南部長持唄
今日は日もよし天気もよいし
結び合わせて縁となる
蝶よ花よと育てた娘
今日は他人の親手に渡す
さあさお立ちだ お名残おしや
今度来る時ゃ 孫つれて
傘を手に持ち さらばと言うて
重ね重ねの いとまごい
故郷恋しと 思うな娘
故郷当座の 仮の宿
箪笥長持 七棹八棹
あとの荷物は 馬で来る
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「夏休みもバイトで忙しくてね。あーあ、メリーは羨ましいなぁ。夏休みは里帰りするんでしょ?」
大学の親しい友人から、時たまそんなことを言われる。
メリーはそのたびに、苦笑で茶を濁すのが通例になっていた。
確かに、メリーは今現在アルバイトをしていない。かれこれ二十年近く生きてきて、バイトをしたこともないのだ。
今時珍しい……と言えばそれまでだが、とにかく経験がない。それは単純な事実だった。
学生は勉強をするものであって、労働に精を出すのは社会人の仕事だ……と、崇高に思い定めているわけでもない。もっと単純に、バイトというものがピンと来ないのだ。
もっとも、バイト経験がないのと、自由な時間が有り余っていることは直結しない。
そう思っているとほら、今日もあいつがやってくる……。
「ねぇメリー! 遠野行こう、遠野!」
いつもどおり、呼び鈴は鳴らなかった。まぁアパートの階段を駆け上がる音で気がつくんだけど、そもそもそういう問題ではない。
また始まった、と苦笑いしたメリーに、宇佐見蓮子は汗みずくの顔を拭う間も惜しそうに、一冊の本を突き出してきた。
ずいぶん古い本だった。茶色く灼け、表紙などはほとんど千切れかかっているのを、セロハンテープで補修した跡がある。そのセロハンテープでさえ茶色く煤けているのだった。
古書というより、いっそ古文書と表現した方がしっくりくるような本だ。どこで見つけてきたの? と問うてみたメリーに、蓮子はひくひくと鼻の穴を広げた。
「大学近くの古本屋でね。三千円もしたわ」
「よかった、一応お金は払ったのね……」
え? と蓮子が目を丸くした。
なんでもない、と首を振ったメリーは、本を開いた。文章はすべて旧字体で、粗悪な素材で出来た表紙には『遠野物語』の文字が見える。
奥付を見てみると、明治四十三年発行の文字があった。ということは、もう百とウン十年前の発行ということになる。道理でボロボロなわけだ。
「『遠野物語』……聞かない名前ね」
「けど結構面白いわよ。東北の遠野って郷の言い伝えを書いてるみたい」
「怪談ってこと?」
「ちょっと違うわ。本当に伝説とかその当時の風俗についても詳しく書かれてるの。すごく引き込まれる内容と文体だわ」
ふぅん、と相槌を打ったメリーは、流し読みした本を机の上にぱさりと置いた。
見上げると、蓮子の目が爛々と輝いていた。どう見てもつき合わせる気満々らしい表情だ。
なるほど、この本にすっかりアテられたってことか。相変わらず節操がないというか、染まりやすいというか。
「そんなこと言ったって、これ、凄い量じゃない。一日や二日で回りきれないわよ」
「それは宿との交渉次第よ。夏休みの忙しい時期に皿洗いのバイトでもすりゃ一月居ても格安で済むわ」
「あなた夏休みもゼミあるんでしょう? それはどうするのよ」
「そんなもん休めばいいじゃないの」
「単位はどうするの。相棒のダブリの片棒かつぎなんかイヤよ」
「ウチのゼミの総帥はあのタワリシチ岡崎なのよ? 遠野で発見したことをレポートにまとめるなら単位ぐらいやるってさ」
まったく、こういう点についての要領の良さはなんなんだろう。蓮子の革命的幻想探訪計画にノってしまう同志教授もそうだが。
メリーはため息をつきながら失笑した。
「夏休み一月使って、あなたの思いつきにつき合わされるってわけね」
そう言いなさんな、と蓮子は本を開き、物凄い勢いでページをめくり始めた。
「異界についての話も結構あるのよ。ほら、この話とか、この話とか、これもそうね、これも解釈によっては……」
こうなると長いのだ。蓮子は異界の話となると、一週間しか生きられないセミのように必死に語りだすのが常だった。
ただでさえ暑い夏の盛りに、そんな拷問を受けたのではたまらない。ここでメリーは慌てて蓮子を制した。
「わかったわかった、わかったって。遠野行けばいいんでしょ、行けば」
子供をなだめる口調で言うと、蓮子は突然、不貞腐れたようにぶすっとしてしまった。
「いや」
「なんでよ?」
「メリーを無理につき合わせるぐらいなら嫌だ。行かない」
要するに、あしらわれて拗ねたのだ。いかんいかん、ちょっとからかいすぎたか。
メリーはカーペットの上で大仰に三つ指を突き、「お願いします、蓮子様。どうかご一緒に同行させて下さい」と頭を下げてみた。
「……よろしい。そこまで言うならつき合わさせてやらんこともない」
蓮子は機嫌を直してくれたようだ。腰に手を当て、むっつりとした表情でこちらを見下ろす蓮子の顔は子供のそれだった。
相変わらず単純というか、何と言うか。メリーは思わず噴き出してしまった。
秘封倶楽部なる珍妙なサークルは、その全てが宇佐見蓮子という人間が生み出す好奇心と、ちょっとの思いつきのままに漂泊するサークルなのだった。もし蓮子の好奇心が枯渇すれば、それこそサークルとして活動にならないのだ。
それに、蓮子は絶対に一人で出歩かない。何か思いつくたびに、律儀にも自分を誘いに来るのが常だった。
蓮子に連れられるまま、全国津々浦々の異界を歴訪するのは刺激的だったし、何より蓮子と二人だけの時間を謳歌するのが楽しかった。小難しい物理の話や精神医学の話は脇に置いて、いろいろな物を共有することが出来る時間がそこにはある。
科学を妄信し、啓蒙が全ての旧態を破壊するのだと信られている箱庭の現代世界。
そんな窮屈な映世の塵芥を離れて、人間という原初の存在をニュートラルに戻してくれる時間。
秘封倶楽部は、言うなればそんな時間を約束してくれる、二人だけの秘められた宝物なのだ。
「何かね? 私の顔がそんなにおかしいと?」
蓮子がむっつりと言い、メリーはまた噴き出してしまった。
たっぷり一分近く笑うと、蓮子が「それにしても……」と突然神妙な顔つきになった。
「遠野ってどこにあるのかしら」
そんなわけで、今年の夏もメリーがアルバイトをする予定はない。
バイトよりも刺激的な夏休みの消化方法を知っているのだ。
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「……昔、あったずもな。ほれ、昔の山には神様だの、化物だの、いっぺぇいたずもな。山に行って仕事する人は、うんとおっかながったもんだ」
割烹着姿の老婆は、曲がった腰をひょこひょことさせながら、話のリズムを取っている
そのリズムに合わせるかのように、蓮子が神妙な顔つきで頷きつつ、手帳に何事かと書き付けている。
「昔、松崎村のサムトの茂助という家でよ、その家のキエという娘が神隠しにあったんだと。梨の木の下に草鞋を揃えて、本当にぷっつりといなくなってしまったんだ。家族はいろいろ人を雇って探したけども、見つからなかったんだと」
「神隠し、ですか?」
蓮子が問う。老婆は皺だらけの顔に埋まっている目をプチリと瞬かせた。
「それがら三十年も経ったときのことだったど。その日は恐ろしく風の強い日でな。サムトの家で何かあって、親戚の人たちが集まってたんだとさ。そのとき、誰も知らねぇ婆様がひょいと家に来たんだと。ボロボロの服来て、杖つきながらだったと言うども、家の土間の柱さ手をぺたぺたとやって『ああ懐かしい、懐かしい』って言ったんだとな」
老婆はそこで、おもむろに話を区切った。
「そのとき、その家の倉治という爺様がその婆さんを見て『お前、キエでねぇか?』と訊いたんだと。そしたらその婆様は『倉治、倉治か』と言ってニコニコと笑ったんだと。その爺様はキエの弟でな。姉がいなくなったあとは姉が恋しくて、うんと泣いて暮らしてたんだと」
「そのお婆さんは神隠しにあったその娘だったんですか?」
メリーが先回りして訊ねてみると、老婆はそうだとばかりに頷いてみせた。
三十年。そんな長い間顔を合わせていなくても互いの顔がわかるほど、兄弟の絆は強いということか。
暑さとは違う汗が額に滲み出してきた。メリーはハンカチを額に押し付けつつ、老婆を注視した。
「家の人はびっくりして、婆さんにまず家さ上がれと言ったらしいども、その婆様は首振って『みんなの顔が見たくて帰ってきただけだから、そろそろまた帰らねばだめだ』と笑って、強い風の中をどこに行くのか、とぼとぼと帰っていったとさ。……弟爺様はなんとか引きとめようとしたというが、もう婆様はこの世の人でねぇべし、何ともされなかったべなぁ……」
ぽつりと付け足された老婆の言葉に、うるさく啼く蝉の声さえ止まったような気がした。
メリーの頭の中に、デンデラ野で聞いた不気味な風の音が蘇ってきた。どうも、この地方の人間は風に何か特別な思い入れがあるらしい。
餓死風と恐れられた山背は、かつてこの地に飢饉という形で多くの死をもたらしてきた。もしかすると、この土地の人間にとっては風そのものが神に等しき存在だったのかもしれない。
ちらと、メリーは蓮子を盗み見た。蓮子はペンを走らせる手を止め、じっと話の終わりを待っている風だった。
「その日からよ、そのサムトの家の近くではよ、強い風が吹く日は『あぁ、今日はサムトの婆が帰ってきそうな日だなぁ』と言うんだずもな。ずうっとずうっと昔、昔の話だ。どっとはれ」
独特の決まり文句と共に、婆さんの長い話が終わった。
なぜ、その若い娘が神隠しに遭わねばならなかったのだろう。なぜ、そんな仲のよい兄弟が引き裂かれねばならなかったのだろう。神々や狐狸妖怪に人間の事情を訊いても仕方があるまいが、その娘がもし神隠しに遭わなければ……そんなことをつい考えてしまう。
なんだか、釈然としない気持ちだった。メリーは老婆が出してくれた麦茶のコップを手に取り、一息に煽った。
よく冷やされた麦茶が胃に落ちて行くと、体に溜まっていた熱が静かに冷やされてゆく。
蓮子がぱたりと手帳を閉じた。
「なるほど……すごく勉強になりました。ありがとう、お婆さん」
「いやいや、京都から来たお客さんだもの。おらが知ってる話だら、聞かせてやらにゃバチ当たるべぇ」
民宿の主人からの紹介では、齢九十近いと聞いていたが、目の前の婆さんは茶目っ気たっぷりにそう言ってのけた。
民話の里の名に違わず、遠野ではそこらに住んでいる爺さんや婆さんでも、自分の「十八番の昔話」と言えるものを持っている。歳を重ねれば重ねるほどその抽斗は多くなり、孫子に語って聞かせられる話も多くなる。
こと遠野に限って言えば、歳を重ねるのも悪くないと思えるような老人たちがたくさんいるのだ。
二人は残りの麦茶を飲み干して立ち上がった。かくしゃくたる婆さんは、ほぼ直角に曲がった腰をものともせず、門の出先まで送ってくれた。
懇ろに礼を言い、それじゃ、と二人が出て行こうとすると、「あ、ちょっと待て」という婆さんの声が背中に聞こえた。
「お前さんたち、マヨイガのことは覚ぇだが?」
「マヨイガ?」
メリーが訊きかえすと、婆さんは腰をひょこひょこさせながら頷いた。
「マヨイガって、遠野の山さあるもんだ。白見山という山の中に、恐ろしねぇ豪邸があるんだ」
老婆の話に、メリーは片眉を上げた。
「おらも昔、爺ちゃんから聞かされてよ。いつもあるわけではねぇべどもな……。もし興味あるんだば、そったな話があったなと思って、よ」
婆さんはそれだけ言うと、また来い、と言ってぺこりと頭を下げ、門の奥に引っ込んでいった。
何だか、急に寂しくなった。メリーと蓮子は顔を見合わせて、えへへと苦笑した。
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「蓮子、お腹空いたね」
嘘だった。民宿で朝食を摂ったのは二時間前だ。腹などちっとも空いていない。
婆さんと別れたのが、意外なほど体に応えているのだ。たった一時間やそこら話を聞いただけなのに、不思議なものだと、メリー自身思う。
「蓮子ぉ、どこかで休憩しようよ」
田舎道に人はいなかったが、この先数百メートルも言ったところに手打ちの蕎麦屋があるはずだ。
ソフトクリームでもジュースでもなんでもいい、何かを食べて気を紛らわせたかった。
蓮子は無言だった。何だよ、急にむっつり黙っちゃって……とメリーがそっぽを向くと、蓮子が急に立ち止まった。
「ねぇメリー。今お金いくら持ってる?」
薮から棒に、蓮子はそんなことを言うのだった。「え……?」と訊き返すと、蓮子が顔を上げた。
うっ、と、メリーは言葉を詰まらせた。蓮子の目がかつてないほどに輝いている。
これは……とメリーは目をひん剥いた。これは蓮子スマイルだ、蓮子の好奇心が爆発したときだけ見せる輝きが、両目からこれでもかとばかりに零れ落ちている。
「ま、まぁ、結構持ってる……かな……?」
「それなら大丈夫ね。ね、私に数百円貸す気ない?」
「え? まさか競馬とかパチンコとか……」
「アホ。私がそんなもったいないことするわけないじゃない」
それじゃあ何に? と尋ねてみると、蓮子が屈託のない笑顔を作った。
「バスに乗ろうと思って」
は……? メリーは顔をしかめた。今日は遠野の古老たちの家を回って異界の情報を蒐集する予定でなかったか。
蓮子は歩道に立ち止まり、ぷるぷると体を震えさせた。
「すばらしい……遠野……! まさかマヨイガなんて凄いものがあるなんて……!」
蓮子から物凄い量の熱気が噴出し、メリーは数歩後ずさった。
蓮子はずい、とメリーに接近し、両手を取って乱雑に上下させた。
「早速その白見山とやらに行ってみよう! そこには異界どころか異世界があるんだわ!」
メリーが絶句していると、蓮子はキラキラと目を輝かせた。
「だってマヨイガよマヨイガ! そんな物凄いものが本当にあるのよ! そこがきっと異界なんだわ! きっと山里の奥深くに建ってて、そこでは妖怪やら妖精やら式神やらが前近代的な生活をしてて、魔法とか妖術とか使ってるのよ! うわぁーいいなぁ! すごくいいシチュエーションだわ!」
熱い。一息に捲くし立てた蓮子の体から、まるで湯気の如く熱気が噴き出していた。
自分の手を取る蓮子の両手も熱い。こんな夏の盛りに勘弁してほしかった。手がじめじめと不快に湿ってきた。それから逃れたい一心で、メリーはうんうんと頷いてしまっていた。
よし決まり、と蓮子が言い、文字通り小躍りしながら歩道を歩いていく。
「ちょ、待ってよ蓮子! お腹すいたって言ってるじゃない!」
「そこらの草でも食べりゃいいでしょ! 待ってろ異世界! 私が今行くぞ!」
「そんな殺生な……!」
蓮子がへたくそなスキップで歩き出した。気合だけは十分なのに、調子が合っていないせいで、その歩みは牛歩より遅い。
燃料はいつだって、飽くなき情熱とちょっとの思いつき。
夏の日の午前中、東北の片田舎で、二人の異界探訪が始まった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
最寄のバス停でしばらく待つと、もうもうと土煙を上げながらバスがやってきた。
バスの中はいつものことながらんどうで、若い母親と子供がバスの後部座席でじゃれあっているだけだった。一応、メリーが軽く会釈すると、母親はにっこりと笑って会釈を返した。
バスの中は暑かった。全開にされたクーラーも、開け放たれた窓も、何の意味も成していない。しばらく、ハンカチで顔を扇ぐことに専念することにする。
「そう言えば、あの本にもマヨイガの話が載ってるの知ってた?」
しばらくすると、隣の座席に座った蓮子が言った。「そうなの?」と訊いてみると、蓮子は手帳を探る手を止めずに「このバッグの中に本があるから、読んでみて」と言った。
蓮子が言うので、遠慮なくバッグを漁らせてもらう。
バッグの中にはメモの切れ端や日焼け止めのボトルがごちゃごちゃと突っ込まれていた。相変わらずズボラな奴だ。
なんとか本を取り出すと、「確か六十三話だったと思うわ」という声が返って来た。
「マヨイガってのは面白い話でね。フラリと山の中に入ると、雑木林の中に物凄い豪邸が建ってるらしいのよ。で、興味本位で中に入ってみると、庭には馬や鶏までがたくさんいる。まるきり長者の家ね。家の中にも竈の火が燃えてて、きちんとご飯の用意が出来てるの。けれどなぜか家の中には人っ子一人いなくて、まるで忽然と人間だけが消えたみたいなんだって」
「なにそれ、不気味ね。幽霊屋敷ってわけ?」
「それがそうでもないのよ」
メリーはお目当てのページを見つけ出した。
汗の珠が紙面に落ちないよう、ハンカチで顔を拭いながらざっと流し読んでみると、蓮子が言った。
「マヨイガに行き当たったら、何かひとつでもいい、例えば茶碗とか湯飲みとか、そういうものを持ち出してくればいいのよ」
「そうすると?」
「その人の家は物凄い勢いで金持ちになれる、らしい」
旧字体を苦労して読み進めると、本にもそんなような話が記されている。おかしな話よねぇ、と蓮子は笑声を漏らした。
確かにおかしな話だと、メリーも思う。普通、そういうところに何かちょっかいを出せば、必ずと言っていいほど後でしっぺ返しが来るのがオチじゃないか。それをあろうことか金持ちにしてくれるとは、気前のいい伝説もあったもんだ。
「話はともかく、どうしてそんな伝説が生まれたのかしら?」
メリーが話題を変える一言を発すると、蓮子はメリーの手にあった本をサッと取り上げた。「あ、こら」とメリーが抗議しても、蓮子は一瞬で意識の外にしてしまう。
「あのおばあさんも言ってたけど、昔は山そのものが一種の異界だったってことね。日本の民俗においては境界って発想が重要ってことは、前に言ったわよね?」
「あぁ、賽の神の話?」
「そう、その通り。発達した交通機関を持っていなかった昔の人間にとっては、小さな農業共同体が世界のすべてだった。そこから一歩出ると、それはもう違う世界って発想があるのね。で、その農業共同体が破壊された現代でも、『異界が怖い』という発想そのものはしぶとく残ってるわけ。例えばトンネルや廊下、トイレは境界だからこそ、多くの怪談が生まれるの」
「なるほど。トイレは浄不浄の境界でもあるから、ケガレを嫌う日本人の性に合ってるわけか」
「そういうこと。……で、なおかつ昔は、災厄や疫病というものは境界を渡って進入してくると考えられていた。だからこそ、昔の人間は道祖神という神を立てて村と村の境界を塞いでたわけね」
蓮子はそこまで言って、急にニヤリと笑った。
「メリーもさぁ、この間行った神社で見たじゃない」
「見たって、何をよ」
蓮子が下卑た笑い声で笑い、それから「ほらほら、風もないのにブーラブラの、男の元気なアレよ」と身振り手振りでそれのたたずまい説明すると、メリーはぼむっと顔を赤らめた。
「ばっ、馬鹿!」
「あらら、相変わらずウブねぇ。本当は大好きな癖に」
「誰が大好きよっ、この変態理系異界オタク!」
ぼかぼかと拳で蓮子の頭を叩く。いたたた、ゴメンゴメンと平謝りする蓮子も蓮子だ。
蓮子が言うのはこの地方には特に多い金精神という、男の陽物を象った神様のことだった。大きさも形も祭られている数も、素材すらもまちまち。そんな卑猥なものが、ここではそこらの神様と同じように注連縄を巻かれて祭られているのだった。
確かに、一昨日訪れた神社にはそれがしこたま集められていた。蓮子は観察対象を見る目を注ぎ、物珍しそうにその立派な一物をカメラに納めまくっていたが、メリーはというと、ちょっと離れた場所で火が出そうに熱くなった顔を背けているしかなかった。恥ずかしいと思えば思うほど恥の上塗りにしかならないのだが、そんなこと知ったこっちゃない。恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「大体あんなヘンなものを祭ってる方が悪いんじゃない! 私が常識的で蓮子が変態なだけよ!」
「おや、知らない人だね。アレは金精神と言って、立派な神様なのよ?」
「いっ、いくら神様ったって、アレはアレの神様じゃない! アレっていうのは、その、要するに、男と女の、あぁぅ……」
「なにか変な想像をしてるようだけど、アレは多産や子孫繁栄の神様ってだけじゃないわ。あれこそが境界を塞ぐ神様なのよ」
「なっ、えっ、えぇ……?!」
メリーが尋ね返すと、蓮子は心底可笑しそうにケラケラと笑った。
道祖神の元の字は「道塞神」。読んで字の如く、道を塞ぐ神様ということだ。かつて妻恋しさに黄泉国に降ったイザナギは、イザナミの逆鱗に触れて命からがらに逃げ遂せる。そしてヨモツヒラサカというところまで逃げた辺りで、イザナギは「ここより内には来るな」と石を置いて現世と黄泉国の境界とし、その向こうから妻に離縁を申し渡した。その「黄泉国」と「現世」を分けることになった石が、日本史上最古の道祖神なのであるという。その神話が後世になるにつれて既存の宗教と融合し、道祖神の役割は地蔵や馬頭観音、あるいは土着信仰的な金精神などに引き継がれた……蓮子の話を総合するとそういうことになる。
メリー自身、境界が見えるという特殊な能力のおかげで、道祖神や地蔵が境界に及ぼす影響ぐらいは皮膚感覚で理解している。最近では道祖神どころか地蔵すらほとんど見かけることはないが、たまに寂れた旧道や田舎道を歩いていると、何かの境界が酷くねじれているのを目撃することがある。興味本位で近づいてみると、そこには十中八苦、忘れ去られたように古ぼけた石仏が立っていたりするのだ。
「つまりアレはさ、見ての通り溢れ出る陽の気ってことよ。外から入ってくる陰の気に陽の気を当てて、陰の気を防御または相殺する。なかなか理屈が通ってるじゃない。そんじゃそこらの神様とは格が違うくらい由緒正しい神様なのよ」
「だからって、そのものズバリすぎるわよぅ。京都の蓮台寺や博麗神社にはなかったし……。あんなもの拝んで、昔の人は恥ずかしくなかったの?」
「さぁてねぇ。それは今も昔も変わらないと思うわ。もしかしたらメリーみたいな人が恥らうのを見て楽しんでた変態さんもいたんじゃないかしらね」
メリーは蓮子の帽子の鍔を両手で掴み、ズボッと思い切り引き下げた。蓮子は冷静に帽子を元の位置に戻して、続ける。
「さらに、山っていうのはもう人間の世界じゃないわよね? 動物がいて、神がいる世界。大昔の人間にとって、山はまさに異界だったってことになるの。ここに昔の人々はお金を異界からの回り物だと考えていたとすれば、それはつまり……」
「……なるほど、マヨイガに到達するってことは、異界に足を踏み入れるってことになるわけね」
先回りの一言を口にしてみると、蓮子は頷いた。
「たとえば竜宮城もこの類よね。全国に数多い、異界長者の一種類が、ここ遠野ではマヨイガ譚ってことになるわけね。そしてその伝説は、いまだにここで生きている。異界探訪のヒントとして、これ以上の話があるかしら?」
蓮子はそう言って、本をぱたりと閉じた。
それからやおら神妙な顔つきになって、燃えるような緑が埋め尽くす窓の外の風景に視線を移した。
「確かにあるのよね。異界が、ここのどこかに」
重苦しいブレーキ音を立てて、バスが停止した。
と、突然、何かが視界に入った。メリーが目を向けると、若い母親が真っ赤に熟れたトマトを二つ、手に乗せていた。
真意を図りかねて母親の顔に視線を向けると、母親はにっこり微笑んだ。おすそ分け、ということらしい。
東北の山奥で、まさか地下水生栽培でもないだろう。太陽光で育った天然ものの野菜など、今日び滅多に手に入らない貴重品だ。メリー自身、合成モノか水生栽培のまがい物しか口にしたことがない。こんな高価なものをと最初はしり込みしたが、今更ながらに腹の虫が暴れ出す。
トマトは見るからにみずみずしそうで、抗いがたい欲望が胃の壁をひっかいた。メリーがトマトを押し戴くようにすると、母親はまたにっこりと微笑んでバスを降りていった。
窓の向こうから、母親に手を引かれた男の子が手を振った。
メリーも手を振り返す。真夏の風景の中に解けていく背中を、メリーはずっと見送っていた。
「ねぇ蓮子、これもらったよ」
メリーがはしゃぎがちに言っても、蓮子は無言だった。
蓮子の目は、ここではないどこかを見ていた。どうやら今回ばかりは本気で異界との接触を試みる気らしい。
相棒の自分でさえ意識の外になっているらしい横顔が、なんだか凛々しく見えた。
メリーはそっと、もらったトマトを蓮子のバッグの傍に置いた。
もう少し、その横顔を見ていてもいいと思ったからだ。
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白見山は遠野市の奥地に存在する山で、青空に聳え立つように佇立していた。
バスを降りようとすると、五十がらみのバスの運転手が浅黒い顔に微笑を浮かべた。
「写真、いっぺぇ撮って来い」
蓮子が首からぶら提げたカメラを見て、運転手は二人をカメラマンか何かだと勘違いしたらしい。曖昧に頷いてバスを降りると、バスは轟音を上げながら緑のトンネルの中へ消えて行った。
物凄いセミの大合唱が耳を劈いた。この科学世紀の一体何処で命をつないできたのか、森全体が何億という数のセミの声に打ち震えていた。これでは風物詩と言うより騒音だ。思わず耳を塞ぎたくなったメリーに、蓮子が唖然と言った。
「どこから入ればいいのかしら……」
最もな問いだと思う。錆が浮いたバス停は、何の変哲もない道にぽつんと置かれているだけで、眼前には圧倒的な質量を持って迫ってくる雑木林の壁があった。なんだか威圧されているかのようだ。
あたりをきょろきょろ見回すだけで汗が吹き出てくる。早いところ木陰に退散しなければここで干からびるのを待つだけだ。
「まぁとにかく、歩いてみようよ」
メリーが促すと、蓮子も素直に従った。
熱く焼けたアスファルトをとぼとぼと歩いて、とにかくマヨイガの森に入ることが出来る地点を探す。逃げ水にいざなわれるようにして歩くと、ちょうどうまい具合に森が途切れていた。
「舗装されてない道ね……今時珍しいこと」
思わず、というように蓮子が言う。ところどころ黒土が露出する道には若干轍の形跡がある。地元の誰かがここを使っているのは間違いないらしい。ちょっと顔を見合わせて、二人は迷うことなく林道に足を踏み入れていった。
林道に入ると、一気に涼しくなった。直射日光が木立に遮られ、風が木々の間をすり抜けて行く。
夏とは思えない涼しさだった。気持ちよく汗が引いてゆく。ワンワンとうるさいセミの声も、ここまで来ると心地よく感じるから不思議なものだった。
「異世界に来たみたいね」
ぽつりと、蓮子が呟く。全くもってそうだとメリーも思った。ここは真実、二人にとっては異世界なのだ。こんなに世界が美しく見える空間を、少なくともメリーは知らない。
もっとも、それだけじゃ蓮子としては不満なのだろう。そう視線で問うて見ると、蓮子がえへへと笑った。相変わらずの以心伝心ぶりだ。
ここまではよかった。そのうち、微妙に勾配がきつくなりだした。最初はちょっと負担がかかる程度だったのだが、そのうちはっきりとしんどく感じられるほどになってきた。
二人とも、山登りの準備などなにひとつしてきていないことが仇となった。
道はいつのまにか消え、車の轍が残る道から、人一人が通れるほどのそま道になっていた。引いていた汗も再び噴き出してきて、額を濡らした。
二人は、いつの間にか無言になっていた。黙々と足を動かす間にも、汗は日焼け止めの上から流れ出し、目の中に入って猛烈な痛みを引き起こす。そのたびに二人は立ち止まって、強く目を拭う。
灼熱の中、小一時間も歩いただろうか。不意に、森が途切れた。
おや……? とメリーが立ち止まると、蓮子もはたと立ち止まった。
雑木林がそこだけ切り拓かれ、ぽっかりと広くなっていた。驚いて辺りを見回すと、潅木に埋もれるようにして、草木に巻かれて朽ちた廃屋があった。雑草が生い茂っているが、開けた空間はかろうじて庭だった形跡がある。そしてその隅には、やはり蔦や雑草に巻かれて、錆付いたブランコがぽつねんと置かれている。
「あれがマヨイガ?」
「まさか。ただの廃屋よ」
メリーの問いを、蓮子は言下に否定した。確かに、あれはどう見ても普通の廃屋だ。豪邸でもないし、門もない。
廃屋には手をつけず、二人は廃屋の裏手に続くそま道へと分け入った。
しかし、すぐに二人は立ち止まった。
道をまっすぐ行った先には、小さな沢が流れていた。沢にかかっているのは古びた木造の橋で、苔むした板の切れ端が傾き、ところどころ穴が開いている。
「なんだ、こりゃ」
額の汗をブラウスの袖で拭いながら、蓮子が言う。
確かに、なんだろう、これは。廃屋はともかく、道は橋を越えた先に続いており、薄暗い木立のトンネルの先に飲み込まれている。奥をよく見ようとしたが、木立が暗すぎて何があるのかわからない。
道というより、世界そのものが途切れていた。否、途切れているというより、別の世界が忽然と現れたという風だ。
二人は顔を見合わせると、恐る恐る橋の袂に近づいていってみた。
「いかにも異界への入り口、って感じよね。メリー、何か見える?」
「いや……何も見えないわ」
思わず、歯切れが悪くなってしまった。いや実際、橋にも木立のトンネルの入り口にも境界は見えないのだが、単純に目の前の光景が不気味なのだ。
蓮子が足の先で橋をつついてみる。かなり腐食が進んでいるようで、蓮子がつま先に少し体重を掛けると派手な音を立てて軋んだ。驚いてバランスを崩した蓮子が「わたた」とメリーに抱きついた。
「渡れそう?」
「一人ならね。二人で行ったら沢にまっ逆さまね」
蓮子がもう一度、橋に慎重に足を乗せる。今度は軋まない。ゆっくりと体全体を板の上に乗せる。大丈夫そうだ。
「メリー、メリーはここで待ってて」
「え、なんで?」
「この橋は二人以上で渡れなさそうだし、二人ともずぶ濡れになっちゃったら目も当てられないじゃない。ちょっと林道の奥に行ってみるだけよ」
正直、山登りで体はぐったりと疲れていた。ありがたい申し出だとは思ったが、ここで一人で取り残されるのはなぜか嫌だった。
「えぇ……でも……」
「大丈夫よ。マヨイガに行き当たって大金持ちになったら山分けにするから」
「そういう問題じゃなくて……!」
「メリーがおばあちゃんになる前に戻ってくるって。……じゃね」
最後に余計な一言を付け加えて、蓮子は危なっかしい足取りで木立の奥に消えていった。
「誰がおばあちゃんよ、誰がっ」と毒づいても、蓮子はすたすたと歩いていってしまう。蓮子は手を離したら飛んでいってしまう風船なのだとあきらめて、メリーはおとなしく待つことにした。
仕方なく蓮子の帰りを待つことにしたものの、異界の口かも知れぬここで漠然と待つのは少々怖い。それに何よりきついのは日差しだ。
雑木林が途切れているせいで、ここでは直射日光が斟酌することなく降り注いでくる。ぼーっと突っ立って待っていたのでは、蓮子が帰ってくることにはおばあちゃんどころか目玉焼きになってしまう方が早かろう。
なんとなく、廃屋の方へと足が向いた。近寄ってみると、廃屋はほとんど原型をとどめていなかった。窓ガラスは長年の風雨で割れ砕け、そこから覗く屋内はすでに風雨による侵食でぐちゃぐちゃの有様だった。ところどころ、天井板が傾いて、腐食した畳を分解して草が生え始めている。
ぐるりと家を一周してみる。庭の隅には朽ちたブランコが放置されたままになっており、庇の下には錆付いた三輪車が残されていた。少々不気味だ。とてもでないが、廃墟探索など度胸がなくてできそうにない。
草ぼうぼうの庭をあてどなくうろうろしていると、視界の端に大きな木を見つけた。
近寄って、しげしげと観察してみる。どっしりとした、白っぽい木だった。周りを見渡しても、木はない。
自然に……というわけではないだろう。明らかに誰かがここへ苗木を植え、管理していたのだと知れた。
十年か、二十年か。廃屋と違って、この木の周りには下草も生えておらず、ずいぶんさっぱりとしている。
「このー木なんの木、気になる木……っと」
何の気なしに表面を触ってみる。表面は細かくひび割れており、ざらざらとしてはいるものの、どこか気品を感じさせるたたずまいだ。木そのものの高さは十メートルもあろうか。ずいぶんな巨木だが、どことなく瀟洒な佇まいである。
「見たこともない木ですから……」
どうも自分は、この巨木を一目で気に入ってしまったらしい。
木の根元に腰を下ろす。思った通り、青空に向かって伸びた枝葉がちょうどよい日影になって気持ちよかった。
背中を預けると、妙な安堵感に包まれる。英語のマザーツリーとはブナのことを言うが、今はこの木がメリーのマザーツリーだ。
思えば、ここまで長い旅路だった。歩き通しの汗かき通しで、体はすっかり疲れている。
「なんとも不思議な……眠気が……ふあぁ……」
大欠伸が出た。ここで一眠りするぐらい、蓮子も許してくれるだろう。
巨木に背を預けると、あれだけうるさく聞こえていたセミの声もどこか遠くに聞こえ始める。
森を揺らして、夏の風が吹き抜けた。なんといい気持ちなのだろう。そのうち、メリーはうつらうつらと眠りこけてしまっていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ちょっと、あなた」
不機嫌そうな声が、意識の底を叩いた。誰だろう、こんな時間にドアをノックするのは。
眉根に皺を寄せた瞬間、ゴツッという音と共にメリーの頭に衝撃が走った。驚いて飛び起きると、目の前に人がいた。
「うわ……! ……え……?」
蓮子ではなかった。
赤いチェックのベストとスカートが、同時に眼に入った。女らしい、と、数秒遅れて思いついた。
日光を吸収してつやつや輝く緑の髪と、南方植物の花のように毒々しい深紅の瞳。そしてそれ以上に目を引くのは、目の前の人物が手に持っている傘だ。よく見るとビニールではなく、レースのような布が張ってある。日傘であることまではわかったが、こんな山奥に日傘とはあまりにも不似合いな格好と言えた。
「なんだ、生きてたの」
女がちょっと残念だと言う風に呟いた。
傘の柄で頭を小突かれたらしいとわかったのは、目の前の人が冷然とでこちらを見下ろしていたからだった。どう見ても歓迎している雰囲気ではないし、むしろ獲って食おうとしていたのではないかと勘繰りたくなる。
「あ……す、すみません。昼寝しちゃってたみたいで……」
聞かれてもいないことが口をついて出た。とりあえず何か言い訳しなければ、もう一回傘の柄が落ちてきそうだった。
そこで紅い目が不穏に光った。思わずぎくっとした次の瞬間には、女の目はもう興味を失った玩具を見る目になっていた。
「……おやおや、あなたはずいぶんと素直ね。ってことはやっぱり別人か」
「え?」
「こんなところで昼寝してるから、危うく踏みつけにするところだったわ。そういう趣味がないなら、今度からは屋外での昼寝は慎むことね」
怒っているわけではなさそうだが、なんだろう、巨熊を前にしたような、この強烈な圧迫感は。
「はぁ、すみません……」
「謝るのはいいからそこをどいてくれないかしら」
どういうわけか、険しかった顔がにっこりと笑顔になった。女の中にある融けぬ氷を想像させる、なにやら恐ろしげな笑顔であった。これはマズいと、自分の中のどこかが警告を発した。
飛び起きてその場をどくと、目の前の少女はメリーが背中を預けていた木にぺたぺたと手で触れた。
少女はそれから少し逡巡するような表情になり、やがて誰にともなく呟いた。
「もう花の時期は終わっちゃったのね……残念だわ、あなたの晴れ姿が見れなくて」
どういうことだと、傍で聞いていたメリーは首をかしげた。それを見た少女が、真紅の瞳でじろりとこちらを見た。
「あなた」
「はっ、はい!?」
「この木は私のお気に入りなの。何かしなかったでしょうね?」
「え、あの、何か、とは……?」
メリーが問い返すと、少女はふっと笑った。
「もういいわ。あなたはそんな人じゃなさそうだし。この木を伐りに来たってわけじゃなさそう」
相変わらずどこか寒々とした笑顔だったが、今度は心の底から笑ったのだと、雰囲気でわかった。
とはいっても、目の前の存在がどうにもよくわからない。降って湧いたように、忽然と現れたことに面食らっているのもあるが、若い女が目の前にいること自体が信じられないのだ。まぁ自分はともかくとして、こんな瀟洒な格好をして山菜取りでもないだろう。どう見ても自分と同じくらいの歳にしか見えないが、地元の人間でないことは言葉のアクセントでわかる。
ぐるぐると勘ぐっていると、日傘の少女は木を見上げて言った。
「あなた、桐の花を見たことがある?」
「え? この木が桐、ですか?」
少女は愛おしい者にそうするように、大木に頬を押しつけて微笑んだ。
「そう、桐。春と夏の間に、ちょうどあなたの服みたいな綺麗な紫色の花が咲くのよ。ご存じない?」
「いえ……」
「そうでしょうね。この子はとても高貴だもの。ごみごみした町の慰みに植えるものじゃないわ」
そう言われて、メリーは目の前の木をしげしげと観察した。ずいぶん立派な木だが、これが桐という木か。湿気を吸わず、成長も早い桐の木は、その柾目の美しさから、大昔は箪笥や長持の材料として使われていたと聞いたことがある。
メリー自身、実物は一度も見たことはなかったし、ましてや花が咲いているところなど見たことはない。女に言われなければ、目の前の木が桐だということにも気がつきはしなかっただろう。
目の前の木はずいぶんと太く大きいが、こんな立派になってもそんな可憐な花が咲くのだろうか。
「あのー、この木って何歳ぐらいなんでしょう?」
「そうねぇ、あなたと同じってとこかしら。桐は成長が早いから、ここまで大きくなってもそれほど歳を取ってないでしょうね」
「そうなんですか……知りませんでした」
「本当にそうかしらね」
女がため息をつく。途端に、二、三度、周りの気温が低くなったような気がした。
「人間ってどうしてこうなのかしらね。自分たちでこの子の運命を決めてしまったのに、自分たちからさっさとそのことを忘れている。この子はあなたたちの思いに応えるために、数十年もここで必死に生きてきたのに」
くるりとこちらを振り返った女の顔から、笑みが消えていた。その紅い目の奥底に冷たい氷が浮かんでいるのを見て、メリーは背筋を冷たい手でなでられるような悪寒を感じた。
「この子はね、可愛そうな子なのよ。人間に見捨てられても、ここでずっと自分の役目が果たされるのを待ってるの」
「や、役目……ですか?」
「そう、あなたたちが与えて、あなたたちが一方的に忘れてしまったこと。この子はその約束を、この子はこれからもずっとここで待ち続けるのよ。何年も、何十年先も……」
女が何を言ってるのか、メリーには皆目見当もつかなかった。それでも、女の非難する目つきが何故か痛かった。
メリーが口をもごもごさせていると、女の顔がふっと緩んだ。
「……まぁ、そんなことあなたに言っても仕方がないわね」
今更何言ってるんだ。少し腹が立ってきていた。
メリーが無言でいると、女は木から離れ、優雅な所作で日傘を開いた。
「さて、そろそろ行こうかしら。あなたも昼寝なんかしてないで、暗くならないうちに早いところ山を降りることね」
「……友達を待ってるんです。私だけが帰るわけにはいきません」
メリーがつっけんどんに言うと、女がちょっと意外だという風に目を丸くした。
「そう。なら一言忠告しておくわ。あなたはあの子の後を追っちゃダメよ。あの子と同じように、山に嫁入りしたくないならね」
その一言に、わけもなくどきりとした。
女はその反応を楽しむように微笑むと、日傘を広げてこちらに背を向けた。
置いていかれる、と何故か焦った。静々とどこかへ消えてゆく女の背中に、メリーは怒ったように声をかけた。
「……何よ。山に嫁入りって、どういう意味よ!」
女は、振り返らなかった。
途端に、強く風が吹いた。森が揺れ、世界さえもがざわざわと不穏に揺らめいた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ちょっと、ねぇ、メリー、メリー」
名前を呼ばれる声で目が覚めた。ぼんやり目を開けると、今度こそちゃんと蓮子の顔があった。
「……よかった、死んでるのかと思ったわ」
蓮子は、あの女と同じことを言った。口調こそ軽かったが、どこかで安堵の響きがあった。
なんとも、また夢を見ていたらしい。傘の柄で殴られた鈍痛はまだ頭に消え残っていて、それがただの夢でなかったことはなんとなくわかっていた。
「よかった……蓮子だ……」と呟くと、蓮子が「え?」と首をかしげた。メリーは慌てて首を振り、話題を変えた。
「それより、どうだったのよ。マヨイガはあった?」
その問いに首を振った蓮子は、それから大仰な仕草でため息をついた。
「いや、藪をこいで奥まで行ってみたけど、何もなかったわ。あーあ、やっぱりそう簡単に見つからないものねぇ」
蓮子は腰に手を当てて、それでもそれを当然のこととして半ば諦めている様子であった。
結局、大金持ちになるにはツキがないってことか。メリーが苦笑しようとした瞬間だった。蓮子の頬に、一筋の紅が走っている。メリーは目を見開き、蓮子の顔を指差した。
「蓮子、血」
え? と蓮子が呆けたように言い、それから反射的に右の頬に手をやった。
途端に顔をしかめ、っつ……と声を漏らした蓮子は、手のひらに付着した自分の血を見て片眉を上げた。
「あやや、気がつかなかったわ。藪をこいでる途中に切ったのね」
蓮子があっけらかんと言った。
ぞくっ、と、何やら冷たいものが背筋を走った。当然、蓮子の言う通りなのだろう。しかし、得体の知れない恐怖がメリーの背筋を這い回り、体のどこかに眠る本能がけたたましく警報を鳴らし始めた。
山に嫁入り。あの女の一言が、何故か脳裏に聞こえた。一瞬、嫌な予感が脳裏を貫いた。
メリーは立ち上がって、蓮子の手を取った。
「蓮子、もう帰ろう」
え? と蓮子があっけに取られたように言った。
「何言ってるのよ、まだ探索が……」
「もういいでしょう、そんなもの、おいそれと見つかるわけないのよ」
「でも、あの本にもここがマヨイガの森だって……」
「いいから!」
大声で押しかぶせてから、メリーは蓮子の手を引っ張り、有無を言わさずその場から引き剥がした。「ちょ、ちょっと!」という抗議の声にも耳を貸さず、メリーはぐいぐいと蓮子の手を引っ張って山を降り始めた。
メリーのただならぬ雰囲気を感じてか、蓮子もそのうち無言で足を動かすばかりになった。メリーはずっと蓮子の手首を掴んだまま、ぐんぐんと山を下る。
しかし、これがいけなかった。道を三分の一ほど引き返したときから、にわかに霧が出てきた。重く、湿気を十二分に吸った霧はみるみる濃くなり、ものの数十分で森全体が完全に霧の海に沈んでしまった。
「山背ね、こんなときにツイてないこと」
蓮子が苦々しく言う。この地方を定期的に襲う東風は、たびたびこの地方に凶作をもたらして来た。
遠野に来てから約一週間。すでに何度も山背を体験している二人だったが、里で遭遇するのと山間部で遭遇するのとではまったく違った。メリーたちがいるところはちょうど山と山の谷の部分であり、温度の低い霧は低地へと流れ込んで滞留してしまうのだった。
視界は十メートルも確保できなくなり、そのうち道さえも霧の向こうに消え、自分たちが今どこにいるのか皆目わからなくなった。
これ以上歩き通したら、迷ったではすまなくなる。二人は仕方なく木陰に身を寄せて、霧が行過ぎるのを待つことにした。
じっとりと、霧吹きで水を掛けられたように肌が湿ってゆく。さっきまで啼いていたセミたちもどこかへ退避したらしく、今は物音ひとつ聞こえなくなっていた。骨身に染みる怖気が毛穴から浸透し、体の中心をきりきりと苛んだ。クーラーの冷機とも、涼風とも違う、もっとねっとりとした冷たさが容赦なく体温を奪ってゆく。
ミルクのような霧は、深く、波打つようにして通り過ぎてゆく。白い川の霧だった。熱や音、季節感さえも飲み込んで、どこかへと流れてゆく白い川は、手を前に突き出せば何も見えなくなってしまう。
オオオ……と、地の底から沸きあがるような呻き声が聞こえる。それと同時に、メリーの目の前で境界が歪み始める。
フィルムに引っかき傷を作ったようだった。チラチラと空間に青白い閃光が走る。それが空間に出来た疵なのだと理解するのにずいぶん時間がかかった。青白い疵はまるで蛍のように目の前を縦横無尽に走り回り、いつしか注の一点に集まって渦を巻き始めた。それと同時に、臓腑を揺さぶるような地鳴りの音はますます激しくなってくる。
霧の海は軋むように山肌を這い回り、寄せては返し、うねるように流れてゆく。怪物の舌に嘗め回されている気分だった。寒さと恐怖で、メリーの歯がかちかちと震えた。
「蓮子、境界が……」
蓮子に言うと、蓮子は無言で頷いて、視線を中の一点に戻した。境界が見えない蓮子にも、なにか感じるらしい。
ぎゅっと手を握り合って、霧が自分たちから興味を失ってしまうのを待つ。
霧の中から聞こえていたうめき声が、誰かの話し声に変わった。
囁き声と、数人の子供の声が遊ぶ声。それからガヤガヤと大勢の人間の話し声がする。
霧はねっとりと、そしてゆっくりと流れてゆく。境界の揺らぎは止まない。まるで今にも口を開け、木の根元に蹲る二人を飲み込んでしまいそうだ。
馬の蹄の音、笛や太鼓の音、そして歓声。煮炊きの音、椀と椀がこすれ合うかちゃかちゃという音……。すべてが混然と混ざり合って奏でられるノイズは、果てることなく聞こえ続けた。
何時間経っただろう。境界が、ゆっくりと落ち着きを取り戻し始める。青白い疵はどこかに散って行き、それと同時に霧の海も動き始める。
ふわりと、風が頬をなでた。霧が晴れてゆき、さっと光が差し込むと、蝉の声が徐々に戻ってきた。
「怖かった……」
ぽつりと、蓮子が真っ青な顔で呟いた。
二人は立ち上がって顔を見合わせた。もう夏の山が戻っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
バス停まで引き返してみると、とっくに最終のバスの時間は過ぎていた。
思わず、二人してバス停の傍にへたり込んでしまった。まだ四時だというのに、もう日は山陰に没しつつあった。山深い土地では、それだけ太陽が隠れるのも早くなる。
携帯電話の時計で確認してみたところ、まだ四時を少し回った辺りだった。しかし、バス停の時刻表はかすれて見えなくなっている状況では、まごまごしていると日が暮れてしまいそうだった。ここから遠野の街中まで優に十キロ近くある。歩いて帰るのには難儀する距離だった。
「……ごめん」
ぽつりと、蓮子が言った。マヨイガ探索という思いつきがとんでもないことになったと、少ししょげている様子であった。メリーは慌てて「謝ることないわよ」と首を振ってみたものの、正直帰りの足のアテがあるわけでもなかった。
これは徒歩での帰宅もやむなし、と覚悟を決めかけたときだった。
目の前の道路を、軽トラックが走りすぎた。
荷台にちょこんと乗っていた人物が目を丸くし、慌てて立ち上がって運転席に何事か怒鳴った。キキッ、とブレーキを踏む音がして、つんのめるようにして軽トラックが停車した。
荷台の人が大きく手招きした。来い、ということらしい。
二人が駆け寄ると、運転席から初老の男がぬっと顔を出した。荷台に乗っているのも同じぐらいのおばさんで、どうやら男の連れ合いらしかった。
「何してんだ、こんなところで。バス、もう行ってしまったべ」
開口一番、荷台に乗ったおばさんが麦藁帽子の下の浅黒い顔で言った。
山中で夢中になって写真を撮っているうちに、最終のバスを逃してしまった。メリーがそんな意味のことを言うと、二人は呆れた様子で言った。
「物好きもいたもんだ。バスさ乗らないでどうするつもりだったのや」
「もう日が暮れるべ。ほれ、早く荷台さ乗れ。近くまでなら行ってやるから」
口々にそんなことを言って、おばさんが手を差し出してきた。ちょっと迷ったが、せっかくの好意だ。
礼もそこそこにおばさんの手を取り、荷台に引き上げてもらう。蓮子も荷台によじ登り、小さく頭を下げた。
軽トラックの荷台には、レーキやら鎌やらが雑然と転がっていた。ちょっと遠くの田んぼに野良に出かけ、今帰るところと言った体だった。
車が動き出すと、おばさんが肥料の空き袋をくれた。尻に敷けということらしい。
帽子が飛ばされないように、帽子を取って小脇に挟む。助かった。正直にそう思った。蓮子に視線を移すと、ちょっと照れくさそうに蓮子も笑った。
軽トラックは軽快に田舎道を走って行く。夏の風が気持ちよかった。しばらく無言で走ると、軽トラックは小道に入り、たくましく砂利道の坂を上って、大きな平屋の家の庭に停車した。
「まだ帰るには早いべ。まず、家さ入って休んでけ」
おばさんが言って、軽トラックの荷台を降りた。先に蓮子が軽トラックの荷台を降り、それからメリーの手も手を借りて荷台を降りた。
家の中に入ると、大きな板の間に通されて少々驚く。外観こそ新しい家なのに、中はまるで古民家だ。部屋の中は西日が差し込んでいるというのに薄暗く、どこかで懐かしい匂いがした。
小さく頭を下げて部屋に入ると、部屋の中心が切り取られ、大きな薪ストーブが置いてあった。黒光りする柱や天井は、長い間煙で燻された証拠だ。それは間違いなく、この家がそれなり以上の歴史を重ねてきた証拠でもある。
旧さと新しさ。それがちぐはぐで、まるで旅館にでも来た思いだった。しばらく呆然と辺りを見回していると、男がストーブの傍らに腰をかけ、視線で座れと合図してくる。
台所に引っ込んでいたおばさんが、お盆に麦茶が入ったコップを持ってきて二人に勧めた。
そう言えば、ずいぶん喉が渇いていた。礼もそこそこにコップに手を伸ばすと、おばさんがにこにこと口を開いた。
「お前さんたち、どこから来たのや」
「ああ、京都からです」
蓮子が言う。おばさんがホーッと驚いたように素っ頓狂な声を上げた。
「こんな山奥、写真に撮っても面白くねぇべ。都会の人は物好きなもんだ」
おばさんが白い歯を見せて笑った。浅黒い顔と、真っ白な歯の対比が少し可笑しかった。それでもこんなすばらしい家にお邪魔できただけでも収穫だったと蓮子が言うと、傍らで黙然とタバコをふかしていた男が初めて薄く笑った。
「ずいぶん立派な家ですけれど、築何年ぐらいなんですか?」
「んだな、この部屋だけだば百年は行くべ。この梁も柱も、ひいじいさんの代からだしな」
この家を普請するとき、この板の間を壊してしまうのが惜しくなった。それで大工に無理を聞いて残してもらったのだと、男は照れくさそうに笑った。目の前の薪ストーブも、囲炉裏として使っていた場所から灰を取り除いて置いてあるらしい。
しばらく、取り留めのない世間話が続いた。京都のことや、遠野のこと。メリーと蓮子が同じ大学に通う友達であること。何のことはない世間話でも、二人は目じりの皺を深くし、うんうんと嬉しそうに話を聞いてくれた。
「それにしても、お前たち、どうして白見山に登ったんだ?」
男、いや、おじさんに訊かれて、蓮子とメリーは苦笑いした。マヨイガを探しに来ましたなどと言えるわけはない。
写真を撮りに……と蓮子が首からぶら下げたデジカメを示すと、物好きもあったものだとおじさんおばさんは笑った。
三十分も経つと、人心地がついた。ふと、おじさんが言った。
「あの山奥によ、桐の木、あったべ」
確信的な問いだった。どきりと、心臓が強く打つ。蓮子は何のことだと言うように、目を丸くする。
口をもごもごさせているメリーの反応をイエスと受け取ったらしい。どういうわけかおじさんは、ちょっとうろたえたように視線を泳がせて、言った。
「あれは南部紫桐っつってな。昔はうんと価値のあった木なんだ」
「むらさききり?」
蓮子がオウム返しに聞くと、おじさんがそうだと頷いた。
古来から、桐はその柾目の美しさや湿気を通さない特性から、古くから下駄や箪笥、はてまた琴や神楽面などに使われてきた。とりわけ、みちのくは南部で育った桐は、表面に淡い紫色を帯びていて、特別高貴なものなのだという。それ故、昔は南部紫桐と呼ばれて重宝したのだと、男は口早に喋った。
あーあーと頷く蓮子のわき腹を、肘でつついた。こいつはどうも南部桐のことを知っていたらしい。
蓮子が不思議そうにこちらを見てきたので、ぷいと横を向いて視線を逸らす。
その様子を楽しそうに見たおじさんが、俯き加減にぽつりと漏らした。
「昔はよ、村に娘が生まれると、桐の苗を植えたものなんだ。嫁入りのとき、箪笥でも作って持たせてやりたい一心でよ」
メリーと蓮子が顔を見合わせると、おじさんは独り言のように続けた。
「貧しい土地だったからな。嫁入り道具、買ってやりてぇと思っても、食うだけで精一杯の土地だしな。そんなことしかできなかったんだべ。今は桐も売れなくなって、誰も植えなくなった。それでもよ、だんだんと情が移ってきてな。あの桐の木も、もう嫁こさ出してやる歳は過ぎてしまって……なんだか悪いことしたな」
そこまで言って、おじさん男は少し困ったような表情で黙ってしまい、隣につくねんと座ったおばさんに目配せした。
きちんとひざを揃えて座っていたおばさんも、おじさんと同じように目を伏せている。
しばらくすると、意を決したように、おばさんが言った。
「人様に語るようなことでないけども……あんたたちがさっき登った山の奥に、昔はちゃんと人、住んでたんですよ。桐も、あの家建てたときに植えたのだ。それでも十年も前、都会さ一人娘を嫁さ出してしまってね。あの木はそれっきりだ」
おばさんの話が、あの廃屋のことを言ってるのだということはわかる。
打ち捨てられて錆びついた三輪車や、朽ちたブランコ。それが十年も前、あの家を出てしまったという娘の痕跡だったのか。
この子はここでずっと待っている――。
あの日傘の女が言っていたことが、不意に脳裏によみがえった。
そう言えば、とメリーは思った。時計はもう六時を回っているというのに、家の中は奇妙に静かで、誰かが外から帰ってくる気配もない。回る時計の秒針の音以外、音もない。
メリーだけでなく、蓮子もはっとしておじさんとおばさんを見た。
二人は、泣きそうな顔で黙りこくっている。
まんじりともしない空気が漂い始めた。ここが潮時だろう。残りの麦茶をほとんど同時に飲み干して、メリーと蓮子は立ち上がった。
また来い、と言ってはにかみ、庭先まで見送りに出てくれたおばさんに頭を下げて、二人はまた軽トラックの荷台に乗り込んだ。
エンジンがうなり声を上げて動き出す。さっきまで自分たちがいた家が、見る間に遠ざかって行く。
小高い丘の上。それは夕焼けの中に静かに佇んで、白い肌をオレンジ色に輝かせていた。
西日に照らされて、マヨイガがあるはずの山々が輝いていた。
でも、この世界では、もうマヨイガが見つかることはない。マヨイガが必要とされる時代も、きっともう、過去のものになってしまったのだろう。
ここ遠野からも、永遠に失われたものがあるのだ。
夕闇が、ひたひたと近づいてくる音がするようだった。夏の夜がすぐそこまで来ていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
民宿まで送っていくというおじさんの申し出を、二人は頑なに断った。そこまでさせたのでは悪いし、荷台に乗ったままでは流石にしょっぴかれても文句は言えないのだ。
そう言えば、と、おじさんがポケットをまさぐった。節くれだった手には、くしゃくしゃになった絆創膏が数枚、乗せられていた。蓮子が何度も頭を下げると、おじさんは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「いっぺぇ写真、撮ってきてよ。いつか俺さ送ってくれや」
どこかで聞いた台詞だった。ひぐらしの啼く声が遠くに聞こえていた。民宿までの数キロをとぼとぼと歩いた。
川沿いの道を歩いていると、ふと蓮子が立ち止まった。
振り返ると、早速頬に絆創膏を貼りつけた蓮子が、橋げたに埋め込まれたブロンズのレリーフを凝視していた。
「何やってるの?」
「メリーここよ! あのお婆ちゃんが言ってた神隠しの現場って」
どきりとして、メリーは周囲の風景に目を走らせた。
何の変哲もない、ススキの川原だった。目の前には川がゆったりと流れているものの、おどろおどろしい感じはなく、水深も膝丈程度の浅さだ。神隠しの舞台としては、あまりにもこざっぱりとしすぎているではないか。
本当にここが? と目で聞くと、蓮子は橋げたのプレートと手帳を見比べて「やっぱりここね」と頷いた。
地名を表す橋げたのプレートには、しかしサムトの文字はなく、『登戸』という地名が彫らたブロンズ製のレリーフが埋め込まれてあった。メリーは回答を求めるように、蓮子の横顔を見た。
ちょっと間を空けてから、蓮子が言った。
「間違い、ね。たぶん」
「間違い?」
「そう、これ見て」
蓮子は万年筆のキャップを咥えて開けると、手帳にさらさらと『登戸』と殴り書きし、そのすぐ下に『寒戸』と書いた。メリーはその二つを交互に見比べて、二、三度頷いた。
「おそらく、あの本の著者が書き間違ったのね。登戸と寒戸、頭の漢字を、さ。おそらく、書き間違いかなにかで、地名を間違えたんでしょう……こんな解釈でどうかしら?」
「なるほど、理系の蓮子らしい合理的な考えね」
頷いてみたものの、メリーは心の中でどこか煮え切らない気持ちが消え残るのを感じた。
登戸と寒戸の書き間違い。そんな簡単な間違いが広く定着するものだろうか。この神隠し譚を語ったおばあさんも、はっきりと「サムトの婆」と言っていたし、第一『遠野物語』は百数十年以上昔の出版物だ。あの本の著者が間違ったのか、それとも長い時間を経るうち、いつの間にかそうなったのか。真相は百年前に消えてしまっているので確かめようがない話と言えたが、どうにも釈然としない。
それは蓮子も同じらしかった。メリーと顔を見合わせてから、すっくと立ち上がる。
「降りていってみよう」
蓮子が言う。透き通った、なにか覚悟めいたものを滲ませる声だった。
今度は反対できなかった。黙って頷くと、二人は川原へと降りていった。
大して広くもない川原には、それでも背丈ほどもあるヨシが青々と茂っている。やや強引に川原を歩いて行く蓮子に追いすがるようにして川原を突っ切る。脛のあちこちをヨシの葉で擦り剥き、ピリピリとした痛痒さを感じたが、構っていられなかった。
「メリー、境界は?」
「ないわ。影も形も」
「そう。じゃあ流れは?」
「少し捻くれた感じだけど、別に普通って感じね」
「そう」
「今何時かしら?」
「そうね……六時三十八分、ね」
「日本時間で?」
「当然よ」
事務的な会話を他に一言、二言交わすと、二人は無言になった。
「……ねぇ、蓮子」
「何?」
意を決して言っても、蓮子はこちらを振り向かずに応じる。
蓮子はこういうとき、たまに自分さえ意識の外に置いてしまう。
それが悔しいような頼もしいような、どこか釈然としない気分になる。
一瞬、口にしようか迷った。今ならまだ「なんでもない」で戻れる。そんなことをぼんやり考えてから、メリーは意を決して言った。
「ここで神隠しに遭った娘ってさ、山に嫁入りしちゃったんじゃないかしら?」
「ほうほう、面白い解釈だ。聞いてやろう」
蓮子はこちらを振り向かず、寡黙に川原を突っ切って行く。
メリーは次の言葉を続けた。
「山は日本人にとっては異世界なのよね。日本人は大昔から、山を神聖視して、別の世界として見ていたんでしょう? だからマヨイガや神隠しが起こるんだわ」
いつぞやの蓮子の声が脳裏にこだまする。その声のとおりに、メリーは口を動かした。
「古来日本では、魔や災厄は境界を飛び越えて侵入してくると信じられていた。だから大昔の人間は塞の神という神様を祭って、境界に蓋をしてたって、蓮子言ってたじゃない」
つまり、塞の神が祭られている場所には、何らかの境界があるということだ。
境界を塞ぐ塞の神。そしてここは、寒戸。もし、「寒戸」の語源が「登戸」の書き間違いではなく、「境界を塞ぐ場所」という意味の「サエト」、つまり「塞戸」だったならば。
ここには何らかの境界がある。いや、あったのだ、昔は。けれど、今は失われた。
何故? それはさっき体験した山背が教えてくれた。風……いや、この地に流れる何かの作用そのものは、気まぐれにこの世と異界の境界を歪ませることがあるのだ。
そしてそこにかつて生じていた境界に飲み込まれ、娘は異世界に放り出された。それが神隠し譚の真実だったのだとしたら。
そこまで一息に言っても、蓮子は無言だった。
蓮子は明らかに待っていた。一体何を待っているのだろう。メリーはそう思いながら、ただひたすらに口を動かした。
「私、考えたのよ。三十年も経ってたと言え、神隠しに遭った人間は普通帰ってこないわよね? それに、聞いた話だと、そのサムトのお婆さんは『みんなの顔が見たくなったから帰ってきただけだ』って言ったんでしょ? 鬼とか妖怪に攫われて無理やり伴侶にさせられたとか、それとも食べられちゃったとか、そういうことだったならニコニコ笑って里帰りなんかしないわよね?」
確認するように言うと、蓮子が答えた。
「神隠しでなくて、望んだ嫁入りだった、ってわけ?」
メリーはちょっと考えてから、「……そこまではわからない」と正直に認めた。
「けれど、梨の木の下に草履を脱いでいなくなったってことは、ある程度覚悟の上、それに自分の意志で消えたってことよね? それに娘が三十年で老婆になるなんて、地上の時間じゃありえないことだわ。時間の流れが現世とは違う場所にいたとしか考えられないじゃない」
「……」
「それだったら、たぶん異界に行ってしまっていた。それも、お嫁に行っちゃってたんじゃないかしら。風って、この地方では山から降りて来るものでしょう? 風が強い日に帰ってきたなら、神隠しに遭った娘はずっと山の方角にいたって考えるほうが自然よね? 山は異界だし、この地方では風は特別な存在だった。その風に乗れば境界を越えられる。山が娘を気に入ったなら、辻褄が合うじゃない」
もう山陰に消えようとする太陽の光が、背高のヨシの表面に反射して、まるで遠い南国の海のように輝かせる。
少しずつ、蓮子の後ろについてゆくのが難しくなってくる。蓮子の手を取ろうと手を伸ばした刹那、うずもれていた石に足を取られてつんのめった。慌てて立ち上がって蓮子の背中を追う。
白いブラウスの背中は、黄昏時の光に照らされて燃えているようだ。
じっとりと、背中に汗が滲んでくる。蓮子の姿は今にも緑の波に浚われてしまいそうだ。どんなに必死に追いすがっても、たった数メートルの距離が永遠の距離にも感じられた。
「そして異界を越えた人は、消えたときと同じように、あるとき風に乗って帰ってくる。そう考えたらいいんじゃないかしら」
はた、と、蓮子が足を止めた。
ん? とメリーも立ち止まる。くくく、という低い笑声が漏れる。なんだ……? とメリーが片方の眉を上げると、蓮子がくるりと振り返った。その顔には悪戯小僧の笑みが浮かんでいた。
「なかなか面白い推理だね、学生さん。しかもなかなかにファンタジック。あんた学生辞めてファンタジー作家になったらどうだい」
「なっ、なによそれ! せっかく人が真剣に考えてるのに……!」
珍しく、真剣に蓮子にカチンと来た。蓮子がどこか飄々としているのは毎度のことだが、年に五分ぐらいこっちはマジメになるのに。メリーがぶうっと頬を膨らませると、蓮子がにやにや笑いを引っ込めて、「いやごめんごめん」と謝ってきた。
「何よ。蓮子なんかもう知らないんだからね。マヨイガに食べられちゃえばいいのよ」
「ごめんって、ちょっと嬉しかったのよ。いつもはあんまり興味なさそうにしてるメリーが、今日は何だか真剣に考察を述べるもんだからさ。ちょっと苛めたくなったのよ」
「そんな嗜虐心を持ってるのは君だけだよ、ワトソン君。私は君がそんなサディスティックな趣味を持っていたことについて失望を隠せないな」
「そうかな。これはこれで僕なりに楽しいんだよ、ホームズ」
蓮子は笑顔を引っ込めて、急に遠い目をした。
「確かに、そういう解釈もアリかもね。私もそれが正しいと思う。特に寒戸が塞戸だってところは、私も全然気がつかなかったわ。なかなか鋭い着眼点だと思うわよ」
「そうかしら。そこはそうでも、嫁入り云々のところはそう思ってないんじゃないの?」
「勘弁。私メリーのそういうとこ好きなのよ? 何にも興味なさそうな顔してるくせに、頭の中は人一倍ファンタジーなところ」
「それは蓮子が理系で、頭が人一倍カタいってだけじゃない」
「それもあるけど、そういう解釈が出来るのはメリーが優しいからよ」
「へぇ、その結論は私のどういう点から演繹したものなのかしら」
メリーが腕組みしながら言うと、蓮子はふっと笑った。
「そうやって何でもハッピーエンドで解釈したがる点、かな」
蓮子はそれだけ言うと、急に恥ずかしそうに頭を掻いて、先に行ってしまった。
ハッピーエンド、なのだろうかとメリーは考える。蓮子に言わせれば、寒戸の老婆は幸せだったことだろうか。
自分の解釈が正しかったとしても、とてもそうとは言えまい。
如何にハレの嫁入りとはいえ、有無を言わさず家族の許から引き離され、それきり人間としては生きられなくなるのだ。
そして三十年も経ったある日、すっかりと老いさらばえて帰ってくる。そんな寂しい結末は耐えられないと思う。
仮に、老婆が自分で、弟が蓮子だったら?
もう二度と蓮子の前に、人間として会うことが叶わないと知ったら?
そんなこと、耐えられるはずがないのだ。
「……そんなの全然ハッピーエンドじゃないわよ、ばか」
そう呟いたときだった。ふと、異変を感じてメリーは立ち止まる。
あれ?
目の前の、ほとんど影そのものに塗り潰された葦原から、いるべき人の影がいなくなっている。
「蓮子……?」
突然、心細くなった。メリーは葦原を掻き分けるようにして進み、蓮子の名前を読んだ。
「蓮子、蓮子」
メリーは夢中で葦を掻き分けた。
葦の葉が鋭利な刃物と化して、メリーの肌理細やかな肌に細かな傷をつけた。
足元のぬかるみが容赦なく靴の間に侵入して、メリーのつま先を絶望的な冷たさで冷やしていった。
無限に続くのではないかと思われる緑を、掻き分ける、掻き分ける。
蓮子は、いない。
「ばかっ、バカ蓮子! どこにいるのよ! 早くっ、出てきなさいよ!」
置いていかれた。そんな寂しさに、胸が押しつぶされそうに痛くなる。
自分は連れて行ってくれなかった。その悔しさに、じわ、と鼻の奥が熱くなる。
自分は今、世界にたった一人なのかもしれない。
「蓮子ぉ……」
悔しくて、悲しくて、そう呟いたときだった。
ザッ、と目の前が揺らぎ、メリーは、え? と目を見開いた。
その途端だった。ゴゴゴ……という地鳴りのような音がしたかと思った瞬間、何者かがメリーの横顔をしたたかに張り倒した。
突風だ、と気がつくまでに数秒を要した。
風というより、空気の爆弾だった。
身構える暇も、歯を食いしばる時間もない。短い悲鳴を上げてとっさに帽子に手を回し、その場にしゃがみこんで必死に風が行き過ぎるのを待つ。
どうどうと、緑の葦原が揺れる。
ザザザ……という砂嵐のような音は、なかなか止まなかった。
吹きすぎてゆく風の音の中に、高笑いに笑う女の声を聞いた気がした。
何秒、いや、何分経ったのだろう。メリーは顔を上げた。
呆然と辺りを見回すと、葦原は変わらずにそこにあった。
おーい、と、背後から声が聞こえた。
振り返ると、葦原ががさがさと音を立てて揺れ、蓮子がこちらに大きく手を振りながら走ってくるのが見えた。
いつの間に、あんな遠くに行ってしまっていたのだろう。生い茂る葦に邪魔されて、その動きは牛歩より遅い。
ふわりと、風が吹いた。さっきとは違って、緑のいい匂いがした。
メリーは強く目を拭った。それから大声で手を振りながら、蓮子に向かって歩き出す一歩を踏み出していた。
了
最後の寂しげなメリーがかわいい。
最後のシーンで一瞬ヒヤッと(汗 秘封好きとしては今後も期待しております、良い話でした。
3作の中では一番好きですw
境界の向こう側が見えたりと秘封っぽさが増したというのもあるけど、遠野でさえそういう不思議は「今はもうないのだ」という寂しい諦観を感じました
もしあったら蓮子は連れていかれてしまったんだろうし、ないということに安心もしましたけど
風の吹き荒れる寒々しい風景描写とメリーの心理描写が相まってこっちが切なくなりました
良作をどうも
ごちそうさま。
>>3
これはなかなか迷ったラストでした。民俗学は本当にいいものです。
>>7
読み返してみると確かにケツの穴がヒヤッとしました。我ながら嫌なものを書くもんだと思いました。
>>9
前二作で「短い」と言われたので30%ぐらい増量しました。
>>11
いや本当に難産でした。三作も読んでくださってありがとう。
>>13
ありがとうございます。
>>20
フィールドワークやっている秘封はなかなか少ないですよね。今度は殺生石についてでも書きましょうかね。
フィールドワークもこなす秘封は面白かった
また遠野行きたいな。ドブロクも美味しかったし。
前二作もこれから読んで来ます。ワクテカが止みません。
そんじゃそこらの -> そんじょそこらの
「いいから!」 -> 「いいから!」(全角統一した方が宜しいかと)
それからメリーの手も手を借りて -> それからメリーの手を借りて
そこまで言って、おじさん男は -> そこまで言って、おじさんは
面白かったです。
じっくり探検してみたくなる