今更ながらに想うと、私は彼女の瞳に恋をしていたのだろう。
あの蒼いような、紅いような、よくわからない燃える氷柱に恋をしたのだ。
雪のように柔らかく、汚れ一つない白銀の頭髪。それをこの手にとってなでると、彼女はくすぐったそうに笑うものだから、いつまでも私はなでてしまうのだ。
愛おしさだけが舞い上がり、私の胸にすくう。だが、彼女はしばらく経つと、困ったよう微笑んで「あら、お掃除の時間ですわ」と、決まって私の腕から猫のごとく、するりと抜け出してしまう。
抜け出した際になびいた髪の残り香だけが鼻腔につく。食虫植物のような甘い匂いがした。
――咲夜。
私はそれが不満で咲夜に文句を言おうと口を開くのだけれど、彼女の瞳がじっとこちらを見つめているのである。
それを見ると、私は何も言えなくなってしまった。不思議と、何も言い返す気になれぬのであった。
蒼くて紅い瞳はゆらりゆらりと幽鬼のように揺れ、とても不確かで、危なっかしいものだったからかだろう。
すこしでも押したら壊れるような、そんな妄想にとりつかれた。そしてそれ以上に、その瞳の美しさに見とれていたから、何も言えなかったのだと想う。
彼女の小さい針穴に通すような凛とした声音が好きだった。
館の端からでも、彼女の声を聞こうと想えば、聞こえたような気がする。りんりんりん、と。まるで鈴のように甲高く、銀と銀をぶつけたような声音だった。あの声が聞きたかったがために、わざと叱られたことすらあったのだから、我ながら愚かだと想う。
◇◇◇
――博麗霊夢が死んだ。
いや、正確にはまだ死んでいない。本人に言えば、勝手に殺すなと怒られそうだ。
だが。死ぬ運命は視えた。
幾多にも蜘蛛の巣のように絡みつきながら、螺旋状に堕ちていく先に、霊夢の死が見えた。だから、彼女は死ぬのだろう。
それが明日か、明後日か、それは解らぬが近いうちにぽっくりと逝ってしまうのだろう。
それが解ってしまった以上、視えてしまった以上、この未来は私にとって過去の出来事となりはててしまっていた。
何の気もなしに、窓から空を見上げる。
ああ、死ぬのか。あいつとの馬鹿騒ぎも終わりになると想うと、がらにでもなく寂しくて、私をこのような気持ちにさせることの厭味の一つでも言ってやろうと神社に向かった。
霊夢はいつものように、矍鑠として、境内で掃除なんてものをしていた。
けれど、死ぬと解ってしまったからか少しばかり顔色が悪いような気がして、掃除なんてものは後継者のやつにでもやらせればいいと想った。
事実、そう言ったのだが後継者のやつは人里にいて不在らしい。使えぬやつだ。
「じゃあ、私がやってやるよ」
さっさと箒を貸せよ、クソババア。
咲夜にも言ったことがないようなことを言ってやったというのに、霊夢はパンダのように目を白黒とさせて唖然とするばかりだった。
それに腹が立ったから、阿呆のように口を開けている霊夢の腕から箒をひったくる。そしてそのまま落ち葉を集めることにした。
「クソババアはクソババアらしく縁側で茶でもすすってろ」
誰がクソババアだ。と拳骨がおちてきたので、難なくそれを避ける。
次は弾幕が張られたが、それも難なく避けて掃除を続けた。
今の私にとって、弾幕を避けるよりも、きれいに掃除を完遂するということのほうが難しい。
くそう。あと二十年若ければ。そんな世迷いことを口にして、きびすを返し、よったよったと縁側に進んでいく。
どうやら私の言うことを温和しく聞くらしい。丸くなったな、と想うものの、これで丁度いいくらいだ。昔の霊夢は血の気が多すぎた。
私がいくらがもらった方がよかったのかもしれぬと、過去を回想したが過ぎたことはもうどうしようもない。
箒をはく。はく。はく。無心ではく。
箒なんてものは毎日のように見ていたが、使用するのは初めてだった。想うように落ち葉が集まらず、やきもきする。
その上、集めても集めてもはらはらと上空から舞ってくるにあきたらず、片手には日傘も持っているのだ。
あまりにもフトレスフルで、いっそ、ここら辺を焼け野原にでもしてしまったほうが早いかもしれないなどという物騒な考えが思考を支配し始めた。
その衝動に身を任せようとしていたところ、縁側の霊夢から声がかかった。
どうも、茶菓子も用意している。一緒に茶を飲めと言うことなのだろう。
際限なく降り注ぐ落ち葉にはいささか飽きがきていたし、最近になって和菓子の良さを解り始めたので、断る理由は一つもない。
私は箒を壁にたてつけて、そのまま霊夢の隣に座った。
茶菓子は水ようかんだった。なかなかに美味である。
「おい、ババア」
「言われんでもババアになってるくらい承知しとるわ。若い頃より無茶はできなくなってることも承知している。だから、そうババアババア言うな。お前らそろいもそろって、人を不愉快にさせる方法でしか気遣えんのか」
「気遣うってのがなんなのかは、解らないけれど、咲夜にはババアっていうタイミングがなかったからな、いいじゃないか。あいつの代わりにもババアって呼ばせてくれよ」
――咲夜は
あいつは、いつまでも若い。
「ふん、私は代用品じゃないぞ」
「代用品にもならないわよ、このポンコツ。うちのはまだぴんぴんしてるよ。貴方、そろそろ死ぬらしいじゃない。いつなのよ」
「一週間後くらい? まあ、勘でしかないけれど」
「ババアの勘はいつだって正しい。なら、そのころに死ぬんでしょうね」
「ああ、死ぬだろうな。大往生だ。最近は神社から出ないし、畳で死ねるだろうて。魔理沙の馬鹿も一昨年前にくたばったし、まあ順当と言えば順当だ」
「あの後、葬式にも出ず、返却された本を一人粛々と片づけているパチュリーには、いかな私といえど背筋が凍ったわね。小悪魔にも手伝わせないものだから、まだ片付けているのよ」
一冊一冊、吟味するように、想い出すように、そして別離をつげるように、パチュリーは魔理沙が返した本を手に取る。
「喪主まで務めたアリスのやつとは大違いだと想わない、ババア?」
「それがパチュリーの葬式なんだろう。死者を送り出すのは生者だと決まっている。生きている者が、死者を送り出すための儀式が葬式なだ。パチュリーは未だに葬式の途中なんだろうて」
「ふーん。まあ、女々しいやつよ。大切な、親友だけれど。かわいそうに」
「かわいそうなもんかい。あいつは別れを告げることができている。受け入れることをしている。それが、ちょっと、他者より長いだけだ。さようなら、は言えているんだ。何もつらいことなんてありはしないよ」
本当にかわいそうなやつは、別れを告げられなかったやつさ。霊夢はどこか達観したように呟いた。事実、死に片足どころか半身つっこんだ老体である。考えることも多いのだろう。
これはきっと忠告なのだろうな。私はそんなことを漠然と感じた。
「ババア、なら、さよならだ。迷うなよ。六文銭くらいは持たせてやるさ」
「迷うのはいつだって生者だろうに。亡者は生者が迷うからでるのさ。お前が迷わないように私が十二文持って逝ってやろう」
霊夢は呵々、と笑った。
◇◇◇
ただいま、と図書館のドアを開けた。おかえり、と本の中から声がした。
もぞもぞと芋虫のごとく動きうねっている。
パチュリーが魔法も使わず、持病の喘息にも負けないで、数万冊にも及ぶ盗品の整理をしているのだ。
もこもことあたりの本が雪崩を起こし、その中心からモグラのようにパチュリーが首を出した。
首から下は本で隠れているから解らないから断言はできないが、昔のような魔女然とした服装ではなく、機能性だけを重視したつなぎの作業服を着ているに違いない。ここのところ、ずっとそうなのだ。
「これがかつての陰気な魔女かと想うと胸が熱くなるよ」
「あら、そういう貴方だって随分と落ち着いたじゃない」」
そうかな、と問うと、そうよ、返事が返ってくる。
よっこいせ、などと百年も前だったら死んでも言わぬような台詞を吐きながら、本の山から体を起こして、抜け出す。
それはさながら大蛇の口から這い出るがごとく有様だった。
「昔だったら、あなた、霊夢が死ぬって解ったら大暴れしそうだもの」
「人間一人死ぬくらいで心を乱すわけないだろう。私はノーライフキング。不死者の王であり、あの串刺し公の血縁、レミリア・スカーレットだ。人間なんて血袋と変わらないよ」
「本当に?」
「本当さ」
「本当の本当に」
「本当の本当の本当さ」
この嘘つき、意地っ張り。
そんなこと言葉を言外に滲ませた視線を私は一身に受ける。なんというか、相手は一人しかいないというのに針のむしろのような気分だ。私はあきらめて、降参降参と両手を挙げて白旗を振る。
「たしかに、おもちゃを取り上げられたときの私の癇癪は妹を上回るかもしれない。でも運命なんだから仕方がない。それに、私が迷えばあいつが亡霊になるらしいからな。そんな勝手はできんよ」
「あら、素直なのに素直じゃない。器用ね、レミィ」
そんなことを口にしながら、パチュリーは紅茶でよかったわねと一言呟いた瞬間、手元に淹れ立てのアールグレイがあらわれた。こういった魔法の腕は今だ落ちていない。
「小悪魔が用意してくれたのだけれど、なかなかの絶品よ。味わい深いわ」
「魔女に食事は要らぬ、情は要らぬ、快楽は要らぬ、ただ知識のみがあればいい。と断言していた二世紀前のお前が嘘みたいだよ。かつてのお前が見たら、お前を堕落したと罵るだろうな」
ふふ、とパチュリーは笑みをこぼした。
「そうね、私は堕落したかもしれない。けれどそれでいいわ。かつての私では決して見ることのできなかったものが、確実に見えている。それは私をかつての私以上の高みへと導くでしょう。人は不思議だわ。彼女がいなければ、私はここまで堕落しなかったし、ここまで強くなれなかった」
パチュリーは紅茶に口をつける。
私もつられるようにして、紅茶を飲んだ。
アールグレイ特有の香りの強さが鼻についたといえばついたが、それでも美味しいと思える部類のものだった。私はどこぞの完璧超人メイドの手によって、紅茶の味にはうるさいのだ。
パチュリーがほう、と息をついて口を開く。
「ああ、ずっと避けてきたけれど、この言葉は言わなくてはいけない。私は魔理沙に感謝している。
粛々と、ただそうであるがためだけに知識を蒐集し、そうであるがためだけの知識を行使することが全てだと想っていた私の世界を、馬鹿みたいに破壊して、踏みにじって、粉々にしてしまった『偉大なる普通の魔法使い』魔理沙を。知識は、あるためでなく、そうでありたいがためにある。
星が降ったら、綺麗だものね。それだけもう魔法だわ。私は、まだまだ上に行く。貴方のおかげで、もっともっと目指せるのだから」
ふふ、とパチュリーは笑みをこぼした。
パチュリーが笑うようになったはいつからのことだろうか――
「お前は――」
「なにかしら、レミィ?」
「お前はそっちのほうが随分と美人だよ、パチュリー」
「ありがとう。レミィ」
そう言って微笑む彼女は、かつてないほどに美しかった。
◇◇◇
咲夜は私の髪をすいていた。
妖怪といえど手入れをしなければ、美貌を保つことはできない。だから、いつも月が一番まで高くなる頃、咲夜に髪の手入れをさせていた。
髪に櫛が通る。すうっと、優しくすかれるのは気持ちのよいものだった。
「お嬢様」
終わりました。咲夜が終わりの合図を告げて、それを機に私は振り返る。
咲夜は数十年前と変わらない姿でそこにいた。己の時を止めて、彼女は仕えていた。みながしわくちゃなお婆ちゃんになっている中、瑞々しい肌を保ち、誰もが逆らえぬ老化に逆らっていた。
人として生き、人として死ぬ――そう私に言ってのけた彼女はどのような重いだろうか。
それだけではない。老いを拒むなんて人としての領分を超えすぎている。それはどれほどの苦痛だろう。どれほどの罪だろう。
けれども、彼女は顔色一つ変えないでそれを行っていた。
だから、すがりたくなる。私にはまだお前が必要だと、この完全無欠で瀟洒な女に泣きつきたくなる。
すがれば、答えるだろう。この女はそういう女だ。どこまでも甘くて、強い女だ。
そして、この女は耐えるだろう。死んでも耐えるだろう。その結果として、この女は亡霊になるのだ。私が迷うから、私がふらふらとさまようから、彼女は亡者となってしまうのだ。
それだけは、駄目、なのだ。
ぎり、と奥歯をかみしめる。ぎりぎりと音が鳴る。歯が砕けて再生する。そしてまた砕ける。その繰り返しだった。
それでも、まだすがろうとする自分に心底嫌気がさした。
「お嬢様」
ふいに、鈴の音がした。
「咲夜はここにおりますわ」
私の瞳を覗く、蒼で紅な瞳。
ゆらりゆらりと揺れている。
燃える氷柱だ。あの瞳は燃える氷柱だ。
滴り落ちる水滴は業火だ。
時を止めている自分と、進んでいる自分の矛盾の中で、それでも私を想っている。
――それで全てを決めた。
「咲夜。よく聞け」
「はい、お嬢様」
「私につきあうことは、もうない、今までよくやってくれた」
瞬間、ばりんと、咲夜の腕時計が割れた。
時が戻っていく。今までの時の矛盾が、全て解消されようとしていた。
しわくちゃになっていく咲夜の手を握る。その手はとても美しい。そう想った。
「お嬢様」
「なんだ、咲夜」
かつてないほどの、美貌を携えた瀟洒なメイドは微笑みを浮かべていた。
「大人になられたのですね」
「元から大人さ、私は」
「お嬢……御当主様。これからはお一人でお着替えをしてくださいませ」
「ふん、今でもできるよ、それくらい。お前と一緒に居たかっただけだ」
「御当主様。パチュリー様はいささか神経質なところがございますが、それはそれとして仲良くお過ごしくださいませ」
「パチュリーは私の無二の親友だ。無下にするものか」
「妹様はまだまだ子供でございます。ゆっくりと、焦らず、待って差し上げましょう」
「解っている。大丈夫。あれは私の自慢の妹だ」
「あと、それからそれから――」
「――いい、もう、いい」
私は、しわしわで、もう立っていることすらできない、誰よりも美しい私だけの瀟洒なメイドを抱きしめた。
強く、けれども壊れないように。
甘い匂いだ。食虫植物の匂いだ。私はもう囚われてしまっている。
どうしようもないくらいに。
「お前が居てくれて、よかった。お前は私の永遠のメイドだ。お前以外に私のメイドはいない」
「――心、得て……おります」
猫のように笑い、その瀟洒なメイドは息を引き取った。
◇◇◇
「いや、まさか咲夜のやつの方が先にくたばるとは想わなかったわ」
「ふん、ババアは往生際が悪いんだよ」
そうかもしれんね、と呟きながら未だ健在な歯で、霊夢はバリバリと煎餅を囓った。
もうそろそろに死ぬ輩にはとてもではないが見えない。
「今頃、咲夜の葬式だろうに。行かなくていいのか?」
「喪主はフランに任せてある。なに、美鈴がサポートについているんだ。問題ないだろうよ」
「いや、普通、喪主はあんたでしょう」
「いいんだ、私は」
そう言って、私は縁側から飛び降りた。
私はお別れはすんだ。終わったのだ。それなのに喪主なんていう、一番、お別れを告げなくてはいけない役目を奪っては可哀想だろう。
……そうか。だから、パチュリーはアリスに喪主を譲ったのか。引きこもっているだけのように見えて、なるほどなかなか色々と考えているじゃないか。
一人、クククと笑う。日傘を回す。気分がとてもよかった。
「ババア、お前が死ぬなんて寂しくなるな」
くるりと、一回転してそんなことを言ってやったものだから、霊夢は本当に目を大きくパチクリさせた。
それがおかしくて、私は笑う。
人は死ぬ。造作もなく死ぬ。だから、こんなにも私たちに残していくものがあるのだろう。
ああ――私は!
振り返ると、霊夢の横にスキマ妖怪が鎮座していた。相も変わらず胡散臭い笑みを浮かべている。
彼女も別れを告げにきたのだろう。
「生きるぞ! 私は生きるぞ、霊夢、咲夜!」
何も考えず、気がつけばそれが口に出ていた。
そう。私たちは生きなくてはならない。それが残された者の役目なのだ。
胸を刺すようなひどい痛みを証に、私は決して迷わない。
私は笑うと、霊夢は呆れたように溜息をつき、紫は口元を扇子で隠した。
それで、よいのだと想った。
それこそが幻想郷だ!!
最高でした!
これだから東方はやめられない。
この後のレミィは本当のカリスマになっていくんだろうな
清清しすぎて涙でたぞw
もってけよ100点!
もっと自分のオリジナリティを出した方がいいかと
字面だけで判断するなと言われそうだけど不快。
と書いてて気づいたけど原作や他のSSであるような綺麗な言葉遊びな
部分が無い粗雑さを感じるこのSSの空気が嫌いなんだな。
こればかりはどうしょうもない。
というわけで、もってけ100点!
なんだかとても気持ちのいい読後感で、よかったです。
本編で見る言葉遊びではなく、素朴な言葉が多かったからこそ
多くの作品の中で印象に強く残ったのだと思う。
読むことができて良かったです。
同じお別れの部分がテーマでも、書く人によってそれぞれ違う味が出るのが面白いなあと改めて実感いたしました。