人は妖怪無しで生きて行けるが、妖怪は人無しでは生きて行けない。人を喰らう妖怪に在っても、人と寄り添う妖怪に在っても、同じであり、それは人が居なければ神も妖怪も生まれないためである。それに引き換え、人間が妖怪を失うという事は、人の心の基盤が崩れ、文明の中で人間がその尊厳を緩やかに失うという、ただそれだけの弊害しかもたらす事はない。
故に、多くの妖怪退治に人間側の躊躇というものは殆ど無い。寿命も短く、「今」にしか生きられない人間にとって、百年先の弊害よりも目の前の脅威の方を優先すべき事は当然である。
有史以来繰り返された、脅威を取り除く為の妖怪退治は、やがて、人間のなすべき善行と定められた。脅威でなくとも、妖怪とあれば退治せねばならぬとされた。
妖怪にとっても、それからの人間との良い付き合い方は、恐れられ、恨まれる事が最上であると考えられるようになった。対立を続ける限りは、人間と共にいられると、妖怪達は考えたのである。
ある夏の日、河原で一人涼んでいた河童と、そこをたまたま通りかかった一人の妖怪が出会った。
妖怪は歩き疲れていたため、川のせせらぎで心を癒そうと、河童に断り隣に座った。世間話をする相手も欲しかった。
「あんた、この辺の河童じゃないだろう。風貌から察するに、生まれは遠野かい」
「ああ、そうだよ。この郷に腹違いの姉妹が居ると聞いてね、移り住んだんだが、間抜けな事に、名も姿も知らないんだ。まあ、そのうちばったり出くわすだろうよ。
そういうあんたは、どこの出だい」
「私は、伊吹の生まれさ。ちょいとわけありでね、追い出されちまったんだ。このあたりに昔の馴染みが居るはずだから、そいつを頼ってきたのさ」
「そいつは、痛み入るよ。追い出されたわけってのは、どういうわけだい? もし差し障りなければ、話の種に聞かせてくれないか」
妖怪は詳しくは語りたがらず、ただ、人間と繋がりを持とうとした為に追い出されたとだけ言い、その後は話をそらす様に、夏の暑さに愚痴り始めた。
人と関わろうなんて、変わった奴だと河童は思った。妖怪から人間の話題が出るときは、大抵はいかに人間を震え上がらせたかを競う武勇伝である。あるいは、人間に返り討ちにあった間抜けな奴を笑うときか。いずれにせよ、こんな話を妖怪相手から聞く事など、そう言えば、二度目だったか。
ふと、似た様な奴の話を思い出した。隣の妖怪はまだ暑い暑いと唸り続けている。河童は、冗談交じりに、その話をしてやる事にした。
「そんなに暑いんならさ、怪談話を一つ、聞かせてやろうか」
人里にある噂が立った。
妖怪が、子供に混じり、人里に度々下りて来ているという噂だった。
何が目的か、さまざまな憶測が飛び交った。
曰く、子供を山へ連れ去る為であるとか、若い女を孕ませる為であるとか。
憶測は真実として伝播し、里の人々は、未だ見ぬ恐ろしい妖怪の姿に震える日々を過ごす事となった。
そして、とうとう、その妖怪と出くわしてしまった者がいた。
その男は、里でも中々評判の力自慢であった。噂を聞く度、「ワシの前に現れれば、すぐさま返り討ちにしてくれる」と嘯いており、周囲からも、有事の際には、と頼りにされていた。
ある日、その男の倅が、遊びに出たままなかなか帰って来ず、散歩がてらに迎えに行くことにした。方々を探し回るが、普段遊び場にしているところには見つからない。日もすっかり沈み、足元も暗くなったころ、河原で誰かと遊ぶ倅を、ようやく見つけた
そこで男は、奇妙に思った。そんなに広い里ではない。ここらで、倅と遊ぶような歳の子なら、知らぬはずはない。しかし、そこで倅と遊ぶ子は、どうしても見覚えのない奴だった。どこの子だと聞いても、ごにょごにょ言うばかりで、はっきりとしない。
こいつは噂の妖怪だと直感し、倅をこの不審な子から遠ざけた。そして見下ろし、観察する。奇抜な髪の色と、その服装を除いては、その姿は只の子供である。この程度ならば、退治するのも容易いだろうと思う。
意を決し、男は掴みかかった。しかし、いくら見た目が幼かろうと、やはり妖怪である。信じられない事に、手も足も出なかった。
軽々と半里先まで投げ飛ばされ、何とか起き上がると、妖怪の子は目にも留まらぬ速さで山の上まで駆け上がり、姿を消した。
倅は何事もなかったが、男はあちこちの骨を折り、その妖怪の恐ろしさに身を震わせ、以来、家からも出ようとしなくなった。
この話も、瞬く間に里中に広まった。それ程の怪力と俊足を持っているのであれば、妖怪とは言え所詮は子供と高を括ってもいられない。もはや里の者での退治など考えられない。
里の人々は、ますますその妖怪への不安をつのらせ、それよりしばらくは、恐怖で眠りをも忘れたという。
「それで、どうなったんだ?」
「これで終いさ。人の噂も七十五日。その妖怪もあれっきり姿を見せなかったもんで、こんなつまらない怪談話にまで風化しちまった」
「なんでそれっきりなんだろうね」
「決まってるだろう。その妖怪が人間に恐れをなしたのさ」
伊吹の妖怪はいよいよ不思議に思った。その話の妖怪は、人間を圧倒的な力でねじ伏せたのではないのか。
訝しげにその事を問い詰めると、河童は笑いを噴き出して、真相を明かした。
「そいつは、私らと同じ河童でね、少しは人間より力はあるが、この話で言われる程の、怪力俊足なんて、持っちゃいない。ほらを吹いたのは、その妖怪にやられちまった男なんだよ」
「と言うと?」
「その男はね、その河童に掴みかかったが、存外に相手の力が強かった。互いに相撲の様に組み合ったまま、動けなくなってしまった。
しかし、さすがは里で評判の豪腕だ。人間の男の方が、僅かに力が勝っていた。男は一気にかたをつけるつもりで思いっきり踏ん張ったんだが、うっかり足を滑らせてね、川へ転げ落ちたんだ。
その河童は、その男が死んだものと思い込んで、人間の子と一緒に遊びたかっただけなのに大変なことになってしまったと、山へ逃げ帰ってしまったのさ。
男は、その倅が呼んできた別の人間に助けられたが、あんな大きなことを言っておいて、こんな惨めな負け方をしたなんて口が裂けても言えず、その言い訳にある事ない事言いまくって、その河童をとんでもない妖怪に仕立て上げてしまったってのが、真相さ。
気の毒なのはその河童だよ。人間と仲良くなろうとしたことだったが、今じゃ人間からの復讐を恐れて、山の中を逃げ回ってる」
ふたを開ければ、大した真相じゃあないか。人間の嘘に負けた妖怪。まるで自分の話を聞いている様だ。心の底が激しく疼くのを感じた。
「じゃあ、その河童も、そんな馬鹿な考えはもう捨てただろうね。人間に取り入ろうなんてさ」
己を誤魔化そうと、つい少し意地悪を言ってしまう。余計に惨めになるだけだけと分かっていても、言ってしまった。「取り入る」なんて言葉を使ってしまった事も腹立たしかった。
その話の河童も、もう人間には近づくまい。そもそも「人間と仲良くなろう」など、「畏れ」と「怖れ」こそが最良の人間との関係である妖怪にとって、考える事もはばかれるのだ。
答えて欲しくなかった。一瞬でも同志が出来ると喜んだ自分が哀れで仕方ない。同胞を馬鹿にされた事に怒り、この場から追い出してくれれば良いと願った。
だが、隣の河童は、妖怪の言葉に答え、その首を横に振り、逆に問いかけた。
「そう言うあんたは、人間と仲良くなるってのは、もう諦めたのかい?」
妖怪は、今の一度も自分の願いを聞き入れてはくれなかった神様に、初めて感謝をした。
「どうだろうね。ただ、未練は大きい」
遠野の河童は、一度だけ、そいつと会ったことがあった。幾らか言葉を交わすこともできた。先の話も、真相の一部はそいつから直接聞いたものである。人里に下りた理由は簡単なもので、かつての河童と人間が「盟友」と呼び合っていた頃を、夢に見ただけだったという。
自分とはまるで逆だった。
遠野では、河童と人間の合いの子は、切り刻み一升樽に入れ、土に埋めるものとされていた。
遠野の河童は合いの子だった。母に逃がされ、顔も名も知らぬ姉妹を頼り流れて来た自分には、そいつの言った「盟友」という言葉は受け入れ難かった。
そいつの名は、にとりと言った。
「さて、そろそろ行くかね」
西の空は真っ赤に燃え、東には既に夜の闇が迫っている。人間の時間と、妖怪の時間の、境界を表す空だ。
「行くなら地底を目指すと良い。この辺の鬼達は、皆、地底の地獄に移り住んでいるようだよ」
「ありゃ、気づかれてたか。そうならそうと言っとくれよ」
霧が晴れるように、伊吹の妖怪の頭に太い鬼の二本の角が現れる。始めからこの姿であったならば、とても今までの様な会話はできたかっただろうと思わせる、その小さな体には不釣り合いな、立派な角であった。
「上下の立場を気にせずに話がしたかったから、隠してたんだろう? 言ってしまったら興が冷めるじゃないか」
「じゃあ、改めて名乗ろう。私は伊吹の萃香だ。お前も地上に飽いたら、地底に来い。今度は話しだけじゃなく酒も交わそうじゃないか」
「私は、川を依り代とする河童、川代(かわしろ)のみとりだ。嬉しい申し出だが、そういう日が来ないことを祈るよ」
「そうだな、地底なんて、好き好んで行くところじゃあない。じゃあ、また」
「ああ。またいつか」
萃香は、西の夕日に背中を向け、東の夜闇へと歩き出した。
それを見送ったみとりは、どちらへ行くことなく、その場に座り、また夕涼みを続ける。遠野生まれを表す赤い髪が、西の空に溶け込み、揺らいだ。
何百年かの時が流れ、その郷は結界により外と隔絶し、幻想郷と呼ばれる事となった。
人間と妖怪の共生が掲げられる時代となり、人間の「妖怪退治」という善行への意識も、かつて程至上のものではなくなった。
萃香は過去の心残りを今こそ埋めようと、地上へ戻った。それと時期をほぼ同じくし、みとりは地底へ潜ったため、二人は再会する事はなかった。
にとりが、みとりの探していた妹であった事も、萃香はついぞ知らぬままである。
確かに「河童は人間の盟友」という神主の設定は影がありますよね。一升樽に切り刻んで土間に埋めるとか、道違えに捨てるとか、ああいう話を聞くと「河童は人間の盟友」なのではなく、「人間にとって河童は使い勝手がいい」というような意味ではないかと思えてきますな。
面白かったです、ありがとうございました。
人間って本当に自分勝手ですよね
誤字報告です 再開→再会
みとりと萃香のやりとりは面白かったです
>切り刻み一升樽に入れ、土に埋めるものとされていた。
遠野物語ガクブル
これ怖いと思ったのを思い出しました
非公式キャラを出した事は、少し不安もあったのですが、楽しんでいただけた様で、何よりです。
しかし、やはり知らないという方が多い様なので、次回からは、そういったキャラクターの使用は自重していこうと思います。
>スポポリッチ 様
東方の設定は神主から多くを語られないために、逆に深い影を感じますよね。
にとりは人間を「盟友」と呼ぶのに、なぜ光学迷彩などを使ってまで人間から姿を隠そうとするのか、とか。
>可南 様
こちらこそ、何の前振りもなく非公式キャラを出してしまったことを気に病んでいましたが、そう言っていただけて、嬉しいです。
>5 様
誤字の御報告、ありがとうございます。
確かに人間は自分勝手かもしれません。その一方、人間は「ウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです……」(JOJO4巻のあとがきより)とも思います。
>6 様
遠野物語は時折恐ろしい描写が、突然さらりと入ってきて、驚きますよね。
ただ、拾遺の方の河童は、いたずらの詫び証文を残したりして、可愛かったです。