――さよなら。私はその言葉が嫌いだ。だってそれは、冷たく、寂しく響くから。
お日様がお疲れ様を言って、あの山の向こうに沈もうとする時、私は広場の隅でオカリーナを吹いていた。夕焼けの色は少しずつ薄くなり、天上の青は濃さを増していく。どこか侘しく、切なく、置いてきてしまった何かを思い出すような空の色。そんな空にぴったりのあの曲を、私は吹いていた。
田んぼを抜けるあぜ道に二匹のトンボが飛んでいた。それらはまるでダンスでも踊るかの様に、ぐるぐると円を描いて回っている。「大ちゃん見ててね」と言ったきり、トンボを追いかけ始めたチルノちゃんは、逆にトンボにあしらわれて目を回していた。楽しそうに走るチルノちゃんの横顔は、夕日を受けて薄っすら赤く見える。私はそれを見ながら、こうしてオカリーナを吹くのが好きだった。素朴なオアカリーナの音が、夕日に染まる広場に広がっていく。
――どさりという音がした。驚いて振り向くと、私の隣に誰かが座っていた。
「……懐かしいね、それ。私も好きだった」
「咲夜さん?」
「買い物帰り。5時からお肉の特売だったからね。何とか間に合ったわ」
そう言って、給仕姿の咲夜さんは、荷物が大量に詰め込まれた買い物袋を、軽く掲げて見せてみた。お肉のパッケージには、3割引のシールが貼ってある。私は「おいしそうですね」とだけ返し、またオカリーナを吹いた。何の気なしに天上を見上げてみると、空の青はいよいよ濃さを増し、ポツンと一番星が顔を出していた。確か、宵の明星、金星と言った。私はそれを見つけると、堪らなく不安な気持ちになった。
「ドヴォルザーク交響曲第九番二楽章、家路。確かにこんなアンニュイな午後にはピッタリな曲だわ」
「……? 何ですか、それ」
「ん。知らないで吹いてたの」
「えーっと、違う名前で覚えてました」
「ああ、成る程ね。それもそれで正しいよ。まあ、あんたにゃそっちの方が似合ってるかも」
咲夜さんは何か納得がいったのか、二、三頷きながらそう言うと、ふっとチルノちゃんの居る方に顔を向けた。チルノちゃんは相変わらず、トンボを追いかけ回している。今になって気付けば、既に沢山のトンボが飛び回っていた。
「元気だねー、あれ。体力は申し分ないね。あれで頭の中が豆腐じゃなかったら、是非ともウチに欲しい人材なんだけど」
「チルノちゃんにメイド服は似合いませんよ」
「だろうね。あれは泥だらけになっている方がらしいわ」
確かにと、思わず苦笑いを返すと、咲夜さんも同じく苦笑いを返し、そうして二人の間に心地よい沈黙が降りた。チルノちゃんは駆ける。私はオカリーナを吹く。咲夜さんは、……何を考えているか分からない。優しい、ゆったりとした時間が流れた。まるで時間が止まったよう。このままこの時が、ずっと続けばいいのにと思った。しかし、それでも時間は決して止まる事無く、夜は少しづつ近付いてくるのだ。
「……」
民家の方から美味しそうな匂いがした。さっきまで一緒に遊んでいた子供たちは、きっとこれからそのご飯を食べるのだろう。泥だらけのお小言を母親に言われながら、温かい夜を迎えていくのだろう。私はそれを煩わしそうにも思い、また、少し羨ましくも思う。
屋台の看板にぽつぽつと灯が点った。そうして、時間切れを告げるサイレンの音が響いていった。
「おっと、うっかり長居しちゃった。これから晩ご飯作らなきゃいけないのよ、私」
「もう帰られます?」
「そうするわ。『カラスが鳴いたら帰りましょ』ってね。ウチには七つの子供みたいなのが居るから。あんたらも程々で切り上げて帰りなよ」
咲夜さんはそう言って、さっと身軽に体を起こすと、そのままどこかへと歩いていった。咲夜さんの後姿は逆光に隠れてよく見えない。結局、一度も振りかえることは無かったと思う。
温(ぬる)い風が吹くと、足元の名も無い草花が揺れた。まるで別れを惜しむように、草むらで鳴く虫たちの声が、私の後ろ髪をしっかり捕まえて放さない。私は、言葉にするまでに何度も躊躇いがあった。
「……チルノちゃん。もう帰ろ」
「うんっ」
チルノちゃんは元気に頷くと、私の方に向かって走って来た。そうして私達は、自分たちの住処に帰る事にした。
「……」
「……」
二人は薄暗い紅魔湖の上空をゆっくりと飛んでいく。言葉は無く、ただ黙々と互いの住処を目指す。もう少しで別れが来る。そう思うとこの空の色さえ憎い。それでも私は、無言でチルノちゃんのあとに続いていた。
山の向こうの夕日が沈む。すると、辺りは一気に夜の空気に変わって、私たちを追い出そうと寒気を帯びてきた。二人は急かされるようにして先を急ぐ。とうとう来てしまった。一日が楽しければ楽しい程、この時間が苦痛になる。私は、いつの日か考えたどうしようも無い事を、また考え始めていた。
……どうして、別れはあるのだろう。はじめから『さよなら』が決まっているなら、どうして私たちは出会うのだろう。どうしてそれを繰り返してしまうのだろう。
そんな、安ぽっい決まり文句の様な感傷。だが、私にとって永遠のテーマでもあった。答えは無い。恐らくこれから先も、ずっとずっと答えなんか無い。この寂しい気持ちは、どこまで行っても続いていくんだろう。
一番星は輝く。それをぼんやり眺めていると、チルノちゃんは急に飛行を中断した。ゆっくりと振りかえってチルノちゃんは笑う。ああ、これでさよならだ。でも、チルノちゃんは最後に、とっておきの呪文を教えてくれた。
「ねぇ、大ちゃん。――“またねっ”」
「……」
「ん? どうしたの?」
「ううん、何でもない。チルノちゃん。――“またねっ”」
……成程。最後にこんな素敵な言葉が続くなら、『さよなら』もそう悪くないのかもしれない。