私は自身の中に横たわる戀河を、厳重に秘匿していた筈であった。
にも拘わらず、それとはっきり分るほど外皮へと染み出していた情念は、この暗渠の水勢を如実に物語っていたのであろう。
私は自身が調伏すべき妖怪変化に、戀を――していた。
是非もない、と私は思う。人間ではない彼女らは、真実、うつくしいのである。
綺麗なものを好まぬ者がいるであろうか。況してや啻に見目好いと言うだけではない。その一見きゃしゃとも言える体躯には、上古より存在し続けるだけの精力が満ち満ちている。人の身には決して届かぬ様様の美が、乙女の形を成しているのだ。
それは浪浪の末に、遂にこの別乾坤へと至った怪異――彼女らにとり必用不可缺たる条件に違いなかった。畢竟するにその絶美を湛えた外見は、人を欺く為の擬餌でしかないのであろう。彼女らは猛禽である。人類の天敵であることは論を俟たぬ。それは私も善く善く弁えている。
しかし、幾ら理論で武装を施したとて――いざ相い対してみれば、そう言った思考の悉くは忽ちの内に雲散霧消をしてしまうのである。
彼女らの真に畏怖すべき能力は、山すら砕くと言う巨大な膂力でも、或は二百由旬を一と跨ぎすると言う神速、その孰れにあるのでもない。有らゆる条理を超越し、男女老幼を問わず、見る者を総て丸め込んでしまう、理不盡としか言えぬ愛らしさ、只一点に於いてなのである。
――これほど卑劣で、しかし効率的な支配は嘗て類を見ないのであろう。現にこの世界の人間達は、自らの被搾取的立場の一切を諒解した上でそれでも尚、彼女らを神として崇め、又或る時は偶像として慕い、中には「そこに彼女がいるからだ」などとジョージ・マロリーめいた言を嘯き、自ら進んで命を擲つ者すら、決して珍しくはなかったのである。危機感の缺如どころの話ではない。まるで猫に戯れ附く鼠の圖である。
しかし、そう言った彼女らの鋭い上嘴や鉤爪であってさえ、博麗と言う天稟に恵まれた自身に於いては、余人の捕食を赦さぬ薔薇の棘、それ以上の価値を持つものではない。この力を用い彼女らを思うが儘に組み伏して、人形の様にいとおしむことが若し適うなら、それは定めて名状し難き喜悦であろうと、私は常常夢見るのである。
況んや私はその様な背徳が、努努赦される筈のない禁忌であることも理解している。ありていに言えば、私はこの世界の秩序を維持する為の、只の装置に過ぎぬのである。装置に自由意志など必要ないし、而るにそうした無駄を抱える自身はその実、博麗としては到底相応しからざる不具者であるのに違いない。――けれども心中深いところにある思慕は勃勃と湧き出でゝ、私にはどうすることも出来ぬのである。
これでは寧ろ――妖怪達への求愛を明け透けに表白出来る、力なき里の民こそ仕合わせであると、私はそう断じざるを得ないのである。神韻縹渺とした彼女ら怪異は詮ずる所、我が身にとって目の毒でしかないのであった。
故に、私は自身の心底とは裏肚に、彼女らを全く憎悪した風を装って、殆ど無理無体とも言うべき苛烈さで妖怪退治に勤しんだのである。
それは子供が癇癪を興すが如き、甚だ以て幼稚な処方に過ぎなかったのであるが――皮肉なことに妖怪達は、却ってそのことに依って私を支持し、圖らずも私は彼女らの好意を一身に甘受する仕儀と相い成ったのである。
取り分け力の強い妖怪からの寵愛は啻ならず、夜な夜な神社に押し寄せる彼女らとの語らいは正しくサバトと呼ぶに相応しい、この世ならざるなおらいであった。
――或は彼女ら大妖達は、自身の深層の底流に、疾っくの昔に気附いていたのやも知れぬ。
宛ら酒精で出来ていた彼女らの起居振舞は、私を酩酊させるには十分過ぎる劇薬であったのだ。只博麗としての矜恃のみが、辛うじて自身の正気を此岸に鎖繋いでいたのであるが、それはいったい満腔を啄まれるかの如き、最も堪え難い質の塗炭であった。私の精神は既に、凡そ平衡などゝ言うものを、些かも保ち得てはいなかったのである。
私が戦って一敗地に塗れたのは、山山の蒼翠蓊鬱と滴る朱夏であった。
不敗神話只それのみが博麗を博麗たらしめる所以であるのだ。到頭来るべきものが来たのであると、私は観念の臍を固めたのである。
博麗に於いて敗北とは、幽明相隔つことゝ同義であった。
けれども私を破ったその妖怪は、満身創痍した我が身を喰らうでもなく、攫うでもなく――剣戟を交える直前、確かに攫うと言明したにも拘わらず――何をするでもなしに、而して当然の様に私の神社に棲み着いたのである。
その魔物――少女は自らを鬼と称した。
私はと胸を衝かれたのである。鬼とはこの幻想郷にして疾うに喪われた太古の幻想に外ならぬ。
しかし少女の纏う情緒には、私の知るどの人妖も持つことのない懐旧とそして強い牽引力とを同時に覚えた。それは私が今まで他の妖怪達に抱いてきた執着を、悉皆吹き飛ばしてしまうほどの豪壮たる颱風であった。
そもそも陰陽――紅白の力を扱う博麗と鬼と言う概念は、兄弟姉妹とも言うべきはらからの存在である。彼の晴明の高祖でもある朝衡は、鬼に姿を変えて同じく陰陽の徒であった吉備大臣を助けたと言う伝説もあるのだし、却りて平安の世に鬼を調伏したと言う方相氏などに至っては、軈て鬼そのものとして都を放逐されてしまうのである。
少女は或は――嘗て南洋に存在したと言う東女国に来歴を持つ、鬼神の成れの果ではあるまいか。彼の地と同一とされるレムリアと呼ばれる大陸が、古代羅馬の追儺式であるレムリア祭と名を同じくすると言うことゝ、恐らくそれは偶然の一致ではないのであろう。孰れも収斂進化めいた同様の風俗を持つと言うその事実こそ、少女ら鬼が歐羅巴にも渡っていたと言う、確たる證左と言えはしまいか。少女の透き通る様な木目細かい肌、そして明瞭に整った目鼻立ちと言う、和洋折衷した聖女的外貌一とつを捉えて見ても、私にはその揣摩憶測を裏附けるものと思えてならないのである。それに博麗が妖怪に晩れを取ると言う、本来有り得べからざる出来事さえも、この仮説に於いては何ら不思議なことには当て嵌まらない。
とゞの詰り、私にとって唯一無二の――運命の人とも呼べるこの少女にのみは、斯うして湧き出る劣情を押し止める必要など、もう何処にもありはしないのである。そう看取した瞬間、暗渠であった戀河は、間歇泉の如き怒濤の勢いを以て地表を瞬く間に席捲し、私は見渡す限りの糖蜜の海に溺れ、愈愈正体を喪ったのである。
虎は死後、琥珀に姿を変えると言うが。――では、この琥珀色に呑まれた自身は、いったい、何に化生をしたのであろう。
その小さな鬼との生活は、平生幾度も夢にまで見た、家族と言う名の楽土であった。
寝食を共にし、喜怒哀楽を分ち合うと言う只そのことのみが、私には何物にも代え難い仕合わせとなったのである。私は少女を求め、少女も亦真率に誠心を以て応え、いじらしいこの振舞は少女への愛着を旧に倍した。
――しかし同時に、少女の喪失を恐れる気持も日を逐う毎に著しくなり、結果私は他者との交わりの一切を絶って、片時も少女の傍を離れるまいと、半ば籠城とも言える生活を漸う営んだのである。
世界は、私と少女のたった二人で出来ているのだ。それ以外のつまらぬ小事に、かかずらっている遑はない。私は博麗の勤めにさえも、遂に関心などゝ言うものを持てなくなってしまったのである。
そうしている内にも様様の輩が苦言を呈してくるのであったが、或は計畫でないと言う證が那辺にあろう。きゃつらが肚の底で何を考えているかなど、全く知れたものではない。私はもう周囲の雑音に耳を貸す積りなど更更なかった。そしてそれは妖怪の賢者を名告る八雲であっても同前である。私は思い附く限りの罵詈雑言を浴びせたのちに、彼女を手荒く斥けたのである。
――あゝ、今にして思えば別れしな、八雲が發したあの一言こそが、私を滅ぼす呪であったのか。
曰く、私が小鬼を毀したのだと。
それは知らず意識の外に追い出してきた現実を、短兵急に差し向けられた、と言う箇所に於いて私を甚だ顛倒させたのである。
改めて思考を巡らすまでもない。これほど自身に都合の良い、夢の様な出来事が起こり得る道理など、一向有りはしないのである。
眼前の鬼を見よ。恰も頑是ない童女である!
挙措進退の毅然とした、如何にも武人めいた小さき鬼が、私の望む妍き少女に変貌を遂げしめたのは――そう、紛れもなく、私の博麗としての能力の所作に違いないのだ。意識せずにとは言条、私はこの宝物を、そっくり別種のものに変質させてしまったのである。
何と言う。まるで粗悪な触媒物質、乃至黄泉戸契の様ではないか。少女は既に此岸の住人である。斯く悟ってしまうと――本来あまりに細い私の神経がこれ以上堪え得ることなど、出来よう筈もないのであった。
最早、楽園は逸したのである。
私はあッと声を發して、神社を逃れ、そして只ひたすらに山野を奔った。
その姿は既に浅ましき鬼へと変わり果て、それを糾するかの様に、数多の源平が次次私に纏い附いてくる。少女と時を同じくして幻想郷にあらわれた色鮮やかなこの蝶も亦恐らく南方縁の幻想に違いないのだ。
――慟哭が耳朶に触れた。堪えられない。目を瞑る。懺悔の言葉を再三再四繰り返し乍ら、私はその鬼哭啾啾の届かないところへ、届かないところへと、何処までも遮二無二に疾駆して――そうしてこの幻想郷から遂に行方を眩ましたのである。
嘗て鬼神であった紅白の君が博麗を継いだと仄聞したのは、第百十季代初頭の晩秋であった。
(了)
何故此の様な低い点数としたか。それは、何故か私の心がこの作品を嫌う唯一の理由。
それは自分が尊敬して止まない石見の人、森林太郎と言う人を騙った作品に他ならぬからと言っては、世人は笑うであろう。「何をそんな戯言を」と。そんなことはいくらでもある事だがと言うことは浅学非才の⑨でも周知の事実だと。
然しそれならば其人の過去一切を掘り下げるべきだと思う。 森林太郎、いや森鴎外「高瀬舟」を読みて後、投稿す。
名も無き一騙り人
気持ち良くだまされたなあw
文章も読んでみると読みやすいふしぎ!
先代はがどんな能力なのかいまいち解りませんのです。
文章に関しては読めなさ過ぎて辞書検索が大活躍でした。
創想話で久々に真っ当な小説を見た気がします。
六十点は自身にとって高得点です! ありがとうございます! ツンデレktkr!
……失礼しました。
鬼について羅馬人云云と言う語りをどうしても入れたかったので、この題名にならざるを得ませんでしたw
>5様
ありがとうございます! ところで今日はあやれいむの日なのですね。そして九月六日は萃霊夢の日!
六十四卦で萃は四十五ですので4+5=9は萃香の意! ……え? チルノちゃんr
四月五日ですと萃香だけの日ですね……うむむ。で、では、二月六日は鬼霊夢――なにそれこわい。
>7様
寔に、寔にありがとうございました!
そう言って戴けるだけでも救われた様な気がいたします。投稿して良かった……!
霊夢も人妖問わずに相手をめろめろにしちゃいますよねw
先代の能力も、基本的に霊夢と同一と考えて執筆しました。
こんな感想が俺の限界だった。すまぬ。
先代の巫女が鬼を毀したのだというところが、何となく解るんですが何となく過ぎてモヤッとしたり。
先代の巫女の視点で考えるとそうなのかな、と思うのですけれど、何故八雲がそれを指摘出来たのかしらん。
ともあれ、心の情景が美味しい作品でした。堪能しました。
面白かったです、ありがとうございました。
ありがとうございます!
霊夢が誰に対してもああ言うつれない態度を貫いているのは、報酬系の機能不全体質を自覚しているから
などと推測してます……。
ひとたび手に入れてしまうと喪うことが怖くなる、だから欲しがらない様にして生きてきたのではと。
そう言う心情を上手く表現できる様になりたいです。
>>13様
らめ、もうらめえ! ビクンビクン! 初めて百点を戴いてしまいましたありがとうございます!
巫女が仕事をしなくなったので何とかしたかった
と言うゆかりんの意圖を、もう少し説明した方が良かったのかも知れません。反省です。
>>可南様
あわわわわ、可南様ありがとうございます!
とても気持ちが潤ってまいりました!
もう、本当に投稿して良かったです……!
>>六段目ににとりが出てきて反応した私はきっともう駄目なんだと思います。
コメレスご法度と知ってはいるけれど一言。
俺もだ。
二色蓮花蝶の読みは、にいるれんかちょうと最近知った自分。
芥川龍之介の河童なタイトルも東方ぽくて、おしゃれです。
前回のレスでは、山の賢者様のお名前を……! 何たる失態……猛省……ッ。
本当に申し訳御座いませんでした!(ジャンピング土下座)
ところで、にとりと申しますと、サッカークラブコンサドーレ札幌のユニフォームには
kappaとニトリの両方の名詞が入っていて噴飯してしまいますw
>>18様
ありがとうございます! 霊夢は南国からやってきたと言う説もあるのですよね。
二色を、ニイルと発音するのは沖縄のお国言葉ですとか。
>>19様
御洒落と仰って戴き寔にありがとうございます!
あわわ、しかし何だか誉め殺されてもおります様な……w
遠慮など要らないのですよ! もっと存分に私を叩いてくださいお願いします!
天子ちゃんマジ天子って思ってる紳士な俺には
幻想郷の人達の気持ちがとてもよくわかります。
読み応えあるしね。
方向性間違ってないと思う。
なんとも不思議な夢である。
端的に一言、面白かったです。
私も、もし現実に萃香ちゃんが存在したら!
などと空想に耽ることが度度ありますw
>>23様
心象風景でエコーが掛かって聞こえております。この針路で間違いないと仰って戴けますとは……!
寔に! 寔にありがとうございます!
>>ナルスフ様
ありがとうございます! ありがとうございます!
華胥の夢、盧生の夢、胡蝶の夢、池塘春草の夢、霊夢――。
霊夢とは実に不思議な名だとは思いませんか……?
博麗の巫女と云う存在自体も神秘的で、そこに思いを巡らせますと
私も色色な白日夢を見てしまいそうですw
ところで東方project最新作の「妖精大戦争」も
妖精達の舞い踊る、正に「真夏の夜の夢」でございます。
>>25様
勿体ないお言葉寔にありがとうございます!
ちょっと感極まってしまいました……。ありがとうございます。
創想話にはなかなかないタイプのSSですね。新鮮で面白かったです。
んほぉ! 感激です! 寔にありがとうございます!
今でも読んで戴けますなんて……! 本当にうれしいです……!
萃香は霊夢に勝ったのに、目的自体をなかったことにした。博麗の巫女まじチート。
媚態による統治ってのは面白いなあ。妖怪たちも巫女にしばかれてそれでも好きだってんだから一方通行。
iceさんの新作が早く読みたいので100点は次にとっておきますよ。