※自己解釈なども含まれています。そういったものに不快感を覚える方は速やかに前のページにお戻りください。
家族から捨てられときを覚えている。
一家全員で旅行に行ったときだ。
朝が早いからもう寝なさい。と母に言われて布団に潜った私だったが、旅行が楽しみで仕方なかった私はもう一度、一階に降り母の様子を見に行った。そこで私が見たものは、旅行をするには余りにも少ない両親の用意と一泊分というには必要以上に多すぎる私の服だった。
この時からもう私は分かっていた。
多分、もう捨てられるんだ。と。
自分でも理由はよく分かっていた。
五歳の時私は皆の見ている目の前で車に轢かれた。
いや、轢かれそうになったと言ったほうが適当だ。
私の鼻の頭の寸前で車が止まった。それどころか驚きの表情を浮かべる人、恐怖で歪んだ顔も全てが止まった。
私だって最初はそんな夢見たいな力あるわけないと思っていた。最初の内は。
だけど、自分でも年を重ねるごとにその力を自在に操ることができるようになってしまった。
私は時間を操れる。
そして、旅行の当日、両親はいつもよりとても暖かく接してくれた。
でも、とても悲しそうな顔だった。私の力に両親が気づき、それと同時期に街の人々が気づいてから、私は当然、家族にも様々な嫌がらせが行われた。両親は耐えられなかったのだろう。
いつの世も異端者は嫌煙される。私は物心がついた時点でその事を覚えた。
夕刻が過ぎ橙色に染まった空が黒に呑まれてゆく。
その様子を見て父がそろそろ宿に戻ろうと言い、私と母は頷き宿に向かった。
刻々と捨てられる時が近づいている。離れるのはとても悲しかった。
今すぐに母に飛びついて家に帰りたい、と泣き叫びたかった。
だけど、この力のせいなのか、ただの性格なのかこの歳で物事を客観的に考えれるようになった私には到底できないことだった。
もし私が両親と同じ立場なら私も別の手段かもしれないが同じように捨てるか見放すだろう。
社会的に良い関係を保つために邪魔者は切り捨てる。
それが人間が作った社会を生きていく為の手段なのだから。
私は客観的に見ることができる感覚と、的確に人が生きるための優先順位を決める思考を持ち合わせていた。
だから、私は両親を憎みきれなかったし私を化け物扱いした故郷の人々にも憎しみを感じなかった。
当然のことだから。
一ついえば……
なんで私なんだろう。
今年で私は十六。あれから十一年経った。
私は今、小さな街の一角に佇む借家を借りて暮らしている。
そこは大きな建物の中に最大四人で暮らせるような部屋がいくつも設置してある所の一つだ。
その借家はかつて、私が宿と勘違いして両親に置き去りにされた場所だ。
父が最低限の暮らしだけはしてほしいということで借りておいた家らしい。
だから毎月、両親からお金が送られてくるのだ。
あまり贅沢はできないけど、それだけでもありがたかったし、私の両親は本当に優しい人なのだと思った。
一人になった事で能力を有効的に使うようになった。
私の家という空間では朝、起きたと同時にありとあらゆる物が動き始めるように設定されている。
カーテンが独りでに開き、食卓へのドアが開く。
ベッドから椅子に座るまでの間に朝食の準備が整う。
空中を漂うティーポットから紅茶が注がれコップにちょうど良い程度に注がれた時にまた時間が止まる。
ティーポット自体の時間は止まっていて動くのは中に入っている紅茶だけと設定されてある。
パンはトーストにしてある物を時間を止めてストックされていて、皿にのせ合図をするだけで焼きたての香ばしい香りが漂う。
私はこの設定された朝をいつもと変わりなく新聞を広げて過ごしていた。
ふと、時計に目をやると七時をちょうど過ぎていた。
この時間から外に出ることは私の日課になっていた。別に何かやるわけでもない。
ただ外に出て、ごく普通の少女として生活するだけ。
季節はちょうど冬なのでコート着る。
そのポケットの中にある物に私は目をやった。
手をポケットに滑らせそれを持ち上げる。
私の為に母が買ってくれた最初で最後のプレゼントの懐中時計だ。
金色のそれにとても細かい彫刻がされていて丁寧な仕上がりになっている。薔薇と十字架が刻まれている。
今でも私はそれを離さず持っている。
中を覗くと針は文字盤の上で十一時という位置で動かなくなっていた。
ゼンマイを回した後、時間を合わせようとするが…
「……あれ?」
不思議なことにどれだけゼンマイを回しても針が動かない。
それどころか、時間を合わせようとしてもまるで時計の中で固められているかの様に針は微動だにしないのだ。
「昨日は動いてたのになぁ……遂に壊れちゃったか……」
私は、一つよる所ができたな。と呟きながら、夕食の準備をし、家を後にした。
外は仕事に赴く人、二階付きバスに乗る人、学校に向かう子供達、他にも様々な理由があるであろう人で溢れていた。
石畳の道路を横切り、車のクラクションが聞こえる。無視したけど。
私の銀の髪を撫でる風もレンガ造りの建物の間から漏れる日差しもいつもと全く変わらない。
そう、いつもと全く変わらない。
私はその街の風景として周りに溶け込み目的の場所へ向かった。
私の家から歩いて約十分年季の入った看板をぶら下げている時計屋の前に来た。
ショーウィンドウから店の中が見える。
振り子時計や腕時計など様々な時計が陳列してあった。
扉を開け中に入るとまず、古物の放つ独特の匂いが鼻をついた。
時計は金銀で装飾された物から、木造の物まである。
私はそれらに見とれながらカウンターに行き着いた。
そこには優しそうな目をした老人が座っていて「いらっしゃい。何をお探しかな?」と早速、商談を仕掛けてきた。
私はポケットから母からのプレゼントを取り出した。
「すみません。今日は買いにきた訳ではないんです」とカウンターにそれを置き店主であろう老人に訳を話した。
「直りますか?」
老人は時計を解体し中を点検する。
「ええ、直りますよ。いつになるか分かりませんが……そうですね。夕方位にだったら直ると思います」
支払いはその時で結構です。と付け加えてから、老人は時計を元の形に戻して店の奥に入って行った。
「ありがとうございます」
私は後ろ姿にお礼の言葉を行って店を後にした。
寄り道をしてしまったが後に私が行った場所はいつもと変わらない。
本屋に行き暇つぶしになりそうな本を探しその後、喫茶店で昼をとる。
午後からは基本的に街を歩いているだけなのだが今日は見てみたい映画あったので映画館へと足を運んだ。
映画を見終え自分なりに評価をしながら外に出るともう空は夕方を示していた。
夕日が世界の果てへ沈んでいく中、私は街の中で一番大きな市場へ行き明日の夕食の材料を揃えた。その頃にはもう空には星が瞬き始め街のランプが煌々と光を放っていた。
私は懐中時計を受け取りに時計屋へと向かった。
街路には昼間ほどでは無いが、ぽつぽつと人が歩いている。当然普通とは種類の違う人もいるだろうが。
夜に開く店の前では何やら危なそうな人がうろついている。
私は極力そういう店の前を避けた。
しばらくして見覚えのある通りに着き時計屋も見えてきた。
女の子が明るく照らされたショーウィンドウを覗いてまるでドレスを見るような顔を浮かべていた。
今時、時計が好きな女の子なんているんだ……と思いながら時計屋の前にきた私にその女の子が話しかけてきた。
「懐中時計残念だったわね」
女の子はいつの間にか私の方を向きさっきと他は別の種類の笑みを浮かべて言った。
顔が店から漏れる光を浴びてはっきりと見えた。
顔はとても整っていた。例える物は人形しかないだろう。繊細に造られ人々を魅了する人形。この子はそれと同じように魔性を秘めている様に見える。血を固めてできたような真っ赤な瞳と何より特徴的な夜の色と月の光が混じったような色をした髪がより一層彼女を特別な存在の様に見せた。
それよりもこの子最初何て言った?…なぜ時計の事知っているの?
「中に入らないの?」
友人の様に語りかけてくる少女の声に我に返り返事を返した。
「あなたは入らないの?」
すると少女は少しうつむき加減になり「うん。見てるだけ」と言いショーウィンドウに目を戻す。
私は少し後ろを気にしつつ店の中に踏み込んだ。
すると新聞に目をやっていた老人が私の顔を見て少し申し訳なさそうにした。
「時計はどうなりましたか?」
老人は時計を取り出しカウンターに置いた。
「壊れていた所の部品を取り替えて、回してみたんですがね…どうにも動かなくて、他の所もすべて見たんですが悪い所は一つもないんですよ…まるで時計自体の時間が止まっちまってるような…」
そう言い何度も時計を持ち上げては置き持ち上げては置く。
背筋が少し寒くなった。何であの子は知っていたのだろう…
「そうですか。分かりました。時間を取っていただいて有難うございました」時計をポケットに入れながら礼言ってもう一つ付け加えた。
「それと、あの外にいる女の子にこのこと話しましたか?」
老人は不思議そうに私を見上げ「いえ、あの子は一回も入ってきていなし、話してもいませんよ。……あ、代金はいりません」と最後に親切さを見せて新聞に目を戻した。
ドアをゆっくり開き少女を見る。
少女が私を見返す。
「残念だったわね」
「何で知っているのかしら?」
少女は微笑を浮かべた。
「私がやった。…って言ったら?」
「冗談は嫌いよ」
「お姉さん、おもしろいね」
大きく手をあげて少女が歩き出す。
私の質問はお構い無しに続けた。
「お姉さん、ここに住んでるの?」
私は歩く人形に着いていく。
「ええ、そうよ。あなたは?」
少女は振り返り嬉しそうに返す。
「お城よ。お城。とっても大きな」と、大きさを手で表す。
何でこんなに打ち解けあっているんだろう………と思いつつも私は話を止めなかった。
「お父さんやお母さんはどうしたの?こんな時間に一人でいるとあぶないわよ」
「じゃあ、お姉さんも危ないわ。早く帰りなよ」
……わざとやっているのだろうか。
「あの喫茶店寄ろうよ。私、お姉さんともっと話がしたいもの」
私もこの子とは話したいことはたくさんあった。いや、尋ねたいことの方が正確か……
しかし、相手は子供。
不思議な事が一つや二つあっても早く家に帰した方がいいのではないだろうか。
などと考えている内に喫茶店の入り口にたどり着いてしまった。
少女は店の中ではなく外に置いてある席に着く。
私も成り行きで従う。とうとうここまで来てしまった。
「お父さんとお母さんが心配してるわよ。家まで一緒に着いていくから早く帰りましょ」という私の言葉に彼女は赤い目を少し大きくする。
「すごい。私のお父様とお母様が思ってることが分かるのね」
もちろん、私にはそんな力は皆無である。
彼女は私の顔を見ずに続けた。
「でも残念。あなたが読み取ってるそれはお母様達の物じゃないわ。だって私にはそんな人いないもの。そんな事よりアップルティー買ってきて頂戴……どうしたの?私の顔何かついてる?」
私は我に戻って「ううん……少し驚いただけよ。ご両親がいないなんて大変ね。じゃあそのお城に一人で住んでるの?」と彼女の反対席に着く。
「そんな事より早く買ってきて。後でお金返すから」
少女は駄々をこね始めた。
私は仕方なく店の中に入り私の分と少女の分のアップルティーを頼みテーブルに持って行く。
「ありがと」
私が席に座りティーをテーブルに並べると少女は早速それを啜り始めた。
「やっぱり……家の方が美味しいわね……」と文句言いながらも啜りつづける。
「それで、一人で暮らしてるの?」
他にも聞きたいことはあるがまずはそこからだ。
少女がカップを置き頬杖をつきながらこちらを見る。
少女の着ている服はまるで人形が着るようなフリルの着いたドレスその物の様だ。
赤いリボンが胸の所で結わえられ、白と赤を基調にした服はとても可愛らしいものだった。
どこでも見ないような服だ。まさか本当にお城に住むほどのお嬢様なのだろうか。
「ううん。さっきも言ったよね。私の家結構お金持ちなの」
聞いていないが。
「それだから、召使いとかもいっぱいいるの。使えない奴等ばっかりだけど」
私は質問を続けた。
「身内はいないの?」
「妹が一人いるわ。お父様とお母様は……まぁ、あなたと似たような物よ。いなくなったわ」
まただ。何でこの子はそんな事を知っている?
口に付けかけたカップをテーブルに戻し私は再び尋ねた。
「さっきもそうだったけど。なんで私の事をそんなによく知っているのかしら?」
少女は口で三日月の形を作り答えた。
「あてづっぽうが当たってるだけよ。まさか当たってるなんて思わなかったけど」
明らかに嘘だ。
普通時計屋に訪れた人間に対して「時計残念だったね」と言う物か?
特殊な自分な家庭と他の人間が同じだって言うことが当てづっぽう当たる物なのか?
それとも…
「そうね。確かに当てづっぽうって言うにはあまりにも出来すぎかもしれないわね」
私の心の中の疑問にピンポイントで答えてくる。
いつの間にか手のひらを白くなるほど握り締めていた。
彼女は続ける。
「あなたは、奇跡を信じるかしら?」
周囲の話し声。喫茶店の音楽。それらすべての音が聞こえなくなり意識が目の前にいる少女に集中する。
世界が歪み大きく揺れる。
それでも私の目は少女をはっきり捉えていた。
「…奇跡?」声を振り絞って答える。
「私は信じるわ。この世の中、必然だけで動いているとは思えない。……いいえ、もしかしたら奇跡すら必然の出来事なのかも」
ミキサーのような世界で私は必死に答えつづけた。
どうしてだろう。まわりの物が何も聞こえない。見えない。見えるのは、聞こえるのはこの少女とその声だけだ。
私に構わず少女は続けた。
「じゃあ、奇跡という物が本当にあったとして、それを自分の意思で起こす力があると思う?」
「ありえない事じゃない。皆が無理だと思う事を…それを奇跡というならば、たった一人でもその無理を可能にする人がいるのならその人は力を持っているということになる」
何を言っているんだろう。私は。
こんなことを考えたことは一度も無いのになんで私はこんな持論を持っているのだろうか。
いや、少しだけこんな事を考えた事があったか……確か…初めて能力を使った時…
「じゃあ、奇跡って具体的にどんなこと?」
少女は再びカップに口を着け、私の言葉を待つ。
「例えば…そうね……車にぶつかって、誰もが死んだと思っていたのに生きている…とか」
少女は少し驚いた、という様な顔をしその後すぐに落胆ため息を吐いた。
「ごめんなさい。私の考えている奇跡とあなたの言った奇跡はスケールが違いすぎたわ」
私は子供相手に情けないと思いながらも少し声を荒げた。
「あなたの考える奇跡のスケールは?」
「最初にあなたが言った起きうる奇跡は必然だという事。そして皆が無理だと言う物が奇跡。そこまでは一緒よ」
また意識が彼女に集中する。
もしかしたら私はとても可憐で不可解なこの少女に陶酔しているのかもしれない。
似てるんだ。きっと。私とこの子は。
「だけど、あなたの言った車が何とかってやつ。それは起きうる奇跡よね?」
私は頷く。
それを見た少女は続けた。
「私の言っている奇跡はもっと別。例えば、車のやつでいくと寸前で車が止まる。とか。でもそれは車が止まっているんじゃなくて何かの干渉を受けてその空間の時間が止まっているの。だから車はもちろん、周りの人々も動物もありとあらゆる物が止まる。それで引かれそうになったその人だけ都合よく動くことができる。要はこの世では考えられない出来事」
微笑を交えながら少女は最後に「そういうことを私は奇跡と呼ぶ」と言った。
私は今度こそ恐怖を覚え叫んだ。
「何で私の事を知っているの!?あなたは誰!?」
少女の微笑を浮かべた顔がたちまち戸惑いの顔になった。
「えぇ……!?私は私の思った奇跡について言っただけよ?第一、あなたにはあったこと無いのに…」
何か言いかけて少女が考え始める。
しまった。と、思った時にはもう遅かった。
「それよりも、あなた…今、とんでもない事いったわよね?」
逃げなければ、こいつが騒ぐ前に。
アップルティーを飲み干しさっさと席を立ち無言で立ち去ろうとする。
「止めないわ。でも、一つだけ聞かせて」
少女は今までに無かった声色になっていた。
まるで、命令するかのような、優しさは欠片もないけど、とても頼れる者のような声色。
「私はあなたを全く知らない。だけどいままであなたの事をすべて言い当てた。それは奇跡?」
私は振り向き目の前にいる得体のしれない少女を見た。
形全てはどこにでもいる小さな女の子だ。だけど、内には私の様に得体のしれない物を秘めている様に思える。
「起こりうる奇跡だけど、誰もあの場であんな事は言わない。私は、あなたの言った奇跡の方だと…思う…」
「じゃあ、私が言ったような奇跡を起こせるのはどういう力?」
今までに感じたことのない親近感が少女に向かって溢れる。
この子にだけなら言ってもいいだろうか。
「時間を操る力…」
私は今までの会話でいくと、あなたはそれが使えるのね。とか、じゃあ見せてみてよ。とか言われるのだろうと思った。
何となく私と同じような感じがする少女には見せるつもりでもあったし、使えることを認めようともした。
何よりも彼女には今までないくらいの親近感を覚えたのだ。
だけど、彼女の答えは思いがけないものだった。
「それは、例えで上げたものだけでしょう?私が言いたいのは絶対不可能な奇跡を起こす力はどういうものかって事よ」
私は心の中にあった何かが一気にしぼむのを感じた。
「そんなの分からない」
ふてくされて、曖昧な返事をする。
「やっと本題だわ。あなたは運命を信じる?」
いきなりで意味が分からなかった。
「運命っていうものが奇跡を必然に変える。奇跡は運命に導かれて必然になる。信じる?」
もう、うんざりだった。
運命だの奇跡だの…私が力に気づいてから一度も口に出せなかった言葉を本当に勇気を振り絞って言ったのにそんな事お構い無しに少女は話を続けて今度は運命だって?
「そしてその運命を操れる人がいると信じる?」
そんな事を何で私に聞くんだ?
私は今までずっと一人だった。
苦しいのは少しだけだった。
だから、このまま一人でも生きていけると思っていた。
だけど、この子と話していて今まで感じる事のできなかった暖かさに気づいたとき私はやっぱり心のどこかでは人と接する事を求めているのだと思った。
だから私はこの子が私の秘密を知っても尚、私と接してくれることを願って秘密を打ち明けた。
とても悩んで勇気を出したのに……!
彼女はそれに反応するどころか当たり前の様に話を進めた。
「帰る」
私はとてつもない喪失感を背負って今度こそ喫茶店を後にした。
少女は止めなかった。
ただ、私の背中にこう語りかけた。
「運命はあなたの元に訪れる。あなたが拒もうとも、奇跡があなたに降り注ぐ。そして私はあなたの……」
恐怖と怒りで塗りつぶされた顔で私は少女の方にまた振り返った。
さっきまであったカップも少女の姿も本当に何もなかったかの様に消えていた。
もう着いていけない……
自分に言い聞かせながらのろのろと帰路に着く。
途中突然月明かりが遮られた。
重たい頭をゆっくりと上げ遮る者を見つめる。
それは今までに見たことのないほどの蝙蝠の群れだった。
とても大きな群れは、せわしなく羽を羽ばたかせ月に向かって飛んで行った。
色々な事がありすぎた……今日は疲れた……
真っ赤な大きな館。
夜の色に覆われながらも色あせることの無い荘厳な様子はその館の主人そのものである。
館の庭園に空から蝙蝠達が舞い降りる。
蝙蝠達は集まりだし細胞を共有し違う形へと変化する。
まず最初に足ができ、それは館に向かって歩き出した。
その足の断面に向かって蝙蝠達が一斉に群がり本来彼らがあるべき形を形成した。
華奢な体に豪奢なドレスが纏わりつく。
赤い眼差しに月の光に晒された夜の色をした髪。
レミリア・スカーレットが我が家に舞い戻った。
館の扉の前にはメイド達が並びレミリアの帰宅を待っていた。
レミリアが扉の前まで行くと「お帰りなさいませ。レミリア様」と全員で頭を垂れそのうちの二人が扉を開けた。
「パチュリーはどこかしら?」
メイドの一人に尋ねる。
「パチュリー様でしたら図書室におられます。お呼びしましょうか?」
「ええ、私の部屋に連れてきなさい。それと紅茶も用意しなさい」
「かしこまりました」
メイドは一礼し図書館へと向かう。
レミリアはその姿を少しだけ見つめ自分の部屋へと足を進めた。
部屋にはとても眩しいシャンデリアがぶら下げられていて部屋の隅々を明るく照らしている。
光が苦手であっても、これくらいならレミリアに問題は無い。
レミリアは部屋の窓のそばに置いてある椅子に腰を下ろした。
しばらく窓から見える大きな月を眺めているとノックが聞こえた。
「入りなさい」
レミリアはそちらを見ずにノックに答えた。
「失礼します。パチュリー様をお連れしました」
扉が開き初めにメイドが入って来てその後にパチュリーが入ってきた。
パチュリーが席に着きメイドが紅茶を並べティーポットにテーブルに置く。
「ちょっと二人で話がしたいわ。出て行ってもらえないかしら?」
レミリアがそう言ってメイドを追い払ってしばらくの間部屋には沈黙が居座る。
どちらからでもなく紅茶を啜る。
一息つくとパチュリーから語り始めた。
「それで、どうだった?私が水晶で見た通りだった?」
只でさえ声の小さいパチュリーなのだが下を向きながら話すので余計聞き取りにくい。
レミリアには関係ないのだが。
「能力はまでは見ていないけど力があるのは確かね。あの感じは。人の神経逆撫でするのって難しいけど、今回はうまくいったわ。挑発して、興味を仰ぐ」
よく言う…というパチュリーの声を無視してレミリアは続ける。
「あの子を見つけて十年待ったわ。年百年も生きているのにこんなに待ち遠しい十年は今までになかったわ」
パチュリーは少し首を傾げる。
「たかが人間にあなたがそんなに興味を持つ何てね……でも、確かにあの子の能力は反則的だものね」
レミリアは窓越しに月を見上げる。
「それだけじゃない。今まで私の能力について質問したらあなたの次におもしろい答えだったわ」
「……明日は槍でも降るのかしら…」
パチュリーは冗談を交えながら続けた。
「それで、これからどうするの?そんなに話してしまったのならすぐに連れてこればよかったのに。逃げたのだったらいつもみたいに食べればよかったのに」
レミリアは口を開けて笑う。
その中には明らかに人間の物とは思えない鋭さの物が潜んでいた。
「私を誤解してるわよ。あなた。私だって人を見る目はあるしフランじゃないんだからすぐに食べないわよ。……あの子は私の食事にするには惜しすぎる人材なの」
レミリアは続けた。
「彼女との出会いはどんな形でも良い。でもクライマックスは感動的に。そして私は彼女の…」
「彼女の?」
パチュリーが繰り返す。
「英雄になる」
再び沈黙。
パチュリーが口を隠しながら笑う。
「英雄ね。目立ちたがりのあなたらしいわ」
レミリアは頷き紅茶を飲み干す。
「シナリオはもうできている。後は準備だけ。名前を聞くの忘れちゃった。だけど、あなたを絶対に手に入れてあげる。型破りな奇跡と私の力でね」
レミリアがそう月に囁く。
パチュリーは月が呼応するかの如く赤く輝くのを見た。
今日は変な事ばかり起こる。
家に戻り窓を閉めようと近づいたとき窓の外にある月が見えた。
息を呑む。
その月は猛々しいほど赤く染められていた。
奇跡が降り注ぐ……
私は頭を振りカーテンを閉めた。
今日は早めに寝よう……
食卓に戻り朝に用意した夕食を口にする。
自分の咀嚼音しか聞こえず薄気味が悪い。
服を入れてあるタンスの上に置かれたラジオのスイッチを押した。
軽快な音楽が流れ始め少し気持ちが軽くなり、テーブルに戻り再び食べ始める。
食べ終わったころにはもう時間は十時を過ぎていた。
私は時計を見つめて懐中時計のことを思い出して、玄関にかけてあるコートのポケットに手を入れた。
固くひんやりした金属の感触が指に伝わってくる。
寝室に戻って懐中時計の中を開ける。
針は朝のままで動こうという気配もしない。
文字盤も彫刻もまるで変わった所は無い。
しかし、懐中時計の蓋の部分の裏を見たとき私は胸が飛び出そうになった。
赤い塗料で何か模様が描かれている。
傘を広げて反対にしたような大きく翼を広げたシルエットはまるで…
「蝙蝠だわ……」
老人からもらった時には何も描かれていなかった所に蝙蝠が記されている。
しばらくの間それを凝視し、我に返ったとき私はもう一つの異変に気がついた。
蝙蝠のマークの下に番号が記されている。
これもまた同じような赤色だ。
電話番号だろうか?何かの暗号?
あんな事があった夜だ。
こんな得体のしれない所にかけるのは抵抗があった。
それにもう遅い。
どうしても気になるのなら明日かけてみれば良い。
それよりも今は早く寝よう。
私は風呂に入り、寝間着に着替え明日の朝食の準備をして寝室に入った。
とても疲れていたらしく夜はぐっすりと眠れた。
いつもの様に朝起きてカーテンが開き、朝食の準備が整う。
玄関まで新聞を取りに行くと、珍しいことに手紙が送られてきていた。
新聞と一緒にトーストの程よく焦げた香りがする食卓へ持って行く。
新聞を隅に置き手紙の差出人を確認する。
「レミリア・スカーレット」
黒い蛇のような字だ。
それに、名前も聞いたことがない。
封を切り中身を確認する。
昨日はアップルティー有難う。
お金を返しとくわ。
それと、もしも暇だったら返事をちょうだい。
レミリア・スカーレット
p.sもしも、心当たりの無い方でしたらお金だけ貰って燃やして捨ててください。
昨日の出来事が頭の中に蘇り、手紙を持つ手が震える。
「もう嫌だ…なんで知ってるのよ……」
奇跡。
昨日何回も耳にした言葉が再び脳裏に浮かぶ。
最後の文がそのことを裏付ける様に私の目の前で踊っている。
封筒を逆さまにすると書いてある通り硬貨がいくつか音をたてて落ちてきた。
硬貨を拾い上げ、私はそのまま手紙をゴミ箱へ捨てた。
住所まで当てられたのだ。
次は直接来るかもしれない。
私はもう、あんな得体のしれない存在に会いたく無かった。
自分の力、時間を操る力を使ってでも彼女との出会いを避けようと決めた。
その時の私の感情は、故郷に住む私を嫌った人々のそれと同じだった。
それから私は再び朝食に戻った。
朝からなんでこんな気分にならなければいけないのだろうか。
あの子に会ったときから不思議な事が起こりすぎだ。
もしかしたらこれからももっとロクでもないことが起こるかもしれない。
家の中が一番安全だろう、ここなら誰にも会うことはない。
朝食を食べ終わり片付けをしているとき私はそんな事を考えていた。
幸い、何日か分の食べ物も買いだめしておいてある。
やはり、一日中外からでないのが懸命だろう。
私はしばらくの間、外に出ないようにした。
家で過ごす一日はとても退屈だ。
全く時間が進まない。
私にはこの部屋の時間を進めることは出来るが世界丸々の時間を操ることは出来ない。
出来るかも知れないがやったことは無い。
午前中は新聞を広げ記事をまんべんなく読み、昼食を口にしそのままベッドに寝転びしばらくの間寝た。
しばらくして目を開けると窓の外はすっかり暗くなっていた。
ベッドの上で寝転がっていた私を動かしたのはリビングの方から聞こえた物音だった。
ベッドから起き上がり恐る恐る、廊下からリビングの様子を盗み見る。
音が大きくなる。
何かの音楽の様だ。
その音はタンスの上から聞こえてくる。
胸を撫で下ろしてその音源に近づく。
ラジオが私の耳に音楽を伝える。
その歌に酔いしれていた時、ふと気づく。
なんで電源が入っているのだろう。
私は昨日消したはずだし、今日もラジオに一回も触れてはいない。
少し部屋の温度が寒くなり、ラジオの音が一層大きくなる。
しばらく耳を澄ましていると、突然、音楽を丸呑みにしノイズが騒ぎ始める。
耳に鋭く突き刺さるその音の中から私は確かにその声を聞いた。
「……見……てる……よ」
気づいた時には電源を落としていた。
冷や汗が滝の様に流れる。
私は窓に近づき外を見渡す。
当たり前だが誰も見ていない。
ただ、通りを行き交う人々だけが見える。
再びラジオに目を向ける。
線を引き抜き、寝室の物置深くに投げ入れる。
一段落つき、私はベッドの上で頭を抱えていた。
服は汗ばみ少し気持ちが悪い。
結局、中にいても同じようなものだ、私はあの少女に遊ばれている。
でも、ラジオから聞こえてきた声は少女のものとは別物だったような気がする。
少女の声よりも、もっと暗く沈んだ女の人の声だった。
しかし、そんな事を私が考えていても仕方がない。
少女の仕業にしろ、もしくは他のものの仕業にしろ、私にはどうすることもできない。
頭を上げて何も考えずにあたりを見渡すと電話の前に置いてある金色の物体が目についた。
立ち上がりそれを拾い上げると蓋を開ける。
昨日と同じ、蝙蝠と数字が記されている。
電話をかけてみようか。
どこにかかるか分からない、もしかしたらあの少女にかかるかも知れないがとにかく今は誰でもいいから話したいと思った。
全く知らない人でもいい。
少しでも人の声を聞けば心が安らぐような気がして私はダイアルを回してゆく。
呼び出し音がなる。
「もしもし」
声を聞いた瞬間、体の力が一気に抜けた。
昔聞いたとても優しい声、とても暖かい声。
でも、私を捨てた声。
何年経っても忘れていなかったんだ。
これは紛れもない、お母さんの声だ。
「……あの」
受話器越しに心配そうにする母の顔が目に浮かぶ。
母の顔も覚えている、鮮明に。
涙が溢れて、嗚咽を漏らす。
「大丈夫ですか?」
大丈夫、大丈夫だよ。お母さん。私はこんなに大きくなったよ。
「お母さん」
やっとの思いで声が出た。
何年ぶりだろう。
お母さんと心から言ったのは。
一人でも苦しくない、それは私の妄信だった。
だって、一人でいるときにこんなにも心が暖まる時なんて無い。
今まで私は電話をかけようとしたが勇気が出なかった。
それに、家の番号も忘れていたけど、こんな奇跡みたいにお母さんの声が聞けるなんて。
あの懐中時計が再び私とお母さんをめぐり会わせてくれた。
もう一度呼んだ。
「お母さん」
しばらく静かになる。
私もお母さんも。
ビックリしているんだ、きっと。
私は笑いをこらえて返事を待った。
「あの、どちら様ですか?」
え?
「お母さん?私よ…」
絶望に突き落とされた。
その時、私は………
「えっと、人違いではありませんか?」
「私はお母さんとお父さんから名前を貰ってます!」
思い出せない。
「あの……私達子供は一人だけで今、家におります。人違いでは無いですか?」
お母さん?違うよ私よ。
「私よ」
「ごめんなさい。本当に分からないの」
何て言えばいいのだろう。
あの時と同じだ、少女に秘密を打ち明けた後と。
目に見えない不安が、絶望が私に纏わりつく。
「お母さん。私……」
駄目だ。一文字も思い出せない。
人はこんなにも簡単にものを忘れるのか?
「お母さん。思い出せないの…。思い出せないよ……」
今まで流してきた涙が一気に悲しみの涙に変わる。
「あの……」
「ごめんなさい。人違いでした。ご迷惑かけて申し訳ありませんでした」
受話器をゆっくりと置く。
チン、と乾いた音と共に私はその場に崩れ落ちた。
いつから何だろう。気づいていなかった。
一人になってからだろうか。
私は一切自分の名前を使わなくなったのだ。
だからなのか?
自分の名前が分からない。
こんな馬鹿げたことは無い。
お母さんからも忘れられていた。
あれは間違えなくお母さんだ。
まるで、私が存在していなかったかの様に今も平凡に暮らしていた。
今になってようやく分かった。
私は完全に世界から追放された。
存在がこの世から掻き消えていた。
自分でもしらない間に。
誰ももう私を知る人なんて存在しない。
誰も私の事を思う人なんて……
何か聞こえる。
頭の上で私が取るの待つかの様に電話がなっている。
我に返り再び立ち上がる。
まるで導かれるように、設定されているかのように手が伸びる。
受話器を取って耳に近づける。
「もしもし」
精一杯震えを止めながら挨拶をする。
「あら、ほんとにつながったわ」
あ。
「昨日のお姉さんよね?」
まだいたんだ。
「……おーい」
私を知っている人。
私の存在をまだ認める少女が受話器越しに語りかける。
「昨日はありがとね。手紙届いたかしら?」
「ええ」
お母さんと同じ暖かさだ。
いや、今の私からするとそれ以上のものだ。
「そう、よかったわ」
ベッドに腰をかけて彼女の言葉に耳を傾ける。
「ところで、何かあったのかしら?泣いてる様に聞こえるけど」
この子は私のすべてを分かってくれている。
もう私は彼女の虜だった。
「昨日はごめんなさい。突然帰ったりして」
「いいのよ。私もそろそろ帰ろうと思っていたし」
「あなたの最後の質問をもう一度聞かせてくれる?」
話したかった。いっぱい。
なんでもいいから、とにかく何か話したかった。
私にはもうこの子しかいない。
彼女は「いいわよ」と言って続けた。
「レミリア・スカーレットは運命を操れる。これをあなたは信じる?」
少しと惑った。
昨日と違う気がする。
それに聞き覚えの無い単語も聞こえた。
彼女は私の戸惑いを察して言う。
「私は運命を操れる。これをあなたは信じる?」
「あなたの名前ね」
「察しが良さそうなのに、案外そうでもないのね」
と皮肉を漏らしながらレミリアは私の答えを待った。
「あなたが言っていた運命が奇跡を動かし必然に変える。もしも私のまわりで起こっている奇跡とも思える色々の出来事がすべてあなたの仕組んだことならば私は信じるわ」
フフン、向こう側でレミリアが鼻で笑うのが分かった。
どうやら満足したらしい。
「例えば、あなたの周りにどんなことが起きたのかしら?」
私は少しためらって再び口を開く。
「あの夜、あなたが振り返った時にはいなくなっていたこと。家に帰って懐中時計を開けたら見覚えの無い絵と番号が描かれていたこと、その番号が私の両親の家の番号だったこと、ラジオから変な声が聞こえてくること。それに…母が私の事を覚えていなかったこと」
しばらくの間返事は帰ってこなかった。
するとレミリアが喋り始めた。
「そんな事があったの…大変だったわね」
私は続けた。
「母が覚えていなかったのはあなたの仕業?」
窓の外を見上げる。
綺麗な月が夜の街を照らしている。
彼女もこの月を見ているだろうか。
「それは違うわ。私はあなたとあなたのお母様をめぐり逢わせただけ。その後のことは必然だった。……残念だったわね。人は完璧に忘れようとすると、そんなにも簡単に忘れてしまう
。それが、自分たちの生きる為だったら尚更ね」
レミリアは私を慰めてくれた。
彼女は世界でたった一人の理解者。
月の光の様に暖かい声だ。
「でも、ひとつ気になる事があるわ。あなたの言った。ラジオの声……それ、私はやってないわ」
背筋に悪寒が走る。
「え?」
どうせ彼女の仕業だろうと思い込んでいた私は初めて新しい恐怖を感じた。
「もうそろそろお風呂に入りたいわ。何かあったらすぐに私の名前を呼んで。そうすれば、運命が再び私たちをめぐり逢わせてくれる。私があなたを助けてあげる」
「え、ちょっと」
レミリアとの会話が途絶えた瞬間私はこの世で一人きりになったような感覚に襲われた。
レミリア以上の恐怖が私の部屋を圧迫しているように思えた。
電話をそっと下ろして注意深くあたりを見渡す。
小机の上に置いてある花瓶、ベッドに敷かれたシーツ。
それらのものが何の変哲もなく置かれている。
だけど、私は何か見えない恐怖が迫ってきている様にしか思えなかった。
ザーッ……
体が跳ね上がり慌てて後ろを振り向く。
物置の方から、何か聞こえる。
私の脳裏に先ほどしまい込んだラジオが浮かぶ。
物置をじっと見つめる。
音が次第に大きくなっていき、音楽が聞こえてくる。
もちろん電源を入れているはずが無い。
私は何も考えず居間へと駆け出した。
居間の机の上には新聞が広げられており、午前中の私の痕跡が所々残っていた。
少し落ち着こうと思いキッチンに向かい紅茶を入れる。
赤い液体がティーポットからコップへと注がれていく。
それにしてもいつもより赤いような……
少し違和感を感じて紅茶を鼻に近づける。
「なに……これ」
生臭い臭いが紅茶から吹き出てくる。
何処かで嗅いだことのあるような臭いだ。
確か小さい頃に転んだとき、膝をすりむいて出来た傷から出た……
そこまで考えてコップの中の液体をすべて流す。
赤色の線が血管の様に道を作り排水口へと進んでいく。
ぽたぽたと最後のが垂れ落ちるまで、私の手は微かに震えていた。
コップを置き、ソファへとうずくまる。
「嫌だ…次は何よ…」
居間の窓がゆっくりと金切り声を上げて開き始める。
新聞紙が命を与えられたかの様に空を舞う。
窓の外には当然何もいない。
でも……私の目の前にそいつはいた。
人間の形をしているが真っ白な肌で人の様に思えない。
頭は真っ黒に塗りつぶされた目が二つくるくる回りながらこちらを見据えている。
声にもならない叫びが私の口から漏れる。
怪物がゆっくりと手を伸ばしてくる。
私はとっさに居間の時間を止めた。
私以外のすべてのものがぴたり、と活動を停止する。
やっとの思いでソファから起き上がり震える足を寝室へと向かわせる。
寝室へと続くドアをゆっくり開ける。
いつもより長く見える廊下を一歩一歩確実に進んでいく。
足の裏が何かの感触を掴む。
不愉快な感触で液体のようなそれは先ほどの紅茶と同じ色をしている。
私はその場で腰が抜け廊下でへたり込んだ。
それは浴室の扉から流れている。
ちょうど二、三歩先にあるその扉はゆっくりと開きこちらに迫ってくる。
ビチャッビチャッ
赤く塗りつぶされた足が浴室から出てきた。
膝から上が……無い。
足は一歩一歩私に近づいてくる。
私は足をばたつかせながらそれを追い払おうと試みる。
しかしその足はさながらダンスの様に私の攻撃を簡単に避ける。
ビチャッ
ほとんど顔の前に足がたどり着く。
片方の足が上がる。
まるで蟻をふみつぶすそれと同じように足が顔に振り下ろされる。
はたかれた様に私の体は反対方向に転がりその足をかわす。
そのまま起き上がり、廊下にめりこんでいるその足から逃げ出す。
もう片方が追ってこないのをみるとどうやら二本で行動するしかないように見えた。
それよりも早く伝えなければ。
あの少女なら助けてくれる。
でも根拠は?
そんなものは毛頭無かった。
どうしてだろう、いつの間にか私は彼女が何でもできるかの様に思い込んでいる。
まるで彼女が私の神であるかの様に。
寝室の扉を開き電話へと駆け寄る。
番号は分からなかった。でも、彼女にはこれで十分伝わるはず。
「助けて、レミリア……。レミリア・スカーレット…!!」
すぐに呼び鈴が鳴り響く。
電話をとろうしたその時。
物置の扉を突き破り無数の腕が私の体を掴み引っ張り上げる。
腕に絡みつかれながらも決死の力を振り絞り受話器を取った。
「こんばんわ。中に入ってもいい?」
腕達が電話を引っ張り線を引きちぎる。
それでも私は答えた。
私を助けてくれるといった運命の人に。
崇高なる、運命に。
「歓迎します。中にお入りください。レミリア・スカーレット様」
腕と腕の隙間から窓が見える。
真っ赤な閃光が外に見え、なぜか私は安堵した。
「今宵は月がこんなに赤い。楽しい夜になりそうね」
窓がすさまじい音をたて一瞬で粉々に砕ける。
閃光はベッドに降り立ちこちらを見る。
閃光…いや、少女は手に大きな桃色の槍を作りあげ、物置に向かって投げ入れる。
光が爆発し、腕と赤色が乱舞する。
私は見えない何かに突き飛ばされレミリアの胸に飛び込む。
彼女は自分の何倍もある私の体を平然と受け止めた。
「招待してくれて有難う。次は、私の家にも来てくれる?」
健康的な肌色をした顔が微笑む。
「いつでも、参ります」
「ありがと、今は危ないから後ろに下がってて」
感涙の涙が浮かぶ。
本当に、来てくれた。
私を孤立した世界から救い上げてくれた人が、目の前で私を守ってくれる。
私の英雄が。
生き残っていた腕たちが目標をレミリアに変えて襲いかかる。
彼女は先ほどの色とは異なる槍を二本作りだし、襲いかかってくる腕から順に切り裂いていく。
黒い鋭利な槍を腕の塊に突き刺し、次は大きな赤い槍を作り上げる。
「スピア・ザ・グングニル」
レミリアの言葉に答えるように赤い槍は腕の塊に突き刺さる。
大きな風穴が開いた塊は遂に動くことを止めた。
目の前で繰り広げられる戦いに私は呆気に取られるばかりだった。
廊下から物音が聞こえ扉が大きな音をたてて開く。
さきほど廊下で見た足が他の怪物を従えて寝室に侵攻してきた。
レミリアは鼻で笑いながら身を屈めて体をひねりながら怪物達に飛び込む。
大きな爪と鋭い牙が化け物の体を引き裂き大きな肉片にしていく。
凄い。
これこそ奇跡の瞬間。
これこそレミリア様の言われた、ありえない奇跡なのだろうと私は素直に思った。
レミリアが怪物の中心で十字架に囚われたイエス・キリストの様なポーズをとる。
赤い何かがレミリアから溢れ出し次第に大きくなっていく。
「不夜城レッド」
赤い光が炸裂して怪物達がレミリアの発生させるそれに飲み込まれていく。
逃げようとする怪物も赤い十字架の中から伸びてくる少女の腕に捕まれ、死へと誘う十字架へ引きずり込まれていく。
怪物をすべて取り込んだ後、十字架は錆びた鉄くずの様にボロボロと崩れ落ち、その中から少女が姿を現した。
その様子がすべてが終わったことを告げた。
レミリアが言う。
「さあ、私の家に来てくれるわよね?」
膝をつき頭を下げる。
「私はあなたに救われました。世界からも怪物からも。この身も心もあなたのものでございます」
「では咲夜、私の背中に乗りなさい。最初の命令よ」
「咲夜…ですか?」
「そう、あなたの命は今宵尽きた。あなたはこの夜、咲いた新たな命。咲夜よ」
再び目のあたりが熱くなる。
私の名前。
この方から貰った名前。咲夜。
「早く乗りなさい。咲夜」
「失礼します。レミリア様」
「お嬢様でいいわよ。皆からそう言われてるもの」
お嬢様は笑いながら返事をした。
「では、失礼します。お嬢様」
ん、お嬢様は私を負ぶりそのまま窓に駆け出した。
大きな大きな黒い翼が私の下から生えてきて一回羽ばたく。
その瞬間私はあまりの速さに気を失った。
月が真っ赤に染まっていた。
赤い光が世界を煌々と照らし、夜を行く少女二人を見守っていた。
「今は、彼女のために用意した部屋で寝かせてあるわ」
ここは真っ赤な館、レミリア・スカーレットが住む紅魔館の中にある図書館。
一人の少女とそれに用がある者以外は滅多に中には入らない、まるで人の思想と情報の墓場の様な場所。
「そう、今回のシナリオはとても凝っていたわね。彼女の…咲夜の母親にまで運命操作まで仕掛けて……」
レミリアの言葉に本を読みながらパチュリーは返した。
「彼女は本当に必要な存在だった。それにシナリオ通り私は彼女の英雄になった。咲夜にはこれから私の側近として仕えて貰うことにするわ。今のメイド長を下ろして。いいかしら?」
パチュリーが答える。
「あなたが決めることでしょ。それに私メイド長らしいこと一つもしたことないし、私もそれには賛成だわ。あなたのためにも私のためにもなるもの」
レミリアが近くの本を拾い上げページをめくりすぐに閉じる。
「あと、悪霊を召喚してくれて有難う。あの子、相当まいってたけど。あなたの呼び出す悪霊は常人には怖すぎるみたいよ」
レミリアが笑いながらパチュリーに感謝する。
「…別に」
パチュリーは本を読むのに没頭している様だ。
しばらく話しかけても反応は無いだろう。
レミリアは立ち上がり、図書館を後にする。
大きな翼を目一杯伸ばし廊下を歩く。
目的の扉の前に立つ。
ノックをして、ドアノブを握り締めゆっくりと開く。
少女がベッドの上で眠っている。
ランプに明かりを灯しまだレミリアの十分の一にすら満たない年齢の少女の顔を眺める。
少し微笑みポケットから金色の丸いものを取り出す。
蓋を開けて、中を覗くと文字盤の上を走るはずの針が止まり、蓋の裏には咲夜の言っていた通りのマークと数字が書いてあった。
レミリアが軽くそれをなぞる。
数字が消え、それに続いて蝙蝠も消えてゆく。
蓋をし、咲夜の胸の上に静かに置く。
「あなたは死んだ。今まであなたと共に過ごしてきた時計も死んだ。これからは、私と共に生きていきましょう。私と、一緒に」
扉がゆっくりと閉まり咲夜のまわりには再び静寂が訪れた。
じゃあね咲夜……今はおやすみ……
家族から捨てられときを覚えている。
一家全員で旅行に行ったときだ。
朝が早いからもう寝なさい。と母に言われて布団に潜った私だったが、旅行が楽しみで仕方なかった私はもう一度、一階に降り母の様子を見に行った。そこで私が見たものは、旅行をするには余りにも少ない両親の用意と一泊分というには必要以上に多すぎる私の服だった。
この時からもう私は分かっていた。
多分、もう捨てられるんだ。と。
自分でも理由はよく分かっていた。
五歳の時私は皆の見ている目の前で車に轢かれた。
いや、轢かれそうになったと言ったほうが適当だ。
私の鼻の頭の寸前で車が止まった。それどころか驚きの表情を浮かべる人、恐怖で歪んだ顔も全てが止まった。
私だって最初はそんな夢見たいな力あるわけないと思っていた。最初の内は。
だけど、自分でも年を重ねるごとにその力を自在に操ることができるようになってしまった。
私は時間を操れる。
そして、旅行の当日、両親はいつもよりとても暖かく接してくれた。
でも、とても悲しそうな顔だった。私の力に両親が気づき、それと同時期に街の人々が気づいてから、私は当然、家族にも様々な嫌がらせが行われた。両親は耐えられなかったのだろう。
いつの世も異端者は嫌煙される。私は物心がついた時点でその事を覚えた。
夕刻が過ぎ橙色に染まった空が黒に呑まれてゆく。
その様子を見て父がそろそろ宿に戻ろうと言い、私と母は頷き宿に向かった。
刻々と捨てられる時が近づいている。離れるのはとても悲しかった。
今すぐに母に飛びついて家に帰りたい、と泣き叫びたかった。
だけど、この力のせいなのか、ただの性格なのかこの歳で物事を客観的に考えれるようになった私には到底できないことだった。
もし私が両親と同じ立場なら私も別の手段かもしれないが同じように捨てるか見放すだろう。
社会的に良い関係を保つために邪魔者は切り捨てる。
それが人間が作った社会を生きていく為の手段なのだから。
私は客観的に見ることができる感覚と、的確に人が生きるための優先順位を決める思考を持ち合わせていた。
だから、私は両親を憎みきれなかったし私を化け物扱いした故郷の人々にも憎しみを感じなかった。
当然のことだから。
一ついえば……
なんで私なんだろう。
今年で私は十六。あれから十一年経った。
私は今、小さな街の一角に佇む借家を借りて暮らしている。
そこは大きな建物の中に最大四人で暮らせるような部屋がいくつも設置してある所の一つだ。
その借家はかつて、私が宿と勘違いして両親に置き去りにされた場所だ。
父が最低限の暮らしだけはしてほしいということで借りておいた家らしい。
だから毎月、両親からお金が送られてくるのだ。
あまり贅沢はできないけど、それだけでもありがたかったし、私の両親は本当に優しい人なのだと思った。
一人になった事で能力を有効的に使うようになった。
私の家という空間では朝、起きたと同時にありとあらゆる物が動き始めるように設定されている。
カーテンが独りでに開き、食卓へのドアが開く。
ベッドから椅子に座るまでの間に朝食の準備が整う。
空中を漂うティーポットから紅茶が注がれコップにちょうど良い程度に注がれた時にまた時間が止まる。
ティーポット自体の時間は止まっていて動くのは中に入っている紅茶だけと設定されてある。
パンはトーストにしてある物を時間を止めてストックされていて、皿にのせ合図をするだけで焼きたての香ばしい香りが漂う。
私はこの設定された朝をいつもと変わりなく新聞を広げて過ごしていた。
ふと、時計に目をやると七時をちょうど過ぎていた。
この時間から外に出ることは私の日課になっていた。別に何かやるわけでもない。
ただ外に出て、ごく普通の少女として生活するだけ。
季節はちょうど冬なのでコート着る。
そのポケットの中にある物に私は目をやった。
手をポケットに滑らせそれを持ち上げる。
私の為に母が買ってくれた最初で最後のプレゼントの懐中時計だ。
金色のそれにとても細かい彫刻がされていて丁寧な仕上がりになっている。薔薇と十字架が刻まれている。
今でも私はそれを離さず持っている。
中を覗くと針は文字盤の上で十一時という位置で動かなくなっていた。
ゼンマイを回した後、時間を合わせようとするが…
「……あれ?」
不思議なことにどれだけゼンマイを回しても針が動かない。
それどころか、時間を合わせようとしてもまるで時計の中で固められているかの様に針は微動だにしないのだ。
「昨日は動いてたのになぁ……遂に壊れちゃったか……」
私は、一つよる所ができたな。と呟きながら、夕食の準備をし、家を後にした。
外は仕事に赴く人、二階付きバスに乗る人、学校に向かう子供達、他にも様々な理由があるであろう人で溢れていた。
石畳の道路を横切り、車のクラクションが聞こえる。無視したけど。
私の銀の髪を撫でる風もレンガ造りの建物の間から漏れる日差しもいつもと全く変わらない。
そう、いつもと全く変わらない。
私はその街の風景として周りに溶け込み目的の場所へ向かった。
私の家から歩いて約十分年季の入った看板をぶら下げている時計屋の前に来た。
ショーウィンドウから店の中が見える。
振り子時計や腕時計など様々な時計が陳列してあった。
扉を開け中に入るとまず、古物の放つ独特の匂いが鼻をついた。
時計は金銀で装飾された物から、木造の物まである。
私はそれらに見とれながらカウンターに行き着いた。
そこには優しそうな目をした老人が座っていて「いらっしゃい。何をお探しかな?」と早速、商談を仕掛けてきた。
私はポケットから母からのプレゼントを取り出した。
「すみません。今日は買いにきた訳ではないんです」とカウンターにそれを置き店主であろう老人に訳を話した。
「直りますか?」
老人は時計を解体し中を点検する。
「ええ、直りますよ。いつになるか分かりませんが……そうですね。夕方位にだったら直ると思います」
支払いはその時で結構です。と付け加えてから、老人は時計を元の形に戻して店の奥に入って行った。
「ありがとうございます」
私は後ろ姿にお礼の言葉を行って店を後にした。
寄り道をしてしまったが後に私が行った場所はいつもと変わらない。
本屋に行き暇つぶしになりそうな本を探しその後、喫茶店で昼をとる。
午後からは基本的に街を歩いているだけなのだが今日は見てみたい映画あったので映画館へと足を運んだ。
映画を見終え自分なりに評価をしながら外に出るともう空は夕方を示していた。
夕日が世界の果てへ沈んでいく中、私は街の中で一番大きな市場へ行き明日の夕食の材料を揃えた。その頃にはもう空には星が瞬き始め街のランプが煌々と光を放っていた。
私は懐中時計を受け取りに時計屋へと向かった。
街路には昼間ほどでは無いが、ぽつぽつと人が歩いている。当然普通とは種類の違う人もいるだろうが。
夜に開く店の前では何やら危なそうな人がうろついている。
私は極力そういう店の前を避けた。
しばらくして見覚えのある通りに着き時計屋も見えてきた。
女の子が明るく照らされたショーウィンドウを覗いてまるでドレスを見るような顔を浮かべていた。
今時、時計が好きな女の子なんているんだ……と思いながら時計屋の前にきた私にその女の子が話しかけてきた。
「懐中時計残念だったわね」
女の子はいつの間にか私の方を向きさっきと他は別の種類の笑みを浮かべて言った。
顔が店から漏れる光を浴びてはっきりと見えた。
顔はとても整っていた。例える物は人形しかないだろう。繊細に造られ人々を魅了する人形。この子はそれと同じように魔性を秘めている様に見える。血を固めてできたような真っ赤な瞳と何より特徴的な夜の色と月の光が混じったような色をした髪がより一層彼女を特別な存在の様に見せた。
それよりもこの子最初何て言った?…なぜ時計の事知っているの?
「中に入らないの?」
友人の様に語りかけてくる少女の声に我に返り返事を返した。
「あなたは入らないの?」
すると少女は少しうつむき加減になり「うん。見てるだけ」と言いショーウィンドウに目を戻す。
私は少し後ろを気にしつつ店の中に踏み込んだ。
すると新聞に目をやっていた老人が私の顔を見て少し申し訳なさそうにした。
「時計はどうなりましたか?」
老人は時計を取り出しカウンターに置いた。
「壊れていた所の部品を取り替えて、回してみたんですがね…どうにも動かなくて、他の所もすべて見たんですが悪い所は一つもないんですよ…まるで時計自体の時間が止まっちまってるような…」
そう言い何度も時計を持ち上げては置き持ち上げては置く。
背筋が少し寒くなった。何であの子は知っていたのだろう…
「そうですか。分かりました。時間を取っていただいて有難うございました」時計をポケットに入れながら礼言ってもう一つ付け加えた。
「それと、あの外にいる女の子にこのこと話しましたか?」
老人は不思議そうに私を見上げ「いえ、あの子は一回も入ってきていなし、話してもいませんよ。……あ、代金はいりません」と最後に親切さを見せて新聞に目を戻した。
ドアをゆっくり開き少女を見る。
少女が私を見返す。
「残念だったわね」
「何で知っているのかしら?」
少女は微笑を浮かべた。
「私がやった。…って言ったら?」
「冗談は嫌いよ」
「お姉さん、おもしろいね」
大きく手をあげて少女が歩き出す。
私の質問はお構い無しに続けた。
「お姉さん、ここに住んでるの?」
私は歩く人形に着いていく。
「ええ、そうよ。あなたは?」
少女は振り返り嬉しそうに返す。
「お城よ。お城。とっても大きな」と、大きさを手で表す。
何でこんなに打ち解けあっているんだろう………と思いつつも私は話を止めなかった。
「お父さんやお母さんはどうしたの?こんな時間に一人でいるとあぶないわよ」
「じゃあ、お姉さんも危ないわ。早く帰りなよ」
……わざとやっているのだろうか。
「あの喫茶店寄ろうよ。私、お姉さんともっと話がしたいもの」
私もこの子とは話したいことはたくさんあった。いや、尋ねたいことの方が正確か……
しかし、相手は子供。
不思議な事が一つや二つあっても早く家に帰した方がいいのではないだろうか。
などと考えている内に喫茶店の入り口にたどり着いてしまった。
少女は店の中ではなく外に置いてある席に着く。
私も成り行きで従う。とうとうここまで来てしまった。
「お父さんとお母さんが心配してるわよ。家まで一緒に着いていくから早く帰りましょ」という私の言葉に彼女は赤い目を少し大きくする。
「すごい。私のお父様とお母様が思ってることが分かるのね」
もちろん、私にはそんな力は皆無である。
彼女は私の顔を見ずに続けた。
「でも残念。あなたが読み取ってるそれはお母様達の物じゃないわ。だって私にはそんな人いないもの。そんな事よりアップルティー買ってきて頂戴……どうしたの?私の顔何かついてる?」
私は我に戻って「ううん……少し驚いただけよ。ご両親がいないなんて大変ね。じゃあそのお城に一人で住んでるの?」と彼女の反対席に着く。
「そんな事より早く買ってきて。後でお金返すから」
少女は駄々をこね始めた。
私は仕方なく店の中に入り私の分と少女の分のアップルティーを頼みテーブルに持って行く。
「ありがと」
私が席に座りティーをテーブルに並べると少女は早速それを啜り始めた。
「やっぱり……家の方が美味しいわね……」と文句言いながらも啜りつづける。
「それで、一人で暮らしてるの?」
他にも聞きたいことはあるがまずはそこからだ。
少女がカップを置き頬杖をつきながらこちらを見る。
少女の着ている服はまるで人形が着るようなフリルの着いたドレスその物の様だ。
赤いリボンが胸の所で結わえられ、白と赤を基調にした服はとても可愛らしいものだった。
どこでも見ないような服だ。まさか本当にお城に住むほどのお嬢様なのだろうか。
「ううん。さっきも言ったよね。私の家結構お金持ちなの」
聞いていないが。
「それだから、召使いとかもいっぱいいるの。使えない奴等ばっかりだけど」
私は質問を続けた。
「身内はいないの?」
「妹が一人いるわ。お父様とお母様は……まぁ、あなたと似たような物よ。いなくなったわ」
まただ。何でこの子はそんな事を知っている?
口に付けかけたカップをテーブルに戻し私は再び尋ねた。
「さっきもそうだったけど。なんで私の事をそんなによく知っているのかしら?」
少女は口で三日月の形を作り答えた。
「あてづっぽうが当たってるだけよ。まさか当たってるなんて思わなかったけど」
明らかに嘘だ。
普通時計屋に訪れた人間に対して「時計残念だったね」と言う物か?
特殊な自分な家庭と他の人間が同じだって言うことが当てづっぽう当たる物なのか?
それとも…
「そうね。確かに当てづっぽうって言うにはあまりにも出来すぎかもしれないわね」
私の心の中の疑問にピンポイントで答えてくる。
いつの間にか手のひらを白くなるほど握り締めていた。
彼女は続ける。
「あなたは、奇跡を信じるかしら?」
周囲の話し声。喫茶店の音楽。それらすべての音が聞こえなくなり意識が目の前にいる少女に集中する。
世界が歪み大きく揺れる。
それでも私の目は少女をはっきり捉えていた。
「…奇跡?」声を振り絞って答える。
「私は信じるわ。この世の中、必然だけで動いているとは思えない。……いいえ、もしかしたら奇跡すら必然の出来事なのかも」
ミキサーのような世界で私は必死に答えつづけた。
どうしてだろう。まわりの物が何も聞こえない。見えない。見えるのは、聞こえるのはこの少女とその声だけだ。
私に構わず少女は続けた。
「じゃあ、奇跡という物が本当にあったとして、それを自分の意思で起こす力があると思う?」
「ありえない事じゃない。皆が無理だと思う事を…それを奇跡というならば、たった一人でもその無理を可能にする人がいるのならその人は力を持っているということになる」
何を言っているんだろう。私は。
こんなことを考えたことは一度も無いのになんで私はこんな持論を持っているのだろうか。
いや、少しだけこんな事を考えた事があったか……確か…初めて能力を使った時…
「じゃあ、奇跡って具体的にどんなこと?」
少女は再びカップに口を着け、私の言葉を待つ。
「例えば…そうね……車にぶつかって、誰もが死んだと思っていたのに生きている…とか」
少女は少し驚いた、という様な顔をしその後すぐに落胆ため息を吐いた。
「ごめんなさい。私の考えている奇跡とあなたの言った奇跡はスケールが違いすぎたわ」
私は子供相手に情けないと思いながらも少し声を荒げた。
「あなたの考える奇跡のスケールは?」
「最初にあなたが言った起きうる奇跡は必然だという事。そして皆が無理だと言う物が奇跡。そこまでは一緒よ」
また意識が彼女に集中する。
もしかしたら私はとても可憐で不可解なこの少女に陶酔しているのかもしれない。
似てるんだ。きっと。私とこの子は。
「だけど、あなたの言った車が何とかってやつ。それは起きうる奇跡よね?」
私は頷く。
それを見た少女は続けた。
「私の言っている奇跡はもっと別。例えば、車のやつでいくと寸前で車が止まる。とか。でもそれは車が止まっているんじゃなくて何かの干渉を受けてその空間の時間が止まっているの。だから車はもちろん、周りの人々も動物もありとあらゆる物が止まる。それで引かれそうになったその人だけ都合よく動くことができる。要はこの世では考えられない出来事」
微笑を交えながら少女は最後に「そういうことを私は奇跡と呼ぶ」と言った。
私は今度こそ恐怖を覚え叫んだ。
「何で私の事を知っているの!?あなたは誰!?」
少女の微笑を浮かべた顔がたちまち戸惑いの顔になった。
「えぇ……!?私は私の思った奇跡について言っただけよ?第一、あなたにはあったこと無いのに…」
何か言いかけて少女が考え始める。
しまった。と、思った時にはもう遅かった。
「それよりも、あなた…今、とんでもない事いったわよね?」
逃げなければ、こいつが騒ぐ前に。
アップルティーを飲み干しさっさと席を立ち無言で立ち去ろうとする。
「止めないわ。でも、一つだけ聞かせて」
少女は今までに無かった声色になっていた。
まるで、命令するかのような、優しさは欠片もないけど、とても頼れる者のような声色。
「私はあなたを全く知らない。だけどいままであなたの事をすべて言い当てた。それは奇跡?」
私は振り向き目の前にいる得体のしれない少女を見た。
形全てはどこにでもいる小さな女の子だ。だけど、内には私の様に得体のしれない物を秘めている様に思える。
「起こりうる奇跡だけど、誰もあの場であんな事は言わない。私は、あなたの言った奇跡の方だと…思う…」
「じゃあ、私が言ったような奇跡を起こせるのはどういう力?」
今までに感じたことのない親近感が少女に向かって溢れる。
この子にだけなら言ってもいいだろうか。
「時間を操る力…」
私は今までの会話でいくと、あなたはそれが使えるのね。とか、じゃあ見せてみてよ。とか言われるのだろうと思った。
何となく私と同じような感じがする少女には見せるつもりでもあったし、使えることを認めようともした。
何よりも彼女には今までないくらいの親近感を覚えたのだ。
だけど、彼女の答えは思いがけないものだった。
「それは、例えで上げたものだけでしょう?私が言いたいのは絶対不可能な奇跡を起こす力はどういうものかって事よ」
私は心の中にあった何かが一気にしぼむのを感じた。
「そんなの分からない」
ふてくされて、曖昧な返事をする。
「やっと本題だわ。あなたは運命を信じる?」
いきなりで意味が分からなかった。
「運命っていうものが奇跡を必然に変える。奇跡は運命に導かれて必然になる。信じる?」
もう、うんざりだった。
運命だの奇跡だの…私が力に気づいてから一度も口に出せなかった言葉を本当に勇気を振り絞って言ったのにそんな事お構い無しに少女は話を続けて今度は運命だって?
「そしてその運命を操れる人がいると信じる?」
そんな事を何で私に聞くんだ?
私は今までずっと一人だった。
苦しいのは少しだけだった。
だから、このまま一人でも生きていけると思っていた。
だけど、この子と話していて今まで感じる事のできなかった暖かさに気づいたとき私はやっぱり心のどこかでは人と接する事を求めているのだと思った。
だから私はこの子が私の秘密を知っても尚、私と接してくれることを願って秘密を打ち明けた。
とても悩んで勇気を出したのに……!
彼女はそれに反応するどころか当たり前の様に話を進めた。
「帰る」
私はとてつもない喪失感を背負って今度こそ喫茶店を後にした。
少女は止めなかった。
ただ、私の背中にこう語りかけた。
「運命はあなたの元に訪れる。あなたが拒もうとも、奇跡があなたに降り注ぐ。そして私はあなたの……」
恐怖と怒りで塗りつぶされた顔で私は少女の方にまた振り返った。
さっきまであったカップも少女の姿も本当に何もなかったかの様に消えていた。
もう着いていけない……
自分に言い聞かせながらのろのろと帰路に着く。
途中突然月明かりが遮られた。
重たい頭をゆっくりと上げ遮る者を見つめる。
それは今までに見たことのないほどの蝙蝠の群れだった。
とても大きな群れは、せわしなく羽を羽ばたかせ月に向かって飛んで行った。
色々な事がありすぎた……今日は疲れた……
真っ赤な大きな館。
夜の色に覆われながらも色あせることの無い荘厳な様子はその館の主人そのものである。
館の庭園に空から蝙蝠達が舞い降りる。
蝙蝠達は集まりだし細胞を共有し違う形へと変化する。
まず最初に足ができ、それは館に向かって歩き出した。
その足の断面に向かって蝙蝠達が一斉に群がり本来彼らがあるべき形を形成した。
華奢な体に豪奢なドレスが纏わりつく。
赤い眼差しに月の光に晒された夜の色をした髪。
レミリア・スカーレットが我が家に舞い戻った。
館の扉の前にはメイド達が並びレミリアの帰宅を待っていた。
レミリアが扉の前まで行くと「お帰りなさいませ。レミリア様」と全員で頭を垂れそのうちの二人が扉を開けた。
「パチュリーはどこかしら?」
メイドの一人に尋ねる。
「パチュリー様でしたら図書室におられます。お呼びしましょうか?」
「ええ、私の部屋に連れてきなさい。それと紅茶も用意しなさい」
「かしこまりました」
メイドは一礼し図書館へと向かう。
レミリアはその姿を少しだけ見つめ自分の部屋へと足を進めた。
部屋にはとても眩しいシャンデリアがぶら下げられていて部屋の隅々を明るく照らしている。
光が苦手であっても、これくらいならレミリアに問題は無い。
レミリアは部屋の窓のそばに置いてある椅子に腰を下ろした。
しばらく窓から見える大きな月を眺めているとノックが聞こえた。
「入りなさい」
レミリアはそちらを見ずにノックに答えた。
「失礼します。パチュリー様をお連れしました」
扉が開き初めにメイドが入って来てその後にパチュリーが入ってきた。
パチュリーが席に着きメイドが紅茶を並べティーポットにテーブルに置く。
「ちょっと二人で話がしたいわ。出て行ってもらえないかしら?」
レミリアがそう言ってメイドを追い払ってしばらくの間部屋には沈黙が居座る。
どちらからでもなく紅茶を啜る。
一息つくとパチュリーから語り始めた。
「それで、どうだった?私が水晶で見た通りだった?」
只でさえ声の小さいパチュリーなのだが下を向きながら話すので余計聞き取りにくい。
レミリアには関係ないのだが。
「能力はまでは見ていないけど力があるのは確かね。あの感じは。人の神経逆撫でするのって難しいけど、今回はうまくいったわ。挑発して、興味を仰ぐ」
よく言う…というパチュリーの声を無視してレミリアは続ける。
「あの子を見つけて十年待ったわ。年百年も生きているのにこんなに待ち遠しい十年は今までになかったわ」
パチュリーは少し首を傾げる。
「たかが人間にあなたがそんなに興味を持つ何てね……でも、確かにあの子の能力は反則的だものね」
レミリアは窓越しに月を見上げる。
「それだけじゃない。今まで私の能力について質問したらあなたの次におもしろい答えだったわ」
「……明日は槍でも降るのかしら…」
パチュリーは冗談を交えながら続けた。
「それで、これからどうするの?そんなに話してしまったのならすぐに連れてこればよかったのに。逃げたのだったらいつもみたいに食べればよかったのに」
レミリアは口を開けて笑う。
その中には明らかに人間の物とは思えない鋭さの物が潜んでいた。
「私を誤解してるわよ。あなた。私だって人を見る目はあるしフランじゃないんだからすぐに食べないわよ。……あの子は私の食事にするには惜しすぎる人材なの」
レミリアは続けた。
「彼女との出会いはどんな形でも良い。でもクライマックスは感動的に。そして私は彼女の…」
「彼女の?」
パチュリーが繰り返す。
「英雄になる」
再び沈黙。
パチュリーが口を隠しながら笑う。
「英雄ね。目立ちたがりのあなたらしいわ」
レミリアは頷き紅茶を飲み干す。
「シナリオはもうできている。後は準備だけ。名前を聞くの忘れちゃった。だけど、あなたを絶対に手に入れてあげる。型破りな奇跡と私の力でね」
レミリアがそう月に囁く。
パチュリーは月が呼応するかの如く赤く輝くのを見た。
今日は変な事ばかり起こる。
家に戻り窓を閉めようと近づいたとき窓の外にある月が見えた。
息を呑む。
その月は猛々しいほど赤く染められていた。
奇跡が降り注ぐ……
私は頭を振りカーテンを閉めた。
今日は早めに寝よう……
食卓に戻り朝に用意した夕食を口にする。
自分の咀嚼音しか聞こえず薄気味が悪い。
服を入れてあるタンスの上に置かれたラジオのスイッチを押した。
軽快な音楽が流れ始め少し気持ちが軽くなり、テーブルに戻り再び食べ始める。
食べ終わったころにはもう時間は十時を過ぎていた。
私は時計を見つめて懐中時計のことを思い出して、玄関にかけてあるコートのポケットに手を入れた。
固くひんやりした金属の感触が指に伝わってくる。
寝室に戻って懐中時計の中を開ける。
針は朝のままで動こうという気配もしない。
文字盤も彫刻もまるで変わった所は無い。
しかし、懐中時計の蓋の部分の裏を見たとき私は胸が飛び出そうになった。
赤い塗料で何か模様が描かれている。
傘を広げて反対にしたような大きく翼を広げたシルエットはまるで…
「蝙蝠だわ……」
老人からもらった時には何も描かれていなかった所に蝙蝠が記されている。
しばらくの間それを凝視し、我に返ったとき私はもう一つの異変に気がついた。
蝙蝠のマークの下に番号が記されている。
これもまた同じような赤色だ。
電話番号だろうか?何かの暗号?
あんな事があった夜だ。
こんな得体のしれない所にかけるのは抵抗があった。
それにもう遅い。
どうしても気になるのなら明日かけてみれば良い。
それよりも今は早く寝よう。
私は風呂に入り、寝間着に着替え明日の朝食の準備をして寝室に入った。
とても疲れていたらしく夜はぐっすりと眠れた。
いつもの様に朝起きてカーテンが開き、朝食の準備が整う。
玄関まで新聞を取りに行くと、珍しいことに手紙が送られてきていた。
新聞と一緒にトーストの程よく焦げた香りがする食卓へ持って行く。
新聞を隅に置き手紙の差出人を確認する。
「レミリア・スカーレット」
黒い蛇のような字だ。
それに、名前も聞いたことがない。
封を切り中身を確認する。
昨日はアップルティー有難う。
お金を返しとくわ。
それと、もしも暇だったら返事をちょうだい。
レミリア・スカーレット
p.sもしも、心当たりの無い方でしたらお金だけ貰って燃やして捨ててください。
昨日の出来事が頭の中に蘇り、手紙を持つ手が震える。
「もう嫌だ…なんで知ってるのよ……」
奇跡。
昨日何回も耳にした言葉が再び脳裏に浮かぶ。
最後の文がそのことを裏付ける様に私の目の前で踊っている。
封筒を逆さまにすると書いてある通り硬貨がいくつか音をたてて落ちてきた。
硬貨を拾い上げ、私はそのまま手紙をゴミ箱へ捨てた。
住所まで当てられたのだ。
次は直接来るかもしれない。
私はもう、あんな得体のしれない存在に会いたく無かった。
自分の力、時間を操る力を使ってでも彼女との出会いを避けようと決めた。
その時の私の感情は、故郷に住む私を嫌った人々のそれと同じだった。
それから私は再び朝食に戻った。
朝からなんでこんな気分にならなければいけないのだろうか。
あの子に会ったときから不思議な事が起こりすぎだ。
もしかしたらこれからももっとロクでもないことが起こるかもしれない。
家の中が一番安全だろう、ここなら誰にも会うことはない。
朝食を食べ終わり片付けをしているとき私はそんな事を考えていた。
幸い、何日か分の食べ物も買いだめしておいてある。
やはり、一日中外からでないのが懸命だろう。
私はしばらくの間、外に出ないようにした。
家で過ごす一日はとても退屈だ。
全く時間が進まない。
私にはこの部屋の時間を進めることは出来るが世界丸々の時間を操ることは出来ない。
出来るかも知れないがやったことは無い。
午前中は新聞を広げ記事をまんべんなく読み、昼食を口にしそのままベッドに寝転びしばらくの間寝た。
しばらくして目を開けると窓の外はすっかり暗くなっていた。
ベッドの上で寝転がっていた私を動かしたのはリビングの方から聞こえた物音だった。
ベッドから起き上がり恐る恐る、廊下からリビングの様子を盗み見る。
音が大きくなる。
何かの音楽の様だ。
その音はタンスの上から聞こえてくる。
胸を撫で下ろしてその音源に近づく。
ラジオが私の耳に音楽を伝える。
その歌に酔いしれていた時、ふと気づく。
なんで電源が入っているのだろう。
私は昨日消したはずだし、今日もラジオに一回も触れてはいない。
少し部屋の温度が寒くなり、ラジオの音が一層大きくなる。
しばらく耳を澄ましていると、突然、音楽を丸呑みにしノイズが騒ぎ始める。
耳に鋭く突き刺さるその音の中から私は確かにその声を聞いた。
「……見……てる……よ」
気づいた時には電源を落としていた。
冷や汗が滝の様に流れる。
私は窓に近づき外を見渡す。
当たり前だが誰も見ていない。
ただ、通りを行き交う人々だけが見える。
再びラジオに目を向ける。
線を引き抜き、寝室の物置深くに投げ入れる。
一段落つき、私はベッドの上で頭を抱えていた。
服は汗ばみ少し気持ちが悪い。
結局、中にいても同じようなものだ、私はあの少女に遊ばれている。
でも、ラジオから聞こえてきた声は少女のものとは別物だったような気がする。
少女の声よりも、もっと暗く沈んだ女の人の声だった。
しかし、そんな事を私が考えていても仕方がない。
少女の仕業にしろ、もしくは他のものの仕業にしろ、私にはどうすることもできない。
頭を上げて何も考えずにあたりを見渡すと電話の前に置いてある金色の物体が目についた。
立ち上がりそれを拾い上げると蓋を開ける。
昨日と同じ、蝙蝠と数字が記されている。
電話をかけてみようか。
どこにかかるか分からない、もしかしたらあの少女にかかるかも知れないがとにかく今は誰でもいいから話したいと思った。
全く知らない人でもいい。
少しでも人の声を聞けば心が安らぐような気がして私はダイアルを回してゆく。
呼び出し音がなる。
「もしもし」
声を聞いた瞬間、体の力が一気に抜けた。
昔聞いたとても優しい声、とても暖かい声。
でも、私を捨てた声。
何年経っても忘れていなかったんだ。
これは紛れもない、お母さんの声だ。
「……あの」
受話器越しに心配そうにする母の顔が目に浮かぶ。
母の顔も覚えている、鮮明に。
涙が溢れて、嗚咽を漏らす。
「大丈夫ですか?」
大丈夫、大丈夫だよ。お母さん。私はこんなに大きくなったよ。
「お母さん」
やっとの思いで声が出た。
何年ぶりだろう。
お母さんと心から言ったのは。
一人でも苦しくない、それは私の妄信だった。
だって、一人でいるときにこんなにも心が暖まる時なんて無い。
今まで私は電話をかけようとしたが勇気が出なかった。
それに、家の番号も忘れていたけど、こんな奇跡みたいにお母さんの声が聞けるなんて。
あの懐中時計が再び私とお母さんをめぐり会わせてくれた。
もう一度呼んだ。
「お母さん」
しばらく静かになる。
私もお母さんも。
ビックリしているんだ、きっと。
私は笑いをこらえて返事を待った。
「あの、どちら様ですか?」
え?
「お母さん?私よ…」
絶望に突き落とされた。
その時、私は………
「えっと、人違いではありませんか?」
「私はお母さんとお父さんから名前を貰ってます!」
思い出せない。
「あの……私達子供は一人だけで今、家におります。人違いでは無いですか?」
お母さん?違うよ私よ。
「私よ」
「ごめんなさい。本当に分からないの」
何て言えばいいのだろう。
あの時と同じだ、少女に秘密を打ち明けた後と。
目に見えない不安が、絶望が私に纏わりつく。
「お母さん。私……」
駄目だ。一文字も思い出せない。
人はこんなにも簡単にものを忘れるのか?
「お母さん。思い出せないの…。思い出せないよ……」
今まで流してきた涙が一気に悲しみの涙に変わる。
「あの……」
「ごめんなさい。人違いでした。ご迷惑かけて申し訳ありませんでした」
受話器をゆっくりと置く。
チン、と乾いた音と共に私はその場に崩れ落ちた。
いつから何だろう。気づいていなかった。
一人になってからだろうか。
私は一切自分の名前を使わなくなったのだ。
だからなのか?
自分の名前が分からない。
こんな馬鹿げたことは無い。
お母さんからも忘れられていた。
あれは間違えなくお母さんだ。
まるで、私が存在していなかったかの様に今も平凡に暮らしていた。
今になってようやく分かった。
私は完全に世界から追放された。
存在がこの世から掻き消えていた。
自分でもしらない間に。
誰ももう私を知る人なんて存在しない。
誰も私の事を思う人なんて……
何か聞こえる。
頭の上で私が取るの待つかの様に電話がなっている。
我に返り再び立ち上がる。
まるで導かれるように、設定されているかのように手が伸びる。
受話器を取って耳に近づける。
「もしもし」
精一杯震えを止めながら挨拶をする。
「あら、ほんとにつながったわ」
あ。
「昨日のお姉さんよね?」
まだいたんだ。
「……おーい」
私を知っている人。
私の存在をまだ認める少女が受話器越しに語りかける。
「昨日はありがとね。手紙届いたかしら?」
「ええ」
お母さんと同じ暖かさだ。
いや、今の私からするとそれ以上のものだ。
「そう、よかったわ」
ベッドに腰をかけて彼女の言葉に耳を傾ける。
「ところで、何かあったのかしら?泣いてる様に聞こえるけど」
この子は私のすべてを分かってくれている。
もう私は彼女の虜だった。
「昨日はごめんなさい。突然帰ったりして」
「いいのよ。私もそろそろ帰ろうと思っていたし」
「あなたの最後の質問をもう一度聞かせてくれる?」
話したかった。いっぱい。
なんでもいいから、とにかく何か話したかった。
私にはもうこの子しかいない。
彼女は「いいわよ」と言って続けた。
「レミリア・スカーレットは運命を操れる。これをあなたは信じる?」
少しと惑った。
昨日と違う気がする。
それに聞き覚えの無い単語も聞こえた。
彼女は私の戸惑いを察して言う。
「私は運命を操れる。これをあなたは信じる?」
「あなたの名前ね」
「察しが良さそうなのに、案外そうでもないのね」
と皮肉を漏らしながらレミリアは私の答えを待った。
「あなたが言っていた運命が奇跡を動かし必然に変える。もしも私のまわりで起こっている奇跡とも思える色々の出来事がすべてあなたの仕組んだことならば私は信じるわ」
フフン、向こう側でレミリアが鼻で笑うのが分かった。
どうやら満足したらしい。
「例えば、あなたの周りにどんなことが起きたのかしら?」
私は少しためらって再び口を開く。
「あの夜、あなたが振り返った時にはいなくなっていたこと。家に帰って懐中時計を開けたら見覚えの無い絵と番号が描かれていたこと、その番号が私の両親の家の番号だったこと、ラジオから変な声が聞こえてくること。それに…母が私の事を覚えていなかったこと」
しばらくの間返事は帰ってこなかった。
するとレミリアが喋り始めた。
「そんな事があったの…大変だったわね」
私は続けた。
「母が覚えていなかったのはあなたの仕業?」
窓の外を見上げる。
綺麗な月が夜の街を照らしている。
彼女もこの月を見ているだろうか。
「それは違うわ。私はあなたとあなたのお母様をめぐり逢わせただけ。その後のことは必然だった。……残念だったわね。人は完璧に忘れようとすると、そんなにも簡単に忘れてしまう
。それが、自分たちの生きる為だったら尚更ね」
レミリアは私を慰めてくれた。
彼女は世界でたった一人の理解者。
月の光の様に暖かい声だ。
「でも、ひとつ気になる事があるわ。あなたの言った。ラジオの声……それ、私はやってないわ」
背筋に悪寒が走る。
「え?」
どうせ彼女の仕業だろうと思い込んでいた私は初めて新しい恐怖を感じた。
「もうそろそろお風呂に入りたいわ。何かあったらすぐに私の名前を呼んで。そうすれば、運命が再び私たちをめぐり逢わせてくれる。私があなたを助けてあげる」
「え、ちょっと」
レミリアとの会話が途絶えた瞬間私はこの世で一人きりになったような感覚に襲われた。
レミリア以上の恐怖が私の部屋を圧迫しているように思えた。
電話をそっと下ろして注意深くあたりを見渡す。
小机の上に置いてある花瓶、ベッドに敷かれたシーツ。
それらのものが何の変哲もなく置かれている。
だけど、私は何か見えない恐怖が迫ってきている様にしか思えなかった。
ザーッ……
体が跳ね上がり慌てて後ろを振り向く。
物置の方から、何か聞こえる。
私の脳裏に先ほどしまい込んだラジオが浮かぶ。
物置をじっと見つめる。
音が次第に大きくなっていき、音楽が聞こえてくる。
もちろん電源を入れているはずが無い。
私は何も考えず居間へと駆け出した。
居間の机の上には新聞が広げられており、午前中の私の痕跡が所々残っていた。
少し落ち着こうと思いキッチンに向かい紅茶を入れる。
赤い液体がティーポットからコップへと注がれていく。
それにしてもいつもより赤いような……
少し違和感を感じて紅茶を鼻に近づける。
「なに……これ」
生臭い臭いが紅茶から吹き出てくる。
何処かで嗅いだことのあるような臭いだ。
確か小さい頃に転んだとき、膝をすりむいて出来た傷から出た……
そこまで考えてコップの中の液体をすべて流す。
赤色の線が血管の様に道を作り排水口へと進んでいく。
ぽたぽたと最後のが垂れ落ちるまで、私の手は微かに震えていた。
コップを置き、ソファへとうずくまる。
「嫌だ…次は何よ…」
居間の窓がゆっくりと金切り声を上げて開き始める。
新聞紙が命を与えられたかの様に空を舞う。
窓の外には当然何もいない。
でも……私の目の前にそいつはいた。
人間の形をしているが真っ白な肌で人の様に思えない。
頭は真っ黒に塗りつぶされた目が二つくるくる回りながらこちらを見据えている。
声にもならない叫びが私の口から漏れる。
怪物がゆっくりと手を伸ばしてくる。
私はとっさに居間の時間を止めた。
私以外のすべてのものがぴたり、と活動を停止する。
やっとの思いでソファから起き上がり震える足を寝室へと向かわせる。
寝室へと続くドアをゆっくり開ける。
いつもより長く見える廊下を一歩一歩確実に進んでいく。
足の裏が何かの感触を掴む。
不愉快な感触で液体のようなそれは先ほどの紅茶と同じ色をしている。
私はその場で腰が抜け廊下でへたり込んだ。
それは浴室の扉から流れている。
ちょうど二、三歩先にあるその扉はゆっくりと開きこちらに迫ってくる。
ビチャッビチャッ
赤く塗りつぶされた足が浴室から出てきた。
膝から上が……無い。
足は一歩一歩私に近づいてくる。
私は足をばたつかせながらそれを追い払おうと試みる。
しかしその足はさながらダンスの様に私の攻撃を簡単に避ける。
ビチャッ
ほとんど顔の前に足がたどり着く。
片方の足が上がる。
まるで蟻をふみつぶすそれと同じように足が顔に振り下ろされる。
はたかれた様に私の体は反対方向に転がりその足をかわす。
そのまま起き上がり、廊下にめりこんでいるその足から逃げ出す。
もう片方が追ってこないのをみるとどうやら二本で行動するしかないように見えた。
それよりも早く伝えなければ。
あの少女なら助けてくれる。
でも根拠は?
そんなものは毛頭無かった。
どうしてだろう、いつの間にか私は彼女が何でもできるかの様に思い込んでいる。
まるで彼女が私の神であるかの様に。
寝室の扉を開き電話へと駆け寄る。
番号は分からなかった。でも、彼女にはこれで十分伝わるはず。
「助けて、レミリア……。レミリア・スカーレット…!!」
すぐに呼び鈴が鳴り響く。
電話をとろうしたその時。
物置の扉を突き破り無数の腕が私の体を掴み引っ張り上げる。
腕に絡みつかれながらも決死の力を振り絞り受話器を取った。
「こんばんわ。中に入ってもいい?」
腕達が電話を引っ張り線を引きちぎる。
それでも私は答えた。
私を助けてくれるといった運命の人に。
崇高なる、運命に。
「歓迎します。中にお入りください。レミリア・スカーレット様」
腕と腕の隙間から窓が見える。
真っ赤な閃光が外に見え、なぜか私は安堵した。
「今宵は月がこんなに赤い。楽しい夜になりそうね」
窓がすさまじい音をたて一瞬で粉々に砕ける。
閃光はベッドに降り立ちこちらを見る。
閃光…いや、少女は手に大きな桃色の槍を作りあげ、物置に向かって投げ入れる。
光が爆発し、腕と赤色が乱舞する。
私は見えない何かに突き飛ばされレミリアの胸に飛び込む。
彼女は自分の何倍もある私の体を平然と受け止めた。
「招待してくれて有難う。次は、私の家にも来てくれる?」
健康的な肌色をした顔が微笑む。
「いつでも、参ります」
「ありがと、今は危ないから後ろに下がってて」
感涙の涙が浮かぶ。
本当に、来てくれた。
私を孤立した世界から救い上げてくれた人が、目の前で私を守ってくれる。
私の英雄が。
生き残っていた腕たちが目標をレミリアに変えて襲いかかる。
彼女は先ほどの色とは異なる槍を二本作りだし、襲いかかってくる腕から順に切り裂いていく。
黒い鋭利な槍を腕の塊に突き刺し、次は大きな赤い槍を作り上げる。
「スピア・ザ・グングニル」
レミリアの言葉に答えるように赤い槍は腕の塊に突き刺さる。
大きな風穴が開いた塊は遂に動くことを止めた。
目の前で繰り広げられる戦いに私は呆気に取られるばかりだった。
廊下から物音が聞こえ扉が大きな音をたてて開く。
さきほど廊下で見た足が他の怪物を従えて寝室に侵攻してきた。
レミリアは鼻で笑いながら身を屈めて体をひねりながら怪物達に飛び込む。
大きな爪と鋭い牙が化け物の体を引き裂き大きな肉片にしていく。
凄い。
これこそ奇跡の瞬間。
これこそレミリア様の言われた、ありえない奇跡なのだろうと私は素直に思った。
レミリアが怪物の中心で十字架に囚われたイエス・キリストの様なポーズをとる。
赤い何かがレミリアから溢れ出し次第に大きくなっていく。
「不夜城レッド」
赤い光が炸裂して怪物達がレミリアの発生させるそれに飲み込まれていく。
逃げようとする怪物も赤い十字架の中から伸びてくる少女の腕に捕まれ、死へと誘う十字架へ引きずり込まれていく。
怪物をすべて取り込んだ後、十字架は錆びた鉄くずの様にボロボロと崩れ落ち、その中から少女が姿を現した。
その様子がすべてが終わったことを告げた。
レミリアが言う。
「さあ、私の家に来てくれるわよね?」
膝をつき頭を下げる。
「私はあなたに救われました。世界からも怪物からも。この身も心もあなたのものでございます」
「では咲夜、私の背中に乗りなさい。最初の命令よ」
「咲夜…ですか?」
「そう、あなたの命は今宵尽きた。あなたはこの夜、咲いた新たな命。咲夜よ」
再び目のあたりが熱くなる。
私の名前。
この方から貰った名前。咲夜。
「早く乗りなさい。咲夜」
「失礼します。レミリア様」
「お嬢様でいいわよ。皆からそう言われてるもの」
お嬢様は笑いながら返事をした。
「では、失礼します。お嬢様」
ん、お嬢様は私を負ぶりそのまま窓に駆け出した。
大きな大きな黒い翼が私の下から生えてきて一回羽ばたく。
その瞬間私はあまりの速さに気を失った。
月が真っ赤に染まっていた。
赤い光が世界を煌々と照らし、夜を行く少女二人を見守っていた。
「今は、彼女のために用意した部屋で寝かせてあるわ」
ここは真っ赤な館、レミリア・スカーレットが住む紅魔館の中にある図書館。
一人の少女とそれに用がある者以外は滅多に中には入らない、まるで人の思想と情報の墓場の様な場所。
「そう、今回のシナリオはとても凝っていたわね。彼女の…咲夜の母親にまで運命操作まで仕掛けて……」
レミリアの言葉に本を読みながらパチュリーは返した。
「彼女は本当に必要な存在だった。それにシナリオ通り私は彼女の英雄になった。咲夜にはこれから私の側近として仕えて貰うことにするわ。今のメイド長を下ろして。いいかしら?」
パチュリーが答える。
「あなたが決めることでしょ。それに私メイド長らしいこと一つもしたことないし、私もそれには賛成だわ。あなたのためにも私のためにもなるもの」
レミリアが近くの本を拾い上げページをめくりすぐに閉じる。
「あと、悪霊を召喚してくれて有難う。あの子、相当まいってたけど。あなたの呼び出す悪霊は常人には怖すぎるみたいよ」
レミリアが笑いながらパチュリーに感謝する。
「…別に」
パチュリーは本を読むのに没頭している様だ。
しばらく話しかけても反応は無いだろう。
レミリアは立ち上がり、図書館を後にする。
大きな翼を目一杯伸ばし廊下を歩く。
目的の扉の前に立つ。
ノックをして、ドアノブを握り締めゆっくりと開く。
少女がベッドの上で眠っている。
ランプに明かりを灯しまだレミリアの十分の一にすら満たない年齢の少女の顔を眺める。
少し微笑みポケットから金色の丸いものを取り出す。
蓋を開けて、中を覗くと文字盤の上を走るはずの針が止まり、蓋の裏には咲夜の言っていた通りのマークと数字が書いてあった。
レミリアが軽くそれをなぞる。
数字が消え、それに続いて蝙蝠も消えてゆく。
蓋をし、咲夜の胸の上に静かに置く。
「あなたは死んだ。今まであなたと共に過ごしてきた時計も死んだ。これからは、私と共に生きていきましょう。私と、一緒に」
扉がゆっくりと閉まり咲夜のまわりには再び静寂が訪れた。
じゃあね咲夜……今はおやすみ……