円形に縁どられた頭上を覆う濃密な霧を眺めながら、稗田阿求は呟いた。
「これから埋葬される死体の気分ですね」
寄りかかった土の、ひやりとした感触のそれらしさに、思わず苦笑が漏れる。
これも書に記すべき、貴重な経験といえるのだろうか。
阿求は迷いの竹林の、唐突に開いた穴の底で途方に暮れていた。
実地調査のために竹林へ行くのは、この身体に生まれ変わってから数えても、
初めてのことではなかった。
今までも幾度となく、このやたらな本数の竹で構成される迷宮で遭難しかけることがあった。
しかし、阿求の記憶力を以てすれば全ての竹の配列を覚えることすら造作無いことだ。
たとえ妖怪兎と出会えないとしても、運不運関係なしに人里へ帰ってくることができた。
だが、今回は調査の始めから嫌な感覚を振り払えずにいた。
先程から、水なのか汗なのかよく分からないものが顔中に纏わりついている。
拭っても次から次へと水滴がつくので、不快感に関しては諦めた。
だから、視界を遮るのは勘弁してほしい、
と阿求は心中でいるのかどうかもわからない霧の主に乞い願う。
この霧が数刻前、出し抜けに漂いだしたおかげで、
別にいいと言っていたにも関わらずついてきた護衛ともはぐれ、
すでに小一時間はひとりでさまよっていた。
だが、彼女が本当に参っているのはそのことではない。
「......っ」
思わず、眉をしかめ立ち止まる。この竹林に入ってから幾度となく味わった感覚。
見えないなにかに殴りつけられたように視界が揺れる。
不定形のイメージが脳裏で跋扈した。足元がふらつく。
自分がどちらを向いているのかも分からない。力なく湿りきった地面に座り込んだ。
数秒後、なんとか冷静な思考を取り戻した阿求の口から、忌々しげな言葉が漏れ出す。
「既視感、というやつですか」
デジャヴ。この概念の正体について言及された文献を、阿求はいくつか読んだことがある。
それらの著者曰く、左右の眼で物を見るとき僅かな時間差があることが原因だとか、
知覚と認識でズレが生じているために起きるのだと言う者もいた。
そして一般の人々のあいだでは、妖怪の仕業というのが通説である。
だが阿求は、自分にとってのそれは前世の不定形な残滓が引き起こすもの、と考えていた。
何度も転生を繰り返してきた阿求だが、今までの身体で経験したことを全て記憶しているわけではない。
むしろそれらの大部分は、生と死の狭間を行きかううちに藻屑となって消え果てていた。
そのもやもやした何かがなんらかの理由で消えずに残り、
蓄音機の演奏が終わった後の部屋に漂う残響のように
自分の意識を惑わしているのではないか。
……もっとも、いま感じているのは、そんなにぼんやりしたものではなかったが。
以前来た時はこんな感覚に襲われはしなかった。
思い当たる原因としては、この霧くらいのものだろうか。
しかし、阿求はそれ以上考えることを止め、かぶりをふって歩き出す。
惑わされるのは方角だけで十分だ。心まで乱されてはたまらない。
その時、全てが霧の白さに包まれた視野の端に、明らかな異物が映った。
「......?」
ぼんやりとした違和感。それに吸い寄せられるように阿求は無意識に近い足取りで歩み寄る。
その正体がおぼろげに見えてきた瞬間、いままで闇夜の大海に突き落とすような感覚で以て、
漠然と阿求を苦しめていた既視感は突如鋭い痛覚となって襲いかかってきた。
頭蓋に直接電流を流されたような衝撃に、身体が跳ねそうになる。
「っ、はッ」
意味を持たない呻きが勝手に肺の底から飛び出した。
ふらり、地面に手をついて倒れこみそうになるが、なんとか這い寄るようにして前に進む。
必死に意識を保ち、視界を上げる。もう霧の中であっても、はっきり見えるようになっていた。
それは竹に巻き付いたうす汚れた紅い帯だった。見たところ、何の変哲もない。
だが、阿求にはそれがこの既視感の磁場を作り出している根源だと、直観的に理解できた。
揺らぐ身体をなんとか抑えつけ、一歩、また一歩とその帯へと近づく。
異変が起きたのは、もうわずか進めば紅い帯に手が届く、そんな時だった。
不意に、屋敷の階段を踏み外した時に感じる嫌な浮遊感を右足に覚えた。
ついでその感触は全身へと伝播する。落下、暗転。
悲鳴をあげる間もなく、阿求は背中から地面に叩きつけられた。
同時に、鶏が締められる時のような声が出た。
あたりを見回すが、真っ暗で、真上を見ると、真っ白な靄が漂っていた。
こんな時にも妙に冷静な頭脳が、瞬時に現状を割り出す。
おそらく獣か何かを捕らえるために誰かが掘った落とし穴に、
私は間抜けにもはまってしまったらしい、と。
そういった仕掛けの底によくある、毒を塗った杭だとかそういうものがなかったのは
不幸中の幸いだった。
だが、どういうわけか相当深くまで掘削されたこの穴からは、とてもではないが自分ひとりの力では
抜け出ることはできそうもない。叫び声を上げようかとも思ったが、穴に落ちる前から
護衛の者を探すために自分が何をしていたかをすぐに思い出し、体力の無駄だと悟った。
冷たく濡れた地面に座り込む。落下するときに土まみれになっていたので気も咎めなかった。
膝を抱えて、深々とした嘆息をつく。
これからどうしようかということよりも、多分落とし穴の目印だったのだろうが、
なぜあんな帯切れに引き寄せられてしまったのか、
そのことがどうしても引っかかっていた。もう一度頭上を見上げてみたが、
くだんの帯は霧のせいでここからは見えない。
目をつぶって、落ちる前の記憶を引っ張り出して検証してみる。
阿求の記憶力は、写真機に例えられるほどの精緻さを持っており、
さらにそれをいついかなる時も思い起こすことができた。
帯のことも、落下の衝撃に耐えて鮮明に記憶されていた。
遠くから見たときの映像。特に何の違和感もない。
少しづつ近づいて行く映像を確認しても、特にそれが天人の衣だとか、
なにか魔術的な代物であるとかそういうことはなかった。
首をかしげ、そして何回もその記憶を精察するが、結果は同じである。
「ただの、紅いだけの帯」
口をついて出た言葉で、なんとなく納得した。
おそらくは、あまりにも代わり映えしない景色が続いていたので、
視覚が変化や刺激に飢えていたのだろう。そしてつい後先考えずに飛びついてしまった。
それだけの、実にくだらない思い込み。これはそういうことだと理解した。
太陽か、竹林か、霧かが気まぐれを見せて、暗い穴の底にわずかな光を差し込むまでは。
「......っ」
所在なさげに上に向けていた眼を、思わず伏せた。
一瞬で、穴の中が明るくなる。その穴が、思ったより広いものであることが白日のもとにさらされ、
一体どんな獣をとるつもりだったのやら、と阿求は少し呆れた。
そして、確認のために自分の身体を見下ろしてみる。
落ちた時に動かしてみた感じではおかしくなっている部分はなさそうだったが
、阿求の身体は常人と比べてもそこまで頑丈ではない。
幸いにも目立つ怪我はなかったが、落下したときになにかに引っ掛けたのか、
着物の左袖が袖から肩口あたりまで裂けてしまっていた。
結構いい値段だったんだけどな、とまたしてもため息をつくと、
ぼろ布のようになった袖をまくりあげる。
「え」
息が、できなくなった。心臓が跳ねる音が聞こえる。
白磁のような腕に出来たすり傷から滲み出した血が、着物にこぼれ落ちて、
模様の赤い椿をより濃厚な紅に染めた。
そうだ、重要なのは、帯じゃなかった。傷じゃなかった。......形じゃなかった。
「紅色」
体中から押し出されるようにして、紡ぎだされたのはそれだけの言葉だった。それだけで十分だった。
それだけで阿求は、忘却の海から、巨大な獣が明確な形を伴って現れる音を、聞くことが出来た。
ひたすら、飽いていた。何万回と見た天井の格子も、
床の間にずっと飾られている霊験あらたかだという短刀の鞘の無愛想な黒さにも、
右足の踵のあたりにほんの少し感じられる畳の反り返りにも。
きっと過去の自分もこうして色々なものに飽きながら世を儚んでいったのだろうと、
私は根拠のない確信を抱いていた。
寝返りを打ち、草いきれが強くなってきた庭先を眺める。
ふらりふらりと蛍の光が何条か、頼りない明滅を繰り返していた。
特に意図も持たず、というか難しい事を考える精神的余裕も無いのだが、
その光を見つめていると、ほんの少し、しかし規則的に床が震えるのを感じる。
振動は徐々に大きくなっていく。
最初は一定のリズムを刻んでいたそれは、私の寝室に近づくにつれて少し躊躇するように小さくなった。
そして頭脳は無意識に、家に仕える数人の侍女たちの中から足音の主を見つけ出す。
ああ、おそらく彼女だろうな、とあたりをつけたところで庭に面した廊下から、
緊張をまだ幼さの残る容貌にたたえた少女の姿が現れた。
「やはり、ね」
「え、な、なにがでしょうか!?」
年若い侍女は挨拶も忘れて、うわずった頓狂な声を上げた。
頬を赤く染め、お盆に載った冷菓子を取り落としそうになっている。
転生の準備に人手が必要になったため新たに雇い入れた、と家の者から彼女を紹介されたのは、
いつになったら止むのかと呆れるほど雪が降っていた去年の冬のことだった。
当初からどこか危なっかしい、浮世ずれしていない感じがしたので、
果たしていつまで持つのやら、と私は自分の身体の事も棚にあげて考えていた。
しかし、意外にもこの紅顔の少女は外見に似合わず意地っ張りというか、
こうと決めたら譲らないところがあったらしく、不器用ながらも今日まで懸命に私を支えてくれている。
そして、一日のほとんどを床の中で過ごすようになった今となっては、
彼女の身の上話を聞くことが私の数少ない娯楽になっていた。
疑問符を顔中に張り付けている彼女に微笑を向けると、彼女はおっかなびっくりお盆を畳の上に下ろし、
自らもその側に正座してお辞儀した。私は、わざと気を抜いたように、脈絡もなく話しかける。
「こんばんは。先週の話の続きをしてもらえませんか?」
「せ、先週の話でございますか!えぇっと......」。
「あなたの父が三ヶ月ぶりに山から降りてきて、なにやら良く分からない怪鳥を仕留めてきた、
という下りまでは聞いたのですが」
ああ、と驚いたように手を打った。
そして、彼女は緊張でところどころ詰まりながら、
しかし話の興が乗るにつれてその舌も少しづつ滑らかになっていき、
家族と故郷の話を面白可笑しく聴かせてくれた。気がつくと結構な時間が経っていて、
時間の流れが早いと感じることなどいつ以来だろうなどと思い起こしてみると、
先週彼女の昔話を聞いたときが最後だったことに気づいた。
ちょっとおかしくなって、私が寝間着の袖で口元を抑えるようにして笑うと、
彼女も自分の話が受け入れられたその安心と喜びを表すような、大輪の笑顔を浮かべる。
一瞬見とれてしまったことを隠すために、私は彼女が運んできたお盆を話題にすることにした。
「愉快なお話でした。ありがとう」
「滅相もございません。勿体無いお言葉で......」
「私もなにかお返しをしなければなりませんね。そう、光る水羊羹の話、
なんていうのはいかがです か?」
不思議そうな顔をした彼女に、私は視線で答えた。
「......ああッ! も、申し訳ございません! いますぐ取り替えてまいりますっ!」
厨房の者が、丹精を込めて作ったであろう水羊羹の上に、
一匹の蛍がその身を休めるようにしてとまっていた。
その黒い身体が羊羹で見えにくくなり、本当に羊羹が光っているように見える。
青い顔になった少女の必死な手に払い落とされて、光は縁側へ転がり落ちた。
落ちた光には目もくれず、彼女は厨房へ向けて走りだそうとする。私は、ほとんど無意識で呟いた。
「構いません」
「え? ですが......」
「結構です。あまり、食欲もありませんし」
「わ、わかりました。そのようにいたします......」
眼を伏せ、言いよどんだ彼女の眼が、ここ二日間ばかり私が
水しか口にしていないことに対する心配で曇っているのがわかった。
彼女のその性格が、生来世話焼きで少しお節介であるということは、
何度か交わした会話の中ではっきりわかっている。
そんな彼女の好意を無下にして、すこし後ろめたくなったのか、
私は気がつくとくだらないことを口にしていた。
「......ねぇ」
「は、はいっ!?」
突然の呼びかけに、彼女はまたも驚嘆の表情を見せてくれる。
見ていて退屈しない、ということは私にとってはなにより重要なことだ。
視線を庭に向けながら私は続ける。
蛍というものがあの姿になってからどのくらいの間生きるものなのか、知っているか、と。
「蛍ですか。うーん」
真剣に悩むような表情を見せる少女。眉間に皺を寄せてしばらくのあいだ唸っていたが、少しして、恐る恐る、という感じで回答を出した。
「......一ヶ月、くらいですか?」
おそらく彼女は蛍を見ることができる期間で推測したのだろう。残念だが、それは誤りだ。
蛍は一生のそのほとんどの時期を、醜い水棲昆虫として過ごし、
最後の一、二週間だけ瞬く光で夜空に線を引く。
そんな他愛の無い、まるで生きる上で役に立ちそうもない知識にも、
彼女は持ち前の素直さでいちいち大げさに驚いてくれた。
「なるほど、蝉や蜉蝣のようなものなのですね......」
一年、種類によっては何年も暗い地を這い、冷たい水の中で過ごして最後のわずかな期間だけ、
空を飛び、大いに鳴き、輝くことを許される。
小さな虫とはいえ、なかなか悲劇的な宿命だと思いません?
ほんの少し口の端だけで皮肉げに笑って彼女のかんばせを覗くと、
なぜか意外そうな顔を向けられていた。
「......私には、そうは思えません」
何故?この上なくシンプルな問が口をついて出た。病気で頭が回らない、とか、
そういうことではなくこれは純粋に分からない。
何故彼女がそのように考えたのか、なんだかやけに気になった。答えを急かすように、
彼女の切れ長の眼をじっと見つめる。
だが、即座に彼女は主人の意見に異論を差し挟んでしまったことに気がつき、すごい勢いで頭を下げた。
「す、すっ、すみませんっ! 出すぎた真似をいたしました!」
私は、柔らかい笑みを作って、いいからなぜそう思ったのか教えて欲しい、と、努めて穏やかに促す。
しかし、彼女はなかなか顔を上げようとはしなかった。私はなにやら胸がむかむかしたが、
その感覚が苛つきであることを思いだすのに少し時間がかかった。
なんでもいいから、早く教えて欲しい。先程よりも強い調子で言うが、
依然頭を畳にこすりつけたままでいる彼女を見て少し呆れたような気持ちになった。
布団から起き上がってたしなめようとした時、彼女は出し抜けに大きな声をだした。
「申し訳ありません!わ、わからないのです!」
わからない?そんなはずはないだろう。私が次の言葉を紡ごうとした瞬間、
彼女の必死の声がそれを押しとどめた。
「わからないのです!この考えを、言葉にするとどうなるのかが!」
はぁ。一つ、嘆息する。この子が並外れて不器用なことを忘れていた。
私は諭すような、諦めたような口調で呟いた。
なら、あなたの考えがまとまるまでここで一緒に庭を眺めていましょう。
彼女はひたすら恐縮していたが、庭を見つめたまま黙り込んだ私を見て、
観念したようにぎこちない動作で蛍の群れに視線を移した。
小さいけれど鮮やかな、提灯や洋灯の穏やかなそれとはまた違った光を夜空に映しながら、
蛍はじゃれあうようにして舞い続ける。
私はその光の流れを眼だけで追い、少女はといえばさっきから射殺すような勢いでそれを見つめていた。
またあれからしばらくたったが、未だに彼女の考えは定形を持てないらしい。
私も彼女のそれに思いを馳せてみたが、ついぞ解らなかった。
無為で、儚く、それでいて人の心を捉える刹那の光を放つ。
そして、ただそれだけのために地の底、水の底で長い長い雌伏の時を過ごす。
そういうものではないか。そういうものではないか、蛍は......
ふっと、ひときわ高いところを2匹で絡み合うように飛んでいた蛍の灯が、
明け方の星のようにあっけなく消え去った。
暗すぎてはっきりとは分からないが、どうやら空中で衝突し、力尽きて地面に叩きつけられたらしい。
死にはしないだろうが、おそらく、あの二匹はもう二度と空を飛ぶことはないだろう。
確信めいたものが胸中をよぎった。
そして、限界まで前かがみになって血眼で蛍を凝視していた彼女が、
突然ぽつりと呟いたのはそれと同時だった。
「......繋がっているから」
一瞬言葉に詰まって私は、どういう事ですか、と疑問を呈しようとした。
だが、彼女の口は、今までの沈黙が嘘のように淀みなく、穏やかに動く。
「ずっと長い間苦しみが続いて、ほんの一瞬の輝きの後に失われる生命でも、その生命は他の生命に繋がっているから、きっとその営みは無駄ではないと思うのです」
......あの二匹は子をなしていたのでしょうか?
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。けれど、それは大きな問題ではないのです」
何故?
「たとえ血を残さずして行き倒れるようなことがあっても、その骸は新しい生命を宿す苗床になります。
それで、その生命は、他の生命と繋がったことになるのだと思います」
......
私はなにも言わずに、視線を庭から煌々と輝く満月へ移した。
彼女も黙って、蛍などよりもよほど強い光を見せるそれを、さっきよりも幾分楽な姿勢で見つめていた。
それから、ほんの少しだったのか、数時間だったのかは分からないが、先に口を開いたのは私だった。
「......実にあなたらしい。素朴で、素直で、けれど力強い考え方です。
よい話を聴かせてもらいました」
「いえ、とんでもございません」
私は、するりと布団から這いだすと、枕元の飾り箱をとった。
突然起き上がったので、彼女はちょっと慌てたが、制止の声が掛かる前に
私はそれを座っている彼女の足元にすっと差し出した。
中には、いつも外出の時に着用する乙女椿の髪飾りが入っていた。
「これを」
「え......」
「お礼です。先程のお話の分もあわせて、ね」
「そ、そんな、いただけません......」
「では、あなたがもらってくれる気になるまで、私は庭先を散歩でもしていましょうか」
私が少し意地の悪いことを言うと、彼女はこらえるようににうつむいていた。しかし、本当に私が立ち上がる仕草を見せた時に、平伏しながら少女は叫ぶ。
「あっ、ありがとうございます! 家に持ち帰り、家宝と致します!」
震える手で飾り箱を受け取ると、ひたすらこちらに頭を下げる。
私は苦笑いを浮かべて、もう下がっても良い、と伝えた。
彼女は立ち上がりもう一度深々とお辞儀をすると、すこし興奮したような早足で部屋から退出した。
ふ、と少し笑って布団をかけ直す。そろそろ休もうかと、
枕元の小さな灯を消すと、暗闇と沈黙がいつものように部屋に戻ってきた。
眠れないのはいつものことだったので、自分の眼が暗さに慣れるのをじっと待っていた。
とはいえ、見えるのはいつものように馬鹿に規律正しい天井の格子だけで、
別段面白いものではないのだが、しかし全くの暗闇よりかはいい。
なんとなく、縁側の方へ身体をよじると、
先程少女に水羊羹から払い落とされた蛍がひっくり返っていた。
まだその脚が痙攣するように動いていて、息があることを主張している。
しかしそれもあまり長くはなさそうだ。
光ることも飛ぶこともできずに、それでもその蛍は懸命に起き上がろうとしていた。
その営みに、意味はあるのか。
私は、いつまでもその蛍を眺めていた。
あたりは一面、暗闇だった。だが不思議と自分の体は良く見える。
私は一寸先も見通せない闇の中を、かき分けるようにして歩いていった。
足元は案外しっかりしていた。なにか確信めいた感情を抱き、
一歩一歩踏みしめるように、どこかへ向かってただひたすらに進む。
しばらく歩くと、闇の奥から、鈴の音に良く似た、透き通る音が脳裏に響いた。
すると、唐突にあたりが明るくなる。光は、足元から湧き立つようにして次々と現れた。珠のような光がいくつも、次から次へと闇に舞い上がる。
光の中には、直視出来ないほど眩しいものもあり、
今にも消え去ってしまいそうな弱々しいものもあった。
宙を漂うそれは、最初全く無秩序に振舞っていたが、しばらくすると、
一部の光が地面の二箇所に集まり始めた。
次々と光は集結し、やがて巨大だが点に過ぎなかった光の集合体は、
繭から紡がれる絹糸のように線となって、二つの地点から弧を描くように上方に伸びていく。
最初は緩やかに、小さな輝きをその身にたたえながら規則的な軌道を描いて空を舞っていた二本の線は、上昇するにつれて強く、鮮やかな光を放つようになった。
二つの光は、大樹に巻き付く二頭の龍のように、ぐるぐると回りながら飛んでいく。
その光は、決して交わることはなかった。だが、離れることもない。
二つ、それぞれの姿を保ちながら、寄り添って遙かな虚空の先に向かう。
二つの光の線が織りなす螺旋が果てしない空を目指すのを、私はただ呆然と見上げていた。
首をどれだけ傾けても天辺が見えないほどに螺旋が伸び上がったとき、
胸が急にずきりと痛んだ。私も、あの螺旋に、触れなければいけない。
思った瞬間、両の脚は地面を蹴り闇を裂いて走りだしていた。
何故か、いつものように息が切れることもなく、私はどこまでも駆けることができた。
だが、一向に螺旋は近づいてこない。それどころか、少しづつ遠ざかっているような気すらする。
いや、遠ざかっているのだ。長大な螺旋が、小さくなっていく。
私は必死に足を運び、手を伸ばした。そんなことに、意味なんて無いとどこかで悟りながら。
光が、消えていく。ほとんど、半狂乱になりながらそこへ向おうとする。
わずかな瞬きの間に、光の螺旋は最初から存在しなかったかのように消え失せた。
全てが失われた闇の中、私はひとり立ち尽くしていた。
ひどい発作が私の意識を夢から引き剥がした。いつもならば忌々しいことだが、今回は感謝してもよい。
寝汗がひどかったので、侍女を呼ぼうとしたが、
肺が、まるで自分のものでなくなったかのように暴れて、それどころではなかった。
すぐさま、私のけたたましい咳を聞きつけて、数名の侍女が飛んでくる。
断続的に、頭痛と吐気に加えて、全身の関節がバラバラになりそうな痛みが私の身体を襲う。
朦朧とする視界に、大急ぎで侍女たちが応急治療の用意をしているのが見えた。
その中に、冷水の入った桶を抱えるあの若い少女の姿もある。
今にも泣き出しそうな顔で、濡れ布巾を絞っていた。
そんなことをしても何の意味もないと、言葉を発する力があれば言ったのかもしれない。
少女は私の枕元に近づいて、布巾で私の顔をぬぐう。そして、必死な顔で私になにかを呼びかけた。
かなり大きな声のようだが、それを聞く余裕も無い。
そのうちに彼女の姿は他の侍女に押しのけられ、見えなくなった。
私はひたすら、この嵐が過ぎてくれることだけを願っていた。
あまりの激痛に気絶するように眠り、目が覚めたのはそれからしばらくしてからであった。
どうやら、まだ夜のようだ。
枕元に控えていた侍女たちが、驚いて口々に私を心配する言葉をかける。
あの少女の姿はその中にいなかった。
すぐに侍女たちの長が、それらを制止し、医者を呼んでくると言って他の侍女を引き連れ寝室を出た。
布団から這い出し、閉められたふすまを解き放つ。すると、すぐに涼やかな風が流れ込んできた。
蛍の光はもう残滓すら残っていない。
おそらく、外の光景を見るのはこれが最後だろう。もうこの身体も長くはない。
この後は転生のためにしつらえられた座敷で、次なる生への準備を続ける日々が始まるのだ。
仮初の死を待つ日々が。
なんとはなしに、足元を見てみると、あの蛍の姿が無いことに気づいた。
慌ただしく入ってきた侍女たちに踏み潰されたのか、
それとも力を振り絞ってどこかへ飛んで行ったのか。
ふと、あの少女のことを思い出した。彼女の考え方なら、どんな形にせよ、
きっとあの蛍は他の生命と繋がったのだろう。
私は、きっとそうではない。私の生命は、自らの尾に噛み付いた蛇のような、閉じきった環なのだ。
他者と交わることもなく、ただひとり行く。転生すれば、
きっとこんな風に考えたことも忘れてしまうだろう。
私に尽くしてくれた、ひとりの田舎者の少女のことも。
どれだけ山のような書をなしても、私はそんなことすら憶えていることが出来ない。
気がつくと、件の魔よけの短刀を手に取っていた。
そして、薬箱の底に隠し持っていた強心薬を何錠もおもむろに頬張る。
たちまちのうちに呼吸が荒くなり、心臓と、肺が痛み出した。
しかし、冷え切っていた身体は少しづつ熱を取り戻している。
どうにかまだ、この身体は動いてくれそうだ。少しふらつくが、なんとか歩くことくらいはできそうだ。
私は静かに、草履に足を通す。もうしばらくもしないうちに侍女たちが医者を連れてくることだろう。
「......おしまいにしましょうか」
屋敷に向きあって、そう呟いた。
誰にも、邪魔されず、見とられず。そういう場所が自分にふさわしいと思った。
足は自然と、迷いの竹林の方へ向かう。
迷いの竹林は、人間の里から見て、妖怪の山と反対側にある場所だ。
似たような景色ばかりの上に竹の成長が早いことから、
あまりにも迷い易いので里の者は立ち入りが禁じられている。
その上最近では妖怪が現れることも珍しくない。
うっかり入り込んだら、よほどの強運がない限り、抜け出せない場所。それが、この竹林だった。
私は、入り口にあった警告の看板を無視して、
生い茂る竹の群れに向かって進んでいった。思ったより大した感慨もなかった。
正確な時間はわからないが、月の高さから見てもう丑三つ時は回っているだろう。
かすかな虫の鳴き声と、時折思い出したように奇妙な叫び声を上げる鳥、
それに絶え間なく響く竹の葉がこすれる音。それがこの場所で聞こえる音のすべてだ。
見えるものはといえば、特に言う必要もないだろう。
全く無個性な竹が、空に向かっててんでバラバラに成長している。
どれもこれも、昔調査に来た時となにも変わりはない。
あの時と違う事といえば、私が屋敷に帰る意思を持っていないことくらいのものだ。
ふと、懐に入った短刀を取り出してみる。その黒光りする鞘から、冷たく輝く白刃を抜き出した。
お守り以上の用途に用いたことはないので、
いかにも古そうなこの刃が使えるのかどうかは素人目にはよくわからなかったが、
少なくとも切っ先の鋭利さは十分なものだろう。
納得して、刀を鞘に収める。事を起こすにしても、もう少し奥まったところでやりたいものだ。
人も妖怪も、何も入ってこれないようなところで、誰知れず消えたいと思った。
なので、竹林を当て所なく進む。私はまるで夢のなかにいるような、現実味のなさを味わっていた。
ぼんやりとした空虚の中で、惑いながら歩く。思えばこの身体に生を受けてから、
ひたすらなにかの為に生きてきた。
御阿礼の子は寿命が短いので、人生における『遊び』のような部分がほとんどない。
目的を持たない行動に費やす時間はないのだ。ひょっとすると、
こんな風に無為な時間を過ごすのは、生まれて初めてのことかもしれない。
「まぁ、思ったよりかは悪く無いですね......」
枯れた喉で、かすれたひとりごとを呟いた。風が、さっと頬をなでた。
不意になにか、違和感を覚えた。弛緩しきっていた身体が急速にこわばる。
今までになかったものが、現れた感覚。
全てを記憶する私の能力は、状態の変化に気づくことにも効力を発揮する。
なにもかも憶えているがゆえに、わずかでもなにかがなくなったり、増えたりした場合、
すぐにそれに気づくことが出来た。
今増えたのは......
ざりっ、と枯れた竹の葉が踏み潰される音。私のものではない。つまり、そこに誰かいる、ということ。
一瞬妖怪かと思ったが、それはないとすぐに自分で否定した。
人間を襲う妖怪は軒並み、空を飛ぶ能力を持っている。
だから、わざわざ歩いて人を付け回すなどという面倒なことをしなくともよいはずだ。
ゆえに、私はその音を、私を探しに来た追っ手が無用心に立てた音であると判断した。
たったひとりというのは気になるが、
おそらくは私の急な出奔に慌てて、組織的に捜索するという余裕がなかったのだろう。
足音が、背後から少しづつ近づいてくる。竹という木の性質上木陰に隠れることなどは出来ない。
なので振り向けばすぐに追跡者の正体はわかる。
だが、そうなったら向こうは一気に取り押さえにかかってくるはずだ。
まともに揉みあっては瀕死の病人に勝ち目など無い。
ゆえに、ここは気がつかないふりをしておくことにした。
自分の体で相手の視線から死角を作り、短刀を抜く。
殺さなくとも、戦意を奪うことくらいは私にでもできるだろう。
いい加減、私は終わらせたいのだ。恐怖はあったがそれ以上に、
私がこんな無為を続けることにどんな意味がある、と相手を怒鳴りつけたい気持ちが勝っていた。
次第に大きくなる足音に耳を澄ませながら、響いてくる音の感覚からおおよその距離を測る。
私の歩幅にして十歩前後。
九歩、八歩、七歩。全く気がついていないのか、それとも気づかれてもなんともないと侮っているのか、無造作に相手は距離を詰めてくる。
六歩、五歩、四歩。少しづつ、後ろからの息遣いが伝わってきた。
相変わらず、相手からなんの緊張も感じ取れなかった。まるで散歩でもしているかのようだ。
三歩。いよいよ相手は近づいてきた。二歩。極度に集中しているためか、一秒が随分長い。
一歩。相手が私の肩に手を伸ばそうとするのを感じる。
ぐるり。呼吸を止めると、私は後ろにあった左足を軸に百八十度回転し、追っ手と相対した。
短刀を上半身全ての力を掛けて固定し、相手の目も見みないで懐に飛び込む。
永遠にも思えた僅かな間のあと、刃ごと自分の身体が相手のそれに沈み込むような感触を覚えた。
瞬間、まずい、と思った。あまりにも綺麗に刺さりすぎた。
呻くような小さな声がなにごとか頭の上から聞こえ、相手は短刀を体に残したまま真後ろに転倒した。
その姿が、満月の強い明かりの下にさらされる。見たことの無い少女だった。
眼は見開かれ、ぴくりぴくりと動いているが明らかにそれは痙攣で、
なにより短刀が刺さっている場所が彼女の運命を物語っていた。
左胸の真ん中に漆塗の短刀の柄が、その姿を誇示している。
もはや、脈を取るまでもないだろう。
完璧に彼女は死んでいた。否、私が、殺した。
彼女の胸から、火山から流れ出る溶岩のような勢いで血が吹き出し、
地面に染み込んでいった。手の震えが止まらない。
自分自身に対する嫌悪感で胸が満ちるのを感じながら、それと裏腹に少し安心もしていた。
相手の容姿を見ると、どう見ても屋敷の侍女のようには見えない。
輝く新雪のような長い髪に、そこに一粒落ちた山楂子を思わせる紅色の瞳。
これだけ目立つかんばせをしている者がいれば、例え私でなくても忘れるはずが無い。
かといって関係のない普通の人間かと言うと、それもないだろう。
なんのために、こんな時間にこんな場所へ?私のような目的以外は考えられない。
なにより、死体になったというに、彼女からは妙な妖気が立ち上っている。
私が出した結論は、
『ふらふらの病人がこんなところを歩いていたことに驚き、好奇心にかられて近づいてきた妖怪』
というものであった。
歩いてきた理由はよくわからないが、私の風体に油断したのだろうか?
必死になれば、私のような何の力も持たぬ上に瀕死の人間であっても、
妖怪を殺せてしまうのだな、と人間の底力の恐ろしさに場違いにも驚きながら、
ふと、血が止まった彼女の胸に、刺さったままになっている短刀に目がとまった。
そうだ、あれがなければ、私はなんのためにこんなところにまで来たのかわからない。
彼女の亡骸を眺め、少し躊躇したが、嘆息しながらおそるおそる、
血まみれになった柄に手を当てる。そして肉の感触を嫌悪しながら引き抜こうとした、その時。
なんの前触れもなく、ほんの一瞬で彼女は突如として現れた炎に包まれた。
私は、反射的に短刀から手を離し、後ろ向きに転げまわる。
幸いにも寝間着の裾が少し焦げただけで済んだ。
だがそんなことはどうでもいい。
彼女を燃やし尽くした炎は、落ち葉もまだ青い竹も関係なしに巻き込みながらさらに大きくなり、
天を衝かんばかりに高く高く燃え上がった。
そして、呆然と立ち尽くす私の前でその火の中から、揺らめく影がこちらに向かっているのが見える。
なにか、人智をはるかに超えた力を見たときに感じるような畏怖が、体中を駆け巡った。
火を崇める信仰者のように私は、大火の前に跪く。
それと同時に、彼女が、私が確実に刺殺したはずの彼女が、
白銀の髪に火炎の照り返しを受けながら、姿を現した。
ゆっくりと、まるで何事もなかったかのようにこちらに歩いてくる。
しかし、傲然と反り返したその胸には、あの短刀の柄が燻りながらも残っていた。
彼女は深々と刺さったそれを見て、小さく舌打ちをすると、
私に向かってシニカルな、この場にそぐわぬ笑顔を向けた。
ひっ、と声にならない声が条件反射で発せられる。
それを見た紅い眼の少女は声を上げて、さも愉快そうに笑った。
「久方ぶりだなぁ、人間に殺されるのも」
なにか言葉を出そうとしたが、唇が空転するだけであった。
私の反応を見て満足そうな表情を浮かべた彼女は、彼女は自らの心臓を穿っているはずの
短刀の柄に力を込めると、顔をしかめながら引き抜こうとした。
ぐちゃ、とか、ぶしゃ、という聞くに耐えない音があたりを満たした。
残酷なほどゆっくりと、白刃は彼女の身体から姿を見せる。
その姿は、柄を炎で焼かれて抽象芸術のように変形し、刃はこれ以上無いほどに彼女の血で染まり、
切っ先からは飲み干せない、とでもいうかのように血が滴り落ちている。
魔よけの剣が一瞬で呪いの妖刀のような姿になってしまった。
彼女は、刺さっているのが自分の身体だというのに全く躊躇せずに、
刀を力任せに抜き去ろうとし、案の定苦悶の表情を見せている。
私はもはや直視できず、ひたすらに下を向いて眼前の悪夢が終わる時が来るまで待ち続けていた。
やがて、彼女の呻き声がやみ、私が顔をあげると、手に持った短刀を忌々しげに見つめ、
地面に叩きつけた。あまりの勢いで投げられたために、柄が砕けて焦げた木片が無造作に飛び散った。
当然ながら彼女の胸の傷から明らかに生命維持に関わるほどの出血が始まる。
だがそれも、先程より小さい炎が彼女の身を包んだかと思うと、瞬く間に元の状態に復元された。
私の膝は地面につけられたまま、震え続けていた。
これが、ほんの少し前のあの死体だというのか。
心臓が胸骨を突き破って飛び出さんばかりに激震している。
脳裏を、かつて聞いた伝説がよぎった。不死鳥。数百年の時を生き、火を以て生まれ変わる。
少女は首をゆったりと、大きく回して、やれやれ、とでも言うようにこちらに向かってくる。
逃げ出そうという気にすらなれなかった。
もはや私の生殺与奪の権は完全に彼女に握られてる。なにをしても無駄だという確信があった。
だが、そんな諦観とは裏腹に、身体の戦慄は止まらなかった。
恐怖だけではない。その存在のあまりの異質さに、私は魅せられていたのだ。
少女が、長い長い銀髪を揺らしながら、手を伸ばせば触れられる距離まで近づいてきた。
近くで見ると、あの侍女と同じくらい年若い姿に見える。
しかし、纏う気配はとても較べられたものではなかった。
そして、そんな外見とは不釣合いな、抑えたように低い声が頭上から聞こえてくる。
「立ちなよ、お嬢さん」
私の身体は無意識にびくり、と跳ねたが、なぜか彼女の言うとおり立ち上がることに躊躇はなかった。
少女は私より、頭半個分くらい背が高いようだった。だが、感覚としては圧倒的に巨大に見える。
「......ふーん」
いきなり、顔をくっつきそうなくらい近づけられた。思わず少しのけぞる。
そんなに近寄っても逆に見えにくくなるだけだと思うのだが。
「......んー?」
何事か唸りながら、少女は不躾に様々な角度から私を観察し続ける。
あまりに注視されるので赤面しかけたが、うなじまでのぞきこまれたあたりで、
彼女はなにか納得いかない様子で私に呟いた。
「あー、あんた人間なのか?」
ひたすら何度もうなずく。緊張で声が出ないのだ。
それでもやはり合点が行かないようで、少女はしかめ面で首をかしげている。
「そうかい。見たところあいつの身内でもなさそうだし......あんた一体何をしてるんだ。こんなところで散歩ってわけでもあるまい?」
返答に窮した。どう答えればいいのか、いや、どう答えたいのか。動転しすぎて思考もままならない。
少女は黙り込んだ私を見て再び検分を始めるかのように、
病気やら恐怖やらで、もはや人間の顔色をしているかも怪しい私の顔を見つめる。
彼女の紅い瞳が、射すくめるようにして私のそれを捉えた。深い、あまりに深い紅。
煮えたぎる地獄のようなそれに見据えられた私は、ほぼ無意識で口を動かしていた。
「私にっ......」
「?」
形の良い眉を釣り上げる少女。眼には少しの好奇の色が浮かぶ。
「私に、あ、あなたの生命を奪った償いをさせてください!」
「......どうやって?」
ほんの少しの、皮肉げな微笑。
「わたしの、私の生命を差し上げます!!」
私は、今の喉で出せるだけの、精一杯の声量で叫んだ。
彼女は、ほんの一瞬、きょとんとした表情をしたかと思うと、
すぐさま銀色の髪を振り乱しての大笑いを始めた。
あまりの大声に、夜鳥が驚いて飛び上がる羽音があちこちで聞こえる。
呆然とした私は、彼女の笑いの発作が止まるまで待たなければならなかった。
やがて、大きな瞳に涙を浮かべた彼女は、引きつるように笑いながら私に告げる。
「ひっ、い、生命をやると来たか。はは、眼には眼を、というやつだな。
ほんとに、こんな律儀なやつは初めて見た!」
意地になっているのか、混乱しているのかも自分でわからないまま慌てて返す。
「じょ、冗談ではありません!私はあなたを......」
が、少女は笑いがおさまると、急に真面目な顔を作った。
「できない相談だな」
「なぜですか!?」
私の必死さを嘲笑っているのかもしれず、もしかすると自嘲かもしれない。
彼女は最初に出会った時ような笑みを浮かべて、低くつぶやくように言う。
「私とあんたの命の重さは等しくないから」
言葉に詰まった。だが、殆ど自棄のようになっていた私は、
もう彼女の前で口を開くことに躊躇はなくなっていた。
「......殺す価値もないということですか」
「そうさ」
実にあっさりとした仕草で、彼女はそれを認めた。
うなだれるように少しうつむいた私を眺めて、彼女の笑みに苦いものが混ざる。
「勘違いするなよ。無価値なのは私の生命の方だ」
「え......」
あくまで皮相な表情は崩さないままで、続けた。
「ご覧の通り、私は不死の身体だ。老いることもなく、一体何時からこの世に存在していたのかも
はっきり憶えていない」
低く、重い声で、朗々と歌い上げるようにして彼女は語り始める。
「幾度も死んでは生まれ変わってきた。何百何千何万回、それを繰り返すことが私の生だ」
だから、と付け加えて言う。
「あんたが私を殺したとしても、それは、私の営みから外れるものではないということ」
「.......」
「気に病む必要など、無い」
黙り込んだ私を見て、彼女はさらに続ける。
「ま、要するに私にとっての死という概念は、ありえないもの、無意味、無価値なのさ。
ゼロにつりあうものなんてこの世には存在しないだろ?」
そして親指で、彼女の背後に無残に転がる、無残な姿をさらす短刀を指さした。
相変わらずのシニカルさで告げる。
「......それでも、手前にケリを付けたいなら、御自分でどうぞ。なかなかの刺され心地だったぜ?」
彼女は、どうやら私がここにきた理由に気がついたようだった。
もっとも、元より隠せていたかはよくわからないが。
仄かな憐憫が彼女の紅眼に浮かぶのがわかる。
視線を真下に落とす私に、これ以上用がないならもう行くぜ、というようなことを言って
銀髪の少女は悠々と歩き出した。
「......」
胸を押さえるようにしてうずくまる。人が決して持ち得ない永遠性が、ひどく私を打ちのめした。
我が身には計り知れぬ、その存在の異質と、背負うものの重さ。
だが、だからといって沈黙を続けることは、私には出来なかった。私だからこそ出来なかった。
顔を上げると、淡々と、ゆるやかに歩む彼女の姿が見える。
その背中に私は、なぜかほとんど気負いを感じることなく、語りかけることができた。
「それなら」
「......?」
私のつぶやきに、彼女が振り向き、怪訝そうな顔を見せる。
「終りの無い魂の価値がゼロだというのなら、私のそれも、きっと変わりのないものだと思います」
訝しむ表情が、一層強くなった。
「......どういうことだ」
私は、自らの生まれとその宿命、はるか昔から続けられている己の生業についてのほとんど全てを、
気がつくと話していた。その最中、彼女は一言も喋ることなく、ひたすら耳を傾け続けてくれた。
気づくと、例の皮肉げな笑みはすっかり消え失せている。
そして私は最後に、自らがここを訪れた理由を話し、ひとつ息をついた。
「......確かに、あんたはこちら側の人間なのかもしれない」
長い沈黙の後、ぽつりと、彼女は言う。私は掠れた声で返した。
「永遠なんてものは、きっと人間の手には余る概念なんだと思います」
「そう、だな」
不意に、少女が夜空を見上げた。私もそれにならう。数多の星が、競い合うように輝いていた。
ここのところ好天が続いていたので、ほんの小さな光しか持たない星までよく見える。
これなら夏の星座もほとんど網羅出来そうだった。
しばらくの間黙って空を見ていた彼女は、突然、一際輝いている星を指さして、
いままでよりは幾分か見た目に相応しい声で呟いた。
「あれは何て星なんだ?」
唐突だったので、私は少し面食らう。が、話すことを話した気楽さからか
緊張から解き放たれた私の頭脳はあっさりと答えをはじき出す。
「ああ、あれはさそり座の赤星ですね。大火、なんて呼ばれることもあるようです」
「なるほど......」
その後も彼女は、次々と夜空の星々を指さして、あれはなんという名なのか、
どんな由来があるのか、と私を質問攻めにした。
最初は意図をはかりかねていた私だったが、話しているうちにそれも気にならなくなった。
なんとなく、あの侍女に色々と他愛もない知識を教えていた時のことを思い出した。
そして、目立つ星をおおよそ全て指さした彼女は、
最後に彼女の髪のように白金色に輝く月に視線を移す。
「......あれは、どれくらい遠くにあるんだ?」
「月、ですか?そうですね......」
かつて天測をして距離を算出したことを思い出す。妖怪や地形の調査だけではなく、
そういった学術的な研究をすることも稗田の家の生業だった。
特に星々の運行を測り、正確な暦を作ることは、里の人々の生活においては欠かせないものだ。
「およそ九万五千里、だったと思います」
「そんなに遠いのか! 想像出来ないな......」
少女は感心したような、呆れたような、複雑な表情を作る。
そしてしばらくその幾何学的な地形を眺めていたが、ふと、独り言のように呟いた。
「昔、あそこに行こうとしたことがあるんだ」
「えっ!?」
「私がこの身体になってしばらくした頃に、月にちょっと因縁があったもんでね、あそこに行けばあるいは元の身体に戻れるかと思ったんだが......」
元の身体。妙に引っかかる感じがしたので問てみようと思ったが、昔のことを恥じ入るような顔で、
おそらくは遥かに遠い過去のことを語ろうとする彼女を見ると、
なんとなく、話を遮るのがはばかられた。
少女の彼方を眺めるような眼が、すっと細められる。その話はおおよそこんな内容だった。
最初は、自力で空に浮かぶ月を目指したらしいが、
ある高度まで上がると空気が薄くなって上昇するどころではなくなってしまうのだという。
だから、なにぶん時間だけは十二分にあったので、
妖力をより高めるように修行を積んで、何度も挑戦した。
しかし、どれだけ繰り返しても、空の色が変わる場所までも行けなかったそうだ。
「で、悩んでいたら、それを見ていた妖怪兎に言われたんだ。お前さんは何をしているのか、
月の人間はそんな風に月とこちらを行き来しているのではない、ってね」
そして兎はこう続けたそうだ。
お前さんが何度試しても失敗したように、あの月はハリボテの偽物だ。
本当の月への入口は竹林の奥にある池の中にあって、満月の夜にその池に映る月に飛び込めば、
月に行ける、と。少女はいよいよ顔を赤らめて話す。
「正直嘘くさいな、とは思っていたんだが。他に方法も思いつかなかったからな」
そして次の満月の晩、意を決して池に飛び込んだが、当然月になど繋がっておらず、
物陰から除いていた兎に大笑いされて終わったそうだ。
「おまけにその時は冬だった。本気で死ぬかと思ったよ」
思わず私が吹き出すと、彼女は少し怒ったように返す。
「あんまり笑うなよ、このことを人に話したのはこれが初めてなんだから」
それでも私の笑いはおさまらず、彼女は拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
しばらくして、思い出したようにぽつりと呟く。
「ま、そんな感じで私はずっと自分のことばかり考えて生きてきた」
少しづつ視線を戻して、私を見据える。その所作には、幾分か真剣な色も混じっているように見えた。
「あんたは違うだろ。他の誰かのためにその幻想郷縁起って書物を書き残してる」
「......」
「だから、あんたの永遠は無意味じゃないはずだ。きっと、な」
螺旋を傍目に見下ろし、悠然と虚空を羽ばたく不死の鳥。その姿が、脳裏に浮かんだ。
折れそうな両足で、地に這いつくばる自らの姿も。
「ッ、私、は......」
なにを言おうとしたのか、自分でもわからない。
ただ、漠然とした、しかし決定的ななにかが見つかりそうになったところで、
わたしは強烈な目眩に襲われた。
咳き込み、膝をつき、地面にうずくまる。視界に、砕け散った短刀が映った。
薬でごまかすのもそろそろ限界のようだ。慌てたように少女が声をかける。
「おい、大丈夫か?」
差し伸べられた右手に、私は震える左手を伸ばす。
月明かりに白く輝く彼女の手をとったその瞬間、私の視界は暗転した。
痛い。頭が疼き、咳が止まらない。弱りきった身体は、
これ以上の酷使には耐えられないというように悲鳴を上げ始めていた。
それでも、このまま倒れてしまおうという誘惑を跳ね除け、私は眼を開ける。
そしてすぐに、私が仰向けに倒れていることがわかった。
先程少女と見た星空が、視界に飛び込んで来る。
どうやらなにかの衝撃を受けて私は横転したらしかった。
関節と筋の痛みに苛まれ、ふらつきながらも私は辛うじて立ち上がる。
刹那、私は絶句した。空に、炎が浮かんでいた。
先程彼女が再生するために使われたそれよりも巨大で、そして熾烈に燃え上がっている。
烈火の中心には、銀色の髪を炎によって生じた気流でたなびかせる少女の姿があった。
まとう妖気の濃さは、先程とは段違いだ。
瞳は爛々と瞬き、視線を向けられていないにも関わらず私を圧倒する。
並の人間なら身動きひとつとれなくなるであろう、射殺すような視線の先には、
星空の明かりを掻き消さんばかりに輝く着物を身に纏った、
黒髪の少女が泰然、という言葉を体現するかのような態度で浮遊している。
どうやら、先程の衝撃は彼女が原因らしい。
だが、その敵意は私ではなく銀髪の少女に向けられているようだ。
果たしてどのような因縁がこの二人の間にあるのかは分からないが、
あの銀髪の少女が別人のようにいきり立っていることから見るに、決して友好的な関係には見えない。
そして、彼女は明らかに只者ではなかった。
紅眼の少女のように殺気を迸らせているというわけではない。
だが、そのすべてを飲み込みそうな黒さを持つ瞳、そしてその目つきは、
高所から人を見下ろす者特有のそれだった。
私も家柄上、他の名家出身の人物と会うことも多く、数えきれないほど『高貴』な人間を見てきたが、
彼女はその全員を足しあわせても
及ばない存在感を、恐るべき支配力を持っていることが一見してわかった。
そして、無表情でにらみ合っていた両者のうち、銀髪の少女が口火を切る。
彼女はいままでの飄々とした、余裕と皮肉の入り交じった笑みをかなぐり捨て、
迸る感情をあらわに叫んだ。
「......関係のない人間を巻き込むとはどういう了見だ!」
くす、と黒眼の少女が口角を釣り上げて笑う。
「関係ない?あなたが関係のない人間にあんな風に固執するわけないでしょう?」
「少なくとも私たちのこの不毛な争いとは関係ないだろうよ」
「不毛とは寂しいことを言うのね。こうして私と戦うことはあなたの存在意義そのものだというのに」
ぐっ、と身体が地面に押し付けられるような感覚に襲われる。信じがたいことだが、二人の膨れ上がった妖気が、これだけ離れた地上にいる私に圧迫感を与えていた。
一触即発。片や覇気を全身に漲らせ、片やまるで揺蕩うように、
しかしその中に底知れぬ不気味さを宿しながら、激突の一瞬を待ちわびていた。
「ふざけるなッ!!」
銀髪の少女が、業火を纏わせて黒髪の少女に突っ込んだ。
激突。私の眼ではその瞬間を捉えることすらできない。
轟音が竹林に響きわたり、強靭な妖気同士がぶつかりあった衝撃の波が、
ほんの僅か遅れて私の元に到達した。なんとか転ばぬように踏みとどまるのが精一杯だった。
だから、次の瞬間に起きたことが、私には理解できなかった。
なにか硬いものが大地に叩きつけられる音。
咄嗟に空を見ると、黒髪の少女が、口元に笑みを貼りつけたまま、
悠々と浮かんでいた。鮮やかな色彩を誇示する着物の上に、月の光を無愛想に反射する皮衣が見える。
彼女はほとんど一瞬でそれを纏っていた。
「かはッ......!」
地上に突き落とされ、うめき声を上げる銀髪の少女。黒髪の少女は嘲笑を隠そうともしない。
「あなたの力の大部分は炎の妖術によるもの。火を遮断するこの衣の前では、あなたの無軌道な攻撃など児戯に等しいわ。ま、見てくれが悪いのが玉に瑕だけど」
かつて、文献で読んだことがある。どんな業火に投げ込んでも、決して滅することのない皮衣。
あくまで伝説上の産物だとされてきたが、実在していたのか。
「......火鼠の皮衣、か」
その名を、忌々しげに銀髪の少女が呟く。しかし、彼女はすぐさま立ち上がり、
戦闘態勢を取り直した。先程と比べても、全く闘志が衰えているようには見えない。
むしろその紅眼には喜色すら浮かんでいた。
ほとんど間をおかず、今度は黒髪の少女の方が攻撃を仕掛ける。
相当あったはずの間合いをほとんど一瞬で詰め、至近距離から妖力の波動を叩き込んだ。
銀髪の少女は炎の妖術で防壁を作るが、火鼠の皮衣はそれすらあっさりとかき消してしまった。
再び、耳を背けたくなる音が鳴り響き、銀髪の少女が地面に叩きつけられる。
「さぁ、どうするの?このままじゃ潰れて死んじゃうわよ?」
黒髪の少女はいとも簡単に銀髪の少女を捕らえると、地面と自らが発する妖力によって挟み込んだ。
思わず声を上げそうになって、銀髪の少女の名前を知らないことを思い出した。
ぐっと、奥歯をかみしめる。銀髪の少女の苦悶は先刻の胸から短刀を引き抜いていた時よりも、大きい。
黒髪の少女はそれを見て、邪悪な笑みをより凄惨なものにした。
「......!」
押さえ込まれながら、銀髪の少女は妖力の圧迫に逆らって右手を力づくで天に伸ばす。
何事か、と思った次の瞬間、戦闘前の僅かなやりとりの間に仕込んでおいたのか、
いくつかの火球が土の底から姿を現した。
銀髪の少女を伸し掛るようにして抑え込んでいる黒髪の少女からは、完全に死角の位置だった。
弧を描きなら、火球は黒髪の少女の背後を狙って飛翔する。
「なるほど、少しは知恵がついたのね。けど、炎じゃ無駄だって、私は教えてあげたわよ?」
一体どういう知覚をしているのか分からない。
分からないが、黒髪の少女は一度も振り返ることすらなく、背面からの奇襲をあっけなく看破した。
どす黒い笑みが浮かぶ。確かに、火球ではあの障壁を突破することは出来まい。
私は固唾を飲みこんだ。しかし、銀髪の少女は口元にひきつった笑みを浮かべる。
「お前のその油断が、付け目だったんだよ......!」
瞬間、一片の石が、黒髪の少女の胸を貫いた。
まるで、一瞬で満開になった彼岸花のように、彼女の血が宙に散華した。
圧力が劇的に弱まり、銀髪の少女は強引に拘束を振り払う。
ほんの何瞬か黒髪の少女は、突然のダメージに不可解な表情を隠さなかったが、
すぐに納得したように目を細め、口の端を釣り上げて狂笑した。
それの姿は妖しくも美しい。しかし、私には彼女が人の形をしたおぞましい何かにしか見えなかった。
人間や、妖精や、妖怪ですらない、畏怖すべき何かに。
自らの手を汚す事なく、笑顔を貼りつけたまま、
不可視の力で彼女は胸に突き刺さった石片を引き抜いた。
「ふぅん。炎は気流を作って石を運ぶための、入れ物に過ぎなかったわけね。
またひとつ成長したじゃない。褒めてあげるわ」
「は。そんなものを私が欲しがるとでも?私が欲しいのはお前の首だけだ!」
示し合わせたように、黒髪の少女は七色に輝く宝石のような光弾を、
銀髪の少女は今しがた地獄から招かれたかのように燃え滾る炎弾を、無数に夜空に浮かべた。
直視出来ぬほど眩いそれは、まるで彼女たち二人という恒星を中心に作られた銀河のように見えた。
それは、神代の昔に宇宙を巡って争いあったという神々の姿を私に想起させる。
一瞬、二人の視線が交錯し、同時に無数の光弾と炎弾の群れが衝突した。
人間の里の花火など、及びも付かぬほどの激烈な光が、夜空を真昼のように照らしあげる。
珠と弾がぶつかりあって弾ける音は、全ての竹林の生き物を目覚めさせんばかりの轟音であった。
刹那の後、光が収まり2人の姿があらわになる。両者ともにもう一発の弾も残していなかった。
私には、そのように見えた。
銀髪の少女が、笑った。
「......残念ながら、これで打ち止め、ってわけには行かないぜ」
突如、地面から火球が飛び出す。先刻の隠し弾は、全て使い切られていたわけではなかったのだ。
再び現れた背後からの刺客に、黒髪の少女のかんばせが、露骨に歪んだ。
火鼠の皮衣はすでに先程の奇襲で引き裂かれ、効力を発揮出来る状態には見えなかった。
必然、火球をかわすための妖力の防壁を、対面する銀髪の少女とは逆側に展開しなければならない。
その力の分散こそが、銀髪の少女の狙いだった。
「もらったッ!」
宙を蹴って、銀髪の少女が流星のように相手の懐に飛び込む。
瞬間、血が、短刀や石片によってもたらされたそれとは及びも付かぬほどの血が飛散した。
それは、間違いなく、生命が失われた瞬間だった。どさ、という呆気の無い音が、私の目の前で響く。
「そん、な......」
声が出ない。そこに横たわっていたのは左胸がぽっかりと空洞になった、銀髪の少女だった。
黒髪の少女の嬌笑が、自失した私の耳を苛んだ。
なおも笑いが止まらない、という様子で少女は愉快そうに、今は死に伏せる銀髪の少女に、
愛らしさすら感じされる調子で語りかけた。
「あはははっ、本当に、強くなったじゃない!もしかしたらあと少しで、
私に手が届くのかもしれないわね!」
ぴくり、と銀髪の少女の骸が怒りの震えているように見えた。気のせいでは、ないのかもしれない。
そんな彼女を見下ろして、黒髪の少女はなおも独り言のように話し続けた。
「けれど、その『少し』をあなたが埋められる日は来やしないわ!
永遠と須臾を操る、この私相手ではね!」
永遠と須臾。極大と極小を表す時間の概念。
そうだ、完全にあの瞬間、銀髪の少女が彼女を射程距離に収め、
黒髪の少女は防御の姿勢すら満足にとれていなかった。
だが、その結果は何故か入れ替えられていた。......非現実的な想像が、頭を過ぎった。
いやまさか。しかし、彼女に関して言えば『ありえない』ことなど『ありえない』のかもしれない。
「時間を、操っている......?」
「御明察」
ぞくり。いつのまにか黒髪の少女が、音もなく背後に立っていた。
身体が痛むことも忘れ、できる限りの速さで振り返る。
長い長い、濡れ羽に似た艶やかな髪、深淵を映しこむような黒い瞳。
恐るべき美貌を持つ少女は、右手をあの少女の血で着物の肘の部分まで真っ赤に染め、
にこやかに、完璧な微笑を見せた。そばにいるだけで押し潰されそうな、強い強い気配。
ただでさえあやうい私の呼吸が、余計にかき乱されるようだった。
「あらあら、顔色が悪いわね。しかしまぁ、不便なものよね、限り有る生というものは」
「.......っ」
この少女もまた、不死の身だと言うのか。はたしてそうであったとしても、
まったく驚くに値しないような気がする。
それだけ、彼女の姿からは底知れぬ恐ろしさが発散されていた。
彼女は足元に転がる銀髪の少女の死体を、満足げに眺めると、私に向かって唐突に右手を伸ばす。
白磁のような細腕についた黒い血が、固まりかけていた。私はよろめくように後ずさる。
「不死鳥の血を飲めば不老不死になる、なんて伝説、あなたならご存知よね。色々と解放されるかもしれないわよ。試してみたら?」
少女の黒い瞳が、こちらを見据えている。残酷さと無邪気な好奇心をはらんだ、相手を測るような眼。
私は、震える喉や舌を必死に制御しながら、返した。
「わ、私は老いることも死ぬことも無い身体など、ご免です!」
「そう?」
「そっ、そうです!それに、例え永久を生きようとも、その生が無為では、
それは苦しみでしかありません!」
すっ、と口角を釣り上げて、黒髪の少女は脅迫じみた笑顔を作った。
「無為、ね。なぜ人間は生きることに価値を、意味を求めるのかしら?草も花も蟻も妖精も妖怪も、人間以外のモノは己がなぜ存在するかなど考えることはない」
あくまで穏やかに、しかし、私に発言の余地を全く与えることなく、彼女は続ける。
「ただそこにいるから、そこにあろうとするだけ。なぜ人間だけが、......なぜ?」
最後の一言だけは、嘲笑うような調子はなく、純粋な疑問を呈しているように見えた。
人はなぜ存在する意味を求めるのか。
まるで幼児のような、哲学者のような根源的な問いかけ。私は咄嗟に、言い訳じみた反論をしていた。
「それはっ……それは、そうして意味を求めることが、人間を人間たらしめているからです!」
「……解になっていないわね。それじゃなにも言っていないのと同じじゃない」
嘲笑に、失望と哀れみをないまぜにしたような視線。
愚かな回答だとは、自分でもわかっていた。
だが、他に答えを見出すことが出来ない。
「なるほどね。何故人間が意味を求めるかは、わからないけれど、他のことはわかった気がするわ」
「......?」
「そうやって意味を、理由を欲しがるせいで人間の生は辛くて厳しいものになる、ってこと」
少し間を置いて、彼女は私の眼を直視し、言った。
「あなた、ここに死にに来たんでしょ?」
息が詰まった。たちまちのうちにむせ返って、咳き込む。
この少女になにかを隠すことなど出来ない。なにもかも、たちどころに見透かされる。
「ま、そんなに弱っているなら、わざわざこんなところまで来なくてもいいと思うんだけど。
ああ、あなたは御阿礼の子なんだっけ。輪廻から外れたいワケね」
少女は自らの長い黒髪をいじりながら、どうでもいいことを話すように語り続ける。
いや、彼女にとってはおそらくこれも取るに足らないモノの一つなのだろう。
「勿体無いことをするわねー。御阿礼の子のシステムは人間が作ったものとしては
最高に完成されたものだと思っていたのに。まるで、一個の機械のようにね」
機械、システム。そんな風に、心を持たぬ存在であったのならどれだけよかったか、と私は思う。
「完成されているがゆえに、そこに意味を見つけられないのかもね。
別に、書物を書き遺すのはあなたという個人でなくてもいいわけなのだから」
確かにその通りなのかも、しれなかった。私がいなくなったところで、
本当にあの書が必要な存在だというなら、他の誰かが代わりに書くだけだろう。
あくまでも、代替可能な存在。誰もが、あえて見ぬように努める真実の側面を、
彼女は無邪気に、無造作にえぐりとり、その本質を晒していく。
「そうだ!あなた人間を辞めたらどう?丁度、私の身内が新しい研究を進めているのよ。
妖怪なり妖精なりになってしまえば、
そんなどうでもいいことで生きるだの死ぬだの考えなくて済むわ」
冗談とも本気ともつかぬ調子で、彼女は言った。
一点の曇りもなく、全ての光を吸い込むような昏い瞳。あの螺旋と、
それを取り巻く虚空が、再び私の脳裏を掠めた。
集う光で螺旋は延々と伸びて行く。だが、その光は、全て同じ色で輝いていた。
こうして見ていると、どれだけ大きな光でも替えの利かないものなどない。
だから、その存在に絶対的な意味などない。意味が無いから、繋がろうとするのだ。
誰かにとって、かけがえの無い、意味を持った存在になるために。
ならば、繋がりを持てない私は?私の意味は?私の存在の意味は?
何を言っても反応がなくなった私を見て、急に興味を失ったような眼をした彼女は、
はぁ、と一つ酷薄なため息をついた。
「数百年を生きる魂を持ったものでさえこの程度とはね。......人間は脆弱すぎるわ」
不意に、熱い風が竹林を吹き荒れ、私は思わずたたらを踏んだ。にやりと、
黒髪の少女が笑う気配が伝わってくる。
「けど、あなたはそうじゃないわよね」
気がつくと、銀髪の少女の亡骸は私の足元から消え去っていた。
熱風が、さらに勢いを増す。次の瞬間、黒髪の少女もまた、私の眼前から姿を消した。
桁外れの怒気を宿した叫び声が、竹林に轟く。
「てめぇが人間を語るんじゃねぇ!!!」
大気が爆発したかのような衝撃が走った。とても耐えきれずに私は思わず膝をつき、両腕で顔をかばう。
黒髪の少女の陶然としたつぶやきが、暗闇の中忍び寄るようにして耳に入った。
「あなたといるといつも感じるの、例外という概念の素晴らしさを」
銀髪の少女が凛々しいかんばせを怒りに歪ませながら拳を突き出し、
黒髪の少女は平然とそれを手のひらで受け止めた。
私の目がそれを捉えた次の瞬間には、両者は考えられぬほど素早く間合いを取り、そしてまた一瞬で拳を交わせる距離まで接近し、激突する。
その繰り返しがだんだんと速度を増して行くさまは、輝く二つの流星が、
竹林を跋扈しているようだった。
永遠に続くかと思われたそれは、際限なく加速する銀髪の少女の拳を受け損なった黒髪の少女が、
姿勢を崩して動きを止めた時に終わった。
その隙を、銀髪の少女が逃すはずはなかった。拳を握り締め、咆哮をあげながら突進する。
が、私には見えた。黒髪の少女が浮かべる、あの全てを嘲笑うかのような微笑が。
時間操作。銀髪の少女は見事に誘い込まれたのだ。
次の一瞬で起こるであろう惨劇に、私は思わず目を閉じた。
しかし、聞こえてきたのは肉の裂ける音ではなく、地震と見紛うほどの、
元を揺るがす二つの衝撃であった。
「......ちぇ、相打ちかよ」
銀髪の少女が、大儀そうに仰向けになった身体を起こしながらぼやいた。
「......なるほどねぇ」
相対する黒髪の少女は、地面に身体を横たえたまま身動ぎ一つせず無愛想に呟くと、
なにやら肩を震わせ始めた。最初は密やかだったそれは、
少しづつ大きくなり、最後は遠慮会釈のない声量で、笑い続けた。
銀髪の少女の呆れたような視線を一切無視し、涙目になるほど笑い続けた彼女は、
ようやく満足したのか、目元をこすりながら、優雅な所作で立ち上がる。
「はー......こんな馬鹿なやり口、あなた以外には絶対思いつかないわ」
馬鹿、という単語に反応して銀髪の少女がぴくりと片眉を上げる。
「......うるせーよ。他にないだろうが、そんなインチキ能力に勝つ方法なんて」
首を振りながら、黒髪の少女が答える。
「私が時間を引き延ばすなら、それよりも早く動く......」
そして、肩をすくめた。
「素晴らしいわね、シンプルで。......あなたもこの単純さを見習った方がいいんじゃない?
少しだけにしといた方がいいとは思うけどね」
彼女の圧迫感を伴った視線が、こちらに向けられた。背筋が凍る。
上下の唇が張り付いてしまったかのように、私は黙り込んでいた。
「ま、だけどこの子がこんなに必死になって戦ってくれるのは、
あなたがいるおかげかも知れないわね?」
言葉を発すると同時に黒髪の少女は、いいことを思いついた、という風に黒い瞳をわずかに輝かせた。
「だとすれば、お礼が必要だわ。......あなたもそう思わない?」
不機嫌そうに、銀髪の少女は応じる。
「......何が言いたいんだ」
ふっ、と軽やかな笑みを浮かべて、黒髪の少女は言う。
「仲間はずれはよくない、ってことよ。彼女もこの遊びに入れてあげましょう?」
銀髪の少女の怪訝な顔を尻目に、彼女はそうね、と続けた。
「こんなのはどう?この子が生きて竹林を抜けられたらあなたの勝ち。死んじゃったら私の勝ち」
私と銀髪の少女は揃って絶句した。それに構わずに再び体勢を整え、
戦いはじめようとする黒髪の少女に、銀髪の少女が激昂をぶつける。
「いい加減にしろ!もともとこいつは私らとは何の関係も……」
「ないわけがないわ。不滅の魂を持つ者同士、こうしてめぐり合ったのもなにかの縁だと思わない?」
銀髪の少女がなにか言い返そうとした身構えた瞬間、
流星群のような光弾の群れが、視界一杯に広がった。
身体がすくみ、膝をつく。目を固く瞑ったが、来るべき衝撃は訪れなかった。
頭上を見上げると、銀髪の少女が宙を舞い、炎で帷のような防壁を作り上げていた。
タタラ場にいるような熱が、地上にいる私にまで伝わってくる。
長い髪を振り乱し、私に向かって銀髪の少女が懸命に叫ぶ。
「立て!死ぬにしたってあんな理不尽なヤツに殺されたくないだろ!」
彼女の声にも、私の脚にはもう力が入らなかった。
疲労と艱苦と虚無がないまぜになって身体中を縛る鎖となったかのように。
自分でも信じられないほど弱々しい声が、唇から漏れ出て行った。
「私は、所詮人間である私は、あなたのようには生きられません」
たとえ滅せぬ魂を持とうとも、人はそれだけで生きていくことなどできない。無意味なのだ。
だから、屋敷に逃げ帰ろうと、ここで黒髪の少女の光弾に射ぬかれようと、違いはない。
うなだれた私に、銀髪の少女はしばらく歯をくいしばるような表情を向けていた。
だが。
どれだけの時間がたっただろうか。それは一秒にも満たなかったのかもしれないし、
実は1時間経っていたと言われたら納得してしまいそうでもあった。
永遠と須臾、暗闇と篝火、生と死。すべてが曖昧で、何一つの確信も持てないまどろむような感覚の中、それは突然訪れた。
ぞくり。なにもかもが有耶無耶であった私は、その胸を突き刺さされる衝動に、
忘我の境地から引きずり出された。
見られている。銀髪の少女に。その面持ちは、最初に出会った時の皮相でも、
自らの身の上を語っていた時の微笑でも、
黒髪の少女と死闘を繰り広げていた時の激昂でもない。ただ、静かな、空虚だった。
それは、今まで見てきた彼女のどんな表情よりも、私を怯ませた。そして、少女の口が小さく動く。
「......それなら。お望みどおりにしてやるよ」
少女は右手で流れ落ちる滝のような障壁を造りながら、左手に小さな炎を宿らせた。
それは、今までの戦いで見せてきたものとは、
較べるのも馬鹿馬鹿しいほど貧弱だ。だが、そんなのものでも、死に損ないひとりをこの世から滅却させるには十分すぎるだろう。
その左手から視線をそらせない。私をあらゆる軛から解放する火。私の苦しみを全て焼き捨てる火。私の一切合切の混沌を鎮める......
「お前を殺す火だ」
火が、ちっぽけな火が彼女の手から離れた。一瞬目を閉じる。
そのまま死を待ちたいという衝動を抑えつけ、私は強引に瞼を開いた。
それは、この世界の全てを記そうとする私の、最期の意地だったのかもしれない。
死の瞬間すらも、脳裏に焼きつけなければならない。
意外にも、その世界は緩やかだった。
確かに、黒髪の少女に叩きつけていたものと比べればあの炎の飛行速度は亀のように遅い。
だが、それ以上に、私の中の何かが判断の、逡巡の時間を作り上げようとするかのように、必死に脈動しているのがありありと感じられた。
やめて。もう私は自由になりたい。これ以上の繰り返しは無為でしかない。こんな生に意味なんて......
びりりと、身体全体が、わなないた。
煌々と輝く月が、嘲笑うように君臨していた。無意識に視線だけを動かしてあたりを伺うと、
地面に小さな、子供が焚き火をした後のような焦げ跡が残っていた。倒れたまま、両手を掲げる。
長らく病床にいた腕は経帷子を思わせる白さで、しかし、確かにそれは、そこにあった。
こめかみを濡らす生ぬるい液体が、血ではないことに気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「......それでいい」
頭上から響く声に、不思議と皮相や嘲りはなかった。場違いなほどにそれは、
ただひたすらに、穏やかに響く。
「それでいい、"生きたい"じゃなくたっていいんだよ。"死にたくない"で十分だ」
そして、その声色に、少しだけ湿度のようなものが混ざった。
「......私もそうだった。私もあの時、一瞬の死よりも、永遠の苦痛を選んだ」
「......!」
予期せぬ言葉に、私は痛む身体を反射的に起した。自らの生み出した業火の壁に、
仄白いかんばせを照らされ、彼女はぽつりと告げる。
「......私は、人間だ」
瞬間、炎の滝を突き破り、黒髪の少女の腕が、銀髪の少女の首めがけて槍のように伸びる。
喉首を握りつぶされるかに見えた刹那、少女の左腕が止まった。
銀髪の少女が恐るべき速度で繰り出した右腕が、相手の細腕に蛇のように巻きついていた。
その姿は、絡み合う二頭の竜を思わせる。少女たちの白腕はお互いのそれと組合って微動だにしない。
ぎりぎりぎり。悪夢のような、彼女たちの美しい肢体が壊れていく音が、確かに私の耳朶を揺るがす。
白磁の腕はわずかも経たないうちにどす黒く変色し、手首から先があらぬ角度に曲がっていく。
それでも、二人の目に浮かぶのはただ、愉悦のみ。
「おはなしは済んだのかしら?」
「お蔭様でな」
そして、彼女たちがそれぞれの無傷の腕で弾丸を生み出したとき、
傷だらけの両足が、跳ねるように駆け出した。
もはや、痛みすら感じない。神経そのものが機能を止めてしまったかのように。
銀髪の少女の緊迫した表情が視界いっぱいに広がる。
「なっ、なにやってんだこの馬鹿!」
至近距離から撃ちあいによって吹き飛んだ彼女の細身の下で、
私はなにか喋ろうとして、しかし、喉に引っかかったなにかに妨げられた。
咳と共に吐き出されたそれは、暗い暗い土のうえに、びちゃりと汚らしく貼りつく。
広がっていく赤色を見て、彼女は慌てて立ち上がった。
私はそれが地面に染み入るのを呆けたように眺めていた。
銀髪の少女が何ごとか喚いているのが、霞む視界の向こうに映る。
自分の身体のことなど今はどうでもよかった。
ただ一つ、たった一つ知りたいことが、胸の内から飛び出そうとしているのを、
私は止めることができない。
「......ないんですか」
聞こえなかったのか、それとも質問の意図を読み取れなかったのか。
返された少女の怪訝な表情に、私はもう一度、その言葉を宙に放つ。
「後悔、してないんですか」
虚を突かれたような、予想通り、というような。
少しだけ悲しそうに少女は笑った。
「してるさ」
ぽつり、ぽつりと、語りだす。
纏う炎はその身体中の傷を、清めるように、あるいは奪い去るようにして消し去っていく。
「昨日も今日も、明日も、明後日も、その先も……ずっとずっと私は永遠に、ほんの少しの変化もなくこの身体で生き続ける」
遠くに、黒髪の少女の姿が見える。彼女にとっても先程の傷は軽くなかったのか、
静かに竹にもたれかかっている。
しかしその視線はあくまで涼やかに、銀髪の少女を捉えて離さない。
「それは、転がり続けるこの世界から永久に取り残されるってことだ」
ただ、苦痛だ。その低い声が私の臓腑を震わせる。
「他人と交わることもなく、血を遺すこともなく、生命の終わりはついぞ見えてこない」
淡々と、少女の独白は続く。自嘲も、自己憐憫も、そこにはない。
「……だからといって人間であることをやめることもできない」
それだけ言って、少女は無造作に踵を返す。視線の先には、あの黒髪の少女がいた。
「それでも、これだけは確かに言える」
口元に、獰猛な笑みが戻った。それに向きあう少女も哂う。
「生きていることは、素晴らしい」
少女が蹴った地面が、破裂した。煮えたぎるような風が、私に吹きつける。
狂気なのだろうか。全ての繋がりを喪失し、死神にすら忘却された、あの存在が放つ熱は。
それでも、銀と黒の少女は血しぶきと共に笑いあう。
じくりと左腕が傷んだ。銀髪の少女を受け止めた時、彼女の再生の炎が、
私の枯れ枝のような腕を焼いていた。
熱い。そして、その痛みは、止めどなく体中に広がっていく。
痛みとともに見上げた空で、二人はいつ果てるとも知れぬ闘いを続けている。
ああ、彼女は、どれほどの慟哭を抱えているのだろう。
人の間に生きる私とは比べものにならない孤独。
だが、それでも彼女は人の形を失わなかった。
それこそが、彼女の答えが真であることの、確固たる証明なのだ。
嵐の最中に訪れた一瞬の凪のように、戦闘が僅かな小休止を迎えた時、
彼女はちらとこちらを振り返り、少し驚いた顔を見せた。
私は、よろよろと竹につかまりながらなんとか立ち上がり、彼女の紅眼を真っ直ぐに見据える。
そして、叫んだ。
「私が……!」
痛い。喉が焼けつくように痛い。だが、そんなの知ったことか。
「私があなたとこの先また出会えたらっ」
彼女の目はいよいよ見開かれていく。
地獄のような紅。
私の声は迷いなく、その深みに吸い込まれていった。
「もう一度、あなたの話を聞かせてください!」
僅かな間の忘我の後、皮肉と呆れに一匙の哀しみを混ぜた、実にらしい笑みを彼女は浮かべた。
それとほとんど同時に振り上げた右腕から、炎の帯が生まれる。
全ての星を横切るかのようにそれは、果てしなく彼方まで伸びていった。
「......妹紅」
呻くような少女の低音が、夜空に染み込む。
「私の名は藤原妹紅。あの馬鹿は蓬莱山輝夜だ」
行け、というその視線に私は何ら躊躇無く、紅い道を辿って走りだす。
全身に疼痛を感じながら、その先にある、意味を求めて。
ふらつきながらも懸命に走り去る少女の姿を見つめながら、妹紅は迫り来る破局を感じつつあった。
まぁ、これほどの隙を見逃してくれるほどヤツも間抜けではない。
疎ましげに輝夜の方を振り返る。その一瞬で、光弾の輝きに視界を奪われた。
「あーあ、よそ見なんかしてるから」
二度の衝撃。弾幕の一撃を受け、夜露に濡れる地面に突き落とされた。
あの死にたがりならこれで100回くらい死んでるだろう。
妹紅にとっても、さすがに軽症では済まされなかった。しかし。
「......私の、勝ち、だな」
無理矢理にシニカルな笑みを浮かべ、瞼を開ける。目がくらんでしょうがないが、
輝夜が少し眉間に皺を寄せているのは分かった。
「この竹林を生きて出られたら、ってルールだったはずだけど?」
それはお前が勝手に決めたんだろ、と言おうとしたが、
肺から溢れてくる血が邪魔でどうしようもなかった。
「あの子が挽肉になるまで一秒とかからないでしょうね」
すっ、と輝夜が星を掴むように右腕を空に上げる。光弾が収束する気配が伝わってくる。
だが、妹紅は笑っていた。すでに転生者は、こちらを振り返っていたから。
意外な行動に輝夜が動きを止める。同時に瀕死のそれとは思えぬほどの大声量が、夜空を震わせる。
「輝夜さん!」
出し抜けに名前を呼ばれ、輝夜の不機嫌な表情に怪訝そうなものが混じった。
「......なによ」
転生者は大きく息を吸った。
「今度転生したら、必ずあなたのお話を聴きに伺います!」
そして、再びこちらに背を向けると、未だ夜天を貫く炎の帯を必死に追いかけ始めた。
魂が抜けたような顔をしている輝夜を眺め、妹紅の頬が少し緩む。
「ふ、ふふ、あははははっ!」
さっきの声に負けぬほどの勢いで、輝夜が発作的に笑い出す。
「あははははははは!や、やっぱりあの子も例外だわ!大馬鹿ね!」
相変わらず、ヤツの笑いのツボは良く解らん。
妹紅は身体の回復を感じ取り、上体を起こした。
「ま、私を殺した人間だからな。つまらない筈が無い」
その言葉が笑いに油を注いだのか、延々と輝夜は笑い続ける。
妹紅は結局、いつもようにそれを呆れて眺めていることしかできなかった。
ひとしきり彼女が笑い終えたあと、妹紅は野暮と知りつつ切り出した。
「で、どうする、まだやるのか」
「んー、もういいわ。飽きちゃったし」
奔放な笑顔に、やれやれ、と衣服のほこりを払って立ち上がる。
立ち去ろうとした彼女は、輝夜がこちらをじっと見つめていることに気がついた。
「なんだよ」
「あなたには分かる?」
「何が?」
「なぜ人間が自らの生に理由を求めるのか?」
妹紅は鬱陶しそうに首を振った。
「知るか。大体、アイツに分からないことが私に判るわけないだろ」
細い少し首を傾げると、輝夜は音もなく目の前に降りてくる。
頭ひとつ分くらい低いところから、上目遣いで妹紅を見つめた。
その黒く昏く、深い瞳から思わず妹紅は目を逸らす。
「別に、正しい解答が知りたいじゃないわ。あなたの答えが欲しいだけ」
唐突な上に、自分が答えたとしても、意味があるとは思えない問かけ。
しかし、僅かな時間の後、妹紅は自分が搾り出すようにして、声を発していることに気づいた。
「......不安だから」
輝夜の大きな瞳がさらに拡大される。それは、驚きのようだった。
「人間は自分ひとりじゃ自分がどんな顔してるかもわからない。それ以前に、存在してるのかどうかも」
妹紅は、自分の言葉がひどく穏やかであることに気づいた。
「ちゃんと自分がそこにいるって、いてもいいって。......そういう確証が、理由が欲しいんだろうよ」
輝夜は、彼女にしては珍しい無表情を見せ、妹紅の顔から視線を外す。
そして、夜空に浮かぶ月を見つめて、そのまましばらく動かなくなった。
妹紅も黙ってそれに習う。その薄い銀色の輝きを受け、不意に、輝夜が呟いた。
「......そんなもの、かもしれないわね」
どうやって屋敷まで戻って来たのか、炎を追っていた最中の記憶は見事に抜け落ちていた。
とにかく今、私は慣れ親しんだ書斎の、古びた座机の前で藁半紙と向き合っている。
震える手に、もうすでに感覚は失われている。
見知らぬ人間の身体を動かしているような気持ちになった。
だから、私はどこか他人事のように、自らの腕によって出来上がっていく彼女の肖像を眺めている。
がらりと、引き戸に手をかけた音が、暗中に響く。それで、私の陶酔に似た集中は失われた。
小さくため息をついて、明け方のほの青い光と共に現れる影に目をそばめる。
「......あなたでしたか」
入り口に佇む侍女の瞳が抱く沈痛が、今の自分の姿を示しているように思えた。
「寝室にお戻りください。すでに転生の準備は整っております」
なにかをこらえるような事務的な口調が、少し、私の気持ちを咎めた。
「もう少し、待ってもらえますか。私にはまだ、この身体で為すべきことがある」
「......」
顔を伏せ、口元を噤んだ侍女の目元は青黒く縁どられている。
私は朧のような薄い笑みを浮かべ、苦労しながらもう一度傷だらけの腕を動かし始めた。
「そんな顔をしないでください。私は、消えてなくなりたいわけじゃない」
少なくとも、今は。
こんなことをした後では、説得力のない言葉だと思いますけどね、と付け足し、言う。
「......人がそれぞれの個として生きる意味は、なんだと思いますか」
気づくとこんなことを口走っていた。侍女は顔を上げ、私の顔を驚いた様子で見つめている。
「......どういう、ことなのでしょうか」
筆の運びが、あの少女、妹紅の凛々しい輪郭を、流れるような銀髪を、
その魂の熱を、半紙の上に再現させる。
藤原妹紅。炎を従える、不死の乙女。
混濁した意識の中で私は言葉を紡ぐ。
「私は、この夜でひとつの事を学びました。人は、ひとりのままでは、絶対的な存在の意味を持てない。どれだけの偉業を為そうとも」
侍女が息を飲む気配が、伝わってくる。
「だから、人は、貴女の言う『繋がり』を求めるのです。そうしてそこに、意味が生まれる」
人は螺旋を形成する、ただの部品にすぎない。しかし、その繋がりによって、
誰かにとってかけがえの無い、たった一つの部品になっていく。
もはや独白のように、私の言葉は暗い部屋に放たれていった。
「私は、蛍や他の人間のように、連鎖する生命の上にいるわけじゃない。
だから人として存在する意味はないのかもしれない」
侍女の今にも泣き出しそうな顔が、ぼんやりとした視界の中で浮かび上がった。
だが、それだけじゃない。人を人たらしめるのは存在の意味だけじゃない。
彼女をなだめるように、無意識に口元が柔らかく動くのを感じる。
「けれど今の私には、意思があります。
生きて、生きて、生き延びてなにかを成し遂げようとする意志が」
永遠を生きる少女と、それを突き動かす意志。その物語を、私は書き遺したい。
それが彼女が、私が存在した意味をほんの少しでも生み出せるかもしれないから。
だから。そんな風に口を動かそうとして、ことり、と筆の柄が机を叩く音が耳に入った。
拾いあげるための右腕も、もう動かせない。
苦笑を浮かべようとしたが、それすらかなわなかった。
そして、自分の身体が仰向けに倒れるのを、かろうじて知覚することができた。
侍女が駆け寄ってくる。涙か怒りか、その両方かを堪えようという表情。
―――違います。あなたは私とすら......
悲痛な声が、空虚な身体に響いて消えた。
気づくと、霧は、跡形もなく消えていた。
暗闇の大穴の底にも、竹の葉が遮っているせいであまり芳しいものではないが、
少しづつ光が差し込み始めていた。
今では、ここからでも竹に巻き付いた紅い帯をはっきりと見ることができる。
薄汚れた紅。それは、かつて阿求を導いたものとはまるで別物だった。
「……っ」
呆然とその帯を見上げていた顔を、思わず伏せた。砂利が、無遠慮に頭上から降ってきたのだ。
さすがに髪まで土まみれになるのは許せなかったので、阿求は腹立たしげに頭を払った。
そして、その手がなにか硬いものに触れたように感じたのと、
逆光を纏った人影が穴の底をのぞき込んだのは同時だった。
「……よぉ」
「……久しぶり、ですね」
頭二つ分ほど高い視点から見ると、この竹林の野放図な広大さをあらためて思い知らされるようだった。
阿求は、妹紅の背におぶさり、素っ頓狂な声を上げる。
「あの穴は妹紅さんが堀ったんですか!?」
耳元での叫びに、眉をしかめて妹紅は応じた。
「……いや、あの妖怪兎を懲らしめようと思ってさ」
脳裏を、あの紅い帯がよぎる。
「あんな目印までつけたらバレバレですよ……」
「そうしないと自分でも忘れるだろ。……それに、思わぬ大物がつかまったじゃないか」
表情は見えないが、うまいことを言ったという妙に幼い自賛がその声に感じられて、
阿求は思わず肩をすくめた。
風が竹の葉を揺らす音だけが耳に響く竹林で、不意に、から、という妙に高い音が聞こえた。
阿求がそちらへ顔を傾けてみると、妹紅が肩から下げている帆布のかばんが見える。
かなり使い込まれたその中には、白い紙袋と、
暮れかけている空の光を反射して輝く一升瓶の姿があった。
阿求の視線に気づいた妹紅は、ああ、それはな、と薄笑いを浮かべる。
「里に病人が出たもんで、永遠亭の薬師に薬をもらいに行ったら、輝夜がくれた」
「輝夜さんが?」
「珍しいこともあるもんだ。懐かしい友人に、ってさ」
「友人って……」
ひきつった笑いが、頬に浮かぶのを自覚する。
その気配を感じ取って妹紅は、くく、と押し殺すように笑った。
「ま、あいつの考えなんて推し測るだけ無駄ってもんだ」
なんだか可笑しくなって、二人は竹林中に聞こえそうな声量で笑いあう。
そして、その声が収まったころ、阿求がぽつりと呟いた。
「……これで、妹紅さんには二回も助けられたことになりますね」
おいおい、と呆れた声が頭越しに聞こえてくる。
「さっきのせよ昔のにせよ、お前さんが死にかけた原因に関わっているのは私だぞ?」
だが、阿求は首を振りながら答えた。
「そういうことじゃないんです。......そういう、ことじゃ」
しばらく妹紅は不思議そうな顔をしていたが、よくわらんけど、と途方に暮れたように言う。
「あの幻想郷縁起、っていうのはどうなったんだ?完成したのか?」
「いえ、年々新しい妖怪が現れたり異変が起きたりしてますから、完成することはないんですけれど」
どこか遠いところを見据えるような瞳で、阿求は続けた。
「けど、最近じゃ妖怪と人間も昔では考えられないほど仲良く、
というか馴れ合うようになってきました。だから、そろそろあの書も必要じゃ、
なくなっているのかもしれません」
わたしの、役割も。付け加えるように、消えそうな声で呟く。だが、それは確かに妹紅の耳に届いた。
太陽が、最期の咆哮を上げて、強烈な光を発している。
それが、生い茂る竹林を歩く二人にも長い長い影を与えていた。
阿求は一瞬振り返り、その影を見る。そして、妹紅が口を開いた。
「......お前と私の決定的な違いは、生命を繰り返すことを選べるかどうか、ってことだ。
正直言ってそれはすごく羨ましい。それと、選んだ上で、生き続けているお前を凄いとも思う」
妹紅の長い髪が、そっと阿求の頬を撫でた。
死にゆく太陽を網膜に焼付けようとするように、妹紅は、睨むような目つきで空を見上げる。
「けどな、お前が今度、どっちを選ぶかを、私がどうのこうの言うことはできないよ」
風が吹く。あの時の熱い風を思い出して思わず身構えたが、竹林を吹き抜けたのは秋の始まりを告げる、涼やかなそれだった。
阿求は、安堵と寂寥の入り交じった笑みを浮かべる。そして、冗談めかした調子で、言った。
「......今度は、あの人との勝負がかかっていないから?」
妹紅は、むっとしたような、茶化されたことに対しての照れのような、微妙な顔になる。
「そんなんじゃない。......っていうか、お前、結構底意地悪いな」
「あら、今さら気がつきました?」
阿求のふざけたような悪い笑顔に、妹紅は呆れの混ざった語調で返した。
「......ったく、助けなきゃよかったよ」
ふふ、とどちらともなく忍び笑いが漏れた。
夕日の名残り火を照り返して、竹の節がまぶしく輝く。
竹の春、という季語を思い出した阿求の頭を、その枝が擦った。
妙な違和感を覚え、短く切りそろえられた自分の髪をなでると、その正体はすぐに明らかになった。
背中に落ち着きのなさを感じて、妹紅が不思議そうに問いかける。
「どうしたんだ?なんか無くしたか?」
その言葉に、ほんの少しだけ、阿求は寂しそうに笑った。
「......ええ。でも、大したものじゃありませんから」
怪訝そうな顔をして、なにごとか唇を動かそうとした妹紅は、のんびりとした、
遠雷のような低音が空気を震わせていることに気がついた。
思わず空を見上げる彼女に阿求が、そういえば、と呟く。
その笑顔からさきほどの陰を見出すことは出来なかった。
里の入口に近づき、太鼓だけではなくお囃子の音も少しづつ聞こえるようになったところで、
妹紅は阿求を背中から降ろした。
まだ屋敷まで距離があったが、あまり里の人間に見られたくないという
妹紅の事情を察した阿求がここから歩く、と言い出したのだ。
「いいのか?足、怪我してるんだろ?」
「もう、大丈夫です。それより、またお話を聞かせてもらえませんか?」
わずかに、妹紅の表情が曇った。視線を逸らして、小さく早く答える。
「......それは、今度な。それより、はやく身体治せよな」
その言葉に、破れた着物の裾から覗く赤色を見下ろして、阿求は苦笑いを浮かべた。
「わかりました。......それでは、妹紅さんもお身体に気をつけて」
その必要はなさそうだがな、と妹紅が笑う。つられて阿求も照れ笑いを浮かべた。
そして、どちらともなく踵を返し、阿求は里へ、妹紅は竹林へ歩みだした。
背中越しに、妹紅がよく通る低い声を上げる。
「それじゃ......またな」
少しの間を置いて、阿求も相手のそれよりずっと小さな声で返事をした。
「ええ......さようなら」
夜と夕が、入れ替わろうとしていた。コバルトと茜色の混じり合う、
透き通った空に、あの時よりも少しだけ陰った月が鎮座している。
遠くから聞こえてくる収穫を祝う楽器の響きと、風に揺れる竹の葉の調べ。
それに自分の足音が、ここにある音の全てだった。
瞼の裏の闇の中で、その音を噛みしめるように耳を澄ませながら、阿求は歩んで行く。
不意に、その三重奏が崩れた。どたばた、といういくつもの騒々しい足音と、やたらと楽しそうな高い声。閉じていた眼を思わず開ける。
「阿求せんせー!妹紅お姉ちゃーん!」
寺子屋に通う、子どもたちだった。皆、いつも着ている擦り切れた服ではなく、
きちんと手入れされた着物や浴衣を身につけている。
少し離れたところにいた妹紅もびっくりして振り返る。
ときおり暇を見ては寺子屋に授業に出向いていた阿求だけではなく、
妹紅も竹林に迷い込んだ子供を助けたことが何回かあったので、子どもたちの間では有名人だった。
「おーい!そっちは里の外だ!勝手に行くんじゃなーい!」
そして、無秩序な羊の群れを追いかける牧羊犬のように、妹紅に負けぬほどの長い髪と、
すらりと伸びた背の少女が姿を表す。
彼女はすぐに、2人の存在に気づいた。
「妹紅?それに稗田のお嬢さんまでいるのか」
妙な取り合わせだな、という半妖の少女に、
背の低い阿求は押し寄せる子どもたちの波に溺れそうになりながら苦笑いを返した。
「どうもこんばんわ、慧音さん。......相変わらずみんな元気ですね」
はは、と慧音は少し申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
「すまんな。ちょっとかまってやってくれないか」
そして、子供たちに足元にまとわりつかれ、同じく困惑気味の妹紅の元へ向かっていった。
やれやれ、と思う暇もなく子どもたちの質問攻めが始まる。
里の外でなにをしていたの、お祭りには出ないの、
慧音先生の宿題でわからないとこがあるんだけど......
口々に問いかけてくる姿に阿求は餌を待つツバメの雛を連想した。
「はいはい、順番ね」
呆れながらも、ひとつひとつの質問に、阿求は的確に返答していく。
しかし、見た目の年齢が大して変わらない私が先生づらをしているのは、
はたから見たらなかなか滑稽だろうな、
などと思いながら、彼女は熟練した職人のように鮮やかに、少年少女の疑問を捌いていった。
望んでいた回答を得られた子どもたちは、お礼もそこそこに三々五々散らばって勝手に遊び始めた。
気楽なもんだなぁ、と慧音が必死になってその子たちを追いかけるのを、阿求は茫として眺めている。
そして一瞬気を抜くと、疲れがどっと出てきた。そういえば今日は一日歩きづめだった上に、
あんなことまであったのだ。祭りには顔だけ出して今日は早く帰ろう。
「なかなか堂に入った先生っぷりじゃないか......こら、足踏むな」
うっとおしそうに、しかしどこか照れた表情で周りの子どもたちと妹紅は戯れていた。
疲れが顔に出ないよう気に気を付けながら、阿求は少し皮肉っぽく笑った。
「いえいえ、妹紅さんの人気にはかないませんよ」
うるさいよ、と答えながら妹紅はもう子供に抵抗するのは諦めたのか、されるがままになっている。
「......しかし、お前も変わったな。前はもっと愚直っていうか、余裕ない感じだったんだが」
ま、状況が状況だったからかもしれんけどな、付け加えながら、片手で背中に回った子供をいなす。
確かに、こんな風に寺子屋に通う普通の子供たちとふれあうなんて、昔では考えられなかった。
それどころか、敵同士だった妖怪たちですら、今では茶のみ漫談の相手である。
世界は絶え間なく、思いもよらない方向へと変化していく。それに引き摺られるようにして、私たちも。
それを、目の前の光景は雄弁に語っていた。
じっと、自分を見つめる阿求に妹紅は、言わんとすることをうっすらと察したらしい。
「ふん、それは私もか。全く、しまりがないにもほどがあるな......いたっ!」
妹紅の自嘲気味な感傷は、すぐさま、後ろのいた坊主頭の子供にその滝を思わせる
銀髪を引っ張られることで終わった。
さすがに許容範囲を超えたのか、妹紅は一目散に逃げ出した少年を、
髪の毛を逆立てかねない勢いでで追い回し始める。
慧音の非難も聞かずに駆け出す妹紅を見て子供たちは皆一様に弾けるような笑顔を見せる。
阿求もつられて、見た目相応の幼い笑顔を浮かべた。
それから、奇妙な違和感が彼女の胸裏に突風のように吹きつけた。
視線。その正体は視線だった。おしくらまんじゅうのように一箇所に固まって騒いでいる子どもたち、
それに妹紅と慧音。
そこから明らかに離れた場所から、それは、やってきた。
跳ねるようにしてそちらを振り向く。幼い、阿求より一回り小さいくらいの童女が、
暗がりから阿求を見つめていた。
その瞳の信じられない透徹さに、阿求は思わず身震いする。
吸い寄せられるように、疲れ果てたはずの足はするりするりと動きだした。
次第に、その姿が、満天の星空のように輝く双眸が明らかになる。
そして、阿求は頭蓋の奥から何かが呼びかけてくるような、痛みを伴なう既視感が、
それも今日味わったなかでも最大級のものが訪れるのを、不思議と平静な気持ちで受け入れていた。
少女の容貌が、少しづつ自らの存在を誇示し始めた月に照らされて明らかになる。
その黒曜石を思わせる髪を彩る花を見て、今日感じた既視感の、
全ての根源がそこにあることを、阿求は悟った。
月の放つ青い光に照らされる病的に白い肌。それと対照的に雛芥子を思わせる、
淡く紅い唇が、静かに言葉を紡いだ。
「なぜ、あなたはそこにいるの?」
それは突然だった。だが、その問いかけは遙か昔から課せられていたようにも、阿求には感じられた。
そして、今やその解答は完全に定まっている。
「......私が、ここに存在する理由は」
迷いなく、言葉が口を衝く。
「ありません」
その語調はただただ静かに、ありのままの事実を述べているようだった。
「存在の意味は、繋がりは生まれ落ちた日から失われています。
そしてもはや、私の魂には意志の熱も消え失せた」
あるのはただ、惰性のような生命だけ。なんの意義も、そこにはなかった。
あるいは、この姿こそが今の幻想郷にはふさわしいのかもしれない。
童女は、阿求の瞳をじっと見つめたまま微動だにしない。
弱い風が、その短い黒髪をたなびかせた。
それが合図であったかのように、一歩ずつたおやかに、阿求の方へと歩み寄る。
もう二歩も歩めば身体が触れるほどの距離に近づきながらも、童女の気配はなお希薄なままだった。
そして童女は音もなく、その細い腕を、手のひらを空に向け阿求に差し出す。
阿求はわずかにためらったが、しかし、震える手を彼女のそれに重ねた。
瞬間、阿求の意識は、白く溶けて宙に舞った。
最初の感覚は、かつて川に落ちて溺れた時に似ていた。
あわてて両手をかくが、すぐに呼吸ができることに気がついた。
あたりを見回す。しかし、ほとんど真暗闇でなにもわからない。
ただこの空間が、無限のように広いことは、うっすらと感じ取れた。
延々と、流されていく。なぜか不安や動揺はない。
それからどれほどの時間がたったのかは阿求にはわからなかったが、瞳が、ぼんやりとした光をとらえた。
その光が、具体的な形を現していく。一人の幼い少女がうつむきながら歩いている。
背の高い男に手を取られ、阿求には見慣れた屋敷の門を不安な面持ちでくぐって行く。
それが、御阿礼の子としての素質を見出され、生家から稗田の家に身請けされた自分の姿であると、
そのイメージが消える直前に阿求は気づいた。
転生者として生きるための様々な修行に歯を食いしばりながら耐える姿。
慣れぬ調査に小さくない怪我を負った姿。
同年代の人間に淡い想いを抱く姿。
死の床に着き、なにもない天井を漠として見上げる姿。
そして閻魔の元で、果てしない贖罪の日々を続ける姿。
追憶は、いつまでも続いていく。
規則正しく、機械のように自分の生は繰り返される。
初めて博麗の巫女と出会ったあの雪の日の姿が映る。
あの代の彼女は、今の巫女を見たら卒倒してしまうのではないか、というほどのしっかり者だった。
妖怪に対する命がけの調査。今でこそ、直接話ができるほど人間と近しくなっている妖怪にも、
かつては何度も生命を奪われそうになった。
自分を取り巻く数えきれない人々の姿が見えた。毎日欠かさず食材や日用品を届けてくれた商人、
日がな一日、畑と向き合う農民、妖怪の伝承を伝えるため、度々屋敷を訪れた山窩。
そして、阿求の生活のすべてを支え続けた、幾多の侍女の姿。
どれほど多くの人々と関わりながら生きてきたのか。
際限なく続く出会いと別れの記憶に、阿求は少し、ため息をついた。
暗がりの中に蝋燭の頼りない光が揺れる。
傷つきながらも、なにかに取り憑かれたように筆を動かす過去の阿求と、
それを泣きそうな顔で見守る侍女の姿。
見紛うことなく、あの時のイメージだった。
腕どころか体中震えさせながら、それでも昔の自分は手を止めようとしない。
だが、この後の顛末はすでに思い出している。
その手から握力が失われ、使い古した筆が転げ落ち、細い身体が板の間に倒れこむ。
そして侍女は走り寄ってきて叫ぶのだ。
―――違います。あなたは、私とすら......
「繋がって、いるのです」
阿求の目が見開かれた。蛍の儚い光を見た彼女が呟いた言葉の意味。
それは、阿求が考えていたよりも遙かに大きなものだった。
血の繋がりや、その身体がどこへ還ったかという、生命の連鎖だけを指してはいなかったのだ。
繋がりとは、そう、こうして手と手をとりあうこと。
たったそれだけで、人は繋がりを、自分自身の存在の意味を持つことができる。
―――それならば、私にも、きっと。
完全に日の落ちた秋天の、湿気を含んだ風の中で、阿求は立ち尽くしていた。
あのイメージも、童女も、全ては消え去っていた。
あたりではまだ妹紅と子供が騒いでいる。あれから時間はほとんど経っていないようだった。
伸ばした腕の手の中に、あの日の髪飾りが古ぼけながらも、未だ鈍い赤光を放っている。
阿求はそれを胸元でそっと握りしめた。
ふと、向こうの方が騒がしくなる。
坊主頭の子供の襟首を捕まえて持ち上げている妹紅の姿がそこにはあった。
集まってくる子供たちはやし立て、それを見た慧音は子供たちと妹紅の両方に、
人差し指を掲げながら注意を与えている。
妹紅の嫌そうな、しかしどこか照れくささをはらんだ表情。
その姿が視界の中で、すこしづつ滲んでいった。
変わらないものなどない。不老不死の身体を持とうとも、同じ身体に生まれ同じように成長し、
同じように死ぬとしても。
変わりゆくものとの繋がりを持っている限り、それは不変ではないのだ。
そして、誰しも誰かとの繋がりを持たずに生きることはできない。
血も骨も肉も、どれだけ孤立した身体であっても。
魂は、つながっている。
祭囃子がだんだん大きくなっていく。祭りもいよいよ盛り上がりに差し掛かっているようだった。
慧音に連れられ、嵐のように去っていった子供たちをため息混じりに見送りながら、妹紅は呟いた。
「やれやれ、とんだ災難だったな」
そして、ふと阿求と眼があった。
「......? 私の顔、なにかついてます?」
「い、いや......」
思わず眼をそらしてしまった。なんだ、なにか全然雰囲気が変わっている気がする。
あんな風な顔をするヤツだったか?
うーむ、と考え込んでいる妹紅は、阿求の呼びかけに反応するまで少し時間をかけてしまった。
「妹紅さん妹紅さん」
「......どうしたんだ?」
「妹紅さんのお話、今晩伺ってもいいですか?」
急な提案に、妹紅は少し驚いた。
「なんだ藪から棒に。それにお前は身体が......」
「大丈夫ですよ。もう、それは、大丈夫」
笑顔。花が咲くようなそれは、いつもの皮肉と厭世がどこかで燻っているものではなく。
見とれてしまった妹紅に、選択肢は残されていなかった。咳払いをひとつ。
「......しかたないな。ま、たまにはお屋敷のいい布団で寝るのも悪くないか」
ありがとうございます、と大きくうなずいた阿求は、すぐさま妹紅の右手をとった。
「善は急げ、ですよ。せっかくですしお祭りにも行きましょう!」
走りだした阿求に苦笑いを返しながらも、妹紅は彼女のそれより長い脚で苦労して歩調をあわせる。
繋がれた手に、穏やかな熱を感じながら。
「これから埋葬される死体の気分ですね」
寄りかかった土の、ひやりとした感触のそれらしさに、思わず苦笑が漏れる。
これも書に記すべき、貴重な経験といえるのだろうか。
阿求は迷いの竹林の、唐突に開いた穴の底で途方に暮れていた。
実地調査のために竹林へ行くのは、この身体に生まれ変わってから数えても、
初めてのことではなかった。
今までも幾度となく、このやたらな本数の竹で構成される迷宮で遭難しかけることがあった。
しかし、阿求の記憶力を以てすれば全ての竹の配列を覚えることすら造作無いことだ。
たとえ妖怪兎と出会えないとしても、運不運関係なしに人里へ帰ってくることができた。
だが、今回は調査の始めから嫌な感覚を振り払えずにいた。
先程から、水なのか汗なのかよく分からないものが顔中に纏わりついている。
拭っても次から次へと水滴がつくので、不快感に関しては諦めた。
だから、視界を遮るのは勘弁してほしい、
と阿求は心中でいるのかどうかもわからない霧の主に乞い願う。
この霧が数刻前、出し抜けに漂いだしたおかげで、
別にいいと言っていたにも関わらずついてきた護衛ともはぐれ、
すでに小一時間はひとりでさまよっていた。
だが、彼女が本当に参っているのはそのことではない。
「......っ」
思わず、眉をしかめ立ち止まる。この竹林に入ってから幾度となく味わった感覚。
見えないなにかに殴りつけられたように視界が揺れる。
不定形のイメージが脳裏で跋扈した。足元がふらつく。
自分がどちらを向いているのかも分からない。力なく湿りきった地面に座り込んだ。
数秒後、なんとか冷静な思考を取り戻した阿求の口から、忌々しげな言葉が漏れ出す。
「既視感、というやつですか」
デジャヴ。この概念の正体について言及された文献を、阿求はいくつか読んだことがある。
それらの著者曰く、左右の眼で物を見るとき僅かな時間差があることが原因だとか、
知覚と認識でズレが生じているために起きるのだと言う者もいた。
そして一般の人々のあいだでは、妖怪の仕業というのが通説である。
だが阿求は、自分にとってのそれは前世の不定形な残滓が引き起こすもの、と考えていた。
何度も転生を繰り返してきた阿求だが、今までの身体で経験したことを全て記憶しているわけではない。
むしろそれらの大部分は、生と死の狭間を行きかううちに藻屑となって消え果てていた。
そのもやもやした何かがなんらかの理由で消えずに残り、
蓄音機の演奏が終わった後の部屋に漂う残響のように
自分の意識を惑わしているのではないか。
……もっとも、いま感じているのは、そんなにぼんやりしたものではなかったが。
以前来た時はこんな感覚に襲われはしなかった。
思い当たる原因としては、この霧くらいのものだろうか。
しかし、阿求はそれ以上考えることを止め、かぶりをふって歩き出す。
惑わされるのは方角だけで十分だ。心まで乱されてはたまらない。
その時、全てが霧の白さに包まれた視野の端に、明らかな異物が映った。
「......?」
ぼんやりとした違和感。それに吸い寄せられるように阿求は無意識に近い足取りで歩み寄る。
その正体がおぼろげに見えてきた瞬間、いままで闇夜の大海に突き落とすような感覚で以て、
漠然と阿求を苦しめていた既視感は突如鋭い痛覚となって襲いかかってきた。
頭蓋に直接電流を流されたような衝撃に、身体が跳ねそうになる。
「っ、はッ」
意味を持たない呻きが勝手に肺の底から飛び出した。
ふらり、地面に手をついて倒れこみそうになるが、なんとか這い寄るようにして前に進む。
必死に意識を保ち、視界を上げる。もう霧の中であっても、はっきり見えるようになっていた。
それは竹に巻き付いたうす汚れた紅い帯だった。見たところ、何の変哲もない。
だが、阿求にはそれがこの既視感の磁場を作り出している根源だと、直観的に理解できた。
揺らぐ身体をなんとか抑えつけ、一歩、また一歩とその帯へと近づく。
異変が起きたのは、もうわずか進めば紅い帯に手が届く、そんな時だった。
不意に、屋敷の階段を踏み外した時に感じる嫌な浮遊感を右足に覚えた。
ついでその感触は全身へと伝播する。落下、暗転。
悲鳴をあげる間もなく、阿求は背中から地面に叩きつけられた。
同時に、鶏が締められる時のような声が出た。
あたりを見回すが、真っ暗で、真上を見ると、真っ白な靄が漂っていた。
こんな時にも妙に冷静な頭脳が、瞬時に現状を割り出す。
おそらく獣か何かを捕らえるために誰かが掘った落とし穴に、
私は間抜けにもはまってしまったらしい、と。
そういった仕掛けの底によくある、毒を塗った杭だとかそういうものがなかったのは
不幸中の幸いだった。
だが、どういうわけか相当深くまで掘削されたこの穴からは、とてもではないが自分ひとりの力では
抜け出ることはできそうもない。叫び声を上げようかとも思ったが、穴に落ちる前から
護衛の者を探すために自分が何をしていたかをすぐに思い出し、体力の無駄だと悟った。
冷たく濡れた地面に座り込む。落下するときに土まみれになっていたので気も咎めなかった。
膝を抱えて、深々とした嘆息をつく。
これからどうしようかということよりも、多分落とし穴の目印だったのだろうが、
なぜあんな帯切れに引き寄せられてしまったのか、
そのことがどうしても引っかかっていた。もう一度頭上を見上げてみたが、
くだんの帯は霧のせいでここからは見えない。
目をつぶって、落ちる前の記憶を引っ張り出して検証してみる。
阿求の記憶力は、写真機に例えられるほどの精緻さを持っており、
さらにそれをいついかなる時も思い起こすことができた。
帯のことも、落下の衝撃に耐えて鮮明に記憶されていた。
遠くから見たときの映像。特に何の違和感もない。
少しづつ近づいて行く映像を確認しても、特にそれが天人の衣だとか、
なにか魔術的な代物であるとかそういうことはなかった。
首をかしげ、そして何回もその記憶を精察するが、結果は同じである。
「ただの、紅いだけの帯」
口をついて出た言葉で、なんとなく納得した。
おそらくは、あまりにも代わり映えしない景色が続いていたので、
視覚が変化や刺激に飢えていたのだろう。そしてつい後先考えずに飛びついてしまった。
それだけの、実にくだらない思い込み。これはそういうことだと理解した。
太陽か、竹林か、霧かが気まぐれを見せて、暗い穴の底にわずかな光を差し込むまでは。
「......っ」
所在なさげに上に向けていた眼を、思わず伏せた。
一瞬で、穴の中が明るくなる。その穴が、思ったより広いものであることが白日のもとにさらされ、
一体どんな獣をとるつもりだったのやら、と阿求は少し呆れた。
そして、確認のために自分の身体を見下ろしてみる。
落ちた時に動かしてみた感じではおかしくなっている部分はなさそうだったが
、阿求の身体は常人と比べてもそこまで頑丈ではない。
幸いにも目立つ怪我はなかったが、落下したときになにかに引っ掛けたのか、
着物の左袖が袖から肩口あたりまで裂けてしまっていた。
結構いい値段だったんだけどな、とまたしてもため息をつくと、
ぼろ布のようになった袖をまくりあげる。
「え」
息が、できなくなった。心臓が跳ねる音が聞こえる。
白磁のような腕に出来たすり傷から滲み出した血が、着物にこぼれ落ちて、
模様の赤い椿をより濃厚な紅に染めた。
そうだ、重要なのは、帯じゃなかった。傷じゃなかった。......形じゃなかった。
「紅色」
体中から押し出されるようにして、紡ぎだされたのはそれだけの言葉だった。それだけで十分だった。
それだけで阿求は、忘却の海から、巨大な獣が明確な形を伴って現れる音を、聞くことが出来た。
ひたすら、飽いていた。何万回と見た天井の格子も、
床の間にずっと飾られている霊験あらたかだという短刀の鞘の無愛想な黒さにも、
右足の踵のあたりにほんの少し感じられる畳の反り返りにも。
きっと過去の自分もこうして色々なものに飽きながら世を儚んでいったのだろうと、
私は根拠のない確信を抱いていた。
寝返りを打ち、草いきれが強くなってきた庭先を眺める。
ふらりふらりと蛍の光が何条か、頼りない明滅を繰り返していた。
特に意図も持たず、というか難しい事を考える精神的余裕も無いのだが、
その光を見つめていると、ほんの少し、しかし規則的に床が震えるのを感じる。
振動は徐々に大きくなっていく。
最初は一定のリズムを刻んでいたそれは、私の寝室に近づくにつれて少し躊躇するように小さくなった。
そして頭脳は無意識に、家に仕える数人の侍女たちの中から足音の主を見つけ出す。
ああ、おそらく彼女だろうな、とあたりをつけたところで庭に面した廊下から、
緊張をまだ幼さの残る容貌にたたえた少女の姿が現れた。
「やはり、ね」
「え、な、なにがでしょうか!?」
年若い侍女は挨拶も忘れて、うわずった頓狂な声を上げた。
頬を赤く染め、お盆に載った冷菓子を取り落としそうになっている。
転生の準備に人手が必要になったため新たに雇い入れた、と家の者から彼女を紹介されたのは、
いつになったら止むのかと呆れるほど雪が降っていた去年の冬のことだった。
当初からどこか危なっかしい、浮世ずれしていない感じがしたので、
果たしていつまで持つのやら、と私は自分の身体の事も棚にあげて考えていた。
しかし、意外にもこの紅顔の少女は外見に似合わず意地っ張りというか、
こうと決めたら譲らないところがあったらしく、不器用ながらも今日まで懸命に私を支えてくれている。
そして、一日のほとんどを床の中で過ごすようになった今となっては、
彼女の身の上話を聞くことが私の数少ない娯楽になっていた。
疑問符を顔中に張り付けている彼女に微笑を向けると、彼女はおっかなびっくりお盆を畳の上に下ろし、
自らもその側に正座してお辞儀した。私は、わざと気を抜いたように、脈絡もなく話しかける。
「こんばんは。先週の話の続きをしてもらえませんか?」
「せ、先週の話でございますか!えぇっと......」。
「あなたの父が三ヶ月ぶりに山から降りてきて、なにやら良く分からない怪鳥を仕留めてきた、
という下りまでは聞いたのですが」
ああ、と驚いたように手を打った。
そして、彼女は緊張でところどころ詰まりながら、
しかし話の興が乗るにつれてその舌も少しづつ滑らかになっていき、
家族と故郷の話を面白可笑しく聴かせてくれた。気がつくと結構な時間が経っていて、
時間の流れが早いと感じることなどいつ以来だろうなどと思い起こしてみると、
先週彼女の昔話を聞いたときが最後だったことに気づいた。
ちょっとおかしくなって、私が寝間着の袖で口元を抑えるようにして笑うと、
彼女も自分の話が受け入れられたその安心と喜びを表すような、大輪の笑顔を浮かべる。
一瞬見とれてしまったことを隠すために、私は彼女が運んできたお盆を話題にすることにした。
「愉快なお話でした。ありがとう」
「滅相もございません。勿体無いお言葉で......」
「私もなにかお返しをしなければなりませんね。そう、光る水羊羹の話、
なんていうのはいかがです か?」
不思議そうな顔をした彼女に、私は視線で答えた。
「......ああッ! も、申し訳ございません! いますぐ取り替えてまいりますっ!」
厨房の者が、丹精を込めて作ったであろう水羊羹の上に、
一匹の蛍がその身を休めるようにしてとまっていた。
その黒い身体が羊羹で見えにくくなり、本当に羊羹が光っているように見える。
青い顔になった少女の必死な手に払い落とされて、光は縁側へ転がり落ちた。
落ちた光には目もくれず、彼女は厨房へ向けて走りだそうとする。私は、ほとんど無意識で呟いた。
「構いません」
「え? ですが......」
「結構です。あまり、食欲もありませんし」
「わ、わかりました。そのようにいたします......」
眼を伏せ、言いよどんだ彼女の眼が、ここ二日間ばかり私が
水しか口にしていないことに対する心配で曇っているのがわかった。
彼女のその性格が、生来世話焼きで少しお節介であるということは、
何度か交わした会話の中ではっきりわかっている。
そんな彼女の好意を無下にして、すこし後ろめたくなったのか、
私は気がつくとくだらないことを口にしていた。
「......ねぇ」
「は、はいっ!?」
突然の呼びかけに、彼女はまたも驚嘆の表情を見せてくれる。
見ていて退屈しない、ということは私にとってはなにより重要なことだ。
視線を庭に向けながら私は続ける。
蛍というものがあの姿になってからどのくらいの間生きるものなのか、知っているか、と。
「蛍ですか。うーん」
真剣に悩むような表情を見せる少女。眉間に皺を寄せてしばらくのあいだ唸っていたが、少しして、恐る恐る、という感じで回答を出した。
「......一ヶ月、くらいですか?」
おそらく彼女は蛍を見ることができる期間で推測したのだろう。残念だが、それは誤りだ。
蛍は一生のそのほとんどの時期を、醜い水棲昆虫として過ごし、
最後の一、二週間だけ瞬く光で夜空に線を引く。
そんな他愛の無い、まるで生きる上で役に立ちそうもない知識にも、
彼女は持ち前の素直さでいちいち大げさに驚いてくれた。
「なるほど、蝉や蜉蝣のようなものなのですね......」
一年、種類によっては何年も暗い地を這い、冷たい水の中で過ごして最後のわずかな期間だけ、
空を飛び、大いに鳴き、輝くことを許される。
小さな虫とはいえ、なかなか悲劇的な宿命だと思いません?
ほんの少し口の端だけで皮肉げに笑って彼女のかんばせを覗くと、
なぜか意外そうな顔を向けられていた。
「......私には、そうは思えません」
何故?この上なくシンプルな問が口をついて出た。病気で頭が回らない、とか、
そういうことではなくこれは純粋に分からない。
何故彼女がそのように考えたのか、なんだかやけに気になった。答えを急かすように、
彼女の切れ長の眼をじっと見つめる。
だが、即座に彼女は主人の意見に異論を差し挟んでしまったことに気がつき、すごい勢いで頭を下げた。
「す、すっ、すみませんっ! 出すぎた真似をいたしました!」
私は、柔らかい笑みを作って、いいからなぜそう思ったのか教えて欲しい、と、努めて穏やかに促す。
しかし、彼女はなかなか顔を上げようとはしなかった。私はなにやら胸がむかむかしたが、
その感覚が苛つきであることを思いだすのに少し時間がかかった。
なんでもいいから、早く教えて欲しい。先程よりも強い調子で言うが、
依然頭を畳にこすりつけたままでいる彼女を見て少し呆れたような気持ちになった。
布団から起き上がってたしなめようとした時、彼女は出し抜けに大きな声をだした。
「申し訳ありません!わ、わからないのです!」
わからない?そんなはずはないだろう。私が次の言葉を紡ごうとした瞬間、
彼女の必死の声がそれを押しとどめた。
「わからないのです!この考えを、言葉にするとどうなるのかが!」
はぁ。一つ、嘆息する。この子が並外れて不器用なことを忘れていた。
私は諭すような、諦めたような口調で呟いた。
なら、あなたの考えがまとまるまでここで一緒に庭を眺めていましょう。
彼女はひたすら恐縮していたが、庭を見つめたまま黙り込んだ私を見て、
観念したようにぎこちない動作で蛍の群れに視線を移した。
小さいけれど鮮やかな、提灯や洋灯の穏やかなそれとはまた違った光を夜空に映しながら、
蛍はじゃれあうようにして舞い続ける。
私はその光の流れを眼だけで追い、少女はといえばさっきから射殺すような勢いでそれを見つめていた。
またあれからしばらくたったが、未だに彼女の考えは定形を持てないらしい。
私も彼女のそれに思いを馳せてみたが、ついぞ解らなかった。
無為で、儚く、それでいて人の心を捉える刹那の光を放つ。
そして、ただそれだけのために地の底、水の底で長い長い雌伏の時を過ごす。
そういうものではないか。そういうものではないか、蛍は......
ふっと、ひときわ高いところを2匹で絡み合うように飛んでいた蛍の灯が、
明け方の星のようにあっけなく消え去った。
暗すぎてはっきりとは分からないが、どうやら空中で衝突し、力尽きて地面に叩きつけられたらしい。
死にはしないだろうが、おそらく、あの二匹はもう二度と空を飛ぶことはないだろう。
確信めいたものが胸中をよぎった。
そして、限界まで前かがみになって血眼で蛍を凝視していた彼女が、
突然ぽつりと呟いたのはそれと同時だった。
「......繋がっているから」
一瞬言葉に詰まって私は、どういう事ですか、と疑問を呈しようとした。
だが、彼女の口は、今までの沈黙が嘘のように淀みなく、穏やかに動く。
「ずっと長い間苦しみが続いて、ほんの一瞬の輝きの後に失われる生命でも、その生命は他の生命に繋がっているから、きっとその営みは無駄ではないと思うのです」
......あの二匹は子をなしていたのでしょうか?
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。けれど、それは大きな問題ではないのです」
何故?
「たとえ血を残さずして行き倒れるようなことがあっても、その骸は新しい生命を宿す苗床になります。
それで、その生命は、他の生命と繋がったことになるのだと思います」
......
私はなにも言わずに、視線を庭から煌々と輝く満月へ移した。
彼女も黙って、蛍などよりもよほど強い光を見せるそれを、さっきよりも幾分楽な姿勢で見つめていた。
それから、ほんの少しだったのか、数時間だったのかは分からないが、先に口を開いたのは私だった。
「......実にあなたらしい。素朴で、素直で、けれど力強い考え方です。
よい話を聴かせてもらいました」
「いえ、とんでもございません」
私は、するりと布団から這いだすと、枕元の飾り箱をとった。
突然起き上がったので、彼女はちょっと慌てたが、制止の声が掛かる前に
私はそれを座っている彼女の足元にすっと差し出した。
中には、いつも外出の時に着用する乙女椿の髪飾りが入っていた。
「これを」
「え......」
「お礼です。先程のお話の分もあわせて、ね」
「そ、そんな、いただけません......」
「では、あなたがもらってくれる気になるまで、私は庭先を散歩でもしていましょうか」
私が少し意地の悪いことを言うと、彼女はこらえるようににうつむいていた。しかし、本当に私が立ち上がる仕草を見せた時に、平伏しながら少女は叫ぶ。
「あっ、ありがとうございます! 家に持ち帰り、家宝と致します!」
震える手で飾り箱を受け取ると、ひたすらこちらに頭を下げる。
私は苦笑いを浮かべて、もう下がっても良い、と伝えた。
彼女は立ち上がりもう一度深々とお辞儀をすると、すこし興奮したような早足で部屋から退出した。
ふ、と少し笑って布団をかけ直す。そろそろ休もうかと、
枕元の小さな灯を消すと、暗闇と沈黙がいつものように部屋に戻ってきた。
眠れないのはいつものことだったので、自分の眼が暗さに慣れるのをじっと待っていた。
とはいえ、見えるのはいつものように馬鹿に規律正しい天井の格子だけで、
別段面白いものではないのだが、しかし全くの暗闇よりかはいい。
なんとなく、縁側の方へ身体をよじると、
先程少女に水羊羹から払い落とされた蛍がひっくり返っていた。
まだその脚が痙攣するように動いていて、息があることを主張している。
しかしそれもあまり長くはなさそうだ。
光ることも飛ぶこともできずに、それでもその蛍は懸命に起き上がろうとしていた。
その営みに、意味はあるのか。
私は、いつまでもその蛍を眺めていた。
あたりは一面、暗闇だった。だが不思議と自分の体は良く見える。
私は一寸先も見通せない闇の中を、かき分けるようにして歩いていった。
足元は案外しっかりしていた。なにか確信めいた感情を抱き、
一歩一歩踏みしめるように、どこかへ向かってただひたすらに進む。
しばらく歩くと、闇の奥から、鈴の音に良く似た、透き通る音が脳裏に響いた。
すると、唐突にあたりが明るくなる。光は、足元から湧き立つようにして次々と現れた。珠のような光がいくつも、次から次へと闇に舞い上がる。
光の中には、直視出来ないほど眩しいものもあり、
今にも消え去ってしまいそうな弱々しいものもあった。
宙を漂うそれは、最初全く無秩序に振舞っていたが、しばらくすると、
一部の光が地面の二箇所に集まり始めた。
次々と光は集結し、やがて巨大だが点に過ぎなかった光の集合体は、
繭から紡がれる絹糸のように線となって、二つの地点から弧を描くように上方に伸びていく。
最初は緩やかに、小さな輝きをその身にたたえながら規則的な軌道を描いて空を舞っていた二本の線は、上昇するにつれて強く、鮮やかな光を放つようになった。
二つの光は、大樹に巻き付く二頭の龍のように、ぐるぐると回りながら飛んでいく。
その光は、決して交わることはなかった。だが、離れることもない。
二つ、それぞれの姿を保ちながら、寄り添って遙かな虚空の先に向かう。
二つの光の線が織りなす螺旋が果てしない空を目指すのを、私はただ呆然と見上げていた。
首をどれだけ傾けても天辺が見えないほどに螺旋が伸び上がったとき、
胸が急にずきりと痛んだ。私も、あの螺旋に、触れなければいけない。
思った瞬間、両の脚は地面を蹴り闇を裂いて走りだしていた。
何故か、いつものように息が切れることもなく、私はどこまでも駆けることができた。
だが、一向に螺旋は近づいてこない。それどころか、少しづつ遠ざかっているような気すらする。
いや、遠ざかっているのだ。長大な螺旋が、小さくなっていく。
私は必死に足を運び、手を伸ばした。そんなことに、意味なんて無いとどこかで悟りながら。
光が、消えていく。ほとんど、半狂乱になりながらそこへ向おうとする。
わずかな瞬きの間に、光の螺旋は最初から存在しなかったかのように消え失せた。
全てが失われた闇の中、私はひとり立ち尽くしていた。
ひどい発作が私の意識を夢から引き剥がした。いつもならば忌々しいことだが、今回は感謝してもよい。
寝汗がひどかったので、侍女を呼ぼうとしたが、
肺が、まるで自分のものでなくなったかのように暴れて、それどころではなかった。
すぐさま、私のけたたましい咳を聞きつけて、数名の侍女が飛んでくる。
断続的に、頭痛と吐気に加えて、全身の関節がバラバラになりそうな痛みが私の身体を襲う。
朦朧とする視界に、大急ぎで侍女たちが応急治療の用意をしているのが見えた。
その中に、冷水の入った桶を抱えるあの若い少女の姿もある。
今にも泣き出しそうな顔で、濡れ布巾を絞っていた。
そんなことをしても何の意味もないと、言葉を発する力があれば言ったのかもしれない。
少女は私の枕元に近づいて、布巾で私の顔をぬぐう。そして、必死な顔で私になにかを呼びかけた。
かなり大きな声のようだが、それを聞く余裕も無い。
そのうちに彼女の姿は他の侍女に押しのけられ、見えなくなった。
私はひたすら、この嵐が過ぎてくれることだけを願っていた。
あまりの激痛に気絶するように眠り、目が覚めたのはそれからしばらくしてからであった。
どうやら、まだ夜のようだ。
枕元に控えていた侍女たちが、驚いて口々に私を心配する言葉をかける。
あの少女の姿はその中にいなかった。
すぐに侍女たちの長が、それらを制止し、医者を呼んでくると言って他の侍女を引き連れ寝室を出た。
布団から這い出し、閉められたふすまを解き放つ。すると、すぐに涼やかな風が流れ込んできた。
蛍の光はもう残滓すら残っていない。
おそらく、外の光景を見るのはこれが最後だろう。もうこの身体も長くはない。
この後は転生のためにしつらえられた座敷で、次なる生への準備を続ける日々が始まるのだ。
仮初の死を待つ日々が。
なんとはなしに、足元を見てみると、あの蛍の姿が無いことに気づいた。
慌ただしく入ってきた侍女たちに踏み潰されたのか、
それとも力を振り絞ってどこかへ飛んで行ったのか。
ふと、あの少女のことを思い出した。彼女の考え方なら、どんな形にせよ、
きっとあの蛍は他の生命と繋がったのだろう。
私は、きっとそうではない。私の生命は、自らの尾に噛み付いた蛇のような、閉じきった環なのだ。
他者と交わることもなく、ただひとり行く。転生すれば、
きっとこんな風に考えたことも忘れてしまうだろう。
私に尽くしてくれた、ひとりの田舎者の少女のことも。
どれだけ山のような書をなしても、私はそんなことすら憶えていることが出来ない。
気がつくと、件の魔よけの短刀を手に取っていた。
そして、薬箱の底に隠し持っていた強心薬を何錠もおもむろに頬張る。
たちまちのうちに呼吸が荒くなり、心臓と、肺が痛み出した。
しかし、冷え切っていた身体は少しづつ熱を取り戻している。
どうにかまだ、この身体は動いてくれそうだ。少しふらつくが、なんとか歩くことくらいはできそうだ。
私は静かに、草履に足を通す。もうしばらくもしないうちに侍女たちが医者を連れてくることだろう。
「......おしまいにしましょうか」
屋敷に向きあって、そう呟いた。
誰にも、邪魔されず、見とられず。そういう場所が自分にふさわしいと思った。
足は自然と、迷いの竹林の方へ向かう。
迷いの竹林は、人間の里から見て、妖怪の山と反対側にある場所だ。
似たような景色ばかりの上に竹の成長が早いことから、
あまりにも迷い易いので里の者は立ち入りが禁じられている。
その上最近では妖怪が現れることも珍しくない。
うっかり入り込んだら、よほどの強運がない限り、抜け出せない場所。それが、この竹林だった。
私は、入り口にあった警告の看板を無視して、
生い茂る竹の群れに向かって進んでいった。思ったより大した感慨もなかった。
正確な時間はわからないが、月の高さから見てもう丑三つ時は回っているだろう。
かすかな虫の鳴き声と、時折思い出したように奇妙な叫び声を上げる鳥、
それに絶え間なく響く竹の葉がこすれる音。それがこの場所で聞こえる音のすべてだ。
見えるものはといえば、特に言う必要もないだろう。
全く無個性な竹が、空に向かっててんでバラバラに成長している。
どれもこれも、昔調査に来た時となにも変わりはない。
あの時と違う事といえば、私が屋敷に帰る意思を持っていないことくらいのものだ。
ふと、懐に入った短刀を取り出してみる。その黒光りする鞘から、冷たく輝く白刃を抜き出した。
お守り以上の用途に用いたことはないので、
いかにも古そうなこの刃が使えるのかどうかは素人目にはよくわからなかったが、
少なくとも切っ先の鋭利さは十分なものだろう。
納得して、刀を鞘に収める。事を起こすにしても、もう少し奥まったところでやりたいものだ。
人も妖怪も、何も入ってこれないようなところで、誰知れず消えたいと思った。
なので、竹林を当て所なく進む。私はまるで夢のなかにいるような、現実味のなさを味わっていた。
ぼんやりとした空虚の中で、惑いながら歩く。思えばこの身体に生を受けてから、
ひたすらなにかの為に生きてきた。
御阿礼の子は寿命が短いので、人生における『遊び』のような部分がほとんどない。
目的を持たない行動に費やす時間はないのだ。ひょっとすると、
こんな風に無為な時間を過ごすのは、生まれて初めてのことかもしれない。
「まぁ、思ったよりかは悪く無いですね......」
枯れた喉で、かすれたひとりごとを呟いた。風が、さっと頬をなでた。
不意になにか、違和感を覚えた。弛緩しきっていた身体が急速にこわばる。
今までになかったものが、現れた感覚。
全てを記憶する私の能力は、状態の変化に気づくことにも効力を発揮する。
なにもかも憶えているがゆえに、わずかでもなにかがなくなったり、増えたりした場合、
すぐにそれに気づくことが出来た。
今増えたのは......
ざりっ、と枯れた竹の葉が踏み潰される音。私のものではない。つまり、そこに誰かいる、ということ。
一瞬妖怪かと思ったが、それはないとすぐに自分で否定した。
人間を襲う妖怪は軒並み、空を飛ぶ能力を持っている。
だから、わざわざ歩いて人を付け回すなどという面倒なことをしなくともよいはずだ。
ゆえに、私はその音を、私を探しに来た追っ手が無用心に立てた音であると判断した。
たったひとりというのは気になるが、
おそらくは私の急な出奔に慌てて、組織的に捜索するという余裕がなかったのだろう。
足音が、背後から少しづつ近づいてくる。竹という木の性質上木陰に隠れることなどは出来ない。
なので振り向けばすぐに追跡者の正体はわかる。
だが、そうなったら向こうは一気に取り押さえにかかってくるはずだ。
まともに揉みあっては瀕死の病人に勝ち目など無い。
ゆえに、ここは気がつかないふりをしておくことにした。
自分の体で相手の視線から死角を作り、短刀を抜く。
殺さなくとも、戦意を奪うことくらいは私にでもできるだろう。
いい加減、私は終わらせたいのだ。恐怖はあったがそれ以上に、
私がこんな無為を続けることにどんな意味がある、と相手を怒鳴りつけたい気持ちが勝っていた。
次第に大きくなる足音に耳を澄ませながら、響いてくる音の感覚からおおよその距離を測る。
私の歩幅にして十歩前後。
九歩、八歩、七歩。全く気がついていないのか、それとも気づかれてもなんともないと侮っているのか、無造作に相手は距離を詰めてくる。
六歩、五歩、四歩。少しづつ、後ろからの息遣いが伝わってきた。
相変わらず、相手からなんの緊張も感じ取れなかった。まるで散歩でもしているかのようだ。
三歩。いよいよ相手は近づいてきた。二歩。極度に集中しているためか、一秒が随分長い。
一歩。相手が私の肩に手を伸ばそうとするのを感じる。
ぐるり。呼吸を止めると、私は後ろにあった左足を軸に百八十度回転し、追っ手と相対した。
短刀を上半身全ての力を掛けて固定し、相手の目も見みないで懐に飛び込む。
永遠にも思えた僅かな間のあと、刃ごと自分の身体が相手のそれに沈み込むような感触を覚えた。
瞬間、まずい、と思った。あまりにも綺麗に刺さりすぎた。
呻くような小さな声がなにごとか頭の上から聞こえ、相手は短刀を体に残したまま真後ろに転倒した。
その姿が、満月の強い明かりの下にさらされる。見たことの無い少女だった。
眼は見開かれ、ぴくりぴくりと動いているが明らかにそれは痙攣で、
なにより短刀が刺さっている場所が彼女の運命を物語っていた。
左胸の真ん中に漆塗の短刀の柄が、その姿を誇示している。
もはや、脈を取るまでもないだろう。
完璧に彼女は死んでいた。否、私が、殺した。
彼女の胸から、火山から流れ出る溶岩のような勢いで血が吹き出し、
地面に染み込んでいった。手の震えが止まらない。
自分自身に対する嫌悪感で胸が満ちるのを感じながら、それと裏腹に少し安心もしていた。
相手の容姿を見ると、どう見ても屋敷の侍女のようには見えない。
輝く新雪のような長い髪に、そこに一粒落ちた山楂子を思わせる紅色の瞳。
これだけ目立つかんばせをしている者がいれば、例え私でなくても忘れるはずが無い。
かといって関係のない普通の人間かと言うと、それもないだろう。
なんのために、こんな時間にこんな場所へ?私のような目的以外は考えられない。
なにより、死体になったというに、彼女からは妙な妖気が立ち上っている。
私が出した結論は、
『ふらふらの病人がこんなところを歩いていたことに驚き、好奇心にかられて近づいてきた妖怪』
というものであった。
歩いてきた理由はよくわからないが、私の風体に油断したのだろうか?
必死になれば、私のような何の力も持たぬ上に瀕死の人間であっても、
妖怪を殺せてしまうのだな、と人間の底力の恐ろしさに場違いにも驚きながら、
ふと、血が止まった彼女の胸に、刺さったままになっている短刀に目がとまった。
そうだ、あれがなければ、私はなんのためにこんなところにまで来たのかわからない。
彼女の亡骸を眺め、少し躊躇したが、嘆息しながらおそるおそる、
血まみれになった柄に手を当てる。そして肉の感触を嫌悪しながら引き抜こうとした、その時。
なんの前触れもなく、ほんの一瞬で彼女は突如として現れた炎に包まれた。
私は、反射的に短刀から手を離し、後ろ向きに転げまわる。
幸いにも寝間着の裾が少し焦げただけで済んだ。
だがそんなことはどうでもいい。
彼女を燃やし尽くした炎は、落ち葉もまだ青い竹も関係なしに巻き込みながらさらに大きくなり、
天を衝かんばかりに高く高く燃え上がった。
そして、呆然と立ち尽くす私の前でその火の中から、揺らめく影がこちらに向かっているのが見える。
なにか、人智をはるかに超えた力を見たときに感じるような畏怖が、体中を駆け巡った。
火を崇める信仰者のように私は、大火の前に跪く。
それと同時に、彼女が、私が確実に刺殺したはずの彼女が、
白銀の髪に火炎の照り返しを受けながら、姿を現した。
ゆっくりと、まるで何事もなかったかのようにこちらに歩いてくる。
しかし、傲然と反り返したその胸には、あの短刀の柄が燻りながらも残っていた。
彼女は深々と刺さったそれを見て、小さく舌打ちをすると、
私に向かってシニカルな、この場にそぐわぬ笑顔を向けた。
ひっ、と声にならない声が条件反射で発せられる。
それを見た紅い眼の少女は声を上げて、さも愉快そうに笑った。
「久方ぶりだなぁ、人間に殺されるのも」
なにか言葉を出そうとしたが、唇が空転するだけであった。
私の反応を見て満足そうな表情を浮かべた彼女は、彼女は自らの心臓を穿っているはずの
短刀の柄に力を込めると、顔をしかめながら引き抜こうとした。
ぐちゃ、とか、ぶしゃ、という聞くに耐えない音があたりを満たした。
残酷なほどゆっくりと、白刃は彼女の身体から姿を見せる。
その姿は、柄を炎で焼かれて抽象芸術のように変形し、刃はこれ以上無いほどに彼女の血で染まり、
切っ先からは飲み干せない、とでもいうかのように血が滴り落ちている。
魔よけの剣が一瞬で呪いの妖刀のような姿になってしまった。
彼女は、刺さっているのが自分の身体だというのに全く躊躇せずに、
刀を力任せに抜き去ろうとし、案の定苦悶の表情を見せている。
私はもはや直視できず、ひたすらに下を向いて眼前の悪夢が終わる時が来るまで待ち続けていた。
やがて、彼女の呻き声がやみ、私が顔をあげると、手に持った短刀を忌々しげに見つめ、
地面に叩きつけた。あまりの勢いで投げられたために、柄が砕けて焦げた木片が無造作に飛び散った。
当然ながら彼女の胸の傷から明らかに生命維持に関わるほどの出血が始まる。
だがそれも、先程より小さい炎が彼女の身を包んだかと思うと、瞬く間に元の状態に復元された。
私の膝は地面につけられたまま、震え続けていた。
これが、ほんの少し前のあの死体だというのか。
心臓が胸骨を突き破って飛び出さんばかりに激震している。
脳裏を、かつて聞いた伝説がよぎった。不死鳥。数百年の時を生き、火を以て生まれ変わる。
少女は首をゆったりと、大きく回して、やれやれ、とでも言うようにこちらに向かってくる。
逃げ出そうという気にすらなれなかった。
もはや私の生殺与奪の権は完全に彼女に握られてる。なにをしても無駄だという確信があった。
だが、そんな諦観とは裏腹に、身体の戦慄は止まらなかった。
恐怖だけではない。その存在のあまりの異質さに、私は魅せられていたのだ。
少女が、長い長い銀髪を揺らしながら、手を伸ばせば触れられる距離まで近づいてきた。
近くで見ると、あの侍女と同じくらい年若い姿に見える。
しかし、纏う気配はとても較べられたものではなかった。
そして、そんな外見とは不釣合いな、抑えたように低い声が頭上から聞こえてくる。
「立ちなよ、お嬢さん」
私の身体は無意識にびくり、と跳ねたが、なぜか彼女の言うとおり立ち上がることに躊躇はなかった。
少女は私より、頭半個分くらい背が高いようだった。だが、感覚としては圧倒的に巨大に見える。
「......ふーん」
いきなり、顔をくっつきそうなくらい近づけられた。思わず少しのけぞる。
そんなに近寄っても逆に見えにくくなるだけだと思うのだが。
「......んー?」
何事か唸りながら、少女は不躾に様々な角度から私を観察し続ける。
あまりに注視されるので赤面しかけたが、うなじまでのぞきこまれたあたりで、
彼女はなにか納得いかない様子で私に呟いた。
「あー、あんた人間なのか?」
ひたすら何度もうなずく。緊張で声が出ないのだ。
それでもやはり合点が行かないようで、少女はしかめ面で首をかしげている。
「そうかい。見たところあいつの身内でもなさそうだし......あんた一体何をしてるんだ。こんなところで散歩ってわけでもあるまい?」
返答に窮した。どう答えればいいのか、いや、どう答えたいのか。動転しすぎて思考もままならない。
少女は黙り込んだ私を見て再び検分を始めるかのように、
病気やら恐怖やらで、もはや人間の顔色をしているかも怪しい私の顔を見つめる。
彼女の紅い瞳が、射すくめるようにして私のそれを捉えた。深い、あまりに深い紅。
煮えたぎる地獄のようなそれに見据えられた私は、ほぼ無意識で口を動かしていた。
「私にっ......」
「?」
形の良い眉を釣り上げる少女。眼には少しの好奇の色が浮かぶ。
「私に、あ、あなたの生命を奪った償いをさせてください!」
「......どうやって?」
ほんの少しの、皮肉げな微笑。
「わたしの、私の生命を差し上げます!!」
私は、今の喉で出せるだけの、精一杯の声量で叫んだ。
彼女は、ほんの一瞬、きょとんとした表情をしたかと思うと、
すぐさま銀色の髪を振り乱しての大笑いを始めた。
あまりの大声に、夜鳥が驚いて飛び上がる羽音があちこちで聞こえる。
呆然とした私は、彼女の笑いの発作が止まるまで待たなければならなかった。
やがて、大きな瞳に涙を浮かべた彼女は、引きつるように笑いながら私に告げる。
「ひっ、い、生命をやると来たか。はは、眼には眼を、というやつだな。
ほんとに、こんな律儀なやつは初めて見た!」
意地になっているのか、混乱しているのかも自分でわからないまま慌てて返す。
「じょ、冗談ではありません!私はあなたを......」
が、少女は笑いがおさまると、急に真面目な顔を作った。
「できない相談だな」
「なぜですか!?」
私の必死さを嘲笑っているのかもしれず、もしかすると自嘲かもしれない。
彼女は最初に出会った時ような笑みを浮かべて、低くつぶやくように言う。
「私とあんたの命の重さは等しくないから」
言葉に詰まった。だが、殆ど自棄のようになっていた私は、
もう彼女の前で口を開くことに躊躇はなくなっていた。
「......殺す価値もないということですか」
「そうさ」
実にあっさりとした仕草で、彼女はそれを認めた。
うなだれるように少しうつむいた私を眺めて、彼女の笑みに苦いものが混ざる。
「勘違いするなよ。無価値なのは私の生命の方だ」
「え......」
あくまで皮相な表情は崩さないままで、続けた。
「ご覧の通り、私は不死の身体だ。老いることもなく、一体何時からこの世に存在していたのかも
はっきり憶えていない」
低く、重い声で、朗々と歌い上げるようにして彼女は語り始める。
「幾度も死んでは生まれ変わってきた。何百何千何万回、それを繰り返すことが私の生だ」
だから、と付け加えて言う。
「あんたが私を殺したとしても、それは、私の営みから外れるものではないということ」
「.......」
「気に病む必要など、無い」
黙り込んだ私を見て、彼女はさらに続ける。
「ま、要するに私にとっての死という概念は、ありえないもの、無意味、無価値なのさ。
ゼロにつりあうものなんてこの世には存在しないだろ?」
そして親指で、彼女の背後に無残に転がる、無残な姿をさらす短刀を指さした。
相変わらずのシニカルさで告げる。
「......それでも、手前にケリを付けたいなら、御自分でどうぞ。なかなかの刺され心地だったぜ?」
彼女は、どうやら私がここにきた理由に気がついたようだった。
もっとも、元より隠せていたかはよくわからないが。
仄かな憐憫が彼女の紅眼に浮かぶのがわかる。
視線を真下に落とす私に、これ以上用がないならもう行くぜ、というようなことを言って
銀髪の少女は悠々と歩き出した。
「......」
胸を押さえるようにしてうずくまる。人が決して持ち得ない永遠性が、ひどく私を打ちのめした。
我が身には計り知れぬ、その存在の異質と、背負うものの重さ。
だが、だからといって沈黙を続けることは、私には出来なかった。私だからこそ出来なかった。
顔を上げると、淡々と、ゆるやかに歩む彼女の姿が見える。
その背中に私は、なぜかほとんど気負いを感じることなく、語りかけることができた。
「それなら」
「......?」
私のつぶやきに、彼女が振り向き、怪訝そうな顔を見せる。
「終りの無い魂の価値がゼロだというのなら、私のそれも、きっと変わりのないものだと思います」
訝しむ表情が、一層強くなった。
「......どういうことだ」
私は、自らの生まれとその宿命、はるか昔から続けられている己の生業についてのほとんど全てを、
気がつくと話していた。その最中、彼女は一言も喋ることなく、ひたすら耳を傾け続けてくれた。
気づくと、例の皮肉げな笑みはすっかり消え失せている。
そして私は最後に、自らがここを訪れた理由を話し、ひとつ息をついた。
「......確かに、あんたはこちら側の人間なのかもしれない」
長い沈黙の後、ぽつりと、彼女は言う。私は掠れた声で返した。
「永遠なんてものは、きっと人間の手には余る概念なんだと思います」
「そう、だな」
不意に、少女が夜空を見上げた。私もそれにならう。数多の星が、競い合うように輝いていた。
ここのところ好天が続いていたので、ほんの小さな光しか持たない星までよく見える。
これなら夏の星座もほとんど網羅出来そうだった。
しばらくの間黙って空を見ていた彼女は、突然、一際輝いている星を指さして、
いままでよりは幾分か見た目に相応しい声で呟いた。
「あれは何て星なんだ?」
唐突だったので、私は少し面食らう。が、話すことを話した気楽さからか
緊張から解き放たれた私の頭脳はあっさりと答えをはじき出す。
「ああ、あれはさそり座の赤星ですね。大火、なんて呼ばれることもあるようです」
「なるほど......」
その後も彼女は、次々と夜空の星々を指さして、あれはなんという名なのか、
どんな由来があるのか、と私を質問攻めにした。
最初は意図をはかりかねていた私だったが、話しているうちにそれも気にならなくなった。
なんとなく、あの侍女に色々と他愛もない知識を教えていた時のことを思い出した。
そして、目立つ星をおおよそ全て指さした彼女は、
最後に彼女の髪のように白金色に輝く月に視線を移す。
「......あれは、どれくらい遠くにあるんだ?」
「月、ですか?そうですね......」
かつて天測をして距離を算出したことを思い出す。妖怪や地形の調査だけではなく、
そういった学術的な研究をすることも稗田の家の生業だった。
特に星々の運行を測り、正確な暦を作ることは、里の人々の生活においては欠かせないものだ。
「およそ九万五千里、だったと思います」
「そんなに遠いのか! 想像出来ないな......」
少女は感心したような、呆れたような、複雑な表情を作る。
そしてしばらくその幾何学的な地形を眺めていたが、ふと、独り言のように呟いた。
「昔、あそこに行こうとしたことがあるんだ」
「えっ!?」
「私がこの身体になってしばらくした頃に、月にちょっと因縁があったもんでね、あそこに行けばあるいは元の身体に戻れるかと思ったんだが......」
元の身体。妙に引っかかる感じがしたので問てみようと思ったが、昔のことを恥じ入るような顔で、
おそらくは遥かに遠い過去のことを語ろうとする彼女を見ると、
なんとなく、話を遮るのがはばかられた。
少女の彼方を眺めるような眼が、すっと細められる。その話はおおよそこんな内容だった。
最初は、自力で空に浮かぶ月を目指したらしいが、
ある高度まで上がると空気が薄くなって上昇するどころではなくなってしまうのだという。
だから、なにぶん時間だけは十二分にあったので、
妖力をより高めるように修行を積んで、何度も挑戦した。
しかし、どれだけ繰り返しても、空の色が変わる場所までも行けなかったそうだ。
「で、悩んでいたら、それを見ていた妖怪兎に言われたんだ。お前さんは何をしているのか、
月の人間はそんな風に月とこちらを行き来しているのではない、ってね」
そして兎はこう続けたそうだ。
お前さんが何度試しても失敗したように、あの月はハリボテの偽物だ。
本当の月への入口は竹林の奥にある池の中にあって、満月の夜にその池に映る月に飛び込めば、
月に行ける、と。少女はいよいよ顔を赤らめて話す。
「正直嘘くさいな、とは思っていたんだが。他に方法も思いつかなかったからな」
そして次の満月の晩、意を決して池に飛び込んだが、当然月になど繋がっておらず、
物陰から除いていた兎に大笑いされて終わったそうだ。
「おまけにその時は冬だった。本気で死ぬかと思ったよ」
思わず私が吹き出すと、彼女は少し怒ったように返す。
「あんまり笑うなよ、このことを人に話したのはこれが初めてなんだから」
それでも私の笑いはおさまらず、彼女は拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
しばらくして、思い出したようにぽつりと呟く。
「ま、そんな感じで私はずっと自分のことばかり考えて生きてきた」
少しづつ視線を戻して、私を見据える。その所作には、幾分か真剣な色も混じっているように見えた。
「あんたは違うだろ。他の誰かのためにその幻想郷縁起って書物を書き残してる」
「......」
「だから、あんたの永遠は無意味じゃないはずだ。きっと、な」
螺旋を傍目に見下ろし、悠然と虚空を羽ばたく不死の鳥。その姿が、脳裏に浮かんだ。
折れそうな両足で、地に這いつくばる自らの姿も。
「ッ、私、は......」
なにを言おうとしたのか、自分でもわからない。
ただ、漠然とした、しかし決定的ななにかが見つかりそうになったところで、
わたしは強烈な目眩に襲われた。
咳き込み、膝をつき、地面にうずくまる。視界に、砕け散った短刀が映った。
薬でごまかすのもそろそろ限界のようだ。慌てたように少女が声をかける。
「おい、大丈夫か?」
差し伸べられた右手に、私は震える左手を伸ばす。
月明かりに白く輝く彼女の手をとったその瞬間、私の視界は暗転した。
痛い。頭が疼き、咳が止まらない。弱りきった身体は、
これ以上の酷使には耐えられないというように悲鳴を上げ始めていた。
それでも、このまま倒れてしまおうという誘惑を跳ね除け、私は眼を開ける。
そしてすぐに、私が仰向けに倒れていることがわかった。
先程少女と見た星空が、視界に飛び込んで来る。
どうやらなにかの衝撃を受けて私は横転したらしかった。
関節と筋の痛みに苛まれ、ふらつきながらも私は辛うじて立ち上がる。
刹那、私は絶句した。空に、炎が浮かんでいた。
先程彼女が再生するために使われたそれよりも巨大で、そして熾烈に燃え上がっている。
烈火の中心には、銀色の髪を炎によって生じた気流でたなびかせる少女の姿があった。
まとう妖気の濃さは、先程とは段違いだ。
瞳は爛々と瞬き、視線を向けられていないにも関わらず私を圧倒する。
並の人間なら身動きひとつとれなくなるであろう、射殺すような視線の先には、
星空の明かりを掻き消さんばかりに輝く着物を身に纏った、
黒髪の少女が泰然、という言葉を体現するかのような態度で浮遊している。
どうやら、先程の衝撃は彼女が原因らしい。
だが、その敵意は私ではなく銀髪の少女に向けられているようだ。
果たしてどのような因縁がこの二人の間にあるのかは分からないが、
あの銀髪の少女が別人のようにいきり立っていることから見るに、決して友好的な関係には見えない。
そして、彼女は明らかに只者ではなかった。
紅眼の少女のように殺気を迸らせているというわけではない。
だが、そのすべてを飲み込みそうな黒さを持つ瞳、そしてその目つきは、
高所から人を見下ろす者特有のそれだった。
私も家柄上、他の名家出身の人物と会うことも多く、数えきれないほど『高貴』な人間を見てきたが、
彼女はその全員を足しあわせても
及ばない存在感を、恐るべき支配力を持っていることが一見してわかった。
そして、無表情でにらみ合っていた両者のうち、銀髪の少女が口火を切る。
彼女はいままでの飄々とした、余裕と皮肉の入り交じった笑みをかなぐり捨て、
迸る感情をあらわに叫んだ。
「......関係のない人間を巻き込むとはどういう了見だ!」
くす、と黒眼の少女が口角を釣り上げて笑う。
「関係ない?あなたが関係のない人間にあんな風に固執するわけないでしょう?」
「少なくとも私たちのこの不毛な争いとは関係ないだろうよ」
「不毛とは寂しいことを言うのね。こうして私と戦うことはあなたの存在意義そのものだというのに」
ぐっ、と身体が地面に押し付けられるような感覚に襲われる。信じがたいことだが、二人の膨れ上がった妖気が、これだけ離れた地上にいる私に圧迫感を与えていた。
一触即発。片や覇気を全身に漲らせ、片やまるで揺蕩うように、
しかしその中に底知れぬ不気味さを宿しながら、激突の一瞬を待ちわびていた。
「ふざけるなッ!!」
銀髪の少女が、業火を纏わせて黒髪の少女に突っ込んだ。
激突。私の眼ではその瞬間を捉えることすらできない。
轟音が竹林に響きわたり、強靭な妖気同士がぶつかりあった衝撃の波が、
ほんの僅か遅れて私の元に到達した。なんとか転ばぬように踏みとどまるのが精一杯だった。
だから、次の瞬間に起きたことが、私には理解できなかった。
なにか硬いものが大地に叩きつけられる音。
咄嗟に空を見ると、黒髪の少女が、口元に笑みを貼りつけたまま、
悠々と浮かんでいた。鮮やかな色彩を誇示する着物の上に、月の光を無愛想に反射する皮衣が見える。
彼女はほとんど一瞬でそれを纏っていた。
「かはッ......!」
地上に突き落とされ、うめき声を上げる銀髪の少女。黒髪の少女は嘲笑を隠そうともしない。
「あなたの力の大部分は炎の妖術によるもの。火を遮断するこの衣の前では、あなたの無軌道な攻撃など児戯に等しいわ。ま、見てくれが悪いのが玉に瑕だけど」
かつて、文献で読んだことがある。どんな業火に投げ込んでも、決して滅することのない皮衣。
あくまで伝説上の産物だとされてきたが、実在していたのか。
「......火鼠の皮衣、か」
その名を、忌々しげに銀髪の少女が呟く。しかし、彼女はすぐさま立ち上がり、
戦闘態勢を取り直した。先程と比べても、全く闘志が衰えているようには見えない。
むしろその紅眼には喜色すら浮かんでいた。
ほとんど間をおかず、今度は黒髪の少女の方が攻撃を仕掛ける。
相当あったはずの間合いをほとんど一瞬で詰め、至近距離から妖力の波動を叩き込んだ。
銀髪の少女は炎の妖術で防壁を作るが、火鼠の皮衣はそれすらあっさりとかき消してしまった。
再び、耳を背けたくなる音が鳴り響き、銀髪の少女が地面に叩きつけられる。
「さぁ、どうするの?このままじゃ潰れて死んじゃうわよ?」
黒髪の少女はいとも簡単に銀髪の少女を捕らえると、地面と自らが発する妖力によって挟み込んだ。
思わず声を上げそうになって、銀髪の少女の名前を知らないことを思い出した。
ぐっと、奥歯をかみしめる。銀髪の少女の苦悶は先刻の胸から短刀を引き抜いていた時よりも、大きい。
黒髪の少女はそれを見て、邪悪な笑みをより凄惨なものにした。
「......!」
押さえ込まれながら、銀髪の少女は妖力の圧迫に逆らって右手を力づくで天に伸ばす。
何事か、と思った次の瞬間、戦闘前の僅かなやりとりの間に仕込んでおいたのか、
いくつかの火球が土の底から姿を現した。
銀髪の少女を伸し掛るようにして抑え込んでいる黒髪の少女からは、完全に死角の位置だった。
弧を描きなら、火球は黒髪の少女の背後を狙って飛翔する。
「なるほど、少しは知恵がついたのね。けど、炎じゃ無駄だって、私は教えてあげたわよ?」
一体どういう知覚をしているのか分からない。
分からないが、黒髪の少女は一度も振り返ることすらなく、背面からの奇襲をあっけなく看破した。
どす黒い笑みが浮かぶ。確かに、火球ではあの障壁を突破することは出来まい。
私は固唾を飲みこんだ。しかし、銀髪の少女は口元にひきつった笑みを浮かべる。
「お前のその油断が、付け目だったんだよ......!」
瞬間、一片の石が、黒髪の少女の胸を貫いた。
まるで、一瞬で満開になった彼岸花のように、彼女の血が宙に散華した。
圧力が劇的に弱まり、銀髪の少女は強引に拘束を振り払う。
ほんの何瞬か黒髪の少女は、突然のダメージに不可解な表情を隠さなかったが、
すぐに納得したように目を細め、口の端を釣り上げて狂笑した。
それの姿は妖しくも美しい。しかし、私には彼女が人の形をしたおぞましい何かにしか見えなかった。
人間や、妖精や、妖怪ですらない、畏怖すべき何かに。
自らの手を汚す事なく、笑顔を貼りつけたまま、
不可視の力で彼女は胸に突き刺さった石片を引き抜いた。
「ふぅん。炎は気流を作って石を運ぶための、入れ物に過ぎなかったわけね。
またひとつ成長したじゃない。褒めてあげるわ」
「は。そんなものを私が欲しがるとでも?私が欲しいのはお前の首だけだ!」
示し合わせたように、黒髪の少女は七色に輝く宝石のような光弾を、
銀髪の少女は今しがた地獄から招かれたかのように燃え滾る炎弾を、無数に夜空に浮かべた。
直視出来ぬほど眩いそれは、まるで彼女たち二人という恒星を中心に作られた銀河のように見えた。
それは、神代の昔に宇宙を巡って争いあったという神々の姿を私に想起させる。
一瞬、二人の視線が交錯し、同時に無数の光弾と炎弾の群れが衝突した。
人間の里の花火など、及びも付かぬほどの激烈な光が、夜空を真昼のように照らしあげる。
珠と弾がぶつかりあって弾ける音は、全ての竹林の生き物を目覚めさせんばかりの轟音であった。
刹那の後、光が収まり2人の姿があらわになる。両者ともにもう一発の弾も残していなかった。
私には、そのように見えた。
銀髪の少女が、笑った。
「......残念ながら、これで打ち止め、ってわけには行かないぜ」
突如、地面から火球が飛び出す。先刻の隠し弾は、全て使い切られていたわけではなかったのだ。
再び現れた背後からの刺客に、黒髪の少女のかんばせが、露骨に歪んだ。
火鼠の皮衣はすでに先程の奇襲で引き裂かれ、効力を発揮出来る状態には見えなかった。
必然、火球をかわすための妖力の防壁を、対面する銀髪の少女とは逆側に展開しなければならない。
その力の分散こそが、銀髪の少女の狙いだった。
「もらったッ!」
宙を蹴って、銀髪の少女が流星のように相手の懐に飛び込む。
瞬間、血が、短刀や石片によってもたらされたそれとは及びも付かぬほどの血が飛散した。
それは、間違いなく、生命が失われた瞬間だった。どさ、という呆気の無い音が、私の目の前で響く。
「そん、な......」
声が出ない。そこに横たわっていたのは左胸がぽっかりと空洞になった、銀髪の少女だった。
黒髪の少女の嬌笑が、自失した私の耳を苛んだ。
なおも笑いが止まらない、という様子で少女は愉快そうに、今は死に伏せる銀髪の少女に、
愛らしさすら感じされる調子で語りかけた。
「あはははっ、本当に、強くなったじゃない!もしかしたらあと少しで、
私に手が届くのかもしれないわね!」
ぴくり、と銀髪の少女の骸が怒りの震えているように見えた。気のせいでは、ないのかもしれない。
そんな彼女を見下ろして、黒髪の少女はなおも独り言のように話し続けた。
「けれど、その『少し』をあなたが埋められる日は来やしないわ!
永遠と須臾を操る、この私相手ではね!」
永遠と須臾。極大と極小を表す時間の概念。
そうだ、完全にあの瞬間、銀髪の少女が彼女を射程距離に収め、
黒髪の少女は防御の姿勢すら満足にとれていなかった。
だが、その結果は何故か入れ替えられていた。......非現実的な想像が、頭を過ぎった。
いやまさか。しかし、彼女に関して言えば『ありえない』ことなど『ありえない』のかもしれない。
「時間を、操っている......?」
「御明察」
ぞくり。いつのまにか黒髪の少女が、音もなく背後に立っていた。
身体が痛むことも忘れ、できる限りの速さで振り返る。
長い長い、濡れ羽に似た艶やかな髪、深淵を映しこむような黒い瞳。
恐るべき美貌を持つ少女は、右手をあの少女の血で着物の肘の部分まで真っ赤に染め、
にこやかに、完璧な微笑を見せた。そばにいるだけで押し潰されそうな、強い強い気配。
ただでさえあやうい私の呼吸が、余計にかき乱されるようだった。
「あらあら、顔色が悪いわね。しかしまぁ、不便なものよね、限り有る生というものは」
「.......っ」
この少女もまた、不死の身だと言うのか。はたしてそうであったとしても、
まったく驚くに値しないような気がする。
それだけ、彼女の姿からは底知れぬ恐ろしさが発散されていた。
彼女は足元に転がる銀髪の少女の死体を、満足げに眺めると、私に向かって唐突に右手を伸ばす。
白磁のような細腕についた黒い血が、固まりかけていた。私はよろめくように後ずさる。
「不死鳥の血を飲めば不老不死になる、なんて伝説、あなたならご存知よね。色々と解放されるかもしれないわよ。試してみたら?」
少女の黒い瞳が、こちらを見据えている。残酷さと無邪気な好奇心をはらんだ、相手を測るような眼。
私は、震える喉や舌を必死に制御しながら、返した。
「わ、私は老いることも死ぬことも無い身体など、ご免です!」
「そう?」
「そっ、そうです!それに、例え永久を生きようとも、その生が無為では、
それは苦しみでしかありません!」
すっ、と口角を釣り上げて、黒髪の少女は脅迫じみた笑顔を作った。
「無為、ね。なぜ人間は生きることに価値を、意味を求めるのかしら?草も花も蟻も妖精も妖怪も、人間以外のモノは己がなぜ存在するかなど考えることはない」
あくまで穏やかに、しかし、私に発言の余地を全く与えることなく、彼女は続ける。
「ただそこにいるから、そこにあろうとするだけ。なぜ人間だけが、......なぜ?」
最後の一言だけは、嘲笑うような調子はなく、純粋な疑問を呈しているように見えた。
人はなぜ存在する意味を求めるのか。
まるで幼児のような、哲学者のような根源的な問いかけ。私は咄嗟に、言い訳じみた反論をしていた。
「それはっ……それは、そうして意味を求めることが、人間を人間たらしめているからです!」
「……解になっていないわね。それじゃなにも言っていないのと同じじゃない」
嘲笑に、失望と哀れみをないまぜにしたような視線。
愚かな回答だとは、自分でもわかっていた。
だが、他に答えを見出すことが出来ない。
「なるほどね。何故人間が意味を求めるかは、わからないけれど、他のことはわかった気がするわ」
「......?」
「そうやって意味を、理由を欲しがるせいで人間の生は辛くて厳しいものになる、ってこと」
少し間を置いて、彼女は私の眼を直視し、言った。
「あなた、ここに死にに来たんでしょ?」
息が詰まった。たちまちのうちにむせ返って、咳き込む。
この少女になにかを隠すことなど出来ない。なにもかも、たちどころに見透かされる。
「ま、そんなに弱っているなら、わざわざこんなところまで来なくてもいいと思うんだけど。
ああ、あなたは御阿礼の子なんだっけ。輪廻から外れたいワケね」
少女は自らの長い黒髪をいじりながら、どうでもいいことを話すように語り続ける。
いや、彼女にとってはおそらくこれも取るに足らないモノの一つなのだろう。
「勿体無いことをするわねー。御阿礼の子のシステムは人間が作ったものとしては
最高に完成されたものだと思っていたのに。まるで、一個の機械のようにね」
機械、システム。そんな風に、心を持たぬ存在であったのならどれだけよかったか、と私は思う。
「完成されているがゆえに、そこに意味を見つけられないのかもね。
別に、書物を書き遺すのはあなたという個人でなくてもいいわけなのだから」
確かにその通りなのかも、しれなかった。私がいなくなったところで、
本当にあの書が必要な存在だというなら、他の誰かが代わりに書くだけだろう。
あくまでも、代替可能な存在。誰もが、あえて見ぬように努める真実の側面を、
彼女は無邪気に、無造作にえぐりとり、その本質を晒していく。
「そうだ!あなた人間を辞めたらどう?丁度、私の身内が新しい研究を進めているのよ。
妖怪なり妖精なりになってしまえば、
そんなどうでもいいことで生きるだの死ぬだの考えなくて済むわ」
冗談とも本気ともつかぬ調子で、彼女は言った。
一点の曇りもなく、全ての光を吸い込むような昏い瞳。あの螺旋と、
それを取り巻く虚空が、再び私の脳裏を掠めた。
集う光で螺旋は延々と伸びて行く。だが、その光は、全て同じ色で輝いていた。
こうして見ていると、どれだけ大きな光でも替えの利かないものなどない。
だから、その存在に絶対的な意味などない。意味が無いから、繋がろうとするのだ。
誰かにとって、かけがえの無い、意味を持った存在になるために。
ならば、繋がりを持てない私は?私の意味は?私の存在の意味は?
何を言っても反応がなくなった私を見て、急に興味を失ったような眼をした彼女は、
はぁ、と一つ酷薄なため息をついた。
「数百年を生きる魂を持ったものでさえこの程度とはね。......人間は脆弱すぎるわ」
不意に、熱い風が竹林を吹き荒れ、私は思わずたたらを踏んだ。にやりと、
黒髪の少女が笑う気配が伝わってくる。
「けど、あなたはそうじゃないわよね」
気がつくと、銀髪の少女の亡骸は私の足元から消え去っていた。
熱風が、さらに勢いを増す。次の瞬間、黒髪の少女もまた、私の眼前から姿を消した。
桁外れの怒気を宿した叫び声が、竹林に轟く。
「てめぇが人間を語るんじゃねぇ!!!」
大気が爆発したかのような衝撃が走った。とても耐えきれずに私は思わず膝をつき、両腕で顔をかばう。
黒髪の少女の陶然としたつぶやきが、暗闇の中忍び寄るようにして耳に入った。
「あなたといるといつも感じるの、例外という概念の素晴らしさを」
銀髪の少女が凛々しいかんばせを怒りに歪ませながら拳を突き出し、
黒髪の少女は平然とそれを手のひらで受け止めた。
私の目がそれを捉えた次の瞬間には、両者は考えられぬほど素早く間合いを取り、そしてまた一瞬で拳を交わせる距離まで接近し、激突する。
その繰り返しがだんだんと速度を増して行くさまは、輝く二つの流星が、
竹林を跋扈しているようだった。
永遠に続くかと思われたそれは、際限なく加速する銀髪の少女の拳を受け損なった黒髪の少女が、
姿勢を崩して動きを止めた時に終わった。
その隙を、銀髪の少女が逃すはずはなかった。拳を握り締め、咆哮をあげながら突進する。
が、私には見えた。黒髪の少女が浮かべる、あの全てを嘲笑うかのような微笑が。
時間操作。銀髪の少女は見事に誘い込まれたのだ。
次の一瞬で起こるであろう惨劇に、私は思わず目を閉じた。
しかし、聞こえてきたのは肉の裂ける音ではなく、地震と見紛うほどの、
元を揺るがす二つの衝撃であった。
「......ちぇ、相打ちかよ」
銀髪の少女が、大儀そうに仰向けになった身体を起こしながらぼやいた。
「......なるほどねぇ」
相対する黒髪の少女は、地面に身体を横たえたまま身動ぎ一つせず無愛想に呟くと、
なにやら肩を震わせ始めた。最初は密やかだったそれは、
少しづつ大きくなり、最後は遠慮会釈のない声量で、笑い続けた。
銀髪の少女の呆れたような視線を一切無視し、涙目になるほど笑い続けた彼女は、
ようやく満足したのか、目元をこすりながら、優雅な所作で立ち上がる。
「はー......こんな馬鹿なやり口、あなた以外には絶対思いつかないわ」
馬鹿、という単語に反応して銀髪の少女がぴくりと片眉を上げる。
「......うるせーよ。他にないだろうが、そんなインチキ能力に勝つ方法なんて」
首を振りながら、黒髪の少女が答える。
「私が時間を引き延ばすなら、それよりも早く動く......」
そして、肩をすくめた。
「素晴らしいわね、シンプルで。......あなたもこの単純さを見習った方がいいんじゃない?
少しだけにしといた方がいいとは思うけどね」
彼女の圧迫感を伴った視線が、こちらに向けられた。背筋が凍る。
上下の唇が張り付いてしまったかのように、私は黙り込んでいた。
「ま、だけどこの子がこんなに必死になって戦ってくれるのは、
あなたがいるおかげかも知れないわね?」
言葉を発すると同時に黒髪の少女は、いいことを思いついた、という風に黒い瞳をわずかに輝かせた。
「だとすれば、お礼が必要だわ。......あなたもそう思わない?」
不機嫌そうに、銀髪の少女は応じる。
「......何が言いたいんだ」
ふっ、と軽やかな笑みを浮かべて、黒髪の少女は言う。
「仲間はずれはよくない、ってことよ。彼女もこの遊びに入れてあげましょう?」
銀髪の少女の怪訝な顔を尻目に、彼女はそうね、と続けた。
「こんなのはどう?この子が生きて竹林を抜けられたらあなたの勝ち。死んじゃったら私の勝ち」
私と銀髪の少女は揃って絶句した。それに構わずに再び体勢を整え、
戦いはじめようとする黒髪の少女に、銀髪の少女が激昂をぶつける。
「いい加減にしろ!もともとこいつは私らとは何の関係も……」
「ないわけがないわ。不滅の魂を持つ者同士、こうしてめぐり合ったのもなにかの縁だと思わない?」
銀髪の少女がなにか言い返そうとした身構えた瞬間、
流星群のような光弾の群れが、視界一杯に広がった。
身体がすくみ、膝をつく。目を固く瞑ったが、来るべき衝撃は訪れなかった。
頭上を見上げると、銀髪の少女が宙を舞い、炎で帷のような防壁を作り上げていた。
タタラ場にいるような熱が、地上にいる私にまで伝わってくる。
長い髪を振り乱し、私に向かって銀髪の少女が懸命に叫ぶ。
「立て!死ぬにしたってあんな理不尽なヤツに殺されたくないだろ!」
彼女の声にも、私の脚にはもう力が入らなかった。
疲労と艱苦と虚無がないまぜになって身体中を縛る鎖となったかのように。
自分でも信じられないほど弱々しい声が、唇から漏れ出て行った。
「私は、所詮人間である私は、あなたのようには生きられません」
たとえ滅せぬ魂を持とうとも、人はそれだけで生きていくことなどできない。無意味なのだ。
だから、屋敷に逃げ帰ろうと、ここで黒髪の少女の光弾に射ぬかれようと、違いはない。
うなだれた私に、銀髪の少女はしばらく歯をくいしばるような表情を向けていた。
だが。
どれだけの時間がたっただろうか。それは一秒にも満たなかったのかもしれないし、
実は1時間経っていたと言われたら納得してしまいそうでもあった。
永遠と須臾、暗闇と篝火、生と死。すべてが曖昧で、何一つの確信も持てないまどろむような感覚の中、それは突然訪れた。
ぞくり。なにもかもが有耶無耶であった私は、その胸を突き刺さされる衝動に、
忘我の境地から引きずり出された。
見られている。銀髪の少女に。その面持ちは、最初に出会った時の皮相でも、
自らの身の上を語っていた時の微笑でも、
黒髪の少女と死闘を繰り広げていた時の激昂でもない。ただ、静かな、空虚だった。
それは、今まで見てきた彼女のどんな表情よりも、私を怯ませた。そして、少女の口が小さく動く。
「......それなら。お望みどおりにしてやるよ」
少女は右手で流れ落ちる滝のような障壁を造りながら、左手に小さな炎を宿らせた。
それは、今までの戦いで見せてきたものとは、
較べるのも馬鹿馬鹿しいほど貧弱だ。だが、そんなのものでも、死に損ないひとりをこの世から滅却させるには十分すぎるだろう。
その左手から視線をそらせない。私をあらゆる軛から解放する火。私の苦しみを全て焼き捨てる火。私の一切合切の混沌を鎮める......
「お前を殺す火だ」
火が、ちっぽけな火が彼女の手から離れた。一瞬目を閉じる。
そのまま死を待ちたいという衝動を抑えつけ、私は強引に瞼を開いた。
それは、この世界の全てを記そうとする私の、最期の意地だったのかもしれない。
死の瞬間すらも、脳裏に焼きつけなければならない。
意外にも、その世界は緩やかだった。
確かに、黒髪の少女に叩きつけていたものと比べればあの炎の飛行速度は亀のように遅い。
だが、それ以上に、私の中の何かが判断の、逡巡の時間を作り上げようとするかのように、必死に脈動しているのがありありと感じられた。
やめて。もう私は自由になりたい。これ以上の繰り返しは無為でしかない。こんな生に意味なんて......
びりりと、身体全体が、わなないた。
煌々と輝く月が、嘲笑うように君臨していた。無意識に視線だけを動かしてあたりを伺うと、
地面に小さな、子供が焚き火をした後のような焦げ跡が残っていた。倒れたまま、両手を掲げる。
長らく病床にいた腕は経帷子を思わせる白さで、しかし、確かにそれは、そこにあった。
こめかみを濡らす生ぬるい液体が、血ではないことに気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「......それでいい」
頭上から響く声に、不思議と皮相や嘲りはなかった。場違いなほどにそれは、
ただひたすらに、穏やかに響く。
「それでいい、"生きたい"じゃなくたっていいんだよ。"死にたくない"で十分だ」
そして、その声色に、少しだけ湿度のようなものが混ざった。
「......私もそうだった。私もあの時、一瞬の死よりも、永遠の苦痛を選んだ」
「......!」
予期せぬ言葉に、私は痛む身体を反射的に起した。自らの生み出した業火の壁に、
仄白いかんばせを照らされ、彼女はぽつりと告げる。
「......私は、人間だ」
瞬間、炎の滝を突き破り、黒髪の少女の腕が、銀髪の少女の首めがけて槍のように伸びる。
喉首を握りつぶされるかに見えた刹那、少女の左腕が止まった。
銀髪の少女が恐るべき速度で繰り出した右腕が、相手の細腕に蛇のように巻きついていた。
その姿は、絡み合う二頭の竜を思わせる。少女たちの白腕はお互いのそれと組合って微動だにしない。
ぎりぎりぎり。悪夢のような、彼女たちの美しい肢体が壊れていく音が、確かに私の耳朶を揺るがす。
白磁の腕はわずかも経たないうちにどす黒く変色し、手首から先があらぬ角度に曲がっていく。
それでも、二人の目に浮かぶのはただ、愉悦のみ。
「おはなしは済んだのかしら?」
「お蔭様でな」
そして、彼女たちがそれぞれの無傷の腕で弾丸を生み出したとき、
傷だらけの両足が、跳ねるように駆け出した。
もはや、痛みすら感じない。神経そのものが機能を止めてしまったかのように。
銀髪の少女の緊迫した表情が視界いっぱいに広がる。
「なっ、なにやってんだこの馬鹿!」
至近距離から撃ちあいによって吹き飛んだ彼女の細身の下で、
私はなにか喋ろうとして、しかし、喉に引っかかったなにかに妨げられた。
咳と共に吐き出されたそれは、暗い暗い土のうえに、びちゃりと汚らしく貼りつく。
広がっていく赤色を見て、彼女は慌てて立ち上がった。
私はそれが地面に染み入るのを呆けたように眺めていた。
銀髪の少女が何ごとか喚いているのが、霞む視界の向こうに映る。
自分の身体のことなど今はどうでもよかった。
ただ一つ、たった一つ知りたいことが、胸の内から飛び出そうとしているのを、
私は止めることができない。
「......ないんですか」
聞こえなかったのか、それとも質問の意図を読み取れなかったのか。
返された少女の怪訝な表情に、私はもう一度、その言葉を宙に放つ。
「後悔、してないんですか」
虚を突かれたような、予想通り、というような。
少しだけ悲しそうに少女は笑った。
「してるさ」
ぽつり、ぽつりと、語りだす。
纏う炎はその身体中の傷を、清めるように、あるいは奪い去るようにして消し去っていく。
「昨日も今日も、明日も、明後日も、その先も……ずっとずっと私は永遠に、ほんの少しの変化もなくこの身体で生き続ける」
遠くに、黒髪の少女の姿が見える。彼女にとっても先程の傷は軽くなかったのか、
静かに竹にもたれかかっている。
しかしその視線はあくまで涼やかに、銀髪の少女を捉えて離さない。
「それは、転がり続けるこの世界から永久に取り残されるってことだ」
ただ、苦痛だ。その低い声が私の臓腑を震わせる。
「他人と交わることもなく、血を遺すこともなく、生命の終わりはついぞ見えてこない」
淡々と、少女の独白は続く。自嘲も、自己憐憫も、そこにはない。
「……だからといって人間であることをやめることもできない」
それだけ言って、少女は無造作に踵を返す。視線の先には、あの黒髪の少女がいた。
「それでも、これだけは確かに言える」
口元に、獰猛な笑みが戻った。それに向きあう少女も哂う。
「生きていることは、素晴らしい」
少女が蹴った地面が、破裂した。煮えたぎるような風が、私に吹きつける。
狂気なのだろうか。全ての繋がりを喪失し、死神にすら忘却された、あの存在が放つ熱は。
それでも、銀と黒の少女は血しぶきと共に笑いあう。
じくりと左腕が傷んだ。銀髪の少女を受け止めた時、彼女の再生の炎が、
私の枯れ枝のような腕を焼いていた。
熱い。そして、その痛みは、止めどなく体中に広がっていく。
痛みとともに見上げた空で、二人はいつ果てるとも知れぬ闘いを続けている。
ああ、彼女は、どれほどの慟哭を抱えているのだろう。
人の間に生きる私とは比べものにならない孤独。
だが、それでも彼女は人の形を失わなかった。
それこそが、彼女の答えが真であることの、確固たる証明なのだ。
嵐の最中に訪れた一瞬の凪のように、戦闘が僅かな小休止を迎えた時、
彼女はちらとこちらを振り返り、少し驚いた顔を見せた。
私は、よろよろと竹につかまりながらなんとか立ち上がり、彼女の紅眼を真っ直ぐに見据える。
そして、叫んだ。
「私が……!」
痛い。喉が焼けつくように痛い。だが、そんなの知ったことか。
「私があなたとこの先また出会えたらっ」
彼女の目はいよいよ見開かれていく。
地獄のような紅。
私の声は迷いなく、その深みに吸い込まれていった。
「もう一度、あなたの話を聞かせてください!」
僅かな間の忘我の後、皮肉と呆れに一匙の哀しみを混ぜた、実にらしい笑みを彼女は浮かべた。
それとほとんど同時に振り上げた右腕から、炎の帯が生まれる。
全ての星を横切るかのようにそれは、果てしなく彼方まで伸びていった。
「......妹紅」
呻くような少女の低音が、夜空に染み込む。
「私の名は藤原妹紅。あの馬鹿は蓬莱山輝夜だ」
行け、というその視線に私は何ら躊躇無く、紅い道を辿って走りだす。
全身に疼痛を感じながら、その先にある、意味を求めて。
ふらつきながらも懸命に走り去る少女の姿を見つめながら、妹紅は迫り来る破局を感じつつあった。
まぁ、これほどの隙を見逃してくれるほどヤツも間抜けではない。
疎ましげに輝夜の方を振り返る。その一瞬で、光弾の輝きに視界を奪われた。
「あーあ、よそ見なんかしてるから」
二度の衝撃。弾幕の一撃を受け、夜露に濡れる地面に突き落とされた。
あの死にたがりならこれで100回くらい死んでるだろう。
妹紅にとっても、さすがに軽症では済まされなかった。しかし。
「......私の、勝ち、だな」
無理矢理にシニカルな笑みを浮かべ、瞼を開ける。目がくらんでしょうがないが、
輝夜が少し眉間に皺を寄せているのは分かった。
「この竹林を生きて出られたら、ってルールだったはずだけど?」
それはお前が勝手に決めたんだろ、と言おうとしたが、
肺から溢れてくる血が邪魔でどうしようもなかった。
「あの子が挽肉になるまで一秒とかからないでしょうね」
すっ、と輝夜が星を掴むように右腕を空に上げる。光弾が収束する気配が伝わってくる。
だが、妹紅は笑っていた。すでに転生者は、こちらを振り返っていたから。
意外な行動に輝夜が動きを止める。同時に瀕死のそれとは思えぬほどの大声量が、夜空を震わせる。
「輝夜さん!」
出し抜けに名前を呼ばれ、輝夜の不機嫌な表情に怪訝そうなものが混じった。
「......なによ」
転生者は大きく息を吸った。
「今度転生したら、必ずあなたのお話を聴きに伺います!」
そして、再びこちらに背を向けると、未だ夜天を貫く炎の帯を必死に追いかけ始めた。
魂が抜けたような顔をしている輝夜を眺め、妹紅の頬が少し緩む。
「ふ、ふふ、あははははっ!」
さっきの声に負けぬほどの勢いで、輝夜が発作的に笑い出す。
「あははははははは!や、やっぱりあの子も例外だわ!大馬鹿ね!」
相変わらず、ヤツの笑いのツボは良く解らん。
妹紅は身体の回復を感じ取り、上体を起こした。
「ま、私を殺した人間だからな。つまらない筈が無い」
その言葉が笑いに油を注いだのか、延々と輝夜は笑い続ける。
妹紅は結局、いつもようにそれを呆れて眺めていることしかできなかった。
ひとしきり彼女が笑い終えたあと、妹紅は野暮と知りつつ切り出した。
「で、どうする、まだやるのか」
「んー、もういいわ。飽きちゃったし」
奔放な笑顔に、やれやれ、と衣服のほこりを払って立ち上がる。
立ち去ろうとした彼女は、輝夜がこちらをじっと見つめていることに気がついた。
「なんだよ」
「あなたには分かる?」
「何が?」
「なぜ人間が自らの生に理由を求めるのか?」
妹紅は鬱陶しそうに首を振った。
「知るか。大体、アイツに分からないことが私に判るわけないだろ」
細い少し首を傾げると、輝夜は音もなく目の前に降りてくる。
頭ひとつ分くらい低いところから、上目遣いで妹紅を見つめた。
その黒く昏く、深い瞳から思わず妹紅は目を逸らす。
「別に、正しい解答が知りたいじゃないわ。あなたの答えが欲しいだけ」
唐突な上に、自分が答えたとしても、意味があるとは思えない問かけ。
しかし、僅かな時間の後、妹紅は自分が搾り出すようにして、声を発していることに気づいた。
「......不安だから」
輝夜の大きな瞳がさらに拡大される。それは、驚きのようだった。
「人間は自分ひとりじゃ自分がどんな顔してるかもわからない。それ以前に、存在してるのかどうかも」
妹紅は、自分の言葉がひどく穏やかであることに気づいた。
「ちゃんと自分がそこにいるって、いてもいいって。......そういう確証が、理由が欲しいんだろうよ」
輝夜は、彼女にしては珍しい無表情を見せ、妹紅の顔から視線を外す。
そして、夜空に浮かぶ月を見つめて、そのまましばらく動かなくなった。
妹紅も黙ってそれに習う。その薄い銀色の輝きを受け、不意に、輝夜が呟いた。
「......そんなもの、かもしれないわね」
どうやって屋敷まで戻って来たのか、炎を追っていた最中の記憶は見事に抜け落ちていた。
とにかく今、私は慣れ親しんだ書斎の、古びた座机の前で藁半紙と向き合っている。
震える手に、もうすでに感覚は失われている。
見知らぬ人間の身体を動かしているような気持ちになった。
だから、私はどこか他人事のように、自らの腕によって出来上がっていく彼女の肖像を眺めている。
がらりと、引き戸に手をかけた音が、暗中に響く。それで、私の陶酔に似た集中は失われた。
小さくため息をついて、明け方のほの青い光と共に現れる影に目をそばめる。
「......あなたでしたか」
入り口に佇む侍女の瞳が抱く沈痛が、今の自分の姿を示しているように思えた。
「寝室にお戻りください。すでに転生の準備は整っております」
なにかをこらえるような事務的な口調が、少し、私の気持ちを咎めた。
「もう少し、待ってもらえますか。私にはまだ、この身体で為すべきことがある」
「......」
顔を伏せ、口元を噤んだ侍女の目元は青黒く縁どられている。
私は朧のような薄い笑みを浮かべ、苦労しながらもう一度傷だらけの腕を動かし始めた。
「そんな顔をしないでください。私は、消えてなくなりたいわけじゃない」
少なくとも、今は。
こんなことをした後では、説得力のない言葉だと思いますけどね、と付け足し、言う。
「......人がそれぞれの個として生きる意味は、なんだと思いますか」
気づくとこんなことを口走っていた。侍女は顔を上げ、私の顔を驚いた様子で見つめている。
「......どういう、ことなのでしょうか」
筆の運びが、あの少女、妹紅の凛々しい輪郭を、流れるような銀髪を、
その魂の熱を、半紙の上に再現させる。
藤原妹紅。炎を従える、不死の乙女。
混濁した意識の中で私は言葉を紡ぐ。
「私は、この夜でひとつの事を学びました。人は、ひとりのままでは、絶対的な存在の意味を持てない。どれだけの偉業を為そうとも」
侍女が息を飲む気配が、伝わってくる。
「だから、人は、貴女の言う『繋がり』を求めるのです。そうしてそこに、意味が生まれる」
人は螺旋を形成する、ただの部品にすぎない。しかし、その繋がりによって、
誰かにとってかけがえの無い、たった一つの部品になっていく。
もはや独白のように、私の言葉は暗い部屋に放たれていった。
「私は、蛍や他の人間のように、連鎖する生命の上にいるわけじゃない。
だから人として存在する意味はないのかもしれない」
侍女の今にも泣き出しそうな顔が、ぼんやりとした視界の中で浮かび上がった。
だが、それだけじゃない。人を人たらしめるのは存在の意味だけじゃない。
彼女をなだめるように、無意識に口元が柔らかく動くのを感じる。
「けれど今の私には、意思があります。
生きて、生きて、生き延びてなにかを成し遂げようとする意志が」
永遠を生きる少女と、それを突き動かす意志。その物語を、私は書き遺したい。
それが彼女が、私が存在した意味をほんの少しでも生み出せるかもしれないから。
だから。そんな風に口を動かそうとして、ことり、と筆の柄が机を叩く音が耳に入った。
拾いあげるための右腕も、もう動かせない。
苦笑を浮かべようとしたが、それすらかなわなかった。
そして、自分の身体が仰向けに倒れるのを、かろうじて知覚することができた。
侍女が駆け寄ってくる。涙か怒りか、その両方かを堪えようという表情。
―――違います。あなたは私とすら......
悲痛な声が、空虚な身体に響いて消えた。
気づくと、霧は、跡形もなく消えていた。
暗闇の大穴の底にも、竹の葉が遮っているせいであまり芳しいものではないが、
少しづつ光が差し込み始めていた。
今では、ここからでも竹に巻き付いた紅い帯をはっきりと見ることができる。
薄汚れた紅。それは、かつて阿求を導いたものとはまるで別物だった。
「……っ」
呆然とその帯を見上げていた顔を、思わず伏せた。砂利が、無遠慮に頭上から降ってきたのだ。
さすがに髪まで土まみれになるのは許せなかったので、阿求は腹立たしげに頭を払った。
そして、その手がなにか硬いものに触れたように感じたのと、
逆光を纏った人影が穴の底をのぞき込んだのは同時だった。
「……よぉ」
「……久しぶり、ですね」
頭二つ分ほど高い視点から見ると、この竹林の野放図な広大さをあらためて思い知らされるようだった。
阿求は、妹紅の背におぶさり、素っ頓狂な声を上げる。
「あの穴は妹紅さんが堀ったんですか!?」
耳元での叫びに、眉をしかめて妹紅は応じた。
「……いや、あの妖怪兎を懲らしめようと思ってさ」
脳裏を、あの紅い帯がよぎる。
「あんな目印までつけたらバレバレですよ……」
「そうしないと自分でも忘れるだろ。……それに、思わぬ大物がつかまったじゃないか」
表情は見えないが、うまいことを言ったという妙に幼い自賛がその声に感じられて、
阿求は思わず肩をすくめた。
風が竹の葉を揺らす音だけが耳に響く竹林で、不意に、から、という妙に高い音が聞こえた。
阿求がそちらへ顔を傾けてみると、妹紅が肩から下げている帆布のかばんが見える。
かなり使い込まれたその中には、白い紙袋と、
暮れかけている空の光を反射して輝く一升瓶の姿があった。
阿求の視線に気づいた妹紅は、ああ、それはな、と薄笑いを浮かべる。
「里に病人が出たもんで、永遠亭の薬師に薬をもらいに行ったら、輝夜がくれた」
「輝夜さんが?」
「珍しいこともあるもんだ。懐かしい友人に、ってさ」
「友人って……」
ひきつった笑いが、頬に浮かぶのを自覚する。
その気配を感じ取って妹紅は、くく、と押し殺すように笑った。
「ま、あいつの考えなんて推し測るだけ無駄ってもんだ」
なんだか可笑しくなって、二人は竹林中に聞こえそうな声量で笑いあう。
そして、その声が収まったころ、阿求がぽつりと呟いた。
「……これで、妹紅さんには二回も助けられたことになりますね」
おいおい、と呆れた声が頭越しに聞こえてくる。
「さっきのせよ昔のにせよ、お前さんが死にかけた原因に関わっているのは私だぞ?」
だが、阿求は首を振りながら答えた。
「そういうことじゃないんです。......そういう、ことじゃ」
しばらく妹紅は不思議そうな顔をしていたが、よくわらんけど、と途方に暮れたように言う。
「あの幻想郷縁起、っていうのはどうなったんだ?完成したのか?」
「いえ、年々新しい妖怪が現れたり異変が起きたりしてますから、完成することはないんですけれど」
どこか遠いところを見据えるような瞳で、阿求は続けた。
「けど、最近じゃ妖怪と人間も昔では考えられないほど仲良く、
というか馴れ合うようになってきました。だから、そろそろあの書も必要じゃ、
なくなっているのかもしれません」
わたしの、役割も。付け加えるように、消えそうな声で呟く。だが、それは確かに妹紅の耳に届いた。
太陽が、最期の咆哮を上げて、強烈な光を発している。
それが、生い茂る竹林を歩く二人にも長い長い影を与えていた。
阿求は一瞬振り返り、その影を見る。そして、妹紅が口を開いた。
「......お前と私の決定的な違いは、生命を繰り返すことを選べるかどうか、ってことだ。
正直言ってそれはすごく羨ましい。それと、選んだ上で、生き続けているお前を凄いとも思う」
妹紅の長い髪が、そっと阿求の頬を撫でた。
死にゆく太陽を網膜に焼付けようとするように、妹紅は、睨むような目つきで空を見上げる。
「けどな、お前が今度、どっちを選ぶかを、私がどうのこうの言うことはできないよ」
風が吹く。あの時の熱い風を思い出して思わず身構えたが、竹林を吹き抜けたのは秋の始まりを告げる、涼やかなそれだった。
阿求は、安堵と寂寥の入り交じった笑みを浮かべる。そして、冗談めかした調子で、言った。
「......今度は、あの人との勝負がかかっていないから?」
妹紅は、むっとしたような、茶化されたことに対しての照れのような、微妙な顔になる。
「そんなんじゃない。......っていうか、お前、結構底意地悪いな」
「あら、今さら気がつきました?」
阿求のふざけたような悪い笑顔に、妹紅は呆れの混ざった語調で返した。
「......ったく、助けなきゃよかったよ」
ふふ、とどちらともなく忍び笑いが漏れた。
夕日の名残り火を照り返して、竹の節がまぶしく輝く。
竹の春、という季語を思い出した阿求の頭を、その枝が擦った。
妙な違和感を覚え、短く切りそろえられた自分の髪をなでると、その正体はすぐに明らかになった。
背中に落ち着きのなさを感じて、妹紅が不思議そうに問いかける。
「どうしたんだ?なんか無くしたか?」
その言葉に、ほんの少しだけ、阿求は寂しそうに笑った。
「......ええ。でも、大したものじゃありませんから」
怪訝そうな顔をして、なにごとか唇を動かそうとした妹紅は、のんびりとした、
遠雷のような低音が空気を震わせていることに気がついた。
思わず空を見上げる彼女に阿求が、そういえば、と呟く。
その笑顔からさきほどの陰を見出すことは出来なかった。
里の入口に近づき、太鼓だけではなくお囃子の音も少しづつ聞こえるようになったところで、
妹紅は阿求を背中から降ろした。
まだ屋敷まで距離があったが、あまり里の人間に見られたくないという
妹紅の事情を察した阿求がここから歩く、と言い出したのだ。
「いいのか?足、怪我してるんだろ?」
「もう、大丈夫です。それより、またお話を聞かせてもらえませんか?」
わずかに、妹紅の表情が曇った。視線を逸らして、小さく早く答える。
「......それは、今度な。それより、はやく身体治せよな」
その言葉に、破れた着物の裾から覗く赤色を見下ろして、阿求は苦笑いを浮かべた。
「わかりました。......それでは、妹紅さんもお身体に気をつけて」
その必要はなさそうだがな、と妹紅が笑う。つられて阿求も照れ笑いを浮かべた。
そして、どちらともなく踵を返し、阿求は里へ、妹紅は竹林へ歩みだした。
背中越しに、妹紅がよく通る低い声を上げる。
「それじゃ......またな」
少しの間を置いて、阿求も相手のそれよりずっと小さな声で返事をした。
「ええ......さようなら」
夜と夕が、入れ替わろうとしていた。コバルトと茜色の混じり合う、
透き通った空に、あの時よりも少しだけ陰った月が鎮座している。
遠くから聞こえてくる収穫を祝う楽器の響きと、風に揺れる竹の葉の調べ。
それに自分の足音が、ここにある音の全てだった。
瞼の裏の闇の中で、その音を噛みしめるように耳を澄ませながら、阿求は歩んで行く。
不意に、その三重奏が崩れた。どたばた、といういくつもの騒々しい足音と、やたらと楽しそうな高い声。閉じていた眼を思わず開ける。
「阿求せんせー!妹紅お姉ちゃーん!」
寺子屋に通う、子どもたちだった。皆、いつも着ている擦り切れた服ではなく、
きちんと手入れされた着物や浴衣を身につけている。
少し離れたところにいた妹紅もびっくりして振り返る。
ときおり暇を見ては寺子屋に授業に出向いていた阿求だけではなく、
妹紅も竹林に迷い込んだ子供を助けたことが何回かあったので、子どもたちの間では有名人だった。
「おーい!そっちは里の外だ!勝手に行くんじゃなーい!」
そして、無秩序な羊の群れを追いかける牧羊犬のように、妹紅に負けぬほどの長い髪と、
すらりと伸びた背の少女が姿を表す。
彼女はすぐに、2人の存在に気づいた。
「妹紅?それに稗田のお嬢さんまでいるのか」
妙な取り合わせだな、という半妖の少女に、
背の低い阿求は押し寄せる子どもたちの波に溺れそうになりながら苦笑いを返した。
「どうもこんばんわ、慧音さん。......相変わらずみんな元気ですね」
はは、と慧音は少し申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
「すまんな。ちょっとかまってやってくれないか」
そして、子供たちに足元にまとわりつかれ、同じく困惑気味の妹紅の元へ向かっていった。
やれやれ、と思う暇もなく子どもたちの質問攻めが始まる。
里の外でなにをしていたの、お祭りには出ないの、
慧音先生の宿題でわからないとこがあるんだけど......
口々に問いかけてくる姿に阿求は餌を待つツバメの雛を連想した。
「はいはい、順番ね」
呆れながらも、ひとつひとつの質問に、阿求は的確に返答していく。
しかし、見た目の年齢が大して変わらない私が先生づらをしているのは、
はたから見たらなかなか滑稽だろうな、
などと思いながら、彼女は熟練した職人のように鮮やかに、少年少女の疑問を捌いていった。
望んでいた回答を得られた子どもたちは、お礼もそこそこに三々五々散らばって勝手に遊び始めた。
気楽なもんだなぁ、と慧音が必死になってその子たちを追いかけるのを、阿求は茫として眺めている。
そして一瞬気を抜くと、疲れがどっと出てきた。そういえば今日は一日歩きづめだった上に、
あんなことまであったのだ。祭りには顔だけ出して今日は早く帰ろう。
「なかなか堂に入った先生っぷりじゃないか......こら、足踏むな」
うっとおしそうに、しかしどこか照れた表情で周りの子どもたちと妹紅は戯れていた。
疲れが顔に出ないよう気に気を付けながら、阿求は少し皮肉っぽく笑った。
「いえいえ、妹紅さんの人気にはかないませんよ」
うるさいよ、と答えながら妹紅はもう子供に抵抗するのは諦めたのか、されるがままになっている。
「......しかし、お前も変わったな。前はもっと愚直っていうか、余裕ない感じだったんだが」
ま、状況が状況だったからかもしれんけどな、付け加えながら、片手で背中に回った子供をいなす。
確かに、こんな風に寺子屋に通う普通の子供たちとふれあうなんて、昔では考えられなかった。
それどころか、敵同士だった妖怪たちですら、今では茶のみ漫談の相手である。
世界は絶え間なく、思いもよらない方向へと変化していく。それに引き摺られるようにして、私たちも。
それを、目の前の光景は雄弁に語っていた。
じっと、自分を見つめる阿求に妹紅は、言わんとすることをうっすらと察したらしい。
「ふん、それは私もか。全く、しまりがないにもほどがあるな......いたっ!」
妹紅の自嘲気味な感傷は、すぐさま、後ろのいた坊主頭の子供にその滝を思わせる
銀髪を引っ張られることで終わった。
さすがに許容範囲を超えたのか、妹紅は一目散に逃げ出した少年を、
髪の毛を逆立てかねない勢いでで追い回し始める。
慧音の非難も聞かずに駆け出す妹紅を見て子供たちは皆一様に弾けるような笑顔を見せる。
阿求もつられて、見た目相応の幼い笑顔を浮かべた。
それから、奇妙な違和感が彼女の胸裏に突風のように吹きつけた。
視線。その正体は視線だった。おしくらまんじゅうのように一箇所に固まって騒いでいる子どもたち、
それに妹紅と慧音。
そこから明らかに離れた場所から、それは、やってきた。
跳ねるようにしてそちらを振り向く。幼い、阿求より一回り小さいくらいの童女が、
暗がりから阿求を見つめていた。
その瞳の信じられない透徹さに、阿求は思わず身震いする。
吸い寄せられるように、疲れ果てたはずの足はするりするりと動きだした。
次第に、その姿が、満天の星空のように輝く双眸が明らかになる。
そして、阿求は頭蓋の奥から何かが呼びかけてくるような、痛みを伴なう既視感が、
それも今日味わったなかでも最大級のものが訪れるのを、不思議と平静な気持ちで受け入れていた。
少女の容貌が、少しづつ自らの存在を誇示し始めた月に照らされて明らかになる。
その黒曜石を思わせる髪を彩る花を見て、今日感じた既視感の、
全ての根源がそこにあることを、阿求は悟った。
月の放つ青い光に照らされる病的に白い肌。それと対照的に雛芥子を思わせる、
淡く紅い唇が、静かに言葉を紡いだ。
「なぜ、あなたはそこにいるの?」
それは突然だった。だが、その問いかけは遙か昔から課せられていたようにも、阿求には感じられた。
そして、今やその解答は完全に定まっている。
「......私が、ここに存在する理由は」
迷いなく、言葉が口を衝く。
「ありません」
その語調はただただ静かに、ありのままの事実を述べているようだった。
「存在の意味は、繋がりは生まれ落ちた日から失われています。
そしてもはや、私の魂には意志の熱も消え失せた」
あるのはただ、惰性のような生命だけ。なんの意義も、そこにはなかった。
あるいは、この姿こそが今の幻想郷にはふさわしいのかもしれない。
童女は、阿求の瞳をじっと見つめたまま微動だにしない。
弱い風が、その短い黒髪をたなびかせた。
それが合図であったかのように、一歩ずつたおやかに、阿求の方へと歩み寄る。
もう二歩も歩めば身体が触れるほどの距離に近づきながらも、童女の気配はなお希薄なままだった。
そして童女は音もなく、その細い腕を、手のひらを空に向け阿求に差し出す。
阿求はわずかにためらったが、しかし、震える手を彼女のそれに重ねた。
瞬間、阿求の意識は、白く溶けて宙に舞った。
最初の感覚は、かつて川に落ちて溺れた時に似ていた。
あわてて両手をかくが、すぐに呼吸ができることに気がついた。
あたりを見回す。しかし、ほとんど真暗闇でなにもわからない。
ただこの空間が、無限のように広いことは、うっすらと感じ取れた。
延々と、流されていく。なぜか不安や動揺はない。
それからどれほどの時間がたったのかは阿求にはわからなかったが、瞳が、ぼんやりとした光をとらえた。
その光が、具体的な形を現していく。一人の幼い少女がうつむきながら歩いている。
背の高い男に手を取られ、阿求には見慣れた屋敷の門を不安な面持ちでくぐって行く。
それが、御阿礼の子としての素質を見出され、生家から稗田の家に身請けされた自分の姿であると、
そのイメージが消える直前に阿求は気づいた。
転生者として生きるための様々な修行に歯を食いしばりながら耐える姿。
慣れぬ調査に小さくない怪我を負った姿。
同年代の人間に淡い想いを抱く姿。
死の床に着き、なにもない天井を漠として見上げる姿。
そして閻魔の元で、果てしない贖罪の日々を続ける姿。
追憶は、いつまでも続いていく。
規則正しく、機械のように自分の生は繰り返される。
初めて博麗の巫女と出会ったあの雪の日の姿が映る。
あの代の彼女は、今の巫女を見たら卒倒してしまうのではないか、というほどのしっかり者だった。
妖怪に対する命がけの調査。今でこそ、直接話ができるほど人間と近しくなっている妖怪にも、
かつては何度も生命を奪われそうになった。
自分を取り巻く数えきれない人々の姿が見えた。毎日欠かさず食材や日用品を届けてくれた商人、
日がな一日、畑と向き合う農民、妖怪の伝承を伝えるため、度々屋敷を訪れた山窩。
そして、阿求の生活のすべてを支え続けた、幾多の侍女の姿。
どれほど多くの人々と関わりながら生きてきたのか。
際限なく続く出会いと別れの記憶に、阿求は少し、ため息をついた。
暗がりの中に蝋燭の頼りない光が揺れる。
傷つきながらも、なにかに取り憑かれたように筆を動かす過去の阿求と、
それを泣きそうな顔で見守る侍女の姿。
見紛うことなく、あの時のイメージだった。
腕どころか体中震えさせながら、それでも昔の自分は手を止めようとしない。
だが、この後の顛末はすでに思い出している。
その手から握力が失われ、使い古した筆が転げ落ち、細い身体が板の間に倒れこむ。
そして侍女は走り寄ってきて叫ぶのだ。
―――違います。あなたは、私とすら......
「繋がって、いるのです」
阿求の目が見開かれた。蛍の儚い光を見た彼女が呟いた言葉の意味。
それは、阿求が考えていたよりも遙かに大きなものだった。
血の繋がりや、その身体がどこへ還ったかという、生命の連鎖だけを指してはいなかったのだ。
繋がりとは、そう、こうして手と手をとりあうこと。
たったそれだけで、人は繋がりを、自分自身の存在の意味を持つことができる。
―――それならば、私にも、きっと。
完全に日の落ちた秋天の、湿気を含んだ風の中で、阿求は立ち尽くしていた。
あのイメージも、童女も、全ては消え去っていた。
あたりではまだ妹紅と子供が騒いでいる。あれから時間はほとんど経っていないようだった。
伸ばした腕の手の中に、あの日の髪飾りが古ぼけながらも、未だ鈍い赤光を放っている。
阿求はそれを胸元でそっと握りしめた。
ふと、向こうの方が騒がしくなる。
坊主頭の子供の襟首を捕まえて持ち上げている妹紅の姿がそこにはあった。
集まってくる子供たちはやし立て、それを見た慧音は子供たちと妹紅の両方に、
人差し指を掲げながら注意を与えている。
妹紅の嫌そうな、しかしどこか照れくささをはらんだ表情。
その姿が視界の中で、すこしづつ滲んでいった。
変わらないものなどない。不老不死の身体を持とうとも、同じ身体に生まれ同じように成長し、
同じように死ぬとしても。
変わりゆくものとの繋がりを持っている限り、それは不変ではないのだ。
そして、誰しも誰かとの繋がりを持たずに生きることはできない。
血も骨も肉も、どれだけ孤立した身体であっても。
魂は、つながっている。
祭囃子がだんだん大きくなっていく。祭りもいよいよ盛り上がりに差し掛かっているようだった。
慧音に連れられ、嵐のように去っていった子供たちをため息混じりに見送りながら、妹紅は呟いた。
「やれやれ、とんだ災難だったな」
そして、ふと阿求と眼があった。
「......? 私の顔、なにかついてます?」
「い、いや......」
思わず眼をそらしてしまった。なんだ、なにか全然雰囲気が変わっている気がする。
あんな風な顔をするヤツだったか?
うーむ、と考え込んでいる妹紅は、阿求の呼びかけに反応するまで少し時間をかけてしまった。
「妹紅さん妹紅さん」
「......どうしたんだ?」
「妹紅さんのお話、今晩伺ってもいいですか?」
急な提案に、妹紅は少し驚いた。
「なんだ藪から棒に。それにお前は身体が......」
「大丈夫ですよ。もう、それは、大丈夫」
笑顔。花が咲くようなそれは、いつもの皮肉と厭世がどこかで燻っているものではなく。
見とれてしまった妹紅に、選択肢は残されていなかった。咳払いをひとつ。
「......しかたないな。ま、たまにはお屋敷のいい布団で寝るのも悪くないか」
ありがとうございます、と大きくうなずいた阿求は、すぐさま妹紅の右手をとった。
「善は急げ、ですよ。せっかくですしお祭りにも行きましょう!」
走りだした阿求に苦笑いを返しながらも、妹紅は彼女のそれより長い脚で苦労して歩調をあわせる。
繋がれた手に、穏やかな熱を感じながら。
面白かったです
阿求の侍女として働いていることで、転生を繰り返す阿求の生を彼女なりに考えて、
受け止めているのであろうことが作中の言動から伝わってきました。