『とざいとーざい、世界の果ての劇場へようこそ!
観客はあなたお一人です
どうぞ最後までごゆるりとお楽しみくださいませ―――お嬢様』
ワールドエンド・キネマ・ショー!
「パチェ、こういうのはどうかしら。あのね……」
「レミィにしては珍しい事を言うのね。よっぽどお気に入りなのね?」
「単に、そんなことが出来たら面白いと思っただけよ。深い意味はないわ」
昨日友人と交わした会話を思い出しながら、館の主は少しばかり早く目を覚ました。ベッドの天蓋をぼんやりと眺めた後、彼女は仕方無しに一人で着替えを済ませた。ノックの音を待ったのだが、同時にメイド長に今日の予定を言わなかった事も思い出したのだ。
部屋を出ると、紅魔館全体がまるで伽藍堂になってしまったようにしんと静まり返っていた。実際、お腹が空いたので食堂へ行っても、妖精メイド一匹みかけない。
台所に顔をだし図書館へ行き、門をのぞき、地下室にも足を運んだがなんの気配も無かった。
それぞれの場所にただ開演前の舞台のような、静かな部屋があるだけ。
屋敷内を彷徨うこと暫し。漸く人影を見つけてレミリアはほっとした。
ところがやっとの事で彼女が追いかけ、このエントランスで追いついた人物は……。声をかけようとして、レミリアは口をつぐんだ。
『ああ、良い所にお嬢様』
夕闇の中、振り返って大仰に言うと、奇妙に軽いお辞儀をしてみせた彼女。それは確かに自分の館のメイド長、十六夜咲夜だったのだが。動作は芝居がかっていて、まるで咲夜の皮をかぶった別人。
表情は人形のように空っぽだった。自我を何処かに置いてきてしまったように見えた。何かにたぶらかされたのだろうか?
レミリアが自分の従者を一目で判別できなかった理由は、その見た目にあった。
咲夜が着せられている衣装は、何時ものメイド服ではなく、白い手袋に黒い礼服だったのだ。
『私の魂が欲しくはありませんか?』
欲しくないと言ったら嘘になる。
でも彼女は決して軽々しくこんな事を言わないだろう。以前戯れに話を振ったときに笑顔で流されてしまった。それ以来、この手の話題はしないよう己を制してきたのに。
今回の早起きだって、彼女がいたからこその事だった。レミリアは苦い思いで咲夜に言った。
「あなたは魂の代わりに何を欲するのかしら?」
『飲み代の銀貨を』
脳裏に何かの景色が浮かんだ。
このやり取りには覚えがある。レミリアが昔暮らしていた世界での話。10月か11月になると現れるお化けの話だ。
「ジャック」
『……オ・ランタン!』
咲夜は言葉と共に、ぽんと小さなカボチャを取り出した。手の上に乗る愛らしいオレンジ色。しかし、レミリアは一瞥すると首を横に振った。
「それは輸入物。本物はカブよ咲夜」
そうだった。
咲夜の台詞はどうも、あのお化けを連想させるのだ。地獄にも天国にもいけず世界を彷徨うお化け。悪魔も騙す、うそつきのジャック。館にも一度現れたことがあったっけ。
『了解しました。では、これでどうでしょう?』
咲夜の手の上でオレンジ色が、ぼん、と音を立てて弾けた。中空から躍り出たカブが、堅い筈のカボチャを粉々にした。
爆ぜたオレンジ色は床だけでなく咲夜の銀の髪や顔までをも汚したけれど、彼女には気にする様子が全く無い。
カブのランタンお化けは、彼女の汚れた手袋の上で、勢いを付けるようにくるりと回った。緑の葉っぱが揺れている。そして、ある程度弾みをつけてレミリアの方へと飛んでくると、ぴかぴか光りながら甲高い声で笑い始めた。
あまりの騒々しさに手で払うと、カブはふい、と消えた。
「……なんの余興かしら」
オレンジの色をべたりと顔につけ、笑顔を作ったままの咲夜に主人は問うた。
咲夜を汚したカボチャの残骸が一瞬別の色に見え、紅い悪魔は内心ぎくりとする。
『どうぞ、こちらをご覧くださいませ』
咲夜は主人の横を通過して、入り口のドアに手をかけた。
蝶番が軋む大げさな音が屋敷に響いたけれど、これは、レミリアの趣味。重厚な館にはぴったりの良い音で、(図書館の魔女には不評なものの)彼女はこのドアが開く度に毎度聞き惚れていたものだ。
しかし、流石に今回は蝶番の音に耳を傾けている余裕など無かった。
徐々に開くドアの先には、何も無かったからだ。
門も無ければ、夕闇も、美鈴に手入れを任せた花壇も、霧のかかる湖さえも……消えていた。漠々とした空間。否、空間かどうかも分からない。
見ていると焦点が定まらくなってくる。白っぽい明るさをずっと見ていたら、目の奥が痛くなった。
思いがけない光景に、レミリアは驚きを隠せない。
これは誰が画策した事なのだろう。
サプライズパーティーにしては、少々やり過ぎな感がある。
フランドールではあるまいし、空間さえもこのように見境無く消してしまうのはいただけない。センスの無さに逆に興が削がれてしまうではないか。
だがしかし、自分に内緒で此処までの事をするとは面白い。中々どうして見事ではないか?
レミリアの口元に笑みが自然と浮かんだ。
「ふふっ……随分と凝った趣向ね、咲夜?」
振り返ると、従者は夕闇と共に姿を消していた。代わりにあったのは暗い空間。
レミリアが咲夜の姿を探したほんの一瞬。ドアが、開いた時よりも短い悲鳴を上げてばたんと閉まる。
途端に吸血鬼の目でも全ては見通す事の出来ない、空間を捻じ曲げたような粘着性のある闇に包み込まれた。
+++++
館の外では美鈴が焚き火をしていた。咲き終えてしまった花を集めて処分していたのだが、まだ乾燥しきらない茎がもくもくと茶色っぽい煙をあげている。
「なんだったんだろう、あんなの植えたっけなぁ?」
彼女は花壇に残っていた面白いものを思い出して首をひねった。もう既に花は無かったので、それが何の植物かが分からなかった。ぽんぽんと丸い物が、色の落ちた茎の上に乗っかっていて、気にはなっていたのだが。
「もう、太陽の畑から品が届いちゃったんだよね」
花壇には花の苗が既に植わっていた。
煙を見ながら、彼女は至極満足気な表情をする。花壇が綺麗になったから、きっとメイド長も褒めてくれるに違いない。二週間もすれば、華やかな色で埋め尽くされるだろう。そしたらどんなに美しい庭となることか。
「さてっと。火が消えるまで、門番に戻ろうかな」
美鈴は、ぐっと伸びをすると庭で洗濯物を干そうとしている妖精メイドに挨拶し、焚き火に背を向けた。……茶色の煙の行方については特に考えていなかった。
+++++
真っ暗闇の中で、主は腕を組んで次に起こることを待った。此処は自分の館。もしも厄介事でもこの位は巫女に頼まずとも解決せねばなるまい。
たっぷり3、4分は経った頃に漸く変化があった。左側の廊下辺りから、「何か」のやってくる音がしてきたのだ。
……しゃ……かしゃ……かしゃ かしゃん。
乾いた音。
その「何か」もこの闇で視力が効かないらしい。時に止まり時に進み、ふらふらと動いている。まるで糸に引かれるようにして、その音は段々とレミリアに近づいてきた。
「……」
カボチャ、カブランタン。真っ暗闇に、そしてこの音! 誰だか知らないが、よくも次々と用意したものだ。
……かしゃ。
断続的に続いていた音が止まった。数メートル先にそれらしい影が見える。人の形をしているようだが? レミリアは目を細め、それの正体を見極めようと試みた。
見覚えのある、長い髪。そして、翼。手に持っているのはなんだろう?
キ、キ、と音をさせてそれは、首を動かそうとしている。先程の咲夜のお辞儀といいどうも不自然に大げさな動きだ。
キ・イィィィ
長く音を引っ張ってとうとう首が此方を向いた。次に胴体が角度を変える。体のパーツごとに此方に向き直る姿は、さながら天井から吊るされた操り人形のようだった。
とうとう足先まで綺麗に揃い、一通りの仕事を終えたらしい。木偶のようなそれは俯いて沈黙してしまった。
近づいてみようか。それとも出方を見るべきか。
静かになってしまった相手を前に、レミリアはどうしたものかと考える。見覚えのある姿なのだが……。ひょっとしたら、これはパチェの実験の産物なのかもしれない。
とすると、捨て置いた方が良いだろう。下手に壊したら後で大変。結論を出したその時。
それは、動いた。
今までのゆっくりした動きが嘘のよう。あっという間に距離を詰めてくる。音がうるさく鳴った。俊敏な動きで、人形らしきものは腕を振り上げた。手に持ったものは大きな刃物。
「え?」
“その事”につい気を取られた。
レミリアは、振り下ろされた鉈にその幼き身体を切られ、身長に似合わぬ大きな翼を震わせる。目の前に居るのは人形ではない。彼女は咳と共に、喉にあがってきた液体を吐いた。
事実が頭の中で反芻される。
コレハ ニンギョウデハ ナイ
違和感があった理由、それは……。レミリアの身体は、刃を抜かれると同時に前のめりに倒れこみ、床に横たわる。
再び、沈黙が空間に淀む。
人の形をした何かは、ついと動いてレミリアの身体を拾い上げた。そして、再び長い音を立てて首を動かし方向を変える。
ゆっくりと、舞台のそでに消えるように、暗闇の奥へと姿を消した。
+++++
「失礼します。パチュリー様、お茶をお持ちいたしました」
瀟洒なメイドは入り口をノックした。返答があると、彼女は2人分のセットと共に中に入り、丁寧に扉を閉める。扉の中は、天井までもある巨大な本棚が幾つも聳える部屋だった。
図書館の主は二階程の高さの場所で魔導書を探していたが、咲夜の姿を認めるとすぐに降りてきた。備え付けられたテーブルに、このメイドは実に手際良く支度をしていく。
「珍しいわね」
パチュリー・ノーレッジは、席に着くと咲夜のエプロンを指して言った。何時もは染み一つ無い生地に、今日はオレンジ色がついている。
「お恥ずかしいですわ。実は食事の支度をしていたらカボチャで汚してしまいまして」
答えた咲夜の手により、白いカップに紅茶が滑り込んだ。独特の香りが華やかに立ち上り、テーブルの周りに魔法のように広がっていく。
魔女は満足そうに目を細めた。今日の紅茶はどうやら特別良さそうだ。
「こあの分はまだ淹れなくていいわ……」
言いながら、魔女は側に立つメイドのエプロンに指先で触れた。咲夜は多少の緊張を見せたものの、ポットを抱えて大人しくしている。
オレンジに染まった布地は、パチュリーの指先で見る間に元の白さを取り戻していった。
「はい、……できあがり」
パチュリーは最後にぽんと軽く叩いた。
このメイドがまだほんの幼い頃から見ているせいか、友人の居ない時にどうも子供扱いしてしまう。咲夜は恐縮していたけれど、これは単に自分が汚れを落としてあげたくなっただけの事。
レミリアが同席していたら、使用人に甘すぎると言われるところだろう。
パチュリーは満足して紅茶を一口飲んだ。すべらかな液体は喘息で荒れがちの喉を優しく通過する。深い味わいに思わずため息が出た。
「うん、美味しいわ」
ポットが冷めないようにコゼーをかけていた咲夜がこれを聞いて、僅かに表情を緩ませる。メイド長とは言っても、彼女はまだまだ10代なのだ。
「ところで、パチュリー様の使い魔は何処へ?」
作業の正確さに反して表情に隙が出来ている。メイド長はそんな自分の矛盾に気付いているのかもしれない。声に照れくささが混じっていた。
魔女は笑って彼女に答える。
「お寝坊さんのレミィを連れてきてもらっているの。そろそろ来る頃だと思うのだけれど……」
「あら、申し付けてくだされば私が行ってまいりましたのに」
テーブルの上の置時計が時を刻んでいる。図書館の高いところに換気の為の小さな窓があり、そこから夕闇が見えていた。
まだここの主人が起きるには早い時間帯だ。咲夜は取り分けたケーキをパチュリーの前に置いた。
「いえ、レミィにある事を仕掛けたの。あなたが行くと影響があるかもしれないから、教えなかったのよ」
こん、こん。
二度、ドアを叩く音。
パチュリーと咲夜は顔を見合わせた。
「噂をすればなんとやらね……もう会っても大丈夫だから、開けてきてもらえるかしら?」
魔女は咲夜に言ってから、椅子にきちんと掛け直した。
さて、と。もうくだけた態度は終わりにしなければ。深呼吸して、彼女は友人の対応に備える。今日は昨日からの実験の続きをする事になっていた。
ぴんと背筋を伸ばしたメイド長が図書館の扉に近づく。
すると、扉が空くや否や待っていたかのように、廊下に居た人影が中に飛び込んできた―――。
+++++
この子の出番は終了ってところね。
レミリアの傷は既にふさがっていた。身体を吹き飛ばされても一晩立てば治ってしまう体質だ。切られた位では、痒くも無い。それにしてもちょっと塞がるのが早い気もするが。
やられたふりは上手くいったらしく、小悪魔はレミリアが起きているとは微塵も思っていないようだ。
人形に扮して哀れな老人を騙す話があったっけ。
運ばれながらレミリアは、劇場のコンパートメントで観た演目を思い出す。たまたま食事に進入したのだが、舞台で楽しそうに人々が踊る様に心を奪われて、カーテンコールまでずっと観てしまった。
延々と続く廊下と高い天井。迫る両側の壁の所為で奈落の底にいるような気持ちにさせられる。パチュリーの使い魔は、彼女を抱えてゆっくりとその中を飛んだ。もう、あの乾いた音はしなかった。
辿り着いた先は案の定、図書館。
扉が開かれたのを確認すると、レミリアは小悪魔の腕から抜け出し部屋の中へと飛び込んだ。
「このタルタロスに良き番人はいないのかしら、パチェ?」
声をかけると、図書館の主が姿を現した。
『百の腕を持つ巨人を持ってしても、あなたを止められっこないでしょう?ならば番人など必要ないわ』
エントランスよりも闇は薄くなっており、パチュリーの背後に膨大な数の本棚が見える。本棚に納まる全ての本が彼女の知識であり、彼女の力。
彼女はまさしく稀代の魔女なのだ。
しかし彼女を含め、今の図書館は妙に虚ろで、レミリアは居心地悪く感じてしまう。
『おいで、こあ』
魔女が使い魔を呼ぶ。
すると先刻まで扉の前で立っていた彼女は消え、代わりに小さな影が走って主人の足元に擦り寄った。
『この子はただの使い。番人じゃないわ。……あなたを連れてくるように言っただけ』
黒い猫がゴロゴロと喉を鳴らしている。レミリアはそれを見ながら、この図書館が本当に舞台裏なのかどうかを考えていた。昨日の実験が影響してこの状況を作り出しているならば、仕掛け人はこの魔女なのだが。
黒猫の使い魔なんて、この魔女も随分古臭くなったものだ。
「パチェ、そろそろ実験を止めてもらえないかしら」
レミリアが言うと魔女は猫を撫でるのを止めて、不思議そうな顔をする。なんの事か分からないと言った表情だ。
『実験?……それよりレミィ、お茶でも飲まない?今日の紅茶はとても美味しいのよ』
パチュリーに会いに来る客人(主に魔法使い)が多くなった為、レミリアは最近図書館の端にテーブルを設えさせた。その木目の美しい家具の上に確かに紅茶のセットが乗っている。まだカップからは湯気が上る様子が見て取れ、気付けば辺り一帯とても良い香りが漂っていた。
真っ赤なりんごの盛られた盆。ケーキまである。きっと咲夜の手製だろう。ワンカット分は既に切りとられ皿に乗せられていて、残りの大きな塊は綺麗な断面を此方に見せていた。
そういえば、お腹が空いていたのだった。
ケーキのソースに、B型の血は使われているかしら?
レミリアの喉がこくりと鳴った。
「そうね、ちょっと動き疲れたし。休憩させてもらおうかしら」
テーブルに近づくと、何時の間に現れたのかジャックの咲夜が椅子を引いてくれる。丁度良い具合に座らせてくれて、悪い気はしない。もう彼女の顔や服にオレンジ色の汚れはついていなかった。
レミリアの前にカップが置かれた。よく磨かれたフォークとナイフが燭台の明かりに照らされて鈍く光っている。切られたケーキにたっぷりとソースがかけられて……。
『沢山食べて』
魔女はレミリアに分からぬよう、にやりと笑った。
+++++
「大変、たいへんです!!……きゃッ!?」
使い魔は息を切らして駆け込んで、扉を開けた咲夜に見事にぶつかった。余程の勢いがあったのか、ぽんと2メートルばかり飛んでそのまま二人で縺れ合うように着地。
パチュリーは密かに感心した。良く飛んだ。腐っても悪魔。人間よりは随分力があるものだ。
下になった咲夜は腰でも打ったのか、かなり痛そうだった。
「なにがあったの?」
パチュリーは椅子から降りずに使い魔に訊く。未だに咲夜を下に敷いた体勢のまま、はっとして小悪魔は答えた。
「お嬢様が煙に襲われて、目を覚まさないんです!」
「「なんですって?」」
パチュリーと咲夜の声が重なった。
三人は急いでレミリアの寝室に向かった。妖精のメイド達が窓という窓を開けて慌しく換気をしている。
「何度もお呼びしたんですが、お返事が無くて……」
小悪魔が道すがら何が起きたのかを二人に説明した。日中、門番が花壇の手入れをしていたのだという。そしてつい先ほどその手入れが終わり、彼女は散ってしまった花や雑草を集めて燃やしたのだそうだ。
ところがまだ乾いていない草に火をつけたので、煙が沢山出てきてしまった。
その煙は、館の開いていた窓から中に入り込み、一番高い場所にあるレミリアの部屋へ溜まっていった……。
「でも、何故お嬢様が起きないことに繋がるの?」
ここの主人は吸血鬼だ。煙ごときにやられる訳はあるまい。咲夜が聞くと、小悪魔は思案顔。
「分かりません。ただ、かなり強力な煙だったみたいで、吸った人みんな昏倒してるんです」
階を上がるごとに、野草を折った時のような匂いが強くなってきた。パチュリーは覚えのあるその匂いがなんだったのか、頭の書架の中を検索する。すると、未熟な青い実の姿が引っかかった。
あら? そういえば、薬に使う赤い花の種を美鈴に渡したことが無かったっかしら?
記憶違いでなければ、花壇にあった草の中には……。
咲夜が途中、煙を吸ってしまったメイド達に速やかに外に出て新鮮な空気を吸うように呼びかけた。ふらふらと酩酊状態のメイド達が外に飛んでいく。
更に進んで、螺旋階段を上ればレミリアの部屋まであともう少し。部屋へと続く塔の入り口を開けた三人。小悪魔と咲夜はそのまま登ったけれど。
パチュリーは階段を見上げて立ち止まった。段が急すぎるのだ。歩いて上ったら途中ですべり落ちるのではないかという角度。既に息は切れていたし、鼓動は限界まで早くなっていた。
……レミィは、昔から趣味が悪いのよ。
「もう無理」
魔女は階段手前の小さな空間にへたりこんだ。
「お嬢様の部屋の煙はどうなったのかしら」
心配する咲夜に、小悪魔が言った。
「美鈴さんが、窓を開けてくださいました。もう煙は無いんですが、美鈴さんも……」
門番、紅美鈴は責任を感じたのだろう。彼女は一人で、主人の部屋の窓を開けて空気を綺麗にした。ただ、やはり煙を吸ってしまったらしく、廊下に出たところで力尽きてしまったようだ。
小悪魔は美鈴を見つけたものの、急いでいたのでそのまま放置するしかなかった。
妖精達では重たくて動かせないので、多分、まだ廊下にいるだろうとの事。
階段の出口が見えた。
段の上を流れるようにして冷気に近い気が流れ落ちていたのだが、飛んでいる二人は気がつかなかった。
最初に階段を上りつめた小悪魔が声を上げた。咲夜が次にその姿を見た。
廊下の先、レミリアの部屋の前でしゃがみこむ小さな影
「……あのね、めーりんが起きないの」
不思議に光る歪な翼。
紅魔館のもう一人の吸血鬼が、廊下で昏倒する美鈴の側にいた。この騒動で地下室から出てきてしまったのだろう。お気に入りが倒れていることにどうやら怒っているらしい。暗い炎が瞳の中で揺らいでいる。
咲夜は振り返った。流れ水を操ることが出来るパチュリーなら、大事にならずに事態を収拾できると考えたのだ。
しかし、魔女の姿は其処には無かった。小悪魔が咲夜の後ろに隠れて目じりに涙を浮かべ震えている。
時を止めてしまえば退路は確保できるが……。咲夜はそっとポケットの中の懐中時計を探った。
「……お姉さまも寝ているのよ。逃げるの?……逃げちゃ駄目」
レミリアの妹、フランドール=スカーレットは小さな手をぎゅっと握り―――
「「!!」」
小悪魔と咲夜は目を瞑った。
+++++
どかん!
+++++
大きな音を立てて、テーブルが吹き飛んだ。ケーキも紅茶も何もかもが宙を舞う。
レミリアの手にフォークだけが残った。頬に傷が出来るがまた消えてしまう。今度こそ明らかに、治りが早かった。
お茶のセットがこぼれた床は、色とりどりの煙を上げている。
「まるで魔女の鍋の中ね」
降って来たりんごの一つを受け止めてから、レミリアはパチュリーに向かってフォークを向けた。魔女は悔しそうに顔を歪めている。
「あなたも“役者”なわけね。役どころは……そうね、りんご売りに扮した魔女かそれとも……?」
燭台の蝋燭が散らばって、火が本棚に移った。次々に燃え移り、図書館を明るく照らしていく。
燃え広がる音の中、炎を踏みながらトリックスターのお出まし。フランドールは片手に首が半分取れたくまのぬいぐるみをぶら下げていた。彼女が手を握ると、レミリアのすぐ側の壁にひびが入ってから崩れた。
「ええフラン、ここは壊しても良いのよ」
レミリアがりんごを投げてやると、妹はくまを振ってそれを落とした。
「……多分そういう役なのでしょう?」
レミリアは背を向けて、壁に開いた大きな穴から図書館の外に出た。楽しそうな笑い声に混じり破壊と悲鳴が聞えた気がしたが、構わなかった。
図書館かと思ったその部屋は、随分高い位置にあったようだ。突然重力を感じ、レミリアは翼を開いた。しかし、まるではりぼてを背負っているように上手く飛べない。
身体が翼の重みで反転し、仰向けの状態で落ちていく。
それまでいた場所が見えた。長針と短針が見え、次に文字盤が見え……そして白い空間は姿を消して、書割のような時計塔と夜が姿を現した。描かれた月に誘われるようにして蔦が伸び、塔に絡まり壁面に緑の梯子を作っている。
フラン、魔女。そして、塔……ね。
塔の全景が見えたのと、彼女の身体が館の屋根を破ったのはほぼ同時だった。次の瞬間には小さな身体が床に叩きつけられた。
「痛ぁ……」
そのまま寝転がっていると、自分が落ちてきた穴が見える。どうも今日は良く怪我をする日だ。何時もより早く治ってしまうけれど、やはり怪我をすればそこそこ痛い。
いや、結構痛い。
……咲夜は何をやっているのよ。
ジャックではなく、メイド長の咲夜が飛んできてくれないかと思ったが、やはり気配は無かった。何時もなら、なんだかんだすぐに来てくれるのに。じん、と目じりが熱くなったのは痛さの所為だろうか?
結局お腹は空いたままだし、背中は痛いしでレミリアがそのまま寝てしまおうかと思った時。
匂いがした。
脳の痺れるような匂い。どこからか漂ってくる。起き上がると、匂いの元へと歩いた。
現在彼女のいる長い廊下は、彼女の部屋を除けば館の最上階にあたる場所のようだ。小さな窓から天から吊るされた大小の星がのぞく。
ゆっくり歩きながら考えた。
伽藍堂、咲夜と小悪魔の動きと音、暗闇。派手に飛び散るケーキや紅茶……
この紅魔館は劇場なのだ。咲夜と小悪魔の登場は、物語の「起」と「承」。彼女達がいたから、奇妙に思いながらもレミリアは舞台に乗せられてしまった。
小悪魔のパントマイムで舞台だと気がついた。腕を振り上げた時に、関節音が一瞬ずれた事で演じていたのが分かった。
暗闇が音と動作の一体感に一役買っていた。
反響のしやすいエントランスを選んだのも音のずれを誤魔化すためだろうが、レミリアの視覚の利くところまで小悪魔が接近したことにより、“人形の役”を演じていることが明らかになった。
そう、二人とも演じている。客席で座って見ていれば、役者が役を演じるのは当たり前の事。しかし、普通に暮らしている者が何の前触れも無く、劇の真っ最中に放り込まれたらどうだろう?
自分以外の動きは、奇妙極まりなく目に映るに違いない。
ケーキや紅茶は小道具。パチュリーが小悪魔を猫に変えたのも、フランドールがテーブルや壁を破壊したのも手品のようなもの。
能力など使われていなかった。
パチュリーは調剤が苦手なのだ。紅茶やケーキに何かを仕込む行動は、彼女らしくない。
そして、フラン。
もし彼女が能力を使ったら、一度壁にひびが入ってから壊れるような事は無い。そんな悠長な能力ではない。使えば全て粉々にしてしまう。レミリアが投げたりんごをぬいぐるみで払ったのだって、予想外の事だから破壊する準備がなかったに違いない。
誰かが居る。この劇の舞台監督が。
そいつがチェスの駒のように紅魔館の人間を動かしているのだ。
匂いは、螺旋階段の入り口から漂うようだった。レミリアは用心深く進む。
少し心細くなってきた。
咲夜までもがこの“終わっている”劇の登場人物なのが、少し辛い。何時でも側にいる、自分の瀟洒で可愛いいメイド。
「咲夜」
階段へ通じるドアの前で、レミリアは小さく呼んでみた。耳をそばだてたけれど、
返事は無かった。
意を決してドアを開ける。足元を怪しげな煙が流れた。階段に通じる小さなスペース。
シャツにベストを着込んで髪を一つに結んだ門番が壁に寄り掛かり、腕組みをしてレミリアを待っていた。
袖は落ちないように留めてある。煙の匂いに混じって、油絵を描く時のテレピン油の匂いがする。今度は画家か。
『いらっしゃいませ。此処は二度と戻れぬ阿片窟。……ようこそお嬢様』
+++++
塔の一部が瓦解した音で、美鈴が目を覚ました。まず目の前にいるフランドールに驚き、そしてその視線の先にいる二人の姿に事の次第を把握する。
「妹様」
美鈴が呼ぶと、吸血鬼は階段の二人から視線を外した。
「めーりん……?」
「はい、めーりんです。ただ今起きました」
立ち上がると、フランドールの身体を抱き上げ笑いかける。フランは眉を寄せて美鈴に注意する。
「……こんなところで寝てちゃだめ」
美鈴は、恐縮した様子を見せるも、ちらりと咲夜に目配せをした。
「はい、失礼しました。次から一生懸命お仕事します!」
「お仕事……めーりん遊んでくれないの?」
「妹様とも沢山遊びますよー」
咲夜と小悪魔は顔を見合わせると、美鈴に駆け寄った。大きく壊れた屋根の穴から星が瞬き、真っ赤な月が顔をのぞかせる。
「まだ顔色が悪いわね……」
「心配ご無用。もう大丈夫です!」
「パチュリー様に後で薬を作ってもらいましょうか」
「めーりん、病気なの?」
「いいえ、危うくニシンみたいに燻製ににされかけただけで……それよりも」
一頻り美鈴の無事を確認すると、皆レミリアの部屋へと視線を寄せた。ドアは開け放たれていて、外から入る風が部屋の中の厚いカーテンを微かに揺らしている。
四人は部屋に入った。
天蓋付きのベッドに横たわる姿。フランドールが美鈴の腕から抜け出して、寝ている少女の傍にぴょんと飛び乗った。
咲夜も、主人の着替えを手伝う時のようにベッドの脇に近づき、そして驚いた。顔だけ見れば本当に寝ているようにみえる。それほど穏やかな表情なのだが。
……透けている。下の枕やシーツが見えてしまっていた。
おまけに身体に無数の傷があった。特に酷いのは肩から何かに切られたような痕だろうか。翼も折れてしまっている。
「……おじょうさま?」
咲夜の声が震えた。主人が自分を置いていく可能性を考えたことは、今までなかった。
「……これは」
美鈴と小悪魔が息を飲んだ。
咲夜はそっとレミリアの傷に手を伸ばした。ところが、指先に何かに触れたような感触は無い。フランドールは大人しく、咲夜の手が傷を伝うのを見ている。何処にも触れる事が出来ないのが分かると、咲夜は布団の外に出ていた主人の手に手を重ねた。
これでは、どうにも出来ないではないか。
煙で寝ているだけではなかったのか。皆、事の重大さに押し黙ってしまった。しかし、部屋の入り口からそれを破る声が響く。
「……レミィが観ている、夢が反映されてるのよ……」
ぜいぜい息を切らしながら、パチュリーが現れた。階段を休み休み上ってきた為に、随分時間が掛かってしまったようだ。
「皆しっかりなさい。なんとかレミィを起こさないと……!」
魔女が喘息の発作を起こしたのは、この台詞のすぐ後だった。
+++++
「お前に用事は無いわ。絵は間に合っているもの」
レミリアは美鈴を押しのけて階段を上ろうとした。ところが、煙の所為でくらくらして中々真っ直ぐ歩けない。揺れる頭をなんとか支えながら壁に手をつくと、そのままずるずると崩れた。
『絵なら、もう出来てます』
美鈴が微笑んだ。何を言っているのか分からずに、レミリアは顔を上げる。
『既にお嬢様の傷も何もかも、綺麗に描き写しました』
見上げた門番の顔は霞んでしまっていた。段々と痺れが回ってきて、考えることも億劫になってくる。画家に扮した彼女は屈みこみ、四肢をぐったりと伸ばしているレミリアを抱き上げた。
つい先刻まで描いていたかのような、油絵の匂いが染み付いた服だった。ひょとしたら、時計塔や夜空も彼女が……?
レミリアの意識はそこで途切れた。
『まだです。まだお仕舞じゃない。最後の舞台に、あなたを連れていきましょう』
+++++
薄っすらと、霞がかかったように景色が見えた。
レミリアは自分の体が柔らかなベッドの中で横たわっている事に気がつく。
周囲には何処かで見た事のある顔が見えた。
温かい手が自分の手に重ねられているが……。
+++++
『起きなさい』
淡い夢は中断された。目を開くと、やはりベッドの上だった。レミリアは紛れも無い自分自身に膝枕をされて、指で髪を梳かれていた。
「やっぱり、お前が黒幕というわけね……」
レミリアが言うと相手は頷いた。
『舞台は楽しかったかしら?』
楽しそうに笑う自分自身に殺意を覚え、身を起こそうとするが、身体が鉛のように重くて中々起き上がることが出来ない。治ったはずの傷が痛んだ。
レミリアは何とか相手の手首を掴んだ。
めりめりと音を立てるが折ることは出来ず、代わりに同じ箇所の自分の手首が砕けてしまった。
それも即座に治るが、痛みだけが引かない。
「一体これはどういう状況なの」
『あら、折角作った劇なのにお気に召さないの?』
+++++
突然レミリアの手首が砕け、咲夜は慌ててその場所を押さえた。やはりなんの手応えも無く、シーツのさらりとした表面が手のひらに感じられただけだった。焦りの為に動悸が早くなっていた。
どうしよう……! お嬢様……。
彼女はぎゅっと唇を噛んでシーツを握った。
「お姉さま、消えちゃうの?」
フランドールの声に、はっとする。枕元で、姉の様子を不思議そうに見ている。小さな牙が唇の間から覗いていた。
そうだ、ひょっとしたら……。咲夜はある事を思いついた。そして鈍く光るナイフをベルトから取り出す。
「いいえ妹様。レミリアお嬢様を消させはしませんよ」
フランドールに微笑むと、刃を白い肌に当てた。
+++++
『あなたは咲夜との記憶を残す実験を、パチェにお願いした』
そうだ。
実験は、記憶が薄れて消えてしまわぬようにする為のものだった。どんなに長い年月が積もっても思い出せるように、記憶を映像化するものだ。こっそりと、準備をしておきたかった。
今はまだ、纏める事が出来るかどうかの段階で、実際そんな事が出来るのかどうかも分からない。そんな本当に戯れ程度の実験。
起きたら結果を見る為に図書館に行く手筈になっていた。咲夜に予定を言わなかったのは、起き抜けの記憶の混乱を避ける為だった。
「……」
『でも、あなたの本当の望みは違うでしょう?だから私が出てきたの』
髪を梳かれる度に、自分の自尊心もしがらみも皆掻き出されてしまうような錯覚に襲われる。楽にしている所為か空腹を思い出し、牙がうずいた。
そういえば、まだ何も食べていない。
『あなたは、嘘つきね。本当は映像なんかでなく、咲夜本人を不死にしてこの屋敷に閉じ込めておきたいのでしょう?』
うそつきジャックは地獄にも天国にもいけずこの世に留まる。人形に生命を吹き込んで結ばれようとした哀れな人形師。本当は生きている女に焦がれていた。塔に閉じ込められた少女。魔女は彼女をどう思っていたのだろう?
全てが、レミリアに対するメッセージ。
“この世に不死者として留める”
“偽者の姿を見つめ、焦がれるのは滑稽な事ではないか?”
“閉じ込めたのは、愛していたから”
「あら、私がそれで満足出来ないと言いたいの?」
『……』
無言。
膝を貸す方は髪を梳く手を止めて、泣きそうな顔をした。自分がそんなに切実に咲夜との別れを嫌がっている事が、なんだか意外だった。
『私はあなたの深層思念。ここは全ての終わりの劇場』
「!」
『……私は別れの時なんて絶対に見たくないの』
ひょっとしたら、その事に気がつかない自分自身に絶望したのかもしれない。その結果が実体との心中という強硬手段とは、どうして中々趣味が悪いではないか。
呆れつつ、自分の為に用意された劇を頭の中でもう一度さらった。
一つ登場人物が余っている。
そういえば……忘れていた。画家とは、どういう役回りなのだろう。ひょっとして魂を描き映す、あれだろうか?
レミリアはある話に思い当たり、重たい身体を引き剥がすようにして起こした。美鈴は絵が既に完成していると言っていた……。何処かにある自分の実体に、こちらの出来事が反映されてしまっているという事か。傷の治りが早いのも、飛べないのも、自分が実体では無いからで……では実体の自分は?
あまりに傷が酷ければ、血を飲まなければ身体を保っていられない。
部屋の中に皆の姿があるのが目に入った。それぞれが舞台の衣装を着て立っている。
『カーテンコールよ』
レミリアの影が笑った。
+++++
銀の刃が咲夜の腕に沈んだ。
零れた赤い珠が、レミリアの唇を汚す。
血は身体を通過せずに、その口の中へと消えた。
+++++
急にもやが晴れるように、意識が覚醒するのが分かった。口中にじわりと甘美な味が広がる。この味は、ひょっとしたら……レミリアはにっと笑った。
側にいなくても良く出来た従者ではないか? 身体が軽くなり、痛みも消えた。これなら力の発現も可能だ。
翼を広げると、一飛びでベッドから降りて皆の下に舞い降りた。
『!?』
さぁ、来なさい。主と夢を共有するのもまた運命。レミリアはまず画家に近寄る。
「まじめな顔のあなたも悪くはなかったけど……」
ばしんと頬を張った。
+++++
どさりと、美鈴が倒れた。側に立っていた小悪魔は驚いて美鈴の身体を揺さぶるがぴくりとも動かない。
フランドールが首を傾げている。
+++++
「痛いですよ。お嬢様……」
「……やっぱりこの顔でないとね」
画家の格好をした美鈴が目に涙を浮かべて目を覚ました。自分の服装に驚く彼女を無視して、レミリアは続いてパチュリーに近づいた。彼女の服も古風な黒っぽい衣装に変わっている。
「ちょっとパチェ。あなたの実験は何時終わるのよ?」
腰に手を当てて尋ねると魔女は目を開き、面倒臭そうに答えた。
「花壇のケシの所為で予定が狂ったのよ。まさかあなたがこんなに深く眠るとは思ってなかったもの」
パチュリーはため息をつき、美鈴を見遣った。門番は、冷や汗をかいて部屋の隅で大人しくしている。
そう、これはケシの所為なの……呟いて、レミリアもじろりと美鈴を見ると、益々彼女は小さくなった。実はパチュリーが小悪魔にケシの実を取りに行かせるのを忘れた事も原因の一つなのだが。
魔女はちらりと舌を出した。
「パチェ、貴女の使い魔も起こしてくれるかしら」
肩を少し上げて呆れたような仕草をし、レミリアは友人に言った。
+++++
化粧台の小さな椅子で呼吸を整えていたパチュリーが、ぐらりと揺れて台に突っ伏した。使い魔は主人の名を呼ぶと美鈴から離れた。
しかし、彼女も魔女の足元で倒れてしまう。腕からぼたぼた血が流れるのも忘れ、起こった出来事に咲夜は思わず目を丸くした。
「さくや、それ飲んでも良い……?」
「……後で美味しいおやつをお持ちしますから、……」
しゅうしゅうと音がしているのに気がつき、視線を戻すとレミリアの手首が治っていた。咲夜がほっとした瞬間、今度はフランドールが目を閉じて、ぽすんと毛布に横たわった。
+++++
前髪を上げてレミリアがキスをすると、フランドールが目を覚ます。綺麗なドレスが良く似合っていた。フランは右手のくまのぬいぐるみに気がつくと、ぎゅうと抱きしめた。
ところが部屋の隅にいる美鈴の姿を見ると、ぬいぐるみに対する興味が失せてしまったらしい。一瞬で粉々になるくま。中の綿が宙に散った。
フランは小さくなっている美鈴に近づいて、ベストの裾を引っ張った。美鈴が彼女に笑顔を見せる。
パチュリーが起こした小悪魔は、腰をきつく締めた長いスカートに戸惑っているようだ。
『……どうして?』
ベッドの上のもう一人のレミリアが、言う。
「どうして? ……あなたは確かに私だけれど、私としては不完全」
『劇が台無しじゃない!』
「ええ。夢を見ながら消え去るなんてラストは、私の好みじゃないもの」
最後に、レミリアは自分の従者の前に立った。手を伸ばし頬に触れる。さらりとした銀髪が、レミリアの手の甲に触れた。
「!」
皆息を飲んだ。吸血鬼の少女は背伸びをして咲夜に軽くキスをした……。
+++++
レミリアの横に添う様にして、咲夜が倒れた。
小さな部屋は再び静かになり、動くものは夜の風に翻るカーテンのみとなった。
+++++
「お嬢様、お待たせいたしました」
目を覚ました咲夜が、ゆっくりと腰を折ってお辞儀をする。
「遅いわよ、咲夜」
レミリアは言いながらも、どこか嬉しそうだ。差し出された主人の小さな手に口付けをすると、咲夜は背を伸ばした。
『……』
ベッドの影が無言で皆を見詰める。形勢は完全に逆転していた。
「チェック・メイトね。お腹も一杯になったことだし、帰らせてもらうわ」
各々が主人の話す相手に対しカードを取り出して、構える。さて、誰にやらせようか。考えながらもレミリアは影の様子をじっと見つめた。影は、小さい子供のように膝を抱えている。
実際、影の考えた終わりは非常に子供っぽいものだった。この世界は、自分自身の弱い一面とパチュリーの実験が作り出した幻燈なのだ。
目に見える形で自分のこんな面が姿を現してしまうなんて。
レミリアは苦笑する。
押し殺して、思念の下へと沈めて、いることさえも忘れかけていた。感傷的な自分がここまでアピールしたものは、別れに対しての拒絶……。
レミリアは咲夜の顔をちらりと見た。惜しむという事はその存在が大事だという事と同義なのだ。手元から去るときは辛いけれど、手元にある時は、もろもろのプラスの気持ちも齎すもの。
それが分からない影はやはり完全な自分ではない。どうしようもなく幼くて、欲望に忠実で、わがまま。それらを隠すプライドが欠けていた。
殺してしまおうかとも思ったが……。
“この”私は、それなりに重要な役割を持っているのよね。
「……屋敷を壊すだけで良い」
レミリアの命に意外な顔をするも、咲夜は頷いた。そして、何か言いそうになった美鈴の手を笑顔でつねる。小悪魔はパチュリーの表情を伺っている。
「フランも、壊していいわ。生きているもの以外何もかも全部ね。」
描かれた空も館も全てが壊れていく。破片になって、散り散りに消える。壊れた後は銀幕のように白い色が現れた。
フィルムの終わった幻燈。夢の終わり。
レミリアは、影に近寄る。鏡のように向き合うと、こつんと額をつけた。
「あなたは消さない。あなたがいれば、私はきっと大事な事を忘れないから」
目に涙を溜めて子供のような表情をしている影は、こくりと頷いた。
「決して悪いようにはさせないわ。約束よ。そこで見ていなさい」
身体が薄くなる。どうやら、時間のようだ。
『約束、守りなさいよ』
「このレミリア・スカーレットの言葉に嘘は無いわ」
+++++
目が覚めると、ベッドを覆う天蓋が目に入った。
随分長い夢を見ていた気がする。身体を起こすと、側に咲夜が、枕元にフランが寝ている。床に大の字で仰向けに転がっているのは美鈴。化粧台に寄り掛かるようにして寝息を立てる魔女の足元には、小悪魔が横になっていた。
みんな、夢の中で着ていた衣装をそのまま着ている。記憶の映像化は映像化どころか実体化にまで及んでいるらしい。
「……この実験は中止ね」
伸びをしながらレミリアはひとりごちた。しかし、随分とのどかな景色である。皆一様にすやすやと寝息を立てている。
自分の服を汚す血に気がつき、咲夜を見た。腕を怪我している。空腹が収まったのはどうやら彼女が機転を利かせてくれたからのようだ。
ちら、と自分が噛んで飲んだものなら……とも考えたが、それは心に仕舞い込んだ。それにひょっとしたら自分の能力の影響で、今後の咲夜の運命が変わらないとも限らない……。
可能性は無くはないのだ。
ベッドのサイドテーブルの引き出しからハンカチを一枚取り出すと、咲夜の腕の傷に巻く。触れた腕は随分温かかった。
レミリアはハンカチを巻きながら思いつき、きょろきょろと辺りを見渡した。
それから、こほんと軽く咳払いをし、もう一度、今度はゆっくりと、咲夜に口付けをした……。
おまけ!
(わぁ……)
(し!……レミィにばれるわ)
(美鈴さんなんか赤面してますよ。あれじゃばればれですよ)
(こあさん言わないでくださいよ……)
レミリアの後ろでぼそぼそと声がする。
フランドールなど、何時の間にかベッドに両ひじをついて姉の様子を後ろから見ていた。実に堂々とした様子である。
「お嬢様?」
咲夜も気配に目を覚ました。目の前にあったのは、レミリアが震えながらカードを取り出す様子。
「お、お嬢様、待っ……!!」
「不夜城レッド!!」
本物の紅魔館も、舞台のセット宜しく吹き飛んだのだった。
終了!
作者様が現出させたビューティフル・ナイトメア、楽しく鑑賞させて頂きました。
レミリアお嬢様、良いですねぇ。カリスマに溢れているとも逆にブレイクしているとも
いい難いのですが、なんていうか素の彼女っぽさがとても良いと私は感じました。
登場シーンは少ないのですが、妹様の描写も地味に好きですね。
お嬢様と咲夜さんの関係が将来どのようなフィナーレを迎えるのかは神のみぞ知る、
なのでしょうが、それが二人にとってのハッピーエンドだと嬉しいなぁ。ね、監督?
視点がころころ変わるのも、不安定さと叙述トリックに一役かっていると思います。
面白かったです。
この作は創想話に初めて投稿した物で思い入れがあります。
アレ入れたらどうかな、コレも楽しそうかな、と色々詰め込んで楽しく書きました。
だから、その時の楽しさが少しでも伝わったのなら良かったなぁと思うのです。
それから。
こんなに経ってから読んで頂けた事に感謝の気持ちでいっぱいです。
お返事遅くなってごめんなさい!
そして、本当にありがとうございました!