※(上)(中)(下)三部作の(下)です。
※作品中には俺設定及びキャラクターの死亡描写がありますのでご了承ください。
<16>
月の頭脳、八意永琳の居宅は月の都の中心部からやや外れた居住地にあった。
いわゆる閑静な高級住宅街、と言う奴である。
上流貴族の邸宅が立ち並ぶ街並の中で、さほど大きい方では無いが、何羽かの女中兎を住まわせて一人で暮らすには十分である。
書斎と研究室と、たまの来客をもてなす応接間以上の物を永琳は必要としなかった。
とは言え、一応見事に手入れされた中庭などもあり、池に鯉こそ泳いでいないが、なかなか趣がある。
地上から月への移住と月の都の建設、と言う超巨大プロジェクトの最大の功労者と言ってもいい永琳である。
望めば都のど真ん中に一千坪の大豪邸を建てる事も出来たが、出来れば静かであまり人も訪れないような所で自分の研究に没頭したかったので、この場所に居を構えた。
本当は公務上も完全に隠居するつもりでいたのだが、現在の永琳は地上への使者のリーダーを務めている。
地上の民の監視とコントロールは緻密な計算と繊細なバランス感覚が要求される。
まして現状、餌が蓬莱の玉の枝だけと言うのも心許無く、未だ文明の夜明け程度のレベルに留まる地上の状況は予断を許さなかった。
もう少し地上の民の進歩が軌道に乗るか、優秀な後継者が育つまでは、永琳以外にこの難しい役職をこなす事の出来る者はいなかったのである。
そう言った事情もあり、また周囲のたっての依頼もあって、忙しい公務と研究の合間に永琳は貴族や上流階級の子女の勉学を見ていた。
実際現在見ている子女の内、綿月の姉妹等は恐ろしく優秀で、将来的に自分のポストを託す事になるだろうと永琳は考えている。
しかしそう言った実務上の要請を抜きにしても、子供達の教育は永琳にとって非常な愉しみであった。
この変化を拒み、時を止めた永遠の都において、成長する、という過程を間近で見守り、手を貸してやる事程の大きな喜びは、他に見出しようが無い。
過密スケジュールの中からさらに時間を割いてでも、永琳は子供達を招いたり、あるいは家庭教師として出向いたりして熱心に教育を施した。
一人一人の持っている個性がそれぞれ違った彩りの花を咲かせていくのを、永琳は形容し難いいとおしさをもって見守るのである。
今、永琳の書斎で講義を受けている目の前の蓬莱山の輝夜もまた、永琳の教え子の一人である。
輝夜は絶世の美人と形容しても差し支えない、男女を問わず魅了してしまう類稀な美貌を備えていた。
そして、勉学において突出して優れた才能は無いが、それを補って余りある心根の優しさや素直さを持ったお姫様だった。
この姫にどれ程見事な花を咲かせてやれるだろうか、どの生徒を見るときも思う事ではあるが、永琳はその責任に身の引き締まる思いである。
この子の持って産まれた真っ直ぐな天真爛漫を、変に手をかけて壊してしまう事だけは決して出来ない。
極めて優秀な人材として育て上げることは難しいだろうが、その玉の様に美しい容姿と相まって、万人に愛される姫に成ってくれる事だろう。
それにしても、愛らしい。
講義がつまらない時はその可愛らしい桜色の唇をつん、と突き出していかにもつまらない、といった顔をして見せる。
興味がある話となると、俄然そのつぶらな瞳をきらきらさせて身を乗り出してくる。
可笑しい時にころころと笑う声はまさしく鈴の音さながら。
そんな輝夜がえーりん、えーりんと自分の事を慕ってくれるのだから、可愛くないはずが無いのである。
素直な輝夜であるから、永琳から見れば決して自惚れでは無く、輝夜はその仕草や表情や言葉の端々に至るまで、永琳大好き!と全身で表現しているに等しい。
――近い将来、どこに出しても恥ずかしくない一人前の姫として巣立って行く日までは、私がこの子を独り占め出来る。
永琳もまた、輝夜に魅了されてしまった者の一人だった。
教え子の贔屓は永琳の好む所では無かったが、この輝夜相手では致し方無し。
輝夜がいずれ永琳の元から去っていくその時位までは大目に見て欲しい、と永琳は思う。
その時までは、幸せな日々が続くと、思っていたのだが。
運命は突然の嵐のように、訪れ、平穏を奪い去って行った――
「ねえ、永琳。何かおかしくないかしら?」
輝夜が問うたのは、永琳が月の都に月夜見達が移住してきた歴史を授業していた時である。
じわり、と黒い不安が永琳の胸の内に滲み出した。
「どの辺りがおかしいと思うの?」
「地上には穢れが満ちていて、それが生き物に寿命をもたらすから、月夜見様や永琳達は月に逃げてきたのよね?」
「ええ、そうよ」
答えながら、永琳の不安は過去の記憶を伴ってはっきりと形を取り始める。
悔やんでも悔やみ切れない、忌まわしい記憶。
鳩尾の辺りにきりり、とねじを打ち込まれたような痛みを感じる。
「穢れとは、権力や富を欲する醜い心や、相手を打ち負かしたいという闘争心。あるいは、生存競争の中で生き残りたい、優位に立ちたいという生命の歴史。簡単に言えば、死にたくない、生きていたい、という欲望の事よね?」
「そういう事になるわね」
ああ、デジャヴュだわ。
いつになく自分の心臓が早鐘のように鼓動するのを永琳は感じている。
駄目よ、輝夜。それ以上は駄目。
「生きたい、という欲望が死をもたらすなんて滑稽ね。だから地上の者共は下賤で浅はかだ、と私達月の民は蔑むのね」
「……」
「でも矛盾していないかしら? 月の民が地上から逃れてきたのは、穢れが寿命をもたらすから。それって、結局永遠に生きたいという願いではないの?」
「輝夜」
永琳の顔は蒼白となっていた。
脂汗が額から流れ落ちる。
あの時と同じだわ。
永遠の魔法が解けてしまう。
「穢れって本当は何なのかしら。どうして月の都には穢れが無いの?」
「輝夜、それ以上は駄目」
震える声で永琳は言った。
しかし、輝夜がそれに頓着する様子は無い。
この月の姫の愛すべき無邪気さを、この時程憎んだ事は無かった。
「それに、お父様とお母様の間に私は生まれた。子を成す事は、生命の営みの最たるものでは無いのかしら? 地上では、女性が子を産めるように成熟した証の月の便りを、穢れとして嫌うのでしょう? 永琳、貴女に教わった事よ」
「ああ、輝夜…」
永琳は両手で顔を覆って慟哭した。
もう全ては遅きに失した。
輝夜は永琳の見てきた子供達の中では決して出来のいい方ではなかった。
現在他に見ている綿月の姉妹の優秀さとは、正直に言って比べるべくもない。
しかし、直感的に物事の本質を捉える事には恐ろしく長けていた。
その真っ直ぐな曇りの無い瞳で、物事の隠された裏側を見透かしてしまう。
もっと細心の注意を払ってやるべきだった、と永琳は悔いた。
しかし、遅かれ早かれいつかはこういう事態になっていただろう、との確信も、またあった。
こうなる運命だった、と言う他無いのだろう。
「私は、本当は穢れてはいないのかしら? 永琳は、どうなの? 月の都も、地上と同じように穢れに満ちているのではないかしら? なんで、私達は老いて死ぬ事が無いのかしら?」
何かがぱちんと爆ぜた様な感触があった。
刹那、輝夜の体から「穢れ」がどっと噴出し始めた。
輝夜には、目に映る世界の彩りが急に鮮やかになり、生き生きとし始めたように感じられた。
永琳は素早く周囲に結界を張り巡らした。
輝夜の「穢れ」が周囲に察知されるまで、幾ばくかの時を稼ぐ事が出来るだろう。
「輝夜、今から本当の事を教えます。全ては、貴女が気付いた通り。月の都に穢れが無いなどという事は、まやかしに過ぎないの」
永琳は滔々と語った。
月の都には、月夜見の持つ永遠と須臾を操る能力を永琳の考案した結界によって増幅した、強力な永遠の魔法がかけられている。
永遠という閉ざされた時間の中で、月の民は歴史を止め、いわば仮初めの生を生きているのだという。
そして、穢れが無いから寿命も老化も無いという強力な自己暗示も働いているらしい。
一種のプラシーボ効果でもあるわ、との永琳の言だったが、輝夜にはぷらしーぼ効果という単語の意味する所はわからなかった。
ただ、思い込む力というのは凄い、というのはわかった。
この強力な永遠の魔法と暗示によって、普通は輝夜が感じたような疑問を感じる事は出来ないのだそうだ。
輝夜は普通は出来ない事をやったのだ、と聞いて誇らしい気持ちになった。
ただ、この魔法と暗示は外界からの刺激に極端に弱い。
すなわち、普通の時の流れを持つ地上の生命と接触したりすれば、歴史が動き始め、自らの存在に疑念を抱き暗示が解けてしまう。
それで、月の民は地上を穢れに満ちた世界とし、穢れを極端に嫌うのである。
「穢れ」などと言うものは、本当は存在しない。
生きとし生けるものは元よりなべて死ぬ定めであり、永遠の生命こそがまやかしであった。
「…つまり、輝夜は自分にかけられた永遠の魔法と暗示を解いてしまったの。今の貴女は『穢れ』てしまって、老化するし、寿命が来れば死んでしまうわ」
「そうなの」
輝夜はあっけらかんとしたものだ。
「…死ぬ事が、怖くないの?」
「死んだ事が無いからわからないわ。それに、なっちゃったものは仕方無いし、こっちの方が本当なんでしょう?」
「……」
永琳は心打たれた。
全く取り乱す事なく、普段と変わる事の無い輝夜の姿。
長い事見てきたからわかるが、この小さなお姫様は自分を取り繕う事など出来ない。
心底、表裏無く、何の動揺も輝夜にはないのだ。
姫としての作法を教えてきた自分ではあるが、本当の気品とは何かを目の当たりにし、永琳は畏敬の念を覚えた。
「でも永琳や月夜見様や、最初に月に移住してきた人達は、皆本当の事を知っているのでしょう? どうして年を取ったり死んだりしないの?」
「それは、我々はこの薬によって本当の不老不死を得ているからです」
永琳は胸元から透明な壜を取り出した。
「――蓬莱の薬、と呼ばれている物よ」
「それって物凄くいけないクスリよね? 飲む事はおろか、所持・製造すら重罪っていう」
「そう。我々のような移住一世の月の民だけこの薬に頼った本当の不老不死であるという事が膾炙すれば、たちまち魔法と暗示が解けてしまう。だからこの蓬莱の薬も、穢れに満ちた禁忌とされているの」
「でも、永琳はその薬を作る事ができるのでしょう? どうして大量生産して、月の民全員に飲ませないの?」
「理由の一つ目は、本当の不老不死をもたらす薬だから。寿命を消すだけでなく、死ぬ事すらできなくなるの。気が遠くなるほどの時の果てに、全てが滅び去って無しか残らなかったとしても、私は死ぬ事が許されないのです」
永琳達が初めて蓬莱の薬を作ったとき、まさかこの様な事になるとは思わなかった。
永遠の生などという人智を超えた禁断の領域に手を出した罰である。
永劫の時を経てなお、贖罪の歩みを止める事は許されない。
本当は地上の民を蔑む事など到底出来るわけも無い。
限りある生を必死に生きる彼等に合わせる顔など無い、どうしようもなく愚かな集団が自分達なのだ。
「理由の二つ目は、単純に製造する事が困難だから。全ての材料が揃っていたとしても、作るのには莫大な労力が必要なのよ」
「何とかって言う、昔蓬莱の薬を飲んだ人の罪を償うために、兎達が薬を搗いているのよね? でも、その人の罪を関係無い兎が償うっていうのもおかしいし、そもそもその蓬莱の薬が罪の元なのにその薬を作る事が贖罪になるって言うのもおかしいわ」
永琳の胸に巣食っていた痛みがぎりり、と再び食い込んだ。
あの時のように失敗するわけにはいかない。
今度こそ、この子は救ってみせる。
「それだけ作る事が難しい薬なの。今となっては作ろうとする事自体単なる徒労でしかないわ。それが、表向きには贖罪とされている理由。貴女の言っている罪人は…嫦娥の事でしょう。嫦娥が飲んだのは、我々月の民が地上の民をコントロールする為に地上にもたらした、なけなしの貴重な薬だったのよ。地上の権力者達は自分の権勢が永劫続く事を願って、皆一様に不老不死を求める。蓬莱の薬は、そういった権力者達を操るのに格好の餌だった。それが失われてしまったので、何とかしてもう一度蓬莱の薬を作りたい、というのが本当の理由ね」
「ふうん。そこまでして地上の民をコントロールする理由が何かあるのかしら」
「適度な争いは技術や科学の発達に寄与する。私達は歴史を操って、地上の民の進歩に手を貸してあげているわけね。また、将来的に彼らが道を誤って、地上の生命や我々月の民を脅かす事の無い様管理をしなければならない。そして、…過去に私達が犯したような愚かな過ちを繰り返させない為にも」
そこには地上の民への後ろ暗さに対する、ある種の贖罪の意味も込められているのかもしれない。
「でもそんな事、地上の民達にとっては余計なお世話だと思うけど。だって、争ったら人がいっぱい死んでしまうのでしょう?」
まさしく輝夜の言は真実であり、ぐうの音も出ない。
地上の民の為に、と言う口実で疚しさから目を逸らそうとする愚かな行為に違いなかった。
しかし、生命という混沌が生み出す物を諸手を上げて信じる事は、その身を以って知った永琳達には出来なかったのである。
結局どこまでも月の民は生命を侮辱する、醜く傲慢な存在であると言う事だろう。
「それに永琳、そこに蓬莱の薬を持っているじゃない」
輝夜は永琳の手にある壜を指差した。
永琳は下唇を噛みながら、首を横に振った。
「これは、嫦娥が飲んでしまった蓬莱の薬を地上にもたらす前に少し取っておいたのだけれど、実は未完成品なの。蓬莱の薬を完成させるには、月夜見の永遠と須臾を操る能力が必要なのよ。でも、この月の都の永遠の魔法を完成させるために月夜見は力の全てを使い切ってしまった。それ以降、永遠と須臾を操る能力の持ち主は現れていない。すなわち、完全な蓬莱の薬を作る事はもう出来ないの」
「未完成な蓬莱の薬で地上の民を操ろうとしたの?」
「そう。ある程度の信憑性さえあれば、実際に不老不死になる効果が無くても餌としては十分だったから。そして、実際には不完全な蓬莱の薬でも、不老不死の効果はあった。ただ、重大な欠陥があったのだけど」
「重大な欠陥?」
「飲んだ者の肉体はまさしく不老不死になったのだけれど、死んでしまってから再生する時に魂の復元が不完全で、記憶が断絶したり、精神が崩壊したりする事がわかったの」
「…酷い」
輝夜は顔を両手で覆い、いやいやをするように首を振った。
それが酷く自分を苛むように思われて、永琳は壜を持った左手の手首を、右手でぎゅっと掴んだ。
「そうね。だから私はこの蓬莱の薬を隠す事にした。もう、この薬は作るべきではないわ」
「…嫦娥もその薬を飲んだのね」
「…ええ」
嫦娥は昔の永琳の教え子であった。
輝夜ほど上流の出ではないが、無邪気で、快活で、優しい子であった。
美しい黒髪と瞳を持った、皆に好かれる子であった。
今の輝夜と、よく似ていた。
そして、輝夜と同じように、ある日永遠の魔法と暗示を解いてしまった。
突然の出来事に永琳は驚愕し、酷く慌てた。
なんとか事情を説明してやると嫦娥はパニックを起こし、死にたくないと泣き喚いた。
無理も無い事である。
その間にも「穢れ」は周囲に広がり始め、最早一刻の猶予も無くなった。
捕らえられてしまえば、殺されるか、良くて生涯幽閉されてしまうだろう。
やむを得ず、永琳は嫦娥を地上に堕とした。
周囲には嫦娥が地上に憧れて出奔したと説明した。
彼女を捕らえるのは月の使者のリーダーである自分の役目であり、上手く保護する事が出来るだろう。
嫦娥が「穢れ」にまみれているのも、地上にいた為であると説明する事が出来る。
地上への出奔は当然罪となるが、永遠の魔法を解いてしまった事が発覚するよりは軽い処罰で済むはずだ。
後は何とか彼女にもう一度永遠の魔法をかけるか、もしくは手元に残した未完成の蓬莱の薬を完成させるか、いずれかの方法を編み出すより他に無い。
しかし、嫦娥が永遠の魔法を解いた事は既に移住一世のお偉方の誰かに発覚していたらしい。
永琳を出し抜くように派遣された月の使者の一団は、地上で嫦娥を殺害した。
正確には、殺害を試みたが、それを果たす事はできなかったのだが。
死を恐れた嫦娥は、地上に堕とされてすぐ、地上の民から蓬莱の薬を譲り受けて飲んだらしい。
この時初めて、未完成の蓬莱の薬がどのような効果を持つかが判明した。
月の使者の一団によって何度も殺害された嫦娥の精神は、完全に破綻した。
殺害する事が出来ず仕方なく捕らえられた嫦娥は、蓬莱の薬を服用した罪によって、月の都の地下に永遠に幽閉される事になった。
厳重な警護の中、月の都に到着した嫦娥が幽閉される場に、永琳も月の都の重鎮として立ち会った。
美しかった黒い瞳は狂気の赤に染まり、長い髪を振り乱しながら、嫦娥はけたたましく笑っていた。
その瞳には、何も映っていなかった。
まさに扉が閉まろうとするその瞬間、嫦娥の瞳が永琳を捉えた。
嫦娥は、ぞっとするような笑みを浮かべて、唇を微かに動かした。
――コ、ロ、シ、テ、ヤ、ル。
永琳は、その望みどおり殺されてやる事の出来ない自らの身体を心底恥じ、憎んだ。
そして、自らの邸宅に帰り、丸二日間、声すら出なくなるまで慟哭した。
ここまで話した永琳は、ふと自分の頭に手が回されるのを感じた。
そのまま、ぎゅう、と輝夜の胸元に抱き寄せられる。
とっさの事に何の反応も出来ず、永琳はされるがままに輝夜の胸に顔を埋めた。
誰かに抱きしめられた事など、いったいいつ以来無かった事だろうか。
輝夜の体温を感じる。
最後に誰かのぬくもりをこんな風に感じたのは、もう、気が遠くなる程の昔の事になってしまったのだと、永琳は気付かされた。
心が、体が、止まった時が動き出すようにじんわりと融け出していくのを感じる。
――頭の上から、ひっく、ひっくと嗚咽が聞こえてくる。
輝夜は、泣いていた。
泣きながら、何も言わず、ただただ永琳の頭を撫でるので。
永琳は、泣いた。
大声を出して泣いた。
子供のように、わんわんと泣いた。
遥か昔のあの時以来、一瞬たりとも泣く事など無かったというのに。
泣きながら永琳は、ああ、この人と一緒に生きるのだ、と思った。
今度こそ救いたい、などと言う傲慢な考えではなく。
自分が一緒に居たいが為に、輝夜と共に生きよう。
…やがて、輝夜の胸に頭を預けたまま、永琳が静かに言う。
「輝夜の『穢れ』を押し留めておくのもそろそろ限界よ。地上に、行かなくては」
「…ええ」
永琳はそっと輝夜から頭を離し、箪笥から羽衣を取り出した。
「こんなものしかなくて生憎だけど。…すぐに、迎えに行くから」
羽衣を受け取った輝夜は、真っ直ぐに永琳を見た。
「永琳。その蓬莱の薬を飲むわ」
はっとして、永琳は思わず手を後ろに回して背中で壜を隠した。
「駄目よ、この薬だけは駄目!」
「駄目じゃないわ、永琳。どうして貴女はその薬を捨ててしまわないで、今日まで隠しておいたのかしら? またいつか今日みたいな日が来る事を思って、ずっと薬を完成させようとしていたのでしょう?」
「でも駄目だったのよ! どんなに研究を重ねても、駄目だった! やはり永遠と須臾を操る能力無くして、蓬莱の薬は完成しないの。…お願いよ、輝夜」
「でもぉ、わたしぃ、死んじゃうのこわいしー」
こんな時に巫山戯る輝夜の気が知れない。
「私に死んで欲しいの?永琳」
永琳は苛々として叫んだ。
「そうよ! 死んで欲しいの! あの子みたいに狂った瞳で私を呪わないで! 最後まで優しい輝夜のまま、私の腕の中で死んで欲しいの! 絶対、絶対、私が輝夜の最後を看取ってあげるから! どんな時も一緒に居て、輝夜がおばあちゃんになっていつか瞳を閉じるその日まで、どんな事をしてでも幸せにしてあげるから!」
輝夜はにっこりと微笑んで、こつん、と永琳の額に自分の額をくっつけた。
泣き腫らした酷い顔だが、やはり美しいと思ってしまう。
「うふふ、情熱的な愛の告白ね。その言葉が聞けて本当に嬉しいわ。でもね、永琳。そんなに想ってくれるなら、私の頭がおかしくなっちゃう位で背を向けちゃ嫌。今度こそ、私の手は離さないでね」
いつの間にかするりと背中に手を回されて、永琳は蓬莱の薬の壜を奪われてしまった。
「待って!」
「私だけが幸せに死ねばいいなんて、永琳に似合わず愚かな事を言うわ。私の望みを教えてあげましょう。永遠に痛みを抱えて歩まねばならない貴女のその道行を、私が共に歩いてあげる。疲れたら一緒に一休みすればいい、私が貴女を沢山笑わせてあげるわ。二人で歩けば退屈なんてしないもの、どこまでも、どこまでも歩いていけるわ」
「わかっているでしょう、その薬ではまともに歩いては行けないの。返しなさい!」
2歩、3歩と後ずさる輝夜を追って、永琳は手を伸ばそうとした。
しかし――
「私とて月の都が始祖、月と夜の王たる月夜見が血を引く月の都の姫、蓬莱山輝夜! 今こそ、永遠と須臾を操って見せようではないか!」
突然凛とした声を張り上げる輝夜に、永琳は気圧されてしまった。
わずかに、輝夜の体が銀色の光を帯びた。
その神々しい光景に、声を上げる事すら出来ず、ただただ永琳は見とれる。
「――きっと、大丈夫」
輝夜は微かに微笑んで、羽衣を纏い、ふわりと浮かびながら壜の蓋を開けた。
「失敗は成功の元。まして、月の頭脳、天才八意永琳が作った薬。今度は、うまくいくわ」
「――輝夜」
「それに、もし失敗して頭がおかしくなっちゃっても、」
すう、と宙を舞い、障子を開け放っていた室内から廊下を超え、中庭の方へと輝夜は飛んでいく。
「――輝夜!」
「おかしくなっちゃった者同士、嫦娥と仲良くなれるかも知れないわ。…あの子も、可哀想だものね」
ぐんぐんと高度を上げて、輝夜の姿が遠ざかっていく。
壜が傾き、輝夜の喉がごくん、と動くのが見えた。
「じゃあね、永琳。迎えに来るのを、待っているわ――」
「…輝夜」
中庭に面した廊下に、ずっと永琳は立ち尽くしていた。
<17>
強い風が時折吹き抜け、境内に叩きつけられた落ち葉がそこかしこで乾いた断末魔の叫びを上げている。
きりきりと冷えた夜の空気は極限まで張り詰め、星の瞬きすら凍り付いていた。
嫦娥は月兎に、永琳達を拘束するように命じた。
四羽の内二羽の兎が、素早く永琳達を次々と後ろ手に縛り上げた。
拘束具はフェムトファイバーであった。
一同は霊夢と共に一塊に座らされ、周りを武器を構えた兎達が取り囲んだ。
膝の下の石畳の身を切るような冷たさは、しんしんと絶える事が無い。
兎達は自発的な思考をしているようには見えなかった。
嫦娥の狂気に中てられ、精神の波長を乗っ取られてしまっているのだろう。
十の赤い瞳にぐるりと囲まれて、気を確かに保っていないとこちらまで狂気に飲まれてしまう危険性があった。
やはり雁首を揃えてぞろぞろとやって来たのは失策だったか、と永琳は思った。
月からの侵入者達は思いの他隙が無く、統制が取れていた。
いかに強力な面子であっても、これでは全く為す術が無かった。
そして――嫦娥。
その底知れぬ狂気からは、何も読み取ることが出来ない。
「改めて、お久しぶりね、永琳」
正面に立ち、両手を剣の柄に乗せて切っ先を石畳に突き立てながら、嫦娥は口角をわずかに持ち上げて永琳を見下ろした。
視線を逸らさずにその赤い瞳を睨み返す永琳、しかし、彼女らしくない事に、僅かとは言え確かにその目には動揺が見て取れた。
「お友達をこんなに引き連れて、また私を百遍も二百遍も殺すつもりだったのかしら。ねえ永琳、そんなに私を殺すのは愉しい? 私を殺して殺して、何度も殺して、まだ殺し足りないのね」
そう言って、嫦娥はけたけたと気味の悪い哂い声を上げた。
「…どうやって脱走したの」
「どうやって、ですって? 貴方達月の都のお偉いさん方のおめでたい頭にはほとほと感心させられるわ。ただ、復讐する事、それ以外私の中には何も無かったのに。幽閉されてから、ただの一瞬たりとも休む事無く私は力を練り続け、研鑽を怠らなかった。強固な四方の壁はいい練習相手だったわ。どれだけ強力な結界だってそうやって膨大な年月が経てば脆くもなるでしょうよ、雨垂れですら岩盤に穴を穿つというのに。反比例して私の力は増大し続けていたし、気付けばいつの間にか、私が望みさえすればいつでも外に出られる状態になっていた。むしろ何でそんなにお気楽に構えていられたのか、こちらが聞きたいくらいだわ」
嫦娥は終始怖気を震う冷笑を顔に貼り付けたまま、饒舌に語った。
妹紅はその言葉を聞きながら、ああ、こいつは救われなかった私の成れの果てだ、と思った。
永琳の前にしゃがみ込み、嫦娥は気味が悪い程に顔を近づけて、その目を覗き込んだ。
「嘘よ。本当はその答も私にはわかっているの。どうせ、私の事なんて閉じ込めたっきり、皆忘れてしまったのでしょう?」
「いいえ、少なくとも永琳は決して貴女の事を忘れたりはしなかったわ」
凛と応えたのは、輝夜であった。
その言葉を聞くや否や、嫦娥は激昂した。
「黙れ!!あんたに何がわかる!!」
髪を振り乱して輝夜を足蹴にする嫦娥の姿に戦慄を覚えない者は無かった。
後ろ手に縛られている輝夜は受身を取る事も叶わず、石畳に打ち付けられた側頭部が、がつっ、と鈍い音を立てた。
「輝夜!」
「輝夜輝夜って五月蝿いわ。この糞みたいなお姫様、私、大っ嫌いなの。虫酸が走るわ」
憤怒に燃えた瞳を向ける永琳を嫦娥は言下に斬り捨てた。
ゆっくりと身体を起こし、頭を上げた輝夜は、静かに嫦娥を見つめた。
眼差しはただ、鏡のように滑らかに澄み、顎を伝って落ちる血液が音も無く輝夜の服を汚した。
「私、永琳をずうっと見ていたわ。いつか必ず復讐してやろうと思って、ずっと、ずっと、暗いところから見ていたの。阿呆みたいに壁に拳を打ち付け続けて、血まみれになりながら、ずうっと、見ていた。ある時、あんたが現れた。永琳はもうあんたにぞっこんで、輝夜輝夜って、馬鹿みたいだったわ。あんたの永遠の魔法が解けてしまった時だって、下らないお涙頂戴の三文芝居で反吐が出そうだった。蓬莱の薬だって、私は偽者掴まされてこんなに苦しんでいるのに、あんたは月の都の姫様で、薬を完成させてのうのうと生き延びて。永琳が地上にあんたを迎えに行った後行方をくらました時、私は気も狂わんばかりだったわ。まあ、もう狂ってるけどね、あはははははは! 随分長い間、それこそ血眼になって探したけど見つからなかった。それが急に最近になって地上のこの幻想郷とかいう田舎にこそこそ隠れ住んでるのが見つかったわ。あろうことか、まだ輝夜輝夜でべったりのまんま。あんたらが行方不明の間に外に出るだけの力も蓄えてたしね、いい加減滅茶苦茶にしてやろうと思ってこうしてやって来たってわけよ」
嫦娥は輝夜を睨みながら一気呵成にまくし立てた。
「下らない。貴女達の痴話喧嘩に私達の幻想郷を巻き込まないで下さるかしら」
冷たく、鋭く、氷の刃を叩きつけるように紫が言い放った。
主の能面のような無表情を横目で見ながら、藍は本能的な恐怖を感じて耳を伏せていた。
「口の利き方に気をつけることね。私は頭がおかしいの、腫れ物を触るように扱って頂かないと、大火傷をするわよ」
聞くに堪えぬおぞましい哂い声を上げながら、嫦娥は自分の頭を人差し指でとんとん、と叩いて見せた。
「腫れ物は、切り裂いて膿を全て出し切るのが一番ですわ」
怜悧な光を宿した眼で嫦娥を見据えつつ、紫は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「地上の賢者様。あまり口が減らないと、貴女の大好きなこの幻想郷、月と同じようにぶっ壊すわよ」
嫦娥がそう言うと、月兎の内の一羽がくるりと向きを変え、神社へと手中の武器を向けた。
閃光が走り、一瞬後、炸裂した光と、爆風と、轟音が空間を満たした。
永琳達は為す術無く地面になぎ倒され、飛来する瓦礫から身を守ることも出来なかった。
「くだらないおもちゃだけど、今ので出力の一割にも満たないから」
先程まで神社があった空間には最早立ち昇る煙の粒子しか無く、地面は大きく抉れていた。
「ちょっと! 何て事するのよ!」
「これでわかったでしょ。狂人の脅しはただの脅しじゃ済まないのよ」
抗議の声を上げる霊夢を冷ややかに見ながら、嫦娥は言った。
「…下種が」
紫は最早仮面をかなぐり捨て、怒りもあらわに吐き捨てた。
「もういいわ。私への復讐が目的なのでしょう?関係の無い人を巻き込むのはやめて」
「関係の無い人?」
永琳が疲れたようにそう呟くと、嫦娥は永琳に向き直った。
そして、可笑しくてたまらないというようにくすくすと不穏な笑みを漏らした。
「そうよ。全ては復讐。月の都の連中も一人残らず皆殺しにしてやった。どうせあんな奴ら、元から生きている価値なんて無いしね。分不相応な兵器なんて後生大事に抱え込んでいるから、あんまり滑稽なんで爆発させてやったわ。私はね、永琳。復讐の為に、貴女の大事なもの、貴女に縁のあるもの、全てを消すわ」
永琳を始め、底知れぬ狂気の深遠を覗き込んだ七名は一様に絶句した。
どれ程の怨念を以ってすればそこまでの所業に至るというのか。
「そして貴女は、自分のせいで失われた全てに自責の念を抱きつつ、私に永遠に拷問されるのよ。きっとすぐに貴女も精神を病むでしょうけど、大丈夫、狂ったもの同士、仲良くやっていけるわ」
「…そんな事が、許されると思うの」
「許すか許さないかは、私が決める事。そして、私は、許さない」
金切り声とも泣き声とも取れる、この世の物とは思えぬ声で嫦娥は呵呵大笑した。
この恐るべき悪意を何としても討ち果たさねばならぬ、それぞれに心の中で思うものの、事態は非常に拙かった。
とにかく、両手を拘束しているフェムトファイバーの存在が厄介であった。
決して断ち切ることの出来ないこの束縛から逃れる為には、変則的な手段を用いるしかないだろう。
妹紅などは無理矢理に自らの手首を引きちぎって逃れようか、とも思ったが、後ろ手に拘束されて上手く力を込めることが出来ない。
炎で自らの腕を焼き切るには時間がかかる、そんな余裕を与えてくれるはずは無かった。
妹紅に限らず、いずれの方法によろうとも、拘束を脱するのにワンステップを要する事に違いは無い。
そのワンステップの間に、四羽の兎の持つ兵器のどれかは火を噴くだろう。
一瞬の内にして拘束を脱し四羽の兎全てを制圧する、そんな魔術が求められる局面である。
八方塞がりであった。
「例えば、私がこのお姫様を殺してしまえば、さぞかし貴女は悲痛に泣き叫んでくれる事でしょうね」
嫦娥はそう言いながら、剣を輝夜の喉元に突きつけた。
永琳も輝夜も沈黙を守っている。
「お前なんぞに、輝夜を殺せるものか」
妹紅が絞り出すように呟きながら、嫦娥を睨み付けた。
「まあ、蓬莱人だものね。そう言えば、貴女も蓬莱人だったわね。この糞女のとばっちりを食らって、可哀想にねえ」
嫦娥は笑いを堪え切れない、といった様子で肩をくつくつと上下させた。
「何が可笑しい」
「私、さっき、月の都の連中を皆殺しにした、って言ったはずだけど」
「…?」
「…まさか」
永琳の顔から一気に血の気が引いていった。
嫦娥の瞳が一際赤く輝き、爛れた力の奔流が漲った。
「ひたすら復讐の念だけを滾らせて力を磨き上げた年月、虚仮の一念とはよく言ったものね。私が身に付けたのは、『蓬莱人を殺す程度の能力』」
「ほ、本当なのか…」
うろたえる妹紅の方へと嫦娥はにじり寄った。
「信じる信じないは皆さんの自由だけど。まずは、このしがない蓬莱人さんで試してみましょうか?」
ひたり、と剣先が妹紅の左の首筋に当てられる。
「……」
「貴女も、永遠の生に絶望していたのでしょう? …私が、救ってあげるわ」
嫦娥の囁きに、一瞬妹紅は、これで救われるのか、と思った。
逃れる事は出来ないと諦めていた運命から、あの果ての無い絶望から、救われる?
否、と妹紅の中で別の声がした瞬間、激痛が襲った。
「――――――――」
絶叫を無理矢理に歯で食いしばって堪えたが、呻き声が漏れ出た。
首筋に当てられていた刃はだしぬけに下方へスライドし、今や深々と妹紅の左肩の鎖骨の下部辺りに突き刺さっていた。
痛みには慣れているつもりだったが、今までの痛みは生命の危機を感じる痛みとは違ったのだろうか。
血がとめどなく流れ出て来る。
額からどっと汗が噴き出してきた。
妹紅は何とか視線を上げ、嫦娥の赤い瞳を見据えた。
周囲で皆が口々に何かを叫んでいるが、妹紅にはそれが随分と遠くに聞こえ、判然としなかった。
「このまま、私が力をかけて刃を下にずらせば、貴女は彼岸へ飛び立てるのよ」
嫦娥の囁きが妹紅の頭の中でわんわんと反響する。
世界は流れ出る血と、そして狂気の瞳で赤く染まっていた。
私は、死ぬのか。
死ねるのか。
千年以上の齢を経て、人生は意外と空虚なものだったなあ、と妹紅は思った。
酷く辛い、身を抉るような経験をして来たように思っていたが、こうしてみると大した事も無かったのかも知れない。
ただ、酷く疲れていた。
この疲れから解放されるのも、悪くは無い。
最近はあまり意識しなかったが、やはり自分の中には死への憧憬が根強く残っていたようだ。
ああ、やっと永遠の絶望から解放される――
――心残りといえば、慧音と祭りへ行けなかった事だな。
――…慧音!!
慧音の顔が思い浮かんだ途端、心の、いや魂の奥底から凄まじい激震が妹紅を襲った。
一瞬の後、それが、圧倒的な恐怖である事に気付く。
これが、死の恐怖――
――怖いよ、助けて、慧音!!
赤の呪縛から逃れ、世界が帰って来た。
妹紅は、我知らず、声を限りに叫んでいた。
「いやだ!! 死にたくないよ!!!」
嫦娥は剣の柄を逆手に持ち、妹紅の心の臓を貫かんと力を込めた。
「――――――ッ!!」
絶叫は、誰のものであったろうか。
あるいは、居合わせた者は皆、あらん限りの声で叫んでいたのかも知れない。
刹那。
途轍もない、莫大な力が弾けて、怒涛の如く流れ出していた。
それは光。それは熱。それは音。
あるいは心。あるいは魂。
そして、愛。
<18>
「ですが、紫様」
藍は疑問に思って紫に問う。
「先程のお話ですが、例えどれ程莫大な妖力をてゐが溜め込んでいたとしても、出雲大社の封印を解く事は出来ないのではないですか? 封印として施された注連縄は、以前我々も月の連中に拘束されたフェムトファイバーという素材で綯われている。紫様でも全く歯が立たなかったあの繊維は、いかに強力な力を以ってしても断ち切れるとは思えないのですが」
紫は首肯した。
「そうね、どれ程の力を注ごうともフェムトファイバーを『断ち切る』事は出来ないわ。何故なら、かの須臾の繊維には、『断ち切る』という概念そのものが通用しないのだから」
「だとするならば、てゐの積み上げてきた年月は、やはり全くの無為同然なのでしょうか」
一抹の情を言葉に滲ませる式を、少し微笑ましく思いつつ、紫は訊ねた。
「藍。てゐの能力は何かしら?」
「てゐの…『人間を幸運にする程度の能力』、ですよね」
「そうね。貴女、禍福は糾える縄の如し、という諺は知っていて?」
「はあ、存じておりますが…あ、な、なるほど!」
「理解できたようね。てゐの能力は、縄のように複雑に絡み合った人間の幸と不幸から、幸だけを抜き出す能力。それはすなわち、縄をほどく能力、という事に他ならない」
「つまり、フェムトファイバーは『断ち切る』事は出来なくても、てゐなら『ほどく』事が出来るわけですね」
<19>
戒めから解き放たれた面々の反応は素早かった。
妹紅は両手で刃を掴んで引き抜き、霊夢が妹紅の身体を抱えて後方へ飛び退った。
永琳と藍は一瞬にして二羽ずつの月兎を討ち倒していた。
輝夜は未だ力を放ち続けるてゐをふわりと抱きとめ――紫によって、嫦娥は目にも止まらぬ速度で元神社の本殿があった辺りの瓦礫に叩きつけられていた。
「イナバ!イナバ!」
輝夜の腕の中で、風船から空気が抜けていくように、てゐは見る間に生気を失い、萎れていった。
艶々とした癖っ毛の黒髪が根元から水分を失った白髪へと変容し、若々しく張りのあった肌に次々としわが刻まれていく。
ただ、黒く潤んだつぶらな瞳だけが変わる事無く、輝夜を見つめていた。
「姫様…しくじっちゃった。こんなとこで、力を、使うつもりじゃ、なかったのに。わたしゃ、とんだ、アホウだよ」
輝夜は大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、イナバごめんなさいね、と何度も謝っていた。
永琳も側に寄り添い、きつく唇を噛んでいた。
藍はその光景を遠巻きに見ながら、てゐがこの瞬間に力を解放した意味の重さを噛み締めていた。
てゐの数千年と引き換えに、自分達は、そして幻想郷は窮地を脱することが出来た。
「藍、終わりじゃないわ。相手は蓬莱人なのよ」
紫の言葉にはっと藍は嫦娥が吹き飛ばされた方向へ向き直る。
傍らの紫は、藍ですら今まで感じたことの無い程の、桁の違う威圧感を発していた。
――紫様が、本気で怒っている。
藍は思わずぶるりと身震いをした。
脇にやって来た霊夢が、紫に言う。
「どうせ神社も無くなっちゃったしね、手加減無しで思いっきりやって良いわよ。後ろの涙のお別れ会は、私が責任持って守るわ」
「ありがとう、霊夢」
視線を切る事無く紫は霊夢に答え、霊夢は後ろに下がった。
輝夜の腕の中のてゐはどんどん軽くなっていた。
「姫様…」
「…なあに? イナバ」
ごしごしと袖で目を拭い、必死でにっこりと笑顔を作って、輝夜はてゐの言葉を待つ。
「わたしゃね…絶対、後悔は、しないんだ」
「…ええ」
「だから、これで、よかったの」
「ええ」
「あのね」
「ええ」
「…楽しかった」
「そうね。楽しかったわ」
「れーせん…」
「うん?」
「れーせんを、いっぱい、笑わせてあげて」
「…わかったわ」
それが、因幡の素兎の最期の言葉になった。
輝夜の腕の中で、息を引き取る間際、てゐの身体はぼろぼろと灰になって崩れて、零れ落ちた。
瞬間吹きつけた突風が、どこか空の彼方へとてゐを運び去っていった。
最期は、穏やかな笑みだった。
輝夜は永琳の胸に顔をうずめ、泣きながら何度も何度も言う。
あの子は優しい子だった、最後までイナバの事を案じながら逝ったわ。
永琳は輝夜を抱きしめ、頭を撫でながら、そうね、と言った。
「来るわ」
瓦礫の中からゆらりと立ち上がった嫦娥の首は、関節の可動域を超えて、あらぬ方向へひしゃげていた。
そのグロテスクな姿で嫦娥は呪詛めいたうわ言を繰り返す。
「また私を殺すのね永琳私を永琳は殺す何度も永琳は永琳永琳えいりん殺す」
ずどん、と凄まじい衝撃音が炸裂し、地面が激しく揺れた。
紫が莫大な妖力を込めて、渾身の力で傘を叩き付けたのである。
エネルギーをエネルギーのまま、ロス無く、瞬時に叩きつける必殺の一撃。
普段の優美な余裕の欠片も無い、形振り構わぬ獰猛な一撃は、それゆえ絶大な威力であった。
砕かれた石畳の礫が弾丸のように周囲に炸裂し、露出した地面はすり鉢状に抉れた。
霊夢の張った強固な結界がびりびりと鳴動する。
嫦娥は、文字通り木っ端微塵となった。
妹紅の止血処置をしながら、永琳は身を切られる思いでそれを見た。
気付けば、下唇を噛み破ってしまっていた。
ぱたり、と地面に落ちる自らの穢れた血を眺めながら、永琳は思う。
嫦娥には、何の罪も、落ち度も無かった。
ただ、永琳達月への移住者の生み出した、途方も無い業に巻き込まれた犠牲者である。
その身に降りかかった不条理を消化出来ようはずも無い。
砕かれ、断片化されて行く魂に、ただただ永琳への恨みを固着させて行ったのも無理からぬ事である。
それは、永琳にとって自業自得と呼べる程生易しい物では無かった。
むしろ、自業を、自得出来たのならば、どれ程心救われたことだろうか。
しかしその業はあまりに巨大過ぎ、永琳一人の身で背負い込むことは出来なかったのである。
詫びても、詫びても、詫び切れる訳は無い。
いっそ、望みどおりに嫦娥に殺されてやろうか。
しかし、傍らに寄り添うように立つ輝夜の体温を微かに感じながら、永琳はその考えを振り払う。
私が死ねば、残された輝夜はどうなる?
永琳と共に歩む、その為に蓬莱人となった輝夜を、永遠の孤独の闇に追いやることは出来ない。
ならば、詫びる事はやめよう。
業に業を重ね、絡みつく因縁は全て焼き切る。
永琳はそっと輝夜の手を握りしめた。
生命が須らく罪深き物であるのならば、永遠の生命の罪はやはり無限なのだろう。
そもそもが無限の罪を負った存在であるならば、どこまでも罪を重ね続けて、穢く穢く生き続ける事にためらいは無い。
思えば、月の使者を皆殺しにさえした自分であった。
そう、私にとっての全ての結論は永遠に一つだけ。
輝夜と共に生きる、それ以外の全ては瑣末。
「奴が蘇生します」
禍々しい気配が辺りに満ち、吐き気を催す、脳に錐をもみ込むような叫び声が耳を突き刺す。
縊り殺されるマンドラゴラですらまだましな叫び声を上げるに違いない。
不完全な蓬莱の薬の、不完全な蘇生は、まさに業の坩堝であった。
四散した体組織がめきめきと音を立てながら集まり、肉体を形成していく。
居合わせたのが普通の精神の持ち主であれば、まず間違いなく発狂するか、良くてその場でうずくまって嘔吐するだろう。
勿論、紫は完全な復活を待つようなお人好しでは無かった。
蠢く肉塊がおおよそ四肢を備えた、人の形を取るや否や、再び凝縮した妖力をフルスイングで直接撃ち込む。
ずしん、という鈍い音と共に、再び嫦娥の身体は木っ端微塵に砕け散った。
「しかし、これではきりがありませんね」
藍が言う通り、早くも蘇生の兆しを見せる嫦娥の細胞。
蘇生の余力すら残らぬ程に、完膚なきまでに叩きのめすのが蓬莱人への当面の対策としては有効だが、それも根本的な解決にはならない。
まして膨大な年月を己の力に捧げて来た嫦娥の余力は、ほぼ無尽蔵であると言えた。
そしてなおさら輪をかけて拙い事に、勘を取り戻しつつあるのか学習しているのか、嫦娥の再生速度は加速度的に上がっていた。
「どうしたものかしら」
遥か久方ぶりの全力での運動に少し頬を上気させつつ、紫は眉をひそめた。
「嫦娥の不死は完全ではないわ。肉体が蘇生しても、魂は復元しない。魂の欠片も残らぬ廃人になるまで殺し続ければ、ただの人形同然になるはずよ」
そう告げる永琳には、最早何の呵責も窺えなかった。
「まあ怖ろしい、とても残酷な事をさらりとおっしゃるのね。それに疲れる事は私大嫌いなのですけど」
そう言いながら次の一撃に備えて紫は傘を構えた。
稲妻の如き速度で繰り出された紫の三撃目は、嫦娥の剣によって阻まれた。
鋭い金属音と共に烈風が周囲に巻き起こり、既に抉れていた地面にさらに両脚をめり込ませつつ、嫦娥は紫の恐るべき破壊を受け止めきった。
すかさず背後から飛びかかった藍の爪が嫦娥の首筋を狙う。
嫦娥の体幹と重心の位置を瞬時に計算し、決して回避する事の出来ない角度で撃ち込んだ爪は、しかし空を切った。
雑巾を絞るかのように全身の関節をおよそあり得ない方向に捻じ曲げて藍の爪をかわしつつ、嫦娥はその遠心力を乗せて巻くように藍に斬りつける。
とっさに後方へ宙返りを打ち刃をかわす藍。
一瞬前まで藍がいた空間をまとめてなぎ払うように紫の零距離霊撃が放たれる。
流石に捻じれたままの崩れた体勢では受け切れず、空中に吹き飛ぶ嫦娥を、藍の放った数十条のレーザーが追撃する。
それらは瞬時に嫦娥の展開した妖力の壁に悉く防がれたが、標的の動きを止めるには十分だった。
「永夜四重結界!」
爆発的に展開する結界に押し潰され、嫦娥は原形を留めぬ肉塊と化した。
「恐ろしい連携だな」
止血処置を施され、鳥居に背中を預けて座っていた妹紅が感嘆の声を漏らした。
以前妹紅が霊夢、紫、藍と対峙した時には、ほとんど藍が一人で働いており、紫はにやにや笑いながら見ているだけだった。
「あの二人が本気になったらどんな化物でも敵わないでしょうね。私でも相手にするのはごめんだわ。今結界を解くと危ないから、これが終わったら永遠亭に連れて行ってあげる」
ちらりと妹紅の方を振り返り、霊夢は言った。
妹紅の左肩の傷はいつものように自然に治癒しなかった。
嫦娥の言う、「蓬莱人を殺す程度の能力」とはどうやら本物らしい。
妹紅の造り上げてきた戦闘スタイルは攻撃一辺倒であり、防御能力は普通の人間とさして変わらなかった。
自らの不死を利用して守りを捨て、ここまでの強さに辿り着いた妹紅にとって、嫦娥は天敵であった。
どうやら、ここで大人しくしている他無さそうだ。
嫦娥が蘇生を重ねる度に、戦闘は熾烈を極めた。
紫、藍、永琳、輝夜の四人は休む事無く戦い続けた。
四対一と数の上では勝る紫達であったが、際限無く復活を繰り返す嫦娥に対し、蓬莱人の2人も含め、受けたダメージは蓄積する。
そして、疲労と妖力の消費が少しずつのしかかって来る。
力尽きる前に嫦娥の魂を削り切る事が出来るのか、戦いのゴールは見えなかった。
「永琳、危ない!」
蘇生と同時に猛然と永琳へ襲い掛かる嫦娥を、ブリリアントドラゴンバレッタが貫いた。
永琳は舌打ちと共に番えた矢を放つ。
轟と閃光が疾り、輝夜によって腹部を吹き飛ばされたまま眼前に迫った嫦娥を地上へ叩き落した。
「ありがとう、輝夜」
集中力の低下は否めなかった。
常に死の危険に晒されるというストレスは、今まで永琳には無縁の物であった。
大地に激しく叩きつけられながら、同時に再生しつつある嫦娥に矢継早に攻撃を加えて動きを封じる。
死亡と蘇生を繰り返す嫦娥の意識は既に四散したものと見え、ただ衝動に任せ凶刃を振るう殺戮機械と化していた。
「参れ、十二神将!」
そのまま嫦娥を大地に磔にすべく、藍は式神を操り猛攻を放つ。
今や、嫦娥の常軌を逸した再生速度を凌駕する速度で攻撃を加えなければ、足止めすることすら難しくなりつつあった。
流星群もかくやという数百の光弾が次々と着弾し、濛々と土煙が立ち込める。
「!!」
刹那、紅い閃光の奔流が嫦娥を中心に放射状に放たれ、一瞬にして土煙を吹き飛ばす。
紫のとっさに展開した結界がばりばりと悲鳴を上げる。
攻撃の中断した隙に風を巻いて飛翔する嫦娥。
輝夜の蓬莱の玉の枝から放たれた七色の光が追尾する。
殺人的な密度のそれをきりもみしながら回避しつつ、嫦娥は剣を天空に掲げた。
切っ先を中心に、弩級の赤色弾がぽ、ぽ、と花咲翁が灰を撒いた桜のように無数に花開いた。
「あれはまずいわね…!」
霊夢は素早く符を切って結界を重ねた。
次の瞬間、轟音と共に、光球は容赦無く雨霰と降り注いだ。
一発一発が隕石の落下を思わせる破滅的な威力を有していた。
結界の内の妹紅にも、この世の終わり、との言葉を連想させる爆音と激震が絶え間無く襲いかかった。
流石の霊夢も額に脂汗を浮かべて結界を必死に維持している。
怒涛の攻撃はなかなか止む気配を見せず、歯を食いしばって耐える時は永劫にも思われた。
「う、げほっ…」
悪夢の時間が終わりを告げた時、永琳は文字通り焦土と化した地面に倒れ伏していた。
超巨大・超高速・超高密度にして超高威力の嵐のような弾幕を全てかわす事は限り無く不可能に近かった。
――両脚と右手は使い物にならない。肋骨も半分以上いかれてるわ。
冷静に自身の状態を把握する。
戦闘を続行することは困難であったが、気力を振り絞って再び宙に舞い戻る。
他の面々も大なり小なり痛手を被ったようだ。
サラマンダーシールドとブディストダイヤモンド、神宝二つを展開して鉄壁の構えを見せた輝夜ですら、ぼろぼろの様子である。
――嫦娥はどこへ消えた?
相手を見失うという致命的な事態に緊張が走る。
「上っ!!」
霊夢の発した叫び声に上を見上げた永琳の目に、迅雷の如く急降下する嫦娥の手の、刃の閃きが映った。
回避は、間に合わない。
「永琳っ」
どん、と肩に衝撃が走った。
永琳の視界一杯に、輝夜の黒髪が広がる。
神宝二つを貫いた閃光は、輝夜の左胸に深々と達していた。
「輝夜――――」
鮮血が迸り、永琳の顔を汚した。
返り血に濡れた嫦娥の目が、輝夜の肩越しに永琳を捉える。
「――――――――」
永琳は絶叫していた。
絶叫と共に、全霊を込めた弾丸を嫦娥に撃ち込んでいた。
ぼんっ、と破裂したように嫦娥の内臓が四散した。
構わず、輝夜を貫いたままの刃で、嫦娥は永琳の首を切り離そうと剣を持ち上げた。
直後、胴体と頭が別れを告げたのは、嫦娥であった。
永琳の眼前で、血しぶきの向こうで藍の爪が光っている。
宙に舞った嫦娥の頭部は、紫の一撃で消し飛んだ。
永琳は輝夜の身体をかき抱きつつ、なおも蠢く嫦娥の胴体を渾身の力で蹴り飛ばした。
輝夜の胸から、ずるっ、と刃が抜ける。
「輝夜」
何事かを言おうとする輝夜、しかし声にならない。
代わりに口からこぼれたのは、夥しい量の血液であった。
「気をつけろ――」
妹紅の叫び。
既に蘇生しつつある嫦娥の体に、これまでに無い膨大な力が集中する。
「永琳殿――」
赤が、世界を埋め尽くした。
嫦娥から放たれた閃光は、空気を切り裂き、大地を割り、幻想郷を刺し貫いた。
藍の叫びも空しく、永琳は輝夜を抱いたまま、赤の奔流の中に姿を消した。
閃光が疾った後に、次々と膨張する光球が現れた。
「あの方向には人里が――」
妹紅の悲痛な叫びは、遅れて炸裂した爆音にかき消えた。
「この下種が――――」
咆哮と共に、紫が渾身の一撃を嫦娥の体に沈める背後で、今まさに幻想郷の三分の一は火の海となりつつあった。
「 」
誰の物かもわからぬ叫び。
全ては、赤に飲み込まれた。
<19>
人里の守護者は、窓の外から聞こえてくる鳥の声に目を覚ました。
ゆっくりと、寝具の上で身を起こす。
夢見が悪かったのか、大量の寝汗をかいていた。
伸びをすると、全身の骨がぎしり、と呻きを上げた。
疲れが抜け切っていないのだろうか。
水浴びでもしてさっぱりしようか、と家の裏手の井戸へ向かうことにする。
朝のきりり、と引き締まった空気と、東から射す穏やかな朝の光に裸身を晒し、井戸から汲み上げた水を浴びる。
流石に身を切るような冷たさに、一瞬息が詰まる。
同時に頭は冴え冴えと覚醒してくる。
髪からぽたぽたと雫を滴らせながら、姦しい小鳥達の囀りに耳を傾ける。
――ああ、幻想郷は今日も平和だ。
そんな感想が胸の内に湧いてくる。
ふいに悪寒が走り、くしゃんとくしゃみを一つ。
いかんいかん、風邪をひいてしまう。
手早く身体を拭い、服を身に付けた。
ほこりと暖かい布の心地が肌に優しい。
なんとなく億劫に感ぜられて、朝食は抜く事にした。
寺子屋へと向かう道すがら、農作業に勤しむ里の人々と挨拶を交わす。
「先生ー、今日はいい天気ですねえ」
遠くの畑の方から、大きく手を振りつつ声をかけてくる頬かむりをした婦人に、こちらも大きく手を振り返してやる。
里に近づき、また時間の経過もあり、段々往来の人通りもにぎやかになって来た。
背後からぱたぱたと走って来る足音が聞こえ、振り返ると寺子屋の教え子であった。
「先生、おはよー」
そう声をかけつつ、教え子は脇を走り過ぎざまに尻を撫でて行った。
「こら、待て!」
笑い声を上げながら逃げて行く悪ガキと追いかけっこをしつつ、寺子屋に辿り着いた。
教室の戸を開けると、騒がしい子供達を着席させ、ぐるりと見回した。
どうやら全員揃っているようだ。
「みんな、おはよう」
「おはよう、もこたん先生!」
もこたん先生という呼び名はいい加減どうなのだろうか、そう思って妹紅は苦笑した。
里の半鐘が鳴り響いた。
今日は半日授業の日で、子供達は一斉に教室を飛び出していった。
恙無く授業を終え、帰り支度をする妹紅に、まだ残っていた子供がおずおずと声をかけた。
「最近、もこたん先生元気無い?」
「ん? どうしてそう思うの?」
「…なんとなく」
そんな事無いよ、と子供の頭を撫でてやり、早く昼飯を食べな、と帰した後、独り教室で妹紅はため息をついた。
確かに、近頃どうも今ひとつ授業に身が入らないのである。
授業に限らず、寝ても覚めても魚の小骨が喉に引っかかっているような、微かな違和感が常に付き纏っていた。
「やっぱり、こいつのせいだろうか」
そう呟いて、妹紅は服の上から左肩を撫でた。
妹紅の左肩には傷があった。
いつまで経っても一向に消える気配の無いその傷は、最近妙にしくしくと痛み、その存在を主張していた。
耐えられない痛みではなかったが、頭の中をかき乱すような不快な痛みが四六時中続いていた。
「何だって言うのさ…」
妹紅にはそのような傷を負った記憶はさっぱり無かった。
気が付いた時には、既に左肩に傷があったのである。
非常に薄気味が悪く、不快な痛みも手伝って、傷への嫌悪は増すばかりであった。
いずれ消えるだろうと放っておいたのだが、こうなっては気は進まないが永遠亭で見てもらった方が良いかも知れない。
ふと、理科の授業で使った手鏡が妹紅の目に入った。
そう言えば、今まで肩の傷をきちんと見たことは無かった。
妹紅はブラウスのボタンを上から三つ程外し、肩をさらけ出して鏡に映してみた。
「――…歯型?」
ふいに、酷い頭痛が妹紅を襲った。
その場で膝をつき、両手で頭を抱えてなんとかやり過ごそうとする。
心臓の鼓動に呼応して、こめかみがずきん、ずきんと脈動する。
左肩の傷は、焼けるように熱を持っていた。
目の前が真っ暗になり、星が瞬くようにちかちかと明滅する。
ぐるぐると世界が渦を巻いて回りだし、もうこれ以上は耐えられない、と妹紅が思った時。
ふいに、かちりと、歯車がかみ合ったような、パズルの最後の一ピースがはめ込まれたような、そんな感触があった。
風にたなびく、青みがかった美しい髪が見えた気がした。
どうして忘れてなんていられたのだろう。
「――――慧音」
次の瞬間には、妹紅は地を蹴って教室を飛び出していた。
道を行く里の人間を誰彼構わず捕まえて、慧音を知らないか、と肩を揺すって訊ねた。
誰もが妹紅の様子に目を丸くしながら、慧音という単語を始めて聞いたという顔で、知らない、と答えた。
そんな馬鹿な。何故隠す。
自分でも馬鹿馬鹿しいと思う位、詰問する。
皆、顔を青くしながら、本当に知らない、と繰り返した。
何故だ、どうしてだ、と喚きながら妹紅は人里を飛び出した。
次々と慧音との記憶が妹紅の頭の中に蘇ってくる。
自分でも訳のわからない叫び声を上げながら、妹紅は滅茶苦茶に走っていた。
足をもつれさせて前のめりに倒れそうになりながら、無理矢理に足を運んで走っていく。
一体自分はどこに向かっているのだろう。
ふと、またとある記憶が浮かび上がった。
――もし、私が死んだら、この丘に骨を埋めて欲しいな。
そんな事を呟く慧音の穏やかな横顔。
丘の頂に並んで立つ妹紅と慧音。
そこからは、里の景色が一望できた。
昼時の、炊事の煙があちこちの家から立ち昇り、揺れているのが見えた。
ああ、確かに人間が生活している、生きている、そんな想いを抱いた。
馬鹿な事を言うな、と慧音をなじる自分の声がどこか遠くに聞こえた。
ふと気付けば、まさに自分の足はその丘へと向かっている。
慧音。慧音。
口の中で何度も何度も繰り返しながら、妹紅は走った。
辿り着いた丘の頂には、小さな石がぽつん、とあった。
震える足で妹紅はそれに近づいた。
天頂から照りつける太陽の光を疎ましく感じる。
妹紅は地面にひざまずき、石を慈しむようにそっと指先で撫でた。
よくよく石のある地面を眺めると、僅かにその部分だけ土の色が異なるように思われた。
天啓に打たれたように、妹紅は夢中で地面を掘り返した。
両手の肘がそろそろ地面に埋まろうかという深さまで一心不乱に掘り返したとき、妹紅の指先ががつり、と硬い物にぶつかった。
慎重に周囲の土をどかし、取り上げたそれは、小さな木箱であった。
どっ、どっ、どっ、と信じられない速さで心臓が早鐘を打つ。
からからに乾いた口と喉で、慧音、と囁く。
飾り気の無い、それでいて上品な造りのその木箱は、何となく、慧音らしかった。
一体、どれ程の年月、土の中で自分を待っていたのだろう?
古ぼけたその木箱が、もとから古い物だったのか、土の中で年を食ったのか、判断が付かなかった。
がたがたと震える手、木箱を取り落としそうになりながら、妹紅は何とか蓋を開ける。
箱の中には、手紙が入っていた。
<20>
我が親愛なる友、妹紅へ
やあ、妹紅。
お前が今この手紙を読んでいるという事は、とても好ましく無い事だ。
万が一、妹紅が私が改竄する前の記憶を取り戻してしまった時の為に、この手紙をしたためている。
ただ、万が一と言いながら、おそらくそうなるだろうと言う懸念は非常に大きい。
私は例の一連の事件に関する、この幻想郷の歴史を片っ端から喰いまくった。
しかし、妹紅の中の私の歴史だけは、あまりに多すぎて、そして深く根を張りすぎていて、喰い切る事が出来なかったのだ。
妹紅の中でそれだけ私が大きな存在となっていた事に、喜びと言うか、いっそ気恥ずかしさを感じる。
やむを得なかったとは言え、お前の想いを垣間見てしまったのは下種な行為だった、許して欲しい。
まあ、これ以上喰えない程の満腹で至上の幸福を得たというか、至上の幸福を詰め込みすぎて腹が限界というか、とにかく得難い悦びではあったと告白しておこう。
正直、今でも少し胸焼けがしている位だ。
どこぞの巫女が聞いたら羨むあまり卒倒しそうな話だが。
余談はともかく、妹紅の記憶に関してだけは完全に改竄することが出来なかった。
恐らく、と言うかほぼ確信していると言ってもいい、妹紅は私の記憶を引き金に、失われた歴史を掘り起こしてしまうだろう。
そして、この手紙に辿り着くだろう。
記憶を取り戻したからと言って、この丘を妹紅が訪れ、そして手紙を発見するという保証は無い。
まして、いつ妹紅が記憶を取り戻すのかも分からない、遥かに時が流れ、手紙自体が失せる可能性もある。
それでも、お前はこの手紙を読んでしまうのだろうな。
読まれる事を望んでいないのに、間違い無く読まれるだろうと確信している自分が可笑しい。
いや、今となっては、自らの中に妹紅がこの手紙に辿り着くことを望んでしまっている部分が存在する事も素直に認めよう。
お前がこの手紙を読んでいる事を、とても辛く、悔しく悲しく、しかしわずかばかり嬉しく思う。
今、幻想郷は晴れているか?
願わくば晴れていて欲しいものだ。
雨など降っていたら、折角こうして綴っている文字が滲んでしまって、最後まで読めなくなってしまうようでは困るからな。
読まれなければいいと願う手紙だと言うのに滑稽な話だが、どうせ読まれてしまうならこの骨折りが徒労に終わるのは癪だ。
本当にお前に読ませるためだけに、今も文字通り必死で文字を綴っている。
そういうわけだから、妹紅、手にしたからには、この手紙を必ず最後まで読むように。
最後まで読んだら、後は煮ようが焼こうが生で食おうが好きにすればいい。
できれば誰の目にも触れぬよう、焼き捨ててくれると私も懸念材料が減って助かるのだが。
ああ、本当に今、お前の幻想郷が晴れているといい。
さて、大方の予想はついていることとは思うが、種明かしをしておこう。
知っての通り、昨夜の事件は、幻想郷に実に凄惨にして、甚大な爪痕を残した。
ああ、例の事件は今これをしたためている私にとってはつい昨夜の出来事というわけだ。
人里は、阿鼻叫喚の地獄だった。
私は、何も出来なかった。
運良く命を取り留めた事すら、全く僥倖とは思えなかった。
どれ程の時間でも、労力でも、取り返しのつかない圧倒的な喪失を前にして、私は全てを無かった事にしようと考えた。
歴史を改竄する事は私の誇りを全て投げ打つ事に他ならなかったが、この状況を前にして一半獣のちっぽけなプライドが何だと言うのか。
暦では満月の夜だったが、月が失われていた為、私は人間の姿を保つことが出来た。
従って、事件に関連する全ての歴史を喰った。
私の能力を遥かに超える大仕事だったが、本当の意味で死ぬ気になれば何とかなる物だな。
しかし、あまりに改竄する歴史が膨大になると、どこか一部のわずかな綻びからも齟齬が生じ、歴史が破綻する可能性がある。
その引き金となり得る、最たる障害が私自身の存在だった。
すなわち、「歴史を改竄できる半獣がいると言う事は、この歴史は改竄された物かも知れない」という虞こそが、もっとも危険な楔だったわけだ。
そこで、私は同時に私に関する全ての歴史を喰った。
承知の通り、妹紅に関しては失敗してしまったわけだが。
歴史喰いを終えると、それに伴い満月も戻ってきたので私は月の力を得てハクタク化し、空白となった部分の歴史を創り始めた。
喰うのもまあ途方も無い作業だったが、作る方はそれに輪をかけて困難を極めた。
あちら立てればこちらが立たず、矛盾を回避する為に気の遠くなるような微調整を繰り返した。
朝が来ればハクタク化が解けてしまう、時間にも追われて極限の精神状態だったよ、本当に。
なんとか綻びの無い歴史を創り上げて、精も根も尽き果てて朝を迎えた。
しかし唯一の心残りが妹紅、お前と言うわけだ。
そこで、最後の力を振り絞ってこうして筆を執っている。
私は完全に力を使い果たした。
魂を燃やし尽くした。
もう、残されている時間は幾ばくも無い。
そもそも上白沢慧音という存在はこの世から消えてしまったのだから、こうして筆を走らせる猶予がある事自体が驚きだ。
わずかながら妹紅の中に埋もれている私の欠片がこの時間をくれたのだろうか。
あとしばらくで、私という存在が消滅して、全ては綺麗に収まるだろう。
そういうわけだから妹紅、思い出してしまった事はそのまま、胸の中にしまっておいて欲しい。
周りにそれを吹聴したとて、妹紅以外の全ては新しい歴史の延長線にいるのだから、問題は無いとは思うが。
事が事だけに念には念を入れるべきだし、妹紅が周囲に頭がおかしくなったのかと思われるのも嫌だろう。
恐らく当分の間は、自分だけが違う歴史を持つ孤独が、妹紅を事ある毎に苛むだろう。
いずれ時が経てば、大海に小石を投げた波紋のように微かなノイズとなって薄れるかすり傷程度の物だ、申し訳無いが辛抱して欲しい。
そして上でも述べた通り、この手紙も読み終えたら念の為、誰の目にも触れぬよう焼き捨てて欲しい。
昨夜はお祭りだった。
出来れば、妹紅と二人で、屋台を巡ったり、出し物を見物したりしたかったな。
里の人々は、満月の夜の私を見ても、全然驚かなかったよ。
こちらが拍子抜けしたくらいだ。
皆、浴衣姿の私を、お世辞ながらも美しい、と言ってくれた。
結局、恐れやためらい等と言うものは、自分の中にだけわだかまっているものなのだろうな。
今私は、心の底から自分が半獣半人の身となってよかった、と思っている。
このハクタクの力が無ければ、幻想郷を救う事は出来なかった。
そして妹紅、お前との出会いもまた、わたしにそう思わせてくれた大切な物だ。
半獣半人の身となった時、私はこの数奇な運命を恨んだ事もあった。
しかし、そんな経験があったからこそ、多少なりともお前の境遇が理解出来たのだろう。
後天的に人外の身となる経験という物は、当人にとっては周囲の思う以上に深刻な物だ。
そんな痛みを、少しでも共有出来た事は、少なくとも私にとっては嬉しい事だった。
里の守護者を自称し、また微力ながら教師を気取った私の立場を、そのまま妹紅に押し付ける形になった事には済まなく思う。
ただ、それがきっと、お前にとって大事な物となるだろう。
私などより、余程お前に向いた仕事だと、前から私は思っていたからな。
寿命の長い生き物も短い生き物も、生涯の鼓動の回数は大差が無い、と言う俗説を聞いたことがあるか?
真偽の程は眉唾物だが、なるほどと思わせる説得力がある。
長寿の代名詞の亀などはやはり鼓動もゆっくりとしていそうだしな。
しかし妹紅、お前達蓬莱人は永遠の時を生きるのに、鼓動が止まっているわけではない。
等しく尊い生命を、皆それぞれに燃やしているのだ。
ほのかに点された灯りが如く、夜の闇に暖かな炎をゆらめかせる者達も。
太陽よりも眩く輝けとばかりに、青い空の下激しく火花を散らせる者達も。
自らが燃え尽きるその瞬間まで、生命を燃やし続ける事を誰一人やめはしないのだ。
だから、生きると言うことは素晴らしいのだろう。
だから、生きると言うことは美しいのだろう。
妹紅、お前はどうなんだ。
その素晴らしさが、美しさが、自分に無い物と諦めて腐っていたのがお前ではないのか。
今まで歩んできた永遠の道程に倦んだのか。
これからも歩む永遠の道程に心折れたのか。
お前は永遠に死なないだけの動く人形じゃあ無いんだ。
燃やしても、燃やしても、燃え尽きることの無い無限の生命を持っているんだ。
望めば、望むだけ、誰よりも明るく、誰よりも長く、その生命を燃え上がらせることができる。
それを、生きる事に、死ぬ事に、飽きたような顔をして燻っているなんて、許される事じゃあ無いんだ。
この世界の誰よりも、眩く、激しく、輝き続ける権利と義務がお前にはある。
妹紅、その美しい鳳凰の翼を広げて精一杯翔び続けて欲しい。
生命の真髄は、ただ億の齢を重ねても味わい切れるような物ではないはずだから。
燃やして、燃やして、魂を焦がすようなその先に見える世界は、お前だけにしか知り得ない。
だから、心からその人生を謳歌してくれないか。
私は、本当にお前のその姿を見たいと心に願い続けて、結局叶う事は無かった。
傷を舐め合い、体を寄せて孤独をしのぎはしたものの、お前を送り出し、羽ばたかせる事はできなかった。
2人で過ごした時間は、悪くなかったが。
お前が私だけには心を開いてくれる、そんな勘違いを自らに許す日々は、愚かと分かっていても手放し難かった。
翼を怪我した野鳥を治療の間保護していたはずが、いつの間にか愛着が湧いてかごに閉じ込めてしまうかのように。
結局は私のわがままが妹紅を縛り付けていたのかも知れない。
幸い、もう上白沢慧音はいない。
かごから飛び立つ時だ。
もう、この先を一緒に歩いてはやれない。
さようなら、妹紅。
解き放たれた無限の大空で、見事に鳳凰の舞を舞って見せてくれ。
この幻想郷の青い空はどこまでも深い、蓬莱人であることでお前を拒む者などいないのだから。
今後斜に構えた世捨て人気取りの態度なんてしてみろ、お前の記憶に巣食う私の怨念が頭突きをお見舞いするだろう。
いいか妹紅、お前は必ず人を愛し、愛される。
別離の苦しみを恐れて人と心通わす事を避ける事なんて、出来っこない。
ならば、どんな出会いでも、精一杯ぶつかる事だ。
精一杯ぶつかって、精一杯共に生きて、笑って、別れの時には精一杯泣けばいい。
そうやって、どの一瞬も、どの一瞬も、輝き続けてくれ。
そうやって、妹紅が生命を燃やし続けてくれるなら、いずれ記憶の中の私はその炎で荼毘に付され、紫の煙となって幻想郷へ帰って行けるのだから。
だから、忘れることを恐れないで欲しい。
忘却が罪なのではなく、それを恐れて記憶に縋り続け、己が魂共々朽ち果てさせてしまう事こそが罪なのだ。
思い出を、一つ一つ心の火にくべて、生命を燃やし続けて行こう。
その炎の中に、私も、私の、昇華された永遠を見る。
そう、恐れることは無い。
ただ、今を輝き続ける貴女に、永遠に、幸あらん事を。
どうも、筆を動かすのがさすがに億劫になってきたよ。
嗚呼、出来れば死ぬときは妹紅の腕の中で炎に包まれて灰になりたい、と密かに願っていたのだが。
なかなか私もロマンチストだろう。
妹紅にとってはホラーかもしれないが。
さて、そろそろこの手紙を持ってあの丘まで行くとしよう。
無事に辿り着ければいいのだが。
途中で力尽きて野垂れ死ぬのだけは勘弁して欲しい。
さあ妹紅、さよならだ。
出会えてよかった。
私という存在がお前にとっての種火となるならば、消え去る運命でも無駄ではなかった。
今、奈落の淵に立って、それだけが、その事だけが救いだ。
最後になって、次から次へと言葉が溢れ出してきてどうも困るな。
言葉だけならいいのだが、涙やら鼻水やら色々溢れ出して来るものだからなおさら困る。
この大事な大事な手紙をそんな物で汚すわけにはいかないと言うのに。
鏡を見たわけではないが、恐らく物凄く酷い顔だ。
こんな醜い顔ならば安心して歴史から消し去れようというもの。
幻想郷から美少女が一人消えることには胸が痛んでいたが、どうやらその心配も無くなったようだ。
里と寺子屋の事は頼んだ。
妹紅になら安心して託せるし、お前にとってもきっと悪くない事だと思っている。
愛し愛されること、出会いと別れ、生命の喜びと悲しみを目一杯受け止めざるを得ない仕事だ。
守るべき者を持ち、子供達を教え育てる日々は、絶対に飽きないぞ。
それは、また一つの永遠の形なのだから。
まさに、妹紅にうってつけだ。
まるで、こうなる事が運命であったかのようだな。
どうにも嗚咽が止まらなくてえずいてきた、血の味がする。
最早本当に猶予が無い、ここで筆を置くとしよう。
さようなら、里の皆。
さようなら、幻想郷。
さようなら、妹紅。
私のもらった沢山の幸せにありがとう。
妹紅、常に輝き、熱をくれたお前の存在は、私にとってまさしく太陽だったよ。
さようなら。
上白沢 慧音
<21>
手紙を読みながら、我知らず妹紅は喉の奥から甲高い呻きを発していた。
手紙を持つ手は激しく震え、読みづらい事この上なかった。
涙は出なかった。
ただただ、何か理由のわからない憤りが全身を満たし、細胞の一つ一つが熱を発しているように感じた。
「――――」
手紙を読み終える頃には、悲鳴とも怒号ともつかない叫び声を上げていた。
喉がかあっ、と焼けるように熱く、息をするのも苦しかった。
自分の身体が轟々と炎をあげて燃えている、妹紅はそんな錯覚に囚われた。
実際、妹紅の手の中の手紙は、読み終わるや否や自然に発火して燃え尽きてしまったのである。
慧音の言葉通りに焼き捨てるつもりなぞ無かったのに。
それが慧音に見透かされていたような気がして、なおさら妹紅の心の炎は燃え上がった。
「ああああああああぁっ!! 馬ッッッ鹿野郎ォ――ッ!!!」
声を限りに、抜けるような青空へ妹紅は叫んだ。
空が青く、陽射しが眩しい事にまた妹紅は怒りを覚えた。
なんで、なんでこんなに天気が良いんだ。
「散々言いたい事だけ言って消えちまったのかよ!!! 自分だけさっさとさよならしてヒーロー気取りか、阿呆っ!!! うああああああああああああああっっ!!!」
妹紅は鳳凰の翼を広げ、太陽めがけて突進していた。
「何がお前は私の太陽だ、だ!!! けったくそ悪い、ちくしょおおおおおおおおおっっ!!!」
ぐんぐんぐんぐん、と上昇を続ける妹紅。
「私が太陽なら、お前は月じゃないのかよっっ!!! 二人で一つじゃないのかよぉぉっっ!!! ああああああああああああああああああああああああああ――――ッッッ!!!!!」
そこでふつり、と鳳凰の翼はかき消える。
炎を維持できないほどに酸素が薄い高度まで昇って来ていたのである。
文字通り全身の血液を沸騰させながら、妹紅は墜ちていく。
「いやだ、いやだ、いやだ、こんなのはいやだっ!! 慧音、慧音、慧音―――――っっっ!!!」
薄れていく意識の中で、妹紅は記憶の中の慧音に、叫んだ。
「――さよなら、慧音、さよなら!!
さよなら――――――――――――――――――」
雲一つない幻想郷の青空からは穏やかに陽の光が降り注ぐ。
風は舞い、川は流れ、花は咲き乱れ、鳥は唄う。
今日も、幻想郷は平和だった。
<22>
遥かに、年月は流れた。
幻想郷は大きく様変わりしたとも言えたし、本質的には何も変わらなかったとも言えた。
人里の営みも随分変わった――規模も大きくなり、また次々と幻想入りした科学技術が生活様式を大きく進歩させていた。
しかし、妖怪と人間とのあり様は、この気の遠くなるような年月の間、変わる事がなかった。
妹紅は、相変わらず、里の守護者であり、寺子屋の教師であり、また幻想郷の最古参であった。
見守る中、生まれ、死んでいった人間の人生は、最早あの夜空に瞬く星の数より多い。
肩の傷は、いつの間にか消えていた。
今宵は満月。
微かに聞こえてくる子供の泣き声に、妹紅は竹林へと足を踏み入れていた。
ざわつく妖精達を睨みつつ、何故こんな夜中に、しかも満月の夜に、子供が竹林に迷い込むのか、と妹紅は訝しんだ。
竹林の中でしゃがみ込んで泣いていたのは、緑の髪の小さな女の子であった。
その頭には、小さな可愛らしい二つの角が見えた。
女の子をおんぶして、真っ暗な竹林をゆっくり歩いて帰る。
妹紅の背中でしゃくり上げながら、急に頭に角が生えて来て、怖くなって家を飛び出して来たのだと言う。
お母さんに怒られるかも知れないし、友達にいじめられるかも知れない。
そんな子供らしい心配の仕方に、思わずくすりと笑いつつ、妹紅は大丈夫だよ、と言ってやる。
不思議と、大丈夫に違いない、という確信が妹紅にはあった。
ここは幻想郷だしね、頭に角の生えた女の子なんて珍しくもなんともないよ。
そう言って、家に辿り着いた妹紅は、女の子の左の角に赤いリボンを結んでやった。
ほうらね、可愛いもんじゃないか。
そう言って、手鏡で見せてやると、女の子は嬉しそうにはにかんだ。
すやすやと眠る女の子の傍らで、微笑みながら妹紅は満月を眺める。
美しい月の光は、変わる事無く、母の如き慈愛を湛えて、いつまでも幻想郷を照らし続ける事だろう――――
いやぁこれは力作。
少し説明不足かな、と思う個所もないではないですが、するっと読んでしまいました。
こういう作品はもっと増えて欲しいし、伸びて欲しいと思います。
千差万別の俺設定を読むのが楽しいから何でも来い、という方も当然いらっしゃいますが、
自分はどうにも狭量なのか、自分の中で考えられる原作解釈の幅を大きく外れるものに関してはあまり興が乗りません。
この作品でも「なるほど、面白い」と思える設定と「いやー、それは受け入れられないなー」という設定が混在していました。
残念ながら自分にとっては後者の比重が高かったため、このような点数にさせていただきました。
しかしこの作品が力作であることは間違いありませんし、作者さんの俺設定を問題なく受け入れられる読者の方々にとっては、
私の付けた点数によってこの作品の価値が減ずることは些かも無いことと思います。
注意書きと容量で敬遠されちゃってるんじゃないかなあと思います。
次作に期待したいです。
てゐの解釈とか、個人的には面白いと思いました。俺設定とか言いますがいいじゃないの
ただまぁ、テーマ的に厳しいのかなぁ。もっと評価されて良いと思うんですが。
導入部の引きからしたら、あまりに出番がなさ過ぎて
不自然。
狂気、瞳、月ってキーワードをこんなに散りばめといて
え?出番これだけ?って感じでした。
嫦娥を隠すためだけのミスリードに使い捨てられた感がありありと。
慧音と、一人一人が持つ愛が前に向かせ、歩ませている。
読んでよかったです。
また、シリアスな作品も読みたいです。