人の世から外れたこの世界にだって、一応の体裁くらいある。
主に八雲紫が弱体化したことへの安全策として、あくまで窮余の一策ともとれそうな。
考えてみればみるほど、ひどく疑問を抱いてしまうのは、人間の常である。
しかし、彼女は常に単純明快、即断即決。
決めてしまえば後は早い。
永遠亭のベッドの上で横たわり、天井を見据えながら霊夢は言った。
同じく永遠亭のベッドの上で横たわり、天井を茫然と見ていた藍は何も言わない。
だが、徐々に言葉の意味が飲み込めてきたのだろうか、瞳に力が宿ってくる。
どこかさまよっていた焦点がきっちり天井をとらえたと同時に、あらん限りの声を出してしまった。
「ゆかりを本格的に家に迎えようと思うのよ」
「な、何だってええええええええええええええええ!!」
「ちょっと藍、声が大きいわよ。何時だと思っているの?」
「これが驚かずしていられるか!?」
そこまで驚く理由が分からない。
元々そういう風に仕向けてきたのは藍のはずであり、渋々納得したのは霊夢の方だ。
それが今はまるで立場が逆転しているかのように、冷静な霊夢と狼狽する藍がいる。
相変わらず天井を見上げて視線を交わさずに、言葉のやり取りが行われる。
「確かに私は紫様たっての希望であるから、お前の家に置くとは決めた」
「ならいいじゃない」
「違う、あくまで一時的にだ」
霊夢はまるで自分が要領を得ないとばかりに言われてしまう。
「お前の言葉の意を解せばこうなる。ゆかりを一時的ではなく、このまま永遠に暮らしていくということだ」
「何を言っているのか。毎度毎度押し掛けているんだから、大して変わりないじゃない」
紫は頻繁に霊夢の住居に不法侵入しては、好き勝手に暮らしている。
週に三度は必ず訪れ、泊まることがなくても顔を見せたりはする。
だから霊夢にはいちいち往復されて、しかもいきなり出てこられても心臓に悪いので、紫の転居を考えたのだ。
帰りたくなればいつだって帰れる。藍がその役目さえ担えば。
「私の扱い悪くないか!? 何だそのどこでもタクシーのような扱いは!」
「タクシー?」
藍は紫と共に時折外の世界に顔を出しては、技術や情報、人間などを調べている。
その時見つけた、運賃を払って指定した場所まで運ぶ鉄の塊を「タクシー」という。
だが、霊夢には分かるはずもなかった。
「だからいいじゃない。紫の願いならあんた聞くでしょ」
「それはそうだが……」
「それにさ」
霊夢はその時になってようやく藍が横たわるベッドを見た。
擦れる音を聞いて、藍も霊夢のベッドの方を見た。
霊夢の瞳には、ふざけて言っている様子ではないと言外に伝えてきた。
「一番の理由は、紫がそうしたいって言ってたから」
「いつ?」
「ずっと昔よ、私がもっと幼いころに」
藍と霊夢の出会いは、長くは無い。
紫と霊夢の出会いは、長い。
霊夢が紫と初めて会ったのは、霊夢がこの世に生まれてきた時。
霊夢の母とも知り合いだった彼女は、霊夢の出産に立ち会っている。
「じゃあ、私が知るはずもないな」
「十年以上も昔になるけど、あんたは何していたの」
「ああ、私か?」
藍の目はすうっと細められて、どこか遠くを見つめる。
口元には隠しもしない、嬉しそうな笑みが広がる。
「あの頃は紫様と一緒にいろいろ回っていたよ。それは楽しかったさ」
「橙は?」
「あの子は元々長生きしていた妖猫でな。私たちの家に来たのはお前と会う数年前くらいだな」
「そう」
霊夢は、妖怪を退治する退魔士も請け負っている。
重大な異変を起きればすぐさま出動して、何度打ちのめされても必ず最後は解決に導く。
退魔士をやっているが、それは妖怪が憎いからしている訳ではない。
かといって人間が最高の存在だとも考えていない。
どちらも要らない諍いさえなければ、どうでもよかった。
だから藍が嬉しそうなのは何となくわかる気がした。
「分かったよ」
「許すの?」
「ああ、紫様の願いなら」
ふっと目を閉じて軽い溜息をついた藍。
やったと軽くガッツポーズをする霊夢。
「あ、じゃあ私の娘か姪っ子でいいわね?」
「せめて妹にせんかああああああああ!!」
「やかましい!!」
ぎゃあぎゃあ騒いだのが発覚して、薬師とその弟子が飛んできた。
二人は、薬師による説教を朝まで正座で聞くことになってしまった。
「私たち、びょうに……」
「何か云ったかしら?」
「……なにも」
睡眠を妨害されたことへの激しい怒りか、すでに二人の体にはいくつか矢傷と軽いやけどができていた。
こっぴどく叱られた二人がようやく床に再びついたのは、朝日が昇る数十分前。
説教を考慮したのか、兎たちは昼近くになるまでは起こさなかった。
治療費をいくらか支払い、神社への帰り路の途中で霊夢が気付いた。
「ねえ、ゆかりどこに預けたっけ?」
「私に分かるものか。大方里の誰かが保護してくれているだろう」
里のことなら、慧音に訊けば早い。
そう判断した二人は、慧音が住んでいるところに足を向けた。
昼近いこの時刻。仕事をひと休みして昼食をとる人が多い。
あたりに漂う芳香と、啜る音や焼ける音が腹の奥底を刺激した。
「何か食べて行く?」
「手軽に蕎麦はどうだ?」
走って追い抜く人、すれ違う人の波をよけながら、目に付いた店に近づく。
「ねえ、そばある?」
席に着く前に確認をとってみる。店員は二人へにこやかにうなづいてみせた。
二人は並んで座り、下げられた紙片を見る。
食べたいものは決まっている。後は細かい種類を決めて、店員に話しかけるだけである。
「ざるそばをお願い」
「私は天ぷら蕎麦を頼もうか」
店員が奥に引っ込んでいくのを見ながら、コップに注がれた水を飲む。
「さすがにこの季節に熱い蕎麦はねえ」
「やはり、冷たいものを食したいしな」
テーブル席の奥に陣取り、蕎麦が出てくるまでの間にコップは空になる。
別のテーブルの皿を下げていた店員が気付き、別の店員がおかわりをつぐ。
昼時はカウンターでいそいそ食べるもの、テーブルで談笑しながら食べるもの。
色々な人間を見ることができる位置に二人はいた。
ほどなくしてふたつ蕎麦を抱えた店員が二人の前に置く。
どちらからともなく箸を手に取り、一口すすった。
ひんやりして、強く前面に押しださないもののたしかに主張している固さがのどを通る。
長々と噛むことはしない。一気に飲み込めるだけの量の蕎麦をつかむ。
薬味のネギの香りとわさびの辛さが、鼻腔をくすぐった。
天ぷらを割いて噛めば、さくっとした軽い歯触りに油の香味が広がる。
中身は、しそ、ナス、かぼちゃ、エビの四種類と贅沢である。
「当たりね」
「当たりだな」
音をたてて食べることが許された食事は、構える必要がいつもよりもっとなくて気分がよくなる。
豪快に食べようが、ちんまり食べようが同じなのだ。
いや、そもそもいちいち人の食事マナーを説明しようとする無粋な輩はそういない。
ここはどこぞの料亭とは違う。
話のひとつでもふってやろうかとぼんやり考えていると、藍がナスの天ぷらを食べている、その箸の動きが止まった。
口の動きもひどく緩慢になっている。
「どうしたのよ?」
霊夢がそう訊いても、藍は生返事しか返さない。
首は動かしていないものの、注意深く何かを探っていた。
不自然にならない程度に首を回し、店員に水を頼んだ。
「あー……霊夢?」
「どうしたのよ」
霊夢は蕎麦をすすりながら視線を上げようとしない。
霊夢も途中で気づいてしまったからだ。
視界のほとんどが藍でいっぱいの、その右端からかろうじて見える窓の向こうの通りに、どこかで見たような金の色。
それがこちらに近づいてくるのだ。
「あー!」
指をさして、大声で叫ぶ。
刺された方は、どうにも反応できずにいる。
「こらこら、どこに行くんだ……おや?」
続いて入ってきたのは、二人が会おうと決めていた人物だった。
わざわざ出向く手間が省けたのは素直に喜ぶべきところなのだろうが、どうしても喜べない。
二人がいましていることを考えれば、事情を知っている者なら大方分かってくれる。
「私も食べたい!!」
思いがけない再会というのはよくある話。さほど珍しいわけでもない。
生きていれば、思わずこういうところでまさかまさか、とあってしまう。
しかもそれが、何かしら後ろめたいものや避けたいと思う時に限って現れてくる。
二人の昼食は、上白沢慧音と紫あらため「ゆかり」が参加することにより、完全に昼の忙しい時間帯を越えてしまう。
逆にいえば、最も忙しい時に団体でのそのそ飯を食われては回転率の問題からあまりいい目はされない。
軽くとるつもりの昼食は、慧音とゆかりが自らやってきたことによって、霊夢と藍の腹の中は蕎麦だけで終わらせなかった。
「さて、全力でいくことになったけど、金はあるんでしょうね?」
「心配ない。私が普段頂いている給金を使えば余裕だ」
まず大前提として無銭飲食を避けたい霊夢の懸念は藍の懐事情がどうにかしてくれた。
「昼はまだよね」
「どこかで食べるつもりだったから、ちょうど良かったよ」
「ごはん、ごはん!」
「あーうるさい、そこ。好きなもの頼んでいいから」
爛々と目をきらびかせたゆかりは霊夢が事前に貰っておいたメニュー表をひったくるように奪い取り、慧音とあれこれ言いながら見ている。
呆気にとられていた霊夢は、藍に耳打ちする。
「あんなに食い意地はってたっけ……?」
「いや……そんなはずはなかったが」
あの夜に三人で食卓を囲んだ時は、年相応の量だった気がする。
しかし今この目の前にいる同じ少女は、あの時の二倍近い量を頼もうとしていた。
「エネルギー消費がやたら激しいとか?」
「幼くなられたことで、体のどこかに何かしらのバグでも抱えてしまわれたのだろうか」
霊夢は積極的な思考をうちきり逃げの思考に路線変更した。
支払いは隣の親バカなキツネがするから心配いらない、さらにこっちもあわよくばタダ飯にありつける。
魅力的な状況を自らの浅はかな結論で破壊するのもどうにも惜しいと決めて、おとなしく水をあおった。
メニュー表が閉じられたので、藍がすみやかに店員を呼びつける。
「私はたぬきだ」
「じゃあ私はきつねにするわ」
「お客様、たぬきはうどんですか?」
店員の発言に藍がぎょっとして振りかえった。信じられないとばかりに見開かれた瞳がしっかり店員をとらえる。
「常識的に考えて、そばではないか」
「か、かしこまりました」
たじろいでしまうものの、どうにか営業スマイルを張り直して慧音たちの方を向いた。
メニュー表をさっとテーブルの端に追いやりつつ、二人は思い思いの料理を挙げた。
「麻婆豆腐にご飯を頼む」
「お子さまランチ!」
「ちょっと待て」
霊夢が間髪いれず遮った。
全員の視線が一挙に霊夢に集まる。
店員も霊夢が遮る前に注文に対して困ったような顔になっていた。
「どうした霊夢。お子様ランチなんて普通だろう?」
「藍、メニュー表開きなさい」
言われるままに藍がメニューを開いて料理名を確認していく。
そのどこにもお子様ランチという単語は一切書かれていなかった。
「いくらなんでもメニューにない料理は出せないわ。ゆかり、なんか違うのにしなさい」
「やだっ! お子さまランチたべたい!」
「駄々をこねないでよ、私にこねたって店の人間じゃないからどうしようもないわよ」
「お子さまランチぃ!」
ゆかりはその場の床に足を叩きつけて体を使って小さく跳ねる。
外食先で文句言われるとまで思わなかった霊夢は頭痛がしてくる。
「あんた好きな料理ないの?」
「お子さまランチ」
「いや、それはセットの名前で、実際はオムライスやらパスタやらが小さく盛ってあるの」
「みんな好きだもん」
霊夢はゆかりの見事なまでの屁理屈に溜息がやや漏らしてしまう。
「大体あんたいくつよ? もうちょっと歳を考え……」
事実を突きつけようとした霊夢の喉元に、クナイが一本あった。
両腕は後ろ手に拘束されて、上手く動くことが出来ない。
「霊夢、饒舌は結構だがそれは禁則事項だ。
分かったな、いや分かっているはずだ、分からない方がおかしい、分かって当然のはずだ、そうだろそうだな!?」
「藍!? あぐっ!」
両手首に異様なまでの圧力がかかっているのが痛覚を通して伝わってきた。
クナイの位置が首元に迫ってきている。少し先端がふれて赤い球が膨らみ始めた。
背後に藍がいるためにその顔まではうかがい知れないものの、背中からぞっとするほどの冷気が流れている。
巨大な氷塊がすぐ後ろにあるはずがないのに。
「藍、落ち着け。何が何だかわからんが食事の時間だぞ」
慧音の落ち着き払った一言で、ふっと圧力が軽くなるのを感じると同時に、霊夢は床にへたり込んだ。
手首にはくっきりと手形がついており、しびれが続いている。
「果たしてどっちのかしらね」
「主に後者と言っておこう」
藍は静かに座りなおして、店員に「適当に料理を盛り合わせてくれ」とだけ頼んで下がらせた。
「何してたの霊夢?」
「緊迫した状況を愉しむ時間かしら」
「どうでした紫様、迫真の演技でしたでしょう?」
「つまんない」
ゆかりに一蹴されて二人は顔をそむけて息をつき、一人は鼻を小さくならした。
「……にわかには信じがたい話しだった」
ほうと一息ついて、慧音は湯飲みを置いた。
少しだけ安物の匂いがする玄米茶は、久しく飲んでいない霊夢には新鮮に感じている。
「ええそうね」
「しかし、いざ向き合えば、何てことはないのかもしれない」
「そうかしら、いまだに驚きを消し去れないわ」
蕎麦を愉しんだ四人の元にそっと配られた玄米茶の芳香に、霊夢は静かに目を伏せて飲む。
人を選ぶ独特の味を、彼女は好んでいるが里に降りると大抵緑茶やほうじ茶しかない。
待たされることへのせめてもの抵抗として、ゆかりは今は慧音の膝の上で丸まっている。
すねているだけだったのが、そのまま眠ってしまった。
「全く、子供よね」
「いいじゃないか。子供はこれくらいがいいんだよ」
前髪をどけてやると、ふるふる顔をふって抵抗するも起きる気配は見せない。
込み入ったところを話すには、都合が良かった。
「それで、話をもう一度戻そうか」
一旦玄米茶の注ぎ直しをしてもらって、慧音は口を開いた。
「急に飛び込んできたのは、八雲紫の弱体化および若返りについての話だった」
酒を飲んで悪酔いを起こし、ゆかりに(ある意味での)暴行を受けた二人は、永遠亭に搬送される前に手紙をしたためた。
鈴仙に頼んで慧音の元に送られたのが搬送されてから数時間たってから。
「あれは『上白沢園』宛てでくるものだった」
上白沢園とは、寺子屋とは別に、慧音が阿求と他の商工会とともに設立した孤児院である。
上白沢園に宛ててはいないが、永遠亭の計らいでそこが選ばれたのだ。
「捨て子か何かかと勘違いしてしまったよ」
「ちょっと、あんた手紙読んだでしょうが」
「あれは手紙というものじゃない。象形ですらない何かだ」
「やはり無理があったな……」
「『ちだめ、そのて、あづかれ。れんむらん』」
慧音が口にしたのは、ぼろぼろになった二人が急いで書いた文面の中身。
実際は色々書いてあったが、全く読めないミミズがのたうちまわった字面では解読も、そもそも文字としての認識も困難だった。
霊夢はそれなりに読めると踏んでいたが、自分で聞いてみても相当意味不明である。
何がいいたのかがわからない。
「死に体でそこまでかけたのは褒めてよ……」
「破滅的な文章を解読するのに阿求まで出張ったんだがな」
「と、ともかく。慧音、助かったよ」
藍は素直に頭を下げると、慧音の顔が若干ほころんだ。
元々慧音は二人を糾弾するつもりなどさらさらなかった。
そうでなければわざわざ自ら近づきはしないし、話すこともない。
「そうそう、阿求も手伝ったんだから何か後で礼をしておけよ?」
「阿求まで?」
「大半、というよりはほぼ全部彼女に押し付けたからな」
「それあんたが礼をしなさいよ」
メニューにない料理を注文された店としては、慣れない作業にまごついたのか、料理が出てくるのは少し時間がかかった。
待ち時間はそのまま何もせずにいれば長いが、雑談でも交わしていれば割と早く済むものである。
延々と「お預け」をくらっていたゆかりの目に生気が勢いよくよみがえってくる。
幼い童女の腹が訴える小さな主張に店員がくすりと笑いをこぼした。
「お待ちどうさまでした。きつねそば、たぬきそば、麻婆豆腐とご飯、お子様ランチになります」
「わざわざ面倒かけて悪いわね」
「いただきます!」
こめかめをかく霊夢をしり目に、ゆかりが号令とともに手をつけていた。
奥に引っ込む際に投げかけた視線を全く気にせず、量は少なく種類が多い特製のランチを口いっぱいに頬張る。
後先考えずに一気呵成にのどに押し込むものだから、頻繁にゆかりは喉をつまらせた。
そのたびに慧音が水を飲ませ背中や胸元を叩いているが、ゆかりは懲りることなくまた空いた口に詰め込む。
「微笑ましいったらありゃしないわね」
霊夢はゆかりを見ながら静かに麺をすすっていた。
さきほどとはうってかわって、上品な食べ方になっているのを自覚はしていない。
ゆかりが近くにいると、霊夢の顔は優しくなる。
気分が良くなり、もっと気分が良いであろう従者に声をかけようと首を回した霊夢が見たものは、
「……」
ゆかりのことなど眼中になく、ただ出されたたぬきそばを凝視している藍だった。
箸で行儀悪く中身を必要以上に掻きまわしたり、麺や具を汁から出したり戻したりさせている。
器を手にとって鼻を近づけ、やや間をおいて汁をすする。
やっと一口食べたと思えば藍の瞳はきっと細くなり歯をかみしめた。
「この蕎麦を作ったのは誰だああ!!」
器を片手に厨房付近のカウンターまでずかずか歩み寄り、従業員をねめつける。
その奥で茹であがりを見ていた一人の男が藍に近づいてきた。
年齢はまだ青さを残す青年のように、体つきもそれなりに肉付きも良い。
「お客様、どうなされましたか?」
「これを作ったのは貴様か?」
「はい、店主は私です」
藍がカウンターと厨房の境に器を乱暴に置いた。
「貴様、この料理は何だ」
「これは……たぬきそばですね」
「ほう? たぬきとな?」
顔を上げて見下ろすように言い放った藍に、むっとした男も語気が荒くなる。
「揚げがないではないか?」
「揚げ?」
「ああ」
「……お客様、それはどういった冗談ですか」
「冗談を言っているように見えるなら節穴だな」
ゆかりを見ていた慧音の目がそのままの姿勢で藍がいる方に動いた。
ただならぬ空気を感じ取った霊夢も席を立ち、藍の近くに寄る。
「藍、どうしたの?」
「霊夢、これを見てくれ」
怒気は霊夢には向けられておらず、泣きそうな声を出しながら器を指差した。
揚げがないと言われた男も不審な目つきで霊夢を見た。
しばらくいろいろ藍に言われるものの大方聞き流して中身を見ていた霊夢がある考えにたどり着いた。
「ねえ、この店でたぬきを注文しても揚げは出ないわよ」
「どうして!?」
霊夢は藍を押しのけて、男と正対する。
「あんた、『現実』の異邦人?」
「はい、何年か前に」
「東の出身?」
「よくお分かりになりましたね」
くるりと回って、両手を上げて肩をすくめる。
「はい、これで証明終わり」
「分からない!!」
いちいち喧しく叫びたてる藍の顔面に一発軽くグーで殴りつけてから、逆の手のひとさしをぴしりと天井に向けた。
「『現実』つまり外の世界だけど、東と西では味付けとか調理法とか微妙に違うらしいのよ」
彼女たちが住む国を割った時に、東と西の境が出来る。
ある地点を境に、大元は同じでも仔細な部分が異なることが多々ある。
男は東の出身であり、だからこそたぬきそばに揚げはなかったのだ。
「じゃあ西ならいいのか!?」
「西ならそもそも濃い醤油を使ったりはしない。たしか薄いわよ」
真相を明かされて、藍はひざを折ってその場に崩れ落ちた。
首を何度も振って、認めたくない現実をひたすらに否定している。
どうせまた、泣きそうな顔をしているに違いない。
単純明快、即断即決、それがが彼女の信条。
霊夢は片手に器を、片手に藍をもって席まで戻ろうと歩を進める。
「私のきつねあげるからおとなしくしてよ」
「本当か!?」
「嘘ついてどうするのよ、恥ずかしいったらありゃしない」
そこでようやく藍が周囲を気にする余裕、あるいは時間が生まれた。
さっと見回すと、遅めの食事をとっている他の客が藍たちを見ていた。
多くのヤジ馬からの物言わぬ視線に、藍の顔が真っ赤に染まり、じわりと瞳が潤む。
「ちょっと、泣かないでよ!」
「だって、だってぇ」
「ふむ、お前たちにこの子を帰すのが怖くなってきた」
「のんきに茶をすすらず手伝えよあんた!」
一刻過ぎようとしているのに、未だ食事処より出ることが出来ない霊夢だった。
「おさまった?」
「ん? ああ、さっきは取り乱してしまって、本当に私の立つ瀬がない」
一度里で買い物をしてから博麗神社に戻ってきた三人は、縁側に座って麦茶を飲んでいた。
散々騒いだ食事処には当分出向かない方がいいだろう。
少なくとも藍が同行している時は別の店にしないとまた騒動を起こしかねないと霊夢は危惧していた。
「霊夢、この神社にかえってきていいの?」
「まあね、私はしばらくお酒は断つわ」
「私も付き合うぞ。またああなってはいかんしな」
小躍りしながら台所に向かったゆかりを見送りもせずに、霊夢と藍は同じ夕日を眺めて麦茶をのどに流し込んだ。
酒を飲んでまた悪酔いや徹夜などしようものなら、すぐさま永遠亭のお世話になる。
退院したはずの病人がとんぼ返りしてくれば、主治医に今度こそ撃ち抜かれる確信があった。
若くして死にたくはないので、二人の決意は強かった。
「霊夢と藍に、『かいきいわい』だって」
長方形の木箱をよちよち危ない足取りで持ってきたゆかりから受け取り、早速中を開けてみる。
褐色の紙をどけてやれば、わざと古びれた紙のラベルが貼ってある。
里の人間でもそうそう飲めない、妖怪の山でひそかに販売している上質な酒が入っていた。
差出人の名前には、阿求と書かれている。
「てがみのおかえしだって」
「ごぶっ!?」
「ぶふっ!?」
同時に麦茶を吹いた。
だらだら口からこぼれる茶を気にも留めずに目をあわせる。
阿求が二人の決意を破壊せんと送り込んだのは、かなりの手練れだった。
読めない手紙へのささやかなる復讐を、そういうことをしそうにない阿求がしたことへの驚きも相まって、尚更二人は硬直した。
藍がごしりと口を拭うと、うっすら赤い跡が手に移った。
「何て……何て奴だ」
汗がとめどなく流れている霊夢は、目にはいっても拭わずにいた。
「きっと断酒をするのを見越して、わざといいとこの酒を送り込む」
「そして調子にのって飲みすぎたところで永遠亭に送還させて……」
戦慄する霊夢たちの元から去り、そしてまたやってきたゆかりは再び何かを抱えていた。
それは竹かごであり、中には野菜が色々入っていた。
「これは園に寄った時のか」
「うん! これをもっていくといいって!」
すでに買い物を済ませてしまった彼女たちだが、慧音たちからの野菜を先に食す必要があった。
それが一般的な礼儀だ。
「これだけあれば色々作れるな」
「それよりも……」
霊夢はそこからひょいとトマトを二つ取り出し、井戸から水をくみ取って桶に移し、そこにトマトを投げ込んだ。
「ちょっと味見しちゃおっか?」
「ご相伴にあずかってしまうか?」
すっかりいたずらを企む子供の気分になっていた。
「私もほしいー!」
「後でね?」
「紫様、少々お待ちください」
ほどよく冷えたころ合いを見計らって、トマトをわしづかみする。
みずみずしく、美しい赤を発するこの果肉を堪能してから夕食を作っても遅くは無い。
思い切って、かぶりついた。
「いっただきまーす!」
空を飛んでいた白黒な少女は、突然下方から響いた悲鳴に危うくバランスを崩して落ちそうになった。
上白沢園にて。
「阿求、中々お前も人が悪い」
「労力に見合った効果があることを願ってますよ」
「それともう一つ」
「はい?」
「白面金毛九尾の狐は確か死ぬ数年前から下野国の那須にいたんだよ」
「えっと……外の世界の本によるとたしか現在の栃木県くらいでしょうか? でもそれが何ですか?」
「いや、たぬきに揚げがあるのは関西なのに、どうして関東の奴がたぬきを?」
「さあ……?」