「なんじゃこりゃ……」
うららかな晩春の昼下がり。主の弱点などお構いなく、存分に陽の光によって美しく映える紅魔館の一室で、怨嗟と絶望のこもった呟きが放たれた。
声の主は手に持った広告らしきものから逃げるように視線を外し、意を決してもう一度目を向ける。
「なんじゃこりゃ……」
抵抗空しく、憎々しげに二度目の呟きをもらす。広告を持つ両の手が、そしてスカーレットの名に恥じぬよう頭のてっぺんからつま先まで完璧に仕立てあげた全身が震えていることを、彼女──十六夜咲夜は認めざるを得なかった。
「……ッ!」
悔しさのあまり、血が滲み出んばかりに唇を噛みしめている咲夜の視線の先には、行きつけの店の広告。曰く、
『五年に一度の超大安売り! なんと店内全商品七・割・引き!!』
店の売り上げと店主の頭を心配したくなる、冗談のような謡い文句。
人里の奥様方も大喜び通り越して何か裏があるのではないかと疑心暗鬼に陥るほどに魅力的なフレーズである。
安売り日の日付が昨日のものでなければ。
「──こんのっ!」
足と腕を大きく振りかぶって、忌々しき広告を今にも床に叩きつけんとする咲夜。
この胸を灼く怒りとやるせなさ、とにかくそれらをどこかにぶつけなければ、咲夜はどうにかなってしまいそうだった。
「…………!」
だがそこはさすがのパーフェクトメイド。
己の自制心を総動員して、あまりにも瀟洒ではない全力投球だけはなんとか踏みとどまった。
「……はぁ」
ため息を漏らしながら腕を下ろす。
咲夜は手の中でくしゃくしゃになった広告をもう一度名残惜しげに見て、自室のゴミ箱に向かって放り投げた。が、
トン、ポスッ
百発百中のナイフ投げを繰り出す魔の手から放たれた紙屑は、見事ゴミ箱の縁という小さい的に命中するのであった。
もちろん紙屑の行方は、咲夜自身の手によって清潔に保たれたピカピカの床である。
「……………………………………」
時間にしておよそ十五秒。なんでもない時間にも思えるが、音の途絶えた世界でただ床に転がる紙屑を見つめることだけに費やすと、存外長く感じるものである。
「……はぁ」
もはや怒る気力も失せ、むしろ泣きたくなるほどに情けない気持ちになった咲夜は、もう一つため息をつきながら改めて紙屑をゴミ箱に捨てる。ふっ……と自虐めいた笑みを浮かべながら時計を見ると、そろそろ主を起こす時間である。咲夜は最後の最後にもう一度だけ広告の捨てられたゴミ箱に目を向けて、すごすごと部屋を出るのであった。
さて、ここまでの咲夜の行動は、完全で瀟洒の名を欲しいままにし、敬愛する主のためにいつでもパーフェクトなメイドっぷりをいかんなく発揮している彼女にしては、些か余裕と優雅さを欠いたものと言えよう。
だがここで一つ、確認しておきたいことがある。
一癖も二癖もある幻想郷の妖怪に対しても臆することなく、むしろその上を往かんとばかりの実力と余裕さを携えて人外の百鬼夜行に飛び込んでいく。そんな紅魔館の誇るパーフェクトメイド、十六夜咲夜は人間である。今さら言うまでもないかもしれないが“人間”なのである。
主のために完璧であろうとする咲夜も、人の目がなければ大安売りの知らせに一喜一憂するし、時には往年の大投手を彷彿とさせるようなマサカリ投法を繰り出したりもする。
また、時計の針は戻らないという摂理を、自らが時間を操るという規格外の能力を有しているからこそ、咲夜は他の誰よりも理解している。それでも過ぎ去った特売日を、はいそうですかと簡単に諦めることも出来なかった。
だって“パーフェクトメイド”十六夜咲夜も、人間だもの。
主の部屋に向かうため、自身が引き延ばした長い廊下を歩く咲夜の思考は未だに先ほどの広告、正確には「超大安売り!」のフレーズに向けられていた。いい加減未練がましいことも彼女は自覚していたが、何せ七割引である。平時の安売りとはわけが違う。そして五年に一度と銘打ってはいるが、店主が正気に戻るなり家計を預かる奥方にしばかれるなりして、もう二度とあのような特売日は開催されないことも十分に有りうる。いずれにせよ、咲夜は千載一遇のチャンスを逃してしまったのである。改めてそのことを思い知り、彼女は再びため息を漏らさずにはいられなかった。
「……はぁ」
「どうしたの、ため息なんかついちゃって」
咲夜にとってもっとも馴染み深いその声が背後から聞こえた瞬間、彼女は半ば反射的に自らの能力を発動する。
止まる時間。モノクロの世界。速くなる鼓動。流れ出る冷や汗。
──ちょ、ちょっと、なんで? どうして? お嬢様はまだお休みのはずじゃ……!
ただ一人自由を許されたプライベート・スクウェアで、咲夜は盛大に焦っていた。
振り返れば主がいる。そして主は咲夜の漏らしたため息を聞いてしまっただろう。完璧な従者たろうとする咲夜にとって、主の前でため息をつくなど言語道断である。主はまだ部屋で寝ているものだと完全に油断していた己の迂闊さを、咲夜は呪った。
──お、落ち着きなさい私。過ぎたことを言っても仕方ないわ。ここはなんとか上手く華麗に、切り抜けてみせるのよ!
過ぎたことに囚われていた先ほどまでの自分を棚にあげた咲夜は、時の凍った世界で“うー”だの“むー”だの奇怪な唸り声をあげながら、なんとかこの状況を打破する手を捻りだそうとする。そしてポクポクポクとまぶたを閉じて悩み抜いた末、咲夜の頭に舞い降りる一つの閃き──これだ。
自らの閃きが圧倒的であることを確信しつつ、咲夜は何事もなかったかのように瀟洒な笑みを浮かべる。そして自らの世界を閉じ、満を持して主の方へと振り向いた。
「あら、お嬢様。起きていらっしゃったのですか。今ちょうど起こしにいくところでしたのに」
「まあね。たまには従者に起こされる前に目が覚めることもあるさ」
ふわぁ、とまだ眠そうにあくびをする紅魔館の主、レミリア・スカーレット。日が高いこの時間、普段なら吸血鬼である彼女はまだベッドの中だ。寝ぼけ眼の主を見て、自然と咲夜の顔もほころびる。
「それより咲夜、ため息だなんてお前らしくもない。何か悩み事でもあるの?」
レミリアが首を傾けて尋ねる。喜ばしい主の気遣い。しかし咲夜はそれに甘んじるわけにはいかなかった。主の心配を払拭するべく、咲夜は渾身の弁解を試みる──!
「いえいえお嬢様、私はため息なんてついてませんわ」
先ほどまでの動揺をおくびにも出さず、完璧な笑顔を浮かべて言う。全世界のメイド及びサービス業従事者がお手本にすべき、見事なスマイルである。
「うん? そうなの? じゃあさっきのは」
「さっきのあれは、巷で話題の呼吸法です」
訝しげな主にも笑顔を崩すことなく、咲夜は自信満々に言い切った。
「呼吸法」
「はい、呼吸法です。この呼吸法を実践することによって、人は若々しさを保つことができるのです。いくつになっても若く見られたい者、特に女性にとっては、まさに救世主とも言うべき画期的な呼吸法でございます」
「ふーん、すごいんだな」
感心したように頷くレミリアに、咲夜の出任せを不審がる様子はない。
「そう、すごいのです。そしてさらにすごいことになんとこの呼吸法、太陽の性質と同じエネルギーを生み出すことすら可能なのです。これで吸血鬼もイチコロですわ」
ふむふむと聞いていたレミリアの動きがピタッと止まる。なんだか今とんでもないことを言わなかったかこいつ。
眠気などキレイサッパリに吹っ飛んだレミリアが目の前の従者の表情を窺うと、やはり笑顔。笑顔である。
「……ふうん、そう。最近の呼吸法というのは進んでるのね。実に興味深いわ。ところで咲夜、私の種族ってなんだったっけ」
眉間を指で押さえながらレミリアが問う。苦虫を噛みつぶしたかのような表情の主に、咲夜はなぜか嬉しそうに答えた。
「あらお嬢様、ご戯れを。我が主レミリア・スカーレットは高貴なる夜の王にして永遠の不死者、全ての妖の頂点、吸血鬼そのものですわ」
まるで自分のことを誇るかのごとく、歌うように言葉を紡ぐ。どうやら咲夜は主の問いをジョークと解したらしい。レミリア的には割と重大かつ根本的な問いであったのだが。
「そう。うん、そうだね。いや、わかってるんならいいんだ。変なこと聞いて悪かったよ」
主と砕けたやりとりが出来て、ニコニコとご機嫌な様子の咲夜。その笑顔の前には、さすがのレミリアも汗を垂らしながら曖昧な笑みを浮かべるほかなかった。
明確なボケには遠慮なくツッコミをいれればいい、それが世界共通のルールである。だが、この従者のボケは計算なのか天然なのかが非常に判別しづらい。主たるレミリアがこの従者と付き合う上での泣き所の一つである。
「ふう……」
「あら、今度はお嬢様がため息」
「呼吸法だよ。太陽のエネルギーは生み出さないけどね」
早速実践してくれた!
出任せで悪いとは思いつつ、主が自分の言うことに付き合ってくれたことで大喜びの咲夜。しかしそれも胸の内にとどめ、あくまで瀟洒な笑みを保つ。
咲夜が従者としての幸せを静かに噛みしめていると、そんな彼女を主がジーッと見つめてくる。
「……お嬢様?」
「ん?」
「いえ、そんなに見つめられるとなんだか恥ずかしいですわ。それとももしや私の顔になにか──」
ヤバい。
広告に気をとられるあまり、身だしなみのチェックに甘いところがあったか。おのれ広告ビラ、この私にぬか喜びさせたうえ、挙げ句の果てには紙切れの分際で“パーフェクト”の障害になろうたぁいい度胸。部屋に戻ったらその憎き体、千のナイフでミクロ単位の紙吹雪にしてやろうか……!
人前では決して口にしない単語を脳裏に並べ、咲夜の焦りとイライラが再燃する。なんとか笑顔は保てているが、今にもパーフェクトという名の堤防は決壊してしまいそうだ。こりゃいかんすぐにでも鏡を見に行かなければと、再び時を止めようとする咲夜に、レミリアはいたずらっぽく笑いかけながら言った。
「いやいや、咲夜は今日もパーフェクトだなーって思っただけさ」
ご機嫌そうに鼻歌を歌いながらツカツカと歩き出した主の背を、呆気にとられた表情で見送る咲夜。ここへきて初めて瀟洒な笑顔が崩れてしまったが、しかしすぐにハッと気を取り直し、慌てて主の後を追う。
「お、お嬢様?」
「うん?」
「その、あ、ありがとうございま、す?」
返す言葉はこれでいいのかしらんと慮りながらも、とりあえず礼を述べる。正解かどうかはわからなかったが、それでもレミリアはうん、と満足げに頷いた。
それを見て咲夜は訝しげに思いながらも、どうやらため息の件は誤魔化せたようだとホッとする。そして思いがけない主のお褒めの言葉に、咲夜は少しの照れくささと、この世の何にも勝る至上の喜びが胸にこみ上げてくるのを自覚するのであった。
もちろん咲夜の表情は、依然として瀟洒な笑顔のままである。
「れーいーむー、来てやったわよー」
春の陽気が強く降り注ぎ、境内の石畳からの照り返しによって熱せられた空気の温度が夏の到来を予感させる、暑さのピークを迎えた時間帯。レミリアと咲夜は博麗神社に押し掛け、もとい訪れていた。レミリアがこんな日傘という名の命綱必須の時間から起きているのは、このためである。
「れーいーむー。返事なさーい」
レミリアの上から目線の呼びかけに応じる声はなし。神社の神聖さを保つかのような静謐の中に、そんなものはお構いなしといった様子の二人の声だけが響く。
「出てきませんね」
「どうせ昼寝でもしてるんでしょ。……霊夢ー。いるのはわかってるのよー。せっかくこの私が来てやったのだから顔くらい見せなさーい」
なおもしつこくレミリアが呼びかけていると、恐ろしく不機嫌な表情を浮かべた巫女が頭をかきながら障子を開け放った。視線だけで人を殺せるかのような目で、至福のお昼寝タイムを邪魔してくれやがった迷惑な来訪者を睨みつける。
「やっぱり寝てたのね霊夢。よだれの痕がついてるじゃないの。みっともないったらありゃしないわ」
「何人たりとも私の眠りを妨げる奴は許さん」
そう言うやいなや、寝起きであることをまったく感じさせない苛烈な攻撃をレミリアに浴びせる巫女。一息で放たれた無数のお札は、しかしレミリアの背後から同じく放たれた無数のナイフによって撃ち落とされる。攻撃を避けようともしなかったレミリアは、余裕の表情で手に持った日傘をクルクルと回した。
「挨拶代わりに攻撃とは。相変わらず博麗のマナーは常識の斜め上をいくのね」
「非常識の人間筆頭が何を言うか」
咲夜が皮肉を言いながら、ひらりと主の前に出る。それを未だ開ききらない眼でねめつける低血圧の鬼神、博麗霊夢。ちなみに口元にはまだよだれの痕が残ったままである。
「私にマナーを説こうっていうんなら、礼儀良く速やかに帰って欲しいんだけど」
「ふふん、せっかく早起きしたんだ、それは出来ない相談ね。出会い頭の弾幕というのも中々刺激的だったけれど、それだけでは私を満足させるにはまだ足りない」
「あー?」
レミリアの自己中心主義全開の物言いに、霊夢のこめかみがピクピクと震える。今にもスペルを放とうとする霊夢をよそにレミリアは、
「まあ落ち着きなさい」
「それは出来ない相談ね」
「きっとそうでもないわよ。咲夜」
主の呼びかけに咲夜はすっ、とどこからともなく取り出した箱のようなものを霊夢に差し出す。霊夢は警戒した色を見せながら、しかしその箱への興味は隠せないようである。箱と咲夜を見比べながら、
「……これは?」
「月の始め限定、しかも早朝から並ばないと買えない、人里で憧れの対象となるほどに人気の饅頭でございます」
咲夜の淀みなき説明に、明らかに顔色が変わる霊夢。ゴクリと唾を飲みこむ音を、二人が聞き逃すはずもなかった。
「ふ、ふーん、あっそう。で、それが何? まさかこんなもので私を懐柔するなんてつもりじゃあ、な、ないわよねぇ?」
博麗の巫女たる矜持をかき集めて、精一杯強がりながら腕を組んで鼻で笑ってみせる。だがしかし、チラッチラッと箱に向けられた霊夢の視線を、二人が見逃すはずもなかった。
「それこそまさかね。この程度であなたが釣られるとは思ってないわよ。咲夜」
主の呼びかけに咲夜はすっ、とどこからともなく取り出した筒のようなものを霊夢に差し出す。霊夢は全然興味ありませんといった体を取り繕いながら、しかしもう完全に浮き足立っているのは見え見えである。筒と咲夜を見比べながら、
「……これは?」
「大結界構築以前から続く老舗茶店で扱うモノの中でも、最高級の玉露でございます」
「よく来たわねあんたたち! 今お茶を入れてくるわ!」
差し出された茶筒と菓子折りをひったくるように受け取り、らんらんららん♪とスキップをしながら台所へと消える霊夢。清々しいまでの変わり身である。浮かれきった春巫女を見送って、レミリアはニヤリとした笑いを従者に向ける。
「ふふん、土産を用意しろって命じただけなのによくもまあこれだけこだわったものね。ちゃんと二つ用意もしていたし」
「隙を生じぬ二段構えはメイドの嗜みですわ」
そんなことは当然だと言わんばかりに、咲夜は瀟洒な笑みを浮かべて答える。そのような嗜みは耳にしたことがなかったが、とりあえずレミリアは頷いておいた。
「……ふうん。まあお前がそういうんならきっとそうなんだろうね。でもあれだけのものだ。手に入れるのにも一苦労だったでしょう」
主の言葉に咲夜は思い返す。
自身に間諜顔負けの変装を施し、ござと毛布と門番に借りた漫画(呼吸法のくだりはこの漫画を参考にした)を携えて、日も昇らぬうちから和菓子屋の前で並んだこと。晩春といえど、早朝は意外と寒かったこと。老舗の伝統を背負った茶店の店主と“パーフェクト”の称号を背負ったメイドの、互いにしのぎと身を削りに削りあった値段交渉のこと。あまりに白熱しすぎて両雄ともども人里の守護者とお姫様警察官にこってりしぼられたこと。店主と互いの健闘を称えあってガッチリと固い握手を交わしたこと。
レミリアの言うとおり、咲夜が土産を手に入れるまでの経緯は、詳細に語ればそれこそ自伝の一本も書けるほどの、血と涙と汗にまみれた苦難の道のりであった。
が、咲夜はそんな激動の闘いぶりを、
「ええまあ、そこそこ」
あっさりとその一言で片づけた。
咲夜にとって主のために奮闘した過程など、それこそどうでもよかろうなのだ。そんなつまらないことを主に伝える必要性など皆無。自分は主が望む以上の結果を示せたらそれで良い。それが咲夜の考える従者の哲学である。
「そこそこ」
「そこそこですわ」
ふうん、と何か含みがあるように頷いて、レミリアは改めて従者の顔を真っ直ぐ見上げて言った。
「まあそこそこでも、苦労したことには変わりないだろう。ご苦労だった、パーフェクトだ咲夜」
ああ――
それで十分だった。主のその言葉だけで、報われるどころかあの苦難の日々を愛することすら出来そうであった。
「もったいなきお言葉ですわ」
もちろん溢れんばかりの喜びは己の裡にとどめ、咲夜は恭しく一礼をするのみである。
と、咲夜は少し何かを考える素振りをみせたのち、主に切り出した。
「でもお嬢様。少し気になっていたのですが」
「ん? 何が?」
「いえ、大したことではないのですが、ただ……。思いっきり渋ってはいましたけど、別にお土産なんて用意しなくても、あの巫女は結局お嬢様の訪問を受け入れたと思いますが」
「──ふうん、なぜそう思う」
「あれはそういう人間です」
咲夜の霊夢評は言葉を省略しすぎていて実にわかりにくかったが、それでもレミリアには伝わったのか、面白そうに日傘をクルクルと回す。どうやらそれは機嫌が良いときのレミリアの癖のようだ。もちろんそのことを咲夜は承知しているが、なぜ今、主がご機嫌なのかまでは把握できない。あるいは把握しようともしていないのかもしれない。理由はわからずとも、主が楽しそうならそれで十分である、と。
「どうかな。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ま、いいじゃないかたまには」
レミリアは咲夜に賛成するでも反対するでもなく、ただ面白そうに、言う。
そんななぜか愉快そうなレミリアを見て、咲夜が続ける言葉に迷っていると、
「それにだ、咲夜」
「はい?」
「主の気まぐれに付き合うのも、従者の勤めだろう?」
目を細めた主のいたずらっぽい笑みに、咲夜は一瞬目を丸くしながらも、
「ええ、もちろんですわ。これからも御用があれば、何なりとお申し付けくださいませ」
すぐに瀟洒な笑みを返す。
「あ、お嬢様」
「ん?」
「申し訳ございません。差し出がましいことを言ってしまって」
頭を下げて、己の非礼を詫びる。そんな咲夜にレミリアは、苦笑しながら頭を上げるように言った。
「かまわないよ。気にしなくていい」
「ですが」
「私はね、嬉しいんだ」
「え?」
「たまーにね。本当にたまーにだけど、咲夜の本音がポロッと漏れる。咲夜が自分の思いをありのまま言の葉に乗せる。それはとっても嬉しいことだ」
日傘をクルクルと回しながら滔々と語るレミリア。
そんなことが嬉しいものなのか――咲夜は釈然としないと同時に、なんだか気恥ずかしさのようなものを覚えてはぁ、と返事にもならない声を漏らすしかなかった。
「ええっと、お嬢様」
今度は絶対違う気がするなあと内心思いながらも、
「その、ありがとうございます」
咲夜は紅魔館の廊下でのやりとりに倣って、礼を言う。
よくはわからないけど、主が嬉しいのなら自分も嬉しくなる、だから礼を言う。
自分でもおかしな理屈だと自覚はしていたが、自分がそうしたいからそうする、きっとそういうことなのだろう。そんな咲夜の胸中を知ってか知らずか、レミリアは先ほどと同じくうん、と満足げに頷くのであった。
そして二人の間に降りる沈黙。夏の気配を感じるほどの気温ではあるがまだ蝉の鳴き声は聞かれず、境内は再び静謐さを取り戻す。
それをきっかけとするかのように、ペタンと縁側に座り込むレミリア。早速落ち着き無く足をブラブラさせているのを見るに、もうレミリアは霊夢を待ちきれなくなったようだ。
「れーいーむー。まーだー?」
もうちょいだからおとなしく待ちなさーいと、返事がする。耳を澄ませば、台所の方からは鼻歌が微かに聞こえてくる。こんなに機嫌がいい巫女は珍しい。恐るべし限定品。恐るべし最高級品。我ながらグッジョブだったと、咲夜は密かにガッツポーズを決めた。
「ちぇ」
不満そうに唇をとがらすレミリア。さっきまでとは打って変わって子どもっぽい主の仕草を見て、咲夜は自分の表情が緩むのがわかった。
ややあって、台所の方からとたとたと足音が聞こえてきた。
「遅いわよ、霊夢」
「わざわざ茶ぁ淹れてあげたんだから文句言わない」
「持ってきてあげたのは私よ」
「咲夜じゃないの」
「従者が持ってきたんだから、それは主である私が持ってきたのと同じことでしょう?」
ね?と同意を求める主の視線に、咲夜はふっ、と微笑んで返答に代えた。
よっこいしょと、あまり少女にはふさわしくないセリフとともにレミリアの隣に座る霊夢。マイペースに自ら淹れた最高級のお茶を堪能し始めると、レミリアも待たされた鬱憤を晴らすかのように、矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
レミリアは相手のことなどお構いなしといった感じで好き勝手に話し、霊夢もそんなレミリアのマシンガントークへ適当に相槌を打つのみである。一見会話が成立していないようにも見えるが、それでもレミリアはとても楽しそうにしているし、霊夢は霊夢で、お茶と菓子折りの効果かどうかはわからないが、この無節操な会話も満更でもないといった様子である。
傍に控えていた咲夜は、そんな二人を穏やかな心持で眺めていた。
が、そんな青空のように澄み切った咲夜の心に、ふと一抹の不安が湧きあがった。
──あら? 私火の元の始末、ちゃんとしたかしら
無論抜かりはないはずである。紅魔館の安全管理というもっとも基本的で重要な事項を、パーフェクトメイドたる咲夜が怠るはずがない。
──そう、そのはず……でも
──万が一ということもある
皆さんも経験がおありのことだろう。ガスの元栓、エアコンの電源、アイロンのコンセント、鍵の戸締まり等々、それらの処理をうっかり忘れてしまったのではないかという心配は、唐突に降って沸いてくる。大抵の場合、意外とその心配は杞憂に終わることが多い。だがしかし、いったん気にしてしまったが最後、一度確認しないことには心の平穏が保てなくなってしまうのが、人間の性というものである。
咲夜も例にもれず、レミリアと霊夢が談笑する傍らで、万が一という言葉の呪縛に囚われていた。
空に浮かぶ白い雲。胸に立ちこめる暗雲。速くなる鼓動。流れ出る冷や汗。
それでも咲夜は平然とした顔で佇み続ける。その甲斐あって、二人が咲夜の動揺に気づいた様子はない。とりあえずは一安心しつつ、咲夜は自らがなすべきことを考える。
確認に戻るべきだ──それが館の安全管理を担うメイド長の下した結論である。
──だが、どうやってこの状況を自然に抜け出す
正直に言うか? 論外。従者の失態は主の恥に直結する。火の元の確認を怠りましたなどという凡ミスを主に告げるなんて、パーフェクトを体現する咲夜に出来るはずもなかった。ましてや今は第三者もいるのである。
時を止めて戻るか? 採用したいが却下。館に帰って火の元を確認し、また何事もなかったかのようにこの場所へ戻ってくる。その一連の行動を実践する間中、能力を維持することはかなり難しい。能力の効果が切れた瞬間、二人は咲夜の不在を不審に思うことだろう。あるいはもしかしたら出来なくもないのかもしれないが、やはりリスクが大きい。
咲夜はあーでもないこーでもないと頭を悩ませながら、ふと空を見上げた。特に何か意図しての行為ではなかったが、瞬間、咲夜はやや日が下がり始めた空に、再び一筋の光明を見出す──これだ。
自らの閃きがまさにコペルニクス的転回の域に達していることを確信しつつ、コホンと息をついて雑談にふける主に切り出した。
「お楽しみのところを、お嬢様」
「だからさー、なんで私のボムだけあんな仕様……え? 何?」
「今夜は満月ですね」
「え? あ、ああ、うん。そうね。それがどうかした?」
「つまり、今宵は“永遠に紅い幼き月”レミリア・スカーレットのためにあるといっても過言ではありません」
「なんだか随分久しぶりに聞いた気がするわその二つ名……うん、でもそうね、わかってるじゃない咲夜」
咲夜の言葉に気を良くしたのか、誇らしげに胸を張るレミリア。もっと私を崇めてもいいのよとふんぞり返ったレミリアに、霊夢は呆れたようにため息をつく。
「ふふん。それで?」
「僭越ながら申し上げます。ここは一つ、この紅い月の日を祝福して、盛大にパーティーなどを開かれては。しばらくパーティーもご無沙汰でしたし」
「パーティー? まーたいきなりね」
「あら、この幻想郷ではいきなり開かれない宴会のほうが珍しいじゃないの」
それもそうかと霊夢がお茶に口をつけると、レミリアは目を輝かせて言った。
「うんうん、いいねえ。やろう。すぐやろう。咲夜、どうせやるからには、この私にふさわしい豪奢なパーティーにするのよ」
「ま、料理にありつけるのならなんだっていいけど」
「なんだ、やっぱり霊夢も来るつもり?」
「なに、まさか呼ばないつもり?」
ニヤッと笑い合う二人に、咲夜は瀟洒な笑みを浮かべて言った。
「お任せください。スカーレットの名にふさわしいパーティーを約束いたしましょう」
「ふふん、楽しみにしているわ」
「では私は早速準備がありますのでこれで。あ、お嬢様はこのままごゆっくりどうぞ。準備が出来次第お迎えにあがります」
「ええ、頼んだわよ」
では、と最後に一礼し、時を止めながらその場を去る。
今回はギリギリの綱渡りだったが、なんとか上手く切り抜けられたことに胸をなで下ろす咲夜。だが後には自分の蒔いた種とはいえ、パーティーの準備が控えている。開催の経緯はどうあれ久方ぶりのパーティー、その成功に全力を尽くさなければならない。いや、それよりもまずはとにかく火の元の確認だ。
主の視界から外れたことを確認すると、咲夜は能力を解除し、紅魔館に向けて全速力で飛ぶのであった。
「ふんふんふふーん」
瞬きする間に目の前から消え去ったメイド。もう見慣れたものなので霊夢も別段驚いたりはしないが、なぜかご機嫌な様子の吸血鬼には訝しげな視線を向けた。
「そんなにパーティーが楽しみなの? 別にこれが初めてってわけでもないでしょうに」
霊夢の疑問にレミリアはああ、と頷いて、
「まあそうね、それもあるけど」
「けど?」
意味ありげに言葉を切ったレミリア。焦れったくなった霊夢が先を促すと、微妙に彼女の問いとはズレたことを、レミリアは嬉しそうに言った。
「霊夢、咲夜は実にパーフェクトなメイドだと思わない?」
自分の宝物を自慢するかのように誇らしげな物言い。霊夢はその言葉に、はあ?とますます首を傾ける。
「いきなり何言ってんのあんた」
「ん? もう一回言って欲しい?」
「いらないってえの。なにニヤニヤしてんのよ。気持ち悪い」
霊夢が付き合ってられないという風に首を振ると、レミリアも霊夢にはわからなーいと、なおも愉快そうに笑みを浮かべていた。
門をくぐることすらせず直接厨房の窓から侵入するという、普段なら有り得ない方法で帰還を果たした咲夜。無論人の目と衛生面には極力気を使ったものの、やはりパーフェクトメイドのとる手段としてはあまり褒められたものではない。
だが今はそんなこと言ってられない、これは超法規的措置(?)であると自らを納得させ、火の元の確認を最優先にする。
「……はぁ。やっぱり大丈夫だったんじゃないの」
ヘナヘナとその場に座り込んでしまう咲夜。凄まじい徒労感が咲夜を襲ったが、これでひとまずは安心である。
緊張が解けて、咲夜のスイッチがしばしオフになったその時である。
「あれー? メイド長、お帰りになってたんですかぁ?」
いきなり一人の妖精メイドが、間延びした声を響かせて厨房に入ってきた。
瞬時に自分の状態をオフからオンに切り替え、バッと立ち上がる。短い、本当に短い休息だった。
「……メイド長、どうかしました? あ、もしかしてスクワットですか?」
「何で厨房で足腰の強化に励まないといけないのよ。何でもないわ。あなたこそどうしたの? 今日のあなたのシフトは厨房ではないでしょう?」
「いえ、メイド長がいないうちにちょいとつまみ食いでもしようかと……あ」
みるみるうちに顔が青くなっていく妖精メイドを見て、咲夜はため息をつきながら頭を抱えた。つまみ食いしていることもそうだが(たぶんというか絶対このメイドだけではあるまい)、鬼の居ぬ間を狙っておいてその鬼の前であっさり口を滑らせてどうするのか。なんだかまた疲れが押し寄せてきた。さきほどの短すぎる休憩はこれでパーである。
「あ、あわわわ! いえ、違うんです! ちょっと小腹が、じゃなくて、これは……そう! 全ては“でふれすぱいらる”が悪いんです!」
「意味のわかってない単語使ってまで言い訳しない。はぁ、もういいわ。不問にしてあげる」
「ほ、本当ですか!?」
「そのかわり」
「は、はひっ」
「今夜パーティーを開くことになったからその準備を開始するわ。あなたは全メイドに特別態勢をとるよう速やかに伝えること。あと、もちろん準備に手を抜いたら……わかってるわね?」
「さ、さー、いえっさー!」
ビシッと形だけは良い敬礼をして、一目散に厨房を飛び出した妖精メイド。あんな敬礼、紅魔館メイドのマニュアルには存在しないのにいったいどこで覚えてくるんだかと、咲夜は思った。
やれやれと首を振る咲夜だが、しかしよくよく考えたらさっきの自分の帰還方法も大概マニュアル無視、というよりも人間の常識無視である。冷静になった咲夜は、自分は妖精と同レベルかと頭が痛くなった。
――なんだか今日はペースが乱れっぱなしじゃないか
乱されているのではない。自分が勝手に墓穴を掘っているのである。午後だけでいくつ穴をこしらえたかなんて数えたくもなかった。ここで厄日と割り切るのは簡単だが、しかし咲夜がそんな甘えを許すはずもなし。こんな体たらくでは主に顔向けできないと、咲夜はパーティーの準備に向けて、不甲斐ない自分に気合を入れ直す。
「ファイトー! いっぱーつ!」
信じられないかもしれないが大真面目である。
陽気を来る季節の予行だといわんばかりに注いでいた日が山の向こうに消えようとし、大分と涼しくなって夏の気配がなりを潜めた夕暮れ時。咲夜は準備の合間を見て、先ほど通り抜け損ねた館の正門に向かっていた。パーティーにおいては受付役を勤めることになるであろう門番に、その旨を直接伝達するためである。
「……」
果たして門に辿り着いた咲夜が見たものは、門柱によりかかって実に幸せそうな寝顔を浮かべながら全力でシエスタに勤しむ紅魔館が誇る鉄壁の門番、紅美鈴。
「…………」
あえて勤務中に寝るという背徳感と、過ごしやすい気温になってきた中で心地よい春風に包まれながら眠るという幸福感。これら二律背反の感情が生み出すえも言われぬ境地こそが居眠りの真髄なのだとすれば、なるほどこの門番の小憎たらしいほどに幸せそうな寝顔も道理である。
「………………」
しかし完璧である。腕を組んで無言で門番を睨む咲夜が思わず惚れ惚れとしてしまうほどに完璧なシエスタである。あまりに完璧すぎて怒りが湧いてくるどころか、むしろ逆に邪魔してはいけないのではないかという気がしてくるから不思議である。だがあくまでそれは気のせい、たとえ咲夜が実力を行使して叩き起こしても、非は全面的に門番のほうにあることは論を待たないところである。というわけで頭でも小突いてさっさと起こしてしまおうと、咲夜が美鈴に近づいた瞬間、
「こらメイリ……」
「ここは通さん!」
「ひっ!?」
いきなり寝顔を厳しくして大声で叫ぶ美鈴。奇声を発しながら飛びのいた咲夜は、勢いあまってしりもちをついてしまった。
「この私の目が黒いうちは、一歩たりともこの館には入れさせない!」
残念ながらその目は閉じている。どうやら彼女は夢の中で、見事紅魔館の門番という大役を果たしているようである。
立ち上がることもツッコむこともできず、呆然とした表情で美鈴の勇姿を見守るしかない咲夜。完全なる置いてけぼりである。
「いくぞ太歳星君! スペルの貯蔵は充分かー!」
決めゼリフらしきものを高らかに言い放って、カッと目を見開く美鈴。寝転がった姿勢から一気に立ち上がって、即座に半身の構えをとったことはさすがと言わざるを得ない。
「さあ来い……あ?」
あらぬ方向へ向いていた美鈴の視線が、未だ立ち上がれていない咲夜を捉える。目が合った瞬間、我を取り戻した咲夜は美鈴にも負けぬスピードで立ち上がる。
「あ、あれ? 咲夜さん、どうして……ハッ! さてはお前も偽者かー!」
あらぬ疑いをかけられたのでとりあえずグーで殴っておいた。
「……で、そういうわけだから受付よろしくね」
「ま、任せてください。この館には誰一人として入れさせませんよ」
「入れろって言ってるのよ。まだ寝ぼけてるの?」
腫れた頬をさすりながら見当はずれの答えを返す美鈴に、咲夜のため息は尽きることがない。
あはは……と決まり悪そうに頭をかいた美鈴は、ふと咲夜に問うた。
「ところで咲夜さん、どうしてあんなところに転がってたんですか?」
「うっ」
美鈴の寝言にびっくりして腰が抜けたなど、口が裂けても言えない。痛いところをつかれたというように咲夜が言葉を詰まらせると、美鈴はははぁと得心したように頷き、
「さては咲夜さんも居眠りしてたんですね? わかりますよ、この季節のこの時間帯は居眠りには最高ですからね」
汝、右の頬を打ったのなら、左の頬も打つべし打つべし。
さて、開催の経緯からして割とアレだった“満月の日と偉大なるスカーレットを称える会”(レミリアの命名による)であったが、意外にも準備は滞りなく進み、本番であるパーティーの方も大きなトラブルが起こることも無く閉会した(途中酔っ払いたちが弾幕決闘に興じてテーブルの一角を破壊し、料理をぶちまけられた巫女が喧嘩両成敗とばかりに食い物の恨みをぶつけにぶつけたり、その鉄火場に自分も加わろうとスカーレットの妹君が嬉々として炎の剣を振り回したりもしたが、そんなことは幻想郷における宴会ではよくあることとして片付けられる些事である)。
もちろんその成功の裏にはパーフェクトメイドたる咲夜並びにその指揮下にある紅魔館メイド隊の尽力があったことは言うまでも無く、紅魔館はまた一つ株を上げることとなるのであった。
「それでは失礼します。何かありましたらお呼びください」
満月が薄く照らし出す紅魔館のテラス。太陽に照らされた紅魔館もそれはそれで目に映えるが、やはり吸血鬼の住む館には月明かりがよく似合う。そのことを証明するかのように、月明かりを浴びた紅魔館は夜の闇のなかにおいてもなおその紅を主張し、妖しさと高潔さが同居した幻想的な雰囲気を放っていた。
「ああ、ご苦労だったね咲夜」
パーティーの余韻に浸りながら友人である魔女と茶を嗜むレミリアは、今夜の会の功労者へねぎらいの言葉と共に笑いかけた。咲夜が笑顔で主たちに一礼をしてその場を辞そうとすると、
「咲夜」
「はい?」
「今夜の働きも見事だった。よくやったよ、パーフェクトだ咲夜」
主の言葉は、咲夜にとっておよそ考えうる最高の褒美であった。今にも天まで昇らんばかりの喜びが、全身を駆け巡る。
「――はい。ありがとうございます」
それでも咲夜は、あくまで瀟洒な笑みで、その褒美を受け取る。
今度こそ返す言葉はこれでいいと、咲夜は確信を持って応えた。そして主も例のごとく、やはり満足げにうん、と頷くのであった。
「ん~……っはぁ~」
一人になった瞬間、張っていた気が解ける。咲夜は誰もいない廊下で、今日の疲労を吐き出すように大きな伸びをした。
「……」
咲夜はふと足を止めて、今日の自分を省みる。果たして今日の自分は、主にふさわしいパーフェクトメイドたりえていたかと。
なんだか色々やらかしてしまった気もするけど、なんとかピンチは上手く切り抜けたように思える。だしに使ってしまったパーティーも、突然の知らせに文句を言いながら何だかんだでよく動いてくれた妖精メイドたちの力もあって、無事やり遂げることができた。今度主を見習って、部下をねきらってやるのも悪くないかもしれない。
そして何よりも、主は言ってくれた。
――パーフェクトだ咲夜
たとえ世辞であったとしても、いくらかのピンチはあっても、部下の力を借りながらでも。
きっと自分は、今日も主にふさわしい従者でいれたと思う。
「……うん」
それでいい。咲夜は今日の自分に合格点をあげ、図らずも主と同じように、満足げに頷いた。
「よーし」
今日が終わっても、すぐに明日が始まる。
今日と同じく、否、今日以上に明日も主にふさわしいパーフェクトメイドであることを誓って。
「おー!」
咲夜は一人拳をかかげ、力強い鬨をあげるのであった。
誰かに聞かれる可能性をすっかり失念していたのはご愛嬌である。
「パチェはさあ」
再び紅魔館のテラス。レミリアの呼びかけに、パチュリー・ノーレッジはうん?と反応するだけで、手に持つ書から目を離そうともしない。そんな友人の態度は毎度のことなので、構わずレミリアは続ける。
「この世に完全なものって、あると思う?」
「あるといえばあるし、ないといえばない。完全という概念はモデル上にしか存在しえないわ」
レミリアの問いに、なおも視線を上げることなく即答するパチュリー。ピラリとページをめくる音が聞こえる。
「うん、そうだね。完全なんて所詮モデル、つまり理想にすぎない。理想は達成できないからこそ、理想というんだ」
友人が独り言のように言葉を紡ぐのを、パチュリーは書に目を落としながら黙って聞く。こういうときは好きなだけしゃべらせるのが一番だと、彼女はレミリアとの長い付き合いの中で承知していた。
「だからパーフェクトメイドなんてものも、本当はただの幻想だ。ところで」
そこで言葉を切って、続く言葉を間違いなく並べるために、レミリアは紅茶で喉を潤す。いつもの、咲夜の味だ。
「パチェ、咲夜は実にパーフェクトなメイドだと思わない?」
ページをめくる音が止まる。パチュリーが初めて友人のほうに視線を向けると、レミリアはどこまでも嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「言っていること、矛盾してるわよ。それとも新手の皮肉かしら?」
「皮肉なんかじゃないさ」
開ききらない眼で見つめてくるパチュリーの言葉を、レミリアは笑顔で否定する。
「パチェ、あいつは、咲夜は人間だ」
「知ってるわ」
「規格外の能力を持っていて、妖怪も手玉にとる実力と度胸を備えてるけど、人間だ」
「……知ってるわ」
「身体的にも精神的にもとても優れたスペックを持ってはいるけど、それでも枠を逸脱してはいない。ちょっとしたことで簡単に壊れちゃうかもしれない。それこそ私たち妖怪が驚くほどに。パチェ、咲夜は、人間だ」
「……」
レミリアが何を言いたいのかよくわからないが、とにかく聞く。そしてレミリアはおかしそうに言った。
「土台無理な話なんだよ。そんな弱っちい人間が完全な存在になろうなんてさ」
聞く。ただ聞く。こんな結論で終わらないのは、レミリアを見ていればわかる。だから言葉を挟むことなく、パチュリーはひたすら聞き役に徹する。
「あいつ完璧装ってる割にはたまにものすごいボケを繰り出すんだよ。しかもわざとやってるのかそうじゃないのかもわからないからさ、もうツッコミの入れにくいこと入れにくいこと」
それは同感だ。パチュリーも何度か対処に困ったことがある。あるいはあのメイド長の天然ぶりは、幻想郷屈指といえるかもしれない。
「それにいっつも涼しい顔してるけどさ、結構気苦労も絶えないと思うのよね。妖精メイドはあんまり使えないし、美鈴はサボり魔のうえに意外と曲者だったりするからね。案外一杯食わされたりしてるのかもしれない」
そうなのだろうか。しかし確かに咲夜以外のメイドは当てにならない。今夜のようにやるときもあるようだが、それはあくまで例外だ。門番が曲者というのはあまりピンとこないが、飄々としているというのはパチュリーも認めるところだ。そしてサボり魔であることは間違いない。なるほど、こうしてみると苦労の材料には事欠かないかもしれないと、パチュリーは少し納得した。
「あとこれは咲夜には言っちゃダメよ? あいつさ、上手く誤魔化してるつもりだろうけど、実はちょこちょこと凡ミスしてると私は踏んでるのよ。意外と隙だらけだったりするんだ、あいつ」
「咲夜が? まさか」
この見方には賛成できなかったので、パチュリーは思わず口を挟んでしまった。確かに天然ではあるが、あの完全で瀟洒なメイドがそんなにミスを重ねているとは、彼女には思えなかった。が、ここまで考えてふと気づく。瀟洒はともかく、完全とはモデル――理想上の存在にすぎない。しかしやはり納得できなかったので、パチュリーはニヤニヤとした笑いを浮かべる友人に尋ねた。
「……どうしてそんなことがわかるのよ」
パチュリーの問いに、レミリアはさも当然と言うように、自信満々に答えた。
「そりゃわかるよ。だって私は咲夜の主だよ。従者のことは何だってわかるのさ」
「……呆れた。それって根拠なしと同じじゃないの。それなのにこんなにも無茶苦茶言われて、あの子も気の毒だこと」
ふふんと笑うレミリアに、パチュリーは首を振りながら再び書に目を落とした。
「なんだかこうして改めて言ってみると咲夜ったら、全然、まったく、完全じゃあないよね」
真面目に聞いてバカをみたと言外に述べているパチュリーをよそに、
「それでも、あいつは頑張ってるんだ」
レミリアは静かにそう言った。
「弱っちい人間のくせにさ。あいつは私にふさわしいパーフェクトメイドでいようって、いつだってきっと必死で頑張ってるんだよ。全然そんな素振りはみせないけどね」
パチュリーは視線を上げない。ページをめくる音が聞こえる。
「嬉しいじゃないか。私のためにさ、こんなにもひたむきに頑張るやつがいるんだ。嬉しくないはずがない。ああ、でもここは大事なところだから勘違いしないで欲しいんだけど」
レミリアが紅茶に口をつける。今から大切なことを言うのだ。
「私は何も頑張ってるからという理由だけで咲夜が可愛いんじゃない。人の身で完全を目指そうとするその姿には確かに心打たれるけど、本当に重要なのはそこじゃない。咲夜はね、理想でも幻想でもなく、真に私にふさわしいメイドなんだよ」
パチュリーは視線を上げない。ページをめくる音は、聞こえない。
「あいつは私が何かを命じれば私の期待以上の働きをみせる。何も命じなくても私の意思を汲んで自ら動く。例え万が一ミスをしても、ヘマをやらかしても、全力でそれを取り戻そうとする。全ては私のためにね。こんな立派な従者、二人といない」
パチュリーが聞いているかどうかはわからなかったが、それでもレミリアは言葉にしたかった。咲夜がどれだけ頑張っているかということを。咲夜がどれだけ素晴らしい従者なのかということを。ページをめくる音は、聞こえない。
「完全には程遠いかもしれないけどね。それでも私はこう言うよ」
そしてレミリアは、まるで自分のことを誇るかのごとく、歌うように言葉を紡ぐ。
「十六夜咲夜は、まさしく私にとっての“パーフェクトメイド”だ」
パチュリーは視線を上げる。パタンと本を閉じる音。
「惚気られちゃったわ」
ため息をつきながらパチュリーが毒づく。
しかし目の前の友人があんまりにも嬉しそうに笑うものだから、パチュリーは釣られて苦笑するしかなかった。
少し喋りすぎたと、レミリアは紅茶に口をつける。少し温くなっていた。
「ふうん」
そろそろあいつを呼ぼうか。今あいつは一人で何をやっているんだろう。なんだか面白いことになってる気もする。
しばしパーフェクトじゃなくなっているかもしれないパーフェクトメイドの姿を想像しながら、レミリアはまた、笑った。
「なんじゃこりゃ……」
控えめに降り注ぐ春の日差しが新しい朝、希望の朝という夏休みの早朝にふさわしいフレーズを一足早く連想させてくれる爽やかな午前。紅魔館の一室で、ありったけの驚愕がこめられた呟きが放たれた。
声の主――十六夜咲夜は、震える手で持った広告ビラから目を離せずにいた。曰く、
『人里初の本格的洋菓子店、本日オープン! 開店記念として本日限り全商品半額!!』
全世界がひれ伏す殺し文句、半額である。そしてそんな殺人的な文言以上に咲夜を惹きつけてやまないのは、広告に印刷された色とりどりの洋菓子(広告によるとスイーツと呼ぶらしい)。
「――――!」
無論咲夜とて、一通り洋菓子のレシピは会得している。おそらくこの広告に印刷されているくらいの洋菓子なら、手間を惜しまなければ咲夜にも作ることが出来るだろう。だがしかし、広告に記載されたリーズナブルな価格、しかもその半額で洋菓子が食べられるとあっては、自分で作るという発想も彼方へ吹き飛ぶ。
「ああ……」
というかまずめっちゃおいしそう。これほど視覚的に訴えられては、さすがの咲夜もウットリとした表情を浮かべずにはいられなかった。パーフェクトメイドすら骨抜きにする洋菓子店やあっぱれという見方も出来ようが、むしろ咲夜の敗北はもはや少女の宿命といったほうが正しいだろう。
「あっ、そうだわ」
ポンッと手を打つ咲夜に浮かんだ妙案。これほど安い値段なら、大量に購入してもそう大した額にはならない。部下のメイドたちをどうねぎらおうか考えていた咲夜には渡りに舟であった。
「……むう」
もちろん、妹君、門番、魔女、司書、そして主の分も忘れてはいけない。悔しいことだがこの洋菓子店の商品のクオリティは、おそらく自分の作る洋菓子のそれを上回っている。ならば紅魔館の住人に出す紅茶の友としてはまったく不足無しである。
「よし」
そうと決まれば善は急げ。開店と同時に望みの品を得るべく、早急に事を起こさなければならない。咲夜は己の固い決意を示すかのように、広告を力強く握り締めた。
「ふふふ、どれにしようかなー」
もう一度いそいそと広告を開いて、にやけ面で商品を吟味する。ここまで色々書いたが、結局は自分が食べたいというのが一番だったのかもしれない。主に仕える従者としてはあるまじきことだが、それでも自らの欲望が主の幸せにつながると信じて買い物袋を引っ掴む。そして「春の湊に」をバックミュージックに、咲夜は満面の笑みをたたえて部屋を飛び出した。
「いってきまーす!」
「あれ、咲夜。こんな朝早くからどこに行くの?」
バンッと勢いよく扉を開け放った咲夜は、早朝にもかかわらず廊下を歩いていた主と出くわす。
「ああお嬢様、おはようございます。お早いお目覚めですね」
「いや、昨日はパチェと話しててずっと起きてたからね。今から寝るんだよ。で、どこ行くの?」
レミリアの問いに、咲夜ははいっ!と普段より一回りも二回りも高いテンションで返事をする。
「ご安心ください、咲夜は立派に勤めを果たしてまいります! どうぞお嬢様はお気になさらずごゆっくりお休みください。果報は寝て待て、ですわ! それでは急ぎの用がありますのでこれで!」
主が何かを言う暇も与えず一気にまくしたて、時を止めてその場を去る咲夜。一瞬にして目の前から消え去った嵐のような従者に、レミリアはポカーンと呆気に取られた様子で立ち尽くすしかない。というか咲夜はまったく自分の質問に答えていない。
「ふう……」
もちろん咲夜直伝の呼吸法を実践した訳ではなく、ただのため息である。咲夜があんなに舞い上がっていた理由は、従者のことは何でも分かると豪語したレミリアにも皆目見当がつかなかったが、それでもレミリアは苦笑しながら、
「まあ、たまにはそういうこともあるわよね」
そう、そういうこともある。
主のために完璧であろうとする咲夜も、半額の文字の前にはあっさりと膝を折るし、おいしそうな洋菓子を見たら唾液腺と甘いもの専用の別腹が絶好調といわんばかりに機能し始めるし、甘いものに目が眩んで最優先すべき主のことが見えなくなってしまうことだってある。
だって――
だって“パーフェクトメイド”十六夜咲夜も――
「――人間だもの」
滅多に見れない従者のはしゃいだ姿と満面の笑顔を思い返して、レミリアはあくびを噛み殺しながら寝室に向かうのであった。
最高でした
パーフェクトとはこういうことか……
そんな咲夜さんにはパフェを奢ってやろう。
パーフェクトに可愛いよ咲夜さん
面白かったです。
そんな彼女に100点をプレゼント。Marvelous!
そしてレミリアもパーフェクトな主だ
つまりパーフェクトな主従だ
『完全で瀟洒なメイド』の裏に『一生懸命な女の子』を見ました。
すごく魅力的です。
私もなんだか、元気をもらえたような気がします。
ありがとうございました。
親しみが湧くなぁ。
咲夜さんも可愛いけど、そんな咲夜さんを愛しているレミリアが凄い良い!
ありがとうございました。
ご馳走様でした
なればこそ、咲夜さんもパーフェクトであろうと努力するのだ
よく完全無欠に書かれることが多いですが、
作中でも言われている通り彼女も一人の人間、さらには一人の少女なのですから、
やはりこれくらい人間味がある方が好みです。
それと、もう一人。
ここのレミリアは咲夜より更に私の中のレミリア像にジャストフィットでヤバイです。
子供っぽい所を持ちつつも、尊大な態度を崩さず、しかしそれが嫌味になることはなく、
そして部下や親友のことをよく想っている……
まさに理想像! 他に何を語る必要があろうか! 100点!