宴会の席で私は皆の輪を静かに眺めていた。
偶には騒ぐばかりではなく、静かに思い出を手繰るのもいいものだ。
私は片手に持ったコップを口に導いた。
――世の中には不思議なものがあるのだ、ということを身をもって感じた体験談。
そのささやかな出来事は、今でも私のキャンバスに色濃く描き付けられていて色褪せてはいない。
実を言えば、それがどれほど前のことだったのかすら定かではない。
けれども、確実なことが一つ。
それは、私がまだ地下ではない部屋にいた頃の話だということ。
私は毎夜、窓辺で耳を澄ませ、目を凝らしていた。
暇つぶしになりそうな何かを求めて。
空を覆う黒は私の倦怠感の具現化したものか、それとも夜の暗闇が私の心を翳らしているのだろうか。
そんな考えも一陣の風に吹かれて消える。
無心で、空を眺めて待っていた。
――私は窓の縁に腰を預ける。
身体を捻り上半身が外へ向くように。
楽とは言えないが、疲れる訳でもない。
開いた窓から吹き込む風が脇のカーテンを揺らす。
そのカーテンの端が私の手の甲の上で踊っていた。
くすぐったいな、と思う。
しかし、折角の踊りを邪魔するのは無粋だろうから、我慢する。
そんなささやかなステージの照明は、半分よりも少し欠けた月だった。
雲が散りばめられた天は、お世辞にも素敵とは呼べないだろう。
でもまあ、贅沢は言うまい。
どうせ私一人しか観客はいないのだから。
踊り手はただひたすらに揺れ動く。
部屋の明かりは消してあるので、随分と暗く感じるが、私の目には月明かりだけでも十分過ぎる程なので問題はない。
目を一度、強く瞑る。
しばらく間を置いて開くと、より明るくなった気がした。
けれども、それと同時に自分でも気付かない内に溜息を吐いていた。
またやってしまった。
溜息と一緒に幸せも逃げる、そんなことを言っていたのは誰だったか。
額に人差し指と中指を当てて考えてみる。
結局、思い出せるはずもないことは、我ながら気付いているのだが……
大体、私に逃げるような幸福なんてあるのだろうか。
どうなのだろう?
首を捻る。
開かれた窓の硝子に自分の姿が映る。
鏡の如く綺麗に細部まで真似してみせる硝子はきっと腕のいい絵画師なのだろう。
模写に向けて笑みを送る。
向こうも私に向けて笑い掛ける。
すると徐々に可笑しくなってきて、自然と声を出して笑ってしまった。
手の甲で布製の演者も笑っていた。
溜息をつくのは止めようと決心して、どれだけ挫折したことか。
最近は溜息ばかりだ。
だが、それも仕方のないことだろう。
本を読むのも飽きてきたし、好きな甘いお菓子すら食傷気味だ。
そう、私は実に退屈だった。
――窓の縁から降りる。
舞台を失ったカーテンは幕を下ろす。
その代わりに、今からは私の独り舞台だ。
くるりと身体を回転させる。
わざと、そんな大げさなモーションを取ってみる。
そして、腕を組んで窓の枠に乗せる。
先程までより、ほんの少しだけ空が遠くなった。
苦痛な生活の中で、僅かでも退屈しのぎになるようなものを探し、外を眺めるようになったのが少し前だ。
私と空との僅かに広がった間。
その間隙を埋めるものは何もなく、ただお互いに視線を交わすだけだ。
そして今、私は退屈しながら退屈しのぎを待っている。
自分で言っておいてなんだが、馬鹿みたいだな、と思う。
私は鼻で笑い捨て、耳を掻くのだった。
――ああ、暇だなと欠伸を一つ。
夜も大分と更けてきた。
月の輝きは増して、雲はその輪郭を怪しくしている。
そんな時、形を歪ませた月と私の間を何かが横切った。
意識を余所へやっていたせいで、それが何かは分からなかった。
鳥だろうか?
ありきたりで、つまらない結論。
しかし、もしかしたら、別のもっと面白いものかも知れない。
その、もしかしたら、になけなしの期待を託してみようか。
横切った何かが再び戻って来るのを息を殺して待つ。
別に息を止める必要はないのだが、そうした方が確率が上がる気がしたのだ。
月明かり、揺れるカーテン。
その影が壁で踊っていた。
風が木々を揺らして葉が擦れ合う音がする。
少なからぬ木々の発する音は、夜中には騒々しい。
いっそのこと、この窓から外へ飛び出してみようか?
そうすれば、色々なところへ行くことができる。
来るか来ないか、面白いかつまらないか、それさえ定かではない何かを待つ必要さえない。
どうして今までそんな簡単な考えに到らなかったのであろう。
我ながら恥ずかしいことだ。
そうだな……
まずは、あの月を目指してみようか。
私の行く道は決まる。
手を伸ばし、輝く月を手に収める。
――けれど再び、月が隠される。
木々、葉々たちの拍手に迎えられるように何かが私の前を飛翔する。
まるで、私の心を惑わすように、ゆらゆらと迫る。
それは、黒い蝶だった。
夜の闇に溶け込むような、艶かしい黒だった。
――静かに音もなく私の腕の前へと止まる。
ふっ、と息を吹きかけてみると、鈍い光の粉が舞い上がった。
目の前で羽を二回、ゆっくりと羽ばたかせる。
それはまるで挨拶をしているかのようだった。
黒いドレスを纏った彼女へ私もお辞儀を返す。
ふわりふわり、と羽ばたいて宙を踊る。
それは自分の姿を私に見せつけるかのようだった。
自己主張の強い奴だなと思いながらも、要望に答えてやる。
ぱちりぱちり、と手の合う音。
小さな演者に、ささやかな拍手を送ってやる。
ひらりひらり、と目の前を舞って、ゆっくりと舞台を降りる。
そして、自らの模様を誇示するように羽を広げて止まっている。
その姿を見て私は、ほう、と声を上げた。
初めは黒だと思ったが、どうやらそれは裏の色だったようだ。
今、眼前にある色彩はくすんだ茶色だった。
そこに紫色の線で描かれた目が私の顔を見つめる。
そういえば、こちらでは、こういった羽虫のことを蝶と区別するのだったか。
綺麗な蝶と汚い蛾。
どちらもそれ程、違いなどないと言うのに別物として扱われる。
蝶に比べて、その色合いが地味だからだろうか?
身体の肉付きが良いからか?
私は思う。
きっと、夜に飛ぶからだろう。
人ならざる者たちの時間に。
人が自らの時間に舞うものを蝶と呼び、その逆のものを蛾と呼ぶのなら。
ならば、私はこれのことを蝶と呼ぼうか。
夜を舞う一匹の役者が、私を見ていた。
――蝶が再び飛翔する。
私の手首の辺りを、ぐるぐる、と何かを探すように。
その様は、じゃれつく猫のようにも見えて、なんだか愛らしかった。
首を引っ込めて顔の位置を下げる。
そうすると、月の浮かんだ夜空を背景に蝶が舞い踊っているように見えて、なかなかに幻想的だった。
チッチッと鳥の鳴く音が聞こえる。
その声の主の姿は見えないが、音量から考えて近くにいるのだろう。
夜中に響くその声は淀みなく、ささやかなものだったが、蝶の独り舞台を色鮮やかにするには十分だろう。
蝶は踊り、私はそれをエスコートしてやる。
指先を流して戯れる。
影とその身で織り成す舞台に、私は自ら心の中で賞賛を送った。
――舞台の幕切れは静かなものだった。
しばらく間の左右へと踊っていた蝶だが、やがて落ち着く場所を探し出したようだ。
先程から私の首元へその身を落ち着けている。
くすぐったいような感覚は堪らないものがある。
だが、蝶が自主的に人肌に止まることなんて滅多になさそうなので、追い払うような無粋なことはしなかった。
これが本当の蝶ネクタイというものか、と悦に入っていると、視界の隅を何かが走った。
何だろう。
疑問が浮かぶが、それは僅かの間も持たずに消え去った。
窓から蝶が飛び込んでくる姿が見えたからだ。
二匹目の蝶も初めの蝶と同じように私の手首の付近を飛び回る。
再び始まった蝶の舞台に合わせるように、鳥の鳴き声も一つ数を増やした。
――仲間を呼ぶ不思議な踊り、とはこういうことを言うのだろう。
私の周りを乱舞する無数の蝶の群れに困惑しつつ、そんなことを思った。
同族の円舞に誘われるように集まってきた蝶たち。
そして、それを後押しするように増える鳥の声。
光の粉を散らしながら群れる蝶。
両の手より少し多いくらいの彼女らが私を取り巻く。
その様は、確かに美しいのだが、流石にこれ以上数が増えるのは不味いと思い窓は閉じてある。
その甲斐あって、蝶は入り込んで来なくなった。
しかし、辺りに響く鳥たちの声は先程よりも大きくなっている。
そして、少し前からその音に混じって、聞こえるのだ。
一際、綺麗な人の声が。
それは、窓を閉めているにも関わらず、僅かも遮られることもない。
きっとそれは、私が生み出した幻聴なのだろう。
私を舞台に踊る蝶たちへ向けての贈り物。
部屋中に鳥の声と共に反響し全てに覆い被さるように包み込む。
無論、私や蝶たちも例外ではなかった。
ここまで経ってようやく、鳥たちの声がばらばらであるように思わせて、その実、とても調和のとれたものであることに気付いたのだった。
淡い光に包まれて、私はただ立ち尽くしていた。
――私の心は踊っていた。
視覚も味覚も使い飽きた私。
だが聴覚は違った。
耳で楽しむようなことはしたことがない。
私は鳥たちの声をもっと良く聞こうと、窓へと近付く。
そんな願いが通じたのか、声が大きくより鮮明になる。
すると、大きくなる鳴き声たちに合わせて、歌声も大きくなった。
こうして聞いてみると、どうにも幻聴ではないように思える。
声の主が近付いているのだろうか。
蝶たちは何かを訴えるように顔の周りを飛ぶ。
窓越しに目を凝らして探してみるが、一向にその姿は見えない。
けれども、分かったこともある。
初めは断続的な声だと思っていたが、やがてそれは歌なのだ。
私の知らない言語で紡がれる歌詞。
けれど、心を惹き付けて止まない何かがそこにはあった。
月の光が少し陰る。
そのせいか、窓辺に立つ私の身体は蒼く深い色合いに塗られる。
もし、鳥たちの歌声に包まれたこの部屋に、誰かがいたのなら、窓の横に月光に照らされながら佇み、数多の蝶を纏う私を見て、何と言葉を掛けるだろう。
自身の姿を自分で見られないのが残念でならなかった。
蝶の舞に閉じ込められた身体をそっと撫でた。
――声が近付く。
きっとすぐ側にいるのだろうが、やはりその姿を捉えることはできなかった。
月と私の間に雲が入り込む。
部屋の明かりは消していたためか、月が隠れただけで随分と暗くなったようだ。
私の目でさえ視界を保つことができない。
こうなってしまえば、目を開けている意味などないに等しい。
少々、勿体無い気もするがが仕方ないか。
僅かの逡巡の後、私は視覚を捨て去ると、耳に意識を集めた。
先程までの蝶たちが瞼の裏に浮かび上がって自由に飛び回っている。
そう、目を閉じたことによって、蝶たちは壁や家具などの障害物に邪魔をされることはなくなったのだ。
私には、もう蝶たちの姿しか目に映らない。
聴覚が研ぎ澄まされ、先程よりも音がより鮮明に聞こえる。
瞼の蝶に心を奪われそうになるのを、頭を振って落ち着ける。
私の閉じられた世界に淡い光が飛び散る。
歌声に意識を向ける。
一つの音なのに高い音と低い音が入り混じった、なんとも不思議な声だ。
揺らぎ、とでも言えばいいのだろうか。
恐らく、普通の者には出せない、洗練された音だ。
それだけでなく、何か言葉にできない、鼓膜だけでなく、頭の奥に響くものがあった。
心を揺らすその音色が、あまりに強烈過ぎて、私は目を開けた。
無灯火の部屋の中で全てが黒に染まっていた。
壁も家具も窓も、私すらも。
けれど、蝶たちだけが鈍く黒く光っていた。
一匹が私の指先に触れる。
ああ、そうか。
その光景を目にして私は唐突に理解した。
きっと、私は誘われているのだ。
断る理由もなし。
彼女たちと踊ってみようか。
いつもなら、一笑に付すだろう、そんな馬鹿な閃き。
しかし、今は至高のものに思えたのだった。
――身体を動かす。
歌声に合わせて、時に激しく、時に穏やかに。
私は箱入りだが、一応、良家のお嬢様だ。
踊りの一つくらい、なんてことはない。
だが、日頃の怠惰な生活が仇となったのか、久々に動かす身体は思うようにはいかなかった。
それでも、私はただひたすらに踊るのだった。
私の一挙手一投足に合わせて、蝶が流れるように舞い散り、舞い戻る。
蝶作りの衣を纏って回る私。
その姿をどこかで見ているのだろうか。
綺麗な歌声に喜々とした色が混じっているのが容易に感じられた。
心を沸かせる火とでも言おうか。
そんな声に煽られるように、私は精一杯の踊りを演じるのだった。
染まり消え行く景色に、僅かながらの名残を……
――目が覚める。
いつの間にか眠ってしまったようだ。
ベッドに入った記憶はないのに私の身体はそこにあった。
蝶の姿もなければ、鳥の歌も聞こえない。
ベッドから降りて立ち上がる。
ふらふらする。
アルコールは摂取していないのに酩酊状態のようだ。
閉めたはずの窓は開け放たれていて、日の匂いを含んだ風が吹き込んできた。
もしかしたら、夢だったのだろうか。
そんな疑問も湧かないでもないが、きっと本当にあったことだという、根拠のない自信があった。
――足を踏み出す度に身体が揺れる。
……本当にどうしてしまったのだろう?
深呼吸をしようと目を閉じてみる。
黒く閉ざされた視界。
その中にどこからともなく、数多の蝶たちが現れて舞い始める。
羽に淡い光を纏ったそれは黒色なのに、閉ざされた視界の中でも確かな輪郭を保っていた。
光の残滓が無数に散る様は蠱惑的な美しさがあった。
蝶たちの舞に合わせるように、昨日聞いた歌が脳内でリピートされる。
頭が歌声に揺さぶられる。
何か別のことを考えようとしても駄目だった。
どうやら目を閉じたのは失敗だったようだ。
幻影を振り払うように、ぐっ、と目を開く。
私の目に飛び込んで来るのは、薄暗くなった部屋だった。
先程まで、太陽の光線を受け入れていた窓。
だが、そこに差し込むそれは、雲に遮られているかのように弱々しかった。
頭の中で歌詞がリフレインする。
自分の頭なのに自らの意志に逆らって勝ってに働く。
意志と思考が離別している。
今までに体験したことのない奇妙な感覚だった。
暑くもないのに首元に汗が滲む。
そこに目を向けると、有り得ないものがあった。
止まっていたのだ、一匹の蝶が。
ゆっくりと刺激をしないように手を伸ばす。
中指の先が触れるか触れないかにまで迫る。
その時、蝶が飛び立った。
私の指を透過して。
きっと、これは私の頭が歌に合わせるようにして生み出した幻覚なのだろう。
意図的に瞬きをする。
私の前を飛ぶ蝶は二匹に増えていた。
瞼の裏から解き放たれたそれは、私の手首の周りへと寄って来た。
もう一度、瞬きをする。
蝶が増える。
記憶という名の幻想から飛び出した幻は、確かな形を持たない。
けれども、私にとってそれは実在するのだった。
蝶々が溢れ出る度に、頭の揺れは治まっていった。
頭の中を浮遊する記憶が外へと抜け出しているのだろうか。
蝶が増えるに従って、脳内の歌声もより増していく。
そして、それに合わせて徐々に、私の心が浮き立ってくるのだった。
歌が繰り返される程に視界が曇り濁る。
その中で、蝶たちだけが輪郭を保っていた。
蝶々が踊る。
私の足も動き始める。
おかしい。
私はきっと昨日の夜、蝶たちに狂わせられてしまったのだろう。
心を俯瞰する精神も確かに存在するのだが、流れ出した身体は止めることができなかった。
溢れ出した自らの心の欠片に、私の心はいつの間にか囚われてしまっていたのだ。
顔に笑みが広がる。
とても愉快だと思う感情と何が面白いのかと困惑する思考。
自分自身の高笑いと、頭に響く歌を聞きている内に私の視界は暗転していった。
――そんな昔の話。
随分と長い間自分を見失っていた気がする。
けれども、もう大丈夫だ。きっと。
もう歌は聞こえない。
けれど、もう一度蝶たちと歌声に合わせて舞ってみたいとも思うのだった。
手に持ったコップを傾ける。
騒ぐ人の声を耳で楽しみながら。
指先を躍らせてみる。
空中に旋律を描く自分の手を眺めていると、どこからか、いつかに聞いた歌声が聞こえたような気がした。
更けていく夜の宴に、私の心は舞っていた。
>舞と踊りの違い
舞は主に上半身を使った、回転する動き
踊りは主に下半身を使った、跳躍する動き
おもしろかったです。
或いは真実ローレライの歌声に惑わされたのか?
興味は尽きないですが、どちらにしても夢見る少女で片付けるには危うすぎますよね、
このフランドールは。
ところで蛾をアップで見ると結構可愛いいですよね、なんかとぼけた感じの顔で。
もしかして俺だけ? そんな印象持ってる奴。