※言い忘れてましたが、これは作品集107『にとりラヂオ』の連作みたいなものになっています。
そちらも気が向いたらどうぞ。
なお、このタイトルはコメント欄の方からいただきました。
旧タイトルは『(どうにもいいタイトルが思い浮かばないのだ)』となっております。
酷い嵐が、幻想郷に殴り込みをかけてきた。
バケツをひっくり返したような雨はひっきりなしに雨戸を叩き、川を暴れさせ、山肌を削った。
妖怪の山のあちこちで土砂崩れが起き、一抱えほどもある岩が道を塞いだ。
人里では強風による倒木や鉄砲水で、十数件の家屋が損壊したという。
こうなれば人も妖怪もあったものではない。皆一様に、じっと戸を閉めて嵐が行過ぎるのを待っていた。
一週間ほど経ってやっと雨が上がると、山の頂上にある守矢神社に続々と妖怪が集まってきた。
みな一様に、久方ぶりの外出にご満悦だった。
天狗や河童、厄神や鬼までもが、等しくあの嵐の残した爪痕のことを噂し合う。
「あややや……。外の世界で異常気象が続いているという話は聞いてましたけれど、まさかそれが幻想郷にも波及するとは思いませんでしたよ」
天狗のブン屋、射命丸文はそう言って万年筆で頭を掻いている。
確かに、外の世界では人間の派手な活動が天候にも影響するようになっていると聞く。
幻想郷に住まうものたちにとっては全く迷惑千万な話と言えたが、どだい批判するだけ野暮な話だった。
もう人間は天さえ恐れずに生きることができるようになった。
人間が河童の盟友で有り得た時代は、とっくのとうに過去のものだ。
人ごみの中、厄神は人々の厄の回収に奔走し、風祝は見舞いに来た妖怪たちに丁寧に礼を述べている。
この妖怪の多さを見るに、嵐の影響は予想外に大きいようだ。
ブン屋としてはネタに困らないだろうに、射命丸はどこか浮かない顔をしていた。
「青菜に塩ぶっかけたような顔して、いったいどうした。新聞記者としては書き入れ時だろう?」
河城にとりがそう軽口を叩くと、射命丸は苦笑を浮かべて頭を掻く。
「いや、ネタが多いのはブン屋としては非常に助かりますけれどね。けれど、やっぱり素直に喜べないんですよ。これが異変とかなら遠慮なく書きますけど、やっぱり嵐じゃねぇ……」
いつになく歯切れの悪い射命丸の言葉に、にとりは苦笑した。
パパラッチ一歩手前の新聞屋のどこに、こんな繊細な気持ちがあったのだろう。
人の本当の不幸は絶対に書き立てない。そんな一本筋の通ったマスコミ根性は、どこかエンジニアの真っ直ぐな気質と通じるものがある。
そう思うと、目の前でペンを齧る歯がゆそうにペンの尻を齧る射命丸の背中を軽く叩いた。
「しゃんとしなって。あんたの新聞が伝える情報を待ってる奴もいるんだ。書いてやりなよ」
そう言うと、射命丸の顔がパッと明るくなった。
「……そうか、そうですよね。私の情報がほしい人もいるんですよね。ありがとうございます、にとりさん」
そう言うと、射命丸はがやがやと賑わう境内の人ごみの中へと消えていった。
みんな嵐の影響を知りたがっているときだから、射命丸の存在はそう邪険にされるまい。
しばらくの間は、この嵐が残した被害を整理し、人々に伝えるのが彼女の仕事になるのだろう。
やれやれ、天狗の癖に世話が焼ける……にとりは苦笑しつつ、空を見上げて久方ぶりの青を目に焼き付けた。
雨は上がったし、からりと晴れ渡った空には、もう雨の匂いもしない。
幻想郷の諸所に出た影響も、神や鬼の活躍によって半月も経たずに回復されるだろう。
まずは一安心、というところか。ふう、とにとりはため息をついた。
安心すると、気になるのは自分のことだ。
雨が降り出したときから、ずっと「あの場所」のことが頭から離れなかった。
数ヶ月も前、にとりが発見したお気に入りの場所。あそこは谷が切り立った深山だから、きっと嵐の影響が出ているに違いない。
いっちょ、行ってみるか。発電所の完成を首を長くして待っている山の神には小言を負けられるだろうが、一度あの場所のことを考えてしまうとダメなのだ。小言を言われている間も上の空になって、ますますタチが悪くなるんだから。
禁断症状が出る前に川に行こう。そう思い立ったのは、雨が上がってから三日も経ったときだった。
河童の仕事仲間と山の神宛に、書置きを残しておくことにする。
にとりはメモの切れ端の裏にさらさらと書き残し、大きめのナットを文鎮にして、作業机の上に残しておいた。
『三日ほど、行方ふめいになります。
探さないでください。おこらないでください。
このうめあわせはいつか必ずします。
どうか待っていてください。
河城にとり』
いつも通り、誰にも何も言わずの旅立ちだった。
行方不明の旅が、今日も始まった。
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妖怪の山を、じっくりじっくりと時間を掛けて降ってゆくと、風に混じって水の匂いがした。
クマザサで足を滑らせないよう慎重に斜面を降りきると、にとりは藪をこいで川原に降り立った。
「あちゃあ、これはひどい……」
顔中に吹き出た汗を拭うのも忘れて、にとりは呆然と呟いた。
まず目に入ったのは、川原を埋め尽くすゴミの山だった。
腐りかけた枯葉や流木、はてまた遥か上流から押し流されてきた岩で、猫の額の川原はまるでゴミ捨て場同然の有様になっていた。
それに加えて、洪水の影響か、数日前と渓相が全く変わってしまっている。
大イワナの棲み家だった大岩が、流芯から消えていた。ヤマセミのつがいが止まっていた沢胡桃の木も、土ごと抉られて影も形もなくなっている。
何が起こったのかは明白だった。あの嵐による大雨で鉄砲水が出たのだ。
狭く、流れも細い谷川では、大雨が降ればとかく鉄砲水になりやすい。深山に発生する鉄砲水は、立ち木ぐらいなら簡単に押し流してしまうものだ。
背負ってきたリュックサックの重さが倍増して、にとりは流れ着いた流木に座り込んでため息をついた。
予想していたこととはいえ、実際にすっかりと変貌してしまった渓を見ると、どうしても無念だった。
ここが、にとりが妖怪の山で見つけた「秘密の場所」だった。
試作機の構想にどうしても解決できない難点が生じたとき、一人になりたいとき、にとりはいつもここに隠れるようにしてじっくり頭を捻るのが好きだった。
誰にも邪魔されず、誰とも会話せず、ひとり沢水で冷やしたきゅうりを齧りながら、機械を弄りつつあれこれと思索を巡らす。そんな時間はにとりの宝物だったのだ。
しかし、これでは機械弄りどころかテントすら張れないではないか。がっくりとうなだれて、にとりはしばらくの間、呆然と意識を手放していた。
ヒョ、ヒョ……と、頭上をヤマセミが行き過ぎて、にとりは我に返る。
ぼんやりと川原を見ていても仕方がない。川原を覆う一面のゴミさえ片付ければ、テントぐらい張れる。
なんとかなるかもしれないと、ぼんやり思い立った。エンジニアのくせに、目の前の困難に立ち向かわんでどうする。そんな声が頭の中に木霊すると、少し闘志が戻ってきた。
すでに酷暑は嵐の到来前と変わらないほどになってきていたし、暑さは河童にとって大敵だったが、いちいちへたばっている暇はないだろう。
にとりは手始めに、自分が腰掛けていた大木を掴むと、力いっぱい動かしてみた。全身で踏ん張ると、丸太は少しずつ動き始めた。何とか動かせる。
にとりはリュックからきゅうりを取り出した。
流れに近寄って手を差し込んでみると、湧き水のおかげか温度は低いままだ。
適当な石を動かして生簀を作り、そこにきゅうりの束を漬け込んでおく。
片付けながらポリポリ齧り、鋭気を養い続けることにしよう。
どうせここでは酒を飲んでも誰にも咎められやしないのだ。
どぶろくは徳利に入れて持ってきてある。狐狸が怖いが、化かされる段になったら気がつくだろう。にとりは迷った挙句、大ぶりの徳利も流れに漬けておいた。
あとはやるだけだ。しばらく、汗だくになって川原の片づけをすることにする。
まず最初に流木の類を退け、汗みずくになりながらも次は枯葉の類を片付けにかかる。機械工作用に持ってきた軍手が思わぬところで重宝したと思ったが、これはなかなかどうして重労働だ。しばらくの間もくもくと作業を続けると、ますます気温が上がってきた。
帽子など、何の意味も持たなかった。
三十分もするとあっという間に頭が干上がり、面白いように体から力が抜けた。
(こりゃマズい、水――)
にとりはよろよろと立ち上がると、帽子を脱ぎ捨てて頭から川に突っ込んだ。
灼熱した頭が冷えてきた頃、にとりは流れの中を見渡してみた。あの鉄砲水をしぶとく生き残ったイワナたちが、突然の闖入者に驚いて岩陰に隠れる。にとりがぼんやりとそちらを見ると、数匹のイワナが岩陰からこちらを不安げに見返してきた。
イワナたちの目はくりくりとしていて、とてもうまそうだった。
不意に、虐めたい気分になった。にとりは顔を川に突っ込んだまま、服を脱いで川に飛び込んだ。
冷たい流れに、思わず身震いした。懐かしい水の匂いが、にとりの鼻を甘く刺激する。
イワナたちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出したが、悲しいかな相手が河童である時点ですでに敗北は決定したようなものだ。
水を掻き、底石を蹴って、にとりは川底の沈石の下に手を突っ込む。
いた。ぬるりとした感触が軍手越しに伝わった。そのうちの一匹のしっぽを掴んで、岩陰からイワナを引きずり出した。イワナが暴れないうちに、すぐさま川底を蹴って浮上に転じる。
水面に顔を上げて、有無を言わさずにイワナに空気を吸わせる。これで内臓に空気が入り、逃げられる心配はなくなった。
ぱくぱくと空を噛むイワナは、いかつい貌の尺超えだ。よっしゃ、と心の中で笑い、にとりはザブザブと川から上がった。
先ほどきゅうりを漬けていた生簀にイワナを放ると、イワナは驚いた顔つきで荒い息をついた。
ザックの中には塩もマッチもあるし、燃料である薪には困らない。再び川に潜って尺に足らない一匹を仕留めて、にとりは再び片づけを再開した。
きゅうりを齧りながら、枯葉の山を押し分ける。干上がった頭を水に突っ込ませつつ、横たわった丸太を移動させる。
何時間経っただろう。かがめていた腰を伸ばしながら、にとりは川原を見渡した。
自分が動き回っていた一角だけ綺麗にゴミが片付いていたものの、他はまだまだだ。思っていたほど、仕事ははかどっていない。きゅうりもすでに四本を平らげてしまったし、生簀には十に近いイワナがうじゃうじゃ蠢いている。
それなのに、悲しいかな小柄なにとりではこの程度の作業効率が限界だった。
思わず、まだ片付けていない流木に腰掛けてため息を吐いた。
これじゃ何時間、いや何週間コースだ。鬼や天狗に頼み込めば三十分と掛からないだろうが、そうなるとここが秘密でなくなってしまう。ここだけは宴会場にしたくなかった。
仕方ない、もういっちょ頑張ってみるか……。
にとりが腰を上げたとき、ふと人の気配を感じて、にとりはそちらを見た。
「食うなっ!」
口をついて、そんな声が出た。いつの間に来たのか、川のほとりにしゃがみこんで生簀を覗いていたのは、かすりの着物を着た二人の子どもだった。
イガグリ頭とおかっぱ頭。どう見てもにとり以下の身長しかない二人は、にとりの大声にぎょっと手を止めた。
ひとり二つ、二人合わせて四つの眼に見つめられて、にとりは今更ながらに人見知りの癖を思い出して口を噤んでしまった。
何分経っただろう。ちら、とにとりは帽子の隙間から生簀の方を見てみた。
かすりの子供たちは、まだいる。相変わらず、鳩が豆鉄砲喰らったような顔をして、ちんとつっ立っている。
これは何か言わなければならない。にとりはどうにか口を動かして、「お、おぅ」とよくわからない一声を発した。
「そ、それは私の昼ご飯なんだよ。食ったらダメだって、食ったら……」
どうにかそれだけ搾り出して、にとりは二人が反応してくれるのを待った。
しばしの沈黙の後、先に口を開いたのは向こうだった。
「お姐ちゃん、川の片づけしてるのか?」
ん? とにとりが伏せていた顔を上げると、いつの間に移動したものか、二人が手を繋いでにとりの前に立っていた。にとりがお互いの顔に視線を往復させると、桜色のかすりを着た少女がにとりの足元を指差した。振り向くと、そこにはにとりが今まで片づけていた枯葉の山があった。
今、自分が何をしていたのか訊かれたらしい。にとりがあいまいに頷くと、ふむ、と二人は考え込む顔つきになった。
「河童の姐ちゃん、川、好きか?」
そう訊いたのはイガグリの方だ。河童にその質問はないだろうと思いつつ、「お、おう。好きだよ」と頷くと、再び二人は少し考え込む顔つきになった。
「おいらたち、手伝っちゃろうか?」
思わずにとりが二人の顔を見ると、ふたりは真剣な眼をこちらに向けてきている。
「て、手伝う?」
「そう。ひとりじゃ辛いじゃろう?」
降って沸いたような二人の存在といい、今の提案といい、正直面食らったという方が正しかった。ちょっとの間悩んでから、にとりは腕組みして尋ね返した。
「まぁそりゃありがたいけど……結構キツいよ? 夜までかかるかも知れないし。母ちゃんに怒られないかい」
二人は顔を見合わせた。ただじっとお互いの顔を見つめあった後、「だい、じょう……ぶ?」と首を傾げてしまった。
なんだろう、この妙な子どもたちは。形格好は見慣れた人間の子どもたちだが、ふたりともどことなく垢抜けない雰囲気がある。いかな妖怪とはいえ、人間の盟友である河童がそんな拭いがたい違和感まで感じないわけではない。大体、ここは妖怪の山の奥深く、人間にとっては異界そのものだ。こんなところに人間がおいそれと来れるはずがない。
にとりは「うーむ」と呻りながら二人の足元を盗み見た。山を越えてこなければここにはたどり着けない筈なのに、わらじを履いた二人の足はどこも汚れていない。なるほど、そういうことか。にとりは仏頂面で悩むフリをしながら、内心で笑った。
「よしわかった。じゃあこうしようじゃないか」
にとりは腕組みしていた手を解いて、二人に言った。
「あんたたちの労働力は私が買ってやる。デカくてよく肥えたイワナ一匹ずつにきゅうり食い放題。それでどうだ?」
二人は嬉しそうに頷いた。
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「おーし、昼飯にしよう」
にとりが手を挙げると、太い丸太に組み付いて引きずっていた二人が顔を上げた。
笹の上には青いイワナが数匹、串を打たれて並べられている。それを焚き火の周りに串を刺すと、子どもたちが駆け寄ってきた。
「おうおう、まだまだ手は出すなよ。一番うまいのを食わせてやるからさ」
子どもたちは火の側にしゃがみこみ、何がそんなに嬉しいのかニコニコと焼けていくイワナを見ている。にとりはその様がおかしくてたまらず、ともすれば噴き出してしまいそうなのをきゅうりを齧って押しとどめた。
じわじわと、脂の弾けるいい匂いがしてきた。「よっしゃ、食べごろだな」とイワナ串を手渡すと、二人はわぁーと声を上げてそれを受け取った。
「はらわたは取ってある。骨に気をつけて、よく噛んで食べなよ」
うん! と頷いた二人は、背びれを取るのもそこそこにイワナの背にかぶりついた。
よっぽど腹が減っていたのか、まるで弾ける様な笑顔でイワナを食べている。にとりはまだイワナには手をつけず、もくもくときゅうりを齧ってその様を見ていた。
あれから半日ほど経ったが、二人は思いのほかよく働いてくれていた。子どものこと、少しのサボリは覚悟していたのだが、にとりの心配を派手に裏切って二人は黙々と流木を引きずり、枯葉やゴミをせっせと除ける。おかげでゴミの山だった川原も三分の二ほどが綺麗になり、徐々に元の川原の姿を取り戻しつつあった。
まったくよく働くよ。大人でさえ頑張らないのが普通の幻想郷なのに、子どもはどうしてこんなに真面目なんだろうな……。
にとりが妙な感心を覚えていると、にとりの視線に気が付いた二人が眼だけでこちらを見た。慌ててにとりは別の話題を口にする。
「お前たち、この間の嵐は大丈夫だったかい? 酷い風と雨だったろ?」
しばらくもぐもぐとしていたおかっぱの少女が言う。
「嵐、酷かったよ。山も川もあちこち壊れた。イタチもヤマセミも困ってるみたい」
「ほほぉ、ヤマセミならさっき見たけどな。全く災難だよなぁあいつらも。エサ場を荒らされちゃって……」
「あちこちで山が崩れて、いろんな生き物が家を壊された。人里もめちゃめちゃだよ」
「そうらしいね。お前らの家は大丈夫だったのかい?」
「うちは大丈夫だと思う。母ちゃんが大丈夫だって」
その一言に、にとりは少し想像してみた。暗い穴の底で尻尾を丸めて雨風をやり過ごす母狸と、その尻尾にしがみつきながら震える二匹の子狸たち。なんともいじらしいではないか。この数日、土砂崩れや地すべりが頻発して、とても生きた心地がしなかったに違いない。雨が上がったとたん、忘れていた空腹を思い出したとしても仕方がないだろう。
そんなことを黙々と考えていると、「なぁ姐ちゃん」と声をかけられた。そちらを向くと、あらかた骨になりつつあるイワナをしゃぶりながらイガグリの方が訊く。
「姐ちゃん、なんで川の片づけなんかしてるんだ?」
「え? あぁ……なんでだろうね。私にもよくわからないや」
「わからないのに片づけしてるのか? 変なの」
「変じゃない。まぁちょっとは変だけどさ」にとりが苦笑すると、子どもたちは「やっぱり妖怪って変だな」とくすくす笑った。
「笑うなったら。……まぁ強いて言えば、直そうとすれば直るからな、なんだって」
「直す?」
「そう。私は機械弄りが好きなんだよ。だから川でもなんでも、自分の手で直せるものは直していきたいと思ってるのさ」
ふーん、と、イガグリ頭がよくわからなそうに呻って言った。「何でも直るのかぁ」。
「直るさ。直そうと思えば、だけどな」
「じゃあお姐ちゃんは川を直そうとしてるの?」おかっぱの少女が訊く。にとりは短くなったきゅうりを全部口に押し込んでから、ニッと笑った。
「おう、そうだよ。川、好きだからね。河童だし」
「川好きなのか?」
「そう言ったろう」
「おいらも川、好きだ」
イガグリが味噌っ歯をむき出しにしてニカッと笑った。あまりのだらしない笑顔ににとりが苦笑いすると、おかっぱの少女も笑った。
「おいらたちも直らないかなぁ」
ぽつり、という感じで、イガグリが言った。にとりがイガグリを見ると、イガグリは口の周りを汚したまま、ぼーっと川のせせらぎを見ている。
「なんだ? 直したいものでもあるのか?」
にとりが尋ねると、イガグリはこっくりと頷いた。それ以上口を開く様子もないので、にとりは先を促して見せた。
「そんなに大事なものを壊しちゃったのかい?」
イガグリの代わりに、おかっぱの少女が頷く。
「おいらたち、もうちょっと遊びたかったなぁ」
ぽつり、という感じで、イガグリが呟いた。それから、しゅん、と音が聞こえそうな勢いで、イガグリだけでなくおかっぱの少女まで顔を伏せてしまった。にとりは少々慌てて「まぁそう気、落とすなよ」と精一杯明るい声を出した。
「私だったら、たまにここに来るからさ。妖怪の山の入り口にいる哨戒天狗は知ってるだろ? あいつに言えば、いつでも私が直してやるよ」
そう言っても、二人の表情は優れない。相変わらず、うーん、とか、むう、と呻いている。
にとりは努めて明るい声を出して、イガグリ頭を乱暴に撫でた。
「心配するなよ。私がちゃーんと直してやるって」
「本当?」
「あぁ、本当だとも。私に直せないものなんか、あんまりないんだぜ。そのときはイワナも食わせてあげる。だから、な? 元気出せよ」
そこまで言うと、やっと二人の顔が笑顔になった。やれやれ、何があったのかは知らないが、根っこはまだ子どもだ。どんなに不貞腐れていても、やりようはあるのだ。
と、そうだ。最低限これだけは言っておかなければなるまい。
「ただし、そのときはちゃんと人間の形してきなよ。元の姿のままじゃ味噌汁にされちゃうんだからな」
にとりがそう言った途端、二人はぽかんとした表情を浮かべた。
「姐ちゃん、何言ってるんだ?」
「え? だってほら、旨そうじゃないか。傍から見たらお前たちは足がついた肉みたいなもんだよ」
「お姐ちゃん、うちら喰われてしまうの?」おかっぱの少女がにわかに怯えた表情になる。にとりは慌てて両手を振って否定した。
「安心しなって、私は喰わないよ。ただ、人間には気をつけな。奴らに出会ったら逃げるこった。奴らはあんたたちにとって怖い生き物なんだからさ」
その言葉に、二人はしばらく顔を見合わせていたが、しばらくして「姐ちゃんってやっぱり変だな」と笑った。
△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲△▲
三人で力を合わせ、最後の丸太を川岸の奥へ押し込んだ。ズシンという重苦しい音と共に丸太が倒れると、にとりは額に浮き出た汗を拭った。
「よっしゃ、終わった……!」
あらかた日が傾きかけた頃、やっと片づけが終わった。子どもたちがわぁーと声を上げる。
一日仕事になったが、川は見違えるように綺麗になった。流木はすっかり取り除かれ、あちこちに溜まったゴミも気にならない程度になった。すっかり元の姿を取り戻した川原にへたり込むと、二人も真似するようにして川原へ座り込んだ。
にとりは荒い息をつきながらも、手を繋いで喜んでいる子どもたちに笑いかけ、軍手を取って乱暴に頭を撫でてやった。
「姐ちゃん、川綺麗になったねぇ」
「やっぱり姐ちゃんは凄いや。河童は機械だけじゃなくて、川だって直せるんだな」
「あぁ、あんたたちのおかげだよ。本当にありがとうな」
「いいってことよ」イガグリの方がどんと胸を拳で叩いた。その表情には疲れが滲んでいたが、一仕事やりきった男の顔になっている。
こいつ、にわかに頼もしくなったな。そう思っておかっぱの少女を見ると、少女のはにかんだ表情も少し成長して、年頃の娘のように凛々しくなっているように見えた。
ふと、にとりは木立の間に覗く空を見上げた。もう日はすっかり暮れてしまっている。もうすぐ、蒸し暑い夏の夜の帳が下りてくる。そろそろ帰してやらねば、この子たちの母親が心配するだろう。
そろそろ、答え合わせをするか。にとりは内心ニヤニヤしながら、子どもたちに言った。
「はい、今日は本当にご苦労さん。それでお前たち、どうするんだい。巣まで送っていこうか? それとも母さん狸が迎えに来るのかい?」
にとりが言うと、二人は顔を見合わせてから「本当に姐ちゃんって変な奴だな」と笑った。
「ほほう、そうかい。じゃあ母さん狐だな。悪い悪い」
「狐さんじゃないよ」
「うーん……じゃあネコ、あ、もしかしてムジナか?」
「本当に姐ちゃんっておかしな河童だな。河童の中でも一番変だ」
イガグリのその一言に、にとりは首をかしげた。
「うちらが帰るのは巣じゃなくておうちだよ。うちらは狸さんじゃないんだからさ」
おかっぱの少女の一言に、にとりは眉をひそめた。なんだって? こいつら、人間に化けてイワナにちょっかい出しに来たんじゃないのか。
にとりが何か口を開こうとした瞬間、不意におかっぱの少女が後ろを振り返った。
「あ、お迎いが来たよ」
にとりが少女の言った方向を見ても、何もいなかった。ただ暗いだけの、ブナの林があるだけだった。
あぁそうか、母狸は下草の中にいるのか……そう思って眼を凝らしてみても、そこにはやはり何もいない。
そう言えば目の前の暗がりからは、獣の匂いも気配すらも感じられなかった。河童とはいえ妖怪の端くれだ。何かが近づいてくれば、こいつらと同じぐらいのタイミングで気がつくはずだった。
どういうことだ? にとりが首を傾げようとしたのと同時に、イガグリが立ち上がってぺこんと頭を下げた。
「じゃあ姐ちゃん、おいらたち、そろそろ帰るよ。イワナおいしかった。ありがとう」
イガグリが言うと、おかっぱの少女が寂しそうに言った。
「ねぇ、河童のお姐ちゃん。うちの母ちゃんに、もううちらとは会えないよって言ってくれる?」
「えっ?」
その一言ににとりが面食らっていると、イガグリが顔を伏せるようにして言った。
「姐ちゃん、姐ちゃんは何でも直そうと思えば直るって言ったけど、おいらたちはたぶんもう直らないよ。直せないものを、壊しちゃったんだ。だから、もう会えないんだ。だから、もう帰らなきゃ」
いつになく歯切れ悪い言葉で言ってから、イガグリはおかっぱの少女の手をとった。
手を繋いだ二人が、泣き笑いのような表情を浮かべてにとりを見る。
「おいらたち、もう帰るよ。さようなら、河童のお姐ちゃん」
目の前で、二人がくるりとにとりに背を向けた。そっちはダメだ、夜の妖怪の山は子どもが降りるには危険すぎる。
にとりが慌てて引きとめようとした、そのときだった。
「にとりっ!」
突然、空から大声が降ってきて、にとりは腰を抜かさんばかりに驚いた。
見ると、上から降りてきた姿に見覚えがあった。将棋友達の哨戒天狗、犬走椛の小柄が黄昏の空から降ってくる。
「なっ、なんだ、椛か……びっくりさせるなよぅ」
「驚いたのはこっちだよ。にとり、こんなところで何してるんだ?」
「いや、ちょっとあいつらとさ……」
そう言いながら、にとりは目の前に視線を移した。子どもたちの影が、目の前から掻き消えていた。
そんな馬鹿な。にとりがぎょっと眼を見開くと、「あいつら?」という椛の声が横からして、にとりは「い、いや、なんでもない」と首を振った。
「それより、どうしたい。もう哨戒のシフトも終わりだろ。何か捜しものでもしてるのかい?」
ほんの冗談で言ったつもりだったが、どういうわけか椛は顔を曇らせ「それが……」と呟いた。
「さっき博麗の巫女と守矢の神様から頼まれてね。どうも人里で、人間の子どもが二人、行方不明になってるんだ」
どきりと、心臓が鷲づかみにされたように収縮した。
椛は苦々しげに続けた。
「文様がさ、あちこち嵐の被害を取材して回ってるうちにわかったんだよ。その子どもたちを最後に見たって人間の話によると、どうもそいつら、蛍を見に妖怪の山に行ったんじゃないかって……」
椛はそこでおもむろに言葉を一旦切った。
「いなくなったのは昨日の夕方。ウチの山のことだし、守矢の神様と博麗の巫女からの頼みだから、天狗も人間も総出で山を探し回ってる。けど、どうせわかりゃしないよ。あれだけの大水が出たんだ。もう日が暮れるし、浮き上がるのを待つしかないって、みんなそう言ってる」
絶句したままのにとりを、椛はちらと横目で見た。
「にとり。悪いことは言わないから、今日はもう帰ったほうがいい。仲間の眼もあるだろう?」
そう言うと、椛はさっさと空を飛んでいってしまった。
暗がりにぽつねんと取り残されたにとりは、どこかへ歩き出そうとして、そのまま躓いて川原に倒れこんだ。
嫌な衝撃が膝小僧に走った。痛くなかった。日中、日に灼かれた川石が、まだほのかに熱かった。
『おいらたちも直るかなぁ』
今頃になって、イガグリの言葉の意味が身に染みた。
自分へのどうしようもない黒い怒りが、胃の腑を焼き焦がした。
にとりは川原の砂を掴み、血が出るほど強く握り締めた。
夜の沢には、水音だけが奇妙に静かに響き渡っていた。
何時間そうしていただろう。ふとにとりは上半身を起こした。
どこが痛むかもわからない両手を無理やり動かして、暗い中を這い進んで水辺まで来る。
川石で作った生簀に近寄ると、ぱちゃっと水がはじける音がした。午前中に獲ったイワナが、まだ数匹生簀に残っていた。
にとりは川石をひとつ、ふたつどけて、流れにイワナを帰してやった。
イワナたちはしばらく面食らったように尾びれを震わせていたが、すぐに力を取り戻す。
ぱちゃっ、と、イワナが尾びれで水を叩いた。
その音を最後に、イワナたちは静々と流れに帰っていった。
ふいに、視界の端を緑色の光が横切っていった。
にとりが顔を上げると、闇夜が一面、おびただしい数の蛍に彩られていた。
あの嵐の中、よくぞこれほど生き残ったものだと思うほどの量だった。
緑の光の粒たちは、木の枝に留まったり、谷川に吹き込む風に流されたり、あるいは寄り添ったりしながら、ふわふわと闇夜を漂っている。
まるで宇宙船の中のようだった。その光はぼんやりとした緑色の光を燈しながら、不思議な軌道を描いて飛んでゆく。
それは厳かで、幻想的な光の饗宴だった。
ふと、右肩に蛍が二匹、留まった。
にとりが左手の人差し指を差し出すと、蛍は素直にその上に乗った。
触れれば壊れてしまいそうな、か弱い光だった。人差し指の上で、蛍は何か伝えるかのように明滅を繰り返している。
「おい、どうした。帰るんじゃなかったのか」
蛍は、何も答えない。何か答えたという、実感すらなかった。
ぎゅっと強く目を瞑り、ブラウスの袖で強く眼を拭う。ごしごしと、血が出るほど強く眼をこすってから、にとりは二匹の蛍に言った。
「もういい、もういいんだよ。今日はありがとうな、さようなら」
にとりがやさしく語りかけると、二匹の蛍はふわりとにとりの指を離れた。そして名残惜しそうににとりの頭の上を一回りした後、対岸の闇に消えていった。
幻想郷の常闇の中で、夏が更けていく。
淡い緑色の碧光に彩られ、川は静かにそこを流れていた。
了
あっしにはそれしか伝えられねぇ…
水は異界と関わりがあるそうですから、こういうこともあるのかもしれません。
今度行く予定の釣りが少々楽しみになってきた。
河童にでもあえるといいんですが。
ガキンチョの頃に山の近くに住んでたからなんとなくわかるな
一人で野山を探検してると、普段自分が暮らしてる町がほんとにこの世に存在してるのか、わからなくなるような辺鄙な場所に出くわして、急に怖くなって走って帰るときがあった
ああいう感覚が妖怪なんかの人外を想像・創造する原風景になったりするのかも知れない
碧光蛍~Missing Bug Light
ってな感じで
カブトムシやら蟹やら魚などを取りに行ったんですが、その時の鬱蒼とした景観を懐かしく思いました。描写がいいなぁ……。タイトル読んでるのに、二人の正体を狐狸の類と最後まで思ってました。きっとその分楽しめたと思う、な。
にとりが水に潜る描写もすごく良かった。素直に、おもしろかったです。
一つ誤字みつけたので報告をば。
>あの嵐の中、よくぞこれほど生き残ったものだと思うほどの了だった。
了→量