それは、ほんの偶然だった。
とは言っても、それは偶然などと名を付けて呼ぶのも憚られるような本当に何でもない出来事だったのだが。
一年を通して、私、博麗霊夢の巫女としての一番の仕事は神社の掃除である。というのも、私に課せられた使命は人間の手には余るような騒ぎを起こした奴をとっちめる事であり、この平和な御時世にそんな奴はそうそういないのである。
紫の話によると先代達は神司の依頼なんかもよく受けていたようだが、私にはそんな話は一つも転がって来ない。理由は言うまでもない。
非難を込めた目をむけてやっても、あいつは、というよりこの神社に居着くような妖怪共はまるで素知らぬ顔であるのでどうしようもない。
で、掃除が済んでしまえば後はお茶を飲んで、訪ねて来た誰かと話をするだけである。
まあ何が言いたいのかというと、私には掃除位しかする事がなく、であるからして何かが起こるのは決まってその最中かお茶の最中なのである、という事である。
それは夏も半ばは過ぎたであろう、じわりと蒸し暑い日の掃除の最中だった。
箒を持った私の少し前の空間に亀裂が走り、見慣れた胡散臭い妖怪が現れる。言うまでもなく、スキマ妖怪八雲紫だ。
まあ紫が私を訪ねる事自体はさして珍しい事ではない。が、その時は彼女の開いたスキマの位置が少し高く、彼女の足元にぽつんと丸い影が出来た事に私は気が付いて、ふと目線を彼女の足元にやった。
この時、私は初めて八雲紫の履いている靴を目にした。
恐らく、八雲紫の靴がどのような物か知っている人妖は幻想郷にほとんどいないだろう。それは何も彼女がゆったりした服を着ているからだとかそんな理由ではなく、八雲紫の足元に注意を払う奴などいないだろう、という意味である。
別に八雲紫に限らず足元とは注意を払う場所ではないし、特にあいつの場合は大抵の者は彼女に出くわしたらその顔から目を離さないだろう。色んな意味で。
その「大抵」に属さない奴は、そもそも彼女に目を向けないだろう。八雲紫とはそういう奴なのだ。それはほとんど自業自得なので特に同情の余地は無いが。
そう、意識的に知ろうとでも思わない限り、或いはその日のような偶然でも無い限り、彼女の靴を知るという事は出来ないように思える。
そういう意味で、私はラッキーだったのかもしれない。
そうしてその時私が目にした彼女の靴は薄い黒色のどっしりとした物で、黒色の上からでも分かるような汚れが付いていたし、酷く年季が入っていてくたびれたような印象も受けた。
要するに、ぼろっちかったのである。
こんにちは霊夢、と声をかけられて私はすぐに顔を上げたが、(認めざるを得ない)彼女の優美さに酷く似つかわしくないその履物は私の目に強く焼き付いた。彼女がお茶を終えて帰った後にも、それを細部まで思い描ける程には。
紫がスキマを開いて帰った後、役目を終えてゆっくりとゆらめき閉じていく空間の裂け目を見つめながら、あのぼろっちい靴の事を思い出してみる。
紫がアレは自分に似合っているなどとは考えてはいないだろうし、何か理由があって履いているのだろうか。いや、ひょっとして寝ぼけて履いてきたのか?
もし次に来たときピカピカの靴を履いていたのなら、少しからかってもいいかもしれない。
案外、彼女はそれに喜ぶのかもしれないな、なんて私はぼんやりと思ったのだった。
しかし三日後、外廊下に腰をかけ私の隣でお茶を啜る彼女は、やはりあの靴を履いていた。
彼女は白玉楼の庭師がどうとか言っていたが、私は話半分でその靴の事を考えていた。
私は履物にこだわった事はない。何時からか神社に置いてあった鞋を随分長いこと履き続けている。
でもそれは私が巫女だから巫女服を着て鞋を履いているだけで、必要がなかったのなら私はまた別の格好をしているだろう。特にこだわりという物はない。脇は最初から開いていただけだ。
対して彼女は(恐らく)自分のこだわりで服装を選んでいる。紫を基調とした西洋風のドレスや道師服。白い手袋、変な帽子。そしてあの汚れた靴。
趣味であろうあの服とは違い、あの靴にはもっと特別な何かがあるのだろう。それがどんなこだわりなのか、そもそもこだわりであるのかは分からない。
分からないが、いつも私の所を訪れて色んな世界の話をしてくれる彼女の事だ。あのくたびれた靴は紫と一緒に、どんな大地も踏み締めて来たんだろう。
自分の鞋に目を向ける。私のそれはぼろっちかいだけだ。私はいつだってこの神社にいるだけだから。
「ーーーーーでね、幽々子の前にも………」
彼女の顔を見遣る。1000年を生きた妖怪であるとは、とても思えない。見た目だけなら、見方によっては私とそこまで齢は変わらないようにも思える。
それでも、私を見詰める彼女の眼差しはまるでこの世の全てを映してきたようで、私のそれとはまるで別物だ。私の見てきた物など、言葉に還元してしまえば言い切る事も不可能ではない程度の数だろう。
私は何処にも行けないのか、それとも行かないだけなのか。多分、前者であって後者でもある。
何処へ行ったとしても、私の中心はここだ。必ず戻って来られるよう、私は私を此処へ置いていくだろう。いつか、ここを出ていって未だ帰らぬ友人と違って。
それは紫も同じなのかもしれないけど、私のそれとは少し意味が違う気がする。だって、彼女は自分の居場所を自分で作り上げたのだ。それはたどり着いた場所であるのだから。
私は、生まれるままに何処にも行けない。
「ーーーーーーって。ねえ、ちょっと霊夢聞いてる?」
「……ん?」
思考にふけっていたせいで、途中から紫の話を全く聞いてなかった。彼女は少し不機嫌そうに見える。
「もう、ぼけっとして……どうしたの?」
ジトッとした目での問い掛けに、別に……と返した所で、私はちょっとした事を思い付いた。
「ただ、そろそろリボンかえよっかなあって思ってただけよ」
「リボン?」
「そう、リボン」
髪を結わいているこのリボン、これだけは私が自分で欲しがった物だ。昔、まだ私が一人で暮らしていなかった頃、買って貰った物である。
「これも大分使い古した物だから。そろそろ代えようかなあって」
「へえ。…………………そうね、なら私が新しい物をプレゼントしましょうか?」
「あら、いいの?じゃあお願いしようかしら」
ちょっと待ってね、と言って彼女はスキマを開き、そこから紅白ラインの可愛らしいリボンを取り出した。
「ん、結構良いわね。有り難く頂いておくわ」
「ほら、私が結わいてあげましょう」
私が元のリボンを外すと彼女はそう言って私の頭に手をやった。
しかし、私が思い付いたのはそんな事ではない。
「それじゃあ、こっちはごみ箱に捨てときましょうか」
「……ちょっと、私のスキマをごみ箱扱いしないで頂戴」
元のリボンを開かれたスキマに放り込む私を見て彼女は顔をしかめる。
しかし実際、この紫の操るスキマという物は、スキマ妖怪ではない私にとっては物を投げ捨てる位の意しか成さない物でもあると思う。
彼女が言うにはこのスキマの中の世界は無秩序そのものであり、彼女であっても無造作に扱う事は出来ないらしい。私にはさっぱり分からないが、こいつはスキマを開く度に何やらよく分からない計算を行っているようだ。なので、今みたいに勝手に物を投げ込まれたりすると困るのだろう。
まあとにかくこれで、「私の」リボンは無秩序の世界に旅立った訳だ。その世界で悠久の時をさ迷い続けるかもしれないし、いつかどこかの世界に流れ着くかもしれない。
これは「私」の「私」に対するささやかな反逆だ。何の意味を成す訳でもないけれど、そこには割に重要であるかのような響きもあるし、ちょっと位は大目に見て欲しい。
「貴女ももう小さくないんだから、ちょっとは気遣いも覚えなきゃ駄目よ……………はい、出来ました」
どうやら髪を結わき終えたらしい。愉しそうに、とっても可愛らしいわよ、と彼女は言う。
可愛らしいというのは小さくない女性には不適切なんではないかと思ったが、そういう言動はいつもの事だ。
ほんの少しのやり切ったような気持ちと新しいリボンは、そんなに悪い物ではなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そして、靴の事などすっかり忘れた春先のある日。
日傘片手に境内に降り立つ彼女を見、ふと思い出してその足元に目をやると、彼女はあの靴を履いていなかった。
代わりに彼女は、ずっと昔からそれを履いていたかのように思わせる位、よく似合う薄い赤色のヒールを履いていた。
いつから彼女はこのヒールを履いていたのだろうか。私の事だから、彼女がそのヒールでこの神社に来たのは初めてかもしれない。
その日の彼女はどこか落ち込んで見えて………などという事はなく、いつものようにお茶をして、いつものように帰って行った。
会話にも注意していたが、彼女はいつものように私の怠惰を揶揄し、実の無い冗談を言い、扇子で口許を隠してするいつものくすくす笑いも何ら普段と変わらなかった。
次に会った時もやはり彼女は赤いヒールを履いていたし、その次もそうだったし次の次もそうだった。
結局、彼女があの汚い靴を履いてくる事は二度となかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夏も半ばは過ぎたであろうが、まだまだ蒸し暑さが残るある夏の日。
今日も紫は私を訪ねて、実の無い話をし、スキマを開いて帰って行った。
目の前にはいつものように、彼女の通って行ったスキマがゆらゆらと揺らめいている。
ふと、彼女の靴を初めて見たのも今ぐらいの時期だった事を思い出す。
あの日とは違い、今日も彼女は赤いヒールを履いていた、と思う。
結局は、八雲紫が靴を新調したというだけの話だ。
そして今更誰かに紫って前はぼろっちい靴を履いてたのよ、なんて言っても笑い話にもならない。この話はもうこの世界では終わってしまったようなものだ。
ただ私と、そして恐らく彼女だけがちょっとした想いを寄せるだけの話。
私は、あの靴の事なんて何も知らない。ただ、私は思うのだ。
彼女はきっと、誰にも知られずに、一人であの汚くなった靴を捨てたのだろうと。
それなら。
あの汚くなった靴がピカピカであった頃、それを、彼女は一人で買ったのだろうかと。
きっと、違うんだろうな。
人間か妖怪か、子供か大人か、男か女か。私の知らない誰かが、きっとそこにいたのだろう。
そんな事を考えていると、紫が消えて行ったスキマからはらりと何かが落ちてきた事に気付く。
それはよく見るまでもなく、使い古した私のリボンだった。
私は一つ溜息をつき、あの妖怪がくれたきれいなリボンを自分の手で解いた。
見慣れたリボンで髪を結わいていると、あの汚れた靴を履いた八雲紫と、そして私に似た誰かが並んで歩いていく姿が頭の中に浮かび上がった。
私はなんとなくそれを不自然に感じ、その誰かをいなくなった友人に置き換えてみた。
さっきよりは幾分しっくりくるな、などと思う頃には髪は結わき終えられており、私はまた手持ち無沙汰になる。
私は湯呑みにお茶を注ぎ、ずずっ、と音を立ててそれを啜った。
とは言っても、それは偶然などと名を付けて呼ぶのも憚られるような本当に何でもない出来事だったのだが。
一年を通して、私、博麗霊夢の巫女としての一番の仕事は神社の掃除である。というのも、私に課せられた使命は人間の手には余るような騒ぎを起こした奴をとっちめる事であり、この平和な御時世にそんな奴はそうそういないのである。
紫の話によると先代達は神司の依頼なんかもよく受けていたようだが、私にはそんな話は一つも転がって来ない。理由は言うまでもない。
非難を込めた目をむけてやっても、あいつは、というよりこの神社に居着くような妖怪共はまるで素知らぬ顔であるのでどうしようもない。
で、掃除が済んでしまえば後はお茶を飲んで、訪ねて来た誰かと話をするだけである。
まあ何が言いたいのかというと、私には掃除位しかする事がなく、であるからして何かが起こるのは決まってその最中かお茶の最中なのである、という事である。
それは夏も半ばは過ぎたであろう、じわりと蒸し暑い日の掃除の最中だった。
箒を持った私の少し前の空間に亀裂が走り、見慣れた胡散臭い妖怪が現れる。言うまでもなく、スキマ妖怪八雲紫だ。
まあ紫が私を訪ねる事自体はさして珍しい事ではない。が、その時は彼女の開いたスキマの位置が少し高く、彼女の足元にぽつんと丸い影が出来た事に私は気が付いて、ふと目線を彼女の足元にやった。
この時、私は初めて八雲紫の履いている靴を目にした。
恐らく、八雲紫の靴がどのような物か知っている人妖は幻想郷にほとんどいないだろう。それは何も彼女がゆったりした服を着ているからだとかそんな理由ではなく、八雲紫の足元に注意を払う奴などいないだろう、という意味である。
別に八雲紫に限らず足元とは注意を払う場所ではないし、特にあいつの場合は大抵の者は彼女に出くわしたらその顔から目を離さないだろう。色んな意味で。
その「大抵」に属さない奴は、そもそも彼女に目を向けないだろう。八雲紫とはそういう奴なのだ。それはほとんど自業自得なので特に同情の余地は無いが。
そう、意識的に知ろうとでも思わない限り、或いはその日のような偶然でも無い限り、彼女の靴を知るという事は出来ないように思える。
そういう意味で、私はラッキーだったのかもしれない。
そうしてその時私が目にした彼女の靴は薄い黒色のどっしりとした物で、黒色の上からでも分かるような汚れが付いていたし、酷く年季が入っていてくたびれたような印象も受けた。
要するに、ぼろっちかったのである。
こんにちは霊夢、と声をかけられて私はすぐに顔を上げたが、(認めざるを得ない)彼女の優美さに酷く似つかわしくないその履物は私の目に強く焼き付いた。彼女がお茶を終えて帰った後にも、それを細部まで思い描ける程には。
紫がスキマを開いて帰った後、役目を終えてゆっくりとゆらめき閉じていく空間の裂け目を見つめながら、あのぼろっちい靴の事を思い出してみる。
紫がアレは自分に似合っているなどとは考えてはいないだろうし、何か理由があって履いているのだろうか。いや、ひょっとして寝ぼけて履いてきたのか?
もし次に来たときピカピカの靴を履いていたのなら、少しからかってもいいかもしれない。
案外、彼女はそれに喜ぶのかもしれないな、なんて私はぼんやりと思ったのだった。
しかし三日後、外廊下に腰をかけ私の隣でお茶を啜る彼女は、やはりあの靴を履いていた。
彼女は白玉楼の庭師がどうとか言っていたが、私は話半分でその靴の事を考えていた。
私は履物にこだわった事はない。何時からか神社に置いてあった鞋を随分長いこと履き続けている。
でもそれは私が巫女だから巫女服を着て鞋を履いているだけで、必要がなかったのなら私はまた別の格好をしているだろう。特にこだわりという物はない。脇は最初から開いていただけだ。
対して彼女は(恐らく)自分のこだわりで服装を選んでいる。紫を基調とした西洋風のドレスや道師服。白い手袋、変な帽子。そしてあの汚れた靴。
趣味であろうあの服とは違い、あの靴にはもっと特別な何かがあるのだろう。それがどんなこだわりなのか、そもそもこだわりであるのかは分からない。
分からないが、いつも私の所を訪れて色んな世界の話をしてくれる彼女の事だ。あのくたびれた靴は紫と一緒に、どんな大地も踏み締めて来たんだろう。
自分の鞋に目を向ける。私のそれはぼろっちかいだけだ。私はいつだってこの神社にいるだけだから。
「ーーーーーでね、幽々子の前にも………」
彼女の顔を見遣る。1000年を生きた妖怪であるとは、とても思えない。見た目だけなら、見方によっては私とそこまで齢は変わらないようにも思える。
それでも、私を見詰める彼女の眼差しはまるでこの世の全てを映してきたようで、私のそれとはまるで別物だ。私の見てきた物など、言葉に還元してしまえば言い切る事も不可能ではない程度の数だろう。
私は何処にも行けないのか、それとも行かないだけなのか。多分、前者であって後者でもある。
何処へ行ったとしても、私の中心はここだ。必ず戻って来られるよう、私は私を此処へ置いていくだろう。いつか、ここを出ていって未だ帰らぬ友人と違って。
それは紫も同じなのかもしれないけど、私のそれとは少し意味が違う気がする。だって、彼女は自分の居場所を自分で作り上げたのだ。それはたどり着いた場所であるのだから。
私は、生まれるままに何処にも行けない。
「ーーーーーーって。ねえ、ちょっと霊夢聞いてる?」
「……ん?」
思考にふけっていたせいで、途中から紫の話を全く聞いてなかった。彼女は少し不機嫌そうに見える。
「もう、ぼけっとして……どうしたの?」
ジトッとした目での問い掛けに、別に……と返した所で、私はちょっとした事を思い付いた。
「ただ、そろそろリボンかえよっかなあって思ってただけよ」
「リボン?」
「そう、リボン」
髪を結わいているこのリボン、これだけは私が自分で欲しがった物だ。昔、まだ私が一人で暮らしていなかった頃、買って貰った物である。
「これも大分使い古した物だから。そろそろ代えようかなあって」
「へえ。…………………そうね、なら私が新しい物をプレゼントしましょうか?」
「あら、いいの?じゃあお願いしようかしら」
ちょっと待ってね、と言って彼女はスキマを開き、そこから紅白ラインの可愛らしいリボンを取り出した。
「ん、結構良いわね。有り難く頂いておくわ」
「ほら、私が結わいてあげましょう」
私が元のリボンを外すと彼女はそう言って私の頭に手をやった。
しかし、私が思い付いたのはそんな事ではない。
「それじゃあ、こっちはごみ箱に捨てときましょうか」
「……ちょっと、私のスキマをごみ箱扱いしないで頂戴」
元のリボンを開かれたスキマに放り込む私を見て彼女は顔をしかめる。
しかし実際、この紫の操るスキマという物は、スキマ妖怪ではない私にとっては物を投げ捨てる位の意しか成さない物でもあると思う。
彼女が言うにはこのスキマの中の世界は無秩序そのものであり、彼女であっても無造作に扱う事は出来ないらしい。私にはさっぱり分からないが、こいつはスキマを開く度に何やらよく分からない計算を行っているようだ。なので、今みたいに勝手に物を投げ込まれたりすると困るのだろう。
まあとにかくこれで、「私の」リボンは無秩序の世界に旅立った訳だ。その世界で悠久の時をさ迷い続けるかもしれないし、いつかどこかの世界に流れ着くかもしれない。
これは「私」の「私」に対するささやかな反逆だ。何の意味を成す訳でもないけれど、そこには割に重要であるかのような響きもあるし、ちょっと位は大目に見て欲しい。
「貴女ももう小さくないんだから、ちょっとは気遣いも覚えなきゃ駄目よ……………はい、出来ました」
どうやら髪を結わき終えたらしい。愉しそうに、とっても可愛らしいわよ、と彼女は言う。
可愛らしいというのは小さくない女性には不適切なんではないかと思ったが、そういう言動はいつもの事だ。
ほんの少しのやり切ったような気持ちと新しいリボンは、そんなに悪い物ではなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
そして、靴の事などすっかり忘れた春先のある日。
日傘片手に境内に降り立つ彼女を見、ふと思い出してその足元に目をやると、彼女はあの靴を履いていなかった。
代わりに彼女は、ずっと昔からそれを履いていたかのように思わせる位、よく似合う薄い赤色のヒールを履いていた。
いつから彼女はこのヒールを履いていたのだろうか。私の事だから、彼女がそのヒールでこの神社に来たのは初めてかもしれない。
その日の彼女はどこか落ち込んで見えて………などという事はなく、いつものようにお茶をして、いつものように帰って行った。
会話にも注意していたが、彼女はいつものように私の怠惰を揶揄し、実の無い冗談を言い、扇子で口許を隠してするいつものくすくす笑いも何ら普段と変わらなかった。
次に会った時もやはり彼女は赤いヒールを履いていたし、その次もそうだったし次の次もそうだった。
結局、彼女があの汚い靴を履いてくる事は二度となかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夏も半ばは過ぎたであろうが、まだまだ蒸し暑さが残るある夏の日。
今日も紫は私を訪ねて、実の無い話をし、スキマを開いて帰って行った。
目の前にはいつものように、彼女の通って行ったスキマがゆらゆらと揺らめいている。
ふと、彼女の靴を初めて見たのも今ぐらいの時期だった事を思い出す。
あの日とは違い、今日も彼女は赤いヒールを履いていた、と思う。
結局は、八雲紫が靴を新調したというだけの話だ。
そして今更誰かに紫って前はぼろっちい靴を履いてたのよ、なんて言っても笑い話にもならない。この話はもうこの世界では終わってしまったようなものだ。
ただ私と、そして恐らく彼女だけがちょっとした想いを寄せるだけの話。
私は、あの靴の事なんて何も知らない。ただ、私は思うのだ。
彼女はきっと、誰にも知られずに、一人であの汚くなった靴を捨てたのだろうと。
それなら。
あの汚くなった靴がピカピカであった頃、それを、彼女は一人で買ったのだろうかと。
きっと、違うんだろうな。
人間か妖怪か、子供か大人か、男か女か。私の知らない誰かが、きっとそこにいたのだろう。
そんな事を考えていると、紫が消えて行ったスキマからはらりと何かが落ちてきた事に気付く。
それはよく見るまでもなく、使い古した私のリボンだった。
私は一つ溜息をつき、あの妖怪がくれたきれいなリボンを自分の手で解いた。
見慣れたリボンで髪を結わいていると、あの汚れた靴を履いた八雲紫と、そして私に似た誰かが並んで歩いていく姿が頭の中に浮かび上がった。
私はなんとなくそれを不自然に感じ、その誰かをいなくなった友人に置き換えてみた。
さっきよりは幾分しっくりくるな、などと思う頃には髪は結わき終えられており、私はまた手持ち無沙汰になる。
私は湯呑みにお茶を注ぎ、ずずっ、と音を立ててそれを啜った。
もう何回か、繰り返し読み返して理解したいと思いました。
うーん、不思議な感覚だ。
お話的にはちょっと物足りない
もう1こくらいリボンと靴にまつわるスパイスを加えて立体感を与えれば、物語的にも楽しめたかもしれない
けど少し難しいかったかも…という自分はまだ理解し切れていない。
リボンと靴になんらかの関連性があることだけはわかったんだけど…
落ち着いた文章で面白かったです。
気になった点として、
発想は決して悪くはないのですが、その話題へ持ち込む導入にやや無理があるように思えました。
「靴なんて普通は見ない」という流れですが、人は相手の足元を見ます。
「足元をすくわれる」「足元に付け込む」「足元にも及ばない」という語が多くあるように、特に日本人はこういう面で相手の性質を読もうとする節があります。
なので、そのあたりをもっと煮詰めてると良かったかな、と。。