おれいおれいおれいおれいおれいおれいおれい……。
氷精には厳しい夏。魔法の森。鬱葱と生い茂った木々に日を遮られ、そこらに生える茸の胞子や、あたりに満ち満ちる瘴気が、人には生き辛い濃密な空気を作るそこで、己を取り巻く重々しい沈黙をものともせず、一人の氷精はぶつぶつと同じ言葉を、一心に呟いていた。
れいお……。
チルノはいつものように元気に飛び回ってはいない。しょんぼりとうつむいて、ややおぼつかない足取りで、足元の草花を踏み荒らしながら歩いていた。と、はっとしたような顔をして立ち止まったチルノは、ぶんぶんと首を振って訂正する。
お礼だ。
そしてまた、歩き出した。今度は両手を思いっきり振って、大股で歩いている。しかと前を、いや、そのもう少し上方を仰ぐようにして、ずんずんと歩を進めた。
それはちょっとだけ前のこと。正確な日時は忘れてしまったけれど、そう昔ではない一日のこと。
チルノは妖怪に追われ、逃げいていた。とにかく必死に、逃げていた。
そいつはやたらに身体が大きくて、ぶよぶよと脂肪だらけで、見ていて気持ちが悪い奴だった。豚みたいな鼻に、体毛のほとんどない、褐色の肌。黒目がちな目は墨で塗り潰したみたいにただ真っ黒で、まるで感情が読めなくて怖かった。
チルノが何か悪戯をしたというわけではない。森をふらふらと飛んでいたら、偶然そいつと出会って、そうしたら、そいつは、いきなりに追いかけてきたのだ。
チルノは、どうしてあたいがこんな目に、と反発を抱く一方、ああまたか、と諦める思いもあった。実はこんなこと、珍しくはないのだ。
妖精に命の終わりはない。冗談半分に痛めつけたところで、それによって、普通の生き物でいう『死』を与えてしまったところで、何ら問題はないのだ。
いくらだって蘇る。いとも簡単に、乱暴モノたちの過ちは、なかったことになる。
だからだ。たまにこういう輩が出てきてしまう。
大した意味なく、例えば憂さ晴らしのために襲われることなんてざらなのだ。
彼女の友達にだってあったし、彼女自身にも、過去、幾度かはあった。
慣れっこといえば慣れっこだ。でも、痛いものは痛いし、なにより悔しい。
だから返り討ちにしてしまおうとすることもあり、それが成功するときもあるのだが、今回はどうなのだろう。うまくいけば――――
そのとき、妖怪の振るった拳が、チルノの背中を打った。
あぐ、と声を洩らし、チルノは地に伏してしまう。
それでも何とか逃げようと、立ち上がろうとする彼女だが、妖怪の一撃は思いのほか重く、身体の自由が利かない。チルノは呻いて、這いずってでも逃れようとする。
だけど、無理だ。到底、逃げ切れない。
ゆっくり、ゆっくりと足音が近づいた、そのときだ。
声が聞こえた。気軽な、道端で偶然、知り合いとでも会ったときのような声。
若い男の声であった。すぐ後ろから、唸るような、曖昧な返事が聞こえる。
どうやらそれは、チルノを追ってきた妖怪に向けられたものらしい。
妖怪がそのまま一言二言、声の主に応じた。いくらか気勢を削がれたような、つまらなそうな応対であった。
チルノの前方から来たらしい男は、さらに言葉を重ねながら、徐々に妖怪と距離を詰めていく。
妖怪が、男に早く去るよう苛立たしげに言うのに対し、男はそれをかわして、今度は話の流れと何の関係もない、薀蓄を語りだしたようだ。
それはまるで、わざわざ妖怪の注意を引きつけようとしているかのように不自然で、彼がやがて立ったのは、彼女を護るように、妖怪とチルノの間であった。
この人、あたい助けようとしてくれてる……?
チルノは息を潜めて、じっと機会を窺う。が、まだちらちらと妖怪の視線を感じて、動くに動けなかった。しょうがないので、大人しく会話を聞いていると、男の澄んでいてよどみない声は、耳に心地よく、妖怪の不快なだみ声とはまるで違った。
男は何やら、自分の経営する店を紹介しだしたようだった。
りんのすけ、という言葉を聞いた。
こうりんどう、という言葉を聞いた。
やがて。妖怪の気配が遠のくのをチルノは感じた。未練がましい、鈍い足音。
男のあまりのしつこさに、妖怪のほうが辟易して退散したようだった。
妖怪が去るのを確認してからだろう。倒れたままのチルノを、傍らの男が起こしてくれた。そして、男はチルノの無事を確認すると、そのままさっさと帰ってしまおうとした。
チルノが慌てて、彼の背に感謝の言葉をぶつけると、振り返った男は薄く笑って、彼女の頭をなでた。そして、お礼はいらないよ、と言い、少しだけ考える仕草をして、君のおかげでちょっとでも涼むことができただけで満足だ、と付け足した。
そこは薄暗くて、物がやたらにあって窮屈なところだった。
チルノは自身の鼓動がどきどきと高鳴るのを感じる。頬に手で触れると、当たり前のようにひんやりと冷たいが、きっと鏡でも覗けば上気しているのがわかるだろう。
ここが、こうりんどう。
店の前の看板は字が読めなかったけれど、きっとそうだ。
れいおれいおれいおれいお……。
チルノは自らの緊張を解きほぐすために、呪文のごとく同じ一語を唱え続けた。店の中をきょろきょろと見まわしながら、チルノは今さらながらに思う。
り……、りんのすけはいないのかな。
あたりに人の気配はなかった。物音一つない。どこかにでかけたのだろうか。チルノは懸命に頭をくるくると回して、今はいない彼の姿を思い返す。
あの時見た、思わずほっとするような、彼の優しげな笑顔を思い出した。くっきりとした目鼻立ち、さらさらと綺麗な銀髪を思い出した。そして、よし、とチルノは頷く。しかとあの人の姿を記憶出来ている自分に、安心する。そして、彼にお礼をしなくてはいけない。そう改めて誓い直す。
どうしてそこまで、自分はお礼をしたがるのかわからないけど。
そもそもどうお礼をしたらいいのかわからないけど。
チルノは確かに思ったのだ。彼に助けられた時、感じたのだ。
それは今までチルノが抱いたことのない思いだ。人にも妖怪にも親しまれたり、鬱陶したがられたりする妖精だけれど、チルノはあんな風に扱われたのは初めてであった。一切の嘲りなく、ただごく自然に、見つめられ、言葉をかけられたのは初めてであった。そう感じた時、チルノはいつもにはない、言い寄れない衝動に駆られたのだ。
たまにちょっかいをかけるぐらいじゃ足りない。
もっとこの変な人を見てみたい。
たぶん、とチルノは思う。自分は彼を気に入ったのだ。
友達になりたいのだろう。チルノはそう思った。
だって、彼を思えば、友達を想った時と同じように、こんなにも胸が暖かくなる。
そうだ。
だからお礼をしないと。
あの人はいらないと言ったけれど、してあげないと。
それできっと、友達になれるのだ。
いや、なるのだ。
チルノはとりあえず、店内を物色し始めた。背の高い本棚に、古めかしい本がずらりと並べられているのを認めた。部屋の隅に、何やらよくわからない黒一色の大きな箱もあった。探索するうちに、小さな包みを見つめたけれど、中にあったのは陶器の破片で、チルノは首を傾げるだけだった。
どうしようかな。
しばらくうろうろしていたけれど、これじゃ何の解決にもならないことに、チルノは気付いたのだ。
チルノはお礼をしようとここに来た。でも、その肝心のお礼の仕方を考えていなかったのだ。
涼しいのが良いって、前に言ってたけど……。
あ、とそこでチルノの目に留まったのは、小さな木製の机の上、硝子のコップに注がれた、飲みかけであろう、麦茶だった。
チルノはぱちぱちと目を瞬かせる。そろりそろりと、机の方に近づく。
意味もなく髪をいじって、顔をうつむけてから、きょろきょろと再三、あたりを見回す。
そして。
誰かいるのかい?
急にかかった声に、びくりとチルノは身体を震わせた。彼が戻ったのだ。もとより、遠出ではなかったのかもしれない。彼にお礼をしたかったのだから、彼が戻ってきたのは良いことのはずだけれど。なぜか大慌てしてしまったチルノは、半分の冷静、半分の衝動で意を決した。お礼、お礼をしないと。
チルノは即座に机の上に飛び乗ると、雑にコップを両手に握った。そして、間髪入れずに、ふう、とそれに息を吹きかける。すると、あっという間に麦茶は冷えて……、というか、薄く氷が張っていたが、これでいいや。
チルノは彼の制止を振り切って、そのすぐ脇を通り越し、これは性格だろうか。
ベー、と舌を出して、彼を唖然とさせ、まるで悪戯でもしてしまった感じになってしまった。
それでも構わず、チルノは結局、とにかく全速力で飛んでいった。
今日は失敗ね……。
チルノは呟いた。
明日よ。明日、がんばろ。
なに、飲んだら寝るさ
こう…ほんのり熱くてはかなわん
今からチルノの冷や可愛さに慣れておけと。
読み手としては末尾数行が抜けている様な印象は受ける。
もしタイトルが『明日、チルノ』とかだとタイトルへと帰結するので、この書き終りでも十分かも知れない。
でもこれでいいのかも知れん。よく、判らん。
それできっと、友達になれるのだ。
いや、なるのだ。
もちろんどちらにしてもチルノ可愛さに揺らぎ無くちるのかわいいですちるn
これこそチルノっすよねえ~。
れいおのネタバレをもっとひっぱったほうがよかったと思う
この暑い夏にはいいお礼ですね。
あと、
>男のあまりのしつこさに、妖怪のほうが辟易して退散したようだった
吹いてしまったw薀蓄で撃退ってw