※(上)(中)(下)三部作の(中)です。
※作品中には俺設定及びキャラクターの死亡描写がありますのでご了承ください。
<9>
永琳は苦悩していた。
昨夜鈴仙のもたらした報告について、どのように対処すべきか判断し兼ねていたのである。
昨夜の事である。
研究室にて新薬の実験をしていると、室外から「師匠!師匠!」と大声で叫びながらどたばたと廊下を走り回る鈴仙の馬鹿騒ぎが聞こえて来たので、永琳は殺意を抑えるのに一苦労した。
やれやれ、とこめかみを指で揉みほぐしながら立ち上がり、鈴仙が研究室の前まで来た瞬間を見計らって、永琳は外開きの扉を力一杯開いた。
がつん、と得も言われぬ手応えを感じ、永琳は深い満足を覚えた。
「ぁ痛ったあぁぁー…」
鈴仙は額を押さえて廊下にくずおれた。
「ウドンゲ、静かになさい。頭痛がするわ」
「いたたた…私の方がよっぽど頭痛ですけど。ああ、頭がぐわんぐわんします」
「自業自得でしょう。親切に迎え入れてあげようと扉を開けてあげたのに、見境無く突っ込んで来るからそう言う目に遭うのよ」
眩暈がしているのだろう、ふらつく鈴仙に手を貸して立たせてやった。
そのまま鈴仙を研究室に招き入れ、椅子に座らせる。
涙目の鈴仙は真っ赤になった額をしきりにさすりつつ、大騒ぎの弁明をした。
「すみませんお師匠様、火急の用で気が動転していたものですから」
「そうそう。私に急ぎの用事があったのよね? ゆっくり落ち着いて話しなさい」
「そうです大変なんですお師匠様!」
鈴仙はそう言われて急に思い出したかのように、落ち着くどころか逆にわたわたと慌て始めた。
「つ、月で大変な事が起きたんです!」
永琳は黙って先を促した。
「……」
「……」
「えと、月でですね、大変な事が起きまして」
「それはわかったわ。で?」
「えー、大変な事が起こったので、明日は満月ですから、月から誰か…来るっぽい? かも?」
「……」
「……」
「……」
「…以上です」
永琳はとりあえず手近にあった分厚い薬学の専門書を掴み、鈴仙が先程扉に額を強打した部分へ正確に振り下ろした。
身の毛のよだつ様な絶叫が永遠亭中に響き渡ったが、永琳の研究室から鈴仙の悲鳴が聞こえてきたとて、その程度の日常生活音に反応を示す者は皆無であった。
「お師匠様、ひ、酷いです…!頭割れちゃう…」
「酷いのは貴女の頭の中身だと思うけど。少しくらい割って新鮮な空気にさらしたほうがいいわ」
あまりの痛みに耐え切れず、頭を抱えて床をのたうち回る鈴仙に、永琳は優しく微笑みかけた。
実際のところ、鈴仙が傍受したのは何事かが起こってパニックを起こしている兎達の滅茶苦茶な喧騒であり、多少なりとも脈絡を成して意味が判ぜられる通信は一切無かった。
ただ、何事か尋常ではない大事件が月で勃発した事と、断片的に聞こえてきた「明日」「満月」「地上」といった単語だけが鈴仙には理解できたという事らしい。
月の兎の通信は精神の波長を合わせることによって行われるので、パニック等は枯れ野原の火事のようにあっという間に広まり、一気に燃え上がってしまうのである。
そういった通信を傍受したものだから、少なからず鈴仙もその集団心理に同調し、知らず知らず恐慌を来たしたに違いなかった。
「落ち着いてみるとお恥ずかしい話ですが、どうしようどうしようって思いで頭の中が一杯になってしまったんです。私もまだまだ修行不足みたいですね」
だんだん腫れて来た額を押さえながら、鈴仙はしゅんとうなだれた。
冷静でいられれば、もう少しまともな情報を入手できたのかも知れなかった。
鈴仙がもう一度交信を試みようとしたので、永琳は鈴仙の耳を思い切り引っぱって止めさせた。
さらに月の兎達との同調が進んで、パニックでも起こされたらたまったものではない。
「まあいいわ、何も知らずにいたよりはいくらかはマシでしょう。…しかし、どうしたものかしらねえ」
そう、どうしたものだろうか。
朝を運んでくる風が、密生した竹の葉をさやさやと揺らす音に耳を傾けつつ、永琳は自室の文机に頬杖をついていた。
小憎らしい程に爽やかな朝である。
竹の緑も鮮やかに色濃く、澄んだ空気を吸い込めば、今日も快晴となるだろう事が自ずと知れた。
徹夜をしたわけではない。
それはそうだろう、いくら悩んだところで答は出る訳も無く、悩むだけ無駄である。
月で何か大変な事が起きたらしい、という事しかわからない以上、とりあえず普段通りに床に就くしかなかった。
しかしそれでも、目覚めればあれこれと考えを巡らせてしまうのは賢者の性であろうか。
月で何らかの異変が起きた事自体は間違いが無いだろう、と永琳は考える。
兎という生き物は噂好きで気分屋だから、その伝聞をソースとする情報は割り引いて吟味しなければならないのが常である。
しかし今回に限っては、傍受した話の内容はゼロと言って良く、むしろ兎達の心理状態がダイレクトに反映されている。
下手に理路整然とした噂話などより、遥かに信頼に足る情報と言えた。
では果たしてどのような異変が起こったのであろうか。
可能性として一番大きいのは、以前よりの懸案事項であった月の都の内紛が、ついに大規模な粛清やクーデターという形で表面化した、というケース。
この場合、永琳達を旗印として担ぐにせよ、首謀者と喧伝して見せしめに捕らえるにせよ、地上へ何者かがやって来て厄介な事態に陥る虞は十分にあった。
そして、このような状況の中では、体制側にとっても反体制側にとっても目の上の瘤となる、綿月姉妹の助力を得るのは非常に難しいだろう。
永琳と浅からぬ縁を持つ彼女達は、かなり危険な立場である。
無事であれば良いが、と永琳は不安にじりじりと胸を焦がしながら祈る。
また、地上からの侵略者と本格的に戦争が始まった、というケースも想定できる。
ただ、永琳はこの可能性はかなり低いと見ていた。
現在の幻想郷の外の地上の文明がどの程度まで発達しているかは分からないが、少なくともまだ月の超近代兵器とまともに戦える程に科学が進歩しているとは考え難かった。
あるいは何らかの事情で月が大規模に穢れに侵食されたのかも知れない。
果ては、以前一杯食わされたこの幻想郷の妖怪の賢者が、また何かを企てている可能性すらあった。
それを思うと、永琳は背筋に薄ら寒い物を感じる。
この気の遠くなるような遥かな人生の中で、ほとんど唯一と言っていい、得体の知れない不気味さ、そして恐怖という感情を覚えた経験が、永琳の眉をしかめさせた。
兎に角、正確な事情が不明な限り、何の対策も立てようが無かった。
以前のように偽の月で地上を密室にしても仕方が無い事はわかっていた。
そもそも幻想郷自体が密室であり、逆にこれを超えて侵入して来るような輩には、このトリックも通用するはずがない。
可能であれば綿月姉妹と連絡を取りたかったが、もし手段があったとしても今コンタクトを取るのは危険過ぎる。
しからば、これより永遠亭の皆に厳戒態勢を布く様伝えておく位の対処しか出来ない。
ただ、何らかの脅威が永遠亭に襲い掛かるとして、それが今宵とは限らない。
一月後の満月の夜かも知れないし、満月でない日に何かが起こる可能性も否定は出来ず、あるいは全く何も起こらない、というのも多分にあり得る。
いつ終わるとも知れぬ緊張状態を皆に強い続けるのは好ましくなかった。
「…八方塞がりね」
頬杖を崩して文机に突っ伏し、永琳はため息をついた。
結局、嫌な不安を胸に抱えつつ、手をこまねいている事しか永琳に選択肢は無かった。
鈴仙には今回の事は誰にも話さぬよう口止めしておいた。
しかし、小心者の弟子の事である、何かと態度には表れて来るだろうし、彼女自身の精神状態がどこまで持つか心配でもあった。
そして、何より永琳が苦悩していたのは、輝夜に要らぬ心配をかけたく無い、という思いからであった。
はっきりと対策が打てれば、問題を明かした上で「全部私に任せておけば大丈夫」と胸を張れるのだが。
「隠してみたところで、すぐばれちゃうのよねえ」
輝夜はそういった機微には聡い。
僅かな屈託さえ、抱えていればたちどころに見破られてしまう。
そろそろ朝食の時間となるはずであったが、輝夜と顔を合わせる事を思うと気が重かった。
しばらく伏せったまま動かずにいると、机を通じて誰かが歩いてくる足音が微かな振動として伝わってきた。
「おはようございます、お師匠様」
「…おはよう、ウドンゲ」
顔を上げて挨拶を交わすと、鈴仙はあまりよく眠れなかったらしく目の下に隈が出来ていた。
「そろそろ朝食のお時間ですよ」
「すぐに行くから、先に行ってて頂戴」
「…わかりました」
鈴仙は小さく一礼し、永琳の部屋から去っていった。
永琳はしばらくその後姿を見送ったままの格好でいたが、やがてふうと息を吐き、弾みをつけて立ち上がった。
腹が減っては戦は出来ぬ、こんな時こそいかに平常心で普段通りの生活が出来るかが肝要である。
「ま、なるようになるでしょう」
そう呟いて背伸びをすると、いくらかは気分もほぐれたので、永琳は自室を後にしようとした。
「…あら輝夜、おはよう」
いきなり永琳の部屋の前を通りがかった輝夜に鉢合わせしてしまった。
子兎を何羽か引き連れており、えーりんさまおはようございまーす、等と可愛らしい挨拶に頬も緩む。
そのおかげもあってか、不意討ちにしては自然な笑顔が出来たわ、と永琳は思った。
「おはよう、永琳。何か悩み事でもあるの?」
ここまで瞬殺とは。
心配そうに目を細める輝夜に、思わず永琳は苦笑してしまう。
「ほんと、輝夜には敵わないわね」
ちょっと姫様とお話があるから、と子兎達の頭を撫でて先に行かせてから、永琳は洗いざらい全てを輝夜に話した。
「…という訳でどうしようも無くて困っていたのよ」
昨夜から半ば癖になりつつある、こめかみを指で揉みほぐす仕草を見せつつ話す永琳に、輝夜は小首を傾げた。
「どうしようも無いのだったら悩むだけ無駄じゃない」
「輝夜ならそう言うと思ったわ。全く貴女の言う通り。でも一度気になりだしたらもう駄目なのよね。性分だから仕方無いわ」
ふーむ、と輝夜は眉を寄せ、仔細らしい顔を作って腕を組んで見せた。
「他ならぬ永琳が悩んでいるのだもの、私も力になってあげないとね」
輝夜の装うさも気難しげな様に、永琳はくすりと笑ってしまった。
柄にも無く張り詰めていた肩の力が、少し抜けた気がした。
「頼もしいわね。期待してるわ、お姫様」
そう、輝夜の存在ほど頼もしい物は無い。
何故ならば、いついかなる時も、輝夜にとって何が最善であるのか、それだけが正解だからである。
何が起きようと自分に迷う事は無かった、出来する事態を都度片付けていけばいいだけ。
永琳は普段の余裕を取り戻し、泰然自若、ただ現れ来る諸々を待ち受ける心持になった。
輝夜がそこにいるだけで――
「思い付いたわ」
唐突にぽんと手を打つ輝夜に、永琳は怪訝な顔をした。
輝夜はそこにいるだけでいいはずであって、本当に名案を思い付くとは予想していなかった。
得意気に「いい事考えた」とのたまうガキの考える事は大抵碌な事ではない――永琳の頭を一瞬不埒な考えがよぎった。
「スキマ妖怪に助けを求めましょう」
永琳の超人的頭脳を持ってして、輝夜の発言の内容を理解するのに六秒余りを要した。
無理も無かろう、千年以上の間只一人輝夜を守り続ける生活を送って来た永琳にとって、他者に、それも永遠亭の外部に助けを請うという発想は全く無かったのである。
まして、その相手がかの八雲紫とは。
「輝夜、先程話した通り、この騒ぎ自体八雲紫が仕掛けた可能性だってあるのよ」
「だからこそよ。あのスキマが何か企んでいたとして、素直に助けを求められる事ほど意表を突かれる行動って無いのではないかしら」
なるほど、考えてみる程に予想に反して名案であると永琳には思われた。
あの胡散臭いスキマ妖怪が犯人であれば、掌の上で踊らされるのは勘弁願いたかった。
カマをかけた所で尻尾を出すとも思えなかったが、まず下手な策を弄するよりはずっと良い。
敗けたつもりこそ無かったが、そういった小細工にかけては向こうの方が上である事を認めざるを得なかったし、そういう相手であるが故、こちらが素直に助けを求めれば多少は戸惑う顔を拝めて、いつぞやの溜飲も少しは下がるかも知れない。
「それに、存外親身に助けてくれるかも知れないわ。多少なりとも私達が幻想郷に受け入れられているのならば、私達もまた彼女の、愛し庇護すべき世界の一部なのだから」
輝夜はにこりと笑って言った。
「つまらないプライドだの身分だのは、貴女も私も遠い昔に月に置いて来たはずよ。今もこの永遠亭でお姫様ごっこに興じてはいるけれど、永琳も、私も、既に個として向かい合う只の女。私を守る為に貴女が全てを背負う必要も無いし、貴女自身を守る為に誰かを頼ってもいいの」
穏やかに微笑みながら輝夜は永琳の手を取り、胸に抱くように両手で包み込んだ。
「当然、その誰かには私も含めてね、永琳。それが、私と貴女の永遠だったはずよ」
ああ、と声にならない叫びを上げながら、永琳の心はどれ程の時を経ようともたちどころに原点に帰り、全身の血が沸き立つような熱い何かが喉の奥からせり上がって来て、涙をこぼしそうになるのである。
輝夜がいる限り、何万年、何億年の果てからも、永琳は自分自身を見失う事無く蘇る事が出来るだろう。
「――本当に、輝夜には、敵わないわ」
そう呟いて、永琳は自らの額を輝夜の額へと預けた。
永琳の手を胸元で握り締めたまま、輝夜はくすくすと笑う。
「さあ、甘えん坊さん、ご飯にしましょう。きっと皆お腹を空かせて待っているわ」
大広間へと続く廊下を輝夜と連れ立って歩きながら、永琳は思う。
結局、答は限りなくシンプルだった。
そう、来るなら来い、何も恐れることは無い、なるようになるがいい。
例え何を失おうとも、輝夜と自分の永遠だけは決して損なわれる事は無いのだから。
――それ以外に、何が必要だと?
<10>
今日もまた素晴らしい晴天に恵まれ、幻想郷はゆるゆるとその内に暖気を蓄えていた。
しかし、ふいに風が吹けば肌寒く、舞い散る落ち葉に季節の移り変わりを感じさせられる。
霊夢は賽銭箱の傍らにちょこんと座って茶を飲みながら、先ほど自分が掃き清めたばかりの境内にしづ心無く葉が落ちる様を眺めていた。
それなりの労力をもって勤しんだ日課による成果が、見る間に元の木阿弥へと返っていくのをただ眺める霊夢に、さほど落胆の色は窺えない。
葉とは落ちるものであり、それを嘆くのは無駄である。
かといって、どうせ葉が落ちるからと言って、日課の境内の掃除を無駄であると怠りはしない。
実際境内を掃きながら、集めるそばから降って来る落ち葉に空しさを覚えないでは無かったが、最早体に染み付いた日課をさぼる気は毛程も起きなかった。
半ば機械的に、決められた時間に決められた場所を決められた手順で掃除する。
一連の日課は霊夢自身の一部分と化しており、それを割と霊夢は好ましく思っていた。
また、そんな自分を日がな一日暢気に茶を飲んでぼーっと過ごす怠惰の権化であるかのように評する周囲に対し、霊夢は常々大変に憤慨していた。
ともあれ、霊夢は今まさに目の前で境内に落ち葉が降り積もっていく様を眼前にしてさえ、むしろもののあはれを茶と共に味わう程の心の余裕があった。
わざわざ掃き清めた境内に落ちる葉を愛でるなど、殊更に風流な振る舞いに思われて、霊夢は内心得意ですらあった。
私ってなんて雅な巫女なのかしら。この季節、少しセンチメンタルな気分にもなるわ。
まして傍らで慎ましやかに存在を主張すれど省みられる事の無い賽銭箱がある、否応無しに寂寞の念をかき立てられようと言うもの。
胸を吹き抜けていく冷たい風を、風流哉風流哉とやり過ごす。
…なけなしの心の余裕は、忍び寄る冬の気配に早くも散っていった。
何とは無しに手元の湯呑みの中に目を落としつつ、賽銭箱よ、お前もまた人の世の無常、いや無情を嘆いているのか、と霊夢は心の中で賽銭箱に呼びかけた。
「どうしたの?霊夢。随分浮かない顔をして」
賽銭箱が返事をしたのかと一瞬相当に驚愕して、はっと顔を上げ脇を見やると、何の事は無い見慣れたスキマ妖怪の顔がそこにあった。
「なんだ、紫か」
「なんだとはご挨拶ね。寂しがってるんじゃないかと思って来てあげたのに」
紫は丁度賽銭箱の真上に隙間から上半身のみを現しており、傍目からは賽銭箱からにょきりと身を乗り出している様に見え、些か気色が悪かった。
「ちょっと。そんなとこにいられると、参拝客がお賽銭を入れられないじゃないの」
そう言いながら、どうせそんな万が一の幸運は無いだろうけど、と内心自分でツッコんでしまう情けなさに霊夢はちょっぴり涙が出そうになった。
そんな霊夢と、自分のウエストの下に鎮座する重厚な木製の箱とを、交互に紫はしげしげと見つめ、軽く首をかしげながら控えめに微笑んだ。
「今そう言われるまで、私ったらずぅっとコレが賽銭箱だと全く気付かなかったわ。ごめんなさいね、霊夢。悪気は無かったの」
鳥居からのセンターライン上、拝殿のど真ん前に置かれたコレ、誰がどう見ても賽銭箱だろうが、と紫をぶん殴ろうとして、霊夢はその瞳に一切の偽りの色が無い事を見て取った。
紫とは短からぬ付き合いではあったが、全く関心が無い為にそこに賽銭箱が存在するという事象そのものが認識されていなかった、とでも言うのか。
真摯に謝罪される事でこれ程までに心が傷付く事もあるのだ、という事を霊夢は生まれて初めて知った。
このやり場の無い憤りをどうすれば良いのだろうか。
あまつさえ、紫は申し訳無さそうに袂から小銭を取り出し、賽銭箱に放ったのである。
「…あんたの分のお茶、淹れて来るわ」
賽銭を入れてもらった以上、釈然としない思いを抱こうが何しようが、上客としてもてなす他無い。
まあ、結果的に幾ばくかの賽銭を獲得したわけで、決して嘆くようなことでもあるまいと多少は機嫌を直しつつ、霊夢は立ち上がって奥へと消えた。
「悪いわねえ」等と言いながら、紫は隙間からそろえた脚を引き抜き、ふわりと賽銭箱の脇に腰掛けた。
一陣、風がざあっとまた境内に落ち葉の雨を降らせた。
「ん」と霊夢が差し出す湯呑みを、「ありがとう」と紫は受け取った。
一応上客として、いつもの安物より少し上等の茶葉で淹れてやった。
湯呑みの熱を慈しむようにしばらく両手で包んだ後、紫は茶を一口啜った。
「あら、いつもの安物より少し上等の茶葉で淹れてくれたのね」
「うっさい」
霊夢がぷいとそむけた横顔を、可笑しくてたまらないというようにくすりと笑いつつ紫は覗き込む。
「ふん」と言いながら自らの分も淹れ直した茶をがぶりと飲み込むと、熱さが喉を焼いた。
「それにしてもあんたがこんな時間に現れるなんて珍しいわね。何か用事でもあったの?」
「だから、霊夢が寂しがってるんじゃないかと思って来たって言ったでしょう?それに、昨日今日と早起きなのよ、私」
「もう年だから早く目が覚めるのね。ま、そろそろ冬眠する季節になるんだし、今の内に早起きしとくのもいいんじゃないの」
「…寂しい?」
「馬鹿」
霊夢は呆れた顔でまた茶を啜りながら境内を眺めていたが、湯呑みを下ろすと紫に向き直った。
「じゃあ、紫も何かに気付いて、早起きしてまで私のところに来たわけじゃないのね」
「どういうことかしら?」
「んー、何て言うか、朝からずっと嫌な予感がしてるのよね」
博麗の巫女の勘が良く当たる事は自他共に認めるところである。
中でも紫は霊夢のその方面での勘には全幅の信頼を置いていた。
すう、と胡散臭い微笑が真剣な表情に取って代わると、流石に大妖怪の凄みみたいな物が出てくるわね、と霊夢は思った。
「何か異変が起こりそうなの?霊夢。今のところは私の知る限り幻想郷に何も異常は無いはずだけど」
「よくわからないけど、今までの異変の時の感じとはちょっと違うのよね。こう、上手く言えないけど、凄く厭な感じ」
そう、朝から霊夢はずっと靄が晴れないような、すっきりしない厭な気分が続いていた。
ただ性格的に、実際何かが起きれば為すべき事を為せば良い、とそれを以ってどうこう思い悩む霊夢ではなかった。
初めて霊夢が感じるその厭な気分を、代わりに他の者が感じたならば、「不安」という名前を与える事が出来ただろう。
不安などという感情とは霊夢はおよそ無縁だった為、ただ厭な感じとしか形容する術が無かった。
紫はしばらく黙り込んで、鋭い眼差しで虚空を睨んでいたが、やがてふわりと表情を和らげて霊夢を見つめた。
「霊夢、今回は何かぴんと来ても先走って無理しちゃ駄目よ。また私も手伝うから、何かわかったら教えて頂戴。私の方でも色々調べてみるけれど」
「別に紫に連絡するのはいいけれど、あんたどこにいるのかわかんないじゃないの」
「霊夢が『ゆかりーん』って大声で呼んでくれれば、どこにいても駆けつけるわ」
「断る」
やぁん、霊夢のいけずぅ、と身体をくねらせる紫を断固無視する。
まったく、どこまで本気なのかわかりゃしない。
霊夢は空を見上げてみたが、青く広がるそれはいつもの通り平和なままだった。
「あら霊夢、お客さんよ」
紫の声に視線を戻すと、確かに鳥居の向こうの石段に、人影が頭を現したところだった。
「随分珍しいお客さんだこと」
鳥居をくぐってこちらへ歩いて来るのは、永遠亭の薬師であった。
永遠亭の面々と共に宴会に顔を出す以外に、永琳が神社を訪れた事は今まで無かった。
「これが異変かしら」
首をかしげる霊夢の言葉に、紫も肩をすくめた。
真っ直ぐ境内を進んで来る永琳は、一瞬目を細めてこちらを見たようだったが、すぐ平素の澄ました表情に戻った。
隣に座る紫は、静かに湯呑みを傍らに置き、袂から扇子を取り出した。
歩を進める永琳の足元で、落ち葉が乾いた音を立てた。
「ごきげんよう」
特に出迎える素振りも見せず、だらりと座ったまま茶を啜る霊夢と紫の前で立ち止まり、永琳は微笑と共に挨拶をよこした。
「あら、ごきげんよう、月の賢者様」
紫もまた、広げた扇子を口元にやりつつ、薄く艶然と微笑んだ。
ここまで歩いて来るのをずっと眺めていたくせに「あら」とは白々しいにも程がある。
二人の一往復のやり取りにより、瞬く間に周囲に胡散臭さが立ち込めた。
霊夢はさも面倒臭そうな顔で、心の内で(ババア臭っ)と呟いた。
「どういう風の吹き回し?あんたがここに来るなんて」
「実はそちらのスキマ妖怪さんに用があったのよ。どう連絡を取れば良いのか分からなくて、貴女に聞いたら分かるかと思ったのだけれど、来てみたらご本人様がいらしたから助かっちゃった」
霊夢の問いに、永琳は霊夢と紫を交互に見ながら答えた。
「あら、わたくしに御用?」
紫は口元の笑みは絶やさぬまま、僅かに眉を上げた。
「そう、貴女のお力をお借りしたくてね」
永琳はごく自然な動作で頭を下げた。
「お助け下さい、地上の賢者様」
霊夢と紫は思わず顔を見合わせた。
「…やっぱりこれが異変だったのね」
「ええ、紛れも無く異変だわ」
この月人が他者に頭を垂れる事等全く想像の埒外であり、流石の紫も目を丸くさせていた。
顔を上げた永琳は髪をかき上げながら、変わらず微笑んだままだった。
「場合によったら貴女にも助けてもらわなくちゃいけないかも知れないわ、博麗の巫女さん」
開いたり閉じたりさせていた扇子をパチリと畳んで、紫は瞳に鋭い光を湛えて永琳を見つめた。
「どうやらかなり厄介なお悩みのようね」
「ええ。とても厄介なお悩みなのよ」
「お伺いしますわ」
霊夢は、厄介な事は勘弁して欲しいのにな、と思いながら、再び茶を淹れるために席を立った。
またざあっ、と一陣の風が、境内の落ち葉を巻き上げた。
<11>
妹紅は畳の上でごろりと寝返りを打った。
慧音の家のほのかないぐさの香りが快い清潔な畳と違い、我が家のささくれたボロ畳は頬にちくちくと優しくなかった。
もともと仮住まいに毛が生えた程度のあばら家ではあるが、それでも我が家より慧音の家の方が落ち着くというのは些か問題に思われた。
最近は特に入り浸り過ぎており、慧音に迷惑をかけているのでは無いか、と思う。
慧音は否定するだろうし、実際に全くそんな事を思ってもいないのだろうけど、それでも忙しい慧音のプライベートな時間を自分が奪っている事実には相違が無かった。
慧音は、自分に好意を持ってくれている。
自惚れでなく、これは間違いないと言っていいだろう。
その好意が、どのような色合いの物なのかは別としてだ。
妹紅が会いに行くと、慧音は本当に嬉しそうに出迎えてくれるのである。
それが良くない。
慧音も喜んでるから、と自分に言い訳をしてついつい会いに行ってしまう。
妹紅は自らが既に半ば慧音という存在に依存している事実を認めた。
それは慧音にとって多かれ少なかれ弊害をもたらすだろうし――妹紅自身にとって、いずれ精神衛生上非常によろしくない事態を引き起こす事になる。
「はあぁ…」
再び妹紅は寝返りを打った。
最近どうにも感情が不安定になっている。
慧音と一緒に居たい、でもそれはまずい事かも知れない、そんな想いが振り子のように揺れて、慧音の傍にいる時ですらふいに胸がぎゅっと苦しくなる事がある。
昨夜なども、おおよそ普段の妹紅からは考えられないような言動を慧音の前で披露してしまった。
慧音は、それも全部、しっかり受け止めてくれた。
「慧音…」
三度寝返りを打ちながら自らが零した呟きに、酷く妹紅は赤面した。
これではすっかり恋に逆上せた乙女のようではないか。
うーうー唸りながら妹紅はうつ伏せになって足をばたばたと暴れさせた。
こんな時に輝夜をぶっ殺したら少しはスカッとするかも知れない、と思うのだけれど、重い腰は動かなかった。
最近、どうにも輝夜との殺し合いをする気になれない。
今さらそれを無意味と悟ったわけでもなく、むしろずっと無意味と分かりきったまま、後ろ暗い衝動に身を委ねて来た。
それしかする事が無く、またそれしか自分には無く、そしてそれが自分自身だったから。
きっと今は、それ以外の何かが自分の内に芽生えつつあるのだろう。
それは、やはり喜ばしい事なのだと、妹紅は思う。
それを私にくれたのは、慧音。
じゃあ、今の私から慧音を取ったら何が残るのだろうか?
また考えが堂々巡りする。
ふと左肩の傷に微かな疼きを覚えて、妹紅は昨夜のことを思い出し、再び赤面する。
とても輝夜と殺し合いなぞ出来るはずが無い。
「あー…何やってんだろ私」
むくりと身体を起こし、頭をがりがりと掻きながら妹紅は窓の外を見やった。
麗らかな日差しに竹林は色濃い影を地面に落とし、時折渡る風がそれを揺らしていた。
こんなに天気のいい日に家に閉じこもってうんうん唸っているのも馬鹿らしい。
そう思うが、さりとてする事があるわけでもない。
「やっぱりお祭り…行こうかな」
「今日は夕方から里でお祭りがあるんだ。妹紅も来ないか?」
朝方、食卓を二人で囲んでいると慧音が言った。
昨日の昼から三度も慧音の絶品の料理をご馳走になり、流石に三杯目をそっと出しながら妹紅は聞き返した。
「お祭り?」
「ああ、どんな由緒があるのかはよく分からんが、毎年恒例のまあ秋祭りというやつだな。屋台も出るし、色々と出し物もあるようだ」
「ふうん」
おかわりの茶碗を気の無さそうな相槌を打つ妹紅に手渡しながら、慧音は話を続ける。
「今日は寺子屋が終わったらその足で祭りの準備の手伝いに向かう予定だ。良かったら夕刻、里で落ち合わないか?」
「うーん…あまり気が進まないな」
真っ直ぐに向けられた慧音の瞳から目を逸らしつつ、妹紅はもごもごと答え、もぐもぐと飯をほおばった。
慧音が妹紅の為に里とのつながりを持たせようとしてくれている事は分かっていた。
本来、その好意に甘えるべきなのだろうが、正直に言って妹紅は怖かった。
過去にあったあれこれが心の痛みを抉るから、と言えば聞こえはいいが、実際は単純な話、妹紅は人とどうやって接すればいいのか、すっかり分からなくなってしまっていたのである。
昨日慧音に揶揄された通り、ただの対人恐怖症、社会不適応に過ぎず、そんな己を心底情けないとは思うが、どうにも一歩が踏み出せなかった。
慧音、もうちょっとだけ甘えさせてよ――そんな自分の鼻にかかったような声が聞こえてくる気がして、妹紅は厭な気分になった。
そんな妹紅の心の移ろいなどお見通しなのだろう、慧音は軽くため息をついて呟いた。
「そうか…折角今晩の為に新しい浴衣を誂えさせたのだが、残念だ」
え、浴衣?
今まさに嚥下されようとしていた米粒達が驚きの余り喉で踊り出し、妹紅は大いにむせた。
慧音の浴衣姿とは…さぞかし艶やかに違いない。
釣り提灯の赤い光に鈍く照らされて、結い上げた髪の下、ほのかに輝くうなじと後れ毛――ああ、慧音!美しすぎるよ!
その一言でやっぱり行こうかな、と見事にぐらつき始める己の心根の浅ましさに、妹紅はまた一つ自らへの幻滅を新たにした。
「しかも、実は、妹紅の分も頼んであるんだが」
(それって反則じゃないのか!)と妹紅は心の中で絶叫した。
そんな、慧音とペアルックの浴衣で祭りを練り歩くだなんて、嬉し恥ずかし朝帰りなイベントを用意しているとは。
一条戻り橋さながらに慧音に引き寄せられる強力な引力をひしひしと感じながら、妹紅は呻いた。
「ず、随分と今回のお祭りには気合が入ってるんだね…」
「その通り」
慧音は力強く頷き、それから少し気恥ずかしそうに、ふわりと笑った。
「今夜は、満月なんだ」
「あ――」
妹紅は後頭部を殴られたかのように、がん、と衝撃を受けた。
慧音は人里の守護者としてどれ程の信頼を得ようとも、これまで決して満月の夜の自らの姿を里の人間に晒した事は無かった。
当然里の者達は慧音が半獣半人である事を知っているし、ましてここは幻想郷である。
ハクタク化した慧音の姿を里の者達が否定する事は考えられなかったし、慧音自身それは分かっているだろう。
獣化により気持ちが昂ぶるとは言っても、理性を失うほどに狂うわけでもなく、そもそもハクタクとは非常に聡明で理性的な幻獣である。
それでも、慧音は頑なに満月の夜は人目を拒んだ。
それは、人間の立場で里を守る者としてのけじめであったかも知れず、あるいは半獣半人としての誇りであったかも知れず、あるいは――頭で理解していても心にわだかまる、恐怖であったのかも知れない。
これは、慧音からの明快なメッセージだ。
私は今夜、新しい一歩を踏み出す。妹紅も一緒に新しい一歩を踏み出そう。
そういう、真剣なメッセージ。
かたや振り返ってどうだろう、つまらない臆病や煩悩に振り回される己の情けなさに涙が出そうになる。
多分、これは物凄く大事な分岐点。
幾度も伸べられてきたこの手を、今夜、取るのかどうか、決断を下さなくてはならない、そう思った。
「まあ、夕方まで時間はあるし、良かったら考えておいてくれ」
慧音はごく自然にそう言って、自らの食器を重ねて台所へ立った。
「あ、ああ…」
締まらない呟きを漏らし、妹紅は飯をかき込んだ。
きっと、今夜お祭りに行かなくても、慧音は今までと変わらずに接してくれるはずだ。
でも、慧音の先に広がっていく世界への扉を、閉ざしてしまう事になるだろう。
私にとって、世界は必要なのだろうか?
私の永遠の生にとって、必要なのだろうか――?
朝方の慧音の眼差しを思い出す。
慧音はいつだって、優しくて、強くて、真っ直ぐな瞳をしているけれど、いつも以上に真剣な眼差しだった。
自分の未来に途切れること無く続く永遠の生を思う時、妹紅は暗澹たる絶望に打ちひしがれる。
蓬莱人では無い普通の人間が、決して逃れることの出来ない死の運命に対し抱く絶望と比べ、どちらがより深い奈落なのか、妹紅には分からない。
ただただ妹紅が恐怖するのは、終わりの無い時の流れの中で、いずれ自分が狂ってしまうのではないか、という事であった。
蓬莱人にとって、可能性がある事は、全て確実な事と変わりが無い。
どれほど天文学的に極小な確率であっても、試行回数が無限回であれば十割となる。
そして、妹紅の精神が異常を来す可能性は、残念ながら天文学的に極小どころか、大いにあり得る、というレベルであった。
蓬莱人となった初めの頃、人間と共に生きる事に挫折し、酷く心に傷を負った時、妹紅はこのままでは私の心は壊れてしまう、と思った。
それから、人との関わりを絶って独りで生きて来たが、次第に起伏を失っていく心の中で、やはりぼんやりと、ああ、このまま私は狂っていくんだ、と思った。
そんな時に輝夜に出会い、また慧音に出会い、なんとか今の自分がある。
実際、輝夜がいなかったら?慧音がいなかったら?
――結局、どの道を選ぼうとも、遅かれ早かれ行き着く先は同じなのではないか?
その答えに思い至る度に、圧倒的な絶望と諦観が妹紅に圧し掛かって来て、呼吸が出来なくなる。
――慧音、助けて!助けてよ!
膝をぎゅっと抱えて座り、歯を食いしばって耐える。
――慧音がいる間は、思う存分慧音に甘えてしまえばいい。依存してしまえばいい。
――どうせいつかは壊れてしまうなら、慧音を失う時に一緒に壊れてしまえば良いだけの話じゃないか。
そんな自分自身の声に、それは間違っていると心の内で声を枯らして叫ぶのだけれど、何が間違っているのか分からない。
頭が、心が、破裂しそうになって、全身が焼ける様に熱くなっている。
無性に喉が渇いてきて、妹紅はふらふらと外に出て、小屋の裏手の井戸へ向かった。
ぐ、と冷水を流し込むと、幾分人心地がついて、妹紅は大きく息をついた。
「本当に、どうかしてるな」
竹林を縫って渡ってきた風が襟元をかすめ、火照った体の熱を少し奪っていった。
大丈夫、私は今ちゃんと生きてる。
当たり前の事を安堵と共に再認識しつつ空を見上げれば、澄んだ青はやはり広く、太陽はだいぶ西に傾きつつあった。
ふと、竹林の上方を妖精がよぎったが、妹紅の姿を認めると慌てて竹林の中へ姿を消した。
「そうだよ、ここは幻想郷なんだ」
たったそれだけの事を、なんで忘れてしまえるんだろうか。
この非常識の郷にあって、過去の経験が何だって言うのだろう?
きっと、何か上手くやっていける方法が見つかる。
何だか妙に可笑しくなって、妹紅はひとしきり笑った。
独りで泣いたり笑ったり、それこそ頭がおかしい奴みたいだな、と思ってまた妹紅は笑った。
元より狂っているならば、なおさら気に病む必要等無い。
「うん、やっぱりお祭りに行こう」
そう呟いて、妹紅は家の中へと戻った。
最早、妹紅の心を占めるのは、お祭りを心待ちにする期待感と、知らない里の人達に会う事への緊張感、そして慧音の浴衣姿だけ。
大部分は、三番目であった。
<12>
縁側に腰を掛けた霊夢は、やはり茶を飲んでいた。
霊夢と言えば、お茶である。
自分を評す周囲のそんな声を、霊夢は否定出来ないでいる。
むしろ、自分でも、私と言えばお茶よね、と思う。
それ程に手に馴染むこの湯呑みの重みはどうだろうか。
「少し、風が出てきたわね」
愛しい緑茶の表面に生じた微かな波を眺めながら、霊夢は独りごちた。
何とは無しに、波が消えぬうちに茶をかぷりと飲み込んでみる。
風を飲む、等と洒落た文句が頭に浮かんだが、特に変哲も無い出涸らしの茶の味がした。
出涸らしとは言っても、午前中に紫に淹れてやった少し上等の茶葉である。
霊夢程の緑茶の権威ともなれば、出涸らしと言えどその微妙な風味の差が舌に、喉に、雄弁に訴えかけて来る。
「…何遍淹れ直しても期待を裏切らないわ」
そもそも、霊夢は出涸らしには出涸らしの味わいがあると思っている。
当然、淹れれば淹れる程香りや甘味は薄くなってしまうが、代わりに次第に独特の渋味と旨みが出て来る。
さらにそれすら薄れて来ると、今度は湯本来の味の中に、ほのかに薫る植物ならではの繊維質な香ばしさが楽しめる。
ここまで来ると、霊夢レベルの達人とならねば味わうことの出来ぬ、幽玄の一杯である。
決して、吝嗇の為に十遍も同じ葉を使って茶を淹れている訳ではない。
「…むう、小腹が空いた」
お茶請けも無しにがぶがぶと緑茶――まだかろうじて緑茶の範囲と言えよう――を摂取しては見たものの、霊夢の腹はくうと可愛らしい抗議の声を上げた。
頂き物等があれば喜んでお茶請けにするのだが、自身で茶菓子の類を買い求めたりはしない。
これも、混じり気無く純粋に茶の味に没頭する為である。
そこまで霊夢の茶に対する愛情と情熱は深かった。
決して、吝嗇の為に泣く泣くお茶請けを諦めている訳ではない。
もしかして、自分はお茶を飲む為に生まれて来たのではないだろうか。
あるいは、お茶が私に飲まれるために生まれて来たのかも知れない。
霊夢は夢想する。
ここまで茶を愛し、茶を極めた自分の前に、緑茶の神様が現れてくれても良いのではないか。
そして、茶神は自らに仕える敬虔な巫女に、最高級の茶葉を山と授けてくれるのである。
いやいやせめて、お茶請けのお饅頭一個、お煎餅一枚くらい、くれてもいいじゃないの。
「よう」
陽射しを遮って霊夢の前に降り立ったのは、緑茶の神様ではなく、きのこの神様であった。
「何か用」
自らに影を落とす魔理沙の顔を、さも面倒臭い、という表情で霊夢は見上げた。
逆光も手伝って、殊更に顔をしかめる霊夢に向かって、魔理沙は白い歯を見せながら笑い、ほうきの先にくくりつけていた包みを霊夢の方にずいと差し出した。
「…お饅頭ね。魔理沙にしては気が利くじゃないの」
「いや、私だから気が利くんだぜ。お前が何を望んでいるのかなんて、いつだって私にはちゃんとわかってるんだ」
ふん、と鼻を鳴らして霊夢は立ち上がった。
「私だってあんたが何を望んでいるかなんてお見通しよ。あんたは今、私が淹れたお茶を望んでいるわ」
「流石だな。以心伝心、一心同体って奴だ」
箒を立てかけ、脱いだ帽子を傍らに置きながら縁側に腰を下ろした魔理沙は、奥へと消える霊夢の背中に声をかけた。
「ちなみにわかってくれてると思うが、私が望んでいるのは新しい葉で淹れたお茶だぜー」
「うっさい」
一番安物の茶葉で淹れてやった。
というか、普段の茶葉である。
まあ魔理沙ごときに奥深い茶の味がわかるはずも無いし、現に文句一つ言わず旨そうに茶を啜っている。
土産の饅頭を一つ手に取り、口に運ぶと、得も言われぬ餡子の甘味に誘われてじゅわわと唾液が溢れてきた。
餡子と緑茶、これすなわち調和の極地。
お茶請けがあるって何て素晴らしい事なんだろう。
「で、何か頼み事があって来たんでしょう?」
魔理沙はむ、だのと言葉に詰まって目を白黒させた。黒白だけに。
「何でわかったんだ?」
「あんたの事はお見通し、ってさっき言ったでしょ。まあ私とあんたの仲だから、大抵の頼み事だったらお断りするわ」
「おいおい、発言の内容がおかしいぜ」
そう言って苦笑した後、妙に真面目な顔で魔理沙は切り出した。
「今夜、人里でお祭りがあるんだが一緒に行かないか?」
「嫌だ」
「いくらなんでも即答過ぎるだろうが。繊細な私のガラスの心が砕け散ってしまうぜ」
「どんな防弾ガラスよ。それにしてもあんたが人里に行きたがるなんて珍しいじゃない」
しばらく魔理沙はあー、だのうー、だのと口ごもっていたが、やがてぼそぼそと喋り出した。
「いや、アリスの奴が、お祭りで人形劇をやるそうなんだが、どうしても私に見に来てくれと言うんだ」
お節介焼きのアリスの事である、きっと魔理沙と里の関係を少しずつでも修復しようだとか七面倒臭い事を考えているのだろう。
アリスのそういう所は嫌いではないが。
「それで、何で私があんたに付き合わなくちゃならないのよ」
お祭りなどというときめきセンチメンタルイベント、それこそアリスとタイマン張るべきではないのか。
元々行く気も無いが、のこのこついて行って爪弾きにされ、繰り広げられる二人の世界を見たくも無いのに蚊帳の外から延々眺める羽目になる等、阿呆にも程がある。
「待ってくれ霊夢。冷静に考えてくれ。私が一人で祭りに行ってみろ、まるでアリスに会いたくて来ちゃいました、って言ってるように見えるだろうが。そうじゃないだろ? 霊夢がどうしてもお祭りに行きたいって言うから、仕方なく魔理沙さんは霊夢について行ってやるんだろ? どう考えても霊夢、お前が来ないと計算が合わない」
「阿呆」
霊夢は完全に馬鹿馬鹿しくなって無視を決め込むことにした。
父親との確執に端を発する葛藤とか、そんな事をちらりとも心に浮かべたのが我ながら恥ずかしい。
なおも横で魔理沙は何事か顔を真っ赤にさせて言い募っているらしい。
霊夢が全く何も聞いていない事に気付かない程、必死に喋っている。
そよ風のように魔理沙のたわ言を聞き流しながら、霊夢はまた一つ饅頭をほおばり、茶で流し込んだ。
無重力の巫女の聴覚は綺麗に魔理沙の声のみをシャットアウトし、夕風が木々を揺らし、葉を散らす音を捉えていた。
少し肌寒さを覚え、ふと気付けば陽は山の端にかかり、周囲は薄暗くなりつつあった。
「ねえ魔理沙。もう陽が沈んでしまうけどお祭りに向かわなくていいの」
霊夢がそう言うと、我に返ったとでも言うように魔理沙は周りを見回し、「いつの間にこんなに暗くなったんだ」等と呟いた。
「なあ霊夢、時間が無いぜ。頼むよ、この通りだ」
両手を合わせる魔理沙を見てため息をつきながら、霊夢は言った。
「悪いんだけど、今夜は付き合えないわ。もしかしたら仕事になるかも知れないし」
「仕事?」
霊夢は午前中の永琳と紫のやり取りを思い出していた。
今頃はどうしているだろうか。
特に意識しないようにしていたが、朝方からの厭な感じは今日一日を通じて増す一方だった。
何が起ころうとしているのかはわからないが、思っていたよりも事態は深刻なのかも知れない、との予感が霊夢にはあった。
「何か、異変が起きたのか?」
「まだ起きてないけどね。起こるかも知れない」
そう言って、霊夢は遥か地平線に顔を出した満月を見つめた。
魔理沙もそれに倣い、手をかざして月を見やった。
「何だか、随分と赤い月だな」
魔理沙の言葉に、黙ったまま頷く。
先刻からの強い風が、次々と木々から葉を引き剥がし、吹きさらっていく。
妙に乾いた、心をざわつかせる風。
ぬるくなった茶を一気に飲み干し、霊夢は呟いた。
「魔理沙、行くなら早いとこお祭りに行ったほうがいいわ。ここに残っていると、面倒な事になりそうよ」
「…そう言うお前はどうするんだ」
「私は博麗の巫女だもの、異変から逃げ出すわけには行かない」
すっかり暗くなり、冷え込んできた空気の中、赤い月は煌々と輝いていた。
レミリア・スカーレットと対峙した一夜の、あの紅い月の輝きとは異なる、赤。
にもかかわらず、あの赤い月には見覚えがある、と霊夢は思う。
記憶をあちらこちらと辿り、そして思い当たる。
あの赤は、紫と出かけたあの永い夜に見た赤だ。
乗り込んだ永遠亭の廊下で霊夢たちの前に現れた、月の兎。
鈴仙・優曇華院・イナバの、狂気に誘う瞳の赤だ。
まさに今、月は狂気の光を幻想郷に投げかけている。
「厄介な事は、勘弁して欲しいのに」
<13>
ほぼその姿を地平線へ隠そうとしている夕日に照らされて、三つの影が湖面に長く長く伸びている。
湖のほとりに立っているのは、永琳、紫、藍であった。
幻想郷の全てを鮮烈に染め上げた赤はやがてその威光を失い、夜の帳が下りてくる。
急速に周囲が暗くなる中、陰影を濃くする紫の微笑はまさに妖にして怪、寒気がするような美しさを感じさせた。
そう、これからが妖怪達の時間の始まりなのである。
一種の感銘を覚えながら、永琳はやはりこのスキマ妖怪だけはなるべくなら敵に回したくないものだ、と再度認識を新たにしていた。
夕刻より強さを増していた風が断続的に吹きつけ、湖面を細かく波立たせた。
「永琳殿も紫様も、寒くは無いですか」
穏やかな声で藍が尋ねる通り、日没と共にぐっと気温が下がり、風の冷たさはまもなく訪れる冬の気配を滲ませていた。
「大丈夫よ。ありがとう」
そう答えつつ、永琳は日が沈むのとほぼ時を同じくして姿を現していた、東の空の月を睨んだ。
随分と赤みがかって見える今夜の望月、そこで一体今何が起こっているのだろうか。
「あの月の姿が私達から見てすっぽりと湖面に映ったら、そこに隙間を開いて月の裏側を覗いてみましょう。本当はきちんと真上から見ても湖面に映る月の南中まで待った方がいいのだけど、さすがに真夜中まで待っているような悠長な真似は出来ませんものね」
紫が言うには、湖面に映った幻の月と空に浮かぶ月との境界を弄り、地上と月の裏側を繋ぐ事が出来るのだそうだ。
紫が月への侵入手段を持っている事は知っていたが、実際このような方法であったとは、全くスキマ妖怪とは出鱈目な種族である。
永琳達が立っているのは湖の西のほとりであり、東から昇った月が最も早く湖面に映る位置取りであった。
ほぼ湖の対岸の方まで離れた隙間を目を凝らして覗き込むことになるが、より良く見ようとそちらへ近づけば月が湖面に映らなくなってしまう。
刻が遅くなり、月が高く昇れば昇る程隙間に近づくことが出来るが、当然月の情報は可能な限り早く入手したい。
「ジレンマだけど、しょうがないわね」
いずれにせよ、最低限対岸の湖水の端に月が映らない限りは待ち続けるしかない。
せめて状況が把握出来るまで何事も起きなければ良いが、と永琳は永遠亭で待つ輝夜達の身を案じた。
輝夜が言っていた通り、紫は存外親身に助力を申し出てくれた。勿論腹の底で何を考えているのかは分からないが。
神社にて永琳が事情を説明すると、紫はすぐさまこの偵察作戦を提案して来た。
恐らくは、今回の事態が幻想郷にも何らかの被害を及ぼす可能性があると判断したのだろう。
聞けば、霊夢も「厭な感じ」がしていたらしく、紫が博麗の巫女の勘に全幅の信頼を寄せているらしい事は、永琳にとって僥倖であった。
ともあれ月異変・紫陰謀説が否定され、なおかつ迅速に協力まで取り付けられた事で、永琳は大いに霊夢に感謝した。
帰りにお礼の意味も含め賽銭を放ると、「私にも手伝える事があったら言いなさいよね」等となおさらありがたい言葉まで頂いた。
ここ幻想郷において、スキマ妖怪と博麗の巫女の協力を得られる事程心強いものも無いだろう。
永遠亭に戻って輝夜に顛末を報告すると、それ見なさいと得意満面であった。
自分も偵察に行きたいと主張する輝夜を、危険だし寒いから、と説得して何とか思いとどまらせた。
こういう時はお姫様というのはどっしりと本拠地に腰を落ち着けて、浮き足立つ下々をなだめて頂かないと、とお願いすると渋々ながらも応じてくれた。
永遠亭には鈴仙とてゐもいる事だし、多少の心配はあったがまだ安全だろう。
いつの間にか吐く息は白く、もし輝夜がついて来ていたならば寒い寒いと駄々をこねていた事だろう。
なおも緩慢に上昇を続ける月を僅かな焦燥と共に睨み続けていると、一瞬、月が明滅したように見えた。
傍らの紫を見やるとやはり怪訝な顔をこちらに向け、今のが錯覚ではない事が知れた。
刹那、どくん、と自らの心臓が跳ね、全身に汗が噴出すのを感じた。
途轍もなく拙い事態が起こっている、永琳は瞬間的に、その明晰な頭脳ではなく感覚で理解した。
ふいに満月が一際明るく輝きを発し――
「藍!目を閉じなさい!!」
すぐ横にいるはずの紫の叫び声をどこか遠くで聞きながら、永琳は見た。
月は強烈な煌きを発しながら、わずかに膨張しているかのようにその輪郭を曖昧に広げた。
太陽が、その発する輝きの為に輪郭をはっきりと捉えられないのと同じように。
まさしく、月は今や真昼よりも明るく幻想郷を照らし出す、苛烈な光線を発していた。
見る間に地上の全てから陰影が消えて行き、世界は暴力的な純白の侵食に飲み込まれ――
弾けた。
炸裂した光の渦に押し流された意識を、影を取り戻す世界と共に呼び戻す。
焼き切れたのは網膜か、それとも精神なのか、最早明暗の認識すらできぬ、視覚という概念そのものが消失したかのような感覚。
とっさに永琳は己の手で双眸を潰した。
激痛に意識がはっきりと覚醒する。
瞬時に組織が再生を始め、元通りになった目蓋をゆっくりと開くと、視覚は正常に回復していた。
自らがその場にうずくまっていた事に気付く。
立ち上がると、紫が血まみれの永琳の服を見やりながら、「蓬莱人って無茶をするのねえ」と呆れたように顔をしかめていた。
その酷く青ざめた顔が、事態の深刻さを物語っていた。
「一体何が…」
目を瞑っていたとは言え、あれだけの光の奔流に晒されてはひとたまりも無かったのだろう、ふらふらと立ち上がりながら藍が問うた。
「空前絶後の一大事だわ」
そう言って、紫は微かに震える手で空を指し示した。
――月は、その姿を忽然と消していた。
絶句する永琳と藍。
なるほど、全てを覆い尽くした純白が引いていった後、幻想郷を包む闇は深く、微かな星明りが照らすばかりであった。
「あの星を見ても分かる通り、いつか萃香がやったように天蓋に映し出された月が砕かれたわけではない。これは、月という天体そのものが破壊されたと考えるべきでしょうね」
「そ、そんな事があり得るのでしょうか? 一つの天体を、しかもあの様に一瞬にして破壊する程の力がどれだけのものか…」
狼狽する藍、しかし永琳は紫の意見を静かに肯定した。
「月の都には、私がいた頃から既にそれだけの力を持つ兵器がいくつも合ったわ」
月人の発達した科学力は、扱う者の手に余る異常な破壊の力をもたらした。
いずれ訪れるやも知れぬ脅威に対する威嚇として、強力過ぎて使用する事の出来ない兵器は抑止力の名で抱えこまれる事となった。
月で勃発した内紛で、脅すつもりで振り上げた斧を、引くに引けなくなって振り下ろした馬鹿が現れたのだろうか。
あるいは、侮っていた地上の民の科学力は、月の都に匹敵する水準まで到達していたのかも知れない。
いずれにせよ、勝利して手中に収めるべき月そのものを消滅させるとは、本末転倒もはなはだしい。
そして、数多の生命が失われてしまった。
恐らくは、綿月姉妹始め、永琳に縁のあった者達も。
あまりの愚かさに、永琳は憤りを超えて眩暈を覚えた。
「大変な事になったわ。まず、今の月の光を浴びて発狂してしまった妖怪達が多数発生しているはず。そして、一時的な混乱が収まったとしても、失われた月は帰って来ない。月が無くなれば妖怪達は力を失い…遅かれ早かれ、幻想郷は滅びる」
取り乱してこそいないものの、紫のわなわなと震える唇は血の気を失っていた。
「何と言う事でしょうか」
両手で顔を覆いながら、藍は悲痛な呻き声を上げた。
「当面は、私達が以前用いた偽の月を作り出す秘法で持ち応えられるでしょう。…まあ、根本的な解決にはならないけれど」
永琳の提案に、紫は蒼白な顔のまま、深々と頭を下げた。
「ご協力、お願いできますかしら。何としてでも、対処法を見つけなければなりませんわ。そして、その為にはやはり貴女のお知恵もお借りしたい」
「当然、協力は惜しみません。こんな結末になるとは思わなかったけれど、今回助けて頂いたわけだし。それに、永遠亭としても、幻想郷を失うわけにはいかないわ」
「…ありがとう。ひとまず、永遠亭に一度戻って対策を練りましょう」
あまりの事態に、永琳ですら考えが上手くまとまらなかった。
いろんな思考や感情がぐるぐると渦巻いてとりとめも無い断片ばかりが意識の表層に浮かんで来る。
永遠亭は大丈夫だろうか。
月の光の影響は輝夜と鈴仙にはないだろうが、地上の兎達は恐慌を来しているかも知れない。
早く輝夜の顔を見たい、と永琳は思った。
輝夜の顔を一目見れば、すぐに落ち着いていつもの冷静な自分に戻れる自信があった。
紫は永遠亭への隙間を開き、その中へまず藍が吸い込まれていった。
差し招かれるままに隙間をくぐりながら、永琳は心の内で輝夜、輝夜、と唱えていた。
月は消え、やがて幻想郷も滅びてしまうのなら、本当に永琳には、輝夜の存在しか残らない。
最後に紫が隙間の向こうへ姿を消し、湖畔には誰もいなくなった。
星空を映し出した湖面は、冷たい風に吹かれて波と静けさを湛えている。
幻想郷全てが、闇の中沈黙しているかのように感ぜられる。
――それは恐らく、嵐の前の静けさ。
<14>
日没を迎えて、まだ妹紅は玄関先でぐずぐずとしていた。
一度は心を決めたはずなのに、その決心は何だかんだ、結局長持ちはしなかったのである。
さあ行こう、と腰を浮かすのだが、その度にまあもう少しのんびりしてから行こうか、と日和ってしまう。
夕刻、と曖昧な時間の設定しか無い事が良くなかった。
最近は大分日が落ちるのも早くなって来たので、日没後でも夕刻と言えば夕刻だ、と下らない言い訳を自分にする。
たかが人里に行くだけの事を何故これ程躊躇するのか、と我ながら不思議にすら思う。
慧音の顔を見に寺子屋に行ったり、今までだって人里に顔を出した事は何度もある。
子供達の相手だってした事もあるし、それなりに慕われているという自覚もあった。
子供は無邪気だ。
無邪気だが、人物の品定めはする。
ただ、品定めをする時に、その人物に貼られたレッテルをあまり気にしない。
その辺りが、妹紅の過去の経験から来る対人恐怖を和らげているように思う。
また、妹紅は子供達を、子供達、という括りで相手をする。
各々の子供と個として付き合うわけではない。
大人と子供という立場においては、当たり障りの無い関係に終始しても問題無くやっていける。
ある意味、子供を子供と侮った、失礼な付き合い方であるとも言える。
慧音は違う。
全ての子供を個として捉え、尊重し、ある意味対等な関係を築いている。
だから妹紅は慧音と違い、あくまでも「それなりに」慕われるに留まるのだろう。
結局、人と踏み込んだ付き合いをするのが怖いのだ。
拒絶されたり、裏切られたりした経験が足を竦ませる。
また、そういった経験から逃れようと人を遠ざけた時間が、歩み寄り方を忘れさせてしまった。
下らない、と妹紅は笑う。
ここは幻想郷だ。
不老不死です、と言ったところで、へー凄いね、で済んでしまう世界。
恐れるような事は何も無い。
頭ではわかっている。
頭ではわかっているが、現実はすっかり日が落ちて暗くなってしまった玄関先で、未だ座り込んでいるこのざまだ。
慧音は、きっと待っている。
今この瞬間も、浴衣姿の慧音が少し寂しそうに笑いながら、それでも私を信じて待っているはずなのに、何故動かない私の足。
迎えに来てくれないかな、という自分の甘えた声が聞こえる。
今夜だけは、絶対に慧音は迎えに来ない。
そんな下らない願望は慧音の本当の優しさを踏みにじるような酷い侮辱だ。
「よし」
今日何度目の「よし」だろう、気合をつけて腰を浮かせる。
慧音、今行くよ。
すっかり夜の帳は下りてしまったが、急いで飛んで行けばまだまだ祭りは楽しめる時間だ。
妹紅がいよいよ玄関から一歩踏み出して鳳凰の翼を広げようとした瞬間であった。
突然眩い光が周囲を覆い、とっさに目をかばった妹紅は、つんのめって地面にうつ伏せに倒れてしまった。
「いたた…何だって言うのよ」
光はすぐに消え、今まさに出かけようとしていた出鼻をくじかれて妹紅は憤った。
立ち上がって見下ろしてみると、ブラウスは泥まみれで酷い有様になっていた。
向こうで仕立ててもらった浴衣に着替えるかも知れないとは言え、こんな格好で行くわけにもいかない。
「あー、もう」
散々悪態をつきながら、妹紅は着替える為に一旦家の中へ戻った。
着替えを済ませ、妹紅は気を取り直して玄関を出て来た。
また戸口で逡巡するのではないかと思ったが、やる方ない憤懣が梃子となり、スムーズに出かける体勢が整った。
さて行こうか、と妹紅はふわりと浮かび上がったが、妙に竹林が騒がしいのに気付き、訝しげに様子を窺った。
どうやら妖精たちが皆で何か騒いでいるようだ。
「…? あいつらも今夜は祭りなのかな」
ただ、気配がどうにも不穏である。
健全なお祭り騒ぎという感じはしない。
「妙な雰囲気だけど…まあいいか」
普段から面倒事に首を突っ込む性格ではないし、まして今夜は大事な用事がある。
妹紅は竹林を後にして、人里へ行こうと高度を上げ、くるりと旋回した。
すると、斜め前方、東の方角から物凄い速度で閃光が接近してくるのが見えた。
「うわっ!」
その流れ星はあっという間に妹紅の横を轟音と共に通り過ぎ、そのままの速度で竹林に突っ込んだ。
遅れて強烈な突風が吹き荒れ、妹紅の髪を滅茶苦茶に乱し、竹林をごうごうと揺らした。
「あれは…もう! なんで今夜に限って厄介事ばっかり起こるんだ!」
慧音ごめん、もう少し遅れる、と心の中で詫びながら、妹紅は流れ星を追って竹林の中へ飛び込んだ。
竹林内部は進行方向へと何本もの竹がなぎ倒されており、流れ星の後を追うのは簡単だった。
問題はその異常な速度だったが、前方に見える流れ星は、竹にぶち当たってなぎ倒す度に、著しく速度を落としている。
妹紅は顔をしかめて舌打ちした。
「待て! おい待てって、黒白!」
ろくに避けようともせず、竹林を猛スピード突っ切っていこうとする魔理沙。
その後を追う妹紅の前にはおかげでほとんど遮蔽物はない。
全速力で飛ぶ妹紅の身体を、鋭い風切り音を立てながら次々と竹がかすめ、鳳凰の翼が竹の葉をジッ、と一瞬で焦がしていく。
満身創痍で真っ直ぐ飛ぶ事もままならないのか、前方を行く魔理沙は蛇行しながらそれでも一心不乱に飛び続ける。
「危ない!」
ふらついた拍子に、しこたま竹に右肩を打ちつけ、魔理沙は空中でぐらりと姿勢を傾けた。
落下し始める魔法使いの黒白の服をかろうじて引っ掴み、空中で身体を反転させてブレーキをかける。
背中で二、三本の竹にぶつかり、痛みに呻き声を上げながら妹紅はなんとか空中で停止し、魔理沙の胸倉を掴み直して怒鳴った。
「馬鹿野郎!! 自殺する気か!!」
魔理沙は全身打撲と切り傷、擦過傷だらけで、服もずたぼろの酷い有様だった。
これだけ密生した竹林にあれ程の速度で突っ込むなど、とても正気の沙汰とは思えない。
「うぅ…い、急がないと…」
「阿呆! 急がば回れって言葉を知らないのか!」
「し、知らない…ぜ」
「…永遠亭でいいのか?」
魔理沙が黙ったままこくりと頷くのを見るや、再び妹紅は全速力で飛び始める。
「こんな無茶苦茶な事する程急いで、いったい何があったんだ?」
「……」
返答は無く、ぶら下げたままの魔理沙の顔を窺うことも出来ない。
まだ意識を保っているのか、それすら確認の仕様が無かった。
気絶していてはここまで急いで永遠亭を目指していた目的を果たせない可能性があるが、いずれにせよこれほどの大怪我では永遠亭に一刻も早く運び込むしか無い。
ここは速度を緩めずひたすら永遠亭を目指すのが正解だ。
「…クソっ、忌々しい!」
何故今夜に限ってこんな厄介に巻き込まれてしまったのか。
慧音への懺悔と世の不条理への呪詛を呟きつつ、瞬く間に妹紅は永遠亭へと到着した。
着地した勢いそのままに乱暴に扉を開け放つ。
いつもなら友好的にせよそうでないにせよ、兎共の出迎えがあるはずなのだが、外にも玄関の中にも誰の姿も見えない。
「誰か! 誰かいないのか!!」
苛立ちも手伝って、妹紅は廊下に向かって大声で叫んだ。
すると、奥から現れたのは兎ではなく、どこかで見覚えのある九尾の狐であった。
「今永遠亭は取り込み中だ…っと、魔理沙か? どうした、何があった?」
藍が呼びかけると、魔理沙はかろうじて顔を上げ、「永琳に…」とだけ伝え、またがくりとうなだれた。
「只事では無いようだな」
妹紅の手から魔理沙を預かり背中に負うと、藍はすぐさま奥へと帰っていく。
後は委ねてきびすを返して帰ってしまうという選択肢もあったが、何となくそれもはばかられて、妹紅も藍を追った。
途中通りがかった大広間では、大勢の兎達が寝かされており、残りの元気な兎達が慌しく看病をしているようだった。
先程藍が取り込み中と言った通り、この永遠亭でも何かしらの事件が起こったようである。
そもそも、この九尾の狐自体、永遠亭の者ではない。
確か、以前に肝試しと称して博麗の巫女と共に現れた、二体の強力な妖怪の片割れだったはずだ。
一体何が起こっているのかさっぱり理解が出来ないが、それを聞いて差し支えないものかどうか判断し兼ね、結局妹紅は黙って藍の後をついて歩いた。
藍が廊下の突き当たりの部屋の襖を開き中へ入るのに続いて、妹紅も部屋の中へと足を踏み入れた。
そこには、輝夜、永琳、鈴仙、てゐのいつもの永遠亭の面子と共に、肝試し妖怪のもう片方である金髪の人型の妖怪が座っていた。
何か深刻な話題について話し合っていたのか、面々の表情に暗い影が窺えた。
輝夜の姿を見て妹紅は反射的に身構えたが、輝夜はちらりと一瞥をよこしただけで、すぐにその視線は藍の背中の魔理沙へと向けられた。
「魔理沙、酷い怪我じゃないの。どうしたの?」
「何か永琳殿に火急の用がある様なのです。…おい、魔理沙、話せるか?」
藍が魔理沙の身体をそっと横たえて話しかけると、魔理沙はうっすらと目を開いた。
「う… 永琳は…」
永琳が魔理沙の顔の側までいざり寄り、身をかがめた。
「ここにいるわ。どうしたの?」
「…霊夢が、人質に」
「人質?」
「…博麗、神社に、変な奴が、現れたんだ…月から、来た奴らしい」
ざわり、と空気が動いた。
魔理沙の頭上で、視線が錯綜し合うのが見て取れた。
勿論、妹紅には何が何だかこれだけでは訳がわからない。
「…強過ぎて、歯が立たなかった。霊夢が、捕まって、私は、永琳を呼んで来い、って…」
「私を呼んで来いと言ったのね?」
「ああ。…来ないと、霊夢を…殺す、って」
周囲の空気が急激に冷え込み、凍りついた。
「…頭の、飛んでる奴、だったから…早く、行ってやらないと、霊夢、が」
「わかった。すぐ行くわ。後は任せて、貴女は自分の心配をなさい」
「神社への隙間を開きますわ」
紫はそう言って立ち上がった。
能面のような無表情だったが、歯の根が合わない程の恐怖を感じさせる、絶対零度の仮面であった。
「イナバ、貴女達は残って魔理沙の治療をしてあげて」
輝夜も立ち上がり、鈴仙とてゐに指示を出すと、紫に向かって静かに頷いた。
「わかりました」
鈴仙は返事をし、すぐさま席を立って治療の準備を始めた。
「姫様!相手の要求は私の身柄だけです。わざわざ姫様の身を危険に晒すわけには参りません」
「だからこそ、貴女を守る為に行くのよ」
抗議の声を上げる永琳に対し、話はこれで終わりとばかりにぴしゃりと言い放つ輝夜。
「わたしも行くよ。霊夢は人間だからね。わたしの能力がきっと役に立つさ」
意外にもてゐも真面目くさった顔をして、参加の鬨を上げた。
「時間がありません。行きますわよ」
感情を滲ませない声で皆に告げ、紫が隙間を開くと、有無を言わさず輝夜とてゐがそれに飛び込んだ。
藍がそれに続くと、永琳も鈴仙に「魔理沙を頼むわね」と告げ、紫に軽く目礼して隙間の向こうへ姿を消した。
最後に紫が隙間をくぐろうとすると、「待ってくれ」と妹紅が歩み出た。
「私は今酷くムシャクシャしてるんだ。何が起こってるのか私だけわかってないみたいだし。その月から来たとか言う糞野郎をぶっ飛ばしてやらないと気が済まないんだよね」
「…好きになさい」
妹紅、紫が向こう側へと移動し、隙間は消えた。
残された鈴仙は、消えた隙間の方へ向かって深々とお辞儀をした。
「いってらっしゃい。皆さん、どうか、ご無事で」
そして、すぐさま魔理沙の治療に取り掛かった。
こちらもまた、決して楽観視出来るような容態ではなかった。
「どうか、どうか、全員、無事で」
<15>
輝夜、てゐ、藍、永琳、妹紅、紫の順に一行は博麗神社に降り立ち、まずは生きている博麗の巫女の姿を見て安堵した。
一行が鳥居の辺りに現れたのに対し、境内のちょうど真ん中辺りに、霊夢は後ろ手に縛られて座らされていた。
大きな怪我をしている様子も無く、表情は――強いて言えば、不機嫌そうだった。
その霊夢らしさが、一行に安堵を与えたのである。
現れた一行を取り囲むように、四羽の月兎が素早く展開した。
それぞれの手には面妖な、武器と思しき物体があり、それらは一行にぴたりと狙いを定めていた。
月兎達の目は狂気に駆られ、赤く発光していた。
構えている武器の正体こそ不明であったが、本体は普通の月兎であり、一行がその気になれば、武器を使用させる暇も無く討ち果たす事は容易であると言える。
しかし、それは叶わなかった。
霊夢の首筋には、刃が当てられていた。
刃渡りが二尺四、五寸程度の、諸刃の直剣である。
剣の持ち主は、長い黒髪を持つ、少女であった。
どこかしら、輝夜に似た雰囲気を持っている。
ただ、輝夜と大きく違うのは、その長い黒髪には全く艶が無く、ばさばさと無造作に伸びている事。
そして、狂気を湛えた、赤い瞳。
その瞳は、月兎の目よりも赤く、血よりも赤く、そしてどんな赤よりも赤かった。
一行は、一瞬にして、この人物が尋常ではない狂気を孕んだ怪物であることを悟った。
下手に刺激するのは相当に拙い。
そして、一行の中で、永琳だけは、彼女と、彼女の孕む狂気を、知っていた。
「お久しぶり、永琳」
狂気の少女は、凄絶に微笑んだ。
微笑む、と形容するのを躊躇させる、恐怖と嫌悪を催さざるを得ない、この世の物とは思えぬ笑みであった。
永琳は、呟いた。
「――――――嫦娥」
読者のなかにはあまりリテラシーが高くない者もいて、
自分の好みに合わないといってピーピー喚く手合いも混じっているのですよ。
失笑するしかないメンタリティの持ち主だと思いますが……
そもそもこんな注釈、トップページにあれば済むもので、自分も野暮だなあと思いますが、
作者さんの自衛策として妥協しています。
作者さんが気の毒ですよね。物語がぶちこわしになるのに。
そして、急転直下の展開、下に期待です!