カランカラン……
やさしくお客を迎えるのは、カウベルの素朴な歌声。そのカウベルにひきつられるように私は声をかける。
「いらっしゃいませ」
静かに、一滴の雫が水面に落ちる波紋のように挨拶する。初めてのお客様には、木漏れ日のような笑顔を送りながら「こちらへ」と手を引くようにお迎えする。そうして、席に案内された方は、しどろもどろしながら店中をなめまわすように眺める。真っ赤なテーブルに深紅のランプ、血ぬりの薔薇にサファイアの花瓶。一切が戦慄するほどの紅色で染められた部屋。けれど、私はそんな一色で一色でないこの店内が好き。初めてのお客様には居心地はあまりよろしくないとは思いながら、きっと気にいる日が来ると信じて待っている。
お客様が落ち着くと、私は注文を伺う。
「食事に飲み物、お酒なんかも取りそろえておりますよ」
メニューになくても、出来る限りのものはおつくりいたしますよ、なんてことも言ってみたりする。それで裏メニューなんかも出来てしまうから、お客様も「さっきあの客が頼んだものと同じやつをお願いね」なんてことも少なくない。それだけ気にいってもらえると思うと、作っている価値があると思えて活力になる。たったそれだけなのに、とても気持ちがいいし、嬉しい。どんな小さなありがとうでも、ここで働いている私にとっては力の源にもなる。
「それじゃあ、アイスト・カフェ・キャラメルで」
「かしこまりました」
どうやらこのお客様は甘いものが好きみたい。苦めのアイスコーヒーに甘いキャラメルとクリームのトッピングが絶妙に組み合わされているこの飲み物は、苦いコーヒーは少し苦手だけれどコーヒーも飲みたいというお客様には割と人気のあるものである。
「あ、あと……クラブサンド、お願いしてもいい?」
頬を桜色に染めながら、彼女はカウンターの向こうにいる真っ白なエプロンに白のフリルを纏ったカチューシャをしている女性に注文を出した。
「もちろん」
可愛い子だな、初めにそう思った。
その行動は小動物のような、例えば猫が甘える風だった。そして、その顔の双眸は海の深い青をはめ込んだようで、その瞳はかすかに濡れていた。
「お客様、こういうところに来るのは初めてで?」
華奢そうな肩がむずがゆそうに震えた。初めての人というのはやっぱり分かりやすい。喫茶店であるからリラックスできるかと言えばそんなことはない。喫茶店とか、個人経営のお店は、入りにくい空気というものが少なからずある。ドアの前で断念したくなる人もいる。けれど、最初を踏み出せば、二回目は足が進む。通って行くうちにそのお店の人とも仲良くなり、常連客とも仲が良くなる。ピースがはめられたりとれたりするような、一種の社会のようなものになる。
「初めてよ。普段はお家で入れたりしてるんだけれど、違うものが飲んでみたくなってね。普段はコーヒーじゃなくて紅茶だし」
ちなみに紅茶はダージリンが好きよ、と彼女は言葉の最後に付け足した。
「後『お客様』なんて呼ばれ方いやだから、名前で呼んでくださいな」
確かに他人行儀くさい。分かってはいても、職業柄こういってしまう。何よりお客様を気遣うのもこちらの仕事であるから。けれど、お客様がそういうなら、私はお客様が望むようにしよう。
「わかりました。それでは、お名前は?」
一息置いて、口が動く。
「アリス。貴女は?」
アイスコーヒーを作る手が止まる。
「私は咲夜。十六夜咲夜」
名前を告げると、クラッシュドアイスの入った牛乳にガムシロップを少量加え、その中にゆっくりと深いりのアイスコーヒーを注いでいく。そうすると奇麗な層が出来上がる。その上に、少し固めのホイップクリームを乗せ、網目状にキャラメルソースをかける。
「どうぞ、アイスト・カフェ・キャラメルです。こんなに奇麗な層に分かれるのよ」
優しく彼女の前に飲み物を置くと、不思議そうにそれをのぞきこんでいる。私も初めは目を丸くして驚たし、安定して奇麗な層を作れるようにも練習した。そんな練習を何回も繰り返して出来るようになった。簡単に出来そうで難しい。そこにコーヒーの奥深さがあるような気がする。コーヒーの入れ方によっても、コーヒーの味は変わってしまうし、使う水や道具によっても味が変わるという難しさがあって、なお且つ面白さがある。
「すごいわ! 何か飲むのが勿体ない気がするもの。一種の芸術品」
アリスの目が輝いている。そのグラスを自分の目の高さに持ってきて層の具合を確認している姿は、公園の砂場で大きなお城を初めて作ったときのようなだった。その後に、ゆっくりとカウンターの上に飲み物を置くと肩を縮めた。
「ご、ごめんなさい。こんなの見るの初めてで」
「いいえ。楽しんでもらえてよかったわ。私も練習した甲斐があったと思いますもの」
アリスは口元を柔らかく抑えて、小さくほほ笑んだ。私もその笑顔に答えるように自然と笑みが出る。
「……わいい」
「何か言いました?」
寝ているのを無理やり起されたようだった。
「な、なにもないですよ」
「貴女、おかしいわ」
ふふふ、なんて笑ってみせるアリスに私は不思議に惹かれた。私はなんてことをしているのかと自分に言い聞かせる。他にやることがあるだろう、と頭の中でゆっくりと繰り返した。
「そ、そうですか? あ、早くクラブサンド作りますね」
慌ただしくパンを切り始める。自分で自分をごまかすように。
「ゆ、ゆっくり作ってね? 包丁危ないから」
目の前で太陽のように燦々としている彼女を私は見ることができなかった。洞窟から出てきて、目が慣れていない時のようだった。
それからアリスは何度も私の喫茶店に訪れては、コーヒーの話や紅茶の話、自分の家の周りに咲く花なんかの話もしてくれた。私もそんなことがただ楽しくて楽しくて仕方なかった。私にとって、アリスという存在は短時間で私の心を占領していった。どんどん空気を入れられて膨らんでいく風船のように、その気持ちは大きくなっていった。
「咲夜、貴女最近おかしいわね。どうかしたの?」
「え、あ、いえ、なにもありませんよ」
「そういうのがおかしいっていうの、分かる?」
砂糖多めのカフェ・オ・レを飲みながら、レミリア・スカーレットはズバリと指摘する。鋭い眼球には灼熱の炎を宿して、その瞳に覗かれれば誰もがたじろぐ程。十六夜咲夜も例外ではない。
「いやでも、何がおかしいかわかりませんし……わかりませんわ」
チキンライスに、ふわふわな卵を乗せ終わるのと一緒にその言葉が終わった。包丁で縦に切り込みを入れると、その中から半熟卵が溢れだしてくる。おいしそうな匂いも立ち込めて食欲をそそる。
「特製オムライスですわ、お嬢様」
カウンターに置くと待ちくたびれたというようにスプーンを片手に持ち、お皿を引き寄せてほおばり始める。この時のレミリアにはもちろん純白の前掛けを用意している。
「ふむ。オムライスは相変わらずおいしいわね。けれど、足りないものがあるわ……」
意味深にレミリアは言った。
咲夜はそのことがいったい何のことをいっているのか理解しがたかった。普段通りに作っているはずのものに何が抜けているというのだろうか。
「そうね……愛が足りないわ」
「あ、愛……?」
「心当たりはないのかしら? 私よりも愛情を注いでいる人は」
「そう言われても……愛情を注ぐというのがよくわかりませんし」
うーんと頭をひねってみても、私は心当たりがなかった。そもそも、愛情を注ぐという言い方が何かおかしい。言葉で表現するからどこか変に聞こえるのだろうか。知らない間にその人に尽くしているという風なものだと思う。けれど、お客様には精一杯を尽くして対応しているから、そんなことはないはずだ。
「まあでも、最近ふぬけというか、上の空が多い気がして心配なのよ」
「お嬢様、考えすぎだと思いますよ」
私は笑って答える。お嬢様の顔はやや曇り気味で、その表情だけでどれだけ私のことを心配してくれているかが分かるほどだった。普段冷たそうに見えるお嬢様だけれど、心配するときはうんと考えてくれる心の優しい方だと知っている。だから、あまり考えてほしくはなかった
「私は元気ですから、お気になさら……」
言葉をさえぎるようにカウベルが鳴る。お客さんが入ってきた。その人の髪は艶のある少々癖っ毛な金髪に、赤いヘッドドレスを身に着けていた。胸元にもヘッドドレスに近い、林檎色のリボンを身につけている。
「いらっしゃい、アリス! 暑かったでしょ。この場所、割と涼しいのよ」
アリスをこまねくように、咲夜はてをひらひらさせた。どんなお客様にも平等に振る舞う。知り合いならば多少は砕けたように付き合ってもよいだろうが、咲夜の様子を見るとどうだろう。少しばかり違うように見えてくる。
「こんにちは、咲夜。暑かったけど湖のほとりを歩いてきたからそうでもなかったわ」
アリスは、カウンターに着くと幾分の暑さに火照らされた赤い頬を嬉しそうに動かしながらしゃべっていた。
先ほどまで咲夜と話していたレミリアはふと思った。これかもしれない、と。
「アリス……咲夜が好きな相手……かしら」
確信は持てなかったが、こんなに楽しそうに話す咲夜をあまり見たことがなかった。いつも誰かに尽くすように仕事をし、お客であれば公平に扱っていたはずの彼女がこんなにもフレンドリーに話している。アリスとは、まるで友達のように話をしている。
レミリアは再び思考を始めた。今まで咲夜には友達というものがいただろうか。私と咲夜は主従関係であって友達という立場ではない。よって気づかいするのは彼女側であるし、私も自分の立場がはっきりとわかっている。しかし、アリスと咲夜の現在の関係はどうだろうか。お互いを同じ高さに見て、客という石垣を超えている。普段から学校で一緒にいるクラスメイトのようにも見える。霊夢でも魔理沙でもやはり何か違った。一線ひいて付きあっているのだろうか。どこか寂しそうな、つまらなそうなものを出していた。
「アリス、何飲む?」
桃色でぷっくりとして、あやしい光沢をもった唇はアリスに問いかける。軽快なステップを踏むダンサーのようでもあった。
「そうねえ、じゃあ、カフェ・ゴー・ゴーにしようかしら。こんなに暑いからアイスもコーヒーも味わいたくて」
面倒くさいの選んじゃってごめんね、なんて小さく囁くアリス。そこがまた可愛かった。人に気を使う。こっちはお仕事だし、おいしいものを飲ませてあげたり、食べさせてあげたりするのがお仕事だから気にする必要ないのに、とか思いながら、大丈夫よ、なんて言ってみたり。こんな小さなやり取りで、胸が温まる。夏の暑さとは違う、氷の心を弱火でいられて、水の滴るようだった。
「ちょっと時間かかるけれど、待っていてね。おいしいの入れるから」
日陰に咲く花のような笑顔をアリスに送る。
いくつか席を空けて座っているレミリアにとって、こんなに可愛くいきいきとしている咲夜を見たことがなかった。私に接するときの彼女は、義務であるかのような気さえしてきてしまう程だった。レミリアは、自分がまるで敗走兵のようであるな、と思いながらも咲夜に呼びかける。
「そろそろ戻るわ。ごちそうさま、咲夜。おいしかったわよ」
「もう戻られるんですか?」
クラッカーでも鳴らされたかのような顔をしながら咲夜は尋ねる。普段ならばもう少しいるはずであるし、懐から時計を出して確認しても時間に余裕があった。
「ええ、ちょっとやりたいことがあってね」
さびれた笑いをしながらレミリアは席を立つ。咲夜はどうしたのだろうかと頭を傾けながら、空しく響くカウベルを聞いていた。
「咲夜、あの人は?」
「私の主人よ。本当は私メイドなのだけれど、紅魔館をもう少し近寄りやすくするためにこの喫茶店を開こうってなったの。雰囲気が怖いじゃない? それを少しでも和らげようと思ってやっているの」
「へえ……私はここの雰囲気好きだわ。最初は怖かったけど、隅々の装飾にはこだわっているし、いつも清潔で居心地いいもの。なにより、咲夜がいるしね」
「ん……?」
咲夜はアリスを見た。その視線に気づいたアリスは、不思議そうに咲夜を見返した。気付いていない。気付かないくらいアリスにとって当たり前になっている。
「貴女、私がいるから来てるって……言わなかったかしら?」
おずおずと聞き返す咲夜の目は、ほのかに赤い光で照らされて淡く輝いてた。目から少しばかり下がっていくと、湿って光沢のある唇の両側はほんのりと紅色だった。飲み物を入れる手はその場に釘付けされて、気付かないアリスを一心に見つめていた。
アリスは思い返す。何気なく咲夜に向けた言葉を掘り返す。この店に入ってからをひたすら振り返った。埋もれた言葉をひっかきまわして、その中で光り輝いて見えるはずの言葉を必死に探した。確かに埋まっていた。金銀に輝く財宝と同じように眩しかった。
「いったわ……」
アリスは熱射病になったかのように熱くなった。体中から湯気でも出ているのではないかと思えるほどだった。心臓がバチでたたかれるように、どんどんと音を鳴らしながら私を苦しめた。呼吸さえ辛い。こうやって咲夜の前に座っているのさえ苦痛だった。彼女の顔を見ることができずに俯いていた。
「私も貴女が来てくれるのを楽しみにしてるの。アリスと一緒にしゃべってると心に余裕ができるっていうか、うまく説明できないわ。穏やかになるっていうのかしらね」
金髪の髪の毛を蓄えた頭がゆっくりと上がる。自分よりも高い位置にいる咲夜の顔がはっきりと見える。チークを塗ったように赤くなっている顔はいつもよりも奇麗で、うっとりしてしまう程だった。
「私も、咲夜とお話ししていてすごく楽しい。今まで家で一人紅茶飲んだりしていたの。でも、ここにきて貴女と知り合って本当に嬉しくって……本当は毎日行きたい位。でも、あんまり顔を出しちゃうと迷惑だろうし……お仕事だからって思ってたの」
泣きそうになりながらアリスは話す。目じりには銀色に輝く水を溜めて、頬は紅葉していた。そこにいるアリスに手を伸ばせば、このカウンターの向こうに届くはずなのにどうしても不安になった。今彼女の頭を優しくなでてあげるだけで、それだけでいいはずなのに戸惑った。アリスは客なのか、友達なのかということが頭をさえぎった。私にとってのアリスはどうだろう。心が葛藤する。けれど、こうやって考えている時点で分かっている。私のとるべき道は決まっていた。
「ほら、そんな悲しい顔しないの。貴女のそんな顔見たくないわ。貴女はいつも笑っていて、すぐに恥ずかしがる可愛い子。だから、いつもみたいに笑って。貴女が楽しそうにしているの見ているのがすごく好きだから」
金色の柔らかな髪をそっとさする。さわり心地の良い手入れの行きとどいている髪に、いつまでも触っていた。何より、アリスに触れているということが安心だった。私と客の関係ならば、こんなことはできない。体に触れるなんてことはたやすくない。けれど、友達という間柄ならばこういうこともしてあげられる。このカウンターの向こうは、もっと楽しいことがあると思う。そう思える。
「咲夜……ありがとう」
「気にしないの。ほら、すぐコーヒー入れるから、飲んで落ち着きなさい」
私は作りかけの飲み物を作り直して、彼女のカウンターに置いた。その向こう側にはアリスがいて、アリスにとって向こう側にいるのは私だった。たった一線を隔てているだけの関係が、今は違った。ほんのりと温かい、けれどもやもやとした霧ではなかった。
「これ、程良いアイスの甘さにコーヒーの苦さがすごくおいしい。いつまでも冷たく飲めるって、やっぱりいいわね」
ストローに少し唇をあてて、ゆっくりとコーヒーを吸い上げるアリス。その顔が、私の目には野に咲く一輪の花のようにも映っていた。その姿が愛おしくて、向かい側にいるのが寂しくさえ感じられた。もし、私がその隣に咲けたら、そんなことさえ考えてしまう程だった。
「ねえ咲夜、どうしたの?」
「あ、いや……貴女が可愛かったから、つい」
「そんなお世辞はいらないわ。そうだ、今度はカウンター越しじゃなくて、隣に座って一緒に飲みましょう。ね?」
「そうね」
それは、コーヒーの上に浮いているアイスの様に甘いものでもあるし、コーヒーが苦いようでもあった。
私は自分の分のコーヒーを入れることにする。勿論、甘くて苦い、彼女と同じものを。
やさしくお客を迎えるのは、カウベルの素朴な歌声。そのカウベルにひきつられるように私は声をかける。
「いらっしゃいませ」
静かに、一滴の雫が水面に落ちる波紋のように挨拶する。初めてのお客様には、木漏れ日のような笑顔を送りながら「こちらへ」と手を引くようにお迎えする。そうして、席に案内された方は、しどろもどろしながら店中をなめまわすように眺める。真っ赤なテーブルに深紅のランプ、血ぬりの薔薇にサファイアの花瓶。一切が戦慄するほどの紅色で染められた部屋。けれど、私はそんな一色で一色でないこの店内が好き。初めてのお客様には居心地はあまりよろしくないとは思いながら、きっと気にいる日が来ると信じて待っている。
お客様が落ち着くと、私は注文を伺う。
「食事に飲み物、お酒なんかも取りそろえておりますよ」
メニューになくても、出来る限りのものはおつくりいたしますよ、なんてことも言ってみたりする。それで裏メニューなんかも出来てしまうから、お客様も「さっきあの客が頼んだものと同じやつをお願いね」なんてことも少なくない。それだけ気にいってもらえると思うと、作っている価値があると思えて活力になる。たったそれだけなのに、とても気持ちがいいし、嬉しい。どんな小さなありがとうでも、ここで働いている私にとっては力の源にもなる。
「それじゃあ、アイスト・カフェ・キャラメルで」
「かしこまりました」
どうやらこのお客様は甘いものが好きみたい。苦めのアイスコーヒーに甘いキャラメルとクリームのトッピングが絶妙に組み合わされているこの飲み物は、苦いコーヒーは少し苦手だけれどコーヒーも飲みたいというお客様には割と人気のあるものである。
「あ、あと……クラブサンド、お願いしてもいい?」
頬を桜色に染めながら、彼女はカウンターの向こうにいる真っ白なエプロンに白のフリルを纏ったカチューシャをしている女性に注文を出した。
「もちろん」
可愛い子だな、初めにそう思った。
その行動は小動物のような、例えば猫が甘える風だった。そして、その顔の双眸は海の深い青をはめ込んだようで、その瞳はかすかに濡れていた。
「お客様、こういうところに来るのは初めてで?」
華奢そうな肩がむずがゆそうに震えた。初めての人というのはやっぱり分かりやすい。喫茶店であるからリラックスできるかと言えばそんなことはない。喫茶店とか、個人経営のお店は、入りにくい空気というものが少なからずある。ドアの前で断念したくなる人もいる。けれど、最初を踏み出せば、二回目は足が進む。通って行くうちにそのお店の人とも仲良くなり、常連客とも仲が良くなる。ピースがはめられたりとれたりするような、一種の社会のようなものになる。
「初めてよ。普段はお家で入れたりしてるんだけれど、違うものが飲んでみたくなってね。普段はコーヒーじゃなくて紅茶だし」
ちなみに紅茶はダージリンが好きよ、と彼女は言葉の最後に付け足した。
「後『お客様』なんて呼ばれ方いやだから、名前で呼んでくださいな」
確かに他人行儀くさい。分かってはいても、職業柄こういってしまう。何よりお客様を気遣うのもこちらの仕事であるから。けれど、お客様がそういうなら、私はお客様が望むようにしよう。
「わかりました。それでは、お名前は?」
一息置いて、口が動く。
「アリス。貴女は?」
アイスコーヒーを作る手が止まる。
「私は咲夜。十六夜咲夜」
名前を告げると、クラッシュドアイスの入った牛乳にガムシロップを少量加え、その中にゆっくりと深いりのアイスコーヒーを注いでいく。そうすると奇麗な層が出来上がる。その上に、少し固めのホイップクリームを乗せ、網目状にキャラメルソースをかける。
「どうぞ、アイスト・カフェ・キャラメルです。こんなに奇麗な層に分かれるのよ」
優しく彼女の前に飲み物を置くと、不思議そうにそれをのぞきこんでいる。私も初めは目を丸くして驚たし、安定して奇麗な層を作れるようにも練習した。そんな練習を何回も繰り返して出来るようになった。簡単に出来そうで難しい。そこにコーヒーの奥深さがあるような気がする。コーヒーの入れ方によっても、コーヒーの味は変わってしまうし、使う水や道具によっても味が変わるという難しさがあって、なお且つ面白さがある。
「すごいわ! 何か飲むのが勿体ない気がするもの。一種の芸術品」
アリスの目が輝いている。そのグラスを自分の目の高さに持ってきて層の具合を確認している姿は、公園の砂場で大きなお城を初めて作ったときのようなだった。その後に、ゆっくりとカウンターの上に飲み物を置くと肩を縮めた。
「ご、ごめんなさい。こんなの見るの初めてで」
「いいえ。楽しんでもらえてよかったわ。私も練習した甲斐があったと思いますもの」
アリスは口元を柔らかく抑えて、小さくほほ笑んだ。私もその笑顔に答えるように自然と笑みが出る。
「……わいい」
「何か言いました?」
寝ているのを無理やり起されたようだった。
「な、なにもないですよ」
「貴女、おかしいわ」
ふふふ、なんて笑ってみせるアリスに私は不思議に惹かれた。私はなんてことをしているのかと自分に言い聞かせる。他にやることがあるだろう、と頭の中でゆっくりと繰り返した。
「そ、そうですか? あ、早くクラブサンド作りますね」
慌ただしくパンを切り始める。自分で自分をごまかすように。
「ゆ、ゆっくり作ってね? 包丁危ないから」
目の前で太陽のように燦々としている彼女を私は見ることができなかった。洞窟から出てきて、目が慣れていない時のようだった。
それからアリスは何度も私の喫茶店に訪れては、コーヒーの話や紅茶の話、自分の家の周りに咲く花なんかの話もしてくれた。私もそんなことがただ楽しくて楽しくて仕方なかった。私にとって、アリスという存在は短時間で私の心を占領していった。どんどん空気を入れられて膨らんでいく風船のように、その気持ちは大きくなっていった。
「咲夜、貴女最近おかしいわね。どうかしたの?」
「え、あ、いえ、なにもありませんよ」
「そういうのがおかしいっていうの、分かる?」
砂糖多めのカフェ・オ・レを飲みながら、レミリア・スカーレットはズバリと指摘する。鋭い眼球には灼熱の炎を宿して、その瞳に覗かれれば誰もがたじろぐ程。十六夜咲夜も例外ではない。
「いやでも、何がおかしいかわかりませんし……わかりませんわ」
チキンライスに、ふわふわな卵を乗せ終わるのと一緒にその言葉が終わった。包丁で縦に切り込みを入れると、その中から半熟卵が溢れだしてくる。おいしそうな匂いも立ち込めて食欲をそそる。
「特製オムライスですわ、お嬢様」
カウンターに置くと待ちくたびれたというようにスプーンを片手に持ち、お皿を引き寄せてほおばり始める。この時のレミリアにはもちろん純白の前掛けを用意している。
「ふむ。オムライスは相変わらずおいしいわね。けれど、足りないものがあるわ……」
意味深にレミリアは言った。
咲夜はそのことがいったい何のことをいっているのか理解しがたかった。普段通りに作っているはずのものに何が抜けているというのだろうか。
「そうね……愛が足りないわ」
「あ、愛……?」
「心当たりはないのかしら? 私よりも愛情を注いでいる人は」
「そう言われても……愛情を注ぐというのがよくわかりませんし」
うーんと頭をひねってみても、私は心当たりがなかった。そもそも、愛情を注ぐという言い方が何かおかしい。言葉で表現するからどこか変に聞こえるのだろうか。知らない間にその人に尽くしているという風なものだと思う。けれど、お客様には精一杯を尽くして対応しているから、そんなことはないはずだ。
「まあでも、最近ふぬけというか、上の空が多い気がして心配なのよ」
「お嬢様、考えすぎだと思いますよ」
私は笑って答える。お嬢様の顔はやや曇り気味で、その表情だけでどれだけ私のことを心配してくれているかが分かるほどだった。普段冷たそうに見えるお嬢様だけれど、心配するときはうんと考えてくれる心の優しい方だと知っている。だから、あまり考えてほしくはなかった
「私は元気ですから、お気になさら……」
言葉をさえぎるようにカウベルが鳴る。お客さんが入ってきた。その人の髪は艶のある少々癖っ毛な金髪に、赤いヘッドドレスを身に着けていた。胸元にもヘッドドレスに近い、林檎色のリボンを身につけている。
「いらっしゃい、アリス! 暑かったでしょ。この場所、割と涼しいのよ」
アリスをこまねくように、咲夜はてをひらひらさせた。どんなお客様にも平等に振る舞う。知り合いならば多少は砕けたように付き合ってもよいだろうが、咲夜の様子を見るとどうだろう。少しばかり違うように見えてくる。
「こんにちは、咲夜。暑かったけど湖のほとりを歩いてきたからそうでもなかったわ」
アリスは、カウンターに着くと幾分の暑さに火照らされた赤い頬を嬉しそうに動かしながらしゃべっていた。
先ほどまで咲夜と話していたレミリアはふと思った。これかもしれない、と。
「アリス……咲夜が好きな相手……かしら」
確信は持てなかったが、こんなに楽しそうに話す咲夜をあまり見たことがなかった。いつも誰かに尽くすように仕事をし、お客であれば公平に扱っていたはずの彼女がこんなにもフレンドリーに話している。アリスとは、まるで友達のように話をしている。
レミリアは再び思考を始めた。今まで咲夜には友達というものがいただろうか。私と咲夜は主従関係であって友達という立場ではない。よって気づかいするのは彼女側であるし、私も自分の立場がはっきりとわかっている。しかし、アリスと咲夜の現在の関係はどうだろうか。お互いを同じ高さに見て、客という石垣を超えている。普段から学校で一緒にいるクラスメイトのようにも見える。霊夢でも魔理沙でもやはり何か違った。一線ひいて付きあっているのだろうか。どこか寂しそうな、つまらなそうなものを出していた。
「アリス、何飲む?」
桃色でぷっくりとして、あやしい光沢をもった唇はアリスに問いかける。軽快なステップを踏むダンサーのようでもあった。
「そうねえ、じゃあ、カフェ・ゴー・ゴーにしようかしら。こんなに暑いからアイスもコーヒーも味わいたくて」
面倒くさいの選んじゃってごめんね、なんて小さく囁くアリス。そこがまた可愛かった。人に気を使う。こっちはお仕事だし、おいしいものを飲ませてあげたり、食べさせてあげたりするのがお仕事だから気にする必要ないのに、とか思いながら、大丈夫よ、なんて言ってみたり。こんな小さなやり取りで、胸が温まる。夏の暑さとは違う、氷の心を弱火でいられて、水の滴るようだった。
「ちょっと時間かかるけれど、待っていてね。おいしいの入れるから」
日陰に咲く花のような笑顔をアリスに送る。
いくつか席を空けて座っているレミリアにとって、こんなに可愛くいきいきとしている咲夜を見たことがなかった。私に接するときの彼女は、義務であるかのような気さえしてきてしまう程だった。レミリアは、自分がまるで敗走兵のようであるな、と思いながらも咲夜に呼びかける。
「そろそろ戻るわ。ごちそうさま、咲夜。おいしかったわよ」
「もう戻られるんですか?」
クラッカーでも鳴らされたかのような顔をしながら咲夜は尋ねる。普段ならばもう少しいるはずであるし、懐から時計を出して確認しても時間に余裕があった。
「ええ、ちょっとやりたいことがあってね」
さびれた笑いをしながらレミリアは席を立つ。咲夜はどうしたのだろうかと頭を傾けながら、空しく響くカウベルを聞いていた。
「咲夜、あの人は?」
「私の主人よ。本当は私メイドなのだけれど、紅魔館をもう少し近寄りやすくするためにこの喫茶店を開こうってなったの。雰囲気が怖いじゃない? それを少しでも和らげようと思ってやっているの」
「へえ……私はここの雰囲気好きだわ。最初は怖かったけど、隅々の装飾にはこだわっているし、いつも清潔で居心地いいもの。なにより、咲夜がいるしね」
「ん……?」
咲夜はアリスを見た。その視線に気づいたアリスは、不思議そうに咲夜を見返した。気付いていない。気付かないくらいアリスにとって当たり前になっている。
「貴女、私がいるから来てるって……言わなかったかしら?」
おずおずと聞き返す咲夜の目は、ほのかに赤い光で照らされて淡く輝いてた。目から少しばかり下がっていくと、湿って光沢のある唇の両側はほんのりと紅色だった。飲み物を入れる手はその場に釘付けされて、気付かないアリスを一心に見つめていた。
アリスは思い返す。何気なく咲夜に向けた言葉を掘り返す。この店に入ってからをひたすら振り返った。埋もれた言葉をひっかきまわして、その中で光り輝いて見えるはずの言葉を必死に探した。確かに埋まっていた。金銀に輝く財宝と同じように眩しかった。
「いったわ……」
アリスは熱射病になったかのように熱くなった。体中から湯気でも出ているのではないかと思えるほどだった。心臓がバチでたたかれるように、どんどんと音を鳴らしながら私を苦しめた。呼吸さえ辛い。こうやって咲夜の前に座っているのさえ苦痛だった。彼女の顔を見ることができずに俯いていた。
「私も貴女が来てくれるのを楽しみにしてるの。アリスと一緒にしゃべってると心に余裕ができるっていうか、うまく説明できないわ。穏やかになるっていうのかしらね」
金髪の髪の毛を蓄えた頭がゆっくりと上がる。自分よりも高い位置にいる咲夜の顔がはっきりと見える。チークを塗ったように赤くなっている顔はいつもよりも奇麗で、うっとりしてしまう程だった。
「私も、咲夜とお話ししていてすごく楽しい。今まで家で一人紅茶飲んだりしていたの。でも、ここにきて貴女と知り合って本当に嬉しくって……本当は毎日行きたい位。でも、あんまり顔を出しちゃうと迷惑だろうし……お仕事だからって思ってたの」
泣きそうになりながらアリスは話す。目じりには銀色に輝く水を溜めて、頬は紅葉していた。そこにいるアリスに手を伸ばせば、このカウンターの向こうに届くはずなのにどうしても不安になった。今彼女の頭を優しくなでてあげるだけで、それだけでいいはずなのに戸惑った。アリスは客なのか、友達なのかということが頭をさえぎった。私にとってのアリスはどうだろう。心が葛藤する。けれど、こうやって考えている時点で分かっている。私のとるべき道は決まっていた。
「ほら、そんな悲しい顔しないの。貴女のそんな顔見たくないわ。貴女はいつも笑っていて、すぐに恥ずかしがる可愛い子。だから、いつもみたいに笑って。貴女が楽しそうにしているの見ているのがすごく好きだから」
金色の柔らかな髪をそっとさする。さわり心地の良い手入れの行きとどいている髪に、いつまでも触っていた。何より、アリスに触れているということが安心だった。私と客の関係ならば、こんなことはできない。体に触れるなんてことはたやすくない。けれど、友達という間柄ならばこういうこともしてあげられる。このカウンターの向こうは、もっと楽しいことがあると思う。そう思える。
「咲夜……ありがとう」
「気にしないの。ほら、すぐコーヒー入れるから、飲んで落ち着きなさい」
私は作りかけの飲み物を作り直して、彼女のカウンターに置いた。その向こう側にはアリスがいて、アリスにとって向こう側にいるのは私だった。たった一線を隔てているだけの関係が、今は違った。ほんのりと温かい、けれどもやもやとした霧ではなかった。
「これ、程良いアイスの甘さにコーヒーの苦さがすごくおいしい。いつまでも冷たく飲めるって、やっぱりいいわね」
ストローに少し唇をあてて、ゆっくりとコーヒーを吸い上げるアリス。その顔が、私の目には野に咲く一輪の花のようにも映っていた。その姿が愛おしくて、向かい側にいるのが寂しくさえ感じられた。もし、私がその隣に咲けたら、そんなことさえ考えてしまう程だった。
「ねえ咲夜、どうしたの?」
「あ、いや……貴女が可愛かったから、つい」
「そんなお世辞はいらないわ。そうだ、今度はカウンター越しじゃなくて、隣に座って一緒に飲みましょう。ね?」
「そうね」
それは、コーヒーの上に浮いているアイスの様に甘いものでもあるし、コーヒーが苦いようでもあった。
私は自分の分のコーヒーを入れることにする。勿論、甘くて苦い、彼女と同じものを。
コーヒーのようなさっぱりとした百合ですねぇ。ごちそうさまでした。
西洋の綺麗系が好きな私としてはストライクでした。
ただ、視点がたまに移動しているのは混乱しやすいので工夫した方が良いと思います。
それと、起承転結の転が抜けて結も大急ぎで終わってしまった感じがして、少しもったいなく思いました。
次回作も期待しています。
この表現力はすごい。お話の方も続きが気になります
雰囲気は素敵なので、次回作期待してます