「えっと…これかな」
様々な薬品の収められた薬品棚から周りの薬瓶を倒さないように慎重に目的の物を取り出す。
小さな薬瓶に詰められた粉末状のそれはなかなか手に入らない貴重な薬品らしい。
『駄目にしないでよ!絶対にしないでよ!』と何度も念押しをされたのだが、私はそんなに信用がないのだろうか。
少し傷ついたけど、自分がドジなのは事実だ。ならば、ちゃんと仕事をこなして認められよう。
私は右手に薬瓶を持って、薬品庫のドアを開ける。
そこで悲劇は起きた。
「ひゃっ!?」
目の前を蜻蛉が横切った。ただそれだけのことだった。
しかし、驚いた私は反射的にそれを振り払おうしてしまった。
薬瓶を持った右手で。
結果、手からすり抜けた薬瓶は直線を描き、壁に当たる。
ガラスの割れる音がやけに響いた。
「あ…」
血の気が一瞬で引いた。背筋が寒くなって体の震えは止まらない。
私は粉雪のように撒き散らされる粉末を為す術も無く見ることしか出来なかった。
これを駄目になっていないとは言えないだろう。
「ど、どうしよう…」
貴重な薬品をものの見事に駄目にしてしまった。
これに対する師匠の取る行動は想像もしたくない。考えるだけで冷や汗が滝のように流れる。
私の取るべき行動は?
正直に言うのはどうだろうか。師匠も鬼じゃない…とは言い切れない自分が悲しい。
では隠し通すのは?無理だ、自分があの師匠に隠し通せられるとは思えない。
じゃあ、どうすればいい…?
「ひっ!」
思考の迷路に迷い込んでいると、足音が近づいてきた。思わず声を上げてしまう。
もしかして師匠が割れる音を聞いてやってきた…?
その思考に至った瞬間、体は勝手に動き出していた。
すなわち、逃走。私はその場から全力で走り去る。それこそ脱兎の如く。
振り返らずに走る。どこに行くかなんて考えていない。ただこの場から離れたかった。
私は塀を飛び越え、竹林に向かって逃げ出した。
「どうしよう…」
何度目になるのかもわからない自問を呟く。日は暮れてしまい辺りは暁色に染まっていた。
考えるまでもなくどうすればいいのかは決まっている。師匠に謝り許しを乞うことが最善だっただろう。
しかし、私はあの場から逃げ出してしまった。ただ師匠の怒りを煽るだけの結果にしかならないというのに。
ため息をつき、後悔でいっぱいの胸を抱えながら、私は永遠亭に向かって歩き出す。
足取りは重いがいつまでもこうしているわけにもいかない。
「師匠許してくれるかな…」
あり得ない希望をつぶやき、ため息を吐き出した。
「えっ?」
私は耳を疑った。今は師匠はなんと言ったのか。
「許すって言ったのよ。というか、あなたの責任じゃないでしょう」
信じられない。あの師匠が失敗を咎めないだなんて。
…あなたの責任じゃないでしょう? どういう意味だろうか。
師匠はちらりと私を見て、そして天井を見上げ独り言のように呟く。
「てゐに悪戯されたときに薬瓶を割ってしまって、臆病なウドンゲは逃げ出した。てゐからそう聞いたわよ」
「てゐが…?」
「災難だったわね」
師匠の言葉は耳に入らなかった。ただ疑問だけが渦巻いていた。
てゐが私を庇ってくれた?何のために。どうして?
そうだ、てゐは今何処にいる?
「てゐは庭にいるわ」
師匠は心を読んだように言う。
私は一瞬迷ったが、
「失礼します!」
礼をして師匠の部屋から立ち去る。慌てたせいで鼻の頭をドアにぶつけてしまったが気にしていられない。
ドアを閉める間も惜しく、そのままに私は庭に駆け出す。
夕焼けが庭を紅く染め上げる。日はもう沈もうとしていた。
そこに一人の少女がしゃがみ込んでいた。手には軍手を付け、周囲にはむしられた草が積まれていた。
「てゐ!」
私の呼びかけにてゐは振り返らない。すぐ近くにいる彼女に私はなぜか手を伸ばせなかった。
背中を向けたまま彼女は喋り始める。
「大変だったんだからね。お師匠様にどやされちゃってさ。罰が草むしりだよ。こんなにたくさん一人でできるわけ無いのに」
「…てゐ」
「ごめんはいらないからね」
てゐは手を止めないまま言う。
今まさに言おうとしただけにバツが悪かった。
「…てゐ、どうして庇ってくれたの?」
私はその背中に疑問を投げかける。
その言葉にてゐは手を止めると、息を吐き出し立ち上がる。
そして、振り返る。
「今から言うことは全部嘘だから」
そう前置きをして喋り始める。
「昔、姫様の壺割っちゃったことがあったんだ。その時はさすがの私も血の気が引いたよ。下手したら永遠亭から追い出されかねないから。そしたらさ、ドジで臆病な兎が『私が何とかするから安心して』って」
てゐは懐かしむように微笑う。
「笑っちゃうよね。そいつさ、お師匠様に向かって『私が割った。てゐは悪くありません!』って膝震えて泣きそうになりながら言うんだもん」
「…それは」
嘘ではなかった。嘘なら私が憶えているはずがない。
「なんでそんなことしたんだって訊いたらそいつはさ」
『てゐは友達だから』
「馬鹿みたいだよね。そんなことで」
だけど、
「すごく、嬉しかった。私は悪戯ばっかして嫌われていると思っていたから。そんな風に思われていたことが嬉しかった」
そう言って、微笑んだ。
あの時の守りたかった笑顔のまま。
「だから、義理を果たそうと思った。そいつも友達だから」
ま、嘘なんだけど。
照れを誤魔化すようにそう付け加え、そっぽを向く。
顔が赤いのは夕日のせいか、別の事情か。
「…てゐ」
「私に言うことは?」
その言い方に私は苦笑する。
意地悪で狡猾で我侭で。だけど、本当は優しい私の友達。
だから、その彼女に言うべきことは謝罪ではなく、
「…ありがとう」
感謝の言葉。
てゐはその言葉に満足したように笑うと、顔を埋めるように私に抱きつく。
私はそっと腕を回して抱きしめ、柔らかい髪を撫でる。
「…ありがとう」
もう一度、てゐに感謝して私は微笑った。
和ませていただきました。
そして本当のことに気づいてるだろうえーりんの優しさもいいわー
今すごく幸せな気分です
思わず顔が緩んだ。
>『駄目にしないでよ!絶対にしないでよ!』
このセリフ的に考えてw