「こちらが噂の命蓮寺でしょうか?」
そうたおやかな笑みを浮かべて問うたのは、日傘を手に持ち、草色の髪を風に靡かせた美しい女性だった。
「はい、その通りですが、いかな御用でしょうか」
答えたのはここ、命蓮寺に住まう妖怪の一人、雲居一輪である。彼女は寺の者の食事を作り終え、門前の掃除をしている最中だった。
彼女はその女性が、酷く大きな力を持つ妖怪であることに気が付いていた。命蓮寺が幻想郷に受け入れられてからの数ヶ月、それなりの数の人間や妖怪が訪れて来ていたが、一目見ただけでそれとわかるほど力のある妖怪がやって来たのは初めてであった。
「ええ、こちらの住職様、白蓮上人と仰いましたか、その方が大層立派な方だと聞いて、是非とも一度ご高話を拝聴したいと思って参ったのです。何でも、一切の殺生のない、平等な世界を作ろうと尽力なされているのだとか」
「ああ、聖の説法がお目当てですか」
その言葉を聞いても、一輪は警戒を緩めない。力の強いものにとっては、平等というものは疎ましいものに映ることも少なくなかろうと考えてのことだった。万一この女性が、平等を説く白蓮の首を掻こうとしているのだとしたら、一輪は己の命を懸けてでも止める気構えだった。
一輪はじっとその女性の目を見つめる。その女性はなおもたおやかな笑みを崩さない。
「……失礼ながら、あなたは相当に力のある妖怪であるとお見受けします。そんなあなたが、どうして平等などという思想に惹かれるので?」
「……そうですね。そのように思われるのも仕方のないことでしょう。しかし私は、ただ穏やかに生きていたいだけなのです。……このような力を得なければ、その望みを叶えることは出来なかった。これより後、私のようなものが現れる必要がないよう、私は平等なる平和を、望むのです」
女性はまっすぐに一輪の目を見返して言う。
一輪も、仏道に帰依してよりそれなりの時を経ており、他者を見る目には少しは自信もある。その彼女の目から見て、女性の目には一切曇ったところは認められなかった。
どうやら、偽りはないようだと、一輪は少し警戒を解く。
「そう、ですか。それならば聖も、あなたのような方に会えることを喜ぶでしょう。ただ、今は斎食の最中でして、少しばかりお待ち頂けないでしょうか」
「あら、お食事中ですか」
そう言った途端、女性の目に何か濁ったものが宿るのを一輪は見逃さない。いや、濁ったというのは正確ではない。彼女の目には、飽くまでも澄み切った、何かしらの感情が宿っていた。
「……それは丁度よろしいですわ。今すぐにお会いさせて頂きます」
そう言って、女性は日傘をたたみ、山門の中へ歩を進めようとした。
一瞬、一輪は呆気に取られていたが、すぐに気を取り直すと、女性の手を取って制止する。
「お、お待ちください! すぐに食事は済みますから」
女性は何も言わず歩を進める。確かに掴んだはずの手はいつの間にかすり抜けて、ふわふわと漂う微風のように、女性は境内を進んでいった。
これは、まずいと一輪は思う。一輪は女性の体に取り付いて歩みを止めにかかる。
「待ちなさい! もしもこの命蓮寺の者に害を為そうというのなら、この雲居一輪が相手になります!」
女性は、一輪を一瞥すると、困ったように眉根を寄せた。その目には、あの感情が宿っている。
一瞬の逡巡の後、女性はゆっくりと口を開いた。
「……失礼、私としたことが、名乗るのを忘れておりました。私は幽香、風見幽香と申すものです。害を為そうなどと、そんなことを考えているわけではありません。ただ白蓮上人は、どのように平等なる世界を実現しようと考えていらっしゃるのか、それを知りたいだけです。……どうしても、今すぐにお会いしたいのです。お目通りは叶いませんでしょうか」
幽香と名乗った女性は、真摯な視線を一輪に向ける。
曇りのない、しかし何か不思議な感情が宿ったその目を見つめ、一輪は考える。
平等や平和を望むと言った幽香の言葉には、一切偽りはないと、それは自信を持って断言できる。しかし、女性が瞳に宿した感情を見たとき、一輪はそこに害意や敵意のようなものを、直観的に見て取ったのだ。そのような相手を、白蓮に合わせる訳にはいかぬ。
しかし、何故平等を、平和を熱望しながら、同じくそれを希求し、実現に向けて邁進する白蓮に敵意を向けるのか、それが一輪にはわからなかった。一輪は再び、幽香の目を見つめる。
それは強い、強い熱を帯びた感情だった。それを名状するための言葉が、一輪には見つからない。敢えて手元にある言葉で表すのならば――
――悲しみ?
いや、違う。これは憎しみでもあり、怒りでもあり、しかし、どこかに優しさや慈しみを秘めた、そんな奇妙な感情だった。
その正体を掴めないまま懊悩していると、ふわり、と花の香りが漂ってくる。それは余りに良い香りで、一輪は思わず、その香りの元を探して視線を泳がせる。
一輪の視線がたどり着いたのは、自身が抱き止めていた女性の姿だった。そのことを確かめた瞬間、一輪は幽香の瞳に宿った感情の正体を理解する。
「……結構です。食堂はあちらです。聖はそこに」
「ありがとうございます、雲居様」
幽香は一輪に深く一礼すると、食堂へ向けて歩き出す。一輪が見送った彼女の背は、やはりあの目に宿っていたものと同じ感情を背負っていた。
*
「お食事中、失礼いたします。私は風見幽香と申すものです。白蓮上人はいらっしゃるでしょうか」
食事中に来客とは、珍しいこともあるものだと、この命蓮寺の住職――聖白蓮は思った。他にこの場にいた、キャプテンとの愛称で里のものに親しまれる村紗水蜜に、その古い友人の封獣ぬえ、少し前から居候をしている付喪神の多々良小傘も、同じように思ったことだろう。
「ちょ、ちょっとちょっと。一輪は何をしているのよ、お客様にこんなみっともないところ、ああ、すみません。ほら、ぬえ、さっさと口の中のもの飲み込む!」
水蜜は慌てて、食卓に並んだ皿を片付けようとする。幽香はそれを制止して言った。
「いえ、雲居様にはお食事中であることを承知で、無理を言って通していただいたのです。ですから、そのようなお気遣いは結構です。どうしても、今すぐに御高話を伺いたかったもので、失礼とは存じますが」
「え? で、でも……」
「いーじゃんムラサ。話聞きたいってことは白蓮の説法が目当てでしょ? 人間も妖怪もない平等を願う同志ってわけだ。だったら食事中だろうが何だろうが、拒む理由なんてないよね、白蓮?」
ぬえが箸を止めようともせず割って入る。白蓮は、笑顔で頷きそれに答えた。
「ええ、勿論です。風見様、風見幽香様と仰いましたね。まずはお座りください。水蜜はお茶を用意して差し上げて」
水蜜が戸惑いながらも急須を手に取るのを、幽香は遮って言う。
「持て成しなど結構です。私は白蓮上人の御高話を目当てに参ったのです。そのようなことに気を揉まれるなら、今すぐに御説法頂きたいですわ」
「私が望むのは誰もが平等に、尊重し合って生きる世界。客人の一人も持て成せずして、どうしてそれが実現できましょう?」
「ですから、私にとっての最高の持て成しは今すぐに御説法頂くこと。それは尊重していただけないので?」
幽香の舌鋒に、白蓮は少々たじろぐ。しかし、彼女の言うことももっともだと思い直し、居住まいを正して幽香に向き直る。
「なるほど、確かに仰るとおりです。それでは、私が望む平等なる平和とはいかなるものか、そしてそれをどのようにしてこの苦界に顕すか、この白蓮、説かせて頂きましょう」
そして白蓮が語り始めると、幽香は真剣な目をして、一句も聞き逃す様子もなく、説法に没入する。水蜜や小傘は勿論、ぬえも自然と食事の手を止めて、白蓮の描くそれと違わぬ理想を、各々の胸中に思い描いていた。
「……どれほどの数の生き物が、日々無為にその命を散らしているのか、そのことを思うといつも胸が苦しくなるのです。死を怖れるが故に魔道に踏み入ったものの妄語と思うて下さるな。死を怖れるも悼むも、清浄な仏性。ならばその思い遂げられてこそ、仏国土は顕れると、私はそう信じております」
幽香はその言葉を聞き、意外そうに目を見開いた。
「仏の教えとは、生に執着するを戒めるものだと存じておりましたが、違ったでしょうか」
「人の、いえ、生きるものの心の動きを含め、この世は一切が清浄である。私はそのように学びました。それに私が帰依するこの教えは、生きるこの身そのままにして仏となるための教え。そう、仏国土は顕界にこそ立ち現れるのです」
幽香は微笑み、深く頷く。そして少し視線を食卓の上に泳がせてから、続きを求めるように白蓮に目配せをした。
「……一切衆生悉有仏性、生きとし生けるものは皆、広大無辺の慈悲を秘めています。それが泥中より開花したなら、そのときは必ずや殺生無き世界が実現される。さあ、ならばその開花を妨げる泥とは何でしょうか。……それはこの世に、優劣や善悪、上下貴賎の別があると信じること。一切皆空とは、そのようなものなどないと説いた言葉です」
「上下貴賎の区別などありませんか? ならば何故、あなたは仏に帰依するのです。神に仕える巫は、神を尊しと信じるが故に仕えるのではありませんか?」
そう問う幽香の声には、白蓮を試すかのような響きがあった。恐らくはその問いに対する彼女なりの答えは既に持っているのだろう。白蓮は、幽香の言葉を跳ね返すように、強い声でそれに答える。
「私が仏に帰依するは、私が私の心で以ってその姿に憧れたからです。仏が優れたるが故、尊きが故などではありません。そのような理由がなくとも、生きるものは誰かを敬える。貴賎の別の無くんば敬えぬというのであれば、そのような敬意は空しきもの。己が己の望みに従い行うことこそ、仏性の顕れなのです」
ほう、と幽香は感じ入ったように溜息を漏らす。そして鋭い視線を送り、重ねて白蓮に問うた。
「望むままに行うことが仏性の顕れならば、人間たちが己の欲動のままに破壊し、傷つけ、支配することも仏性の顕れであると、そう仰るのですか? そうであるならば、殺生の無き世など、見果てぬ夢であると、そう存じますが」
その言葉を聞き、白蓮は少しだけ悲しげな表情を浮かべた。しかし、決意したように視線を上げると、力強く幽香を見つめる。
「私は、思うのです。誰もが己と同じく命があり心があると知って、それでもそれを損なうことを、心の底から願うことなどできるのだろうかと。そうしたことを望むものは、ただそのことを知らぬだけなのではないかと。……無知が罪、などと申すつもりではありません。ただ、他者を傷つけてきたものがそのことを知ったとき、自身が酷く傷ついてしまうのではなかろうかと、そう思うのです」
白蓮は、遠い過去のことを思い出す。悪しき魔性と呼ばわられ、地の底に封じられた悲しみよりもなお深く、白蓮の胸の裡には、己を追いやったものたちへの慈悲が溢れていた。
幽香は微笑を浮かべて、何度も小さく頷いている。白蓮の言葉を反芻しているのだろう。
「そして、その疑念はこの幻想郷に生きるものたちを見て解けました。この郷では、誰もが手を取り合って、皆が笑顔で生きています。この大地のどこよりも自由なこの場所で。……縛り付けるものなどなくとも、人は人と手を取り合って生きたいと願える、破壊や支配よりも、ただ友と笑いあうことを望めるのだと、そう教えてもらえた。……それに」
白蓮の幽香に向ける視線が柔らかなものに変わる。そこには、何の打算もない敬意と愛情が込められていた。
「あなたが、あなたのように力あるものが平等を、平和を望んでいる。それが私には、嬉しくて堪らないのです。私には迷いがあった。平等などを望むのは所詮、弱きものの嫉妬に過ぎぬのではないかと。その迷いを晴らしてくれたあなたに、心から感謝したい」
白蓮は居直って、手を突いて幽香に一礼した。幽香は困ったように眉根を寄せて言う。
「お止めください、白蓮上人。私などに下げる頭がある位なら――」
「いえ、こればかりはさせて頂かねばなりません。永きに渡る迷いを、晴らしてくださったのですから」
もう一度、幽香に感謝の言葉を告げてから顔を上げた白蓮は、強く強く言葉を紡いでいく。
「人は、己が正しいと、善なるものであると、優れたるものであると信じていたがるもの。他者を間違っていると謗り、悪しきものであると貶め、劣っていると切り捨ててでも。……しかし、何故人はそのように信じていたがるのか、その答えもあなたに教えてもらえたような気がします。それはきっと、誰かに自分を認めてほしいから、自分が世界にいることを許してほしいから。自分を、信じてあげられないから。……そのことを、力に溺れず、自分を信じて己を立て、真っ直ぐに背筋を伸ばしているあなたの姿に、教わりました」
その言葉を向けられて幽香が見せた表情は、どこか悲しげな微笑だった。
「だから私は、そのようなものたちをこそ許してあげたい。正しくなどなくとも、優れてなどいなくとも、この世界にただ一人、替わりになれるものなどいないのだと、そう教えてあげたい。そうして、己自身に依って立つことができたなら、もはや他者を傷つけることを望めるものなど居はしない。私は、そう信じます」
そして白蓮は、強く拳を握り締め、声を張り上げる。
「だから私は、もう誰も死なせない、殺させない。殺生は殺されるものばかりでなく、殺すものさえも不幸にする行いです。そんな誰をも幸せにしないようなことは、この世から失くしていかなければならないのです!」
白蓮のその言葉に、命蓮寺のものたちは目を閉じて深く頷く。その瞼の裏に描かれたものは、皆が笑い合って生きる世界。それは、一人にとってはいつか夢見て果たせなかった想い。一人にとってはようやく手に入れられるかも知れない幸せの形。また一人にとっては、この幻想の郷で見つけた夢の続き。
たとえ見果てぬ夢だとしても、見続けるに足ると思えたそんな夢を、命蓮寺に集ったものたちは描いていた。
幽香は瞑目し、暫くの間顔を伏せていた。何かを呟いているようにも見える。そしてゆっくりと顔を上げると、おもむろに口を開いた。
「然様ですか。それは素晴らしいお考えですわ。――ならば、その広大無辺の慈悲をお顕しになり、疾く死んでくださいませ」
余りにも唐突に発せられたその言葉を、即座に飲み込むことができたものはいなかった。
数瞬の後、皆の視線が幽香に集まる。しかし幽香は、穏やかな微笑みを浮かべてその視線を撥ね退ける。
「何か?」
「お、お客様、今、何と仰いました? 私の聞き違いでなければ確か、死ね――とか」
「ええ、その通りですわ」
問いただす水蜜に、変わらぬ笑みで幽香は答える。
「……お客様、それは聞き捨てなりません。聖の説法を聞きながらそのような言葉が出てくるなど信じられませんが、聖を害さんとするのなら――」
「やめなさい、水蜜ッ!」
身構えた水蜜を白蓮が嗜める。ぬえは注意深く幽香の動向を見張り、小傘は初めて聞く白蓮の怒声に怯えていた。
幽香は何一つ意に介さないという様子で飄然と構えていた。
「申し訳ございません、風見様。この子は未だ道至らぬもの故、どうかこの粗相はお許しくださいませ」
「あら、私は何も気にしてなどおりませんわ。どうかお顔をお上げになってください、上人」
白蓮が頭を垂れている後ろでは、水蜜が忌々しげに幽香を睨み付けている。
白蓮は床に手を突いたまま幽香に問う。
「風見様。あれほど真摯に私の話を聞いてくださったあなたが、私に死ねと仰るのならば、何か私に至らぬところがあったのでしょう。私にできることならば正します故、何があなたにそのようなことを言わせるのか、教えてはくださいませんか」
「正せるものなどではありません。正すというのならば、それこそ死んで頂かねば。……ああ、そうですね。それならば殺生無き世界を諦めて頂くか、そのどちらかですわね」
幽香は飽くまで柔らかな声色で白蓮に言う。
「な、何故です! あなたとて、殺し殺され合うような世界は望まないのでしょう? それなのに何故――」
「ええ、私も一切の殺生が無い世界があるのならば、そんな世に生きてみたいとも思います。そしてあなたがそんな世界を強く望んでおられるのだということも、よくよく教えて頂きました。だからこそ死んでくれと、そう申し上げたのです」
幽香の答えはまるで要領を得ない。今にも飛び掛ろうとする水蜜を、白蓮は視線で制止する。
「……風見様、不明の私には、死ぬことによって何を為し得るのか、何が得られるのか、それがわからないのです。どうかそれを、お教え願えないでしょうか」
「死ねば殺さずに済むでしょう? そしてそれより他に、殺さぬ術などないと、そう存じ上げますが」
ただ事実のみを語るかのような口調で幽香は語る。白蓮にはやはりその真意が掴めなかった。
「数多の命を奪っておきながら、他者には殺すなと求めるなど醜悪の極み。白蓮上人はそのようなことをなさる方ではないと信じておりますもの」
「な、何を言っているのです。私は何も殺してなど――」
その瞬間、轟音が響いた。堂内に激烈な振動が走る。
何が起こったのかを瞬時に把握できたものはいなかった。呆然としていた水蜜にぬえ、小傘が我を取り戻すと、目に映ったのは、幽香に首を掴まれて壁に叩きつけられ、もがいている白蓮の姿だった。
「今、何と言った」
先ほどまでの穏やかな声とはまるで違う、まるで地獄の底から響いてくるような声。それが幽香の発したものだと気付くのに一瞬の時間を要する。
「何も殺してなどいないと――そう言ったわね」
その姿はまるで憎悪が澱り固まった黒い塊のように、白蓮の目には映る。幽香は白蓮の首を締め上げながら言葉を続ける。
「ならば今、そこの食卓に並んでいるものは何」
「え――」
白蓮は食卓へと視線を移す。そこには麦飯の盛られた茶碗に味噌椀が人数分と、質素な香の物が並んでいる。無論、生臭の類は一切使われていない。
「何かと、聞いているのよ!」
「な、何よ! 私たちは、獣も鳥も魚も! 何も殺してなんていないでしょう!」
水蜜が体の震えを何とか制し、幽香に向かって叫ぶ。その言葉を聞いた幽香は、その憎しみの表情を一層険しいものにした。
憎悪に打ち震えた声で、幽香は言葉を紡ぎ出す。
「あなたたちには、聞こえない?」
「何を――」
「この子たちの、怨嗟の声が」
水蜜から白蓮に向き直った幽香のその瞳からは、大粒の雫がぽろぽろと零れ出す。
「大地に抱かれて芽吹きたかった、大きくなって花を咲かせたかった、わが子を守りきれなかったと嘆いているこの子たちの声が、聞こえない?」
その言葉を聞いた白蓮は、ようやく目の前にいる女性が何者であるのかを理解した。
彼女は、植物の化身なのだ。
ならば彼女のこの噴出した感情の正体は、思い遂げられず死んだ仲間たちへ向けた深い同情と、痛ましいまでの悲しみと、その命を奪ったものたちに対する底知れない憎悪――白蓮自身を幾度となく焼いたあの激情と、同じものだったのだ。
「殺していない? ふざけるな。この子たちのことを何だと思っている。お前たちに食われるただそれだけのために存在しているとでも思っているのか。獣や人間共よりも、この子たちの命は軽いとでもいうのか。――ふざけるな!」
白蓮は幽香のその声を聞きながら、魔界に封印される以前のことを思い出していた。
そもそも自分は、何故妖怪たちを哀れに思ったのか。それは、この世にあってはならぬものだと呼ばわられ、退治されるのが当然のことだと言われ、それでも生きたいという妖怪たちの叫びに心を動かされたからではなかったか。
今、自分は幽香に対して――否、自分が食べてきた、殺してきた命に対して何と言った。お前たちなど生きていないと、そう言ったのではないか。だとすればそれは、自分が哀れんだ妖怪たちが受けてきたものよりも、余程惨い仕打ちではないか。
生きていると認められてさえいれば、言葉は届く。人の心も動かせる。自分には心が在るのだと伝えられる。それさえもできない、伝えられないというのがどれほど辛いことか、白蓮には想像さえつかなかった。
「私たちを殺しておきながら、殺生の無い世界を作る? 笑わせる。それともお前が言うその世界には、私たちはいらないとでも言うのかしら? それでよくも平等などと吐かせる」
違う、と白蓮は言いたかった。しかし言葉が詰まる。どうあれ自分は恐らくこの先も、植物を殺して食うことを止めはしないだろう。そうしなければ、飢えて死んでしまう。死ぬのは――怖い。
そのとき、水蜜が震える足に力を込めて立ち上がると、幽香に向けて吼える。
「そんなことは、生きるためには仕方のないことじゃない! ひ、聖を放せぇッ!」
「生きるために――仕方ない。……ああ、ああ。私の一番嫌いな言葉だわ。その言葉は、己が生きていることを当然のことだと思っていなければ出てこない。……ならば私は言いましょう。私たちが殺されぬために仕方のないことだから、お前たちは飢えて死ね」
幽香の声に篭った憎悪が更にその深さを増す。それも当然のことだろうと白蓮は思う。彼女自身、この命蓮寺に住む仲間たちが、死んで仕方のないものだなどと言われれば、怒りを露にすることだろう。
「何でよ、何でなのよ。人間が生きることは当然のことで、私たちが殺されるのは仕方のないこと。どうしてそんな恥知らずな理屈が罷り通る!」
その声は、白蓮にのみ向けたものではなく、人間全体へと向けたものであるように白蓮には聞こえた。彼女もまた、苦しみ多き過去を経てきたのだろうと、白蓮は思う。
しかし、幽香の言葉を聞きながら、白蓮は一つ、思い至ったことがあった。彼女の憎しみを濯ぎ、そして植物も含め、誰一人殺さずに済む魔法を、自分は知っているではないか。
「捨食の……魔、法」
首を絞められながらも、白蓮はどうにか掠れた声を絞り出す。
「捨食の魔法を、皆が会得すれば」
「捨食の魔法! あんなものはね」
幽香はぴしゃりと白蓮の言葉を遮った。首を絞める力を一層強めて幽香は言う。
「あれは外法中の外法よ。絶えず周りから生きる力を奪い取り、己の命に変える邪法。己の為す罪に気付かず過ごす為だけの、最も醜悪な魔法。そんなものをこの郷中の人間が修得したなら、この幻想郷は人間以外の命が気付きもされぬままに磨り減っていく、阿鼻叫喚の地獄となることでしょうね」
「え――」
そんなことは、知らなかった。俄かには信じられなかった。ただ幽香の目には嘘を言っているような陰はない。そこにあるのは、ただ純粋な激情だけだった。
「……つい最近、ほんの少し調べただけで分かったようなことよ? 魔法使いの癖に不勉強ね。……それとも、自分が生きるためにどんな対価が支払われているのか、そのことに僅かな疑問も抱かなかったというの? 自分が生きていることは当然のことだと、そう思っていたのね?」
幽香の言葉を何一つ否定できない自分に白蓮は歯噛みする。
自分が捨食の魔法を会得したとき、何を思っていたかということを白蓮は思い出す。そのときに考えていたことは、ただもうこれで死なずに済むのだという、どこまでも利己的な安堵だけだった。
「だ――だったら人間以外の生き物も修得すれば!」
水蜜がそう言うと、幽香はこの上もない侮蔑の視線を彼女に向けて言った。
「人間以外? あんな複雑な式をどうすれば人間以外が修得できるというの? それにもしそれが叶っても、互いに命を奪い合ってただただ消耗していくだけよ? それに何の意味があるのか、私にはわからないわね」
水蜜は幽香の視線に射抜かれて立ち尽くす。ぬえはただ怯える小傘を宥めていた。
「私だって、私だってね、殺さず殺されず、そんな平和な世界で生きていけたらと思うわよ。だけど私たちだって、誰も死ななくなれば大地の力は失われて、枯れ果てるのを待つばかり。死にたくない、だから誰か死んでくれと、そうも思っている」
幽香は悲しみを湛えた瞳で白蓮を見据える。
「殺したくないなんて、自分が生きていけることが保証されていて初めて生まれてくる感情。生きていくために殺している命には一瞥もくれないのがその証拠よ。違うというなら――飢えて、死ね!」
幽香の悲痛な叫びが、白蓮の胸を貫いた。白蓮はその痛みを、ただ必死に堪えている。
幽香は目を伏せ、少しだけ白蓮を掴む手の力を緩めた。そのことの中にどんな感情が渦巻いているのか、白蓮には読み取れない。
「……別にね、構わないのよ? 私たちを食べることも、私たちだけを選んで食べることも。……命の廻りの終わりと始まりを繋ぐこと、それが私たちの誇り」
再び幽香は顔を上げる。そこには激情に焼かれた悲痛な表情が張り付いていた。
「だけどせめて、せめてね、認めなさいよ。私たちだって生きているのよ。風に飛ばされぬよう、必死で大地に根を下ろして、どんなに踏みつけにされても、懸命に胸を張って、そうして生きているのよ! お前が、そんな私たちを殺しても、少しも心が痛まない、そんな奴だってことを」
白蓮は、己に向けられたこの憎悪を受け入れることこそ、己の務めであると、そう思った。幽香の目からは、涙がとめどなく溢れている。
「――認めろ!」
そう叫んで、幽香は白蓮を掴む力を抜いた。白蓮はすとんと床にへたり込む。
ぽたり、と落ちてきたのは、幽香の涙である。白蓮はそれに、そっと指で触れた。
「お前みたいな奴が、平等なんて言葉を吐くな。……反吐が出る」
幽香は白蓮に唾を吐きかけると、そのまま食堂から出ていく。後には、あの憎悪の声だけが残響していた。
「聖、聖ぃっ! 大丈夫? ごめんなさい、私、聖のこと、守れなくて」
「水蜜……私は平気です。ええ、私が食べてきた――殺してきた命に比べれば、これしきの痛み――」
水蜜が白蓮に駆け寄る。ぬえと小傘は俯いて沈思していた。あの幽香の言葉に、思うところがあったのだろうか。
白蓮は食卓を見渡す。芽吹くことも出来ず、花を咲かせることも出来ず、抱いた種を守ることも出来ずに、自分に殺されたものたちの怨みの声が、今ははっきりと白蓮の耳に届いていた。
「この憎しみを受け入れねば……平等など夢のまた夢か」
「聖……?」
白蓮の胸中には、様々の感情が渦巻いていた。
殺したくない、死にたくない。そのどちらもが本当の自分で、そのどちらも捨ててしまいたくはなかった。
これこそ執着かも知れぬ、と白蓮は思う。今、彼女には時間が必要だった。その矛盾する感情たちを、一つに纏めて受け入れるための時間が。
そして、それらを飲み込めたとき、そのときは、必ずや見つけ出した答えを、幽香に伝えにいこうと、そう誓う。
きっとこの憎悪をも飲み込んだ平等を作り上げて見せると、そう強く決心するのであった。
*
食堂を出た幽香が、山門へ向けて歩いてくるのを確かめると、一輪はその前に歩み出る。幽香は立ち止まると、酷く決まりが悪そうに目を伏せていた。
しばらくの沈黙の後、幽香が意を決したように切り出す。
「申し訳ありません、雲居様。私はあなたに嘘を吐いてしまった。白蓮殿を、傷つけてしまった。……何を言っても言い訳でしかないことはわかっています。しかし私はただ、少し皮肉を言ってやろうと思っていただけで、あのようなことをしでかすつもりは本当になかったのです。……だけど、生きた証を、何一つ省みられることもなく骸をさらしているあの子たちを見ていると、頭に血が昇ってしまって……我ながら、情けない」
「ええ、全てわかっています。中でのことは、雲山に見てもらっていましたから。……でも、ご自分から仰ってくれて、良かった」
一輪の隣に紫雲が集まる。そしてその中には、厳めしい老人の顔が現れた。
「……あなたのお気持ちは、本当によくわかるのです。私たちも、生きているということを認められず、苦しんだことが多かったものですから。ねえ、雲山」
一輪が袖を捲くると、そこにはぼんやりと霞んだ輪郭が現れる。
「私たちは雲。海や湖水を食らって大きくなり、骸は雨となって大地を潤す。……命の廻りの一端を担うもの、です」
一輪が雲山の方を見ると、悲しげな表情を浮かべていた。遠い昔のことを思い出しているのだろうか。
「はい、この里の桜の木も、あなたたちを歓迎していましたから、それは知っています。……あの子たちに、いつも綺麗な花を咲かせてくれてありがとうと、そう伝えてくれるでしょうか。この、空に浮かぶ雲たちに」
「はい。……必ず」
一輪は幽香に深く一礼する。そして顔を上げると、真っ直ぐに幽香の目を見据えて言った。
「風見様、私たちは決して理想への歩みを止めはしません。聖は必ず、あなたたちのその憎しみをも受け入れた平等の形を見つけるでしょう。いつの日か、私たちを受け入れてくれたように。……それがいつになるかはわかりません。それでも必ず、本当の平等は訪れると、私は信じています」
「そう、ですか。……そんな日が来るのを、楽しみにさせて頂きますわ」
幽香は寂しげに俯いて微笑する。
「ねえ、一つだけ聞かせてください。あなたはあの方――白蓮殿といて、幸せですか?」
「はい。……雲山も、そのように」
それは自信を持って断言できる。過日あれほどに胸を焼いた激情を、今は感じることもない。そして自分と同じように苦しむものたちの手を取り救う、その手助けをしていける。それほどの幸せはないと、一輪は確信する。
「……そう、それはよかった。……それでは、私はこれで失礼致します。本当に、申し訳ありませんでした」
そう言って幽香は日傘を差して去っていく。その寂しげな背中に、微かな希望が宿っていたのを一輪は見逃さない。
その希望が空しきものとならぬよう、いつの日か真なる平等をこの幻想郷に根付かせる、その歩みを留めぬことを、一輪は改めて強く誓った。
掃除を終え、一輪は雲山を伴って食堂へと向かう。後には、幽かに香る花が一輪、静かに胸を張って咲いていた。
<了>
そうたおやかな笑みを浮かべて問うたのは、日傘を手に持ち、草色の髪を風に靡かせた美しい女性だった。
「はい、その通りですが、いかな御用でしょうか」
答えたのはここ、命蓮寺に住まう妖怪の一人、雲居一輪である。彼女は寺の者の食事を作り終え、門前の掃除をしている最中だった。
彼女はその女性が、酷く大きな力を持つ妖怪であることに気が付いていた。命蓮寺が幻想郷に受け入れられてからの数ヶ月、それなりの数の人間や妖怪が訪れて来ていたが、一目見ただけでそれとわかるほど力のある妖怪がやって来たのは初めてであった。
「ええ、こちらの住職様、白蓮上人と仰いましたか、その方が大層立派な方だと聞いて、是非とも一度ご高話を拝聴したいと思って参ったのです。何でも、一切の殺生のない、平等な世界を作ろうと尽力なされているのだとか」
「ああ、聖の説法がお目当てですか」
その言葉を聞いても、一輪は警戒を緩めない。力の強いものにとっては、平等というものは疎ましいものに映ることも少なくなかろうと考えてのことだった。万一この女性が、平等を説く白蓮の首を掻こうとしているのだとしたら、一輪は己の命を懸けてでも止める気構えだった。
一輪はじっとその女性の目を見つめる。その女性はなおもたおやかな笑みを崩さない。
「……失礼ながら、あなたは相当に力のある妖怪であるとお見受けします。そんなあなたが、どうして平等などという思想に惹かれるので?」
「……そうですね。そのように思われるのも仕方のないことでしょう。しかし私は、ただ穏やかに生きていたいだけなのです。……このような力を得なければ、その望みを叶えることは出来なかった。これより後、私のようなものが現れる必要がないよう、私は平等なる平和を、望むのです」
女性はまっすぐに一輪の目を見返して言う。
一輪も、仏道に帰依してよりそれなりの時を経ており、他者を見る目には少しは自信もある。その彼女の目から見て、女性の目には一切曇ったところは認められなかった。
どうやら、偽りはないようだと、一輪は少し警戒を解く。
「そう、ですか。それならば聖も、あなたのような方に会えることを喜ぶでしょう。ただ、今は斎食の最中でして、少しばかりお待ち頂けないでしょうか」
「あら、お食事中ですか」
そう言った途端、女性の目に何か濁ったものが宿るのを一輪は見逃さない。いや、濁ったというのは正確ではない。彼女の目には、飽くまでも澄み切った、何かしらの感情が宿っていた。
「……それは丁度よろしいですわ。今すぐにお会いさせて頂きます」
そう言って、女性は日傘をたたみ、山門の中へ歩を進めようとした。
一瞬、一輪は呆気に取られていたが、すぐに気を取り直すと、女性の手を取って制止する。
「お、お待ちください! すぐに食事は済みますから」
女性は何も言わず歩を進める。確かに掴んだはずの手はいつの間にかすり抜けて、ふわふわと漂う微風のように、女性は境内を進んでいった。
これは、まずいと一輪は思う。一輪は女性の体に取り付いて歩みを止めにかかる。
「待ちなさい! もしもこの命蓮寺の者に害を為そうというのなら、この雲居一輪が相手になります!」
女性は、一輪を一瞥すると、困ったように眉根を寄せた。その目には、あの感情が宿っている。
一瞬の逡巡の後、女性はゆっくりと口を開いた。
「……失礼、私としたことが、名乗るのを忘れておりました。私は幽香、風見幽香と申すものです。害を為そうなどと、そんなことを考えているわけではありません。ただ白蓮上人は、どのように平等なる世界を実現しようと考えていらっしゃるのか、それを知りたいだけです。……どうしても、今すぐにお会いしたいのです。お目通りは叶いませんでしょうか」
幽香と名乗った女性は、真摯な視線を一輪に向ける。
曇りのない、しかし何か不思議な感情が宿ったその目を見つめ、一輪は考える。
平等や平和を望むと言った幽香の言葉には、一切偽りはないと、それは自信を持って断言できる。しかし、女性が瞳に宿した感情を見たとき、一輪はそこに害意や敵意のようなものを、直観的に見て取ったのだ。そのような相手を、白蓮に合わせる訳にはいかぬ。
しかし、何故平等を、平和を熱望しながら、同じくそれを希求し、実現に向けて邁進する白蓮に敵意を向けるのか、それが一輪にはわからなかった。一輪は再び、幽香の目を見つめる。
それは強い、強い熱を帯びた感情だった。それを名状するための言葉が、一輪には見つからない。敢えて手元にある言葉で表すのならば――
――悲しみ?
いや、違う。これは憎しみでもあり、怒りでもあり、しかし、どこかに優しさや慈しみを秘めた、そんな奇妙な感情だった。
その正体を掴めないまま懊悩していると、ふわり、と花の香りが漂ってくる。それは余りに良い香りで、一輪は思わず、その香りの元を探して視線を泳がせる。
一輪の視線がたどり着いたのは、自身が抱き止めていた女性の姿だった。そのことを確かめた瞬間、一輪は幽香の瞳に宿った感情の正体を理解する。
「……結構です。食堂はあちらです。聖はそこに」
「ありがとうございます、雲居様」
幽香は一輪に深く一礼すると、食堂へ向けて歩き出す。一輪が見送った彼女の背は、やはりあの目に宿っていたものと同じ感情を背負っていた。
*
「お食事中、失礼いたします。私は風見幽香と申すものです。白蓮上人はいらっしゃるでしょうか」
食事中に来客とは、珍しいこともあるものだと、この命蓮寺の住職――聖白蓮は思った。他にこの場にいた、キャプテンとの愛称で里のものに親しまれる村紗水蜜に、その古い友人の封獣ぬえ、少し前から居候をしている付喪神の多々良小傘も、同じように思ったことだろう。
「ちょ、ちょっとちょっと。一輪は何をしているのよ、お客様にこんなみっともないところ、ああ、すみません。ほら、ぬえ、さっさと口の中のもの飲み込む!」
水蜜は慌てて、食卓に並んだ皿を片付けようとする。幽香はそれを制止して言った。
「いえ、雲居様にはお食事中であることを承知で、無理を言って通していただいたのです。ですから、そのようなお気遣いは結構です。どうしても、今すぐに御高話を伺いたかったもので、失礼とは存じますが」
「え? で、でも……」
「いーじゃんムラサ。話聞きたいってことは白蓮の説法が目当てでしょ? 人間も妖怪もない平等を願う同志ってわけだ。だったら食事中だろうが何だろうが、拒む理由なんてないよね、白蓮?」
ぬえが箸を止めようともせず割って入る。白蓮は、笑顔で頷きそれに答えた。
「ええ、勿論です。風見様、風見幽香様と仰いましたね。まずはお座りください。水蜜はお茶を用意して差し上げて」
水蜜が戸惑いながらも急須を手に取るのを、幽香は遮って言う。
「持て成しなど結構です。私は白蓮上人の御高話を目当てに参ったのです。そのようなことに気を揉まれるなら、今すぐに御説法頂きたいですわ」
「私が望むのは誰もが平等に、尊重し合って生きる世界。客人の一人も持て成せずして、どうしてそれが実現できましょう?」
「ですから、私にとっての最高の持て成しは今すぐに御説法頂くこと。それは尊重していただけないので?」
幽香の舌鋒に、白蓮は少々たじろぐ。しかし、彼女の言うことももっともだと思い直し、居住まいを正して幽香に向き直る。
「なるほど、確かに仰るとおりです。それでは、私が望む平等なる平和とはいかなるものか、そしてそれをどのようにしてこの苦界に顕すか、この白蓮、説かせて頂きましょう」
そして白蓮が語り始めると、幽香は真剣な目をして、一句も聞き逃す様子もなく、説法に没入する。水蜜や小傘は勿論、ぬえも自然と食事の手を止めて、白蓮の描くそれと違わぬ理想を、各々の胸中に思い描いていた。
「……どれほどの数の生き物が、日々無為にその命を散らしているのか、そのことを思うといつも胸が苦しくなるのです。死を怖れるが故に魔道に踏み入ったものの妄語と思うて下さるな。死を怖れるも悼むも、清浄な仏性。ならばその思い遂げられてこそ、仏国土は顕れると、私はそう信じております」
幽香はその言葉を聞き、意外そうに目を見開いた。
「仏の教えとは、生に執着するを戒めるものだと存じておりましたが、違ったでしょうか」
「人の、いえ、生きるものの心の動きを含め、この世は一切が清浄である。私はそのように学びました。それに私が帰依するこの教えは、生きるこの身そのままにして仏となるための教え。そう、仏国土は顕界にこそ立ち現れるのです」
幽香は微笑み、深く頷く。そして少し視線を食卓の上に泳がせてから、続きを求めるように白蓮に目配せをした。
「……一切衆生悉有仏性、生きとし生けるものは皆、広大無辺の慈悲を秘めています。それが泥中より開花したなら、そのときは必ずや殺生無き世界が実現される。さあ、ならばその開花を妨げる泥とは何でしょうか。……それはこの世に、優劣や善悪、上下貴賎の別があると信じること。一切皆空とは、そのようなものなどないと説いた言葉です」
「上下貴賎の区別などありませんか? ならば何故、あなたは仏に帰依するのです。神に仕える巫は、神を尊しと信じるが故に仕えるのではありませんか?」
そう問う幽香の声には、白蓮を試すかのような響きがあった。恐らくはその問いに対する彼女なりの答えは既に持っているのだろう。白蓮は、幽香の言葉を跳ね返すように、強い声でそれに答える。
「私が仏に帰依するは、私が私の心で以ってその姿に憧れたからです。仏が優れたるが故、尊きが故などではありません。そのような理由がなくとも、生きるものは誰かを敬える。貴賎の別の無くんば敬えぬというのであれば、そのような敬意は空しきもの。己が己の望みに従い行うことこそ、仏性の顕れなのです」
ほう、と幽香は感じ入ったように溜息を漏らす。そして鋭い視線を送り、重ねて白蓮に問うた。
「望むままに行うことが仏性の顕れならば、人間たちが己の欲動のままに破壊し、傷つけ、支配することも仏性の顕れであると、そう仰るのですか? そうであるならば、殺生の無き世など、見果てぬ夢であると、そう存じますが」
その言葉を聞き、白蓮は少しだけ悲しげな表情を浮かべた。しかし、決意したように視線を上げると、力強く幽香を見つめる。
「私は、思うのです。誰もが己と同じく命があり心があると知って、それでもそれを損なうことを、心の底から願うことなどできるのだろうかと。そうしたことを望むものは、ただそのことを知らぬだけなのではないかと。……無知が罪、などと申すつもりではありません。ただ、他者を傷つけてきたものがそのことを知ったとき、自身が酷く傷ついてしまうのではなかろうかと、そう思うのです」
白蓮は、遠い過去のことを思い出す。悪しき魔性と呼ばわられ、地の底に封じられた悲しみよりもなお深く、白蓮の胸の裡には、己を追いやったものたちへの慈悲が溢れていた。
幽香は微笑を浮かべて、何度も小さく頷いている。白蓮の言葉を反芻しているのだろう。
「そして、その疑念はこの幻想郷に生きるものたちを見て解けました。この郷では、誰もが手を取り合って、皆が笑顔で生きています。この大地のどこよりも自由なこの場所で。……縛り付けるものなどなくとも、人は人と手を取り合って生きたいと願える、破壊や支配よりも、ただ友と笑いあうことを望めるのだと、そう教えてもらえた。……それに」
白蓮の幽香に向ける視線が柔らかなものに変わる。そこには、何の打算もない敬意と愛情が込められていた。
「あなたが、あなたのように力あるものが平等を、平和を望んでいる。それが私には、嬉しくて堪らないのです。私には迷いがあった。平等などを望むのは所詮、弱きものの嫉妬に過ぎぬのではないかと。その迷いを晴らしてくれたあなたに、心から感謝したい」
白蓮は居直って、手を突いて幽香に一礼した。幽香は困ったように眉根を寄せて言う。
「お止めください、白蓮上人。私などに下げる頭がある位なら――」
「いえ、こればかりはさせて頂かねばなりません。永きに渡る迷いを、晴らしてくださったのですから」
もう一度、幽香に感謝の言葉を告げてから顔を上げた白蓮は、強く強く言葉を紡いでいく。
「人は、己が正しいと、善なるものであると、優れたるものであると信じていたがるもの。他者を間違っていると謗り、悪しきものであると貶め、劣っていると切り捨ててでも。……しかし、何故人はそのように信じていたがるのか、その答えもあなたに教えてもらえたような気がします。それはきっと、誰かに自分を認めてほしいから、自分が世界にいることを許してほしいから。自分を、信じてあげられないから。……そのことを、力に溺れず、自分を信じて己を立て、真っ直ぐに背筋を伸ばしているあなたの姿に、教わりました」
その言葉を向けられて幽香が見せた表情は、どこか悲しげな微笑だった。
「だから私は、そのようなものたちをこそ許してあげたい。正しくなどなくとも、優れてなどいなくとも、この世界にただ一人、替わりになれるものなどいないのだと、そう教えてあげたい。そうして、己自身に依って立つことができたなら、もはや他者を傷つけることを望めるものなど居はしない。私は、そう信じます」
そして白蓮は、強く拳を握り締め、声を張り上げる。
「だから私は、もう誰も死なせない、殺させない。殺生は殺されるものばかりでなく、殺すものさえも不幸にする行いです。そんな誰をも幸せにしないようなことは、この世から失くしていかなければならないのです!」
白蓮のその言葉に、命蓮寺のものたちは目を閉じて深く頷く。その瞼の裏に描かれたものは、皆が笑い合って生きる世界。それは、一人にとってはいつか夢見て果たせなかった想い。一人にとってはようやく手に入れられるかも知れない幸せの形。また一人にとっては、この幻想の郷で見つけた夢の続き。
たとえ見果てぬ夢だとしても、見続けるに足ると思えたそんな夢を、命蓮寺に集ったものたちは描いていた。
幽香は瞑目し、暫くの間顔を伏せていた。何かを呟いているようにも見える。そしてゆっくりと顔を上げると、おもむろに口を開いた。
「然様ですか。それは素晴らしいお考えですわ。――ならば、その広大無辺の慈悲をお顕しになり、疾く死んでくださいませ」
余りにも唐突に発せられたその言葉を、即座に飲み込むことができたものはいなかった。
数瞬の後、皆の視線が幽香に集まる。しかし幽香は、穏やかな微笑みを浮かべてその視線を撥ね退ける。
「何か?」
「お、お客様、今、何と仰いました? 私の聞き違いでなければ確か、死ね――とか」
「ええ、その通りですわ」
問いただす水蜜に、変わらぬ笑みで幽香は答える。
「……お客様、それは聞き捨てなりません。聖の説法を聞きながらそのような言葉が出てくるなど信じられませんが、聖を害さんとするのなら――」
「やめなさい、水蜜ッ!」
身構えた水蜜を白蓮が嗜める。ぬえは注意深く幽香の動向を見張り、小傘は初めて聞く白蓮の怒声に怯えていた。
幽香は何一つ意に介さないという様子で飄然と構えていた。
「申し訳ございません、風見様。この子は未だ道至らぬもの故、どうかこの粗相はお許しくださいませ」
「あら、私は何も気にしてなどおりませんわ。どうかお顔をお上げになってください、上人」
白蓮が頭を垂れている後ろでは、水蜜が忌々しげに幽香を睨み付けている。
白蓮は床に手を突いたまま幽香に問う。
「風見様。あれほど真摯に私の話を聞いてくださったあなたが、私に死ねと仰るのならば、何か私に至らぬところがあったのでしょう。私にできることならば正します故、何があなたにそのようなことを言わせるのか、教えてはくださいませんか」
「正せるものなどではありません。正すというのならば、それこそ死んで頂かねば。……ああ、そうですね。それならば殺生無き世界を諦めて頂くか、そのどちらかですわね」
幽香は飽くまで柔らかな声色で白蓮に言う。
「な、何故です! あなたとて、殺し殺され合うような世界は望まないのでしょう? それなのに何故――」
「ええ、私も一切の殺生が無い世界があるのならば、そんな世に生きてみたいとも思います。そしてあなたがそんな世界を強く望んでおられるのだということも、よくよく教えて頂きました。だからこそ死んでくれと、そう申し上げたのです」
幽香の答えはまるで要領を得ない。今にも飛び掛ろうとする水蜜を、白蓮は視線で制止する。
「……風見様、不明の私には、死ぬことによって何を為し得るのか、何が得られるのか、それがわからないのです。どうかそれを、お教え願えないでしょうか」
「死ねば殺さずに済むでしょう? そしてそれより他に、殺さぬ術などないと、そう存じ上げますが」
ただ事実のみを語るかのような口調で幽香は語る。白蓮にはやはりその真意が掴めなかった。
「数多の命を奪っておきながら、他者には殺すなと求めるなど醜悪の極み。白蓮上人はそのようなことをなさる方ではないと信じておりますもの」
「な、何を言っているのです。私は何も殺してなど――」
その瞬間、轟音が響いた。堂内に激烈な振動が走る。
何が起こったのかを瞬時に把握できたものはいなかった。呆然としていた水蜜にぬえ、小傘が我を取り戻すと、目に映ったのは、幽香に首を掴まれて壁に叩きつけられ、もがいている白蓮の姿だった。
「今、何と言った」
先ほどまでの穏やかな声とはまるで違う、まるで地獄の底から響いてくるような声。それが幽香の発したものだと気付くのに一瞬の時間を要する。
「何も殺してなどいないと――そう言ったわね」
その姿はまるで憎悪が澱り固まった黒い塊のように、白蓮の目には映る。幽香は白蓮の首を締め上げながら言葉を続ける。
「ならば今、そこの食卓に並んでいるものは何」
「え――」
白蓮は食卓へと視線を移す。そこには麦飯の盛られた茶碗に味噌椀が人数分と、質素な香の物が並んでいる。無論、生臭の類は一切使われていない。
「何かと、聞いているのよ!」
「な、何よ! 私たちは、獣も鳥も魚も! 何も殺してなんていないでしょう!」
水蜜が体の震えを何とか制し、幽香に向かって叫ぶ。その言葉を聞いた幽香は、その憎しみの表情を一層険しいものにした。
憎悪に打ち震えた声で、幽香は言葉を紡ぎ出す。
「あなたたちには、聞こえない?」
「何を――」
「この子たちの、怨嗟の声が」
水蜜から白蓮に向き直った幽香のその瞳からは、大粒の雫がぽろぽろと零れ出す。
「大地に抱かれて芽吹きたかった、大きくなって花を咲かせたかった、わが子を守りきれなかったと嘆いているこの子たちの声が、聞こえない?」
その言葉を聞いた白蓮は、ようやく目の前にいる女性が何者であるのかを理解した。
彼女は、植物の化身なのだ。
ならば彼女のこの噴出した感情の正体は、思い遂げられず死んだ仲間たちへ向けた深い同情と、痛ましいまでの悲しみと、その命を奪ったものたちに対する底知れない憎悪――白蓮自身を幾度となく焼いたあの激情と、同じものだったのだ。
「殺していない? ふざけるな。この子たちのことを何だと思っている。お前たちに食われるただそれだけのために存在しているとでも思っているのか。獣や人間共よりも、この子たちの命は軽いとでもいうのか。――ふざけるな!」
白蓮は幽香のその声を聞きながら、魔界に封印される以前のことを思い出していた。
そもそも自分は、何故妖怪たちを哀れに思ったのか。それは、この世にあってはならぬものだと呼ばわられ、退治されるのが当然のことだと言われ、それでも生きたいという妖怪たちの叫びに心を動かされたからではなかったか。
今、自分は幽香に対して――否、自分が食べてきた、殺してきた命に対して何と言った。お前たちなど生きていないと、そう言ったのではないか。だとすればそれは、自分が哀れんだ妖怪たちが受けてきたものよりも、余程惨い仕打ちではないか。
生きていると認められてさえいれば、言葉は届く。人の心も動かせる。自分には心が在るのだと伝えられる。それさえもできない、伝えられないというのがどれほど辛いことか、白蓮には想像さえつかなかった。
「私たちを殺しておきながら、殺生の無い世界を作る? 笑わせる。それともお前が言うその世界には、私たちはいらないとでも言うのかしら? それでよくも平等などと吐かせる」
違う、と白蓮は言いたかった。しかし言葉が詰まる。どうあれ自分は恐らくこの先も、植物を殺して食うことを止めはしないだろう。そうしなければ、飢えて死んでしまう。死ぬのは――怖い。
そのとき、水蜜が震える足に力を込めて立ち上がると、幽香に向けて吼える。
「そんなことは、生きるためには仕方のないことじゃない! ひ、聖を放せぇッ!」
「生きるために――仕方ない。……ああ、ああ。私の一番嫌いな言葉だわ。その言葉は、己が生きていることを当然のことだと思っていなければ出てこない。……ならば私は言いましょう。私たちが殺されぬために仕方のないことだから、お前たちは飢えて死ね」
幽香の声に篭った憎悪が更にその深さを増す。それも当然のことだろうと白蓮は思う。彼女自身、この命蓮寺に住む仲間たちが、死んで仕方のないものだなどと言われれば、怒りを露にすることだろう。
「何でよ、何でなのよ。人間が生きることは当然のことで、私たちが殺されるのは仕方のないこと。どうしてそんな恥知らずな理屈が罷り通る!」
その声は、白蓮にのみ向けたものではなく、人間全体へと向けたものであるように白蓮には聞こえた。彼女もまた、苦しみ多き過去を経てきたのだろうと、白蓮は思う。
しかし、幽香の言葉を聞きながら、白蓮は一つ、思い至ったことがあった。彼女の憎しみを濯ぎ、そして植物も含め、誰一人殺さずに済む魔法を、自分は知っているではないか。
「捨食の……魔、法」
首を絞められながらも、白蓮はどうにか掠れた声を絞り出す。
「捨食の魔法を、皆が会得すれば」
「捨食の魔法! あんなものはね」
幽香はぴしゃりと白蓮の言葉を遮った。首を絞める力を一層強めて幽香は言う。
「あれは外法中の外法よ。絶えず周りから生きる力を奪い取り、己の命に変える邪法。己の為す罪に気付かず過ごす為だけの、最も醜悪な魔法。そんなものをこの郷中の人間が修得したなら、この幻想郷は人間以外の命が気付きもされぬままに磨り減っていく、阿鼻叫喚の地獄となることでしょうね」
「え――」
そんなことは、知らなかった。俄かには信じられなかった。ただ幽香の目には嘘を言っているような陰はない。そこにあるのは、ただ純粋な激情だけだった。
「……つい最近、ほんの少し調べただけで分かったようなことよ? 魔法使いの癖に不勉強ね。……それとも、自分が生きるためにどんな対価が支払われているのか、そのことに僅かな疑問も抱かなかったというの? 自分が生きていることは当然のことだと、そう思っていたのね?」
幽香の言葉を何一つ否定できない自分に白蓮は歯噛みする。
自分が捨食の魔法を会得したとき、何を思っていたかということを白蓮は思い出す。そのときに考えていたことは、ただもうこれで死なずに済むのだという、どこまでも利己的な安堵だけだった。
「だ――だったら人間以外の生き物も修得すれば!」
水蜜がそう言うと、幽香はこの上もない侮蔑の視線を彼女に向けて言った。
「人間以外? あんな複雑な式をどうすれば人間以外が修得できるというの? それにもしそれが叶っても、互いに命を奪い合ってただただ消耗していくだけよ? それに何の意味があるのか、私にはわからないわね」
水蜜は幽香の視線に射抜かれて立ち尽くす。ぬえはただ怯える小傘を宥めていた。
「私だって、私だってね、殺さず殺されず、そんな平和な世界で生きていけたらと思うわよ。だけど私たちだって、誰も死ななくなれば大地の力は失われて、枯れ果てるのを待つばかり。死にたくない、だから誰か死んでくれと、そうも思っている」
幽香は悲しみを湛えた瞳で白蓮を見据える。
「殺したくないなんて、自分が生きていけることが保証されていて初めて生まれてくる感情。生きていくために殺している命には一瞥もくれないのがその証拠よ。違うというなら――飢えて、死ね!」
幽香の悲痛な叫びが、白蓮の胸を貫いた。白蓮はその痛みを、ただ必死に堪えている。
幽香は目を伏せ、少しだけ白蓮を掴む手の力を緩めた。そのことの中にどんな感情が渦巻いているのか、白蓮には読み取れない。
「……別にね、構わないのよ? 私たちを食べることも、私たちだけを選んで食べることも。……命の廻りの終わりと始まりを繋ぐこと、それが私たちの誇り」
再び幽香は顔を上げる。そこには激情に焼かれた悲痛な表情が張り付いていた。
「だけどせめて、せめてね、認めなさいよ。私たちだって生きているのよ。風に飛ばされぬよう、必死で大地に根を下ろして、どんなに踏みつけにされても、懸命に胸を張って、そうして生きているのよ! お前が、そんな私たちを殺しても、少しも心が痛まない、そんな奴だってことを」
白蓮は、己に向けられたこの憎悪を受け入れることこそ、己の務めであると、そう思った。幽香の目からは、涙がとめどなく溢れている。
「――認めろ!」
そう叫んで、幽香は白蓮を掴む力を抜いた。白蓮はすとんと床にへたり込む。
ぽたり、と落ちてきたのは、幽香の涙である。白蓮はそれに、そっと指で触れた。
「お前みたいな奴が、平等なんて言葉を吐くな。……反吐が出る」
幽香は白蓮に唾を吐きかけると、そのまま食堂から出ていく。後には、あの憎悪の声だけが残響していた。
「聖、聖ぃっ! 大丈夫? ごめんなさい、私、聖のこと、守れなくて」
「水蜜……私は平気です。ええ、私が食べてきた――殺してきた命に比べれば、これしきの痛み――」
水蜜が白蓮に駆け寄る。ぬえと小傘は俯いて沈思していた。あの幽香の言葉に、思うところがあったのだろうか。
白蓮は食卓を見渡す。芽吹くことも出来ず、花を咲かせることも出来ず、抱いた種を守ることも出来ずに、自分に殺されたものたちの怨みの声が、今ははっきりと白蓮の耳に届いていた。
「この憎しみを受け入れねば……平等など夢のまた夢か」
「聖……?」
白蓮の胸中には、様々の感情が渦巻いていた。
殺したくない、死にたくない。そのどちらもが本当の自分で、そのどちらも捨ててしまいたくはなかった。
これこそ執着かも知れぬ、と白蓮は思う。今、彼女には時間が必要だった。その矛盾する感情たちを、一つに纏めて受け入れるための時間が。
そして、それらを飲み込めたとき、そのときは、必ずや見つけ出した答えを、幽香に伝えにいこうと、そう誓う。
きっとこの憎悪をも飲み込んだ平等を作り上げて見せると、そう強く決心するのであった。
*
食堂を出た幽香が、山門へ向けて歩いてくるのを確かめると、一輪はその前に歩み出る。幽香は立ち止まると、酷く決まりが悪そうに目を伏せていた。
しばらくの沈黙の後、幽香が意を決したように切り出す。
「申し訳ありません、雲居様。私はあなたに嘘を吐いてしまった。白蓮殿を、傷つけてしまった。……何を言っても言い訳でしかないことはわかっています。しかし私はただ、少し皮肉を言ってやろうと思っていただけで、あのようなことをしでかすつもりは本当になかったのです。……だけど、生きた証を、何一つ省みられることもなく骸をさらしているあの子たちを見ていると、頭に血が昇ってしまって……我ながら、情けない」
「ええ、全てわかっています。中でのことは、雲山に見てもらっていましたから。……でも、ご自分から仰ってくれて、良かった」
一輪の隣に紫雲が集まる。そしてその中には、厳めしい老人の顔が現れた。
「……あなたのお気持ちは、本当によくわかるのです。私たちも、生きているということを認められず、苦しんだことが多かったものですから。ねえ、雲山」
一輪が袖を捲くると、そこにはぼんやりと霞んだ輪郭が現れる。
「私たちは雲。海や湖水を食らって大きくなり、骸は雨となって大地を潤す。……命の廻りの一端を担うもの、です」
一輪が雲山の方を見ると、悲しげな表情を浮かべていた。遠い昔のことを思い出しているのだろうか。
「はい、この里の桜の木も、あなたたちを歓迎していましたから、それは知っています。……あの子たちに、いつも綺麗な花を咲かせてくれてありがとうと、そう伝えてくれるでしょうか。この、空に浮かぶ雲たちに」
「はい。……必ず」
一輪は幽香に深く一礼する。そして顔を上げると、真っ直ぐに幽香の目を見据えて言った。
「風見様、私たちは決して理想への歩みを止めはしません。聖は必ず、あなたたちのその憎しみをも受け入れた平等の形を見つけるでしょう。いつの日か、私たちを受け入れてくれたように。……それがいつになるかはわかりません。それでも必ず、本当の平等は訪れると、私は信じています」
「そう、ですか。……そんな日が来るのを、楽しみにさせて頂きますわ」
幽香は寂しげに俯いて微笑する。
「ねえ、一つだけ聞かせてください。あなたはあの方――白蓮殿といて、幸せですか?」
「はい。……雲山も、そのように」
それは自信を持って断言できる。過日あれほどに胸を焼いた激情を、今は感じることもない。そして自分と同じように苦しむものたちの手を取り救う、その手助けをしていける。それほどの幸せはないと、一輪は確信する。
「……そう、それはよかった。……それでは、私はこれで失礼致します。本当に、申し訳ありませんでした」
そう言って幽香は日傘を差して去っていく。その寂しげな背中に、微かな希望が宿っていたのを一輪は見逃さない。
その希望が空しきものとならぬよう、いつの日か真なる平等をこの幻想郷に根付かせる、その歩みを留めぬことを、一輪は改めて強く誓った。
掃除を終え、一輪は雲山を伴って食堂へと向かう。後には、幽かに香る花が一輪、静かに胸を張って咲いていた。
<了>
こういう話は難しい、難しすぎる問題なのでほとんどの作品でどうしても聖側のほうが色々と未熟すぎる描写になってしまうのが残念です。
特に捨食の魔法の下りはちょっと首を捻ってしまいました。
あと個人的に星さんとナズーリンがまったく描写がないのも気になりました。
唾を吐きかけるってのもいらなかったかなあ、と
それでも話の筋と文章の丁寧さがとても好きです。
幽香と一輪さんのの上品さ優しさもいいですね。
A1.微生物も植物も皆亡霊か幽霊になればいいんだ!つまり全生物を残さず滅殺(ry
Q.殺生の(以下略
A2.微生物も植物も人間も一切合切を融合して一つの生命体になればいいんだ!つまり補完計画の拡大版を(ry
ゲームのラスボスなんかがよく辿りつく道だったりしますがそれも正解ではないんだろうなきっと
でも諦めたら試合終了だって安西先生が言ってたから、聖のその姿勢は評価されるべき
幽香が言ってる事はそういうことじゃないんだろうけど、まだ希望を持てるならもうちょっとだけ待ってあげて欲しい
白蓮上人「認めたら負けかなと思っている」
こういうことですねわかります
やっぱり幽香の主張が前面に押し出され過ぎ、という印象を受けます。
でも己を省みる機会を与えてくれるこのような作品を読むことは、
自分にとって間違いなく必要だと思っています。
結局一晩眠れば、「まぁ、気楽にいこうぜ、俺!」
みたいな状態になることも間違いないんですけどね、恥ずかしながら。
植物は食べてもOKって考えがエゴなのか、植物にも意識や感情があるって考えの方がエゴなのか。
平和の和は加算の和っていうのをここの作品で学んだんですが、この二つは相反するので加えると必ずどちらかが減ってしまいそうな気がします。
静葉「お前じゃねえ座ってろ」
が、それがいい
日本人は昔から草花に命の息吹を感じてながら暮らしていました
これを思いだすまで考えさせてもらいましたけどね
それからこの作品に限ったことじゃないけれど村紗は損な役回りが多いなあ・・・
あとタイトルがかっこいい
このような難しいテーマを文章として書きあげて頂きありがとうございます。
命蓮寺のこれからに思いを馳せずにいられません