写真は二枚あって、一枚には天子とその母親が写っている。
自宅の庭であろうか。桜の木と青空とを背景にして女とその娘が手をつないでいて、まだ『地子』と言う名前だった頃の六歳か七歳くらいのこの天子は、今よりもだいぶん幼い顔をして、つぼみがはじける様な笑顔を、カメラに向けてほころばせている。そんなくしゃくしゃの顔であっても、その目元や口元の形が母親譲りである事はよくわかった。女もまた少しばかり笑っているからだ。母も娘も、深い青色の髪を美しく誇示し、ロングヘアーな髪型もおそろいであるこの二人は、似たもの親子という印象を与える。
けれど写真から受ける女の印象は天真爛漫そうな天子のそれとは随分と異なっている。女性の雰囲気はかなり落ち着いたものに感じられ、彼女が浮かべているその笑みもまた、元気いっぱいな娘の破顔とは違ってかなりひかえめに感じられる。とは言っても、年相応に落ち着いてきたのだと考えればそれで納得してしまう程度のもので、つまるところ、何の不幸も無い幸福な風景の写真に見えてしまう。
女を蝕んでいる大病の存在をこの絵からわずかにでも読み取る事ができるのだろうか。信じられないかもしれないがこの写真は女が病死する数日前の写真である。
だがもう一枚の写真と見比べてみると、たしかに、そこに潜む死の影に気づかされるのだ。
そのもう一枚の写真には天子の母と天子の父が写っている。
祝言の記念写真なのだろう。村の広場か、どこかの原っぱか、二十歳前後と思われる二人が礼装に身を包んで肩を並べている。
男は今と変わらず気難しそうな顔をしてカメラをにらんでいる。こんな時ぐらいは、というような気持ちはやはり微塵も浮かばない人らしい。女はその夫の無愛想をおぎなうかのごとく、顔を歪めている。明るい表情には違いないのだが、獰猛というか野心的というか、笑顔という一言で片付けてしまうにはあまりに力強い表情であった。天子があまり捻くれず真っ直ぐに育ったのならば、あるいはこんな風に成長するのではないか。そう思える雰囲気の女性であって、おそらく、女の本来の性分はこういった雰囲気なのだろう。
今再び、もう一枚の写真に目を写すと、女は穏やかに笑っている。それが、なんだか悲しい。一方の写真にはあった覇気のような気迫が、すっかり無くなってしまっているのだ。肌もいくらか白くなり、ぱっと比較してわかるほどに細くなったその体格は、着ている服の違いだとかそういう程度では済まされないくらいに縮んでいた。
女の笑顔の穏やかさは、老成によるものではなく、消えつつあるロウソクの火によってもたらされたものだったのだ。
近づいてくる足音も気配も一切無しに、突然ガチャリと応接室のドアが開いたので、衣玖は危うく持っていた写真の額縁を落としそうになった。幻想郷においては写真というのはそれなりに高級品である。天狗や河童と何かしらのコネクションが無くては撮影してもらう事ができない。そういう意味では、高級な陶器と似ている。
「待たせてすまない」
重低音の効いたその声と共に現れたのは予想通り、比那名居家の当主たる、天子の父だった。
「あ。いえ」
衣玖はうわずった声をあげながら、慌てて写真を棚のもとあった場所に戻す。写真を見ていただけなのだから何もやましい事は無いのだが、ついビクつかされてしまう威圧感がこの男にはあった。
比那名居家当主は、要石に手足が生えた、と揶揄される男である。2メートルを超える巨岩の体躯と、荒々しい岩石のようないかめしい顔、またその口は金剛石のように堅かった。必要最低限の事しか口にしないため何を考えているのわかり辛く、人間だったころから人間離れしている人物だったと言う。行動は誠実らしいとの評判であったが、それにすら、『あの男には心が無いから嘘や私欲をもてないのだ』と陰口を叩く天人達がいるのである。
衣玖はこの男性があの天子の実の父親であるとうい事を今だに信じられない気持ちでいる。それほどに、二人の性質は異なっていた。天子はきっと、多くの部分を母方から受け継いだのだろう。それだけが原因だとは言えないが、父子仲は、残念ながら良いとは言えないようだった。衣玖が比那名居家の侍女から聞いたところによると、二人の間に会話と呼べるものはほとんどないらしい。食事も、別々だとか。
そう言えば、天子とこの父が一緒に写っている写真は無かった。
「座りなさい」
地響きのような声で、応接室に備え付けられている一対のソファを示した。
「は。はい」
衣玖はいくらか固い声で答えて、比那名居家当主と向い合って座る。それからできるだけ優雅に、ふわりと頭を下げた。
「お呼びいただいて恐縮しています」
比那名居宅で天子と衣玖がおしゃべりに興じていた所にたまたまこの父が現れて、なぜかそのまま茶に呼ばれてしまったのだ。名家の当主に呼び出されては、しがない竜宮の使いである衣玖にはもちろんそれを断ることができない。その際、天子の同席については何も言及されなかったが、もとより天子にはそのつもりが無かったようで、今は自分の私室にて衣玖が戻るのを待っている。
天子の父は衣玖の挨拶に答えて、うなづく様に首だけで会釈を返した。そして、そのまま一言も口を開かなかった。
沈黙。
窓辺にゆれるカーテンの絹擦れのみが、時折音をたてた。
「……」
彼は何処を見ているのかよくわからない視線で、中空をにらみつけている。
衣玖はそもそもなぜこの席に呼ばれたのか分かっていないのだから、沈黙が伸びていくにつれ、何か叱責でも喰らうのだろうかという不安が段々と圧迫し始めていた。
とうとう耐えられなくなって何か適当な話題をふろうとした時、今度は二度のノックの後に、応接室の扉がガチャリと開かれた。
「失礼いたします」
二杯の桃煎茶を手にした侍女がやってきて、ソファの間に置かれたガラス張りの座卓にシズシズと杯を並べた。
「ごゆるりと……」
その場で一度礼をして、部屋から出て行った。
「どうぞ」
「あ。はい」
さっきから返事の前に、『あ』、とか、『は』、とか、余計な一音を付けてばかり。きっと緊張を見透かされているのだろうな、と思いつつ、衣玖は桃の香りのする茶を飲んだ。どうせ見透かしているのなら、一言二言茶化してでもくれればいいのに、とも恨めしく思うのだがもちろんこの当主はそういう事をしない。
「天子は元気にしているのだろうか」
唐突にそう言った。
「は。はい。もちろん。とても元気でいらっしゃいます」
いくら広い敷地だとは言え同じ家に住んでいる親子なのに、おかしな質問だな、と衣玖は思った。
衣玖の返事に、そうか、とうなずいた後、当主は続けた。
「よかった」
「地上にも友人ができたのです」
「ほう」
「博麗の巫女も友人の一人なのですよ」
「天子が。博麗の巫女と」
「ええ」
「ふむ」
相変わらずその表情からは内心の感情というものがなかなか見えてこなかった。
衣玖はじれったくなって、思い切って言った。
「あの。総領娘様ともそう言った事をお話になってみては」
岩盤から顔を出した一対のサファイアを連想させるそのの瞳が、じっと衣玖を見つめた。かと思うと、ふいに、その視線が外れた。
「家内がいてくれてらいいのだが」
彼は、先ほど衣玖が手に取っていた写真を見やり、遠い目をした。
母親が、寡黙な父とおてんばな娘の橋渡し役になっていたという事なのかもしれない。
「……当主様と、総領娘様が一緒にうつっている写真は、無いのですね」
これも立ち入りすぎ質問だとは思いながらも、また衣玖は思い切った。
「家内と一緒に埋めたよ」
「そう……でしたか」
なぜだか衣玖はその返事が嬉しかった。
寡黙なこの男はこの時だけ少しだけ饒舌になった。
「もう一枚、家内と生まれたばかりの天子との三人でとった写真もあったのだが、それも一緒に埋めておいたよ。彼岸に行くと生前の記憶が消えていくというから。けれど三人の写真を持っていれば私達が家族であることを忘れないですむだろう。私と天子の写真を見た時に、写っている二人の事を忘れていたら困るのでな」
それから小さく笑った。
衣玖は何度かこの男と言葉を交えたことがあったが、冗談らしい事を言うのも、笑っている顔を見るのも、これが始めてだった。
「永江」
「はい」
「感謝している」
「え」
「天子にとって君は母親代わりなのではと、私は思っている」
「そんな。とんでもない」
「天子はこの家の侍女達はもちろん、私や他の天人にも心を許していない。だが君にだけは」
そう言って、比那名居家の当主はしがない竜宮の使いに対して深く頭を下げた。
「ありがとう。それを伝えたかった」
目の前にいる天人は、けっして感情の無い無機質な岩石などではなく、子煩悩で、子育てに悩む、どこにでもいる当たり前の親だった。
だからこそ衣玖は、その姿がふがいなくて仕方なくて、つい口を出してしまう。
「そういう気持ちを、素直に総領娘様に伝えればよいじゃないですか。そうすればきっと少しづつお二人の間の壁も消えて――」
「できない」
あまりにはっきりとそう言うので、衣玖は絶句してしまった。
「天子の前では、どうも父親になろうと気を張ってしまう」
「……」
「だが私がもっと大人になれた時は、永江の言うとおりにしてみよう。あるいは天子がそういう私を許してくれるといいのだが」
これ以上は自分の口出しすべき所ではないだろうと、衣玖は口をつぐんだ。
「もっと早くに、家内を不老不死の天人にしてやっていればな」
妻を失った夫は、寡黙な瞳の奥に何かを潜ませ写真に目を向けていた。
数年だ。名居家の天界入りがあと数年早ければ、比那名居家の数百年はもっと違ったものになったのかもしれない。だがそれは、もうとりかえしようの無い過去なのだ。
「すまないが、たのむ」
そう言って、残っていた桃煎茶に口を付けた。
衣玖もそれにならいながら、ヤレヤレと内心でため息を吐いた。
家庭の事情というやつは、まぁ色々あるのだろうから、いい。だが――
(母親代わりですって!)
その母親代わりが、娘のヘソやらウナジやらミミタブやらに日常的に吸い付いていると知ったら、この無骨な男はどういう反応をするのだろうか。それを考えると一筋の冷汗が衣玖の頬をつたい落ちた。
(というかまさか、総領娘様まで、私のことを母親代わりだなんて考えてはいないでしょうね……)
衣玖はなんだか、不安になった。
衣玖が戻ったとき、天子はベッドに寝そべって人里で買った絵巻物を眺めていた。
天子は戻った衣玖を見るなり、不機嫌そうな顔で聞いた。
「何の話だったの」
「ごく普通の、ご挨拶でしたよ」
「ふん! どうせ私が悪さをしていないかどうかだとか、そんな事を聞かれたんでしょ。お父様ったら私のやることに一々口を出すんだから! ああ鬱陶しい!」
「総領娘様を思っての事ですよ」
「私を言いなりにして父親ぶりたいだけ」
「そうでしょうか」
「そうよ!」
比那名居家当主は仕事人としては優秀だが父親としては及第点に届きそうにない人物である。かと言って、父娘関係の冷え込みについて、娘側に問題がないわけではない。どこの家庭にもある当たり前の問題だといえばそうなのだが、母親が入れば少しは違った状況になっていたのだろうか、という事を衣玖は考えてしまう。
「総領娘様はいい子いい子ですね。よしよし」
「な、何よ」
母性本能を刺激された衣玖は、ベットに腰掛けて、天子の頭をなでた。
ベットにうつぶせになって寝転ぶ天子の背中に、衣玖が同じくうつぶせになって乗っている。
はたからみると天子が押しつぶされているように見えるが、衣玖は体に浮力を効かせているので、天子にそれほど体重はかかっていない。猫は時折、寝そべっている飼い主の腹や背中に我が物顔で居座る事があるが、乗られているほうはあれで結構気持ちがいいのである。マッサージみたいなものだろうか。サイズはかなり違うが、これも同じ事である。
天子と衣玖の密かなブームであった。
その姿を比那名居家の者に見られるとあまりよろしくはないだろうが、ノックもせず総領娘の部屋に入ってくる者はいないだろうし、昼食の時間にもまだしばらくは時間があるから、邪魔される事はないだろう。
「総領娘様」
半分眠っているような声で、衣玖が言った。
乗っている衣玖だって、天子の体があったかくてやわらかくて、気持ちいいのだ。猫の気持ちが良く分かる。
「んー?」
本を読みながら、天子が答える。
「総領娘様にとって、私ってなんです?」
「はぁ?」
「近所のお姉さんとか、そんな感じですか?」
「急になによ」
さっき天子の父に母親代わりといわれたことが、まだ気になっていた。天子が本当にそう思っていたら、どうしよう、という事だ。母親代わりなどという気は、衣玖にはさらさらない。
衣玖は天子の髪の毛をくりくりともてあそびながら、不満そうな声で催促した。
「答えてくださいよー」
天子の後頭部がもぞもぞと動いた。
「えー……? そ、そっちこそ、衣玖にとって私ってなんなのよ」
「えっ」
なかなかに確信をついた返しではあった。自分にとっての天子と、天子にとっての自分とに意識のズレがあるような気がして、それが不安になっているのだから。
「わ、私が先に効いたんですから、総領娘様が先に答えないと、だめです」
「……やだ」
「やだじゃありません」
「うー……」
うめいた後、天子は嫌々そうに言った。
「口答えする、口うるさい竜宮の使い」
「……」
衣玖は体の浮力をといて、逆に体が下降するように力をかけた。
とたんに衣玖の全体重と下降力が天子にかかって、ベットに体が押し付けられる。
「重いー!」
「失礼な。どこまでもおいたな口ですね」
その折檻は、天子が音をあげるまで数十秒間ほど続いた。
「はぁはぁ、さぁ言ってください」
「うう……」
天子はベットにぐったりとうつ伏せになって、衣玖はその背中にのしかかったまま、ハァハァと息を荒げていた。これこそ、人が見て誤解しそうな絵である。
「家族ですか。友達ですか。まさか召使いじゃないでしょうね。それとも、ええ、なんといいましょうか……」
「わけわかんない……なんで急にこんな事……」
「さぁそれはもういいですから。さっさと答えてください」
「……」
衣玖からはうつ伏せになっている天子の顔が見えない。どんな表情をしているのか、分からなかった。
「全部……」
くぐもった声で、天子が言った。
「は?」
「だから、衣玖が全部やればいいじゃん」
「……全部?」
「お姉ちゃんで。お母さんで。友達で。召使いで。それに、その、ええと、なんていうか……とにかく他のも色々やればいいじゃん!」
「……」
衣玖は驚いた。自分がまだ発見していなかった最良の関係のありかたを、天子が明確な言葉で教えてくれたのだ。あらゆる関係を、天子との間に持つことができる。それはすばらしい考えであった。
気持ちが高揚していく。
衣玖は自分がときめいている事に気づいた。そしてそれが恥ずかしかったから、勤めてぶっきらぼうな口調で言った。
「……召使いはイヤです」
「うるさい! 口答えするな!」
ベットに顔を押し付けている天子が、今どんな顔をしているのか、衣玖は本当に知りたかった。
たれ落ちている天子の髪をそっとかきあげて、うなじと耳元を覗く。少し、赤いような気がしたが、さっきあれだけ暴れたのだから、不思議はないのだが。
「私は言ったわよ。さぁ衣玖も言いなさい」
「そうですね」
天子の耳元に唇をあてて囁いた。
「私も、総領娘様は全部です」
「……真似しないでよ」
「真似と言うか……総領娘様の言うとおりなのです。それ以上の答えが見つかりません。総領娘様はすごいです」
「……ふ、ふん」
衣玖は天子の背に頬を当てて、ほぅとため息をついた。
「総領娘様、なでなでしてください」
「……は?」
「なでなで。私は総領娘様にとって全部なのですから、私が総領娘様の娘になる時があっても不思議ではないでしょう? だから、なでなでを」
天子にとって衣玖は『全部』なのだから、母であっても、友であっても、恋人であっても、もちろん娘であっても、なんらおかしな事ではない。
「衣玖……変」
「そういう日もあるのです。ほら、早く。ママー」
「ママって……」
天子はしぶしぶという様子で起き上がり、しかしまんざらでもなさそうに、衣玖の頭を胸に抱いた。そして撫でた。
「よ、よしよし」
「おお。これは気持ちいいですねー……」
「そ、そう。よしよし……」
それから二人は無言で、三十分ほどもそうしていた。
衣玖がぽつりと言った。
「お父様は、総領娘様と一緒にとった写真を欲しがっているみたいですよ」
天子の手が止まった。
衣玖は、自分が嘘をついているという気はしていなかった。
「……」
天子は黙ったまま、再びよしよしと衣玖の頭をなでた。
天子の胸に抱かれその香りにつつまれながら、天子は今どんな顔をしているのだろうかと、衣玖は想像した。
竜宮の遣いが戦闘機型とかガウォーク型になったりとかするのかと思って読み進めた
いつ変形するんだ いつ変形するんだ とわくわくしてたら読み終わった
冷静になって考えれば当たり前なのだが、ぜんぜん、変形とかする話じゃなかった
でも和んだ
不器用なお父さんは州知事なんですかそうですか。
導入部の描写、台詞、作中で流れる時間の表現……ウマイなぁ
上手く言葉に出来ませんが、バランスが良いというか…静かで心地よい雰囲気でした。
素敵な話をありがとうございました。
タイトル何事!?と思って開いたら、なるほど確かにヴァリアブル
例の嗜好がアレな衣玖さんかと思ったら
やっぱりアレな衣玖さんだった
なんだ背中に乗っかりブームとか母娘なでなでプレイとかwww
2828しちゃうじゃないか
ちょっと疑問に思ったこと
>岩盤から顔を出した一対のサファイアを連想させる総領主の瞳
お父さんが天子と同じ目の色なら、サファイアじゃなくてルビーじゃないかな、と。
不器用な父親と天真爛漫な娘に幸あらんことを。
下界の民をヒューマンと呼ぶ天子パパ。
想像して吹いた。
多分マリサパパは瀬戸組組長みたいな感じなんだろうなぁ
ここで急にギャグ展開になるのかと身構えたw
し、紫電掌ーッ!
親子のような姉妹のような恋人のような主従のようなたまらん関係がたまらんです
不器用な父と娘に幸多からんことを。
「わ、私が先に効いたんですから、総領娘様が先に答えないと、だめです」
「わ、私が先に“聞いた”」かなぁと…変なところに目つけてすいません
和むいいお話でした