※(上)(中)(下)三部作の(上)です。
※作品中には俺設定及びキャラクターの死亡描写がありますのでご了承ください。
完全な暗闇。
一片の隙間も無く完全に閉ざされた空間を、ただただ暗闇が満たしている。
暑いのだろうか、寒いのだろうか、よくわからぬちりちりとした痛みを肌に感じる。
濃密に粘る暗闇の中、赤い幽かな光が二つ、鈍く明滅している。
それは、瞳であった。
赤い赤い、赤いその瞳が、こちらを、見ている。
くすくすくす。
哂っているのか。
暗闇の中で反響しているのか、頭の中で反響しているのか、ぐわんぐわんと哂い声はおぞましく幾重にも重なり合う。
反響する度に消える事無く重なり続ける声は、今やけたたましい叫びとなって耳をつんざく。
ああ厭だ、これは知っている、これは狂気――
逃れられない、純然たる狂気。
こちらを見る、赤い瞳。
最早、目を開けているのか閉じているのかわからない、ただただ赤い瞳が、全てを飲み込んでしまう。
「――つかまえた」
<1>
陽が昇り、朝がやって来たが、その訪れを拒むように鬱蒼とした竹林は未だ暗いままである。
広大な敷地を持つ永遠亭といえど、周囲を背の高い竹林に覆われて、直接日光を浴びるにはもう少し陽が高くなるのを待たねばならない。
したがって、永遠亭に朝を告げるのはひんやりと漂う粒子の細かい霧と、小鳥のさえずりであった。
兎達がめいめい目を覚まして活動を始め、段々竹林の隠れ家が活気付いてくると、それに呼応するように霧が晴れてゆく。
そして竹林を抜けてさぁ、と清々しい風が渡ってきて、いつものように永遠亭の一日は爽やかなスタートを迎えた。
自室で目を覚ました鈴仙は、障子を開け放って寝具の上に再び座し、朝の風をぼんやりと堪能していた。
廊下を挟んで中庭に面した鈴仙の部屋は風がよく通る。
どうも、あまり良くない夢を見ていたようだ。
夢の内容は思い出せないが、舌に残ったえぐみのような漠然とした不快感がある。
多少寝汗をかいていたようで、首元で感じる風の爽快な心地良さがやがてその不快感を拭い去っていった。
習慣的に早起きな鈴仙には珍しく、少し遅寝をしたようである。
誰かが廊下をぱたぱたと早足で歩いている音が聞こえる。
一羽の兎が鈴仙の部屋の前を通り過ぎようとして、鈴仙に気づいて顔をぴょこんと室内に向けた。
「れーせん様。おはようございます」
「…あ、あぁ、おはよう。いい天気になりそうね」
ニコニコと挨拶する兎につられて、鈴仙もニッコリと挨拶を返す。
ぱたぱたと足音が遠ざかっていく頃には、不快を感じていたこと自体すっかり忘れてしまっていた。
手早く寝具を片付け、身支度を整えて鈴仙は自室を後にした。
厨房に行くと、永琳が何羽かの兎とともに朝食の準備をしていた。
永琳はこのようにたまに自ら食事を作ることがある。
姫と二人でいた頃は毎日していた事よ、と永琳は言うが、鈴仙は性格か教育の賜物か、どうしても恐れ多く感じてしまう。
永琳が楽しんでやっていることとはわかっているのだが。
今朝の月の頭脳はおさげを後頭部でくるりとまとめて、頭巾に割烹着という出で立ちである。
わざわざ必要以上に形にこだわる師匠の茶目っ気を、鈴仙は好ましく思っている。
何でもない日常にさりげなく軽い刺激を持ち込んだり、些細な変化を見出して楽しんだりすることに永琳も、そして輝夜も長けている。
それが長生きの秘訣よ、と冗談めかして言う永琳と、それを聞いてころころと笑う輝夜のいつぞやの場面を思い出す。
「おはようございます、お師匠様。何か手伝いますか?」
「あらウドンゲ、おはよう。手は足りているからいいわ。それよりもうすぐ準備できるから、私達のお姫様を呼んできてもらえるかしら?」
「わかりました」
いかにも張り切ってます、といった様子の永琳は鈴仙に微笑みかける間も手を休めることが無かった。
自分のそういった様も含めて楽しんでいるのだろう。
鈴仙は軽く一礼して厨房を後にした。
輝夜の居室は永遠亭の一番奥にある。
配膳の準備をしているのだろう、俄かに活気付き、慌しく兎達が出入りしている大広間をぐるりと迂回して進む。
行き違う兎達と挨拶を交わしながら、やがて永遠亭の主の居住エリアに至った。
本来ならば近寄ることすら許されない禁裏であるはずだが、当のお姫様が全く意に介さないので暢気な兎達はしょっちゅう出入りしている。
しかしそれでも長い長い廊下は傷一つなく磨き抜かれ、威厳を守るかのように重厚に黒光りしている。
その上を鈴仙はとてとてと進みながら、あの永い永い夜の事を思い出していた。
ここに来たのは、そう言えばあの夜以来である。
あれから色んな事が変わったし、変わらなかった事も沢山あった。
思いを巡らせながら、いつの間にか辿り着いていた突き当りの見事な梅鶯が描かれた襖を鈴仙はす、と開いた。
「失礼いたします」
紫雲かかる望月の衝立の向こう側から、輝夜ではない者の声が「どうぞー」と応えた。
どういうことかと訝りながら鈴仙が奥へと歩を進めると、輝夜が鏡台の前で一羽の兎に髪を梳かせているところであった。
一瞬鈴仙はそれがてゐかと思ったが、もっと幼い妖怪兎のようだ。
「貴方がお返事するのは少しおかしくなくて?」
と輝夜が笑いながらたしなめる。
玉を転がすような笑い声とはまさしくこういうのを言うのだろうと、鈴仙はいつも思う。
子兎はお姫様の髪を梳かせてもらえるのが嬉しくてたまらないのだろう、得意満面といった体でちらちらと鈴仙の方を見る。
実際鈴仙も輝夜の艶々とした美しい髪に触れてみたいとは思うものの、未だその機会は今日までなく、正直悔しい。
――面差しもそうだけど、小憎らしいところまでてゐにそっくりだわ。
この子兎が歳を経て、いつまでも幼い容姿の因幡の素兎を追い抜く頃には、さぞかし妖艶な美人となっている事だろう。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、イナバ。どうしたの?」
「間もなく朝食の準備が整いますのでお呼びに上がりました。本日はお師匠様が腕を振るっておられますので」
「あら、永琳が?それは楽しみね」
鏡の中の輝夜が子供のように瞳を輝かせて微笑んだ。
輝夜ほど無邪気という言葉が似合う人物もいないだろう。
天真爛漫で、人の言うことをすぐに真に受け、少し我儘で飽きっぽく退屈に弱い。感情が真っ直ぐ顔と態度に出る。
月の都の姫というまさしく雲の上の身分ながら、全く取り澄ましたり気取ったところがない。
それでいて全ての言動、物腰には気品が失われることがないのだから生粋のお姫様というのは凄い。
しかも様々な事件や逃亡生活などの波乱万丈の気が遠くなる程の永い時を経て、何故ここまで自然体でいられるのだろうか。
その笑顔の価値を思うとあまりに眩すぎて、鏡越しでよかったと鈴仙は真剣に思った。
「ありがとう、イナバ。もういいわ」
輝夜は髪を梳かせていた子兎の頭を優しく撫でてやった。
退出するときまで子兎は鈴仙の方をチラチラと得意げに見やるのを忘れなかった。
おのれ、てゐ2号め。
「さあイナバ、いきましょう。永琳の作る朝ごはんって聞いたら途端にお腹がぺこぺこだわ」
「はい、姫様」
輝夜は鈴仙の事も地上の兎達の事も区別なくイナバと呼ぶ。
月から逃れてきて永遠亭に匿われた鈴仙は言わば余所者であり、さらに言えば月の都のスパイと疑われても仕方のない立場であった。
生来の引っ込み思案な性質に加え心に傷を負って逃げてきた鈴仙は、必要以上に疑心暗鬼になっていた。
自分の居場所がないように思え、常におどおどしていた。
そんな自分を、他の兎といっしょくたにしてイナバ、と呼ぶ輝夜に、たったそれだけの事でどれ程心救われたか。
輝夜にとっては、下々の者たるイナバはイナバでしかなく、月の兎か地上の兎かなんてことは本当に些細な問題なのだろう。
そんなプリンセス思考を前にして、自分の悩みなど確かに些細な事なのかもしれない、と少しずつでも思えるようになったのだ。
「ねえ、イナバ」
そんな事を考えながら並んで廊下を大広間へ向かっていると、ふと輝夜が呼びかけた。
「なんでしょう」
「今日も、素敵な一日になりそうね」
その、あまりに眩い笑顔を直接向けられて、鈴仙は思わずぐ、と喉がつまり、かろうじて「…ええ」と応えた。
――自分のような根暗には、姫様の存在は眩し過ぎる。
――私なんかでも、愛されてるのかもしれないなんて、夢を見てしまうじゃないですか。
自分が地上の兎達のように無邪気であったら、その笑顔だけで心満たされるはずなのに。
最近では、「イナバ」と呼ばれる度に少し物寂しさを感じてしまう自分に気付いている。
仲間外れを怖がっていたくせに、居場所を得たような気持ちになって少し落ち着いたら、今度は自分が誰かにとって特別な存在であることを望むのか。
自分のあまりのずうずうしさにほとほと愛想を尽かしてしまう。
――こんなだから、私は。
朝からネガティブ思考にふけり、なおかつそれを自覚して所詮私はネガティブですよ、とデフレスパイラルに陥る鈴仙の内心の泥濘を知ってか知らずか、輝夜は始終にこにこと鈴仙の横で微笑んでいた。
朝食は、素晴らしく豪華であった。
必要以上に、豪華であった。
お膳から溢れんばかりの山海の珍味が、所狭しとひしめき合っている。
栗ご飯。香ばしいおこげが食欲を誘う。
松茸のお吸い物。三つ葉と柚子の皮で彩りも鮮やか。
鰈の野菜餡かけ。身の詰まった鰈にとろりとたっぷりの餡には、人参の細切りを始めとりどりの野菜。
若鶏の唐揚げ。からりと揚がった衣は見るからにさくさく、添えられた檸檬の爽やかな香りに唾が湧く。
焼き豚。永琳自慢の甘辛たれを絡め、山と盛られたレタスに包んで優雅に食す。
筑前煮。しっかりとだしの染み込んだ定番の一品。
大根と人参のなます。程よい酸味としゃきしゃきとした食感が朝食にぴったり。
冷奴。つやつやの白肌の上に添える薬味には、茗荷をメインにセレクト。
蕪と茄子と胡瓜と人参の漬物。まだ浅めの漬かり具合が素材本来の口当たりを引き立てる。
そして、桃や葡萄等瑞々しい果物が器からわんとはみ出さんばかりに盛り付けられている。
どこぞの巫女がこれを見たら、羨むあまり卒倒しそうな光景である。
「……」
とてつもなく美味しそうだ。
美味しそうだが、多すぎる。
いかんせん多すぎる。
朝から食べる量ではない。
見ただけで満腹になりそう、と鈴仙はげんなりとして横を見やった。
右隣の永琳は腕によりをかけて作ったのよ、と言いながらさらにその隣の輝夜のお膳の唐揚げに檸檬を絞ってやったりしている。
輝夜はわぁ、すっごく美味しそう!さすが永琳ね!と手を叩いて大喜び。
あら輝夜ったら。そんなに喜んでくれると私も嬉しいわ。いっぱい食べてね。おかわりもあるわよ。
本当?絶対おかわりするわ!
あらあらまあまあ。うふふ。
げっそりとして溜め息をつきながらキャッキャウフフの向こう側のてゐを窺うと、平然とした顔でちょこんと座っている。
もう慣れたということだろうか。流石。
永遠亭では朝食は大広間で皆で摂るのが決まりとなっている。
上座側の正面にはてゐ、輝夜、永琳、鈴仙が並んで座る。
そこからコの字型になるように、リーダー格の兎から順番に両壁側に向かい合って座っていく。
したがって相当縦長のコの字型になるので、鈴仙の席からは一番末席のほうは遥か遠くに霞んでよく見えない。
あちこちで話す声や、子兎達のはしゃぐ声、それを叱る声が飛び交い、大広間は騒然としている。
左斜め前の組頭の兎のお膳を見ると、一品ほどは普段より多いものの、通常の朝食とさほど変わらない様子。
私もあれで良かったのにな、と鈴仙は思う。
月の兎であり新参者の自分が上座に座り、明らかに豪勢な朝食を頂いていいものか、とまたつらつらと考えてしまう。
「はい、ちゅうもーく」
皆の用意が整ったと見るや、やおらてゐが立ち上がって号令をかける。
大広間の遥か向こうまで凛、と声が通っていく。
一瞬にしてしんと静まる大広間。
さすがの統率力だわ、と鈴仙は毎度の事ながら素直に感心する。
時が止まったような大広間の中、ほかほかと湯気だけがそこかしこから立ち上っている様は不思議な光景である。
「それじゃ、本日の姫様のお言葉です」
毎朝、朝食時には輝夜からお言葉を頂戴するのも決まりである。
輝夜は皆を見回して、にこりと微笑んだ。
「今日も一日、皆元気に過ごしましょう」
小学校の朝の挨拶のような文句である。
それほど大きな声というわけではないが、涼やかな声が風が渡っていくように向こうのほうまで届いていくのがわかる。
皆が姫様の言葉を聞き逃すまい、と耳の先まで神経を張り巡らせているのだろう。
兎達は皆、姫様のことが大好きなのである。
「姫様、ありがとうございました。それじゃあお待ちかね、今日の糧に感謝して…いただきます!」
『いただきまぁす!』
大合唱の後、大広間には喧騒が戻ってくる。
皆朝から旺盛に食事をかき込んでいる。
鈴仙は目の前のお膳の中の幻想郷を箸でつつき回していたが、意を決して口に運べばさすがに美味しく、食が進んだ。
普段はわずかな狂いも許されない薬品の調合を、永年の経験から目分量で違える事の無い永琳である。
調理の匙加減とて、絶妙のバランスを創り出す事など造作も無いのだろう。
それも恐らく、遥かな時をかけて蓄積され続けた、究極に輝夜好みな匙加減。
見れば、美味しいわ、ほっぺたが落ちそう、などと言いながら輝夜のお膳は見る間に綺麗に片付いていく。
蓬莱人の胃袋とはどうなっているのだろうか。
その向こうのてゐはというと、なんと既に完食していた。
恐るべし、健康マニア。腹八分目でなくともいいのだろうか。むしろ、これが八分目だとでも言うのか。
隣の永琳は、自分のお膳にはほとんど手をつけず、次々と料理を平らげる輝夜を微笑みながら見つめている。
我が子を見つめるように穏やかな、あるいは想い人を見つめるように暖かく、それでいて、気高く咲き誇る高嶺の花を見つめるような、どこか 畏れを滲ませた眼差し。
言うなれば愛、しかしそんな陳腐な言葉ではとても抱えきれない想い。
輝夜と永琳の間には、言葉に出さずとも伝わる、濃密な気配がある。
遥かな遥かな時の中で培われた、揺ぎ無い絆は、とても言い表す事などできない物なのだろう。
今も鈴仙はそれを感じて、心の中に暖かい何かが広がるのを感じている。
しかし、その暖かい何かが、しくしくと鈴仙を苛み、微かな痛みをももたらしている。
――疎外感?
永遠を共に生きる二人の間に、入り込む隙間などあろうはずも無い。
輝夜も永琳も、主人として、師匠として、自分に愛情を注いでくれてすらいるのに。
わかっている。
わかっているからなお、鈴仙は自分の浅ましい心が憎くて、恥ずかしくて辛かった。
――なんて私は、卑しい程に、寂しがりやなんだろう。
こんな大勢でにぎやかに朝食を摂りながら、やっぱり自分だけ浮いていて独りのような気がしている。
それが本当には心を開けない自分を棚に上げて、自分は可哀想、可哀想と思い込む自己防衛に思えて、鈴仙は自分自身を嫌悪した。
「れーせん?」
はっと顔を上げると、目の前にてゐの顔があった。
またもネガティブ思考に耽溺している間に移動して来たのだろう、全く気付かなかった。
「その唐揚げと焼き豚と鰈と筑前煮と桃、いらないならちょーだい」
そう言いながらひょいひょいとてゐは鈴仙のお膳から自分の皿に料理を移していく。
「私、いいよなんて一言も言ってないけど?」
「じゃあ、いるの?」
「ううん、もういらないけど。お腹いっぱいだし」
ほれ見ろ、と勝ち誇りながらてゐはにかーっと笑った。
その顔を見ていると、自分が悩んでいるのが馬鹿らしくて、ふう、と息をついてから鈴仙も笑った。
――もしかしたら、私の心なんか全部お見通しの上でからかってくれているのかも。
今まで、何度かそう感じる場面があった。
見た目は幼いが、自分よりずっと齢を重ねた海千山千の妖怪である。
鈴仙の考えている事など全て看破されていても不思議は無い。
もしそうだとしたら、なんて優しいのだろうか。
いつも通りにからかっている体で、鈴仙に親切にされているという負い目を感じさせる事無く元気付けてくれている事になる。
――人を幸せにする程度の能力って、こういう事なのかしら。
目の前の童女姿の妖怪兎が、実は細やかな気配りのできる大人の女性なんて。
ふこふこの柔らかそうな耳を垂れた、華奢な体付きのおちびさん。
いたずら好きで、好奇心旺盛で、活発で、小生意気ながきんちょ。
「…ありえないわ」
何が?と訝るてゐの様子がまた小憎らしいくらいに愛らしくて、鈴仙は自分の考えを一笑に付した。
やっぱりてゐはてゐでしかない。
横では、輝夜が何度目になるかわからないおかわりを所望し、永琳はそれが嬉しくて仕方が無い様子で甲斐甲斐しく給仕をしている。
どうやったらあんなに大量の食物が輝夜の体内に収まるというのか。
蓬莱人の肉体の神秘に鈴仙は思いを馳せる。
たとえ胃が破裂したとしても、蓬莱人だから平気だろう。
うーん、と鈴仙は伸びをした。
今日も、平和な一日になりそうだ。
意識の片隅で、何かを忘れている、と囁く声がしたが、鈴仙は特に注意を傾けるでもなく、それは大広間の喧騒の中へ泡となって溶け出していった。
<2>
「おかえりなさい」
幻想郷の外れの我が家の前に降り立ち、戸を開けると奥の居間から紫の出迎える声がした。
藍はそれほど遅くなっただろうか、と玄関の戸越しに空を見上げたが、陽は依然天頂に差し掛かる前であった。
今日は素晴らしい晴天、青い空が広く広く、ところどころに真っ白な雲をぷかりと浮かべている。
「お目覚めでしたか」
藍が居間へ入っていくと、紫は長椅子にもたれかかるようにして座っていた。
紫がどこかから、恐らく外の世界からだろう、持ち込んだふかふかとした素材で出来た長椅子である。
横になって寝ることも出来るのよ、と紫が自慢気であったが、橙が真似しそうだったので長椅子での睡眠は禁止した。
紫は鬼、悪魔、キタキツネ、等とわめいたり、よよよと袖を噛んで泣き崩れたりして見せたが、藍は断固として譲らなかった。
橙が風邪などひいたらどうするのか。
禁止されている為長椅子で寝てはいないようだったが、ぐにゃりとした紫はまだかなり眠そうである。
「私が起きていたら悪いような口ぶりね」
「紫様がこんな時間にお目覚めですと大雨になります。ご存知の通り、私は少々水に弱いので」
「こんなにお陽様が照っているのに雨が降るというの?貴女がお嫁に行ってしまうなんて、私寂しくて泣いてしまうかも」
「紫様を放ってお嫁に行くなど出来るわけがないでしょう。すぐ何か作りますから、しばしお待ちください」
軽口の応酬をしながら、藍は台所へと向かった。
食卓にかけてあったエプロンを通り過ぎる際にひょいと手に取り、素早く身につける様はまさしく主婦の鑑。
「あら、よくできた子。やはりお嫁にやるには惜しいわね」
しばらく後、食卓に向かう紫と藍。
紫にとっては朝食、藍にとっては少し早い昼食である。
献立は純和風、白いご飯にお味噌汁、めざしとお新香。
「あの子の好きなめざしじゃないの。お昼は帰って来ないの?」
流石にしゃんとして、優雅に箸を運びながら紫が問う。
「今日は弁当を持たせました。橙も遊び盛りですからね、友達と過ごす時間も大事でしょう」
「――藍、貴女も成長したのね」
主従の目には微かに涙が光っていたとか、いなかったとか。
食後の茶を啜りながら、藍は紫に午前中の結界の見回りについて報告をした。
微かな綻びが数箇所あったが、重大な問題は無く、補修は完了した、といった程度のもの。
「…というわけで、概ね恙無く」
「そう、ご苦労様でした。それにしてももう貴女もすっかり一人前ね。全部貴女に任せてそろそろ隠居でもしようかしら」
紫は音を立てて茶を啜り、わざとらしく咳などして見せた。
今の生活も隠居同然じゃないですか、という言葉をかろうじて飲み込む藍。
「お戯れを。結界に関する技術的な事はともかく、八雲紫のネームバリューあってこその幻想郷の平和でしょう。八雲の名を戴く光栄に預かりながら、まだまだ私などでは紫様の足元にも及びません」
「いやあねえ。人を化物みたいに言わないで頂戴」
紫は顔を顰め、再び湯呑を傾けた。
「寸分違わず化物でしょうに。群を抜いて強力な妖怪共が跋扈する幻想郷を、本当の意味で管理できるのは紫様くらいのものです。私が紫様に成り代わるなんて恐ろしくてとても出来ませんよ」
「私は管理なんてしているつもりは無いのだけれど。それに私だって恐れる相手位います。怖いもの無しの傍若無人な暴君扱いなんて酷いわ」
「え、紫様に恐れる相手がいるのですか?」
藍は心底驚いた、との様子で目を見開いた。
「貴女、私を何だと思っているのかしら」
湯呑を差し出し、茶のおかわりを所望しながら溜め息混じりに紫は言う。
「しかし、妖怪単体としてもこの幻想郷で紫様に匹敵するほどの力を持つ妖怪はほとんど存在しません。なおかつ、紫様の境界を操る能力をもってすれば、脅威となる相手など考えられません」
藍の注いだ茶が紫の湯呑から湯気を立てる。
それを眺めながら紫は「貴女もまだまだねえ」とつぶやいた。
「畏れながら――紫様が恐れる相手とは誰なのですか?」
湯呑を差し出しながら藍は尋ねた。
「そうね…藍には教えてもいいかしら。私、八雲紫が恐れる相手はね、」
そこで間を置いて、紫は茶を啜った。
「うん、やっぱりこのお茶は2杯目の方が渋味が出て美味しいわ」
「紫様、そういう気の持たせ方、いらないです」
「あら、大人のウィットがわからない子ね。まあいいわ、…私の恐れる相手の第一は、上白沢慧音よ」
ぽかーん、と頭の上に擬音が出そうな様子の藍。
なぜ、ここでかの人里の守護者の名前が出るのか。
確かに、幻想郷の妖怪全体の平均レベルから見れば強力な部類には入るだろう。
しかし、慧音より強い力を持つ妖怪等は数多存在する。
風見幽香や、八坂と洩矢の二柱の神、スカーレット姉妹、あるいは四季映姫・ヤマザナドゥといった名前を想像していた藍にとっては、全くの予想外であった。
紫の友人であることを考慮しなければ、西行寺幽々子や息吹萃香といった面々もいる。
また、性質的にも、慧音が幻想郷に害を及ぼすようには見受けられない。
むしろ、幻想郷における妖怪と人間の微妙なバランスを担う要の一人として、紫もある種の信頼を置いていると思っていたのだが。
「四季映姫様はいい線行ってたと思ったんですが」
「確かに閻魔様は怖いわね。まあ、冗談はさておき、慧音の能力の強力さは当然貴女にもわかるでしょう?」
当然、藍も慧音の能力の出鱈目さは理解できる。
歴史を食べ、歴史を作り出す能力。
物事の因果関係に干渉し、捻じ曲げてしまう能力。
その能力は、紫の境界を操る能力と同等か、それ以上の、まさしく神をも超える力である。
世界を無かったことにすることすら容易い。
「しかしながら、慧音自身の力ではいくら強力な能力と言えど限界があります」
要は、そこである。
当然、能力を行使する者自身に相応に力が無ければ、能力には自ずと限界がある。
因果関係を思いのままに操る事が出来る能力であっても、それをフルに使いこなすにはそれこそ無限大の力が必要となる。
慧音の力では、いくら能力自体が強力でも、いつぞやの永い永い夜のように、里を隠す位の事しか出来まい。
しかも、それすら紫には見破られていたというのに。
「そう。今のあの子は恐るるに足りないわ。でも、あの子には半分人間の血が流れている。人間を力の無いものと蔑む愚昧は貴女も犯さないでしょう?」
そう言われて、藍ははたと考える。
昔、最強の妖獣として恐れられていた頃は、人間など取るに足らない虫けら同然と思っていた。
しかし、眷族も結局はその人間に敗れ去り、封じられた。
紆余曲折を経て紫の式となり、この幻想郷で共に人間の営みを見つめてきた今ならわかる。
妖怪と比べてあまりに短いその生を、だからこそ精一杯輝かそうと人間は生きる。
短い生だから、時に意地汚くその生に縋り付こうとも、それを決して笑うことはできない。
そしてそんな生を、時には他者のために投げ打つ事さえある。
基本的に利己主義の妖怪にとっては考えられない事だが、人間にとってはその生命より大事なものも、時としてある。
それを守る為に生命を燃やす一瞬の輝きは、儚いが、強い。
「――なるほど。しかし、慧音の性格では、例え何かいざという時があったとしても我々に徒成すとは思えませんが」
「そうね。あの子はとても真っ直ぐな子。例えその能力を生かし切る力があったとしても、それを己の為に振るったりはしないでしょう。
ただ、あんまり一途で頑固なものだから、変な風に何か思い込んだりしたら明後日の方向に空回って、大変なことをしでかしちゃったりしそうじゃない」
「確かに、そういう一面はあるかも知れませんね。彼女が一度思い定めたことを説き伏せて覆すのは、かなり骨が折れると言うか、無理のような気がします」
藍は例の永い永い夜、勘違いから自分達の前に立ちはだかった慧音の燃える瞳を思い出していた。
里を、人間達を守ろうと精一杯肩をいからせていた慧音の、悲壮とすら言える断固たる意志に、藍は感嘆と共に、健気との印象を持った。
それこそもっと肩の力を抜いて生きる事も出来るはずであるし、幻想郷においてはそれが自然なのだが。
そう考えると、慧音という存在は、誰もが好き勝手に暮らしているこの幻想郷の中では異質と言ってもいいのかも知れない。
「それにね、そういう事を抜きにしても、やっぱりあの子はとっても強い。妖怪が精神的、観念的な存在である限りにおいて、強固な意志とは生命力そのものに他ならない。だからこそ、上白沢慧音は、強い。何があろうと揺るがない信念は、何人たりとも決して屈服させることは出来ない。私のような何だかよくわからないスキマ妖怪では歯が立たないのよ」
そんなものだろうか、と藍は思う。
慧音の持つ強さというものは藍にも理解できるが、それをもってして脅威と呼ぶまでに値するかどうか。
それに幻想郷に対する紫の想い、愛とはまさしくその揺るがない信念とやらに他ならないような気がする。
紫がどれ程心を砕き、この幻想郷を、そこに暮らす者達を慈しんでいるかを、最もよく知る藍である。
本当に幻想郷に危機が訪れたとき、この主人は自らの生命を投げ出す事さえ厭わないのではないか。
「結局紫様が慧音を恐れるというのは、ご自分によく似ているから、という事ですね。しかもひねくれ者の自分と違い、自分の守りたいものを愛している、と真っ直ぐ示せるのがうらやましい、と」
「……」
扇子で口元を隠し、ふいと紫はそっぽを向いた。
「賢し過ぎる式は嫌いだわ」
「お褒めに預かり光栄です」
藍はすっかりぬるくなった茶を啜りながら、紫や橙に危機が迫ったとしたら、と考える。
当然、自分も二人を守る為ならばその生命など惜しくは無いだろう。
何か、とても誇らしい気持ちになって、藍はゆっくりと茶を飲み干した。
<3>
人里の中心部の櫓から、正午を知らせる半鐘の音が響いてくる。
「――それまで。解答用紙を裏向きに伏せて、後ろから前へ回すように」
途端、子供達が皆一斉にはぁ、と嘆息を漏らしたので、慧音は思わずくすりと笑ってしまった。
試験の緊張感から解放されて、寺子屋は急にがやがやと喧騒に包まれた。
「こら、騒ぐのは後だ。早く答案を提出しなさい」
苦笑しながら慧音は答案を回収し、机の上でとんとんと揃えた。
嫌な試験が終わった上、今日は試験の為午前中だけの半日授業である。
午後目一杯遊べるわくわく感と、昼時の空腹も手伝って、子供達が居ても立ってもいられないとそわそわするのも無理も無い。
「それじゃあ今日はここまでにするとしよう。皆、また明日な」
「先生さよならーっ」バタバタと仲良し3人組の女子が真っ先に教室を飛び出して行く。
「こら、廊下を走るなー!気をつけて帰るんだぞーっ!」
「けーね先生、さようならー」「さようなら、気をつけてな」
「さよなら」「さよーならー」「けーね先生、またねー」
「じゃーな、けーね!」「待て、何だその口の利き方は!」
「ははっ、先生が怒った!逃げろーっ!」「こらーっ!…まったく」
堰を切ったように教室を後にしていく子供が大半だが、中には教室に残っておしゃべりに興じている者もいる。
子供達の底無しのエネルギーに触れる度に、慧音はこの仕事をやっていて良かったな、と思えるのである。
子供相手に疲れる事も多いが、それ以上に分けてもらえる元気の方が多い。
「ほら、あまり残っていると昼御飯を準備して待っている母君が心配するぞ」
おしゃべり組をそろそろ帰そうと慧音が声をかけた時である。
「せんせーっ!」と大声ではしゃぎながら、真っ先に出て行ったはずの3人組の女子が再びバタバタと戻ってきた。
「どうしたんだ?お前達。わざわざ叱られに帰って来たんだったらなかなか殊勝じゃないか」
3人娘は慧音の言葉にも全く頓着する様子が無く、くすくす、きゃいきゃいとじゃれ合い、ニヤニヤと笑っている。
「けーねせんせ。彼氏さんがお迎えに来てるよ」「せんせー、やるーう」
「…彼氏?」
訝しげに慧音が眉をひそめていると、教室の後部の入り口から妹紅が「よっ」と軽く手を上げて現れた。
たまに妹紅もこうして寺子屋に顔を出すので、最近ではもこたんもこたんと子供達になつかれている。
「…お前達、あれのどこが彼氏だと言うんだ」
「そうだよ。どう見たって私は女でしょうが」
「妹紅、突っ込むところはそこだけでいいのか」
「じゃあ彼女だ、彼女」「もこたんが彼女なら、けーね先生が彼氏だね」「けーね先生、彼氏ー」
彼氏、彼氏と囃し立てる子供達をたしなめつつ、慧音は妹紅に肩をすくめて見せた。
「で、何の用だ」
「何の用とはお言葉じゃない。午前中で終わるって聞いてたからわざわざ迎えに来てやったんでしょ?」
「わー、もこたんと先生、ラブラブー」「ひゅーひゅー」
「お前達、いい加減にしないと怒るぞ」
慧音が両手の人差し指を頭にくっつけ、角に見立てて追いかけ回すと、子供達はきゃあきゃあと蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。
妹紅はその様を机に腰掛け、はっはっは、と笑いながら見ていた。
「まったく、しようのない奴らだ」
慧音が苦笑しながら戻って来るのを、「お疲れさん」と妹紅はねぎらった。
「先生、慕われてるねえ」
「ロクな慕われ方じゃないがな」
「はは、でもやっぱり子供の相手をしてる時の慧音って生き生きしてるよ。慧音のそういうとこ見るの好きだからさ、こうしてたまに寺子屋に顔を出したくなるんだよね」
妹紅の言葉に気恥ずかしくなって、慧音は鼻の頭を人差し指でかいた。
「そう言う妹紅も相当子供に懐かれてるじゃないか。どうだ、一緒に寺子屋をやってみないか?」
「いやあ、私には無理だよ。ガキの相手をするだけならいいけどさ、責任持てないし」
妹紅は弾みをつけて机から降りた。
「さ、帰ろうよ。お腹すいただろ?」
「結局そう言って昼飯をたかりに来ただけだろう」
「さすが先生、正解」
全く悪びれる様子も無く言い放つ妹紅と連れ立って、慧音は寺子屋を後にした。
「それにしても、今日はいい天気だな」
慧音の家へと並んで歩く道すがら、麗らかな陽気にあくびを誘われた妹紅を見て、慧音が言う。
「ああ。絶好の輝夜殺し日和だ」
目尻に滲んだ涙を人差し指で拭いながら妹紅は答えた。
が、慧音の心底呆れた、という刺すような眼差しに「…冗談だよ」とすぐさま付け足した。
「相変わらずお前達は不毛な殺し合いをしているのか?」
「いや、最近はそんなに…ほとんどやってないよ、うん」
「妹紅も輝夜も、有り余る時間をもっと生産的な事に使うべきだと私は思うがな」
「だから最近はほとんどやってないって言ってるでしょ。…まあ、生産的な事もあんまりしてないけど。竹林の道案内とか、そんなもんかなあ」
腕組みをしながら自分の生活を振り返る妹紅を見ながら、慧音はうんうんと満足気に頷いた。
「そんな所から少しずつ始めていけばいい。人見知りの妹紅には丁度良い位だろう」
「誰が人見知りだよ」
「人と関わりたくなくて数百年間も独りで居た奴が人見知りじゃなくて何だと?」
「……」
頬をふくらましてぷいと顔を背ける妹紅に慧音は思わず笑みをこぼした。
ここぞとばかりに慧音は妹紅をからかう。
「この幻想郷は対人恐怖症のリハビリをするのにはなかなかいい所だ。私も付き合ってやるから、な」
「余計なお世話だよ。私は輝夜みたいな引き篭もりじゃないしね」
「そのお姫様だって周りに従者だの兎だのがいるんだからな。妹紅の方が重症だ」
「…私には慧音がいるからいいじゃないか」
「すまない、聞こえなかった。今何と言った?」
顔を背けたまま小声でつぶやく妹紅に意地悪く聞き返すと、妹紅は黙ってすたすたと歩みを速めた。
忙しなく揺れる後ろ髪の隙間から、ほんのり染まった耳朶が見え隠れした。
そんな妹紅を、慧音は些か後ろ暗い思いでいとおしく見つめた。
――私は彼女らと違って、永遠に妹紅の傍にいる事は出来ない。
無粋な言葉を口にする事はできなかった。
意図的にその類の話題を避ける暗黙の了解が、二人の間にはあった。
輝夜と永琳はお互いの存在でもって輪を閉じた永遠を生きていく事ができるだろう。
同じように妹紅が慧音に依存してしまうのは、実際好ましい事ではなかった。
その心の拠り所を、自らを足掛かりとして、外へ外へと広げていってやろうと、確かに思って慧音は手を差し伸べた。
その手を取った妹紅は、しかし、慧音の先に広がる世界に足を踏み出すのを躊躇った。
それを、どこか喜ばしく感じる自分に気付かぬ程、慧音は愚昧でも狡猾でもなかった。
このままでは妹紅の為にならないと分かっていながら、あと少し、あと少しと二人の箱庭に留まり続ける欺瞞を許す自らを、慧音は卑怯と断じた。
妹紅がそれを望んでいるから、と理由を妹紅に託してしまうのが、なおさら許せなかった。
――私は卑怯者なんだ、妹紅。
前を行く妹紅の後姿に、慧音は心の中で呼びかける。
それが届いたわけではないだろうが、妹紅がこちらをくるりと振り返ったので慧音は少しうろたえた。
「どうしたんだい、変な顔して。ただでさえ変な帽子をかぶってるのに」
妹紅は片眉を吊り上げてニヤニヤと笑っている。
「言うに事欠いて変な帽子とは何だ、変な帽子とは」
慧音が追いかけると、笑いながら妹紅は駆けて行く。
あと少し、あと少し、と呟きながら慧音は追う。
分かっているんだ、だからあと少しだけ、二人で――
二人はそのまま家まで、子供のような追いかけっこで帰った。
<4>
ぴょんた、ぴょんた。
素晴らしく晴れ渡った幻想郷の青空から燦々と降り注ぐ陽光を、きらきらと水面で反射させながら流れる小川。
その澄んだ水の上を、こちらの岸から向こうの岸へ、向こうの岸からこちらの岸へと、ぴょんた、ぴょんたとジグザグに跳び越えながらてゐは川上へ向かっていた。
川幅はおよそ一尋足らず程、てゐにとっては苦も無く跳び越せる幅ではあるが、かといって楽々跨ぎ越せる幅でもない。
ぴょんた、ぴょんた。
てゐはこの遊びにかなり夢中になっているらしく、汗こそかいていないものの頬を上気させている。
両岸の地面はややぬかるんでおり、何も考えずに着地すれば滑って転んでしまう危険性をはらんでいる。
見た目から想像するよりはなかなかに高度な技術を要求される遊びなのである。
「ま、オトナなオンナのわたしにかかればなんてことないのよ、ねっ」
ぴょんた。
着地の度に跳ね上がる泥が靴やワンピースの裾を汚してしまうが、オトナのオンナはそんな事は気にしないのである。
帰ったら鈴仙がくどくどと小言を言いそうだが、あんな尻の青い小娘をいちいち相手にはしていられない。
川幅が少し広くなっている場所に差し掛かり、川面の中程に顔を出している細い中州に狙いを定める。
ぴょんぴょんた、と鮮やかな二段跳びを決めながら、てゐは出がけの鈴仙との会話を思い起こす。
「ちょっと、てゐ。どこ行くの?」
てゐが出かけようと玄関へ向かっていると、大量の洗濯物が入ったカゴを抱えた鈴仙が廊下の角から声をかけて来た。
ちょっと思案してからてゐが「探検ごっこ」と答えると、カゴを下ろしながら鈴仙は呆れた、という様子でため息をつきながらてゐを睨んだ。
「れーせんも一緒に行く?」
「行かないわよいい年こいて探検ごっこなんて。だいたい見てわかるでしょう、それどころじゃないんだから」
洗濯物の山を指差しながら言い募る鈴仙に、てゐは小首をかしげて目をぱちくりとしばたいた。
このお姉さんは何を言ってるんだろう?とでも言いたげな無邪気な仕草である。
鈴仙はうぬ、可愛いやんけ、と思いながらも懐柔されること無く腕組みをして眉をしかめた。
「あんたわかっててやってるでしょう、可愛ければ何でも許されるってわけじゃないんだからね。今日は天気がいいからお洗濯一気に片付けちゃおう、って話になって、洗濯物干すのを手伝ってくれるはずだったでしょ?」
「記憶にございません誠に遺憾ながら秘書が勝手にやった事ではないでしょうか」
「待てコラ」
きびすを返して玄関へ向かおうとするてゐの襟首を、鈴仙はひょいと掴んで持ち上げる。
「しかしながら現状憂慮されております喫緊の課題につきましては皆様よりのお声を厳粛に受け止めまして可及的速やかに各方面と対応を協議した上で前向きに検討し何らかの適切な措置の方向性を然るべき時期にご提示させて頂く事により事態の進展を図って参りたいと考えております」
「やかましい」
鈴仙の目が狂気を湛えた赤みを帯びだしたのを見て取り、すぐさまてゐは「ごめんなさい」と謝った。
「最初から素直に手伝ってくれればいいのよ」
てゐを床に下ろしながら鈴仙は再びため息をついた。
他人がため息をついているのを見るのが嫌いなてゐは肩をすくめた。
本当に一日中ため息ばっかりつきながら暮らしているこの月の兎は、何が楽しくて生きているんだろうか。
「ため息つくと幸せが逃げるよ。まああんたに逃げる程幸せがあるか知らないけど。…秘書!」
てゐがぱんぱんと手を打ち鳴らすと、どこからともなくスーツを着込み、眼鏡をかけた妖怪兎がファイルを抱えて現れた。
「れーせんに3名程付けてあげて頂戴。わたしは今から出てくるから」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げる秘書兎。
「じゃ、そういうことで」
手をひらひらさせて悠然と玄関へ歩き去るてゐを、あっけに取られたまま鈴仙は秘書兎と共に見送った。
やがて我に返り、傍らで人員の手配をてきぱきと進める秘書兎を見ながら鈴仙はつぶやいた。
「…本当に秘書、いたんだ…」
ぴょんぴょんた、ぴょんぴょんた。
「れーせんにはオトナのヨユウって言うか、アソビゴコロ?が無いのよねー」
飽きることなく川跳びを繰り返しながらてゐは思う。
心にゆとりを持ち、些細なあれこれを楽しめない人生に何の意味があるのか。
こうして川上へ向かうのだって、単に川に沿って歩いていく方が速い。飛んでいけば、なおさら速い。
しかし敢えてそれをしないのは、ひとえにてゐがオトナのオンナであり、アソビゴコロに溢れているからである。
これを鈴仙に言わせれば、「さっさと飛んでいけばいいのに、馬っ鹿じゃないの」となるだろう。
「つまんない奴。早死にしそうだね」
ぴょんぴょんた、と華麗に跳びながらてゐはくすくすと笑った。
長生きの権化であるてゐの絶対の信条は、とにかくいっぱい笑うことである。
あのネガティブ月兎なんて短命に決まってる、と経験則上てゐは自信を持って決めつけた。
「いっぱい笑わせてやんないと。世話が焼けるんだから」
水の上を跳んで渡る事は、ちょっとした遊びであると同時に、てゐにとって特別な意味を持つ、一種の儀式のような物でもあった。
追憶が微かに胸を焼く疼きを、今日も全く失敗することなく無事に跳び終えた満足感に溶かし込んで、てゐはさらに歩いて行く。
だいぶ上流の方まで川を逆上って来て徐々に山に分け入る形になり、小川はごつごつとした岩肌を縫うせせらぎとなっていた。
ここまで来ると流石にてゐも跳ぶことを諦め、今は段々傾斜を増す斜面を軽快に登っている。
鬱蒼と木々の茂るこの山には取り立てて何があるということも無く、妖怪も人間も滅多に足を踏み入れることは無い。
その為野生動物が相当数生息しているものと見え、道すがら出くわす栗鼠だの鹿だのに「やあやあ」と声をかけながら、通い慣れた足取りでてゐは進んで行く。
陽も天頂を過ぎる頃、ようやくてゐは目的地に辿り着いた。
一際大きな岩壁に、木々に覆い隠されるようにして大人一人がようやく入れる程度の洞穴が口を開けていた。
入り口の前に立ち止まり、念の為辺りをくるりと見回してから、逡巡する事なくてゐは洞穴の中へと足を踏み入れた。
洞穴はわずかに下方へ傾斜しており、進んでいくとひんやりと肌にまとわりつく湿気を含んだ空気が淀んでいた。
既に入り口から差し込む光も途絶え、目の前にかざした自分の手も見えない完全な暗闇の中を、てゐはどんどん進んで行く。
径の狭さに反して洞穴はかなりの奥行きがあり、進めども進めども果てない暗闇に普通の神経の持ち主であれば不安を覚え引き返しそうなものだが、全く躊躇う様子が無い。
自らのぱたぱたという足音の反響具合を注意深く聞きながら、そろそろかな、と判断しててゐは歩みを緩め、両手を前に突き出した。
そうしてしばらく進むと、手にひやりとした岩肌の感触が伝わってきた。ここで洞穴は行き止まりとなっているようである。
てゐはひとしきり突き当たりの岩肌をぺたぺたと触っていたが、やがて「…ふむ」とつぶやいた。
「…なくなってるね」
目を凝らしても見えるはずの無い正面の壁を、そうしていれば何かが現れるとでも言うかのようにてゐはしばらくじっと見つめていた。
当然何かが起きるでもなく、てゐは「ま、いっか」と言いながら、岩肌を触ってしっとりと濡れた掌をワンピースでごしごしと拭った。
「…あたし、待つのは得意なオンナなの」
洞穴に反響する自らのつぶやきのアンニュイな響きに満足して、うんうんと頷きながらてゐはくるりときびすを返した。
何千年もひたすら待ち続けて来たんだ、今さら一つの可能性が潰えたからと言っていちいち動揺するほどガキじゃないの、とてゐは思う。
ここ何百年かのイタチごっこで、飽きるほど同じ体験をして来た。
過ぎたことをくよくよと考えるのは性に合わない。
来た時と同じように帰りもずんずんと進んで行く。
やがて見えて来た入り口の光は、暗闇に慣れた目には痛いほどに眩しかった。
這い出るようにして洞穴の外へ出てきたてゐは、ぞんざいに服の汚れを手で払い落としてから、うーんと伸びをした。
「シャバの空気はうまいねえ」
てゐの顔に落胆の色は見られなかった。実際はその内心にどんな思いが去来しているのかは、知る術がない。
さあ次は何をしようか、と思案しながらてゐは歩き出す。
「…決めた。今日は婆さんから銭をせしめよう」
てゐはニヤニヤ笑いを顔に貼り付けて、足取りも軽く山を下り始めた。
ひっそりと木々の間から顔をのぞかせる洞穴の入り口を、一度も振り返ることは無かった。
<5>
「それにしても、何で今日は珍しく早起きなんてされたのですか?」
洗い物を終えて手を拭きながら、藍は縁側に腰掛けている紫に訊ねた。
「ん?…そうねえ、なんでかしら」
珍しく言い澱み、目を伏せる主を見て藍はこれは何かあるな、と思った。
静かに側に座ると、紫はちらりと藍の顔を見た。
「差し支えなければ教えて頂きたいのですが」
ずずいと寄る藍に、困ったように眉を寄せながら紫は「うーん」と首を捻った。
「これを言うと、藍が傷付いちゃうかも知れないし」
「と言いますと、も、もしや、橙がらみの事では」
「違います」
全身の毛を逆立てる藍の言葉を紫は即座に否定した。
「まあ、この機会に伝えてしまってもいいかも知れないわね。今日早起きしたのはね、藍の仕事のやり残しをちょっと手直ししてたのよね」
「……」
紫の言葉に藍は酷くショックを受けた。
仮にも主に仕事を任されている以上、自らの仕事に手落ちが無いよう細心の注意を払っているつもりである。
その自負が否定されたばかりか、尻拭いに主の手を煩わせていたとは。
「も、申し訳ありませんでした!」
頭を大地に打ち付けんばかりの勢いで足元に平伏する藍を、紫は「だから言いたくなかったのよね」等とぼやきつつ立たせた。
「謝るのはやめて頂戴。これは命令ね」
「……」
命令とあっては詫びる事すら許されず、藍は顔を真っ赤に紅潮させたまま唇を噛み締めた。
「ゆ、紫様のお手を煩わせていたのは、やはり結界の管理に関する事でしょうか」
「そう、正解。さすがは私の式ね」
紫のいたわる様な声音が、逆に藍の身を苛んだ。
結界の管理は藍の任されている仕事の中でも最も重要な物であり、当然藍自身、わずかなミスも無いようチェックに次ぐチェックを行っていた。
全く思い当たる節が無い事が、逆に自らの無能の証明であった。
「それでは、もしや今までも度々このようにお手を煩わせていたのではありませんか」
「…そういう事になるわねえ」
「……」
自らの思い上がりを恥じ、全身をこの手で引き裂きたいとすら藍は思った。
八雲の名を戴いて、一人前として紫様に認められたと思っていたのは酷い慢心であった。
「違うのよ、藍。昼の話の続きになるんだけど、これは私が恐れる第二の相手の仕業なのよ。この八雲紫すら恐れる相手だもの、藍が見逃してしまうのも無理は無いわ。ね?」
紫は自らの傍らをぽんぽんと叩き、藍に再び座るよう促した。
おずおずと主の横に腰を下ろしながら、紫様はずるい、と藍は思った。
紫が恐れる相手とあらば、藍では当然敵うはずが無い。
ここでこれ以上悔しがる素振りを見せては、それこそ奢っている事になる。
本当に紫様には、まだまだ何もかも追いつけないな。
「…では、その相手とは誰なのでしょうか」
「私の恐れる相手の第二はね、因幡てゐ。要注意度という点では、幻想郷で一番危険な妖怪よ」
またも藍の予想の範疇から大きく外れた相手であった。
確かにてゐは幻想郷の中でも最古参にあたる妖怪である。
しかし、その実力も、能力も、さして危険と思われる程ではない。
詐欺まがいの言動で相手を陥れる性格には多少難があるが、それとてまあ悪戯の範疇を出ないものである。
そんな藍の思考を見透かしたように、紫が問う。
「どうしてあれ程長生きしているのに、あの程度の妖力しか持たないのかしら」
なるほど、逆に考えると不思議であった。
妖怪というものは、肉体的な限界は別として、齢を重ねれば重ねるほど妖力が増すものである。
幼い外見のせいでそれ程不自然には感じなかったが、確かにてゐ程の年月を経た妖怪であれば、いわゆる大妖怪とされる程の力を持っていておかしくない。
それに、そもそも妖怪兎は妖怪の中では短命な方である。
もちろん普通の化ける前の兎とは比べるべくも無いが、かといって百年生きる者は稀である。
てゐの正確な年齢はよくわからないが、少なくとも三千年程度は生きている筈であった。
「健康に気を遣っているうちに長生きした」というレベルの話ではない事は明白と言えよう。
「…どういう事なんでしょうか」
「仕組みはよくわからないけど、あの子は年を経る事による肉体の変化も妖力の増加も、全て己の内に封じ込めている。だからあの幼い容姿のまま途方も無く長生きしているし、恐らく膨大な妖力をその身の奥深くに隠し持っている」
藍は戦慄を覚えた。
「一体、何の為に?」
「さあ、それは本人にしかわからないわ。多分、こうじゃないかなあ、っていうのは思いつくけどね。それよりも私達にとって厄介なのは、あの子が常にこの幻想郷から脱走しようとしている事よ」
「脱走…ですか」
「そう、脱走。外の世界に行く為に、この幻想郷の結界を潜り抜けようとしている。その為に誰も気づかない様な場所の結界の綻びを、分からない程度に少しずつ、少しずつ削って広げたりしてね」
「そういう事だったのですか。まったく気づきもせず、自らの未熟に恥じ入るばかりです」
「気に病むことは無いわ。本当に巧妙な手口で脱走を企ててるんだから。たまにお灸を据えてあげようと思うんだけど、確たる証拠も無いからシラを切られちゃうとどうしようもないのよねえ。そういうわけで、これからは藍もよく気をつけてあげて頂戴」
「かしこまりました。しかしなかなか手強そうですね。しばらくは紫様にフォローして頂かなくてはならないかと。それにしても、何故てゐはそれ程外の世界へ行きたがっているのでしょうか?外の信仰や畏れといった感情を失くした世界で、我々妖怪が最早存在するのも困難だという現状を知らないのでしょうか」
「どうかしら。結界で外と幻想郷が遮断される前からあの子はここにいるのだし、外の世界に残りたいのであれば結界が張られる時にこの地を離れれば良かった。にも関わらずここに残ったという事は、事態を把握した上で、力を蓄える為に敢えて幻想郷に残る事を選んだ、と考えるべきでしょうね。それに、因幡の素兎のお話はまだ外の世界でも残っているから、てゐならば外の世界に出たとしてもすぐにその存在が危うくなるわけじゃない。恐らく、そこまで知った上で脱走を企てていると思うわ」
「ならば、いっそ紫様がてゐを外の世界に連れて行ってあげては如何ですか?脱走されて変に結界が損傷するよりいいですし、イタチごっこで労力を無駄にするのは紫様らしく無いような気がしますが」
「私はね、幻想郷のありとあらゆる全てを守りたい、なんて野望を抱いちゃってるのよね。そして、因幡てゐもまた私の守りたい幻想郷の一部なの。…あの子が何の為に莫大な力を蓄えて、外の世界に行きたがっているか、だいたい想像がつかないかしら?」
そう言われて藍は様々に思考を巡らせ、やがて一つの結論に辿り着いた。
「…出雲?」
「そう、まず間違いなくそれが正解だと思うわ。てゐは蓄えた力で出雲大社の強固な封印を破り、大国主を解き放とうとしている。でも、もしそれが叶ったとして、いったいどんな結末があの子を待っているかしら。無理に寿命を遥かに超えてまで溜め込んだ力を解放したら、確実にてゐは死ぬわ。しかも、そこまでして救い出そうとした相手の目の前で、一瞬にして老いさらばえて、醜い姿を晒して死んでしまう」
「……」
てゐのあまりに悲壮な覚悟を前にして、藍は何も言うべき言葉が無かった。
「だから、私はそんな事をあの子に許さない」
「…それを、てゐが望んでいてもですか」
「ええ。幻想郷の全てを守るというのは、私のエゴだから」
遥かな年月をただひたすら、大国主を解放する、その為に静かに爪を研ぎ続けた因幡てゐの執念。
それを知りつつ、遂げることを許さなかった主の思い。
懲りずに結界に穴を穿ってきたてゐと、懲りずにそれを修復してきた紫は、その度に何を思っただろうか。
二人の続けて来たイタチごっこに横たわる何とも形容し難い感情に、二人がいとおしくて、切なくて、藍は胸が熱くなるのを感じた。
「…恋、なのでしょうか」
「…さあ、どうなのかしらね。その感情に、私達が名前をつけるべきではないわ。ただ、もし恋なのだとしたら、」
紫は慈愛とも憐憫ともつかない深い色を瞳に湛えて、微かに藍に微笑んだ。
「好きな人の目の前でしわくちゃのおばあちゃんになって息絶えるなんて、恋する女の子の死に方としてはあんまりにも可哀想だと思わない?」
藍は何と紫に言葉を返すべきか分からず、軒下から青い空を見上げた。
藍には何が正解なのか、そもそも正解とは何なのかすら分からなかった。
空はどこまでも広く、自分の与り知らぬ世界など、まだまだ無限にある事を改めて思う。
「紫様。私は自分で思っていたよりも、まだまだ遥かに未熟なようです」
「それでいいの。主の私が未熟なんだから、式の貴女も未熟でいてくれないと困るわ」
紫が自らを未熟と称するとは、と少々驚いて見やると、紫はちろりと舌を出して笑って見せた。
「この幻想郷では、妖怪も人間も、動物も植物も、どんな存在であれ幸せにならなければいけないの。それが、私の目指す楽園よ。まだまだ、精進あるのみ」
「…それは、何とも大きな野望で」
藍は、改めて自らの仕える主が途轍もない化物である事を痛感した。
この主について行く限り、自分の苦労が絶える事など決して無いのだろう。
ため息をつきながら、それを何物にも代え難い喜びに思う藍であった。
<6>
山を下りたてゐが次に向かったのは、人里の外れにある一軒の古びた民家であった。
屋外に置いてある農具やら何やらは長いこと使われた形跡が無く、家の周りの草は伸び放題といった有様。
一見したところ廃屋に見えるが、軒下にぶら下がった手拭いがわずかに人の生活の痕跡を示していた。
玄関の前までやって来たてゐは、来訪を告げるでも無くノックをするでも無く、いきなり戸をガラリと開けて屋内を覗き込んだ。
「婆さん。生きてる?」
中では一人の老婆が火鉢の前に座って編み物をしていたが、てゐを見ると皺だらけの顔をさらにしわくちゃにほころばせた。
肌に刻まれた年輪といい、相当に曲がった腰といい、かなりの年齢であることが窺えるが、なかなかに元気な様子である。
「おやおや、うさ子ちゃん。こんにちは」
「あのねえ、毎度言うけどわたしゃうさ子ちゃんじゃないっての。ボケちまってんの?婆さん」
およそ人に向けるには失礼な物言いであるが、老婆はニコニコとするばかり。
「まあまあ、上がって頂戴な。今日は、何しに来たのかしらねえ?」
「いやさ、婆さんがそろそろひっそりとくたばってんじゃないかと思って。最近夜は冷え込む日が続いたからね」
土間にぽんぽんと脱ぎ捨てた靴を揃えもせず、さっさと上がり込んだてゐは老婆の横に座って火鉢に手をかざす。
老婆は喉からかふかふと奇妙な音を立てた。どうやら笑い声のようである。
「そうだねえ、いつお迎えが来てもおかしくないわねえ」
「んなわきゃないでしょ。冗談よ。そんだけぴんぴんしてりゃ後三十年は生きるよ、わたしが保証したげる。それより婆さんさあ、わたし小腹が空いてんの。何か食べるものない?」
「食べるものかい。そうだねえ、…この前もらった煎餅がそこの戸棚にあったわね。あたしゃもう歯がアレだからね、ちょっと食べられなかったから」
てゐは煎餅ねえ、とつぶやき、不満気に口を尖らせた。
「煎餅は煎餅でもらって帰るけどさ、わたしゃ今煎餅って気分じゃないの。…あれね、お団子が食べたい。お団子。買ってくるからお駄賃頂戴」
老婆はかふかふと笑いながら傍らの裁縫箱の引き出しを開けると、じゃらりと銭を何枚かてゐに手渡した。
「お釣りはお小遣いにしていいからねえ、気をつけて行っておいで」
「当たり前でしょ婆さん。わざわざ買いに行ってあげるんだから、小遣いくらいもらわなきゃ割に合わないってーの」
てゐは慌しく立ち上がり、ぱたぱたと出かけて行った。
老婆はにこにことてゐの後姿を見送った後、手元の編み物を再開した。
「お兄さん。みたらし団子三本。持ち帰りね」
てゐは里の和菓子屋にぱたぱたと駆け込み、慣れた様子で木製の長椅子にひょいと座った。
「お、てゐちゃん。毎度あり」
お兄さんと呼ばれたのはどう贔屓目に見ても四十代後半のおっさんであり、店の主人らしい。
「三本の内一本はババアでも噛み切れるけど、喉に詰まってくたばらない様な程良い弾力の奴ね。タレも甘すぎず辛すぎず、ババア好みな感じで」
「あいよ、相変わらず細っけぇご注文ありがとよ。また藤バァのとこかい?くたばってなかったか?」
「あの婆さんがくたばる様なタマなわけないでしょ。まあ後三十年は固いね」
「そいつぁ迷惑なこった」
ガハハハ、と笑いながら主人は店の奥へと消えた。
てゐも酷いが、この主人も大概口が悪いようである。
しばらくてゐが足をぶらぶらさせながら待っていると、奥から主人が団子と共に風呂敷包みを下げて戻って来た。
「ほい、お待ちどうさん。後な、ついでで悪いんだけど、この包みを婆さんとこに持ってってくんねえかな」
団子と風呂敷包みを受け取りながらてゐは訊ねる。
「これ中身何なの?」
「食いもんとか、まあ生活用品だな。店が忙しくてなかなか行けなかったんだわ」
「ちょっと、煎餅なんか婆さんにやったのあんたじゃないでしょうね」
「いちいち中身まで覚えちゃいねえが、前の包みにゃ入ってたかもなあ」
ガハハハ、とまた笑う主人に呆れながら、てゐは団子の代金を手渡す。
「おめでたい頭してるねえ。ま、いいけど、当然報酬は出るのよね?」
「はは、てゐちゃんにはかなわねえな。ほら、お代はちょっとまけといたからよ」
お釣りをちゃらりと受け取って、てゐは満足気に頷いた。
「ありがとね。また来るよ」
「あいよ。毎度ありっ」
ぱたぱたと駆け去っていくてゐを主人が店頭まで出て見送っていると、客と思しき身なりの良い女性が近づいて来た。
「あのー、今おたくのお店から走って行ったのって、幸運の素兎ですよね?」
「ん?ああ、そんな風に言われてるみてえですが」
「あの兎さんは何か買って行ったんですか?」
「へえ、みたらし団子を三本程」
「そのみたらし団子、すごく縁起が良さそうですよね。宜しければ、百本ほど包んでいただけます?」
「ひゃ、百本!?い、いやいや、喜んで!!」
主人は慌てて店に戻りながら、突然降って湧いた幸運を噛み締めた。
「婆さん。買って来たよ」
てゐが戻って来ると、老婆は出て行った時から全く動いていないかのように火鉢の前で編み物をしていた。
「はいはい、おかえり。あれえ、その風呂敷包みはどうしたの?」
「和菓子屋の親父が婆さんに渡してくれって。ったく、重いったらありゃしない」
「あらあら、それは悪かったわねえ」
「これ、お勝手の方に置いとくからね」
そう言ってずかずかと奥のほうへ入っていったてゐは、そのままお茶を淹れる準備をしているようである。
勝手知ったる何とやら、手馴れた様子で茶筒やら急須やら湯呑やら取り出している。
相変わらずしけた茶っ葉だね、等とてゐのぶつぶつと漏らす独り言に、老婆は楽しそうにかふかふと耳を傾ける。
お盆に二つ湯呑を載せて戻ってきたてゐは、早速団子の包みを開いた。
「はい、こっちの串が婆さんのね。ババアでも食えるように親父に頼んだ奴だから」
「まあまあ、嬉しいわ。とっても美味しそうねえ」
「あたひがわざわざ買ってひてあげたんだからねもぐもぐ、当然でしょもぐもぐ」
徹頭徹尾行儀が悪い。
老婆もゆっくりと団子を口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
「ああ、美味しい。今まで食べたお団子の中で、一番美味しいかも知れないねえ」
「ババアはいちいち大げさだねえ」
あっという間に二本の団子を平らげ、てゐはお茶を啜った。
そんなてゐを老婆は目を細めて見ている。
「それにしてもうさ子ちゃん、随分泥んこじゃないの。今日は何して遊んできたのかね?」
「ああ、これ?」
てゐは今日の自分の武勇伝を、ある事無い事混ぜこぜにして喋りまくった。
老婆は編み物をしながら、うんうんと相槌を打ち、またかふかふと笑いながらてゐの与太話を聞く。
興が乗って来たてゐの喋りは止まる事を知らず、普通の相手であれば少々辟易するところであるが、老婆は実に楽しそうである。
「…ってわけよ。はー、随分喋ったら喉が乾いたわ」
すっかり冷たくなった茶をぐいと飲み干し、てゐは立ち上がった。
「じゃあ婆さん、わたしぼちぼち帰るね。煎餅はもらって行くから」
喋るだけ喋ってさっさと帰ろうとする辺り、流石である。
「ああ、お待ち。これ、持ってきなさい」
老婆はそう言うとてゐを手招きし、先程まで編んでいた代物を渡した。
「何これ。…手袋?」
「これから段々寒くなるからねえ」
てゐは早速手袋をはめ、両手を上にかざしてしげしげと眺めた。
親指以外の指が分かれていない、ミトン形の手袋だった。
「ありがと。もらえるもんはありがたくもらっておくわ」
そう言って、てゐは手袋をはめた手で老婆の頬を両手でもふもふとはさんだ。
「気いつけて帰るんだよ」
玄関で靴を履くてゐの背中に、老婆は声をかける。
「わたしゃガキじゃないんだから。じゃあね、婆さん」
てゐはガラリと戸を開き、振り返ることも無く至極あっさりと帰っていった。
老婆はてゐが触れていった頬の辺りを慈しむようにゆっくりと撫でた。
すると、左耳に何かがはさまっているのを発見した。
手にとって、目を細めて見てみると、それは四葉のクローバーであった。
「…ほんとに、いたずらっ子な兎さんだ事」
老婆はしばらく、四葉のクローバーを幸せそうに見つめていた。
夕暮れの竹林を、すたすたとてゐが歩いて行く。
迷いの竹林の主を自称するてゐには、誰にも教えていない秘密があった。
この竹林には、てゐの秘密基地が隠されているのだ。
この事は部下の兎達にも、永遠亭の連中にも知られていなかった。
――そこの竹とそこの竹の間を通って、こっちに曲がって。
ただでさえ迷い易い竹林の中を、定められた複雑な順路で通って行かなければ辿り着けないようになっているのである。
「…着いた」
件の秘密基地は、少し開けた広場のようになっていた。
広場の中心には、箱の様な物がいくつか、無造作に積み重ねられている。
それは、博麗神社でもお馴染みの賽銭箱であった。
ただ、博麗神社の賽銭箱と大きく異なる点は、一番上に積まれた一つを除き、賽銭箱には全て銭がぎっしりと詰まっていた。
どこぞの巫女がこれを見たら、羨むあまり卒倒しそうな光景である。
てゐは、賽銭箱の山をぴょんぴょんと駆け上がると、一番上の賽銭箱に腰掛けた。
それから、ごそごそとポケットをまさぐったが、手袋のせいで上手く中身が取り出せなかったので、手袋の先を口にくわえて手を引き抜いた。
今度は首尾良くポケットから銭を取り出すことが出来た。老婆からもらったお団子代のお釣りである。
しばらく竹林のわずかな隙間から差す夕日にかざして眺めた後、てゐはそれを腰掛けている賽銭箱に落とした。
ちゃりん。
ぱん、ぱん、ぱん、ぱん。
夕日に照らされ、柏手を打つ素兎の影が賽銭箱の山の向こうへ伸びていた。
しばらく手を合わせ、頭を垂れたまま、てゐは動かなかった。
ようやく顔を上げたてゐは、沈んでいく夕日を眺めながら、ぶらぶらと足を遊ばせていた。
「――大国主様」
耳をそばだててさえ聞き逃してしまうような微かな呟きは、何物にも跳ね返ることなく賽銭箱の中へと落ちていった。
「さて、お腹も空いたし帰ろっと」
てゐはおもむろに言うと、手袋をはめ直して、ぴょんと地面に降り立った。
「今日の夕飯は何かな」
てゐの独り言に呼応するように、胃袋がくうと鳴いた。
夕餉の事を考え出すと、最早てゐの興味はそこにしか向かない。
出鱈目な鼻歌を歌いながら、てゐは小走りで家路に着く。
ぱたぱたと後にした秘密基地を、やはりてゐが振り返ることは無いのである。
<7>
ずず、と味噌汁の味見をして、よし、と鈴仙は頷いた。
以前と比べれば大分料理の腕も上がった気がする。
てゐはともかくとして、輝夜や永琳に出す料理とあらば、滅多な物は出せない。
とは言え、今まで散々その滅多な物を出して来たのではあるが。
昔は皆で不味い不味いと笑いながら鈴仙の料理を食べたものである。
朝の永琳の料理を見てしまうと、なおさら過去のそれらが恥ずかしく思い出された。
それにしても輝夜や永琳はいいとして、てゐにまで馬鹿にされたのは納得がいかない。
あの地上の兎ときたら食べるのが専門で、料理など一切しないくせに。
――しないだけで、実はすごい料理上手だったらどうしよう。
「あー、そのてゐよ。もうご飯出来ちゃうのにどこほっつき歩いてるのかしら」
朝食と違い、いつも夕食は輝夜、永琳、てゐと鈴仙の四人で摂る。
明日などは十五夜なので餅を搗き、例月祭としてみなで騒ぐのだが。
料理当番は一応兎達に割り振られているが、からかい半分にこうして鈴仙が四人の分を作らされる事が多かった。
兎に角。
てゐが帰って来ないと夕餉が始められず、姫様や師匠を待たせてしまう事になるのだ。
「本当にもうてゐときたら…人を困らせるのだけは得意なんだから」
そうは言うものの、実際鈴仙はそれ程真剣に心配しているわけではなかった。
大抵てゐは夕食の時間ぎりぎりまでどこかに出かけていることが多く、そのくせ計ったように夕食の完成に合わせて帰ってくるのである。
分かっていてもやきもきさせられる分、その正確さが何とも傍迷惑な腹時計である。
そうこうしていると案の定、厨房の入り口に見慣れた顔がぴょこんと現れた。
「れーせん、今日の夕飯なあに?」
「あんたねえ、まずはただいまとか何か一言あっていいんじゃないの?帰ってきてちゃんと手は洗った?って何その服!ドロドロじゃないの!何してきたらそんなに汚れるのよ先に着替えてらっしゃいほんとにもう」
帰ってきたてゐを見るなり鈴仙は眩暈を覚えた。
「あっはっは、よく口が回るねえれーせんちゃん」
てゐはあっけからんと笑いながら、手袋をはめた手で鈴仙の顔をわしわしと撫で回した。
「わっぷ、何よその手袋。あんたそんなの持ってたっけ?」
「人里のババアから巻き上げてきた」
「ちょっと!あんまり人里で悪さしないでよね。永遠亭の評判が悪くなっちゃうじゃないの」
とりあえずてゐの格好はあまりにも酷い。
ご飯が炊き上がるまであとわずかだが時間がある。
厨房を離れ、鈴仙はてゐを脱衣所へと追い立てた。
「代えの服持ってきてあげるから、ちゃんと手と足だけでも洗っておくのよ」
「はいはい」
ため息をつきながら、鈴仙は何故自分がここまで甲斐甲斐しくてゐの世話を焼かなければならないのか、という疑問と戦っていた。
鈴仙が着替えを持って戻って来ると、てゐは大人しく手足を洗って待っていた。
「はい、着替え」
「ありがと」
思わず服を着せるところまでやってあげてしまうところだった。
どうにもてゐ相手だと調子が狂って仕方が無い。
当のてゐは脱いだワンピースのポケットから何かをごそごそと取り出していた。
「はい、これあげる」
「お煎餅?これからご飯だって言うのに…まあ、後で食べるからいいけど。もらっておくわ」
てゐが何かを鈴仙にくれるなど何とも珍しい事があったものである。
これ位の事でちょっぴり涙が出そうになった鈴仙であった。
日頃の苦労が偲ばれる。
そんな鈴仙を不思議そうに見ていたてゐであったが、ふとぴこぴこと鼻を動かした。
「れーせん。何か焦げ臭くない?」
「あああああごごご飯!!」
鈴仙は夕食の席で久々に料理の事でたっぷりとからかわれた。
やはり、てゐにからかわれるのがどうしても納得がいかなかった。
夕食を終え、湯浴みを済ませた鈴仙は、私室の前の中庭に面した廊下に座ってぼんやりしていた。
「今日も疲れたな」
ぽつりとつぶやいてみると、確かに疲れているようである。
周囲に振り回されがちな性格のせいで、人一倍疲れを溜め易いのだという自覚はあった。
自分もてゐのように自由気ままに暮らせたら、疲れを感じることなど無いのだろうか。
しかし、やはり自分の性格ではあんな大胆な生活をしていたら胃に穴が開きそうだ、と鈴仙は思った。
結局、こうしてちまちまと苦労している方が自分の性に合っている。
そう思うと、身体に纏わりつくこの疲労も、心地良い物に思えて来る。
これからもああだこうだ、うじうじと悩みながらこの永遠亭で暮らして行く。
それはやはり、喜ばしい事なのだろうと鈴仙は思う。
何だかんだ、これが幸せって事なのかなあ、と。
自らの命を失う事も、誰かの命を奪う事も、怖くて怖くて仕方が無くて、鈴仙は地上に逃げて来た。
やはり、罪悪感は時が経っても完全に拭い去ることは出来なかった。
ただ、こうして安穏とした生活を享受出来る幸せと引き換えにするのなら、胸を焼く罪悪感も疎外感も、甘んじて受け止めるしかないのだろう。
所詮自分は罪人であり、どんな形であれその咎は責められてしかるべきだ。
そう考えれば、自分のネガティブさに救われる思いである。
ネガティブ思考で自らを苛む事自体が、贖罪となるのならば。
「はは、こういう発想自体がネガティブだよね」
何だか急に馬鹿らしくなって、鈴仙は欠伸をしながら月を見上げた。
雲一つ無い夜空に浮かんだ月は眩しい程に幻想郷を照らしていた。
明日は満月、一応用心するに越したことは無い。
鈴仙は日課の月との交信を始めた。
とは言え、今や親しく話の出来る者も月には居ないのだから、交信というよりは傍受、といった方が正しい。
複雑に絡み合う様々な波長の中から、月の兎達が通信に用いる波を探し出し、その波長を増幅して拾い出す。
しん、と他の音が消えていき、徐々に通信内容がクリアになってゆく。
ざ ざざ――
通信の傍受を切断した鈴仙の顔は蒼白になっていた。
頭がひどく混乱している。
――とりあえず、師匠に伝えなくては。
鈴仙は立ち上がり、ばたばたと永琳のいるであろう研究室へ走った。
「師匠!師匠!!」
<8>
「――妹紅」
慧音は親友に呼びかける。
先程から妙に体重を預けてくる。
さすがに体勢を保つのが少し厳しくなって来た。
「妹紅。寝てしまったのか?」
返答の代わりにすぴー、すぴーと規則正しい鼻息が聞こえる。
「…仕様の無い奴だ」
文机に向かって正座している慧音に、妹紅は後ろから抱き付く格好で、顎を慧音の左肩に載せてすやすやと眠っている。
慧音は苦笑して、右手で妹紅の頭をちょんちょん、と小突く。
ちょうど、鼓を打つのと図らずも同じ格好となる。
私の頭が空っぽだからいい音がするって意味?等とのたまう妹紅の声が聞こえて来るようで、慧音は可笑しかった。
しかし、一向に妹紅の目覚める気配は無い。
首元に、妹紅の穏やかな呼吸を感じる。
背中に、妹紅の暖かい鼓動を感じる。
悪くない。
悪くは無いのだが、しかし重い。
「…ふむ」
慧音は筆を置き、よいしょ、とそのまま妹紅をおんぶする格好で立ち上がった。
華奢な体格の妹紅である、まして慧音は半獣半人の身、いとも容易く妹紅を背に乗せて慧音は居間を出た。
「…うー…ん」
廊下を寝室へ向かっていると、背中で妹紅がもぞもぞと動く気配が伝わって来た。
「妹紅。起こしてしまったか?」
「ん…慧音?」
「これから布団に運んでやろうとしていたのに起きてしまうとは。間の悪い奴だ」
「慧音」
妹紅はぎゅう、としがみ付く腕に力を込めて、ぐりぐりと慧音の背中に顔を押し付けた。
幼子のような仕草に慧音はふ、と笑みを漏らしてしまう。
「今日の妹紅は随分甘えん坊さんだな?」
寝室の襖を静かに開き、敷いてあった布団にそっと妹紅を横たえる。
慧音の家で夕餉を共にする時など、妹紅がうたた寝してしまう事はよくある事。
備え有れば憂い無し。
「おやすみ」
そう言って体を起こし、寝室を後にしようとする慧音だったが、ふと妹紅の手が服の裾を引いている事に気付く。
「…慧音も一緒に寝るんでしょ?」
そう言って暗闇の中、瞳に微かな月の光を反射させてこちらを見つめる妹紅の誘いに、一体どの慧音が抗うことが出来ようか?
いや、そのような慧音など存在しようはずも無いのである。
従って、「仕方の無い奴め」等とぶつぶつ言いながらいそいそと慧音は布団にもぐり込む。
底冷えのする夜に幼子のように体温の高い妹紅と同衾するのは得も言われぬ至福である。
この幻想郷で唯一その悦楽を享受出来る自らの幸福を噛み締めながら、慧音は夢の世界への旅路についた。
遡る事数刻、妹紅を招いた、というより昼からずっといたのだが、ともかくささやかな夕餉を終えた慧音は文机に向かい、昼の試験の答案の採点をしていた。
詰め込み式の授業は慧音の嫌う所だが、しかし子供達の理解度を把握する事は重要なことである。
平均点が良ければ子供達の努力が嬉しく、悪ければ己の授業の至らなさを反省する。
試験の答案の採点は、また慧音自身の授業の採点でもあるのだ。
まして今日の答案は慧音の専門とする歴史の試験の物であるのだから、気合も入ろうというもの。
専門家であるからこそ、歴史の授業という物は慧音にとって殊更に難しく感じられる。
過去の先達が残して来た足跡に学ぶ所は実に大きい。
その為には、歴史は出来得る限り公平に、客観的に評価されなければならぬ、とは慧音の信念である。
しかし現在に残る過去の爪痕は、それを残した者か、あるいはそれを残すように命じた者の主観に基づく物が殆ど。
故に歴史家は数多くの資料から、多面的に1つの事象や人物、時代を評価し、よりありのままの事実に近い真実を求め続けるのである。
研究そのものは愉しいが、それを子供達に教えるとなると慧音にとっては非常な重荷に感じられてしまう。
自らの研究は、自己満足に過ぎないのでは無いか?
教えるという過程で、慧音自身の主観が入り混じってはいないか?
そういった慧音の気負いが授業を硬くさせ、子供達の理解を妨げるのだろう。
いつも歴史の試験の平均点は他教科に比べ低く、慧音を嘆かせるのである。
今日も慧音は半分程答案を片付けた所で嘆息した。
今回も平均点は低い水準に留まりそうだ。猛省せねば。
少し疲労を感じて、何気無しに答案を裏返すと、試験の途中で最早諦めて時間を持て余したのだろう、角を2本生やした鬼の絵が描かれていた。
「全く、平三郎ときたら」
途中で匙を投げてしまうとは、と溜め息をつきながらよくよく絵を見ると、下の方に「けーね先生」と書いてある。
何だと?
「けーねー。暇だよー」
畳の上でごろごろしていた妹紅がふいに声を上げる。
すっかり存在を忘れてしまっていた。
「妹紅、これを見てみろ」
何ー?と言いながら妹紅が後ろからばっふと抱きついて来て、慧音の肩から顔をのぞかせた。
「あははははは。そっくりじゃん」
「何?どの辺りがだ?そもそも私はハクタク化している姿を里の者に見せた事は無いはずなのだが」
「いやいや。怒ってる時の慧音ってこんな感じだよ。うん、よく描けてる。この子は将来画家になるといいかも知れないね」
「残念ながら平三郎の図画工作の通知表は2だ」
「偉大な画家ってのは生前はなかなか評価されないもんさ。この答案用紙を取っておいたら、将来目玉が飛び出すような高値が付くかも知れないよ?」
「表側の点数を見たら、評価額も半減するだろう」
二人はひとしきり声を上げて笑った。
妹紅を背中にくっつけたまま、慧音は採点を続ける。
多少鬱陶しくもあるが、無理に引き剥がすと駄々をこねて余計面倒なので、そのままにしておいた。
飽きればそのうち勝手に離れるだろう。
それにしても妙に静かだな、と訝っていると、
「慧音の髪ってさ、綺麗だよね」
などと妹紅がつぶやく。
ずっと髪をいじくっていたのか。
「妹紅の髪も手入れをすれば綺麗になる。少し野放図が過ぎる」
「私の髪はさ、だめだよ。ばさばさの白髪だもん」
慧音は手を伸ばして妹紅の頬を軽くつまんだ。
「それを言うなら妹紅の肌はとても綺麗じゃないか。いつでも産まれたての赤子のような艶と肌理細かさだ。それに比べれば、私の髪などいずれ磨耗していくばかりの物でしか無いさ」
頬をつまんでいた慧音の手を、ふいにぎゅう、と強く妹紅の手が掴んだ。
「あまり、寂しい事を言わないで」
「…すまなかった」
少し気まずくなって、無言のまま黙々と慧音は採点を進める。
最後の答案の採点を終えて、慧音はふう、と息を吐いた。
結局子供達の理解度は今回も芳しくなかった。
何となく、やるせない思いに囚われて、明かり取りの窓から外を見上げると、ほとんど真円に近い月がぽっかりと浮かんでいる。
明日は満月か、と思いながら、もう一度ふう、と息を吐く。
すると、妙に左肩の辺りが重いのに気付く。
「――妹紅」
かくして、慧音は親友に呼びかける事になる。
再び、刻は少し進んで。
慧音が快いまどろみに身を任せていると、「慧音。寝ちゃった?」と声がした。
「いや、かろうじて起きているよ」
「…そう」
そのまましばらく無言が続いて、慧音は逆に目が冴えてしまった。
背中合わせに妹紅の体温を感じていたが、何となく妹紅の方へ寝返りを打つのも躊躇われて、慧音は息を殺すようにじっとしている他無かった。
ふいに妹紅が身じろぎし、こちらへ寝返りを打ったのがわかった。
何故か慧音は緊張を覚え、鼓動が早くなるのを感じた。
そこへ妹紅が抱き付いて来たので慧音は思わずぎゅっ、と体を強張らせ――それからゆるゆるとほどいた。
「…妹紅?」
「慧音、怖いんだ」
「怖い?」
「こんな体になって千年以上もの間、辛いことは本当に一杯あったよ。化物扱いされて追い立てられたり、信じてた人に裏切られたり、酷いことが一杯あった。でも、もっと辛かったのは、そんな中でも心が通ったと思えた人達と、何度もお別れして来た事」
背中に顔を埋めたまま話す妹紅の言葉を、慧音は黙って背中で受け止め続けた。
「辛い思いをするのが嫌になって、私は人と関わるのを避けるようになった。ここ数百年はずーっと独りぼっちで、最初は淋しいと思うこともあったけど、じきに心が麻痺して、慣れた。昔のことも思い出さなくなった。なのに、慧音が、慧音が私に少しずつ染み込んで来て、固まってた心を溶かしちゃったから、昔出会った人達の事を思い出しそうになるんだ」
「……」
妹紅の腕が、いっそう強く慧音を抱きしめた。
「でも、思い出せないんだよ!」
「…妹紅」
「忘れちゃってるんだ。すごくいい人達だったはずなのに。お別れの時にあんなに泣いて、貴方の事は忘れないよって、約束したはずだったのに」
「……」
沈黙が訪れた。
慧音は自らの呼吸さえ煩わしく、ただただ静かに妹紅を受け止めていよう、と思った。
わずかな吐息さえ、零してなるものか。
「いつか、」やがて妹紅が再び口を開いた。
「いつか、慧音とお別れする時。私には慧音しかいないのに、また独りぼっちになって心を凍らせてしまうんだろう。それで、ずーっと先の未来になって、私は慧音の事を忘れてしまうかも知れない。私、馬鹿だからさ」
「馬鹿ということは無いだろう。生物の記憶容量には限界がある。いつかは妹紅の記憶から私が去ってしまうのはどうしようも無い事だ」
一息ついてから、ぐ、と慧音は声を絞り出した。
「妹紅を二度も置いて去って行くなんて本当に済まない。どうか、許してくれ」
頑張ったつもりだったが、どうにも語尾が震えてしまった。
時の流れがいつか二人を分かつ事は、二人ともわかり過ぎる程わかっていた。
お互いの体温を感じながら眠る夜、独りで思い巡らせながら眠る夜、親しくなってより二人がその事を考えなかった夜などあっただろうか。
堪え切れぬ思いは、どうしても情けなく慧音の喉を震わせるので、困る。
「謝るなんて、ずるいよ。そんなの絶対に、許さない」
妹紅の声も、震えているので、慧音はどうにも胸が痛んで仕方が無かった。
今妹紅の顔を見てしまったら、泣いてしまうに違いない。
月が雲の陰に隠れたのに勇気を得て、慧音は寝返りを打ち、妹紅に向き直った。
幸い顔は暗くて見えなかったが、何も無い黒い空間にも、妹紅の顔などそらで描ける程に慧音にはわかっていた。
――からかってやれる程に、情けない顔をしている。
自分も似たような顔をしているのだろう。
てんで、自分達らしくない。
「では妹紅。決して私を忘れられなくしてやろう。後で後悔しても知らないぞ」
「後悔しようがしまいが、私の勝手だね」
慧音がもぞ、と動くのを感じて、妹紅は元より何も見えはしないのに目を閉じた。
――程なく左肩に鋭い痛みが走り、妹紅は痛、と声を漏らした。
「…噛んだの?」
「噛んだ」
「流石、半獣なだけあるね。こんなに野蛮だと思わなかった」
「せめてワイルドと言ってくれないか。これからその肩の傷を見るたびに、嫌でも私を思い出すだろう」
「馬鹿だね、リザレクションしたら綺麗に消えちまうさ」
「これを機に、少し自愛することだな。死なない事をいい事に、妹紅は自分を大事にしなさ過ぎる」
「結局最後は説教なんだね。雰囲気台無しだよ」
ぶつくさ言いながらも、輝夜に会わないようにしなきゃ、などと呟いている妹紅。
願わくば、出来るだけ早くさっぱりと自分の事など忘れてくれればいい。
妹紅自身の事を思えば、その方がいい。
願わくば、出来るだけいつまでも自分の事を覚えていて欲しい。
自らの内のそんな願いから、目を背ける慧音でもなかった。
自分にとってはどちらも偽り無く本心で、最終的には妹紅自身が選択する問題でしかない、と慧音は思う。
それを、自分の恣意で曲げてしまう事はしたくなかったし、どちらの選択肢も選べる所まで妹紅を導くのは最低限の自らに課せられた義務である、と思う。
いずれにせよ、妹紅には悪いが自分が去る方で本当に良かった、とそればかりが慧音には嬉しい。
妹紅の方から今夜のような話を持ち出すのは珍しかった。
そろそろ、自分達も次のステップに向かう頃合なのかも知れない。
際限なく自らを甘やかし続ける蟻地獄から脱出するきっかけを得て、慧音は独り拳を握り締めた。
胸を去来する微かな寂寥は、この気怠い睡魔に食わせて忘れてしまえばいい――
やがて、二つの寝息が寝室から聞こえ始める。
いつの間にか雲から再び顔を出した十四夜の月の光が、慧音の庵を静かに照らし続ける。
――今宵の月は、随分と赤かった。
>てゐの正確な年齢はよくわからないが、少なくとも三千年程度は生きている筈であった。
これは、本作品中の藍や紫の認識としては不自然ではありませんか?
この作品の藍や紫は、てゐが因幡の素兎であることを知っているようです。
そして、因幡の素兎であるならば、少なくとも約180万年以上は生きていることになります(この時間軸は東方においても同じであると思われる描写があります)
藍や紫が記紀の伝承に疎いという作中設定ならともかく、そうでないのなら「少なくとも三千年程度」という認識には違和感を覚えます。
レートの低さが気になって読み始めたが、導入部としては決して悪くは無い。
今から中編に行ってきます。
登場人物の間の愛情がとてもまぶしかったです。