならば、こちらでなさってもかまいませんわよ?」
 両手を広げて隙間を生み出す仕草をする紫は、何食わぬ顔でお叱り待ちだ。
「痴れ者め」
 川の方へ下りていく閻魔の背中は小刻みに揺れている。大丈夫かしらね、と紫は畳んだ扇子を唇の下にあてて見送っている。
 月はだいぶ高くなった。
 岩肌に寝転がっていた娘が、すぐ横を映姫が通り過ぎたとたん、米つき虫みたいに跳ね起きる。さとりも馴染みの赤い髪は、渡しの死神だ。手を振って座っていていいと告げ、いつもの帽子がないせいで彼女とすぐに気づかない人妖の群れに、映姫は混じっていく。
 石で組まれたかまどが並ぶ川べり以外は、ちらほらかがり火が燃えている程度だけれど、森の精気に白く縁取られた初夏の夜は夕暮れよりも明るく、妖怪はもちろん、ちらほら混じっている人間たちも、夜目に困ることはないだろうと思えた。
 すっかり元気を取り戻した夜雀が屋台の向こうで歌っている。やかましい羽ばたきがして、すぐ近くを天狗の少女が飛び越えていく。さとり達を見ないふりをしているが、心は筒抜けだ。
 そして西行寺幽々子の次なる標的は。……おや、あれは鬼だ。ずっと前に地底から姿を消した顔見知りの小鬼が、藤が自然に作った棚の下で一人飲んでいる。するすると近づいた幽々子が、たくましいその二本の角を左右から握った。遠巻きに距離をおいていた連中からどよめきが上がる。山の妖怪はやはり、鬼の恐ろしさを忘れてはいないようだ。
 気難しい、少し変わり者の鬼だったとさとりは覚えている。無頓着に彼女は笑って幽々子の肩を叩き、妖夢がほっと胸をなでおろした。
「さて、紫さん」
 極力、威厳のある声を出したつもりである。聞こえているはずなのに面倒くさそうにしていた紫が、のろのろと顔を上げた。
「いい加減、どういうつもりか教えていただきたいのですが」
(あー幽々子様、いけません、いけません。そいつはやめときましょう、そいつは)
 腰を浮かせてあわあわと曲げた指を口元に当てていた妖夢は、さとりの視線に気がつくと、咳払いして元通り腰を下ろす。
 紫は大きく肩をすくめた。
「どういうことかしら? 私はただ、静かにお酒を愉しんでいるだけですわよ」
「『どうしてこの二人が?』って」
 紫と、今は空いた映姫の席を順番に指差してやる。
「さっきの天狗で十人目ですよ。通りがかる者すべてが等しく驚いている。意外に思っている。あなた方がそろって普通の宴会に顔を出すことはまずないってことでしょう。そこから導き出される結論として、この宴会は、普通ではない」
 ちょっと格好いいじゃないの。
 大妖怪相手に大見得きって、地底の鬼よ古明地こいしよ見たか見てくれましたか。
(駄目ですよそいつは。向日葵畑の番人はやばい。風見幽香はよくないですって! 虫の居所が悪かったりしたら。ああ咲夜、気づいてるなら止めてちょうだいよ。くそうあいつ絶対面白がってる。こっち見てるし笑ってるし! うう、こうなったら……)
 五月蝿い。
 先程より力を込めた眼力も、もはや届いていない。二刀をわしづかみにして、魂魄妖夢すわ鎌倉の構えである。
「座っていなさい、妖夢」
 しかし手綱を緩めてもらえない。扇子の先を鼻先に押し当てられ、「うう」とか唸るさまはまさに犬のようだ。紫は主でないのだから言うことをきかずともよさそうなものだが、つまり幽々子と紫はただの知己ではないということだろう。
 不自然な静けさが宴の一点で生まれる。それは小石の落ちて広がる波紋のように伝わっていく。中心にいるのは、幽々子と一人の妖怪だ。
 夏の花のように鮮やかな洋装の娘は、背中から近づく幽々子に気づいていないのか、背筋を伸ばして月を見上げている。鬼のときと同様、幽々子は一切のためらいもなく、その首元に手を回した。
 周りの顔色がさっと変わるのが、さとりにも見てとれる。幽香なる妖怪は幽々子に抱きつかれたまま、姿勢も変えず振り返りもしない。それをいいことに、幽々子は相手の髪をゆるゆるとかきあげて、あらわになった耳の、耳たぶを。
(か、かかかかかかか。かんだカンダ噛んだよ……)
 ぎゅっと目を閉じた妖夢は長い刀を抱きしめている。初心な反応というより、これから起こることを怖れているようだった。
 多くが押し黙った中で川の流れだけがころころと音を立てている。幽々子が離れると、ようやく幽香の表情があらわれた。群青の夜明かりに淡く浮かび上がるのは、満面の笑みである。わけもなく、さとりはぞっとした。
 ゆらりと焔のようにもたげた彼女の手には、果実を漬けこんだ酒瓶がある。幽々子は渡されたグラスでそれを受け、幽香の掲げたグラスにあわせた。
 乾杯!
 静けさが粉々に飛び散った。賑わいが一気に戻ってくる。
「古明地さとり。それで、何の話でしたかしら」
 そんな騒ぎは最初から関心ありませんというように、けばけばしい装飾つきの手鏡をのぞいて、紫はくるくると髪を指に巻きつけている。
「で、ですから、あなたと四季様の目論見についてですね」
 さとりは今一度、自分を奮い立たせようとしたのである。舐められてはならじ、怨霊も怖れ怯む少女なんて言われてるんだし、たぶん。
「さとり様ーっ!」
 今度の羽ばたきは振り返らずともわかる。さとりは深い深いため息をついた。
 元が鳥のくせに着地のうまくない空は、さとりと紫の間に突入しかけ、膝を曲げてなんとか踏みとどまる。大きな黒い翼がばさりと額にかかり、鬱陶しげにそれを払いのける紫を、ちょっと愉快な気分でさとりは眺めた。
「差し入れもってきたんですよ、ほら! 霊夢がね、こんなにいらないから、さとり様のところへ持っていってあげなさいって」
 逆さにした麦藁帽子みたいなどんぶりには、目の高さまでゆで卵が積み上がっている。もう一つの皿にはやはり同じ高さの白玉団子。どこに持っていたのか樽酒までどん! と敷物の上に置かれる。
「そう。霊夢がね」 
 紅白巫女はずっと同じ場所にいる。食べ物をこぼす妖精の額を小突いて、口を拭いてやっているところだ。空の記憶の中で、彼女は穏やかに囁きかけている。さとりの知る姿より優しげに見えるのは月明かりのせいか、空の思い込みのせいか、はたまた酒が入っているせいなのか。
 そしてどうやら、酒精にて化けたのがこちらにも約一名。
「あ、閻魔様だ。やほー」
「やほー」
 ぎょっとして振り向くと、映姫が無表情に右手を上げて空に応えている。そのまま近づいてきて、妖夢と空を押し分けるように、無理やりに座り込んだ。つまみあげた団子を、がぶりと噛み千切る目つきは誰を見ることなく、不気味に据わっている。
 さとりと紫、妖夢は自然と顔を見合わせた。
 これは、相当酔っているんじゃないか?
 この三人の意思がぴたり重なるなんてのは、これが最初で最後かもしれない。立ったままの空だけがきょとんとしている。
 しかし、とさとりは思う。今ならば、これだけ酔っているのなら、映姫の魂胆を覗いてもバレないんじゃなかろうか。
 場所を譲るため膝を正すふりして、そっと意識を、覚りの眼に集中させて――。
「ばりやーっ!」
「ぎゃー!」
 一瞬のうちに圧縮ファイルで叩き返されたトラウマに心を鷲掴みにされ、さとりは悶絶した。ああ、ごめんね、こいし。守ってあげられなくて。お願いだから泣かないで。
 欠片も表情も変えず、映姫はかかげた鏡をしまいこんだ。
「さ、さとり様、どうしたの、大丈夫?」
 空の、夜より暗い翼に包まれて、ようやく息をつく。大丈夫よと背中をたたいて、不安がっている心を安心させてやる。紫がにじりよってさとりに杯を握らせ、とくとくと酒を注いで同情の眼差しを寄せる。
「……えーと。それで、何の話だったかしら」
「もう、いいです。いいですよう」
 やけになって口に運ぶその杯を、横から伸びた手がひったくる。ああ閻魔様、実にいい飲みっぷりですね。





      ◇ ◇ ◇


 宴の空気が変わってきている。火を入れすぎた煮物のように、角がとれてとろとろになって、それぞれの立場とか、種族だとか、そういうものが曖昧になってきている。
「えーきちゃん老後の生活設計なんて考えてるー?」
 どうやらそれは、さとりの周囲でも同じらしい。
 肘掛けにだらしなく上体を投げ出した紫は、映姫と競うように、空の持ってきた酒をあらかた飲み尽くしてしまったのである。あながち、酔っているふりではなさそうだった。
「そうですね。あと三十年ほど閻魔をやったら、引退して小町のところへ永久就職しようかと」
「えっ」
 ぴょこんと伸び上がった死神の顔が斜面の下からのぞく。すぐ上で上司が飲んでいれば、落ち着けないことだろう。さとりは密かに同情する。
「えっ、って言いましたね。言いましたね? そうですか、小町は私では不満があると、そう言いたいわけだ」
「いやあのその……四季様、どんだけお飲みになったんですか」
 飲ませたのはお前等か、と抗議したそうな小町であるが、だんだんガードの甘くなってきた閻魔の心を垣間見ているさとりは知っている。川原を一巡りする間、夥しい人妖が彼女に酒を勧めたのだ。説教をくらう前に飲ませてしまえと、誰も彼も同じことを考えたらしい。
 にこにこと少女が、青い帽子の河童が差し出したコップには、草のつると折り紙でできた風車が添えてある。そう回想する映姫の髪に、その風車は挿してあるのだった。
(蓬莱人だ。幽々子様、不死の穢れが障りますよ)
 とりとめもなくなった川原で今や西行寺幽々子は注目の存在だ。しゃなりと歩けば道ができ、誰かが彼女に抱きつかれれば、わっと歓声が上がる。透明な羽を震わせて、小柄な妖精が興奮気味に飛んでくる。仲間らしい何人かが手をあげて出迎える。
 ――亡霊の姫君にハグされれば、願いごとがなんでも一つ叶うらしいわよ!
 ――え? 一年無病息災になれる、って話じゃなかった?
 ――蛙ったら最強ね!
 ――私は金運アップって……。でも、やっぱり怖いからさ、姿を隠してさ……。
 いつの間にやらおかしなことになっているらしい。鬼や幽香との振る舞いに、盛り上がってしまった連中がいたのだろう。いわば祭りの神輿だが、見世物のある宴会ではなし、みな退屈していたのだろう。
 豊かな黒髪を長く垂らした娘が、優雅に袖を振る。取り囲んでいる妖怪兎たちが耳や尻尾を立てる。追い払われた格好の幽々子はまたふらりとさまよい始める。
「紫様、あの……」
「んー? 人肌でも恋しいんじゃないかしらね」
 昔は人間だったから。物問いたげな妖夢に、紫はまたそう繰り返す。
 小走りにどこかへ向かう鼠の妖怪を、はしっと幽々子が捕まえる。湯気の立つ鍋を抱えているおかげで振り払うわけにもいかず、小鼠は神妙な顔で抱きすくめられている。
(何してるんだろう。幽々子様の考えてることなんて、どうせ分かりっこないけどさ)
 抱きしめられている小鼠と、妖夢は自分を置き換えて想像している。包み込むような腕、髪を撫でる指。閉塞したような感情は、幽々子の唇が動いて何事か語りかけたところで、弓のように引き絞られ、一瞬の禍々しさをはらむ。
(どうせ私には、何も教えてくれないんだ)
 ただの世間話だろう。そう納得しながらも、妖夢の心には鬱憤がどんどん積み上がる。
(触ってもくれないんだ……あ)
 さとりの見ているのに気づいた。羞恥の熱がぐわっとせり上がる。
(じろじろ見ないでよ!)
「これは、すみません」
(あ、そっか。伝わっちゃうんだっけ……)
「ええ」
「……さとりさんの、その眼」
「これ?」 
 手のひらに乗せた覚りの眼を、湯呑み越しに一瞥して、妖夢はつつましい呼吸を置いた。映姫と紫に酒を奪われたので、さとり達は妖夢の淹れてくれた茶を飲んでいる。
「いいなあ。それがあれば相手の考えてることがわかるんですよね。いいなあ」
 それは曇りのないあこがれに根ざした声で、瑞々しい香気に満ちてさとりの奥底に着地してみせた。妖夢はかかえた膝にあごをのっけて幽々子を目で追っている。
 こんな、眼。
 吐き棄てるような妹の声を聞いた気がした。
 さとりは川原全体に目をこらす。燐と空が仲良く大樹の枝に腰掛けて、さとりに気づいて手を振っている。本人が望まぬかぎり他者から知覚されない妹は、このどこかに紛れていてもおかしくない。
 手拍子や歌声の只中で、かがり火に照らされ、亡霊の姫は柔らかくほほ笑んでいる。亡霊だって不吉な存在には違いないが、生を通り過ぎてしまえば、あんなに朗らかにしていられるものなのか。
 顔のつくりはともかく笑い方は、こいしにそっくりだ。
 皮膚一枚の下に深海のような感情があるのなら、表の笑顔も柔和な言葉も価値はない。かつてさとりは、そう思っていた。その思いを妹と共有していた。こいしが心を閉じ、さとりは別の考えも受け入れるようになった。こいしが変化したかは、わからない。ずっと聞けずにいる。生きていてくれればいいからと日々やり過ごしているのは、間違いなくさとりの弱さだろう。
「お?」
 映姫が口つけようとしていた杯を横取りして喉に流し込む。そうそう、酔ったもの勝ちよ。紫の心もだいぶ脇が甘くなっているようだ。
「紫ー。さとりんが苛めるー」
「もともと四季様が悪いんでしょう」
「うるさーい。だいたいね、あなた……あなた、何でしたっけ」
「知りませんよ」
 それでも祈る。杯を奪い返そうと伸びてくる映姫の両手をひらひらかわして、徳利や瓶に残った酒をかき集めてぺろぺろ舐める。妹がこのどこかに居てくれればいいと、さとりは願う。人と妖怪とその心がごちゃ混ぜになった、坩堝に。幽々子は穏やかさに囲まれているけれど、あれは死人だ。過去の者だ。今はもう居ない者の影なのだ。せつないじゃないか。こいしにも、いつかわかってもらいたい。
「わーん。おさけー」
「おお、よしよし。私のを飲みねぇ」
「ぐびぐび。そうですよ! 紫、あれは何です、近頃幻想郷入りさせた外の書物のラインナップ。ワタクシ大いに気に入りません」
「おお!? 唐突ですね。でも閻魔様、それは私の管轄ばかりじゃございませんことよ。聞いた話では紅魔館の魔女も独自のルートを持っているとか」
「文句を言いたくなるのは、あ・な・た・だ・け・よ」
「そんな流し目で言われましても」
「自ら命を絶った作家の書いたものばかりじゃないですか。それで幻想郷に自尽が流行ったら、あなたどう責任をとるつもりなの」
「乱暴ですね。自殺は感染症ですか。入水直前の太宰治から芥川の著作を読んだ記憶を抜き取れば、彼は死ななかったとでも仰るんですか」
「芥川といえば、河童ですね」
「河童です」
「かっぱっぱー、かっぱっぱー」
「稗田のあキュウちゃんまるかじりー」
「お、西行寺幽々子、噂をすれば」
「稗田の娘を美味しくいただくところですね」
 奇抜な帽子を被った娘が、腕を組んで幽々子に何か説教を垂れている。その後ろで待ち構える小柄な少女はしかし、あきらかに期待を込めた目で亡霊に触れられるのを待っているようだ。
(大丈夫かなー。また縁起に妙なこと書かれたって知りませんからね、幽々子様)
「大丈夫かしらねー」
 紫がぱしりと扇子をたたむ。大きく妖夢がうなずいた。
「ええ。縁起が改訂されるのが気がかりです」
「そんなことじゃなくて。妖夢、気がついていないの?」
「何がですか?」
 まあ私としては。映姫は団子を食いながら思考を流している。少し早めに稗田に来てもらっても、むしろ助かるんですけどね。
 稗田という名にさとりは覚えがある。直接会ったことはないけれど、百年だか百五十年の間隔で映姫の身近で手伝いをして、転生するという、阿礼乙女だ。
「いやねえ。幽々子はさっきから微妙にね、力を使っているじゃない」
「力?」
「いや、わざと完全に抑えていないというべきね」
(幽々子様の能力って、なんだっけ。お部屋にいながら朝食のメニューを言い当てるアレ……なわけがない。ひよこの幽霊の性別を瞬時に見分ける……のも違うよね。まさか? あれだ。いやまさか、ゆかりんジョークよね。でもまさか!)
 指先にとまった小さな羽虫が、力を失いぽとりと落ちる。哀しげな幽々子が、それを見おろしている。――それは妖夢が実際見た記憶なのか、知識を下地にしたイメージなのか。
 妖夢の白い顔はますます色を喪い、口からひゅーひゅー息が漏れるばかりだ。
「まさか」
「そうよ。軽く、軽くよ? ほんのちょびっとね、死に誘ってるわけ。まあ妖怪どころか人間だってまったく影響の出ない範囲ですけれど、稗田の者はどうかしらね。代々あまり身体が強くないですからね。白沢も気づいていたら、決して幽々子を近づけさせないでしょうね――」
「ゆ、ゆゆゆ幽々子様、いけません!」
 紫の突き出した扇子に見事足首をすくわれ、走り出した妖夢がすっ転ぶ。幽々子に抱き上げられた阿求は子猫のように好奇心をむき出しに、亡霊の頬を撫でたり、服の袂を引っ張って感触を確かめたりしているのだった。




「尻子玉について考えていたのです」
「また、唐突ですわね閻魔様。酒の席にふさわしい話題とは思えませんが」
 夜の一番深いところにさしかかって、紫と映姫はそれぞれ別の方角を眺めている。
「あれはまあ、ああいう臓器があると信じられていたわけでしょう」
「いや、私も一応妖怪で御座いますよ。立場上信じているというよりは『ある』と言わざるを得ないんですが」
「あれは一種のイデアなんですよね。もしくはイコン」
「ふうん?」
「つまり河童は、人間のお尻をありがたがっているわけです。信仰といってもいい」
「手をあわせて、お尻に拝んだりするのかしら」
「そう、そのとおり。土左衛門のお尻のやんごとなきところががばっと開いているのは、あれは河童がおもむろに手をつっこみ」
「これ、これ。可愛い裁判長さんがそんなこと言っちゃいけません」
「それでもって、嘘をついていなければ噛みつかれずにすむという通過儀礼をやっているのではと」
「どこの観光名所ですか。よく知ってますね」
「オフで行ってきました。あんなもので白黒判別しようだなんて浅はかですよねー」
「ですよねーって。気軽に大結界を越えないでくださいませんか」
「彼岸は幻想郷じゃありませんからね。まあ、越えたんですけど」
「越えたんだ。私の結界、そんなものなのかしら。凹むわね」
「私の結界、ってなんだかエロいですよね」
「えーきちゃんが壊れた!」
 これはいかん。さとりは立ち上がる。なにしろ映姫は始終にこりともしていないのである。
「おや、どちらへ」
「水を汲んできますよ。四季様には必要でしょう」
 ふーむ、と紫は息をつき、うつむき加減にぶつぶつつぶやいている隣を見やった。
「あ、使い走りなら私が」
 立とうとする妖夢を「いいえ、任せて」と押しとどめる。正座で足がしびれているのは、わかっていますよ?
 ふわりと飛んで、土手から斜めに下る道に着地する。風をうけた頬が涼しい。
 腕を広げて、夜の一部を胸に吸い込んだ。地底の闇とは違う、混じり物の多い匂いがする。
 ああ、地上の夜だ。
 先ほどまで眺められていた月は、今は眺める側になってしげしげと乱痴気騒ぎを見おろしている。 
「あっと」
 踏み出した足が、酔っ払って寝転がっている妖怪の手を踏みかける。気がつけばさとりは、すっかり宴の只中に入り込んでいる。右も左も、心の読める距離にたくさんの魑魅魍魎、死屍累々が群れている。
 探し……。
 ……探して……。
 ……誰を。
 ……誰なら……。
 酔っ払いたちは共通の話題を持っているらしい。まばらに聞こえるそれらを集中して読み取ることはせず、徒然に足を運ぶ。
 ――覚りだ。
 まれに気づくものいる。明確な敵意、恐れは伝わってこない。予感はしていたが、地上にはもう、覚り妖怪も、それと知る者もほとんどいないのだろう。
 ぽろぽろと琴の音。音をためすように指を置いているのは守矢の風神だ。立てた膝に斜めにひっかけた楽器から指を離して、苦笑いする。かわりに豊かな音が鳴る。身を乗り出して一くさり弾いてみせ、微笑んで立ち上がった幽々子が、ふとこちらを見る。
 焚き火の陰影で笑みが続いているかはわからないが、確かにさとりを見ていると感じられた。くるりと背を向けて、腰帯の結び目が遠ざかっていく。
 不可思議なものを見つける。牛二頭は楽々乗りそうな大八車が、丸石が平坦に並ぶ川原に停めてある。荷台に乗っているのは数名の童、すべて人間だ。
 まさか、妖怪たちの御馳走? と思ったが、どうもそんな雰囲気ではない。傍には阿礼乙女と白沢がいるし、車から降りないよう言いつけられているようだが、ちょっかいを出す唐傘お化けに棒で応戦したり、食べたり飲んだり、小さな口を仰向けて舟を漕いでいたり。誰ひとり怖がってはいないようだった。
 腕を組む白沢はしかし、油断のない目つきをしている。刺激しないよう、さとりは距離をおいて水辺に立つ。
「さとり様。そろそろお帰りですか。それならあたい、お空を呼んできますけど」
 さすがは猫の抜き足、燐はいつの間にか傍らに立っている。
「ううん違うの。あのね燐、水を汲んで届けてくれないかしら。四季様が飲みすぎて」
「閻魔様が? へええ。わかりましたよ」
 登場と同じく燐は音もなく立ち去る。まだ居られるんだ、という嬉しげな気持ちを残して。さてしかし、とさとりは自分の考え足らずを少々悔いる。これで用事はなくなってしまった。
 三角形の中洲に分けられて、川はつつましく流れている。やはり水位がずいぶん低い。大きな魚はさとりの足元で、背びれを水面に出して泳いでいる。心を読んでみようとすると、まるで察したようにさっと尾をくねらせて逃げていく。
「悪いね。いつもはもっといい川なんだけど」
 ざぶざぶと川を渡ってくるのは河童の少女である。水は彼女の膝までしかない。河童たちはよくここで泳ぎ回っていたものだ。さとりと気づいているのかいないのか、足をとめることなく彼女は陸に上がってくる。
「はい」
 差し出された竹筒に口をつけると、濁り酒が喉をつたった。一口飲んで返し、さとりは咳き込んだ。
「あはは。河童の酒はなかなか強いだろ?」
 これもあげる、と近づいてきて、さとりの襟元に紙でできた風車をさしてくれる。参ったなー。全部、読まれているのかなあ。
 彼女の心は静かだった。映姫の記憶でも彼女は笑っていた。笑っているのに、似つかわしくない深い淵のような心。
「にとり、さん」
「あはは、自己紹介もいらないね」
「これは何?」
「自信作なんだ。もうすぐわかるよ」
 もうすぐわかる。彼女は念を押して、人だかりにまぎれていく。さとりは襟についた風車に息を吹きかけた。羽根はぴくりとも動かない。
 河童というのはああも人懐こい連中だったろうか。まばらに手拍子が始まる。蚊の羽音のように細々と宴席を渡っていたつぶやきが、糸をより合わせるようにまとまり、ひとつの声となる。 
 ゆーかーり、それゆーかーり!
 それが八雲紫の名だと気づくのに、しばし時間がかかった。大半の地上の妖怪たちにとって彼女という存在は、酒の力を借りたくらいで馴れ合えるものではないと思っていたからだ。
 見れば先導して旗ならぬ瓢箪を振っているのは先ほどの鬼である。さすがの怖いもの知らずだが、声を合わせている連中も、別に彼女に従っているわけではなく、面白がっているらしい。
 ゆーかーり、それゆーかーり!
 手拍子はもはや喧しいほどだ。八雲紫なら。誰かがそう考える。紫ならば、なんとかしてくれる。
 よくわからないが、紫は期待されているらしい。事態を理解しようと川原を見おろしていた紫が、のそのそ立ち上がる。
 とたんに掛け声は雨飛沫のような拍手にかわる。あからさまに紫は渋い顔をしている。なんなの、と口が動く。それだけでまた拍手。盛り上がる妖気にあてられて、あちこちの焚き火が激しく燃えあがり、人間だけが驚いている。
 薄紅の髪をかきあげて、幽々子が土手の下に立った。
 八雲ならば……。
 ……きっと……。
 騒ぎをかいくぐって戻っていくと、紫の目がさとりに助けを求める。
「期待されているんですよ、紫さん」
「何を……?」
「あなたなら、西行寺幽々子を満足させられると。みなそう思っているんです」
 満足? と紫が目を見開く。実のところ、さとりはちゃんと周囲の思考を読み取ったわけではない。だからせいぜい、宴会にふさわしくなるようでっち上げることにする。どうせ誰にも、さとりの心は読めないのだから。
「幽々子さんは探しているんです。それが何か、誰かなのかはわかりません。けれど紫さんなら、彼女に答えをあたえてあげられるだろうと」
「ちょっと待ちなさいよ、何がなにやら」
「ゆーかーり! ゆーかーり!」
 やけに近くから聞こえると思ったら、囃しているのは映姫である。くくくと笑って口に含むのはさいわい、ただの水のようだ。燐はきちんと使いを果たしたらしい。
 あたふたしていた妖夢がぴたりと動きをとめる。さとりは身を翻す。月を背景に、亡霊の娘がゆっくりと降りてくる。見上げた紫の、金色の瞳がきゅっと引き締まる。
「ほらほら。幽々子さんの友人なのでしょう? きっと幽々子さんが求めているのは紫さん、あなたなんです。そうに違いない」
 すれ違いざま、そう囁いてやる。友人なんて、実に妖怪らしからぬ言葉である。
 友人。友人かしらねえ。長い付き合いには、違いないわね。
 不敵な感情がこぼれる。強者特有の気迫がにじみ、さとりは圧倒される。進み出た紫はもう、自信満々だ。
 近づいてくる幽々子からわざと顔をそむけて迎える仕草まで、実に芝居がかっている。――そうよ。八雲たるわたくしが、宴の興をそぐなんてあってはならないこと。
 物憂げにさしあげた手に、幽々子の白い指が重なる。
 おおっ!
 見上げていた面々からどよめきが起こる。すぐに静まり、興味津々たるひとつの塊となる。
 月明かりを横から受けて、ひととき動きをとめた紫と幽々子の姿は、妖怪などという存在からもっとも遠い、純粋でまばゆいものを目の当たりにしているようだった。やがて幽々子は袖のゆったりした両手を広げ、目を細める紫を抱え込むようにして。
「あれ?」
 平然と、その横を通り過ぎた。
「ちょ……ちょっと幽々子。幽々子さん?」
 唖然とする紫の背後で、幽々子は満面の笑みで、酔っ払った閻魔と熱く、深い抱擁を交わしているのだった。
 よよよと膝を崩して、映姫は指を噛む。
「ごめんなさい、小町。私、もうあなたのところへお嫁にいけません……」
「もーそれはいいですってば」
 無事に連れ帰るのがあたいの役目かなあ。腕組みして身を乗り出した死神が、ため息まじりにこぼしている。
「幽々子……」
 かくーん、と音がしそうなほど見事に紫のあごが落ちる。さとりと妖夢を風景か何かのようにちらりと眺めたきり、幽々子は夜気の中を離れていく。
 ゆーかーり、それゆーかーり!
「静かになさい!」
 長いスカートの裾から膝をのぞかせて紫は地団太を踏み、妖怪とわずかな人間たちは、くわばらくわばらと散っていく。その中で例の鬼だけが、指をさしてのけぞり、大笑いしているのだった。


   
    
      ◇ ◇ ◇


 ――考えてみれば私。幽々子様のこと、ちっとも知らないんだよなあ。
 さとりはぎくりと足をとめた。その思考はしたたる水になって、さとりの心の表皮で飛沫を飛ばした。亡霊の従者は穏やかな横顔で、遠ざかる主の背を見送っている。
(そういうの、考えなくっていいって。思ってた)
 楽しそうな色さえ頬ににじませて、ふわりとスカートを広げてしゃがみこむ。
(知ろうとしちゃいけないんだって。私は、自分のやるべきことだけやっていればいいんだって)
 足元の露草の花を一つ摘み、指でしごいて回している。
(でも、どうしてかな。今私、幽々子様のこと、すごく知りたいよ)
 丸めた背中にからげた大小は、藁しべより役立たずに見える。
(知りたいな)
 たぷん、と酸っぱい波が立ち、そんな心を隠して彼女は静かな目をしている。
 さとりが、そこで幽々子を追いかけた理由はよくわからない。幽々子の心を読んで教えたところで、それが妖夢の求めるものでないことくらい、わかっていた。身体が動いたのだ。目の前で落ちかかるものに知らず手が伸びるように。
 取り返せない過去をつぐなうように。
 案外と足の速い亡霊は、すでに川のたもとにいる。小さな淵をせき止めるように流れに浮かぶ大きな岩を、じっと見つめている。あたりには薄紫の竜胆が咲き乱れ、騒ぎから離れて休む妖怪たちが花に埋もれてくつろいでいる。
 竜胆の花を顔に近づける幽々子は、ちょうど従者と同じような姿勢である。水母のように透き通った霊魂が、風のようにその髪を撫でる。
 亡霊たる者の心はあまり覗いた経験がないが、どうせ紫たちと同じく、気安く見透かせてはもらえまい。たかをくくって近づいたさとりの鼻先に、桜に似た花びらが一枚、ひらりと舞う。
 手のひらに拾ったそれは確かに桜だった。花をつけた桜などないはずなのに、と顔をあげたさとりはあっけにとられる。
 一面、桜吹雪だった。桃色の鱗の小魚の、ものすごい数の群れに取り巻かれているかのようだった。どれだけ散らしても尽きることのない、夥しい花をつけた枝が網の目のように空を覆っている。
 彼女は、そこに居た。見開かれた目はふたたび閉じることはない。花びらは滾々と、まるで瞳から湧き出てくるかのようだった。
 無限に尽きることのない井戸のように。
 青白い首筋から下を花より濃い色がどんどん染めていく。すべては失われ、確かめるべきことは何も残されていないのは明らかだ。
「あなたは、自分で……?」
 応えられない相手に問いかけてはならない。それはタブーだ。
 ぴくり、と動くはずのない青白い唇がひきつり、凝固した頬がめりめりと膨らむ。
 ひょっとこを真似たようなその変顔は、こんな状況でなければ笑えたかもしれない。
『とっぴんぱらりのぷう』
「ひぃ」
 逃げようとして、仰向けに倒れた。夜と月がさとりを見おろしている。いったい何を見たのだろう。起き上がろうとしたが身体が動かない。しげしげと覗き込んでくる亡霊は、童女のように曇りない好奇心を浮かべている。
「見た?」
 さとりは幽々子の膝の上で、すっぽり抱きすくめられていた。
 ――殺される。
 そんなわけはない。わかっているのに、目を逸らせばその隙に幽々子の表情がまるで別のものに変わりそうで、さとりは瞼から力を抜くことができずにいた。
「覚り妖怪。ねえ、何か見えたんでしょう? 教えてちょうだいな」
 私、自分のことを何も知らないのよ。口ぶりは鼻歌よりも軽い。
「妖夢さんが」
 やっと声が出た。
「妖夢? それがどうしたの」
「もう少しわかってあげてください、彼女のことを」
「ううん? あの子のことで私がわかっていないことなんて、何もないわよ?」
「寂しいんですよ」
 夜の鳥が森で鳴き、幽々子が目をそちらに向ける。さとりは身体を強引にひねるようにして、柔らかな縛めから抜け出した。
「あらら、つれないわね。……そこ、危ないわ」
 幽々子は手を差し伸べ、意味がわからないさとりの視界が大きくぶれる。
 踏みしめたと思った地面はなかった。夜空が速度を増し、背中を叩く衝撃とともに泡交じりの水が上下左右から押し寄せてくる。
 川の深いところに落ちたらしい、と遠ざかる水面を見つめて、水を飲まないようにさとりは気をつけている。
 ちなみにさとりは泳げない。というより泳いだことがない。しかし慌てず騒がず。水面に突き出た岩に飛び移ってくる人影がある。あんなところにいるんだから、河童かなにかだろう。胸元の目に意識を集める。泳ぎ方を読み取るつもりだった。河童のように自在とはいかなくても、真似するぐらいなら造作も無い。覚り妖怪の面目躍如といったところだ。
 水底についた反動で背中が持ち上がる。揺れる波紋の向こう側の相手もこちらを見ているらしい。心に近づいてその能力を、上着を羽織るようにして一気に身にまとう。
 狼狽した。はずみで深く水を飲んでしまう。
「おーい。大丈夫かい?」
 波が落ち着いた川面から声が沈んでくる。夜目にもあざやかな紅を散らし、紅魔館の主は不思議そうに水中のさとりと目を合わせた。
 四肢がこわばる。一時的に借りた吸血鬼の特性は確実にさとりの自由を奪っていた。肺に入った水が鉛のように重い。流水に落ちたときの対処法は。デーモンキングクレイドルで強行突破、ってなんですかそれは。意識がぼやける。どちらにせよ、もう。
 がさりと、耳の奥がきしんだ。全身に一枚の波が当たり、ひととき静まる。やがて、じわじわと周りの水が動き出す。ゆるやかに、しかし強靭な腕力で、さとりをどこかへ運び去ろうとする。




 急に手足が軽くなる。耳の穴から水が抜け落ちて、散らばっていた意識が戻ってくる。
「何やってるのよ」
 呆れたような声が降って来た。海老のように身体を折って、さとりは腹にたまった水を激しく吐き出した。
「あ、あ、ごめんなさい……」
 さとりを抱えて浮かんでいるのは霊夢だった。紅白の巫女服の袖に、さとりは思い切り水を吐きかけてしまったのだ。
「謝らないでいいわ」
 さとりは足元を見る。さとりの沈んでいたと思しき淀みに流れが生まれ、渦をえがいて白い波を立てている。レミリアのいた岩がぱくりと割れて、その間からすごい勢いで水が流れ出しているのだ。波は中州へと押し寄せ、少しずつ端から飲み込んでいく。
「すみません、助けてくれたんですね」
 紅白巫女は濡れた黒髪を額に貼り付けて、目を伏せて笑った。川端に下ろされると、近寄ってきたレミリアがかりかりと頬をかく。
「だいたい把握してる。その、うん、悪かったね」
「いえ。あれを壊して、水を流してくれたんですか?」
 礼を言うつもりで、さとりが割れた岩を指差すと、吸血鬼はかぶりをふった。
「ううん。何もしてないのにいきなり砕けたわよ?」
 心を読むに、彼女もまた相当驚いている。
「さとり様ー!」
 声と一緒に黒い羽根が顔面にびしりと当たり、口の中まで羽毛が入ってくる。ごめんね気づくのが遅れて。ごめんなさい。背中から燐の感情も伝わる。サンドイッチにされているらしい。
 宴の参加者一同から好奇の目で見られているだろう。いい加減恥ずかしくて、さとりは空の翼を撫でて、威厳のある声を取り繕う。
「もう、大丈夫ですから。空、離れなさい――」
「そっかぁ。あんた、ただの子供じゃなかったんだね」
 知っているはずの声は、聞いたことのない響きを持っていた。腕を組み袖を握って、霊夢は逆巻く水面を見つめている。
「人間の子供が溺れてるのかって、慌てちゃった。早まったなあ。私っていつもそう」
 さとりは違和感の正体を探す。心だ。抱きかかえられているうちから気づいていた。巫女から伝わるのは深い深い水のような色だ。河童のにとりから感じた、あれよりもっと底知れない、動くもののない水底。まるで地上に対する地底のように、時間を閉じ込めた氷のように冷えた心。
 ゆらりと亡霊が、さとりの前に立った。静かな瞳で見つめ返す霊夢に近づき、その手をとる。
 二人の心は、どこか似ていた。
 月が細い雲に隠れる。わずかに暗くなった宙空に、一筋の光が流れ、それは桜色の輪郭を持つ、一羽の蝶になった。
「見つけたわね」
 川原に隙間が開き、身を乗り出した紫の指に蝶がとまり、ふっと消える。
「そのようね」
 つづいて紫の横に舞い降りた映姫は、つめたい相貌に流れる水の模様を映している。
 そのとき、川原全体でかがり火や焚き火が一斉に消える。冷え冷えとした風が足元を抜け、川の上流めがけて吹き出した。
 枯れ草がはためくような音がする。見れば、さとりの服の襟についた風車が回っている。どうやらにとりは宴会の裏で勤勉に立ち回っていたらしい。それはほとんどの人妖たちの服のどこかにくっついていて、一様に忙しく羽根を動かしているのだった。
「回れ回れよかざぐるま」
 自信作と呼んだそれをささげ持ち、にとりが歩いていく。
「やっと見つけたよ」
 風の向きに関係なく、それが彼女の進む方向をさして回っていることに、さとりは気づいた。
 くぐもった音を立てて、流れに残っていた岩が崩れる。川原に転がり落ちた破片を拾い上げて、にとりは笑うように口を広げた。引き絞られた目からひっきりなしに涙が湧き出して、丸い頬の左右に分かれて落ちていく。
 荒れていた川は徐々に大人しくなっていく。月がふたたび雲間に顔を出す。
 皆だまっている。さとりの傍にやってきた妖夢の背後にあらわれた幽々子が、肩をたたいて驚かせている。
 死神をひき連れて映姫が、おごそかな歩幅で前に出た。川に足首まで浸した霊夢は振り向き、閻魔と、その場のすべての視線を受け止める。勺をかざして語りかける映姫に、何度か頷き返して、ほほ笑む。そして、上司を追い越した死神が足を広げて立ち、波打つ刃の妙な大鎌をかかげ、夜空の底を撫でるように、ゆっくりと振った。
 風車の音がぴたりと止む。さとりが自分の胸元を確認して目をあげたわずかな間に、紅白の巫女の姿は忽然と消え失せていた。








 ある河童がいた。彼女は、河童の身にしては過ぎた強い妖力を持っていた。
 水をあやつり、水神の真似事のようなことまでやってのけた。
 妖怪として、力の強いことは生き難さにはつながらない。力をひけらかさない彼女は仲間にも信頼されたし、天狗や他の妖怪たちにも一目置かれていた。あと百年か二百年生きれば、本物の神にだってなれるだろう。河童の長老たちの見立ては、つよい期待でもあった。
 たいていの河童は人間に友情を感じているが、彼女は格別だった。ことに子供が好きで、人見知りもせず、にとりのような技術屋としての熱意は薄かったから、川遊びにくる子らに声をかけ仲良くなって、毎日のように遊び暮らしているのだった。川泳ぎ、魚獲り、相撲……。何十倍も生きていても、まるきり同じように泣いたり笑ったり、ただただ一緒になって楽しむのだ。
「人間に化ける術が得意でね。ほんとに上手いんだ。……いつも遊んでる子供らで、たまたま一人来られなかったりするじゃん? 寺子屋の居残りとか、風邪ひいたとかでさ。そしたらその子に化けて、何食わぬ顔で混じって遊ぶわけ。夕方になって日が暮れて、ばいばいって別れるまで、誰も気づかない。そのままその姿で化けてる子の家まで行って、本人がお風呂に入ってるすきに、晩ご飯までちゃっかり頂いちゃったりする。親ですらわからない。それで本人が出てきてやっとバレるんだけど、誰も怒らないんだ。笑い話になっちゃう。お土産に胡瓜をもらって帰ってきたりしてね」
 なぜなら、大人たちは知っていたからだ。一緒くたに泥まみれになりながらも、天狗の縄張り、川の流れが急なところ、動物たちの餌場――そういう危険なところに、子供が近寄らないよう彼女が気を配っていてくれることを。
 なぜなら、自分たちもまた、そうやって大きくなったからだ。
「だからね。……事故だったんだ」
 このちょっと下の方、とにとりは指を川下に向けた。
 夜が明けかけている。月は沈み、星がどんどん隠れていく。宴の面々はあらかた撤収し、ひろびろとした川原に残っているのは、にとりと数人の河童たちに紫、そしてさとりと燐、燐の膝で寝息をたてる空だけだった。
「子供にせがまれたからとか言われてるけど、理由はわかんない。あざさは、これはあの子の名前ね、あるとき波を起こした。ちょうどこの川原でね。ちょうど冬があけて、久しぶりに子供らと会えた日だったんだ。もちろん、岸からみんな遠ざけてね。たいした波じゃない。誰も水に呑まれたりはしない。――たった一人、たまたまその日遊びに来なかった子を除いて」
 誤算は、雪だった。暖かい日差しで緩んだ雪を巻き込み水かさが増え、河童の予想も超えた波が下流へ流れた。その男の子は運悪く、妹を産んだばかりの母親のため魚を獲ろうと、川に入っていたのだ。
「命は助かった。でも里の近くまで流されて、岩に挟まれて、足をね。夏まで寝たきりで、今は立てるようになったけど、まだ元通り歩けない。……あざさは、そりゃあ悲しんだよ。ずっと閉じこもって、誰にも会わなかった。いくら励ましても、どれだけなだめても、自分を責めるのをやめなかった。それで」
 にとりは膝をかかえて唇を噛んだ。彼女の中で浮き沈みする言葉を、さとりはじっと見つめていた。こういうとき進んで口に出してやればいいのか、長く覚りをやっていても、いまだにわからない。
「ある日あざさは、川に入って、最初で最後の、特別な変化をした」
 山の端が赤らんでいる。頂を囲むように雲が出て、さとりは雨を予感する。川はゆったりと流れ、せきとめるようにそびえていた岩はすでに跡形もない。
 それは夏の終わり、長く雨がつづいて、下流では橋も流されていた。彼女が変化した岩はけっして大きくなかったが、的確に川の流れを散らせ、人里に被害を出すことはなかった。
 にとり達は喜んだ。背負ったものを返せたのだと、そう思ったのだ。しかし彼女は戻らず、岩は川に残り、やがて流れが澱みはじめる。塞がれた川は森へと水を逃がしてしまう。本流は水かさを減らし、人間たちは田畑に引く水に困りはじめる。
「しょせん河童の浅知恵というわけですわ」
 離れた場所で、にとりの話を聞くともなく風に吹かれていた紫が、優雅な足取りでやってくる。一晩着こんでもいささかもくたびれないスカートの裾が波打ち、彼女はまるで矢車草の花束のようだった。
 案外と人情家の燐が眉を寄せる。けれどにとりは、ははっと笑い飛ばした。
「それ、もっと早く言ってあげて欲しかったな」
「そうですわね」
 遠く鳴神が唸り、ほどなく、細かな雨が降り出す。こういう雨を何度もくぐって、やがて夏が来る。
 どこからともなく取り出した傘を、紫がさとり達にさしかけた。
 にとり達河童は、それでも仲間の帰ってくるのを信じていた。紫に案内された幻想郷の閻魔が、河童の暮らす谷を訪問するまでは。
「魂が迷ってるって。彼岸に来るはずのものが来ていないって。最初は意味がわかんなかったよ。だってさ、あんなふうに、ああやって命を落とした仲間なんて、今まで見たことなかったからさ」
 ぐしぐしとにとりが鼻先をこする。
「呼んでも祈っても出てこない。山の神様にも尋ねたけれど、あざさがもう、岩の『中』にいない、ってことしかわからなかった。宴会やってみればいいんじゃないかって、とある天狗が言った。皆で騒ぐのが好きだったからね、あの子。子供と遊ぶのと同じくらい」
「なるほど。古典的な、神と霊の呼び出し方ですね。そこをこれで見つけると」
 さとりは、襟についた風車をはずして差し出した。
「うん。いや、小型化するのが大変だったよ。最初に作った試作機は、神社の鳥居より大きくてさあ。勿体無いから風力発電に使ってるけど」
 愛敬たっぷりに舌をのぞかせて、にとりはそれを受け取る。その頭の中では妙な原理や数式が飛び交っているが、さとりには全くわからない。
「欠点があってね。あざさが、自分があざさなんだって気づいてくれないと見つけられないってところ。私は私、って我に返るまでは、化けたものになりきってしまえるの」
「そういうものでしょうか」
「ここは幻想郷よ」
 賢者は、なぜか得意げだ。
 かくして河童は特製の道具をこしらえ、閻魔から話が来た幽々子が紫に、宴会の段取りを頼んだ。おそらく彼女は、参加者の姿に化けて現れるだろう。映姫はそう予測していた。何かの事情で来られなくなった『誰か』に、身も心もなりきって、彼女はやってくる。
『死んでいるんでしょう? なら、もう一度軽く殺してみればきっと気づくわよね。ああ、私死んでるんだ、って』
 亡霊嬢は紫にそう告げた。遠くを見るようにその声を思い出す紫の横顔を、癖のついた髪が洗っている。
「さて、お開きね」
 醜怪な色彩の『隙間』はやはり、何度見ても慣れないものだ。
「地底までお送りしましょうか?」 
「結構です。空にしがみついていればひとっ飛びですから」
「あら、そう」
「お空、起きなって。帰るよー?」
 紫が隙間を引っ込め、燐に揺さぶられた空がもごもご呟きながら身を起こす。
 いつの間にかにとりが対岸に渡っている。一度振り返ってから、その小さな背中は溶けるように茂みに消える。
「しかし、よりにもよってあのぐうたら巫女に化けるとは、物好きねえ。未熟なところまで真似ていたのかしら? それなら、誰も見破れなかったのも無理ないけれど」
 濡れた丸石をひとつ摘み、流れに放った紫はさとりに背を向けている。無防備な心がいきなりありありと広がって、さとりはたじろいだ。紫ではない誰かが隠れているのではと思うほど、素朴で柔らかい感情が、ぽつりと転がっている。
 もう一つ、石が飛ぶ。三度水面を切って消えた。
「なるほど。見破れなかったのが悔しいんですね。あの巫女のことを、誰より知っているつもりだったのにと」
「あっ」
 口元を隠し、そんなことをしても無駄と思い至り、うろうろ落ち着かない目つきを飛ばして、観念したように紫は手のひらを額に当てる。
「……勝手に覗くんじゃありません」
「失礼しました」
 寝ぼけ眼のまま空が手を伸ばしてくる。さとりの腰を抱き寄せるようにして、「つかまっててくださいねー」と翼を広げる。
「ちょっと待って、空」
「はいーむにゃむにゃ」
「八雲紫、聞きたいことがあるのです」
 傘をたたんで離れる背中に、さとりは空にもたれたまま声をかけた。雨はまばらになり、切り立った山肌を早い雲が流れる。
「何でしょう」
 立てた傘を軸に紫は振り返る。
「当然の疑問なのですが、どうして私を使わなかったんです」
「どういうこと?」
 しかし紫は、さとりの意図は察しているようだった。
「幽々子さんに頼むより、河童の道具で探すより、私が一人一人心を読めばもっと早く、彼女を見つけることが出来たんじゃないですか?」
「あなたは、それでよかったの?」
「え?」
 後ろ手に開いた隙間に、ぬるりと半身を差し入れて、紫は妖しく笑った。
「宴会の参加者全員に、心の読める妖怪だと、印象付けたかったのかしら。すぐに見付かればいいけれど、忌み嫌われし覚りの怖ろしさ、おぞましさを、思い起こさせて歩くことになったのかもしれない。それが望みだったというの?」
「それは」
 猫の姿をとった燐がさとりの肩に駆け上がり、低く唸る。耳の先を触れてなだめて、さとりは紫の顔を見られずにいる。
「なんてねえ」わざとらしい欠伸が聞こえた。「今回はあなた、徹頭徹尾ただの客だったというわけ。わざわざ地底の者に頼ったりしないわ。それだけのことよ。はい、おしまい」
 ぱくりと隙間が紫を飲み込み、いよいよ川原はさとり達だけになる。燐が空の背に駆け上がり、豊かな黒髪の中に潜り込む。さとりを抱えた腕に力がこもり、空の翼が一度大きく羽ばたいた。足がふわりと地を離れる。
 どこからともなく、紫の声だけが木霊した。
『少なくとも、あなたが居てくれたおかげで閻魔様も私も妖夢も、お互いを疑わずに済んだのです。古明地さとり、またいつでも地上へおいでなさい』


 さて本物の霊夢であるが、その夜もいつもどおり神社にいた。ずいぶん後になって燐から聞いたところ、宴会の誘いは届いていたものの、昼間に大量に打った蕎麦の誘惑がそれに勝ったのだという。連れ立っていこうかとやってきた黒白魔法使いも、なんとなくその相伴にあずかり、二人でたらふく食って飲んで寝た。気がつけば朝だった。当の魔理沙の証言である。
 地底に繋がる縦穴を、空に抱えられて下りながら、さとりは夜明け前の川原を思い返している。
 ――あーちゃん!
 偽の霊夢はそう呼ばれた。彼女の姿が消えて、鎌を下ろした死神と閻魔が頷きあって、並んで歩くように夜空を進んでいく。見えなくなった魂は、二人の周りを漂っているのだろう。彼女はやがて死神の舟に乗り、戻れない川を渡るのだ。
 ――あーちゃん! ありがとう!
 群がって見上げる妖怪たちをかきわけ、押しのけ、くぐりぬけて川縁に並んだのは、大八車に乗っていた子供たちである。遠ざかる閻魔たちに、声を限りに口々に叫ぶ。
 ――さようなら!
 ――さようなら! ずっとずっと、たのしかったよ!
 白沢に伴われ、杖をついた少年が大きく手を振った。
 ――またいつか、遊ぼうね!
 瞼が重くなってくる。
 もう逢えませんよ。
 小さく呟いて、空の上着に頬を寄せると、彼女の体温が暖かく染みこんできた。だんだんと静まるさとりの内側で、人間たちの声は夏の夕日のように、いつまでも沈まず響きあっている。






   ------------------------------------------------------------

 冥界へつづく長い階段は、まだ青い夜の気色が根を張っている。
「なあに、妖夢」
 前をゆく主が、振り向いて首をかしげた。
「なんでもありません」
 幽々子様。
 妖夢はいつものように呼ぶことができなかった。呼ばなければ、呼び続けなければ、彼女はふっと居なくなってしまうのではないか。そんな根拠のないおそれを抱きながら、それでもなぜか声に出すことができない。
「あ、の」
 ぱくぱくと空気ばかり飲み込む。妖夢、まるで鯉みたいよ、と幽々子はたっぷりした袖で口元を覆う。
「あのう。霊夢の幽霊を見つけるのが目的だったんですよね?」
「化けた妖怪の、よ。勝手に殺さないの」
 幽々子は立ち止まった。酔いをさますかのように首の後ろを撫でて目を細める。
「誰に化けてるか、わからなかったんですよね」
「わかっていたら、探さないわよ」
「私に化けてるって、思わなかったんですか」
 あの世とこの世の境ということでは、この階段も三途の川みたいなものである。底に沈んだ妖夢の感情はあまりに生気に満ちていて、そのまま露わにするのはためらわれた。だから慎重に言葉を選んだ。
「覚り妖怪がいたから、確かめる必要はなかったと」
「覚りはあてにならないわ。そんな必要もないわね」
 かすかな落胆が胸を刺した。それは安堵でもあった。幽々子は二段上に立っている。その距離はとこしえに変わらないんだと、信じられた。
「だって妖夢。妖夢は妖夢じゃない?」
 なのに、いきなり。なぜその距離をまたいで、手をつないでくるのか。
「あなたを間違えたりしないわ」
 声の末尾はほとんどかすれていた。妖夢の、親指の付け根から続く膨らみを、言葉と裏腹にその指は、何度も往復して確かめているようだった。
 そっと握り返した。赤くなっているだろう顔を見られるまで、こうしていようと思った。
 





<了>
全くの私事なので読み飛ばしてくださって構わないのですが、これまでの投稿でまだ一度も(回想、伝聞場面以外)霊夢さんを書けておりません。どうやって登場させられるか、我が事ながら楽しみでもあります。


想定していたより、だらりと長い話になりました。暑い中お付き合いくださり、本当に有難うございます。
鹿路
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コメント



0.3210簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
ゆゆ様ー!
4.100名前が無い程度の能力削除
宴会の喧騒を確かに感じ、しかし、とても静かな文章。
全体を俯瞰するかのようなさとり視点がもう美しくて美しくて。
5.100名前が無い程度の能力削除
よかった。
ゆゆさまも素敵だったけど、いちいち可愛い反応をみせる妖夢もいいですね。
ゆっくりと読ませていただきました。

ばりやーっ!
6.100名前が無い程度の能力削除
ばりやーかわいいなぁばりやー
8.100名前が無い程度の能力削除
宴書くの上手すぎてパルパルパル
さとり視点なのに傍にいない幽々子様達が確かに宴にいるのが手に取るように感じられる
そしてキモの部分のからくりも秀逸、文句なしの100点
9.100名前が無い程度の能力削除
ばりやーかわいいよばりやー
読み進めるごとに、前の方であったシーンはそういうことだったのかーと感心しきりでした
みんなかわいいなぁ
鹿路さんの書かれるお話はいつも切なく優しくて素敵です
12.100名前が無い程度の能力削除
ニヤニヤもしんみりも全部違和感なく溶け込んでいて、圧倒されました。
「ばりやー!」は卑怯でしょう。

そして愛らしさと格好良さが両立している紫様と映姫様が素敵すぎます。
13.100名前が無い程度の能力削除
はて、どのような話になるのかと、読み進めながら楽しむことが出来ました
いい意味で想像を打ち砕いてくれることが多く、嬉しかったです
綺麗な描写も含め、とても魅力的でした
16.100名前が無い程度の能力削除
なにこれすごい!ただ賑やかなだけでなく、まるで万華鏡のように宴の雰囲気が変わって飽きなかったです
霊夢って亡霊の心の在り方と似てるんだーへえーと思ったらこういうことか!

そういえば、閻魔様ばりやーっや紫のぱすわーど式で心がそう簡単に読めないのは分かったけども、幽々様のはなんだったんだ・・・・・・あのシーンは背筋がヒヤっとしました
キャラがとても立ってて皆印象的ですね!
20.100名前が無い程度の能力削除
最初から最後までずっと物語に引き込まれたままでした
本当に素晴らしい
26.100名前が無い程度の能力削除
騒がしくもあり静かでもあり、なんだか惹き込まれていく様な雰囲気のお話でした。
霊夢が子供に囲まれてる、というのでん?と思いましたが、最後まで読んでみて納得しました。
伏線の張り方もお上手でした。
27.100名前が無い程度の能力削除
鹿路さんの文章がこんなに読めることが嬉しかった。
キャラから風景、心象まで流石の描写。
霊夢楽しみにしてます。
28.100名前が無い程度の能力削除
傑作です。
宴会の描写もそれぞれのキャラがきちんと立っていたし、
さとりが覗いた妖夢視点の幽々子の描写はアイデアも文章も凄かったです。
それから映姫と紫のお茶目かつあふれるカリスマ(笑)
あと、なんといってもさとりが可愛かった!!
しかも物語の所々にさりげなく置かれていた伏線が
終盤に見事に回収されていくところは見事というほかありませんでした。
とにかく素晴らしかった!!
31.100名前が無い程度の能力削除
お見事!!
話の流れ、展開、そしてキャラの魅力、どれをとっても大満足の作品でした。
この作品を読めて良かったです。作者に感謝を。
32.100名前が無い程度の能力削除
心地良い作品、どうもありがとうございました。
毎作品楽しませていただいてます。
33.100ガニメデ削除
私にとっての今夏ナンバー1になるでしょう。

文章の形がいつのまにか失われて、風景だけがありありと浮かび上がったような感じ。
描写が上手いとはこういう作品をこそ言うのだと思います。
キャラクタの振る舞い、描写される風景、どれも自分の想像する幻想郷に近かったです。(映姫と阿求を除く

安易なネタを話の中心に持ってこず、シナリオの運びも上等でした。
次から次に発生する先の読めない展開は読み手を飽きさせず、
つい最後まで読んでしまいました。
祭りのような宴会の雰囲気に紛れ込んだギミックもお見事でした。
胸にすとんと落ちる感じ。これのする作品はハズレが無いです。

あとはタイトル。
死んだ彼女といったら一人ぐらいしか浮かばないので
その人だと思っていたのですが、指しているのが別人だと気付いたときにやられました。
ダブルミーニングかもしれませんが、片方の行動が原作通り謎すぎるので違うか、とも思ったり。

少し描写が散漫な印象を受けましたが、宴会の雰囲気が逆に良い方向へ働かせたように思えました。

敢えて気になった点を挙げれば、描写の移り変わりに唐突さを感じたところでしょうか。
宴会の終わり、魔理沙の証言、地底への帰り道、
この3つのシーンの繋がり、特に魔理沙の証言から地底への帰り道の繋がりが特に唐突でした。

しばらくぶりに東方らしさ、原作らしさのようなものが感じられた一品です。
佳作という感じでしょうか。
次回を楽しみにしています。ありがとうございました。

いやもう感想で今晩を使ってしまいましたよ。
37.100ice削除
一日千秋の思いで鹿路様の作品を待っておりました。
このみやびかな文章を、もっと、もっと読んでいたいのです。
何もかも忘れて耽溺しました。

気附けば寅の刻。助けて永琳!
幽々子さまの様な妖婉さを持つ作品でした。
41.90名前が無い程度の能力削除
ばりやーっ!かわいいよばりやーっ!
楽しげな宴会の話から実は霊夢が!?になってさらになんだってー!になり
最後は少し悲しいけれど綺麗な終わり方でした。
42.90名前が無い程度の能力削除
蛍の光のような美しい文章でした
44.90名前が無い程度の能力削除
うつくし
46.無評価鹿路削除
読んでくださってほんとうにありがとう。
何度かお蔵入りを考えたSSだけに、あたたかい反応がいただけて嬉しいです。

エライ人、を書くのは難しいけれど楽しいですね。
酔いのせいにしてだいぶはっちゃけて貰いましたけど、アルコール抜きで(笑)また活躍させられれば、と思いますね。
47.100名前が無い程度の能力削除
誰も彼も可愛いなこん畜生
48.100名前が無い程度の能力削除
最高だわ。
面白かったです。
49.100名前が無い程度の能力削除
序盤は風景重視の宴会の光景で、後半まさかの急展開。最初読んだ時は全く予想が出来ませんでした。
でも、読み返してみるとちゃんと伏線が。見事な構成でした。
文章も非常に読みやすく、夜の山の、喧騒が吸い込まれていくような光景が
脳裏に浮かぶように綺麗に描かれていました。
良作ありがとうございます。
50.100名前が無い程度の能力削除
創想話を読んでいると、読み終わった後に「面白かった。俺もこういうの書きたいなー」
なんてよく夢見たりするんですが、これは
「面白かった。なんだこれ、俺の中にこんなのないぞ。すげえ」
でした。創想話はそれなりに読んでいますが見たことのない魅せ方だと感じました
不思議な空気から突然出てきた知らない河童に泣かされたし
この作品を静かな夜に読めてよかった
53.90名前が無い程度の能力削除
あちらこちらと動く視線の先すべてに、美しいものがちりばめられていて。また心地よく感じました。綺麗なお話だなぁ。
54.100名前が無い程度の能力削除
素敵なお話しです。さとり様がこんなにかわいいなんて。
58.100名前が無い程度の能力削除
どうしたって、どうしたって素晴らしい。
ありがとうございました。
59.100euclid削除
幻想少女たちが大規模な酒宴を開いたらきっとこうなるんだろうなぁという理想的な宴会風景で感激。
今までも沢山「この宴会楽しそうだなぁ」と思った作品はありましたが、「この宴会参加したい!」と思った作品はもしかしたら初めてかも?
65.100名前が無い程度の能力削除
おおう…素晴らしいSSだった。
なんか、もの凄く宴会の様子が目に浮かんだ。ああ、楽しそうだな、って。
伏線回収もとても自然に行われていて、読んだ後かなりすっきりしました。
読んでてとても作品に引き込まれていて、急展開もすんなり受け入れられました。
ありがとうございました。貴方の書く霊夢がとても楽しみです。
66.90名前が無い程度の能力削除
タイトルに惹かれて読んでみました。
複線の張り方がお上手ですね・・・妖夢がかわいかったです。
68.100名前が無い程度の能力削除
この宴会に参加したかったです。
75.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい宴会でした。
読みながら、やっぱり東方はいいなあ!と思わせてくれる作品でした。
80.100名前が無い程度の能力削除
幻想郷の日々の一部として、素晴らしく東方らしかった。映姫様可愛い。
90.100名前が無い程度の能力削除
2012年よりこんにちは
ここまで色合い豊かな情景が自然に湧いてくる小説はとても久しぶりでした。
上にも書いている方が居られますがまさに自分の中になかった感性を見た気分です。

キャラだけでなくその周辺の綺麗な風景や空気感が自然と脳裏に浮いてきて、文字の端々に情景が散りばめられているような、頑張ってイメージに変換せずとも文字がそのまますんなりとイメージに変換されて出てくるかのような作品でした。
おおよそ物語の核心は後半でまとめて明らかになる感じだと思うのですが、そこに至るまでの一見のんのんと宴会の描画が続いているだけに思える部分も全く冗長な感じや飽きがなく、核心部分でも他愛無い会話のやり取りでも、何気ない動作の描写のひとつひとつに、全てのキャラが可愛く美しく奥ゆかしくかっこ良く、魅力的に引き立っていると思います。

私は投稿者でも物書きでもないですが、こんな作品が書きたいです。
バックナンバーから結構色々見てきているのですが、私的にはここに投稿されているSSの中でも5本の指に入るものです。
93.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
94.90名前が無い程度の能力削除
みすちーが主役!と読んでたら違った。

妖夢かわいいよ妖夢w
101.100ばかのひ削除
魅力的な文章
魅力的なお話
魅力的なキャラクタ達でした 最高です