雨の境を見たことがありますか?
寝台の上に寝そべり、小説を読んでいた美鈴が、ふいに思いついたように言った。
雨の境? と私は、寝台の端に腰掛け足の爪を切りながら答えた。
「前に一度、経験したことがあるんですけど、良く晴れた日に突然ぱらぱらと雨が降って来て、木の下に逃げ込もうとしたらまた突然止んだんです。あれっ? と思って後ろを振り返ってみたら、後ろではまだ雨が降っていて、雨の境を通り抜けたんです、私」
へぇ……と相槌を打ちながら、私はその時の情景を思い浮かべる。
雨から逃れようと小走りになる美鈴と、濡れる草木や花や、立ち上る土や緑のにおい。
青空を流れる雲と、日の光。ぱらぱらと光を弾く雨粒。空を仰ぐ貴女の姿。
「……それは、綺麗だったでしょうね。私は見たことないわ」
今、ありありと見えたけど。
「そうですか。見せたかったなぁ、咲夜さんにも」
そう言いながら、美鈴はページを捲る。
「天気雨のことを“涙雨”なんて言いますけど、あれは涙なんて感じじゃなくて、きらきらして綺麗で」
合間に、私の爪を切るパチンという音が響く。
「雨から晴れへ出たんですけど、せっかくだからまた雨のほうへ戻ったら、すぐに止んじゃいました」
小さく本が閉じる音が聞こえて振り向くと、美鈴は本を片手に横向きに寝転んでいた。
「何、もう寝るの?」
何か言いたげに見上げてくる視線を、首を傾げることでかわしながら尋ねると、美鈴は少し眉根を寄せた。
「……咲夜さん、私の話、聞いてます?」
「聞いてるわよ」
「でも、何か上の空みたいで」
「まさか」
パチンと爪を切りながら答えた。
「貴女の話は、いつもちゃんと聞いてるわよ。他の誰よりも聞いてるつもりだけど?」
「どうせ私の話は、誰もちゃんと聞いてくれませんよ」
「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……」
私だったら、心が動かされないことも、何とも感じないことも、何となく良いなくらいで終わってしまうことも、貴女から聞くと、何だって色付いて特別なものに感じるのに。
夕焼けに染まる雲、西日が差す庭園、満開の向日葵、風がざわめく草原、澄んだ小川のせせらぎ、時計台から見上げた青空、月のない満天の星空。どんなに些細なことだって、何だって……。
貴女の話してくれたことは、はっとする感覚とともに、何だって覚えている。
「……西日が差す庭園で貴女言ったでしょう。世界が光に包まれるこの時間帯が好きだって。空も太陽の光も“ハチミツ色”で綺麗だって。庭園の緑がハチミツ色に輝いて、より綺麗に見えるって」
そんなこと、私は深く考えたことなんてなかったのに。太陽をハチミツって貴女……とも思ったっけ。
日々、ただの現象として切り捨ててしまうこと。美鈴はそれを一つずつ掬い上げる。
「咲夜さん……」
美鈴の目がきらきら光る。その瞳は、私より多くのものを見ている。
その瞳を通して、私は、世界の美しさを知る。
「言ったでしょう。他の誰よりも聞いてるって」
爪を磨いて整えながら言った。
「咲夜さんは、どうしていつも、私の欲しい言葉をくれるんでしょうね」
「さあねぇ」
それは、私だって同じ。貴女が何だって話してくれるから、私はいつも新鮮な気持ちになれる。
この世界に愛着が持てる。貴女の瞳を通した世界は、とても色付いて見えるから。
「……ねぇ、爪の手入れ終わったら、星でも見にいかない?」
「え? 珍しいですね。咲夜さんが誘って下さるなんて」
「まぁ、たまにはね。今日は良く晴れてたし」
「そうですね。新月に近いから、きっとたくさん星が見えると思いますよ」
美鈴は上体を起こすと、寝台から下りて軽い足取りで窓へ向かった。
カーテンを開け放ち、あ、天の川も見える、とのたまっている。
「流れ星が見えたりしてね」
「良いですねー、何お願いしようかな」
爪を磨き終わり、切りかすをゴミ箱に捨てた。
私が立ち上がる音に反応した美鈴が、終わりましたか? と振り返る。
えぇ、行きましょうと言って、鏡台に爪切りを置いた。
――繋ぐ? と手を差し出すと、嬉しそうに重ねてくる。
前に、二人で見た満天の星空を思い浮かべた。あの時感じた不思議な、新鮮な思い。
ふいにまたそれを感じたくなった。
2人はもう結婚しちゃいなYO!
まぁ、分かりやすく説明してくれるので面白いですけどね。
あなたのお話はいつも新鮮で色付いて見えます。