「お母さん、明日の当番についてですけど……」
その瞬間、寺の空気が止まった。
「あっ」
居合わせた面々の視線を受けると、発言の当事者――村紗水蜜は頓狂な声を上げて、口元を手で覆い隠す。
彼女の顔に浮かぶ、やっちゃった、と書かれたような表情。その中でも一際目を引くのは頬に散る恥じらいの桜花。
縮こまる村紗を見据えながら、一人思いを巡らせる者がいた。ダウザーの小さな大将、ナズーリンである。
(ふむ、船長も長らく苦労してきたからね。気を張ることもない平穏無事な日常、つい口が滑ってしまったのだろう。
とはいえ無言の行を強いられ続けるのも、夜陰に灯火を囲んで語らう場にはいささか似つかわしくない。
さて、どうしたものか……ここは私が絶妙の一言で静寂を打ち払うのが相応しいかな。
何事も無かったように新しい話題を振るというのは下策だ。それでは船長を無視し、この場から孤立させてしまう。
肝要なのは、船長の間違えを脇に置いた上で彼女を立てる点にある。
そうだな、『では、私が皿洗いを担当するよ。ご主人様はどうする?』……これはどうか。
先んじて彼女の主張を受容し、かつ、話しあぐねている他の者に会話の受け皿を手渡す。
共通の話題を通じて会話が回り始めれば、場の調和も乱れず自然と元の通りに戻るだろう。
そのためならば皿洗い程度は安い苦労さ。ふっ、これで貸し一つだよ、船長)
この間1秒。賢将たる者、頭の回転が速くなければ勤まらないのだ。
心の中で浮かべる満足げな笑みをおくびにも出さず、ナズーリンはつとめて淡々と口を開き、
「では、私が「あっははは! お母さんって、ムラサったら何言ってんの? ぷっ、くくく」」
ぬえが大爆笑した。
(……空気読め!!)
覆水は盆に返らず、落花は枝に還らず。機会損失、場の調和は完全にぶち壊しである。
先ほどの静寂から仕切り役を取って代わったのは、無邪気なまでに容赦ないぬえの笑い声。
よっぽどツボにはまったのか、腹を抱えひぃひぃ息を堰き切らせながらもその笑いは止まらない。
対する村紗はというと、面貌を紅潮させ、弓弦のごとく引き絞った唇は微動だにしていなかった。
大きく見開かれた碧緑の瞳には、今にも溢れ出しそうな感情が表面張力にはちきれている。
つくづくどうしたものか……そう思いながらナズーリンが周囲を眺めやると、途方に暮れた表情の星と目が合った。
(弱りましたね、ナズーリン)
(まったくだ、私の見せ場が)
(見せ場?)
(……とにかくご主人様、まずは君の隣でバカ笑いしているぬえを黙らせてくれ)
(判りました。口封じですね!)
(だいぶ意味合いは違うがこの際それでもいいよ)
この間0.5秒、すべてアイコンタクトによるものである。
長年付き従ってきた主従たる者、このくらいの意思疎通ができなければ勤まらないのだ。
普段は茫洋としている星の双眸が枇杷の種のような形を描いて尖り、総身は不断の決意を立ち昇らせる。
しなやかに揺れる上半身は、まさに獲物を狙う肉食獣のそれであった。
寅丸星の爪牙にかかれば、哀れ、あらゆる生き物は呼気すら残さず永遠の沈黙に陥るであろう。
(ふふ……薄らぼんやりとしているように見えてもこの気迫。さすがは我がご主人様だ)
一方のぬえは未だに笑いっぱなしである。もはや勝負は決したも同然。
解き放たれた獣が今まさに飛びかかり、静寂を乱す者の口を塞ごうとしたその瞬間――
「ぷぎゅっ!!」
足をもつれさせ、変なうめきを立てて彼女は顔面から畳へと突っ伏した。
(あ……足が痺れました)
(ご主人様……)
格好良かったのは上半身だけか! とツッコむ気力すら湧かず、腰砕けするナズーリン。
その間にも笑い声は寺の一室に響き渡る。一回転して思い出し笑いの周期に入ったか、耳障りなほどにかしましくやかましい。
俯いている村紗の表情は掴めないが、震える肩は否応無く抑えられぬ衝動を周囲に知らしめる一方。
彼女の反応をぬえは知ってか知らずか。知っているのならその無神経、まさに悪鬼の所業。そもそも妖怪だった。
ああ、やんぬるかな。
(もはや今のご主人様に期待はできない。誰か、他にこの状況を覆せる存在は……)
その瞬間、圧し掛かる重圧を撥ね退けて立ち上がる一つの影があった。
これまで微笑の裏に沈黙を保ってきた、聖白蓮その人である。足は痺れていないらしい。
場の調和を再度築き上げるに相応しい堂々たる威風に、ナズーリンは安堵する。
天魔鬼神をも折伏せしめる彼女ならば、空気読めない正体不明の小娘などすぺぺのナムサーンだろう――
そんな確信(※私怨含む)を胸に抱いて見守る中、柔らかな微笑を浮かべた白蓮が言を発した。
「ムラサ」
「はっ、はい!」
(あれ?)
ツツジの花さながらに真っ赤な面持ちのまま、村紗は慌てて起立する。
彼女のセーラー服もあいまって、まるで教師に名を呼ばれた女学生のような光景である。
見れば、拍子抜けしたのはナズーリンだけではなかったようだ。ぬえもようやく状況を察したらしく、黙って二人を交互に見ている。
注視の占有者となった白蓮は、それを意に介さず村紗の腕をむんずと握り、
「ちょっと二人で話しましょうか?」
「えっ、あ、あの……」
「みんなごめんなさいね、少し席を外しますから」
笑みを絶やさぬまま、付いてくるよう村紗へと促す。
返事も聞かず、白蓮は居間の面々へと手を振りながら、事態が飲み込めず目をしぱたたかせる村紗を引っ張っていった。
ナズーリンとぬえは唖然としながら、白蓮という名のマイペースなつむじ風を見送るのみ。
残されたのは二人と未だに産まれたての小鹿のように足を震わせている星、そして、
「あれ……ムラサー、白蓮ー、私の相手はー?」
「あんたの相手は……こっち!」
「あ痛っ!?」
「……ったく、あんたはバカみたいに笑いすぎなのよ」
ゴチン、とぬえの目に散る火花。
居間にいるのは、ただ今ゲンコを落とした一輪を合わせて計四人であった。
悶絶する者が二人になったのも無視して、ナズーリンは白蓮と村紗が消えていった廊下をぼんやり見つめる。
「……? どうしたのよ、姐さんとムラサがそんなに気になるの?」
「ああ、そういうわけでもないんだがね。ただ……」
賢将たる者、頭の回転が速くなければ勤まらない。
ゆえに、彼女は咄嗟の出来事でも相手の心情を察しえる明敏な知覚を備えていた。
「白蓮の姿がとても嬉しそうに見えたのさ」
◇ <- ■
遥けき彼方へ広がる夜闇に、弧を描いて浮かび上がるは人の手ならざる下弦の月。
夏の夜空を一望できる縁側へ鼻歌混じりに現れる者一人、そして彼女に引っ張られてもう一人が顔を出した。
つかの間の逃避行から一段落すると、喧噪を冷ますように夜風が吹き抜けていく。
グラデーションを帯びた金のウェーブヘアーをしなやかになびかせる心地よい風。
黒髪をくすぐる一撫でにトレードマークともいえる船長帽を片手で押さえながら、村紗は先の情動を追想していた。
お母さん。
そう口走った瞬間、彼女の胸に去来したのは子供じみた言い間違いへの羞恥と――
それ以上に、今は色褪せ擦り切れておぼろに浮かぶ、生前の記憶であった。
絶対に忘れはしない、手放さない、そう願って心の底へと錨を降ろして繋ぎ止めてきた。
それでも、今は鉄鎖も錆びつき砕け散りかけている……愛しい父と、母との思い出。
ない交ぜになった感傷を必死にこらえる自分がまた情けなくて、こんなんじゃぬえに笑われても仕方ないとすら感じていた。
あの場に留まり続けていたら、今頃どうなっていたか。堤を切って溢れ出した感情で悲涙をこぼすか、癇癪を起こしていたかもしれない。
それを食い止めてくれた聖への感謝と崇敬の念は絶えず、村紗は心中ほっと胸を撫で下ろしていた。
「ありがとうございます、聖。おかげで助かり」
「水蜜」
「は、……はい」
水蜜。二人でいる時や親愛の情を込める時、彼女は村紗のことをそう呼ぶ。
穏やかながら凛とした力強さを秘めた声音に、思わず村紗は背筋を正して次の言葉を待った。
「……貴女に一つ言わねばならないことがあります」
白魚のように細やかな白蓮の指先が村紗の両手を包みこみ、胸元の前でぎゅっと握り合わせる。
月明かりが映し出す白蓮の面貌は真剣そのもので微塵も戯れを感じさせない。
燦々とした輝きを放つ瞳は、まるで心の影を払いのける純正の琥珀。その前にすべての偽りは意味を成さないだろう。
「いいですか、水蜜……」
「…………」
粛々たる佇まいに、村紗の内心は暗雲立ちこめ波打つ。
もしかして、気を抜くとは何事か、動転した無様な姿を見せるなんて不甲斐ない、と叱責されるのだろうか?
そうならば仕方ない、甘んじて責めを受け入れよう。心苦しきはひとえに自分の未熟さにある。
それでも、皆の前でないことは聖の優しさだと捉えられるだろう。
いかなることを言われようとも、このような場ならさっきほどの羞恥心を抱くことはないはずなのだから。
だが、次に白蓮の口から発せられる言がもたらした効果は先の比ではなかった。
「もう一度お母さんって呼んで♪」
その瞬間、村紗の空気が止まった。
「水蜜がそんな風に呼んでくれるなんて、私嬉しくて……お願いだから、ねっ?」
「…………」
初弾、第一艦橋を貫通。次弾、機関部に直撃。
さっきとは打って変わった白蓮の甘い猫撫で声は、紅蓮のとぐろを巻きあげる焼夷弾と化して思考回路を溶かし尽くす。
思わぬ奇襲を受け完膚なきまでに轟沈した水蜜号。彼女は頭の上から爆煙を噴出し、顔面に総員退艦の赤信号を点滅させていた。
そんなアラームも立て板に水で、いつ呼んでくれるのか心待ちに瞳を煌めかせている白蓮。艦と運命を共にする気まんまんである。
陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた村紗が平静を取り戻すには、しばしの時を要するのであった。
◇ -> ■
「まあ、姐さんも昔は人間だったし……ムラサは幽霊だから」
「……なるほどね。そういうことか」
「はい? 何がどういうこと? 話が見えないんですけどー」
頷くナズーリンに対して、ゲンコが落ちたつむじを押さえながらぬえが尋ねる。
いぶかしげな顔をした頭上にぴょこんと大型のクエスチョンマークが浮かぶ。
「それはですね、ぬえ」
そんなぬえに声をかけたのは、振る舞いを正して座り直した星だった。
その悠揚としながら厳かさを失わない佇まいは、さすが、毘沙門天の代理と呼ばれるだけはある。
(……痺れた足を崩してなければ満点なのだがね)
なまじ観察眼に優れていると、気づかなくていいことにも気づいてしまう。
それを黙っているのも従者の勤めと甲斐甲斐しく見守るナズーリンであった。
「聖も人間に近しいですから、母という言葉には我々よりも思い入れがあるのでは……と思います」
「……つまり、お母さんって呼ばれて喜んでたの? ふーん……」
「そういうものなんですよ。我々妖怪にはちょっとわかりにくい感覚かもしれませんが」
頬杖突いて、呆れ調子のぼやきを漏らすぬえ。それを温和にたしなめて、星は瞳を中空へと向ける。
その金色が映すものは遠く懐かしい過去。浮かび上がる呟きは赤茶けた思い出。
「それに……今回はムラサだから尚のこと、ですかね」
「なになに、ムラサだからってどういう話よ。それは興味あるわね」
「え? えーっと……」
村紗の名が出た途端、目を輝かせたぬえから問いかけが飛んだ。ぴくぴく動く耳と羽からは隠しもしない好奇心が見て取れる。
星が苦笑を浮かべながらナズーリンと一輪に目配せすると、二人は肩をすくめて答える。
「本人が知りたいのなら知ってもらった方が、のちのち気が楽だろう」
「別にいいけど……話のタネにしてムラサをからかったりするんじゃないわよ」
「えー。善処はするから教えてよ、ね?」
調子よく舌を出しておどけると、本当に大丈夫なのか不安げな眼差しで一輪も見つめ返す。交錯する視線。
「……まあいいわ」
勝負を制したのはぬえの方だった。
多少は信用に至る目だと見たのか、頭巾越しに頭を掻きながら訥々と語り始める。
「ムラサのあんな顔、私も久しぶりに見たしね」
◇ <- ■
「……聖のイヂワル」
「ごめんなさい水蜜、その……至らない所は改めますから、機嫌を直して?」
縁側に座り込み、期待という名の砲撃からなんとか持ち直した村紗。
頬を朱に染めながら人差し指を突き合わせてもじつく彼女を、白蓮は懸命になだめる。
「無理を言ったなら、もうあのようなことは頼みません。
いささか寂しくはあるけれど……あなたがそう願うのなら、私は受け入れるのみです」
そう言って真摯に見据える琥珀色の眼差しは、ただひたすらに誠心誠意。
村紗が断れるはずはない、などという打算は寸鉄たりともなかった。
そんな考えを持っていたとしたら、こうも多くの者たちに白蓮は慕われていなかっただろう。
彼女は何事にも常に精一杯で本気なのだ。生を謳歌することも、苦楽を享受することも、他者を慈しむことも、過ちを改めることも。
だからこそ、白蓮の純粋な優しさは村紗の心を縛って離さない。
心の臓に絡みつく茨のように、甘い痺れを伴って。
「……やっぱりイヂワルです」
「え?」
「なんでもありませんっ」
夜風がまた吹いて、呟きは身体にまとわりつく暑気と一緒にかき消されていく。
腰かけた位置を整えて座りの悪さをごまかしながら、天空に掛けられた漆黒のヴェールを仰ぎ見る。
「それよりも、ほら。今夜は空がとても澄んでいますよ。柄杓星もあんなにはっきりと」
「あら……ほんと。柄杓星、今でもすぐに見つけられるのね」
「昔取った杵柄ですよ」
指差す先に輝くのは柄杓を描く七つ星。北極星とは目と鼻の先、航海の目印となる星である。
瞬時に見つけ出したことをたおやかに讃えて、柄杓星を静かに見上げる。
「水蜜は本当に空が好きなのね」
「好きというか、好きになったんです。聖輦船と一緒では、さすがに地底は窮屈すぎました」
「そうねぇ……私も窮屈なのは苦手だわ」
「聖は落ち着きがありませんから」
「そうかしら?」
「そうですよ」
「まあ、そうなの」
頬に指を当てて、真剣に考え込む仕草を気取る白蓮。とぼけたやり取りに目を見合わせた二人は、どちらともなく笑いあっていた。
秋の夜長に顔を出す鈴虫より一足早く、鈴の鳴るような笑い声が縁側に響き渡る。
◇ -> ■
「今でこそあんな調子だけど、初めて会った頃のムラサはものすっごく陰気でね」
「せんせー、あんな調子って能天気でちゃらんぽらんってことですかぁー?」
「そんな言い方はいけませんよ。素直で快活と言ってあげないと」
「それはフォローのつもりなのか……? やれやれ、船長が聞いてたらさぞおかんむりだろう」
「ええい、話を混ぜっ返すなっ」
好き勝手しゃべくる一同に、一睨みを効かせて主導権を取り返す一輪。
ごほんと咳払いして、脱線しかけた話の軌道を修正する。
「とにかく、姐さんにいつもべったりで……その時も仏頂面ばっかし。あいつが楽しそうな顔してた覚えがないわね。
姐さんにもそんな調子だから、それ以外の妖怪たちとは関わろうとすらしなかったわ」
「ふーん。白蓮は何も言わなかったわけ?」
「言ってたとは思うけど……でも、あの時はね」
一輪は言葉を切ると、伏し目がちになって悔悟するように呟く。
「私たちもムラサを避けていたの」
「なんで?」
「白蓮に匿われていた妖怪たちの大半が、放っておけば遠からず人間に殺される無力な者たちだった。
船長のような強い妖力の持ち主は、あの頃の寺には異質だったのさ」
言を継いだナズーリンに目を向けるも、ぬえの頭にはまだ疑問符が集う。
「星はどうだったのよ。あれを無くしててもムラサと同じくらいには強そうだけど」
「はい、宝塔が無くともそれなりには。ただあの頃は……」
「あれってだけで宝塔だと通じる事実が悲しいね」
「……がーん……」
「私が悪かったから落ち込まないでよ……」
甚大な精神的ダメージを受けて円卓に突っ伏す星。
気を取り直すように首を振り、顎に手を添え過去の記憶を引き出すため少々考え込む。
「……あの頃は何分、毘沙門天の代理を務める修行のために寺を離れていた時期でして。
居合わせたとしても他者に目を向ける余裕は無かったでしょうね」
「じゃあ一輪は? ほら、あの入道も一緒じゃない」
「雲山の名前くらい覚えなさいよ。この前、あんたに呼ばれたことないって夕焼け雲に融けて黄昏てたわよ」
「それはそれとして」
物を脇に置くジェスチャーであっさり流すぬえ。本人が聞いていたら寺の屋根中に涙雨が打ちつけられていたであろう。
そんなやり取りを交わしながら歯切れ悪く、
「……まだ雲山と会う前だったのよ」
「え、ええー?」
「何よその驚き方は。まるで私と雲山が同じ木のうろから産まれたみたいじゃない」
「違ったんだ……」
「おい!!
……ま、操る入道もいない入道使いなんて、単なる弱小妖怪ってわけ。私もあいつのことを避けて……というより、恐れていたわ」
と、肩をすくめて述懐する。そんな話を聞きながら、ぬえは心中驚いていた。
村紗が他者を拒絶し、一輪は村紗を恐怖する――二人の阿吽の呼吸を知るぬえには想像もできない場景。
はたしていかなる出来事を経て今の関係を築き上げたのか、ぬえは自然と姿勢を正して話に聞き入り始めていた。
◇ <- ■
天を覆う一品物の暗幕に散りばめられた、大小様々なホワイトダイヤモンド。二人は言葉を奪われて煌く宝石に魅入られていた。
地上に出られた初めての夜以来、村紗は空を見るのに飽くことは無かった。地底では感じえない輝かしき自然の創作。
当たり前の存在がこんなにも美しいなんて、千年前は気づきもしなかったから。
「……同じ闇でも、夜空はどこか柔らかいのね。法界の闇を知って、初めて気づいたわ」
白蓮が隣で静かに呟く。
見れば、同じようなことを考えていたのだろう。繊細な柳眉をたわめ、失った千年を取り戻すように瞳へと星空を焼き付けていた。
夜空を仰ぐ白蓮をじっと見つめて、沈黙に流れる時を任せる。
するとその視線に気づいたのか、ぱちくりとまばたきをして白蓮は村紗へ微笑みかけた。
「一度失ってみて、初めて思うの。肌に照りつける日差し、草花の甘い香り、湿った土を踏みしめる感触……その大切さを」
「私もです。昔はそれを考える余裕も抱けなかったんだな、って」
「貴女にも手を焼かされていましたしね、昔は」
「……私、そんなに問題児でしたか?」
「ええ、それはもう」
遠慮なく首を縦に振る白蓮。真っ正直なことこの上ない答えに村紗はがっくり肩を落とす。
「だってほら、昔の水蜜ってそれはもう愛想がなかったじゃない?
私が口を酸っぱくして皆と仲良くしなさいって言っても聞いてくれなかったし、それどころか迷惑かけて困らせるし……内心嫌われてるかもって、ずっと思ってたのよ。
法界にいる間も皆のことは気になったけど、特に貴女はうまくやっていけてるか心配で仕方なかったわ」
「そ、そんな風に思われていたなんて……」
「まあまあ、昔の話ですし、ね?」
「それはそうかもですけど……そもそも、迷惑かけたのも聖が寺のことばかりで私に構ってくれないからで……」
「そうね、まだ子供だったのに私も気付いてあげられなかったわ。
……あら?」
白蓮が改めて村紗の方へ向き直ると、彼女は大げさに胸元を押さえて悶絶していた。
潤んだ瞳で白蓮を見上げて、恨みがましく言い放つ。
「こ、こども……そりゃそーでしたけどぉー……聖のイヂワル!!」
「あ、あらあら……」
◇ -> ■
「ある日、姐さんと姐さんの部屋を除いて寺中が水浸しになる事件があったの。もうみんな濡れ鼠よ」
「濡れ鼠……」
「……私を見てどんな想像しているんだ、ご主人様」
「それってやっぱりムラサが?」
「ええ」
一輪は重々しく頷いた後、昔語りを続ける。
その口運びは先ほど以上に言葉を選ぶ、慎重なものになり始めていた。
「で、それから何日か経った後、姐さんが寺にいる全員を招集してね。
みんなが見ている前でたくさんの書簡を置いて、ムラサにこう言ったの」
そこでいったん口をつぐみ逡巡するが、意を決したように次の句を告げる。
その内容に星とナズーリンはただ沈黙し、ぬえでさえも驚きのあまり瞳を見開いた。
「『この書簡には貴女が沈めた船と乗員の名が記されています。
一言一句、全てを暗誦しなさい。諳んじるまで、今後一切貴女の言葉には答えません』
……ってね」
「うへえ……」
「その後はムラサが騒いでも、泣いてすがっても無視。
それでまあ、あいつが顔を真っ赤にして柄杓を取り出した瞬間――」
その瞬間パン! という乾いた音が居間中に響き渡る。
仰天して反射的に身をたじろがせるぬえ。音の源は一輪が打ち鳴らした両手であった。
「姐さんの平手が飛んでね。ムラサも私たちも、みんな呆然としてたわ」
「おっかなー。白蓮は怒らせないようにしよっと」
「怒る? そんなんじゃないって」
「え、だってムラサが悪いことしたから怒ったんでしょ?」
「……あんたにもわかるわよ。そのうちね」
含みを持たせて宙を仰ぐ一輪に、ぬえは頭からクエスチョンマークを出して首をかしげるばかり。
「ま、私もあの頃は姐さんが怒ったと思っててね。言っちゃなんだけど、最初は『ざまぁみろ』だったわ。
何考えてるかわかんないやつだったし、寺中水浸しにされた後だし」
「へー……」
口を挟まず聞き入るぬえ。一輪はふと言葉を止めると、にんまり笑みを浮かべる。
「な……何よ、気味悪い」
「いやいや、ずいぶんと興味津々なんだなーと」
「別にいいでしょ! ……続きは!?」
慌てふためきそっぽを向きながらも、横目でチラチラと見やりながらしきりに先をせがむ……そんな仕草を、一輪は鷹揚に笑う。
「あははっ……はいはい。
ま、それからしばらく経ってね。私が寺の夜警を担当していた時、塀の方へ向かう人影を見つけたの。
もしや盗っ人でも入ったのかって慌てて追いかけたんだけど、そこにいたのは……」
「もしかして……ムラサ?」
「当たり。それで灯りを突きつけて問いただしたら、こっちを向いたんだけどね。
あいつ、どんな顔してたと思う?」
「どんなって、仏頂面なんじゃないの」
その返答に対し、首を横に振る一輪。
「さっきみたいな表情よ。今にも泣き出しそうなのを他人に見せまい、ってね」
「え……」
「それで私と目が合った瞬間にわんわん泣いちゃってさ。
聖は私がきらいになったんだ、こんなとこ出てってやる、放っといてくれ。そんなことをわめき散らすわけよ。
むかついたからふん捕まえて無理やり連れ戻してやったわ」
「でも、ムラサの方が一輪より強かったのよね? その時は怖くなかったわけ?」
ふん、と鼻を鳴らして問いかけを一蹴すると、一輪は堂々と胸を張って答えた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花。泣いてるお子様が怖いものですか」
◇ <- ■
「水蜜、落ち着いた?」
「落ち着きました……」
「そう、良かった」
平静を取り戻し、含羞に頬を赤らめさせて村紗は呟く。首をうなだれて、はう、と大きな溜め息を一つ。
縁側に腰掛けた真っ白な両足が、ゆらゆらと揺れていた。
「でもね、水蜜……私は嬉しかったのよ」
「はい……?」
しょげこむ村紗の頭を柔らかく撫ぜながら、白蓮は静々と語りかける。
「あんなにも心配をかけさせた貴女が、私を法界から救い出してくれた時。
ああ、この娘は立派に成長したんだな……そう思ったの」
「…………」
「私が貴女と過ごした時は間違っていなかった。水蜜、貴女はもうあの時の子供じゃないのね」
「……子供ですよ、私は」
羞恥に染められた顔を見られまいと、白蓮の胸元に己が身をそっと投げ出して呟く。
不甲斐ない姿など見せたくはないのに、この人の前ではいつも無防備になってしまう。
千年をかけて構築した"船長"という防波堤の中へと、分子の隙間をすり抜けていとも容易く潜り込んでしまう。
こうして抱き止められている今でも、はずかしくて、せつなくて、うれしくて、あたたかくて。
だから私は――
「――白蓮の子供です。私は、ずっと」
言葉はなかった。ただ手の平から伝わる思いだけがそこにはあった。
――ありがとう、水蜜。貴女は最愛の娘ですよ――
夏風の優しさに包まれながら、二人はしばし心で語り合う。
耳に反響するのはひゅうひゅう鳴る風の音、木々に茂る葉のさやめき。ほう、ほうと低く鳴くのはフクロウか。
失われた千年の追想は一夜では足りないが、これから少しづつ埋めていけばいい。自分と白蓮、皆の時間はこれから進むのだから。
村紗は穏やかに、そう思っていた。
◇ -> ■
「話してみると結局ね、ムラサも私たちとそんなに違わなかったのよ。
あの頃のあいつには聖しか見えてなかった。私たちもあいつを見ようとしていなかった。
それをなんとかしたくて、姐さんはみんなの前でああ言ったのよ」
「白蓮が仲良くしろって言うんじゃダメだったわけ?」
「ムラサは聖に庇護されている……そういった色眼鏡で見る者は、少なからず現れるでしょう。
皆に対等でいてほしかった、聖はムラサにもそう願っていたのだと思います」
一輪の言を継いで、星が答える。だが、円卓に頬杖を突いたぬえの疑問はまだ尽きない。
「でもさぁ、ムラサに嫌がらせしたくて自分が殺した相手を覚えろって言ったわけじゃないの?」
「『過去を忘れてはなりません。課せられた力は弁えねばなりません。
でも、償いのためにその身を捧げないで』」
瞑目しながら人差し指をピンと立て、朗々とした声をあげる一輪。
きょとんとするぬえを横目に、鉦鼓のように凛々しい声が居間に張り上げられる。
「『今の貴女には多くの友人たちがいます。どうかその眼を狭めないで。その心を曇らせないで。
私のためでも、手をかけた者たちのためでもない。現世に留まって良かったと心から思える、そんな生き方を送ってほしいんです』
……書簡を諳んじたムラサに、姐さんが言った言葉よ」
そうしてパチリとウィンクを一つ。
白蓮を知ってまだ日の浅いぬえでもわかるほど、込められた思いの真摯さが伝わってくる。
そして、白蓮なら本当にそう思ってムラサに語りかけたのだろう、ということも。
「だいたいね、本当に嫌いだったら一字一句丁寧に書簡を書き上げたりしないって」
「むむむ……」
腕を組み唸りを上げるぬえ。皮肉げな笑みを絶やさないナズーリンはその様を愉快そうに見守る。
考えるというのは悪いことではない。それはぬえ自身に協調の意思があることを示してくれているからだ。
そして思索に心を巡らせられる、前進しようとする者は信じるに値する。
「ま、白蓮も船長も昔は色々あったということさ」
「はー、そういうもんなのねー。……私にとってのムラサは今のムラサだけだし、やっぱよくわかんないや」
「ふふっ……最初は誰しも感じえないものです」
大の字に寝転がり、ぽつりと呟く。
どこか寂しさが漂っているのは、自分にはまだ知らないことが山ほどある、そんな孤独感ゆえか。
その寂しさを柔和な表情で包み込み、日頃の説法のような調子で答えるのは星であった。
「長く付き合えばそのうち解っていきます。大切なのは相手を理解しよう、相手に理解されようとする気持ちなんです」
「正体不明が身上の妖怪に、そりゃまたありがたい言葉ね」
「私はありがたさが身上なものでして。
ですから、知らない内に些細な間違いを笑うようなことは慎まなくてはいけませんよ?」
「えー、それは無理ね。だってさっきのムラサほんとに面白かったし」
「あんたまたゲンコ落とされたいわけ?」
調子よく答えるぬえに握り拳を見せつける一輪。彼女をたしなめながら、星はぼんやり問いかけた。
「それにしても……一輪もよく覚えているものですね、聖が言ったことを」
「当然っ、自慢じゃないけど姐さんの御言葉はすべて聞き漏らしていないんだから」
◇ <-> ■
「あら、それは嬉しいわね」
「でしょでしょ? もっと褒めてくれてもいいのよ!」
「ふふっ、えらいえらい」
鼻高々に胸を張る一輪の頭を撫でる柔らかな手。じんわりとした暖かみが頭巾越しに彼女を覆い、至福の階段を昇らせる。
そんな彼女の姿を微笑ましく見守るのは、星やナズーリン、ぬえ、村紗たち。
「……あれ?」
「一輪は昔から熱心な子でしたものね、貴女も変わりなくて嬉しいわ」
「……………………
ぎょえーーーーー!!! ねねね、姐さん!?!!?!??!?」
一輪は驚いた。頭巾が吹っ飛ぶくらい驚いた。
泡を吹いて慌てふためく彼女を尻目に、
「やあ船長。ようやくのご帰還、まずは何より」
「はぁい。えーと、話の邪魔しちゃった?」
「いえいえ、昔話にも先ほど一区切りついたところですよ」
「あら、昔話ですか。気が合うというか、なんというか」
やいのやいのとたちまちの内にかしましい花が咲く。
そんな中、寝転がるぬえの瞳は必然、村紗へと向けられる。
真面目で冷静沈着、折り目正しいムラサ船長。そんな彼女にも、尊敬する相手をお母さんと呼んだり、無愛想な一面がある。
もしかしたら、自分が知らないような顔、自分が知らないムラサの正体が他にもあるのだろうか。
知るというのは時に恐ろしいことでもある。その先をもっと知りたくなる。それが深入りだとわかっていても。
先ほどは軽口を叩いてみせたものの、ぬえの心はどうにも落ち着かない。
「何よ、さっきからじろじろ見ちゃって」
「!? べ、別に……」
突然視界に飛び込む、ジト目をした村紗の顔。
見詰め合う視線に鼓動が高鳴りを上げてしまい、慌ててそっぽを向く。
訝しげに眺めていた村紗だが、にんまり笑みを浮かべると
「んふふ~……えいっ」
やおら、ぬえのほっぺを突っついた。
「ちょ、むらひゃっ」
「あはは、ぬえのほっぺやらかーい」
きらめくほどに満面の笑顔でぷにぷにとほっぺを突っつく村紗。
あまりに唐突で動転していたぬえだが、はたと気を取り直すと、
「いきなりあにすんのよ、ムラサっ!」
と言い寄りながら村紗の腕を押し留め、むくれた顔で睨みつけた。
対する村紗は、きょとんという形容が似合いそうな顔で見返しながら返答する。
「いや、あんたがさっき私を笑ってくれたから、私も笑いたいなーって」
「……はい?」
「鈍いわねぇ。あんたが笑った、私も笑った。だから、おあいこってこと」
うんうん、と満足げに頷く村紗。一人で納得するどこか滑稽な様子を見ながら、ぬえもまた得心する。
――ああ、そっか。ムラサなりに許してくれるってことなんだ。
そんなに悪いとも思っていないけれど、でも……許してくれるなら、それに付き合ってあげるのも、悪くはない。
心中そう思いながらも、弱味を見せないようにぬえはうそぶく。
「ふん、仕方ないわね。ムラサがそんなに言うんだったら、ちょっとだけなりゃ……」
「ねーみんなー、見て見てー。ぬえのほっぺったらこんなに伸びるのよー」
「そこみゃでゆるひたおぼえはにゃあい!?」
その後、ぬえはほっぺのみならずそこかしこを寺の住人たち一同にぺたぺた玩ばれたのであった。
夜闇の中、居間に灯る燭は命蓮寺を内側から照らす。そこに響き渡る、暖かな笑い声。
擦り切れた記憶の隣にまた一枚、新たな思い出が積み重なる。
その瞬間、寺の空気が止まった。
「あっ」
居合わせた面々の視線を受けると、発言の当事者――村紗水蜜は頓狂な声を上げて、口元を手で覆い隠す。
彼女の顔に浮かぶ、やっちゃった、と書かれたような表情。その中でも一際目を引くのは頬に散る恥じらいの桜花。
縮こまる村紗を見据えながら、一人思いを巡らせる者がいた。ダウザーの小さな大将、ナズーリンである。
(ふむ、船長も長らく苦労してきたからね。気を張ることもない平穏無事な日常、つい口が滑ってしまったのだろう。
とはいえ無言の行を強いられ続けるのも、夜陰に灯火を囲んで語らう場にはいささか似つかわしくない。
さて、どうしたものか……ここは私が絶妙の一言で静寂を打ち払うのが相応しいかな。
何事も無かったように新しい話題を振るというのは下策だ。それでは船長を無視し、この場から孤立させてしまう。
肝要なのは、船長の間違えを脇に置いた上で彼女を立てる点にある。
そうだな、『では、私が皿洗いを担当するよ。ご主人様はどうする?』……これはどうか。
先んじて彼女の主張を受容し、かつ、話しあぐねている他の者に会話の受け皿を手渡す。
共通の話題を通じて会話が回り始めれば、場の調和も乱れず自然と元の通りに戻るだろう。
そのためならば皿洗い程度は安い苦労さ。ふっ、これで貸し一つだよ、船長)
この間1秒。賢将たる者、頭の回転が速くなければ勤まらないのだ。
心の中で浮かべる満足げな笑みをおくびにも出さず、ナズーリンはつとめて淡々と口を開き、
「では、私が「あっははは! お母さんって、ムラサったら何言ってんの? ぷっ、くくく」」
ぬえが大爆笑した。
(……空気読め!!)
覆水は盆に返らず、落花は枝に還らず。機会損失、場の調和は完全にぶち壊しである。
先ほどの静寂から仕切り役を取って代わったのは、無邪気なまでに容赦ないぬえの笑い声。
よっぽどツボにはまったのか、腹を抱えひぃひぃ息を堰き切らせながらもその笑いは止まらない。
対する村紗はというと、面貌を紅潮させ、弓弦のごとく引き絞った唇は微動だにしていなかった。
大きく見開かれた碧緑の瞳には、今にも溢れ出しそうな感情が表面張力にはちきれている。
つくづくどうしたものか……そう思いながらナズーリンが周囲を眺めやると、途方に暮れた表情の星と目が合った。
(弱りましたね、ナズーリン)
(まったくだ、私の見せ場が)
(見せ場?)
(……とにかくご主人様、まずは君の隣でバカ笑いしているぬえを黙らせてくれ)
(判りました。口封じですね!)
(だいぶ意味合いは違うがこの際それでもいいよ)
この間0.5秒、すべてアイコンタクトによるものである。
長年付き従ってきた主従たる者、このくらいの意思疎通ができなければ勤まらないのだ。
普段は茫洋としている星の双眸が枇杷の種のような形を描いて尖り、総身は不断の決意を立ち昇らせる。
しなやかに揺れる上半身は、まさに獲物を狙う肉食獣のそれであった。
寅丸星の爪牙にかかれば、哀れ、あらゆる生き物は呼気すら残さず永遠の沈黙に陥るであろう。
(ふふ……薄らぼんやりとしているように見えてもこの気迫。さすがは我がご主人様だ)
一方のぬえは未だに笑いっぱなしである。もはや勝負は決したも同然。
解き放たれた獣が今まさに飛びかかり、静寂を乱す者の口を塞ごうとしたその瞬間――
「ぷぎゅっ!!」
足をもつれさせ、変なうめきを立てて彼女は顔面から畳へと突っ伏した。
(あ……足が痺れました)
(ご主人様……)
格好良かったのは上半身だけか! とツッコむ気力すら湧かず、腰砕けするナズーリン。
その間にも笑い声は寺の一室に響き渡る。一回転して思い出し笑いの周期に入ったか、耳障りなほどにかしましくやかましい。
俯いている村紗の表情は掴めないが、震える肩は否応無く抑えられぬ衝動を周囲に知らしめる一方。
彼女の反応をぬえは知ってか知らずか。知っているのならその無神経、まさに悪鬼の所業。そもそも妖怪だった。
ああ、やんぬるかな。
(もはや今のご主人様に期待はできない。誰か、他にこの状況を覆せる存在は……)
その瞬間、圧し掛かる重圧を撥ね退けて立ち上がる一つの影があった。
これまで微笑の裏に沈黙を保ってきた、聖白蓮その人である。足は痺れていないらしい。
場の調和を再度築き上げるに相応しい堂々たる威風に、ナズーリンは安堵する。
天魔鬼神をも折伏せしめる彼女ならば、空気読めない正体不明の小娘などすぺぺのナムサーンだろう――
そんな確信(※私怨含む)を胸に抱いて見守る中、柔らかな微笑を浮かべた白蓮が言を発した。
「ムラサ」
「はっ、はい!」
(あれ?)
ツツジの花さながらに真っ赤な面持ちのまま、村紗は慌てて起立する。
彼女のセーラー服もあいまって、まるで教師に名を呼ばれた女学生のような光景である。
見れば、拍子抜けしたのはナズーリンだけではなかったようだ。ぬえもようやく状況を察したらしく、黙って二人を交互に見ている。
注視の占有者となった白蓮は、それを意に介さず村紗の腕をむんずと握り、
「ちょっと二人で話しましょうか?」
「えっ、あ、あの……」
「みんなごめんなさいね、少し席を外しますから」
笑みを絶やさぬまま、付いてくるよう村紗へと促す。
返事も聞かず、白蓮は居間の面々へと手を振りながら、事態が飲み込めず目をしぱたたかせる村紗を引っ張っていった。
ナズーリンとぬえは唖然としながら、白蓮という名のマイペースなつむじ風を見送るのみ。
残されたのは二人と未だに産まれたての小鹿のように足を震わせている星、そして、
「あれ……ムラサー、白蓮ー、私の相手はー?」
「あんたの相手は……こっち!」
「あ痛っ!?」
「……ったく、あんたはバカみたいに笑いすぎなのよ」
ゴチン、とぬえの目に散る火花。
居間にいるのは、ただ今ゲンコを落とした一輪を合わせて計四人であった。
悶絶する者が二人になったのも無視して、ナズーリンは白蓮と村紗が消えていった廊下をぼんやり見つめる。
「……? どうしたのよ、姐さんとムラサがそんなに気になるの?」
「ああ、そういうわけでもないんだがね。ただ……」
賢将たる者、頭の回転が速くなければ勤まらない。
ゆえに、彼女は咄嗟の出来事でも相手の心情を察しえる明敏な知覚を備えていた。
「白蓮の姿がとても嬉しそうに見えたのさ」
◇ <- ■
遥けき彼方へ広がる夜闇に、弧を描いて浮かび上がるは人の手ならざる下弦の月。
夏の夜空を一望できる縁側へ鼻歌混じりに現れる者一人、そして彼女に引っ張られてもう一人が顔を出した。
つかの間の逃避行から一段落すると、喧噪を冷ますように夜風が吹き抜けていく。
グラデーションを帯びた金のウェーブヘアーをしなやかになびかせる心地よい風。
黒髪をくすぐる一撫でにトレードマークともいえる船長帽を片手で押さえながら、村紗は先の情動を追想していた。
お母さん。
そう口走った瞬間、彼女の胸に去来したのは子供じみた言い間違いへの羞恥と――
それ以上に、今は色褪せ擦り切れておぼろに浮かぶ、生前の記憶であった。
絶対に忘れはしない、手放さない、そう願って心の底へと錨を降ろして繋ぎ止めてきた。
それでも、今は鉄鎖も錆びつき砕け散りかけている……愛しい父と、母との思い出。
ない交ぜになった感傷を必死にこらえる自分がまた情けなくて、こんなんじゃぬえに笑われても仕方ないとすら感じていた。
あの場に留まり続けていたら、今頃どうなっていたか。堤を切って溢れ出した感情で悲涙をこぼすか、癇癪を起こしていたかもしれない。
それを食い止めてくれた聖への感謝と崇敬の念は絶えず、村紗は心中ほっと胸を撫で下ろしていた。
「ありがとうございます、聖。おかげで助かり」
「水蜜」
「は、……はい」
水蜜。二人でいる時や親愛の情を込める時、彼女は村紗のことをそう呼ぶ。
穏やかながら凛とした力強さを秘めた声音に、思わず村紗は背筋を正して次の言葉を待った。
「……貴女に一つ言わねばならないことがあります」
白魚のように細やかな白蓮の指先が村紗の両手を包みこみ、胸元の前でぎゅっと握り合わせる。
月明かりが映し出す白蓮の面貌は真剣そのもので微塵も戯れを感じさせない。
燦々とした輝きを放つ瞳は、まるで心の影を払いのける純正の琥珀。その前にすべての偽りは意味を成さないだろう。
「いいですか、水蜜……」
「…………」
粛々たる佇まいに、村紗の内心は暗雲立ちこめ波打つ。
もしかして、気を抜くとは何事か、動転した無様な姿を見せるなんて不甲斐ない、と叱責されるのだろうか?
そうならば仕方ない、甘んじて責めを受け入れよう。心苦しきはひとえに自分の未熟さにある。
それでも、皆の前でないことは聖の優しさだと捉えられるだろう。
いかなることを言われようとも、このような場ならさっきほどの羞恥心を抱くことはないはずなのだから。
だが、次に白蓮の口から発せられる言がもたらした効果は先の比ではなかった。
「もう一度お母さんって呼んで♪」
その瞬間、村紗の空気が止まった。
「水蜜がそんな風に呼んでくれるなんて、私嬉しくて……お願いだから、ねっ?」
「…………」
初弾、第一艦橋を貫通。次弾、機関部に直撃。
さっきとは打って変わった白蓮の甘い猫撫で声は、紅蓮のとぐろを巻きあげる焼夷弾と化して思考回路を溶かし尽くす。
思わぬ奇襲を受け完膚なきまでに轟沈した水蜜号。彼女は頭の上から爆煙を噴出し、顔面に総員退艦の赤信号を点滅させていた。
そんなアラームも立て板に水で、いつ呼んでくれるのか心待ちに瞳を煌めかせている白蓮。艦と運命を共にする気まんまんである。
陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせた村紗が平静を取り戻すには、しばしの時を要するのであった。
◇ -> ■
「まあ、姐さんも昔は人間だったし……ムラサは幽霊だから」
「……なるほどね。そういうことか」
「はい? 何がどういうこと? 話が見えないんですけどー」
頷くナズーリンに対して、ゲンコが落ちたつむじを押さえながらぬえが尋ねる。
いぶかしげな顔をした頭上にぴょこんと大型のクエスチョンマークが浮かぶ。
「それはですね、ぬえ」
そんなぬえに声をかけたのは、振る舞いを正して座り直した星だった。
その悠揚としながら厳かさを失わない佇まいは、さすが、毘沙門天の代理と呼ばれるだけはある。
(……痺れた足を崩してなければ満点なのだがね)
なまじ観察眼に優れていると、気づかなくていいことにも気づいてしまう。
それを黙っているのも従者の勤めと甲斐甲斐しく見守るナズーリンであった。
「聖も人間に近しいですから、母という言葉には我々よりも思い入れがあるのでは……と思います」
「……つまり、お母さんって呼ばれて喜んでたの? ふーん……」
「そういうものなんですよ。我々妖怪にはちょっとわかりにくい感覚かもしれませんが」
頬杖突いて、呆れ調子のぼやきを漏らすぬえ。それを温和にたしなめて、星は瞳を中空へと向ける。
その金色が映すものは遠く懐かしい過去。浮かび上がる呟きは赤茶けた思い出。
「それに……今回はムラサだから尚のこと、ですかね」
「なになに、ムラサだからってどういう話よ。それは興味あるわね」
「え? えーっと……」
村紗の名が出た途端、目を輝かせたぬえから問いかけが飛んだ。ぴくぴく動く耳と羽からは隠しもしない好奇心が見て取れる。
星が苦笑を浮かべながらナズーリンと一輪に目配せすると、二人は肩をすくめて答える。
「本人が知りたいのなら知ってもらった方が、のちのち気が楽だろう」
「別にいいけど……話のタネにしてムラサをからかったりするんじゃないわよ」
「えー。善処はするから教えてよ、ね?」
調子よく舌を出しておどけると、本当に大丈夫なのか不安げな眼差しで一輪も見つめ返す。交錯する視線。
「……まあいいわ」
勝負を制したのはぬえの方だった。
多少は信用に至る目だと見たのか、頭巾越しに頭を掻きながら訥々と語り始める。
「ムラサのあんな顔、私も久しぶりに見たしね」
◇ <- ■
「……聖のイヂワル」
「ごめんなさい水蜜、その……至らない所は改めますから、機嫌を直して?」
縁側に座り込み、期待という名の砲撃からなんとか持ち直した村紗。
頬を朱に染めながら人差し指を突き合わせてもじつく彼女を、白蓮は懸命になだめる。
「無理を言ったなら、もうあのようなことは頼みません。
いささか寂しくはあるけれど……あなたがそう願うのなら、私は受け入れるのみです」
そう言って真摯に見据える琥珀色の眼差しは、ただひたすらに誠心誠意。
村紗が断れるはずはない、などという打算は寸鉄たりともなかった。
そんな考えを持っていたとしたら、こうも多くの者たちに白蓮は慕われていなかっただろう。
彼女は何事にも常に精一杯で本気なのだ。生を謳歌することも、苦楽を享受することも、他者を慈しむことも、過ちを改めることも。
だからこそ、白蓮の純粋な優しさは村紗の心を縛って離さない。
心の臓に絡みつく茨のように、甘い痺れを伴って。
「……やっぱりイヂワルです」
「え?」
「なんでもありませんっ」
夜風がまた吹いて、呟きは身体にまとわりつく暑気と一緒にかき消されていく。
腰かけた位置を整えて座りの悪さをごまかしながら、天空に掛けられた漆黒のヴェールを仰ぎ見る。
「それよりも、ほら。今夜は空がとても澄んでいますよ。柄杓星もあんなにはっきりと」
「あら……ほんと。柄杓星、今でもすぐに見つけられるのね」
「昔取った杵柄ですよ」
指差す先に輝くのは柄杓を描く七つ星。北極星とは目と鼻の先、航海の目印となる星である。
瞬時に見つけ出したことをたおやかに讃えて、柄杓星を静かに見上げる。
「水蜜は本当に空が好きなのね」
「好きというか、好きになったんです。聖輦船と一緒では、さすがに地底は窮屈すぎました」
「そうねぇ……私も窮屈なのは苦手だわ」
「聖は落ち着きがありませんから」
「そうかしら?」
「そうですよ」
「まあ、そうなの」
頬に指を当てて、真剣に考え込む仕草を気取る白蓮。とぼけたやり取りに目を見合わせた二人は、どちらともなく笑いあっていた。
秋の夜長に顔を出す鈴虫より一足早く、鈴の鳴るような笑い声が縁側に響き渡る。
◇ -> ■
「今でこそあんな調子だけど、初めて会った頃のムラサはものすっごく陰気でね」
「せんせー、あんな調子って能天気でちゃらんぽらんってことですかぁー?」
「そんな言い方はいけませんよ。素直で快活と言ってあげないと」
「それはフォローのつもりなのか……? やれやれ、船長が聞いてたらさぞおかんむりだろう」
「ええい、話を混ぜっ返すなっ」
好き勝手しゃべくる一同に、一睨みを効かせて主導権を取り返す一輪。
ごほんと咳払いして、脱線しかけた話の軌道を修正する。
「とにかく、姐さんにいつもべったりで……その時も仏頂面ばっかし。あいつが楽しそうな顔してた覚えがないわね。
姐さんにもそんな調子だから、それ以外の妖怪たちとは関わろうとすらしなかったわ」
「ふーん。白蓮は何も言わなかったわけ?」
「言ってたとは思うけど……でも、あの時はね」
一輪は言葉を切ると、伏し目がちになって悔悟するように呟く。
「私たちもムラサを避けていたの」
「なんで?」
「白蓮に匿われていた妖怪たちの大半が、放っておけば遠からず人間に殺される無力な者たちだった。
船長のような強い妖力の持ち主は、あの頃の寺には異質だったのさ」
言を継いだナズーリンに目を向けるも、ぬえの頭にはまだ疑問符が集う。
「星はどうだったのよ。あれを無くしててもムラサと同じくらいには強そうだけど」
「はい、宝塔が無くともそれなりには。ただあの頃は……」
「あれってだけで宝塔だと通じる事実が悲しいね」
「……がーん……」
「私が悪かったから落ち込まないでよ……」
甚大な精神的ダメージを受けて円卓に突っ伏す星。
気を取り直すように首を振り、顎に手を添え過去の記憶を引き出すため少々考え込む。
「……あの頃は何分、毘沙門天の代理を務める修行のために寺を離れていた時期でして。
居合わせたとしても他者に目を向ける余裕は無かったでしょうね」
「じゃあ一輪は? ほら、あの入道も一緒じゃない」
「雲山の名前くらい覚えなさいよ。この前、あんたに呼ばれたことないって夕焼け雲に融けて黄昏てたわよ」
「それはそれとして」
物を脇に置くジェスチャーであっさり流すぬえ。本人が聞いていたら寺の屋根中に涙雨が打ちつけられていたであろう。
そんなやり取りを交わしながら歯切れ悪く、
「……まだ雲山と会う前だったのよ」
「え、ええー?」
「何よその驚き方は。まるで私と雲山が同じ木のうろから産まれたみたいじゃない」
「違ったんだ……」
「おい!!
……ま、操る入道もいない入道使いなんて、単なる弱小妖怪ってわけ。私もあいつのことを避けて……というより、恐れていたわ」
と、肩をすくめて述懐する。そんな話を聞きながら、ぬえは心中驚いていた。
村紗が他者を拒絶し、一輪は村紗を恐怖する――二人の阿吽の呼吸を知るぬえには想像もできない場景。
はたしていかなる出来事を経て今の関係を築き上げたのか、ぬえは自然と姿勢を正して話に聞き入り始めていた。
◇ <- ■
天を覆う一品物の暗幕に散りばめられた、大小様々なホワイトダイヤモンド。二人は言葉を奪われて煌く宝石に魅入られていた。
地上に出られた初めての夜以来、村紗は空を見るのに飽くことは無かった。地底では感じえない輝かしき自然の創作。
当たり前の存在がこんなにも美しいなんて、千年前は気づきもしなかったから。
「……同じ闇でも、夜空はどこか柔らかいのね。法界の闇を知って、初めて気づいたわ」
白蓮が隣で静かに呟く。
見れば、同じようなことを考えていたのだろう。繊細な柳眉をたわめ、失った千年を取り戻すように瞳へと星空を焼き付けていた。
夜空を仰ぐ白蓮をじっと見つめて、沈黙に流れる時を任せる。
するとその視線に気づいたのか、ぱちくりとまばたきをして白蓮は村紗へ微笑みかけた。
「一度失ってみて、初めて思うの。肌に照りつける日差し、草花の甘い香り、湿った土を踏みしめる感触……その大切さを」
「私もです。昔はそれを考える余裕も抱けなかったんだな、って」
「貴女にも手を焼かされていましたしね、昔は」
「……私、そんなに問題児でしたか?」
「ええ、それはもう」
遠慮なく首を縦に振る白蓮。真っ正直なことこの上ない答えに村紗はがっくり肩を落とす。
「だってほら、昔の水蜜ってそれはもう愛想がなかったじゃない?
私が口を酸っぱくして皆と仲良くしなさいって言っても聞いてくれなかったし、それどころか迷惑かけて困らせるし……内心嫌われてるかもって、ずっと思ってたのよ。
法界にいる間も皆のことは気になったけど、特に貴女はうまくやっていけてるか心配で仕方なかったわ」
「そ、そんな風に思われていたなんて……」
「まあまあ、昔の話ですし、ね?」
「それはそうかもですけど……そもそも、迷惑かけたのも聖が寺のことばかりで私に構ってくれないからで……」
「そうね、まだ子供だったのに私も気付いてあげられなかったわ。
……あら?」
白蓮が改めて村紗の方へ向き直ると、彼女は大げさに胸元を押さえて悶絶していた。
潤んだ瞳で白蓮を見上げて、恨みがましく言い放つ。
「こ、こども……そりゃそーでしたけどぉー……聖のイヂワル!!」
「あ、あらあら……」
◇ -> ■
「ある日、姐さんと姐さんの部屋を除いて寺中が水浸しになる事件があったの。もうみんな濡れ鼠よ」
「濡れ鼠……」
「……私を見てどんな想像しているんだ、ご主人様」
「それってやっぱりムラサが?」
「ええ」
一輪は重々しく頷いた後、昔語りを続ける。
その口運びは先ほど以上に言葉を選ぶ、慎重なものになり始めていた。
「で、それから何日か経った後、姐さんが寺にいる全員を招集してね。
みんなが見ている前でたくさんの書簡を置いて、ムラサにこう言ったの」
そこでいったん口をつぐみ逡巡するが、意を決したように次の句を告げる。
その内容に星とナズーリンはただ沈黙し、ぬえでさえも驚きのあまり瞳を見開いた。
「『この書簡には貴女が沈めた船と乗員の名が記されています。
一言一句、全てを暗誦しなさい。諳んじるまで、今後一切貴女の言葉には答えません』
……ってね」
「うへえ……」
「その後はムラサが騒いでも、泣いてすがっても無視。
それでまあ、あいつが顔を真っ赤にして柄杓を取り出した瞬間――」
その瞬間パン! という乾いた音が居間中に響き渡る。
仰天して反射的に身をたじろがせるぬえ。音の源は一輪が打ち鳴らした両手であった。
「姐さんの平手が飛んでね。ムラサも私たちも、みんな呆然としてたわ」
「おっかなー。白蓮は怒らせないようにしよっと」
「怒る? そんなんじゃないって」
「え、だってムラサが悪いことしたから怒ったんでしょ?」
「……あんたにもわかるわよ。そのうちね」
含みを持たせて宙を仰ぐ一輪に、ぬえは頭からクエスチョンマークを出して首をかしげるばかり。
「ま、私もあの頃は姐さんが怒ったと思っててね。言っちゃなんだけど、最初は『ざまぁみろ』だったわ。
何考えてるかわかんないやつだったし、寺中水浸しにされた後だし」
「へー……」
口を挟まず聞き入るぬえ。一輪はふと言葉を止めると、にんまり笑みを浮かべる。
「な……何よ、気味悪い」
「いやいや、ずいぶんと興味津々なんだなーと」
「別にいいでしょ! ……続きは!?」
慌てふためきそっぽを向きながらも、横目でチラチラと見やりながらしきりに先をせがむ……そんな仕草を、一輪は鷹揚に笑う。
「あははっ……はいはい。
ま、それからしばらく経ってね。私が寺の夜警を担当していた時、塀の方へ向かう人影を見つけたの。
もしや盗っ人でも入ったのかって慌てて追いかけたんだけど、そこにいたのは……」
「もしかして……ムラサ?」
「当たり。それで灯りを突きつけて問いただしたら、こっちを向いたんだけどね。
あいつ、どんな顔してたと思う?」
「どんなって、仏頂面なんじゃないの」
その返答に対し、首を横に振る一輪。
「さっきみたいな表情よ。今にも泣き出しそうなのを他人に見せまい、ってね」
「え……」
「それで私と目が合った瞬間にわんわん泣いちゃってさ。
聖は私がきらいになったんだ、こんなとこ出てってやる、放っといてくれ。そんなことをわめき散らすわけよ。
むかついたからふん捕まえて無理やり連れ戻してやったわ」
「でも、ムラサの方が一輪より強かったのよね? その時は怖くなかったわけ?」
ふん、と鼻を鳴らして問いかけを一蹴すると、一輪は堂々と胸を張って答えた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花。泣いてるお子様が怖いものですか」
◇ <- ■
「水蜜、落ち着いた?」
「落ち着きました……」
「そう、良かった」
平静を取り戻し、含羞に頬を赤らめさせて村紗は呟く。首をうなだれて、はう、と大きな溜め息を一つ。
縁側に腰掛けた真っ白な両足が、ゆらゆらと揺れていた。
「でもね、水蜜……私は嬉しかったのよ」
「はい……?」
しょげこむ村紗の頭を柔らかく撫ぜながら、白蓮は静々と語りかける。
「あんなにも心配をかけさせた貴女が、私を法界から救い出してくれた時。
ああ、この娘は立派に成長したんだな……そう思ったの」
「…………」
「私が貴女と過ごした時は間違っていなかった。水蜜、貴女はもうあの時の子供じゃないのね」
「……子供ですよ、私は」
羞恥に染められた顔を見られまいと、白蓮の胸元に己が身をそっと投げ出して呟く。
不甲斐ない姿など見せたくはないのに、この人の前ではいつも無防備になってしまう。
千年をかけて構築した"船長"という防波堤の中へと、分子の隙間をすり抜けていとも容易く潜り込んでしまう。
こうして抱き止められている今でも、はずかしくて、せつなくて、うれしくて、あたたかくて。
だから私は――
「――白蓮の子供です。私は、ずっと」
言葉はなかった。ただ手の平から伝わる思いだけがそこにはあった。
――ありがとう、水蜜。貴女は最愛の娘ですよ――
夏風の優しさに包まれながら、二人はしばし心で語り合う。
耳に反響するのはひゅうひゅう鳴る風の音、木々に茂る葉のさやめき。ほう、ほうと低く鳴くのはフクロウか。
失われた千年の追想は一夜では足りないが、これから少しづつ埋めていけばいい。自分と白蓮、皆の時間はこれから進むのだから。
村紗は穏やかに、そう思っていた。
◇ -> ■
「話してみると結局ね、ムラサも私たちとそんなに違わなかったのよ。
あの頃のあいつには聖しか見えてなかった。私たちもあいつを見ようとしていなかった。
それをなんとかしたくて、姐さんはみんなの前でああ言ったのよ」
「白蓮が仲良くしろって言うんじゃダメだったわけ?」
「ムラサは聖に庇護されている……そういった色眼鏡で見る者は、少なからず現れるでしょう。
皆に対等でいてほしかった、聖はムラサにもそう願っていたのだと思います」
一輪の言を継いで、星が答える。だが、円卓に頬杖を突いたぬえの疑問はまだ尽きない。
「でもさぁ、ムラサに嫌がらせしたくて自分が殺した相手を覚えろって言ったわけじゃないの?」
「『過去を忘れてはなりません。課せられた力は弁えねばなりません。
でも、償いのためにその身を捧げないで』」
瞑目しながら人差し指をピンと立て、朗々とした声をあげる一輪。
きょとんとするぬえを横目に、鉦鼓のように凛々しい声が居間に張り上げられる。
「『今の貴女には多くの友人たちがいます。どうかその眼を狭めないで。その心を曇らせないで。
私のためでも、手をかけた者たちのためでもない。現世に留まって良かったと心から思える、そんな生き方を送ってほしいんです』
……書簡を諳んじたムラサに、姐さんが言った言葉よ」
そうしてパチリとウィンクを一つ。
白蓮を知ってまだ日の浅いぬえでもわかるほど、込められた思いの真摯さが伝わってくる。
そして、白蓮なら本当にそう思ってムラサに語りかけたのだろう、ということも。
「だいたいね、本当に嫌いだったら一字一句丁寧に書簡を書き上げたりしないって」
「むむむ……」
腕を組み唸りを上げるぬえ。皮肉げな笑みを絶やさないナズーリンはその様を愉快そうに見守る。
考えるというのは悪いことではない。それはぬえ自身に協調の意思があることを示してくれているからだ。
そして思索に心を巡らせられる、前進しようとする者は信じるに値する。
「ま、白蓮も船長も昔は色々あったということさ」
「はー、そういうもんなのねー。……私にとってのムラサは今のムラサだけだし、やっぱよくわかんないや」
「ふふっ……最初は誰しも感じえないものです」
大の字に寝転がり、ぽつりと呟く。
どこか寂しさが漂っているのは、自分にはまだ知らないことが山ほどある、そんな孤独感ゆえか。
その寂しさを柔和な表情で包み込み、日頃の説法のような調子で答えるのは星であった。
「長く付き合えばそのうち解っていきます。大切なのは相手を理解しよう、相手に理解されようとする気持ちなんです」
「正体不明が身上の妖怪に、そりゃまたありがたい言葉ね」
「私はありがたさが身上なものでして。
ですから、知らない内に些細な間違いを笑うようなことは慎まなくてはいけませんよ?」
「えー、それは無理ね。だってさっきのムラサほんとに面白かったし」
「あんたまたゲンコ落とされたいわけ?」
調子よく答えるぬえに握り拳を見せつける一輪。彼女をたしなめながら、星はぼんやり問いかけた。
「それにしても……一輪もよく覚えているものですね、聖が言ったことを」
「当然っ、自慢じゃないけど姐さんの御言葉はすべて聞き漏らしていないんだから」
◇ <-> ■
「あら、それは嬉しいわね」
「でしょでしょ? もっと褒めてくれてもいいのよ!」
「ふふっ、えらいえらい」
鼻高々に胸を張る一輪の頭を撫でる柔らかな手。じんわりとした暖かみが頭巾越しに彼女を覆い、至福の階段を昇らせる。
そんな彼女の姿を微笑ましく見守るのは、星やナズーリン、ぬえ、村紗たち。
「……あれ?」
「一輪は昔から熱心な子でしたものね、貴女も変わりなくて嬉しいわ」
「……………………
ぎょえーーーーー!!! ねねね、姐さん!?!!?!??!?」
一輪は驚いた。頭巾が吹っ飛ぶくらい驚いた。
泡を吹いて慌てふためく彼女を尻目に、
「やあ船長。ようやくのご帰還、まずは何より」
「はぁい。えーと、話の邪魔しちゃった?」
「いえいえ、昔話にも先ほど一区切りついたところですよ」
「あら、昔話ですか。気が合うというか、なんというか」
やいのやいのとたちまちの内にかしましい花が咲く。
そんな中、寝転がるぬえの瞳は必然、村紗へと向けられる。
真面目で冷静沈着、折り目正しいムラサ船長。そんな彼女にも、尊敬する相手をお母さんと呼んだり、無愛想な一面がある。
もしかしたら、自分が知らないような顔、自分が知らないムラサの正体が他にもあるのだろうか。
知るというのは時に恐ろしいことでもある。その先をもっと知りたくなる。それが深入りだとわかっていても。
先ほどは軽口を叩いてみせたものの、ぬえの心はどうにも落ち着かない。
「何よ、さっきからじろじろ見ちゃって」
「!? べ、別に……」
突然視界に飛び込む、ジト目をした村紗の顔。
見詰め合う視線に鼓動が高鳴りを上げてしまい、慌ててそっぽを向く。
訝しげに眺めていた村紗だが、にんまり笑みを浮かべると
「んふふ~……えいっ」
やおら、ぬえのほっぺを突っついた。
「ちょ、むらひゃっ」
「あはは、ぬえのほっぺやらかーい」
きらめくほどに満面の笑顔でぷにぷにとほっぺを突っつく村紗。
あまりに唐突で動転していたぬえだが、はたと気を取り直すと、
「いきなりあにすんのよ、ムラサっ!」
と言い寄りながら村紗の腕を押し留め、むくれた顔で睨みつけた。
対する村紗は、きょとんという形容が似合いそうな顔で見返しながら返答する。
「いや、あんたがさっき私を笑ってくれたから、私も笑いたいなーって」
「……はい?」
「鈍いわねぇ。あんたが笑った、私も笑った。だから、おあいこってこと」
うんうん、と満足げに頷く村紗。一人で納得するどこか滑稽な様子を見ながら、ぬえもまた得心する。
――ああ、そっか。ムラサなりに許してくれるってことなんだ。
そんなに悪いとも思っていないけれど、でも……許してくれるなら、それに付き合ってあげるのも、悪くはない。
心中そう思いながらも、弱味を見せないようにぬえはうそぶく。
「ふん、仕方ないわね。ムラサがそんなに言うんだったら、ちょっとだけなりゃ……」
「ねーみんなー、見て見てー。ぬえのほっぺったらこんなに伸びるのよー」
「そこみゃでゆるひたおぼえはにゃあい!?」
その後、ぬえはほっぺのみならずそこかしこを寺の住人たち一同にぺたぺた玩ばれたのであった。
夜闇の中、居間に灯る燭は命蓮寺を内側から照らす。そこに響き渡る、暖かな笑い声。
擦り切れた記憶の隣にまた一枚、新たな思い出が積み重なる。
こういう持っていき方は大好きですっ。
命蓮寺の個々のキャラクターもとっても魅力的。
作者さんの愛が伝わってきましたっ。
陰鬱な村沙も乙ですな。
一輪のキャラはぶれないなあ。
なんか色々あったかくなりました。
もう何か心がね、温かくなりました。
一瞬ムラサ自身にそういう元ネタがあるのかと思っちまった
素晴らしき命蓮寺組。
もうまさに家族ですよね。見ててほっこりしてくる。
それぞれのキャラの動かし方、関係、喋り、雰囲気が自分の思い描いてる像と完璧に合致してました。
そしてそれをきっちり書いてくれていることに作者様の愛を感じました。
命蓮寺組最高です!
沈めた船の名前~の辺りは本家のどっかのテキストに記述ありましたね。
やっぱり元ネタがアレでしたかw
星かわいいよ星
一輪の語りも良かった