目の前にチーズがあるなら、どうするかって?
確実に。ご主人に宝塔を管理させたら無くすのと同じくらい確実に!
私はチーズを食べるさ。
■■
一日の仕事を終えて、私は家路に着いた。門をくぐり玄関の戸を開ける。
鍵がかかっていなかったので、「ただいま、戻りました」と声をかけたのだが、屋敷の中は静かで、どうやら誰もいないようだった。
毘沙門天の加護篤きこの寺で、盗みを働くような罰あたりな人間はいないにしても、いささか物騒な話だ。
どうせ、だと思うし、やっぱり、あの方だろう。間が抜けているというか、うっかりしすぎているというか。
帰宅してくる彼女に対する小言を考えながら、私は自室へと向かった。その途中、何気なく彼女の部屋を方を見ると、案の定中途半端にふすまは開けっ放し。
私はため息をついて、その部屋に踏み込んだ。周りを見回すと、急いでいたからだろうか、恐らく立ち上がった時に足をぶつけて乱れた書机が見える。
その机の上には、筆入れの箱二つ分くらいの小さな箱が置いてあった。その箱から仄かに漂ってくる香りに私は、その箱を認識した時にはもうそれを開けていた。
その中には、箱一杯につまったエメンタールチーズが入っていた。発酵の過程で、炭酸ガスの気泡が固まってできる多数の「穴」が特徴的なチーズだ。一般的な人が思い浮かべるチーズと言っていい。
「ご主人め、私に隠れてこんな一品を……」
私の目の前にあるチーズは、香り高く私の脳髄をかき回す。
書記の最中のお茶請けだろうか。なんとも豪勢なそれは、私がいつも食しているチーズとは全く違って見えた。
食べたい。
そんな気持ちが私の心を支配した。知らず、口からはよだれが垂れてくる。
しかし、これはご主人のチーズなのだ。それを盗み食いをすることなど、許されることではない。しかも私は仏門の末席を汚すものである。ここはぐっと我慢をして、部屋を出よう。
踵を返して、体勢を廊下側へ。けれど、目線はチーズから離れない。その目線に釣られるようにして、私はもう一度チーズの箱を見た。
自制心が私を押しとどめる。けれど、このうずうずとした気持ちを抑えつけることなど、私にはできなかった。
もう一度ふたを開けて、チーズを見る。
お預けを喰らった犬の気持ちとはこういうものであるのか。
口内は唾液の洪水。心音の高鳴りが全身に響く。主人の物に手を出す罪悪感が、徐々に欲求にかき消されていく。もはや頭の中は、欲望に規制をかける政権がいなくなった無政府状態だ。感情は感情のまま、無秩序に私を駆り立てる。
「なぁに……エメンタールチーズだ。穴が一つ増えたところで、何の問題もあるまい」
一口、そう一口だけ。私は、机の上のティースプーンを手に取ると、チーズに食い込ませた。一瞬、後悔と自責の念が生じたが、私はそのまま一欠片をくり抜いて口に入れた。
そこから広がる芳醇な味わい。味だけではなく、まろやかでとろける舌触りに私は、天にも昇る気持ちであった。流石エメンタールチーズ。チーズの王様だけはある。
そしてその味わいに拍車をかけているのが、ひそかに感じる罪の気持ち。やってはいけないことを隠れて行うそんなスリルが、そのチーズの味をもっと深いものにしていた。
一口だけと思っていたその腕が、自然と次の欠片を抉っていた。気付いた時にはもう遅い。私は、仕方なく観念してその欠片をまた口に放り込んだ。
その美味しさに、再び私の意識が天に持っていかれる。その隙を付いて震える指がさらに伸びるのを何とか制して、私は二口でチーズを食べるのを止めた。
私は後ろ髪を引かれる想いをしながら、ご主人の部屋を後にした。
その後、ご主人が帰ってきたときには、玄関の鍵をかけ忘れていたことなど、もうどうでもよく、いつになく上機嫌で夜を過ごした。
翌日、はやる気持ちに急かされながら、私はまたご主人の部屋に来ていた。一日の労働の後にはご褒美が必要だ、と何かと大義名分を見つけて、またチーズを食べにきたのだ。
ちなみに今日も鍵はかけられていなかった。しかし、小言を思いつく前に私の足は、正直に目的地へと進んでいく。
うっかりもののご主人のこと。きっと気付いてはいない。机の上を見ると、そこにあの箱はない。ひくひくと鼻を動かして、場所を探ればすぐに目当ての物は見つかった。
懇切丁寧に白い包みの中に入れて、チーズは机の引き出しにしまわれていた。今度は持参したスプーンを手にチーズをくり抜く。
他人の部屋で、他人の物を食べる。はっきり言おう。やみつきになった。
そして、それが私の日課になってしまうのには、そう時間はかからなかった。
数日して、もはや「ただいま」の挨拶もなおざりに、私はご主人の部屋に忍び込んでいた。今日は珍しく綺麗に整えられた書机の上にはすずりと紙があるだけで、やはりチーズはなかった。手慣れた所作で私はいつものように引き出しからチーズを取り出した。
ここ最近で外側はかなりぼろぼろになってしまった。だから開けた穴からさらに奥深くにスプーンを突っ込んで、外から見えない内部のチーズを抉り取る。
一時の至福に全身を打ち震わせた後、「今日もまた御馳走様」と、貧相になったチーズをしまって、部屋を後にしようとしたその時、
「あーっ!!!」
後ろから素っ頓狂な声が飛んできた。
抜かった。いつも外出時に鍵をかけていないから、今日もまた私一人だと思って声をかけなかったのが、いけなかった。どうやら、今日はご主人は家にいたらしい。
あまりの突然さに上手い言い訳を思いつかない。けれど、チーズをしまったところを見られていなかったはずだ。落ち着け。抜けてるご主人のことだ、絶対気付かない。私はひきつった頬を無理やり笑顔に変えて、焦りを表情の裏に隠した。と、
「見ましたか?!」
私が聞きたかったことをご主人は聞いてくる。
「な、何をですか」と、私はしどろもどろに答えるしかなかった。
しかし、その答えを聞いたご主人は幾分か和らいだ声で
「……いえ、何でもないです」と、案外簡単に引き下がってくれた。
私は適当に「部屋がいつも汚いから、整理しにきてやった」ということを言って、そそくさと自室へ戻った。
自室のふすまを閉めて、辺りに人気がいないことを確認してから、私は盛大にため息を漏らした。
危ないところであった。うっかりしていたのは私だ。
見つからなかったのが、幸いであったが、もうこれ限りにしておこう。なんだか嫌な予感がするのだ。
後を引くあの味には未練が残るが、いたしかたない。それに食べられる部分もあとわずかである。やめるのには頃合いだった。
それからまた数日して、いつもの日常に戻っていた私のところへご主人が訪ねてきた。かしこまって私の部屋に入ってきたご主人の両手には、あの包みが載せられていた。
先日の一件がまだ心の中にあった私には、心臓が爆発しそうになるほどの衝撃が駆け巡った。
まずい。ばれたか。いや、誰が食べたかという証拠はない。素知らぬ顔をすればそれでいい。
いざとなったら……!
私は籠の中で昼寝をしていたチュー太郎のしっぽを掴む。チーズ好きと言えばやはりネズミだ。ここは心が痛むが同胞に罪をかぶってもらおう。チュー太郎は犠牲になったのだ。やかましく喚くチュー太郎の口を指で押さえこんで、平静を振る舞う。暑くもないのに、汗が額から流れ落ちてきた。
表情がこわばる私に対して、ご主人は気恥ずかしそうにもじもじとしている。私は何か勘違いをしているのだろうか。すると、若干涙目になって顔を赤くしながら、ご主人は包みを押しつけるように手渡すと、何も言わずに部屋を出て行った。
不思議に想いながら包みを取ると、綺麗に装飾された小さな箱と、一通の手紙が入っていた。首をかしげながら、手紙を開くと、几帳面なご主人の細文字が綴られていた。
――
いつも、ありがとう。貴女は忘れてしまったかもしれないけれど、今日は貴方が私の元に来てくれた日です。
みんながいなくなってしまって、日々落ち込んでいた私を励まして支えてくれたのに、その時の私は心に余裕がなくてお礼ができませんでした。
だから、みんなが帰ってきて、いつもの私たちに戻れた今、お礼の気持ちを伝えたいと思います。
うっかりものの私だから、たびたび苦労をかけるけど、これからも私の側にいてください。
――
冷や汗が滝のように湧き出てくる。
ご主人の想いを受けて喜びたいという気持ちより、先行するのはとても嫌な悪寒。
見たいような、それでいて見たくないような背反する心を抱えながら、私は恐る恐る包装を解いた。
果たしてそこには、私が散々盗み食いをしたエメンタールチーズがあった。
今思えば、チーズがそこにあることが不自然だったのだ。書机の上にはチーズの他に紙が置かれていた。振り返ってみると、それはこの手紙と同じ紙だった。
ということは、不器用なご主人のことだ。贈り物のチーズを見ながら手紙を書いていたに違いない。だから、あそこにチーズを置き忘れていたのだ。
それに、ご主人はチーズが好きだという話も聞いたことがない。冷静な判断ができれば……。いやそれは言うまい。
だが、それにしても……
風通しの良くなったチーズに歯を立てると、心に穴があいたように空しい気持ちがした。
■■
「なんかあいつ、最近やに張り切ってるよな」
「何か悪いもので食べたんじゃない?」
(むしろ良いもの食ったんだよ)
口々に私のことを噂する家人たちを無視して、私は今日も労働に勤しむ。
結局真実を話すことができなかった私は、せめてご主人の気持ちに応えようと、西へ東へ走り回っていた。これくらいでしか、私には謝罪の気持ちを表すことはできない。来年の同じ日に、またご主人に信頼の証を頂ける事を願って。
ただ、それも気持ち半分。
実を言うと、仕事を手伝ってくれていた使い魔ネズミたちに、チーズ泥棒の濡れ衣をチュー太郎に着せようとしたことがばれてしまったのだ。
だから、私の信用度はかつてないほどに大暴落。使い魔たちのクーデターで、私は非常事態宣言。特別措置も出せないまま、仕事量がだけが何倍にも膨れてしまった。結果、その仕事を片付けるために私はとにかく奔走せざるを得ないのだ。
いかな冷静な人であれ、我を忘れて夢中になるものがあるだろう。だが、少し待って欲しい。
目の前のそれに、たやすく心を奪われてはならない。心の主導権は常に自分が握っていなくてはならないのだ。
ひとたび心が無政府状態(アナーキー)に陥り、欲望の暴走を許すならば、後に重大な報いを受けることになるだろう。
心が穴あきになりたくなければ、今一度冷静に身を振り返ってみることだ。
それが、私が学んだ教訓。同志諸君、気をつけたまえ。
踏みにじった同志ナズーリンよ。
君、コルホーズで一から勉強し直し決定!
誤字報告
>>私は、机に上のティースプーンを手に取ると、
たぶん「机の上」じゃないかと。
ご主人の気持ちを裏切ってしまった罪悪感とかもね
オチが読めてしまいましたがテンプレ話なのでそれもまたよし。ナズが可愛かったし
あとがきを読むまでキャラ名が出ていなかったことに気づきませんでしたというのは秘密だ