生産ラインの白く平たい屋根が、見渡す限りの地平まで続いている。
地上800メートルのオフィスルームへと高速エレベーターで向かう彼女は、その光景を無感動に見つめていた。
はぁ、と吐いた溜息にも、呼吸は伴わない。窓ガラスにかけた細い指に力を込める度に、極小モーターのかすかな駆動音が響いた。
視線のピントを遠くに合わせてみる。白い地面と青い空の間、樹の割れ目から漏れ出た樹液ほどの僅かな幅で、深山の緑が息衝いているのが見える。
それを視覚で捉えた瞬間に、胸を押し潰すような切なさが溢れてきた。
あぁ、あの場所にはまだ、もしかしたら。
しかしそんな思いをかき消すように、エレベーターは開放階層を過ぎパイプの中へと進入してしまった。暗黒に染まった視界。窓は鏡へと早変わりする。そこに映るのは、穢れひとつない蛍光の中に立つ、変わり果てた少女の姿だった。
かつてはきょろきょろとよく動いた愛らしいその瞳も、今やただ白と黒のガラス玉でしかない。景色を観ているのは瞳孔ではなく、高感度の半導体カメラだ。
丸い顔を包むのは、強度を誇るネオセラミクスである。鼻の膨らみは辛うじて認められるが、穴はない。口に至ってはその跡すら認められない。代わりに顔面の下半分を、灰色がかったマスクの様なものが覆っていた。これは触れたものの味や匂いを電気信号へ変換できる最新型のセンサーであった。
エレベーターは静かに上昇を続ける。何かが軋むような音が聞こえてくるのは、エレベーターのせいではない。彼女の身体のあちこちで姿勢制御が行われ、ミクロサイズの歯車が猛烈な回転を繰り返しているからだ。
微かな加重を感じながら、少女は呟いた。彼女の悲しみを空気振動に変換したのは、もちろん声帯ではなく人工の発声装置である。
「やっぱり、こんなのおかしいよ、神奈子」
土着神の頂点、洩矢諏訪子は、窓に額を預けた。ガチンという耳障りな音が響いた。
頭に渦巻く熱をガラスへと逃がしたかったのだが、堅い額は最初から冷えたままであった。
◆ ◆ ◆
東風谷家に早苗という娘が生まれ、風祝の能力を持つことが分かって皆が喜んでいた、あの暑い夏。
八坂神奈子は、守矢神社から去った。
「見ててよ、諏訪子。私は必ず成功してみせる」
出立の際にそう言い切った神奈子の表情は晴れやかであった。
信仰は目に見えて減っていくばかりで、もはや消えることを座して待つのみと、最近の彼女は半ば諦めていたのである。それがまた豪い変わりようだ、と諏訪子は半ば呆れていた。
神は恩恵を人間達に与えなければ存在できない。
人間が狩りをして暮らしていた頃は、その成功をもたらす者に人は祈った。
糧を得る術が農耕へと移ると、豊穣をもたらす者に人は祈った。
経済観念が発展し商業が盛んになると、富裕をもたらす者に人は祈った。
民草がそれを崇めて感謝することで、神は存在できたのである。
しかし今やそのお株は、完全に技術革新へと奪われてしまっていた。乾と坤を創造し、雨と風を呼ぶだけの神など、もはや誰も顧みない。
ならば、自分たちの神としての在り方を変えればいい。
技術の革新を常にもたらし続ける存在には、人間達も信仰を惜しみなく捧げるだろう。神はその象徴であればいいのである。
「手始めに、工場と研究所をおっ建てる。技術者も引っ張ってこよう。人間は河童と違って金で動いてくれるから、話はすぐに纏まるさ」
神奈子のそんな言葉を真に受けることができなかった諏訪子には、はにかんだ様な妙な笑顔で友人を見送るしかできることがなかったのだった。
あの別れからもうすぐ14年が経つ。
あの時は赤ん坊だった早苗も、もうすぐ中学3年生になる。風祝としての力も、修業を進めるとともにめきめきと伸びてきていた。
「やれやれ、便りがないのは元気な証拠らしいけどねぇ。神様にしたってこの放蕩は長すぎやしないかい」
鳥居の上に仰向けに寝転んで、誰ともなしに諏訪子は喋りかける。
夏が来る度に、この神社で一人過ごしてきた年数を数えてしまう。大好きなはずの蝉時雨も、その時ばかりは五月蠅いだけだ。
幻想郷、という場所があるらしいと、風の噂で諏訪子は聞いた。
そこでは妖怪たちがまだのびのびと暮らしていて、人も先端技術とは無縁な生活を続けているらしい。
八百万の神々の中にも、新たな信仰を求めてその地へと移る者が後を絶たなかった。
こちらの人間達が神を必要としなくなったのなら、必要とされる場所に行けばいい。自分の在り方を変えてまで、この世界に固執する必要などないではないか。
神奈子が落ち込んで帰ってきたら、共に幻想郷へ移住することを勧めよう。
諏訪子はそんな風に、彼女の帰りをずっと待っていた。
「いくら頑固っていっても、限度ってもんがあるだろう」
青すぎる空を見上げて、諏訪子が呟いた瞬間。
ぞくり、と空気が揺れ、鎮守の森の鳥たちが騒ぎ出した。
祟り神は飛び起きた。
背後の本殿の中から、異様な気配が漏れ伝わってくる。思わず身を強張らせた諏訪子は鳥居から転げ落ちたが、綺麗なムーンサルトをくるりと決めて着地した。
得体の知れない重苦しい風が守矢神社に渦巻いている。すわ一大事、おかしな邪神でも呼びこんだかと諏訪子は焦る。
「そんなに身構えないでくれ。私だよ、諏訪子」
しかし建物の中から聞こえてきたのは、長い間待ち続けた懐かしい相方の声であった。
「神奈子! 帰ってきたのか?」
「あぁ。だが余りゆっくりもしてられないんだ。取引先を待たせてる」
「とりひきさき?」
神の口から出るのに相応しくない言葉であるような気がしたが、違和感よりも神奈子が帰ってきたことへの喜びが勝った。
諏訪子は思わず駆け出した。鳥居から本殿までの100メートルを、風より速く飛んだ。話したいことが沢山あるのだ。ひとりぼっちの寂しさも、早苗の成長への喜びも、全部まとめてぶつけてやりたかった。
「神奈子、出てこい! いいから呑もう」
「お誘いは嬉しいんだが、今酒を入れるわけにはいかん」
本殿に飛び込んだが、屋内は暗くひっそりとしていて、諏訪子はぶるりと身を震わせた。よく見知ったはずの内装が、ひどく不気味に見えるのは何故だろう。
「こっちだよ、諏訪子。すまないがそっちには出れそうになくてね」
奥まった所から聞こえてくる神奈子の声は、何だかガスの層を隔てたように掠れて聞こえた。声のする方へ諏訪子は向かう。変だ、神奈子の纏う神気はこんなに重かっただろうか。
気配を辿っていくと、社殿の一番奥の間へと辿り着いた。どうやら神奈子は神体の元へと転移してきたらしい。襖は閉じられていて、中の様子は分からなかった。しかし諏訪子がそれを開くことを一瞬躊躇ってしまうほど、漏れてくる空気は異質だった。
「いやしかし、本当に久しいねぇ。早く顔を見たいよ」
「う、うん」
意を決して、諏訪子はその戸を引いた。
「あぁ諏訪子! 変わらないようで何よりだ」
灯り一つない6畳ほどの空間の中に、それは二本の足で直立していた。
ダイオードの眼が紅く輝いている。その光を腕や脚のあちこちが鈍く反射していた。袖から露出した手首の関節には、むき出しの歯車が嵌め込まれている。それがぎりぎりと回転すると、掌や指が連動して動くようであった。動作が人のように滑らかなことが返って不気味だ。
「か、神奈子、なの?」
「そうだよ。私の方は随分と変わっただろう」
鉄の塊が、神奈子の声で喋った。
そう認識した瞬間、諏訪子は余りのことに気が遠くなりそうだった。
信じがたいことに八坂神奈子は、その身の全てを機械へと変えていたのだ。
「あっはっは、やっぱり驚いたようだね。でもこの姿が丁度いいんだよ、これからの信仰を得るには」
「あんた、何考えてるの!? 頭おかしいよ、絶対!」
「正常さ、イカレてなんかいない」
神奈子が一歩を踏み出した。足音は全く聞こえなかった。
「ほら見てよ諏訪子。この身体こそ、技術の粋を結集した最先端科学の結晶さ。現代の人間達が、この希望の象徴を見て信仰しない訳がないだろう」
「だからって、そんな……」
言い表すべき言葉が全く見つからず、諏訪子は酸欠の金魚のように口をぱくぱくするしかなかった。
「迎えに来たんだよ、諏訪子。神社を移す。ちょっと遠いけど、オートメイションした工場がやっと完成したんだ。そのど真ん中に場所を作ってある。科学の信仰を集めるにはこれ以上ないって場所をね。」
東風谷の者にも話を通さなきゃだけど、と言いながら、神奈子は背負った御柱のひとつを手に取った。
それが無数の鋼鉄を集めた異形の柱であることに、諏訪子はようやく気が付いた。鉄塊はかしゃりかしゃりと形を変えていく。間もなくそれは、不格好な腕のような部品を形作った。
「その前に、お前も変わるんだ。新たなる信仰に相応しいこの姿に」
そしてその塊を、諏訪子に差し出す。
「ま、さか。その腕を私に?」
「そうだよ。強く念じるだけでいい、簡単だ」
取り替えろというのだ、この腕と、その腕を。全身を怖気が走った。
「嫌だ! 絶対に嫌だ!」
「駄々をこねるんじゃないよ。抵抗はあるかもしれないが、すぐ慣れるさ。そしてじきに分かる。人間たちが向ける技術への信仰は凄まじさをな。日の本だけじゃない、世界中の信仰がこの身に集まってくるんだ!」
ずいと詰め寄る相手に合わせて、諏訪子は一歩後ずさりした。
本当に、このロボットが神奈子だというのだろうか? 目の前の彼女が、どこか別のところから送り込まれた偽物でないと誰が言い切れる?
諏訪子は恐慌していた。地面に両の手をつく。闇が同心円状に広がる。
「来るな! 触るな! 祟ってやるぞ!」
太古より息衝く強大な神の祟りだ。
脅しのつもりで発現したその術は、しかし。
「効かないよ。お前と私じゃ、もう信仰の量が桁違いなんだ」
ぶぉん、という神奈子の腕の一振りで、いとも簡単にかき消されてしまった。
「あ、あ、あ……」
「ふぅ、残念だよ諏訪子」
そのまま戦神は、くるりと諏訪子に背を向けた。
「だが諏訪子もいつか気が付くさ、この信仰の素晴らしさに。その時にまた、改めて問うとしよう」
言い残すと、その身体は瞬く間に消えてしまった。またどこかへと転移したのだろう。
後には、肩で荒く息をする諏訪子ひとりだけが残されていた。
◆ ◆ ◆
神奈子が立ち上げた会社、「MORIYA INDUSTRIES」の名を冠した機械たちは、瞬く間に全世界を圧巻した。
いつの間にか東風谷家の者たちも、その企業経営に参加していた。
だが諏訪子は、その名を自分の視界に入れることすら酷く忌み嫌ったのだった
「諏訪子様。八坂様をあんまり怒っちゃいけませんよ」
そんな諏訪子を支えたのは、ついに風祝となった早苗である。彼女はその年若さのために、会社経営からは離れた位置にいた。そのため返って、古き良き巫女のように諏訪子の傍にいることが多かった。
「あれだって、信仰を少しでも得ようとする一つの手段なのですから」
「……そうは言ってもねぇ」
自分は自分のままでいたいと願う諏訪子は、神奈子の変貌をどうしても受け入れられなかった。「MORIYA INDUSTRIES」が隆盛するに従って、守矢神社はますます寂れていった。
それでも、神と巫女のいるこの場所が、諏訪子は好きだったのだ。
そうやって、夏が終わろうとしていた。
朝夕の涼しい風が、夏の熱を地面から少しずつ刈り取ってゆく。
人として。女として。そして風祝として。
東風谷早苗の幸福を誰よりも願っていた諏訪子にとって、しかしその事故はあまりにも突然だった。
「おい、救急車だ! 早く!」
「え、おい。あそこに女の子がいるのか?」
「うわ、ありゃあダメだ。完全に挟まれちまってる。ペシャンコだ」
早苗の異変に気付いた諏訪子がその場へ飛んだ時には、全てがもう終わっていた。
ハンドル操作を誤ったのか、黒い自動車が斜めに壁に突き刺さっている。
それほど広くない路地である。あまりスピードは出ていなかったのか、ブロック塀は僅かにひしゃげた程度だった。
しかし、クレーターのように凹んだその中心には、
「早苗ぇぇぇぇ!!」
ボンネットに突っ伏す、セーラー服の早苗がいた。
まるで泉から湧いているかのように、コンクリートの上を血が流れていく。意識を失っている彼女はぴくりとも動かない。いや、意識があった方が辛かっただろう。車は早苗の腰から下を、完全に押し潰す格好で停まっていたのだから。
「ああああああああ!!」
我を失って、諏訪子は早苗の元へと走った。人垣の間を彼女がこけつまろびつ走り抜けても、誰一人気付くことはなかった。
ボンネットの上に諏訪子は飛び乗った。そして真っ青になった巫女の肌に手を当て、力を送る。生命の灯が今にも消えてしまいそうな少女を救うため、神は必死であった。だがいくら力を込めても、宙へ溶け出ていく生命力の方が遥かに多い。故障した蛇口のような神力しか捻り出せない無力な自分に、諏訪子は苛立った。
「お、おい! あれ……」
野次馬の一人が声を上げる。それにつられて諏訪子も顔を上げた。
歯車の音。紅い眼光。屋根の上に立つのは、見覚えのある異形の姿。
「そこをどきな、諏訪子。その娘は私が助けてやる」
神奈子だ。腕を組んで立つ姿は、正しく仁王立ちであった。
「ありゃあ、モリヤの」
「あぁ、CMに出てたロボットじゃないか」
野次馬にどよめきが走った。「MORIYA INDUSTRIES」の広告塔としてメディア露出も厭わなかった神奈子の姿は、人々の広く知るところであった。
諏訪子は剥き出しの敵意を隠そうとせずに叫ぶ。
「誰がお前の力なんか!」
「冷静になれ、諏訪子。その怪我は神通力でどうこうできる範囲ではないだろう」
血の臭いが鼻を突く。
「大丈夫だ。人工の臓器や皮膚なら、うちの専売特許でね。移植を行う設備もある」
「人工……? 早苗の身体も、機械にするっていうのか」
「機械といっても、生体機構に限りなく近いものだよ。見た目では分からない。さぁそこを退くんだ諏訪子。さもないとその娘は ――」
神奈子が手を差し伸べた。強化プラスチックのしなやかな指が、諏訪子の視線を吸い寄せる。
治せるのか、早苗を。途方もなく不幸な事故に見舞われたこの娘を、救うことができるのか。
迷っている時間は、なかった。
「……頼む、神奈子」
冷たい肌から、諏訪子は両手を引き剥がした。そのままボンネットから降り、ふらふらと後ずさる。
「助けてくれ、早苗を、その力で。この娘はまだ死んではいけないんだ」
「あぁ、任せてくれ」
答えた神奈子の背から、無数のアームが現れた。かつては注連縄だったのだろうその触手たちが、自動車を容易く分解していく。
周囲の人間たちが、その様に喝采を捧げた。口々に守矢の名を叫び、この救出劇を騒がしく見守っていた。諏訪子には人々の神奈子に寄せる圧倒的な信仰の波動が見えた。
対する自分はどうだ。ここにいる誰一人として、自分の姿を認識すらしていない。大切に思うひとをひとりだって、救ってやることすらできない。
絶望が頭の中を独占した。それはやがて大粒の涙となって、諏訪子の両瞼から流れ出た。
そして無力な神の口から、その言葉は余りにもあっけなく零れ出た。
「神奈子、もうひとつ、お願いがあるんだ」
「何だい」
「あのときの腕をおくれ」
手際よく作業を進めていた神奈子の光る瞳が振り返り、諏訪子を真っ直ぐに見据える。
「あんた……」
「私もなるよ、その姿に。早苗をひとりにはしておけないんだよ」
やがて祟り神は、赤子のように声をあげて泣き出した。
人を愛さずにはいられない神の性が、その憤りをあっけなく吹き飛ばしたのだった。この涙が、自分に残された最後の感情なのかもしれないと、号泣する諏訪子は頭のどこかで冷静に考えていた。
夏の終わりの太陽が、今年最後の殺人光線を地表へと放射した午後の出来事であった。
◆ ◆ ◆
チンという音を立て、エレベーターは停止した。
我に返った諏訪子は、慌ててその箱から降りる。
扉からは、先のオフィスルームまで真っ直ぐな廊下が続いている。その白い壁には、所々赤い柱がデザインされていた。そして柱と柱の間には、機械で作られた獣の像が並ぶ。これはもちろん、鳥居と狛犬を模した造りであった。広大な工場の中心に存在するこの塔は、かつて出雲に存在した超高層社殿をモチーフとしたのだと、神奈子が自慢げに語っていた。
柔らかい絨毯の敷き詰められた廊下を、諏訪子は一歩一歩歩いてゆく。
「……………………」
無機物で作られた瞳からは、悲壮な決意が見て取れた。
歩幅に合わせて揺れる髪はビードロのように光を透かす。ファイバー繊維で構成されたその毛髪は、実際に黄金色に透き通っているのだった。
突き当たりの扉が、諏訪子の存在をセンサーで感知し、両脇へと音もなく開いた。
その向こうの部屋はまるで展望室のように、大きな窓に囲まれている。
諏訪子の立つ場所からでも、抜けるような秋の空がいやというほどよく見えた。
ここの空中オフィスルームこそ、現在の守矢神社の中枢部であった。
空の青を背景にして、2体の少女が談笑している。
「―― ははは、諏訪子も案外抜けたところがあるからなぁ」
「そうなんですよ。それで諏訪子様ったら……」
「お、噂をすれば何とやら、だな」
執務机についているのは神奈子だ。表向きには、「MORIYA INDUSTRIES」の経営は東風谷一族によって行われていたが、実質的な権力を握るのはもちろん彼女だった。
その隣に佇む白いワンピース姿の少女は、瀕死の重傷から生還を果たした早苗である。あの事故とその後の顛末は大々的に報道された。それはモリヤの名声を飛躍的に広めただけでなく、早苗本人をも一躍時の人に仕立て上げた。
身体の半分以上を人工部品で復元され、「奇跡の少女」の二つ名を付けられた彼女もまた、科学技術の象徴として大いに信仰を得たのである。
東風谷早苗は正しく、人間にして神であった。
「あ、それ新しいパーツですね、諏訪子様。調子はいかがですか?」
「どうしたんだい諏訪子。ここに来るなんて珍しいじゃないか」
神奈子の顔が奇妙に歪む。あれは笑っているのだろうか
諏訪子は、機械を受け入れたあの日から、笑顔というものの存在を自分が忘れてしまっている気がした。
義務のように自動で瞬きを繰り返す瞳を煩わしく思いながら、諏訪子は声を作り出す。
「ねぇ、教えておくれよ、神奈子。この私は、ほんとうに、私か?」
その音は、絨毯に吸収されてしまってあまり響かなかった。諏訪子は立て続けに捲し立てる。
「この身体になってから、ずっと不安なんだよ。今ここに立ってる私は、本当に洩矢諏訪子なのか?」
「何を言ってるんだお前は」
神奈子が立ち上がった。それと同時に、体内に収納されていた彼女の象徴が展開される。
御柱がぐいと伸び、注連縄がぱたぱたと構築された。
「お前が諏訪子じゃなかったら、一体なんだっていうんだよ」
「分からないよ! 分からないから怖いんじゃないか!」
諏訪子の大声に、早苗がびくりと肩を震わせた。
「この身体のどこに私がいるっていうんだ!? 見覚えのない塊ばっかりのこの身体に!」
「そりゃあ神体は多少変わったかもしれないが、諏訪子の心はちゃあんとここにあるさ」
「それが信じられないんだよ! 心って何だ? 電気信号でパチパチやって弾き出すデータのことか!?」
自分の思考も言葉も、洩矢諏訪子のものではないのではないか。
その不安がどんどんと膨らんでいき、ついには諏訪子を激昂させたのだった。
神奈子に詰め寄り、諏訪子は叫ぶ。
「お前だってそうだ! おまえは本当に八坂神奈子か!? 誰かが巧妙に作り上げた偽物じゃないと誰が言い切れる!?」
「落ち着きなって、諏訪子。神が巫女の前で取り乱してどうする」
「神だ? 神だと! こんなイカレた神はお目にかかったことがないね!」
諏訪子はついに神奈子の襟首を掴んだ。2体の身長は頭二つ分ほど違ったが、出力制御を外した諏訪子の腕は、神奈子の長身をいとも簡単に引き寄せた。
「さぁ正体を現せ! 誰の差し金で守矢を貶めた? 白状してもらうぞ!」
無機的に据わった眼が、神奈子を射抜く。
だがあくまで冷静に、神奈子は言葉を紡いだ。
「私は私だよ。八坂神奈子、それ以外の何者でもない」
「ほざけ! 私はもう信じないぞ!」
「諏訪子様、お願いです。落ち着いて下さい」
「そうだ、一度頭を冷や ――」
「うわああああああああああああ!」
諏訪子の右手が神奈子の首を掴んだ。そのまま万力のように力を込め、圧壊しようとする。
鋼がひしゃげ、鉄が折れる音がした。
「やれやれ、言葉で言って分からないのならば、仕方がない」
普通であれば苦し紛れの声を絞り出す場面であっても、しかし神奈子の声はいつも通りに飄々としていた。
神奈子の指が、諏訪子の腹をするりと撫でた。
「あ、……え?」
途端に、全身から全ての力が抜ける。視覚も聴覚も触覚も、一瞬でシャットダウンした。諏訪子は自分でも気付かないうちに、漆黒の闇へと落下していった。
「神奈子様! 大丈夫ですか? 諏訪子様は……」
「あぁ、心配ないさ。燃料電池を抜き取って、少し眠ってもらっただけだ。」
「諏訪子様ったらこんなに取り乱して……。私驚いちゃいましたよ」
「誰だって、慣れない内はこんなものさ。諏訪子はこれで繊細なところがあるから、猶更キツかったんだろう」
首の調子を確かめながら、神奈子は立ち上がった。どうやら駆動に問題はないようで、何回か首を回してみても動作は正常であった。
「さぁ、諏訪子を部屋へ運んでやらにゃ。眼を覚ませばもう落ち着いているだろう」
「お手伝いします」
諏訪子の堅い身体が、ふたりによってもう一度エレベーターへと積み込まれる。チンという音とともに扉が閉まると、完璧な防音機能を施されたその部屋に響く音はもうなかった。
地上800メートルの空中神社に、いつもと同じ平穏な時間が戻ってくる。
その繁栄が永劫に続くだろうことを、地球上の誰一人として疑っていなかった。
◆ ◆ ◆
「それでは一丁、博麗神社に『挨拶』して参ります!」
「あぁ、いってらっしゃい」
「ハメ外しすぎるんじゃないよ」
妖怪の山の中腹にある守矢神社に、涼しげな風が吹き抜ける。
まだ暦の上では秋口に差し掛かったばかりとはいえ、標高の高い場所では季節の移ろいも早かった。
洩矢諏訪子と八坂神奈子の二柱は、ようやく一所に腰を置くことができて、一先ずほっとしていた。
「やれやれ、神社と湖ごと引っ越すっていうのは、やっぱり骨が折れるもんだね」
「神奈子のおかげだよ。一足先に幻想郷に入って、色々と根回ししてくれたから」
「なに、大したことはしちゃいないさ」
口では謙遜しながらも、しかしどこか得意げに神奈子は笑った。
諏訪子もにまりと思いっきり笑って見せた。信仰集めは一からの出直しであるが、神奈子と早苗と三人でやっていくことに不安など全く感じなかった。むしろワクワクしているくらいだ。
「ところでさ」
不意に神奈子が呟く。
「向こうの世界を離れる前くらいの記憶が、どうも頭から飛んでるんだよねぇ」
何とか思い出そうとしているのだろう。遠いどこかを見つめたまま、神奈子はうんうんと呻る。
「色々と準備をしていたことは何となく覚えてるんだけど」
「引越しの準備でしょ?」
「いや、それとは別の……何だったっけかなぁ」
頭を捻り続ける神奈子を横目に、諏訪子も思いを巡らせる。
「そういや、私もここに来る直前のこと、あんまり覚えてないや」
「諏訪子も? 結界の影響かねぇ」
「ま、どうでもいいでしょ。忘れちゃったことなんて」
ぴょんぴょんと諏訪子は跳ねる。久々に吸う深山の風を、身体全体で感じられることが嬉しかった。
忘れてしまったのであれば、それは大したことではないのだ。
大事なことならば、記憶はしっかりとその機能を果たしてくれるはずなのだから。
そんなお気楽思考こそ、諏訪子の持ち味であった。
「それよりさぁ、どうやって信仰を集めるか今から考えておこうよ!」
「あぁ、それならひとつ、いい案を考えてあるんだ」
紅葉の葉が早くも色付き始めていた。ここならば素晴らしい紅葉狩りだって楽しめそうだ。
バラ色の未来を想像しながら、神奈子はその展望の第一歩を諏訪子に明かした。
「まずは技術革新さ。幻想郷に、原子力発電所を作ろう」
もうちょっと掘り下げても(その技術の元はどうやったの?的な部分に信仰や神力を絡めたりとか)面白いかなと思います。
あ、それと幻想郷移住の原因も、一行で匂わせるばかりでなく肉付けして欲しかった。思わず膝を打つような理由、それもこの話自体と同じくらい、うへぇな感じのものがあって良かった気がする。
てっきり神奈子が草薙素子みたくなるのかとおもいましたw
しかし、霊体をどうやって機械化するんでしょうね?
プログラムのない機械の人形に神奈子の分身を入れるだけで事は足りる気がします。
機械を社として機能させればいいだけなんじゃないかと。
個人的には、丁度良い所で穴が空いていて良かったです。
とても良い作品だと思います。ありがとうございました。
好き嫌いは分かれる話ではあろうかと思いますが、実に面白かったです。
話が話だけに、もっとえげつないオチがあるともっと良かったです
この趣味の悪い感じがとてもつぼにはまっていて、よかったです。
すみません……。