第六話、と私は呟いた。
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一、
その日、上白沢慧音は普段より遅く目を覚ました。
障子からこぼれた秋の柔い日差しが、暗闇に浸されていた彼女の意識をゆるりと表層へ引き上げる。
目にじわりと滲む刺戟に耐えかねて、慧音は二、三瞼を閉じたり開いたりして、それから我に返ったかのように、勢い良く布団を取り払った。中途半端な眠気が、まだ起きて間もない彼女を再び夢幻の世界へ引きずり込もうとしていたのである。
朝食を済ませて、髪を梳き、身なりを整える。平素通りに、慧音は淡々と事を運んでいく。
今日は、寺子屋が休みであり、また慧音にとっても休日であった。
しかし、こうして一日中暇を与えられると、彼女は逆にその時間をどのように使うか困ってしまうところがあった。
寺子屋で、子供達に向けて教鞭を揮うことを慧音が仕事の一環としたのは最近のことであるが、今となっては、それは彼女の生活の一部となっている。予定に縛られた生活に、体が慣れてしまっているのである。
故に、このように何事も無く一日を過ごすということは、彼女に漠然とした心持を与えてしまうのだった。
そうして茫洋としながらも、休日にすることは大体規則化している。
まず一番に、彼女は里を散歩することにした。他にすることが、より生産的な活動があるというのは分かっている。
だが実際にすると考えると気が引けてしまった。歴史書の編纂は、全ての知識が集約してくれる時、白沢になる時しか行わないし、文献を読むにしても、年がら年中知識を詰め込もうとするのは考え物だと思う。
今までの自分なら、決して毫末も思わない発想が易く浮かび上がってくる。そんな考え方が、自分の中で生まれるようになったのは――やはり歳を取ったから、なのだろうか。
いやいや、まさかと、慧音は心中で失笑を漏らした。
確かに、人妖問わず時間を経れば性格が丸くなるとは良く言うものである。が、それが遍く自分のこの状況にも当てはまっているとは考えられなかった。考えたくもなかった。
慧音が思うに、自分を斯様にさせた原因の大本は彼女にある。上白沢慧音の親友。迷いの竹林に住んでいて、気さくな性格で、そして、半獣である慧音よりもうんと非凡とした彼女に――慧音はそこまで思案を至らせ、それ以上の咀嚼をしようとはしなかった。
道沿いを流れる河川のせせらぎに耳を傾けながら、慧音はその向こうにどこまでも広がっている水田を見た。
無数の稲穂が実を盛大に付け枝垂れている。
その黄金色は陽光によって尚一層に煌きを増し、風が吹けば一斉に靡き、表面に波を浮かばせた。
もうそろそろしたら刈り入れ時だろう、この絨毯のように大地を埋め尽くさんとする黄金を見ると、今年は豊作のようだなと慧音は目を細める。
別に慧音が稲を育てているわけではないのだが、あたかも自分のことのように、彼女は豊潤とした水田の様を嬉しがった。
そうしていると突然、あー、と、子供の叫び声がした。
慧音がその声のした方向を振り返ってみると、五六人程の少年達がベーゴマ遊びに興じていた。
また負けたよとか物々言いながら地べたに転がったベーゴマを拾う少年――多分、最前叫び声を上げていたのは彼だろう――の一方、勝利を収めた少年はへへと得意気に笑っており、観戦していた少年達も「すげえ!」「これで何連勝だよ」と口々に彼を讃え驚きながらも、その連勝記録を打破するべく、我先にと挑戦者に名乗りを上げていた。
その少年達のことを慧音は知っている。寺子屋の生徒であった。
その少年達も、先生である慧音のことは勿論知っているわけで、一人が慧音を見つけるや否や、大声で彼女のことを呼んだ。
それに応じて他の少年達も慧音を見ては、慧音先生、と声を上げ大きく手を振る。
先生、と寺子屋で呼ばれるのは、慧音としては妙な心持があった。だが、子供たちからして見れば、そのようにしか呼びようが無いのも事実であった。彼らは、寺子屋の先生としての慧音しか知らないのだから。
「ベーゴマで遊んでいるのか」と、微笑を浮かべ慧音は少年達に近づいた。
一人が「慧音先生も一緒にやろうよ」と誘った。一人は「こいつめっちゃ強いんだよ。さっきからずっと勝ちっぱなし」と悔しがりながら少年を指差した。当人は恥かしがっているのかはにかんでいる。
「どうしようかな」と慧音は呟いた。ベーゴマなど、一見したことはあるが、実際にやったことは全く無かった。
片や遊びには精通した少年達である。初心者の自分が混ざって、逆に場を濁してしまうような気がして、参加すべきかどうか慧音は悩んだ。
だが、少年達はいつまでも彼女に逡巡させる暇を与えない。「僕の貸してあげるよ、一杯持ってるから」と、少年からベーゴマを差し出されて、結局なし崩し的に彼女は少年達の遊びの輪の中へ入ることとなってしまった。
慧音としては少し想定外だった。と言うのも、こうして一緒に遊ぶというより、傍らで観戦しようというのが、当初の彼女の魂胆だったからである。
少年達は、我こそはと、慧音の最初の相手役を買って出た。
誰も譲る気など毛頭無く、それが行き過ぎて取っ組み合いにまで発展しそうになったので、「ちゃんと順番に相手してやるから」と慌てて慧音が宥めた。
それでも一番がいいんだと、彼らが変な意地を張るものだから、今度は「そんなに揉めるんだったら遊ばないぞ」と諌めてみる。どうやらそれは本気で嫌だったらしく、その場はじゃんけんで決めるということで収まってくれた。
じゃんけんの結果、最初は、先程負けた少年が相手をすることになった。
ベーゴマは、慧音の手には小さいように見えた。鉛色が鈍く光っている。
差し向かいで少年が、「手加減無しだからね」と言ってにかっと笑った。「お手柔らかに頼むよ」と、慧音もそれに微笑み返す。
それから眼前の台座へ視線を移す少年の瞳は、まさに真剣そのものであった。負けたことを引きずっているのだろう。遊びではあるが、勝敗にこだわり、勝ちを貪欲に求める意志がその少年からは垣間見えていた。
ならばそれに応えるしかあるまいと、慧音も台を見据え構える。
それを見て、レディー、と少年が右手を掲げ声を上げた。寸時、慧音の脳裏に一抹の不安が過ぎる。
果たして、ベーゴマはきちんと回ってくれるのだろうか――
ゴー、という合図と共に、さっと少年の右手が振り下ろされた。それを切っ掛けに、慧音と少年はほぼ同時にベーゴマを台へと放る。
放った瞬間に勝負が決まった。慧音の投げた独楽が、台に乗るや早速軸の平衡を失ってしまったのである。
台の中央部へ転がり落ちてゆくそれを他所に、まるで、それを呑み込んでいるかのように、少年の独楽は台の側面を渦の如く旋回している。
挙句慧音のベーゴマは中心へと収斂しだした彼のベーゴマに呆気無く弾き出され、土の上で何度か跳ねては漸く動きを止めた。
今更見栄も晴れないと思い、慧音はベーゴマを拾い上げると、自分にベーゴマの経験が全く無いという旨を少年達に告げた。
それを聞いた彼らは、「なーんだ、慧音先生、ベーゴマの回し方知らないの?」と言った。それは決して彼女に対する嘲笑ではなく、寧ろ歩み寄りであった。
「そんなことだったら最初に言ってくれれば良かったのに」少年達は得意になったようで、教えてあげると口々に言った。
「こうすればいいんだよ」と、身振り手振りを加えながら教えてくれる彼らに、慧音は普段の立場関係が逆転していると気付いて、ふふと笑う。少年達は誰かに何かを教えるのにはやや言葉足らずであったが、遊びに対する知識は、慧音なんかよりずっと先生だった。
意気盛んな子供たちに感化されるように、慧音は次第とベーゴマ遊びに没頭していく。つい前まで、輪に入ることを躊躇っていた彼女は、そこにはもういなかった。
二、
慧音が少年達と別れたのは正午前のことであった。およそ一時間近く、彼らとベーゴマをして遊んだことになる。
少年達の熱心な指導のお陰で、慧音は大きな成長を遂げていた。
ベーゴマはきちんと回せるようになったし、勝負だって、負けに負けを重ね続ける合間に、幾つか勝利を上げることも出来た。
去り際に彼らは沢山持ってるからということを口実に、慧音にベーゴマをくれた。慧音は人数分だから六個、それでも握中に収まってしまうそれらを握り締めて、「今度は負けないからな」と言った。
少年達も「いつでも受けて立つよ」と、鼻を擦ってはそう答えた。微妙に上から目線でいるのが小憎たらしくて、余計に慧音は少年たちへの再戦を胸に誓ったのだった。
昼時の人里は、先刻と比べるとやや閑散としている。
この時分になると、大半の人々は仕事の手を休め、昼食を摂る為に自宅へ一旦戻るか、食堂へと向かうかどちらかしている。
慧音は昼食を主に自宅で摂るのだが、丁度十分な銭が懐には入っていたし、食堂もすぐ近くにあったので、家には引き返さず今日はそこで昼食を済ませることにした。
外からでも騒がしいので、もしかしたらと暖簾を潜ってみると案の定、食堂は大勢の人で賑わっていた。
今までの人里の喧騒が、ここへ一堂に会したようであった。かちゃかちゃと食器のぶつかる音や、人々の談笑する声が入りに入り混じっている。
中は料理の出す湯気のせいだろうか、些か外よりも暑く感じた。尤も、外は肌寒いくらいだったので、これくらいの気温のほうが寧ろ慧音には丁度良く感じた。
注文の列に並ぶついでに、慧音は食堂を見渡した。当然だが、テーブルはどこも埋まっている。
相席するしかないようだ、そう慧音が思った矢先に、背後で「慧音さん」と、喧騒に混じって自分を呼ぶ声がした。
振り返ってみると、見覚えのある少女が立っていた。しかし慧音は、彼女のことを仔細に思い出すことが直ぐには出来なかった。
見覚えはあるのだが、はて彼女を見たのは何時のことであったか、それが記憶が交錯してしまっているせいで、思い浮かばずにいる。
少女は「良かったら一緒に食べませんか」と慧音を誘い、食堂の一角を指差した。その指の軌道を追ってみると、彼女と同い年くらいの少女が二人、こちら側を見て微笑んでいる。彼女等については面識が無かった。
慧音としては、今正に席を探していた所で、渡りに船であったから、二つ返事で了承する。
そこで慧音は、少女の首筋に痛々しい化膿の痕があるのを見付けて、ああと合点が行った。慧音は、前にこの少女を助けたことがあった。
数年程前のことになろうか、十歳くらいの少女が、病床の母を助ける一心で父には無断で薬草を摘みに行き、それきり戻って来なくなったという事件があった。彼女こそ、その少女であった。首筋の傷跡は、その時妖怪に襲われ、深く噛みつかれたことで付いたものだった。
慧音も少女も日替わりの定食を注文した。
膳を運ぶ最中に、慧音は「傷はまだ痛むのか」と少女に尋ねた。
「いいえ痛むことは無くなりました、ただ化膿の痕は中々消えてくれなくって」と彼女は答えて俯いた。肩程まで伸びた黒髪が首筋を隠す。
席に着いて、慧音は少女から他の二人の簡単な紹介を受けた。この二人は、少女の近所に住んでいるらしい。その内の一人は、慧音が少女を助けに向かった際、その場に居合わせていたと言う。
「覚えていませんか」と彼女は問うが、慧音は「申し訳ないが」と首を横に振った。
それで気まずい沈黙が合間を過ぎったのだが、それもほんの僅かだけで、それ以降は何かと会話が弾む。
少女等は余程仲が良いのだろう、互いに気を許し笑い合い、話の種は尽きることが無い。平生そのように快活に談笑を交えることが無い慧音としては、半ば気圧されてしまって、「慧音さんはどうですか」と話を振られるとどもって返答に窮し、「ああ」とか「そうだな」とかいった気の抜けた相槌を打つしか他無かった。
それから暫時のことであった。一人の少女が「ところで慧音さん、ちょっと訊きたいことがあるんですけれど」と口を開いた。
目線を合わせて、慧音が続きを催促する。彼女は少しだけ顔を、対座している慧音に近づけて、悪戯じみた笑顔を浮かべると、「慧音さんが恋愛で大切だなって思うことって何ですか?」とか囁いてきた。
慧音は咽返る。水を飲み込んでいたのは幸いであった。
尚も咽ながら、「突然どうしたそんなことを訊くなんて」と言うと、少女二人はだって、ねえと顔を見合わせ、「気になるじゃあないですか、慧音さん私達よりずっと大人だし、美人さんだからきっと恋とか一杯してるんだろうなって。色々とアドバイスして欲しいんですよ」と言っては頬を赤らめた。
考えてみれば、彼女等もそういった、色恋沙汰に興味関心が出て来る年頃かと、慧音は熱くなった頬を掻きながら思った。だが、少女達には面目ないが、恋愛など余りしたことが無いというのが実際のところであった。
否、決して全く無いと言っているわけでは無いのだけれども。
慧音は羞恥を紛らわすために一つ咳払いをした。その咳払いで、二人の視線は更に熱を帯びて慧音の方に向けられた。
その視線よりも、殊更に熱を付帯したような視線があった。慧音の傍らにいる、あの少女である。
恋愛の話題になって、口数が少なくなったので、そんな彼女の様子は慧音にとって意外だった。彼女だってこの二人と同じ、歳相応の少女である。やはり気になるものなのだろうかと思いながら、再び咳払いをして慧音は言葉を紡いだ。
「まずは、あれだ。過度に迫ってはいけない。逆に煙たがられてしまうからな。なるべく普段通りでいるのが一番いいと思う。それで、少しだけ相手に好意を仄めかすんだ。慣用句の一つに『魚心あれば水心』というものがあるしな。つまり、自分が相手に好意を寄せていれば、相手もそれに応えてくれるということだ……まあ、私自身、あまりこういった経験は無いから、正直の所あてにならないと思うけどな」最後に慧音は、そうして自分の助言を皮肉った。
だが、すぐさま彼女を擁護する声が上がった。「そんなことは無いと思います」傍らの少女の方からだった。
「慧音さんがそう言ってくれて、ちょっと自信になりましたよ。私、諦めてかけてたんです。今までこういうのってやっぱり、好きな人には積極的に接したほうがいいのかなって思ってて、でも、それって恥かしくて中々出来なくていて……だから、慧音さんがそう言ってくれて、恋愛で大事なのは積極性だけじゃないって分かって、諦めないで頑張ろうって気持ちになったんです。だから――」少女はそこまで言いかけて、あ、と慌てて口を噤んだ。
その様を見て、二人の少女は「そういうことなんです」微笑んだ。「もうすっかりお熱で、見てるこっちが恥かしくなっちゃうくらい」
慧音はそれで大意を把握した。何とも微笑ましい光景だと思ったが、それでも慧音にはもう一つ、気になる点があった。はにかみながらも、傷跡のある首筋を掌で隠している少女が、まるでその傷を見られることを忌避しているかのように見えたのである。
「古傷が気になるのか」と慧音が訊くと、はっと彼女は顔を上げ、再び下を向いた。その間にも掌は首筋を覆って離さず、「はい」と肯んずる声は、少しだけ寂しく慧音の耳に響いた。
「嫌われると思うんです。女が首筋にこんな、ぐちゃぐちゃした傷を持ってるなんて。今は何とか髪の毛とかで隠し通せているから良いけど、これを見たら絶対気持ち悪いって言われちゃいますよ」少女は自嘲的な笑みを浮かべる。
果たしてそうだろうかと、慧音は思った。その傷があっても、世辞抜きに彼女は美しいと思った。
だから気を落とさないで欲しかった。未だ成人にも満たぬ、これから先に多岐に渡る可能性が伸びている君が、そうして自分に降りかかった災難を憂え、立ち止まらないで欲しかった。
慧音はそんな所懐を抱き、同時に、少女に対して心底からの羨望の念を覚えた。
「そう卑屈にならないでくれ」と言って慧音は立ち上がった。「その傷が有ってもお前は綺麗だよ。何せ、女性の私でも、お前の笑顔には胸を高鳴らせてしまったからな。――ああ、それと」膳を持ち上げる。不安に濁る双眸で慧音を仰視する少女に、彼女は威勢良く笑ってやった。
「もしお前のその傷を気持ち悪いとか、悪く抜かす奴がいたら私に言うんだ。そしたら私がそいつに向かってきつい灸を据えてやるよ」我ながら乱暴な言葉を吐いたものだと、慧音は自分のことが空恐ろしくなった。
が、少女にはその言葉が些か功を奏してくれたらしく、憂い顔に喜色が戻った。
「そうですね、お願いします」とくすくす笑う少女は、「慧音さんがそんな言葉を使うの、初めて聞きました」とも続けて、声を出して笑った。
慧音はそれで、逆に恥かしくなってしまって、乾いた笑いしか絞り出すことが出来ないでいた。
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第六話、と私は呟いた。
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三、
空も間もなくすれば、茜色に染まる頃合であった。
迷いの竹林の中を慧音は歩いている。彼女にとって、それは通い慣れた道であった。
寺子屋が休みの日には決まって、慧音は藤原妹紅に会いに行く。妹紅とは、慧音の親友で、不老不死の体を持つ女性である。
彼女がこんな人里離れた竹林に住処を構えるのも、不老不死という非凡さが故に孤独を覚え、また、決して変わることの無い容姿を周囲から蔑視されたが為だった。
そんな妹紅に、慧音は共感のようなものを抱いている。半獣と言う、人間の枠組みを逸脱した彼女とて、少なからずそういった経験があった。
慧音は妹紅の孤独を理解し、また彼女に歩み寄ろうとした。二人の類似した境遇が、磁石のように、運命的に二人を引き合わせた。そして今現在の関係がある。互いに互いのことを欠かすことが出来ないような、強い信頼で結ばれた関係がある。
それを慧音は誇りにし、殊に大事にしている。
自分だけが妹紅の理解者であるのだと思い上がっている。
妹紅の住居は、やや朽ちた萱葺き屋根の家であった。何度も何度も修理を重ねた結果、壁は継ぎ接ぎだらけになっている。
慧音は新調した方が良いんじゃないかと再三勧めているのだが、当の妹紅はそれを拒み続けていた。「住み慣れているからね。変に新しくするのは嫌なんだ」というのが彼女の言い分であった。
染みで汚れた障子を叩いて、慧音は妹紅を呼んだ。「居るか」の声に、「慧音か、遠慮せず上がってよ」と妹紅は答えた。
障子を開け放つと、家の中から古めいた芳香が流れ出てくる。鼻の奥をつんと刺戟して、しかし心落ち着くような、そんな匂いだった。
「いらっしゃい」と、卓袱台にうつ伏しながら妹紅が挨拶を投げる。
「暇そうだな」
「今日は疲れちゃってさ、何もする気が無かったのよ」
「そうか」慧音が履物を整える一方で、妹紅は「待ってて、お茶淹れてくる」と言って立ち上がった。「ありがとう」と慧音は礼を言うと、腰を下ろして卓袱台に肘を衝いた。
客間には、卓袱台が一つ、どっかと中央に構えるだけで、それ以外に目に付くものは無かった。後は押入れに寝具と衣服と、書物が幾分かある程度だ。自分の家と較べれば非常に簡素で、不都合な点が多々あるのだが、慧音は不思議と妹紅の家に居心地の悪さは覚えなかった。寧ろ心地よいと感じるほどだ。
単純に妹紅がいるから、というのもあるだろうが、装飾の味を占めた昨今、こうした飾り気の無い純朴なしつらいに、決して満たされることの無い郷愁を抱いているから、というのも理由の一つなのかも知れなかった。
妹紅は緑茶と、煎餅を持ってきた。「ごめんね、お茶請けになるの、これしか無くって」と言って差し出す彼女の気配りが、慧音には寧ろ申し訳ないくらいだった。
「何も見知らぬ人同士じゃあないんだし、そんなに気を遣わなくてもいいんだぞ妹紅」と慧音が言うと、妹紅は少し強い口調で、「慧音だから気を遣うんじゃない」と返し、更に「ほら、『親しき仲にも礼儀あり』ってやつよ」とも言った。
それでもやはり慧音は詫びの心地が抜け切らないでいたのだが、対し妹紅は茶を啜って一息吐くなど暢気にしており、自然と言い寄る気持ちも失せてしまったので、そんなものなのかと畢竟その場を割り切った。
そして、『親しき仲にも礼儀あり』という妹紅の言葉を反芻すればするほど、本当にそうかもしれないなとも思った。今度来るときは、何か自分がお茶請けを持って来ようとも思った。
慧音も一口茶を飲むと、「何か面白いことはあったか」と妹紅に尋ねた。こうして第一に、互いに起きた出来事を語り合うのは最早定例のことであった。
元々は妹紅と親睦を深めることが出来たらと、慧音が彼女に提案したのが始まりで、勿論この報告会を、慧音は妹紅を訪ねての最初の楽しみとしていた。
妹紅も妹紅で、この時間の為に何かしらの話の種を用意しておいていたのだろう、待ってましたと言わんばかりの顔をした。
「一昨日だったか、輝夜と闘ったんだ」妹紅は得意げに言った。
「もう私の圧勝だったね。輝夜ったら面白いくらいに弱いの。終わってみれば私には掠り傷がちょっとある程度で、輝夜はと言うと服はボロボロ、体はあちこち焼け焦げててさぁ。――そう言えば『つい前まで風邪をこじらせていたの、調子が出なかったのは病み上がりだったからよ』とか言い訳吐いてたね。その時はもう無茶苦茶腹が痛かったよ。病み上がりで私に勝てるって思ったんだろうねえ、舐められたもんだよ。それであの醜態だろ、ざまあみろっていうんだ。思い上がりも甚だしい、滑稽過ぎて寧ろ哀れなくらいだったよ。お陰で慧音を困らせる必要も無かった」
腹を抱えてけらけらと笑う妹紅に、慧音は笑みを浮かべた。
愛想笑いだった。またか、と、思った。
また、蓬莱山輝夜か、と。
蓬莱山輝夜は非凡な女性であった。そして、妹紅にとっては因縁の相手であり、妹紅を非凡たらしめた大元でもあった。
輝夜は、月――あの、空に浮かんでいる、金色に輝く、月――から逃げてきた姫様で、その上妹紅と同じく、不老不死だった。
そういう事情があって、妹紅と輝夜は出会ったら必ずと言って良いほどの頻度で、幾度と無く、殺し合いをする。問答無用に、お互いの潰えることの無い命を屠る。
それは或いは、不老不死と言う互いの境遇の創を舐め合っているようにも見えた。それが正直、慧音にとっては面白くない。
妹紅の周りには、どうしてか必然的に輝夜が付いて回るのである。反発しあっている筈なのに、その間は、双方の磁力が拮抗に拮抗を続けることで強大な力を生み出していた。
寄り添うのではなく、ぶつかり合うことで、妹紅は輝夜を、輝夜は妹紅を理解し合っていた。
それを指摘すれば、妹紅はきっと否定するだろう。
だが慧音にはそう思えた。二人の関係が、最早自分という存在を彼方へ置き去りにしてしまっているように見えた。その歴然とした差をまざまざと見せ付けられる度、慧音は思うのである。
私も妹紅と同じように、不老不死であったら――と。実体を伴ぬ願望だった。
妹紅は未だにからからと笑っていた。「慧音はどうなの、変わったことはあった?」と問う声にも、それは及んでいた。
慧音も慧音で、この時の為に話は準備しておいていたのだが、その時ふと、懐に、今朝少年たちがくれたベーゴマが入っているのを思い出した。丁度良いと、慧音は懐からそのベーゴマを取り出して卓袱台へと置いた。
「何、これ?」と、それを見て妹紅が興味深そうに身を乗り出す。
「ベーゴマだよ。妹紅は見たことないのか?」と訊くと、彼女は嬉々として「知らないなあ。独楽の一種?」と言った。
そもそも、ベーゴマ自体、外の世界から流れ着いたものらしく、現在のように数が増え、遊び方が普及し、あの少年達のように人里でベーゴマ遊びに興じる風景を見るようになったのも、ごく最近の話である。竹林での生活を主としている妹紅に馴染みが無いのも、尤もなことだと思った。
というよりベーゴマがある程度知れ渡っているのは、人里ぐらいなものである。
「まあそういったところだ。教え子達がくれてな、回し方も教えてもらったんだ。折角だから一緒に遊ぼうよ」と慧音が誘うと、妹紅は大きく頷いてベーゴマを手に取り、それをしげしげと眺めた。
それを横目に、慧音は準備を始める。妹紅の家の勝手は慧音も自分の家のように十分理解していた。ベーゴマを回す台になるような物と、それから布を物置から引っ張り出して、朝の記憶を頼りに台を作っていく。
「早くやろうよ、慧音」と妹紅は待ちきれないようだった。「まあそう焦るな。巻き方とか妹紅は分からないだろう? 教えてやるから、ちょっと近くに」
慧音は手招きをして妹紅を自分の傍へ置いた。目と鼻の先で妹紅は慧音の手先を見詰めていて、それを意識した途端、慧音は忽ち自分の心臓の音が速く鳴りだしたのを感じた。
だが気付かれないように色には出さず、素知らぬ様子でベーゴマに紐を巻く。
緊張で手を震わせながらも、何とか巻き終えると、妹紅から歓声が起こった。
「そんな難しいほどのものでもないだろう」と慧音が恥かしさに言うと、「それでも、今の私には出来ないことだよ」と妹紅は目を輝かせた。彼女は心から慧音に尊敬の念を抱いている様子で、慧音はそれを悪くないなと思った。
今において、妹紅は自分だけを必要としてくれているのが良く分かったから、その時限りは、慧音は輝夜の前で得意でいられた。
しかしそれが常ではないということを、慧音は良く、胸が痛いくらいに知っている。
四、
ベーゴマ三個分の重さを慧音は知らない。ただ、懐に入り彼女の歩調に合わせて微かな音を立てるベーゴマ達は、成る程三個分の音を失っていた。
あれから、妹紅はベーゴマをすっかり気に入ったらしく、慧音は流石に独り占めしても意味が無いからと言って、半分を彼女にあげた。
それにしても、彼女の飲み込みの早さには目を見張るものがある。巻き方こそは慧音の指導を受けたものの、投げ方においてはものの数回でコツを掴んでいた。
何度も何度も飽かず、子供のように勝負をして、終わってみれば自分がいつの間にか負け越していた。こちらが先輩だと言うのに、いとも簡単に追い越された慧音の心持は複雑であった。やはりこういった遊びの類は、決まって自分より妹紅のほうが要領を得ている。
妹紅と一緒にベーゴマをやれたことは純粋に楽しかった。 その一方で、彼女が自分を悠々と追い越して行って、それが寂しくも思えた。
そのまま妹紅は遠くへ、自分の目の届かない所まで行ってしまいそうな気がして――そこまで考えて、ああ、と慧音は首をぶんぶん横に振った。近頃はこんな心配が自分の隙をついては頭をもたげて来るから仕様が無い。やはり歳をとってしまったのかなあなどと、憂えて自然と溜息が口から漏れた。
数年前の自分であったら、こんなことに思慮を至らすことなど寸毫もしなかっただろう。
数年前の自分は、恐らく知識を得ることに今まで以上に懸命で、分相応に悩みを胸に抱きながらそれでも、どこまでも広がる未来を疑うことなく信じていたに違いない。
それが今ではどうだろうか。
慧音は曖昧に歳をとってしまっている。過去と未来を中途半端に往来してしまっている。
自分の持っているもの全てが愛しく思え、またそれらを失うことを極端に恐れている。
慧音は死を恐れていた。
死など念頭にも無く楽観的に生きている少年達を、可能性に満ち溢れた少女達を妬む気持ちが僅少ではあるが甚だ賎しく腹中に内在していた。
上白沢慧音は若者であり、大人でもあった。眼前に伸びる道程を慧音は見ており、同時に、その一番奥に控える死を睨んでいる。穏やかな道程を歩む傍ら、その死へ、歩んできた道程全てを無に帰す死へ向かうことが、慧音にとってはどこまでも狂気じみたことのように思えた。
けれども、慧音はそうした負の情念を抱きながら、人前ではそれを殺し、自己を保ち続けている。
だって、慧音は知っているから。
慧音は、この物語が第六話であるということを知っているから。
第六話を生きる自分に、物語の終焉を危惧する必要などどこにも有りはしないのだ。そんなものは、第二十話の自分に任せておけばいいのである。
自分は第六話という範疇の中で起きる出来事をただ享受すればそれで問題は無い。第六話が第二十話を慮ったところで、何にもなりはしないっていうのに。
万人に等しく訪れる死の存在を、第六話の慧音は知らない。
慧音が帰路につく頃には、辺りにはすっかり夜の帳が下りていた。
人里は銭湯がやんわりと灯火を浮かべている程度でそれ以外は皆目静かであった。
外は寝付けないと言って出歩く人と、銭湯帰りで頬を紅色に染めながら家路につく人、それも指折り数える程度だし、見知った人が擦れ違っても、決して日中のように会話を交えることなく会釈だけで済ませる。
清澄な空には星がよく瞬き、鈴虫の音色が、この静謐な夜に神秘的な雰囲気を添えてくれていた。
今日もいつも通りに一日が終わろうとしている。
そして明日もきっと、いつものように過ぎ去っていくのだろう。慧音はその穏やかな時間にふっと頬を弛ませると、家路の終わりへと足を進めて行くのであった。
―――――
――第六話、と私は呟いた。
時折、自分の人生を文学的に表現しようと試みる事がある。作家が他者の人生を著すように、私は上白沢慧音という存在を客観視するのである。
そうして、自分の人生の或る平凡な一幕を表現するにあたって、私は必ず、第六話、と前置く。
第六話、ということは、話の転換点にあたる経験を既に五回していることになるのか、と連想してしまうが、果たしてきっちり五回経験しているかどうかは疑わしいところだ。五回に満たないかもしれないし、もしかするとそれ以上になっているかもしれない。
否、そんな理由で私は、第六話と呟いているわけではないのだ。第六話と呟かなければならない理由は一見どうでも良いようで、実は私にとって至極重要な意味を含蓄しているのである。
第六話は、例えば苺のような甘酸っぱさを備えている。衣服に染み付いた自分の匂いに、塵芥の如く混ざる新品の芳香のような、絶妙な初々しさを備えている。
それなのだ。その中途半端さが第六話である理由の総てを物語っている。
第一話では駄目なのだ。人生半ばを一で示すのは余りにも作為的だし、それが却って初々し過ぎるから。
第二十話では駄目なのだ。終盤に差し掛かった辺りは、もうこれで終わってしまうのかという寂寥しか無いから。
その分第六話はどういうことか私の要求を正確に射ている。先行きに安堵がある。言わば、希望に満ち溢れているのである。その上、死を路上に見出すことの無い、安寧に溢れた位置に存在している。
そう、第六話は、私に希望を示す第六話は、私の欲望の権化なのであった。死を怖れ、生に拘泥する哀れで若輩な私の欲望の。
死は、恐らく私からありとあらゆるものを奪うだろう、私の知識を、記憶を、経験を、関係を、そして――私の最も愛する親友さえも、私から奪うだろう。
そんなことを、近頃急激に意識するようになってしまった。ひたひたと着実に自分の元へ歩み寄ってくる死の足音に、殊更耳を傍立ててはその音に慄いていた。
その度に私は第六話を唱える。私を、上白沢慧音を永久の第六話へと閉じ込めるのである。
そうすれば幾分かも怖れを紛らわせることが出来た。まだまだ私は大丈夫だ、死ぬ筈なんて無い、そういった活力を湧き上がらせてくれた。
しかし、知っている。
それは所詮逃げでしかないのだ。ただ死から目を背けているだけで、現状は何も変わっていない。いつかは、否が応でも、私は死と向き合わなければいけない。万物の消滅を許容しなければいけない。分かっている、分かっている……
けれど、それを私は否定する。知識を記憶を、経験を、妹紅を、いずかは全部失わなければならないなんて、体が全身全霊をもって拒絶する。
だから、いつまで経っても私は第六話に逃げる。
終わらない第六話を私は一心不乱に記して行く。その記すためのページは確かに、刻みに刻み磨り減っていることにも気付かずに。
嫉妬する慧音さん可愛いw
第五話ぐらいの所にいる自分としてもなんだか怖いところを突かれた気分です。
慧音の感情の揺れ動きがリアル。ごちそうさまでした。
あと、文中で「尤も」がひらがな表記になっているところがありますので、統一されたほうが良いかと
二十話が終盤というあたり、二クールの二十四話なんだろうか?
なんというか諸行無常のようなものを感じてしまいますね。
それで「ああ年取ったなぁ」という…
ただ慧音なら、休日でちょっと気が抜けただけなんじゃないかと思ったり。
なんだかものすごく人間している慧音先生だと思いました。
「二、」を読んだあたりで
謎めいた冒頭のフレーズのヒントは何もなく、
日常的な情景の描写が続くので読むのが辛くなってしまいました
起承転結で言えば起承で終わってる感じがします
慧音の休日がほのぼのしててこれはこれで俺得でした
拝読できてよかった。ありがとうございます。