お燐の元気がない。
私がそう思ったのは、段々と地上が暖かくなる頃。ざぁざぁってすっごく雨が降って飛びにくい頃。外の世界の人の話だと梅雨って言うらしい。服が濡れるのは別に良いんだけど、なんでかそのまま人里とか行こうとすると、お燐やさとり様がすっごい顔で止めに来る。
透けてる、とか言いながら。
でも、そんな怒鳴り声が飛んでこないくらい、お燐の元気がない。いつ部屋に行っても布団にくるまって、息を荒くしてる。私が部屋に入ったら、笑ってくれるんだけど。知ってるんだ。無理してるってこと。
嘘とか吐くのは駄目だってわかってたんだけど、部屋を出たと見せかけてちょっとだけ入り口から中を確認してみた。ひんやりとしたドアに顔をくっつけて、細い隙間から覗いてみたら、何度も何度も咳を繰り返してた。
心配だからさとり様に聞いてみたら、大丈夫だって笑ってた。『夏バテ』だからって。梅雨のじめじめも猫のお燐には辛いらしくて、それに『夏風邪』ってやつも一緒に掛かっちゃったんだって。さすがさとり様は物知りだ。
えーっと、友達が病気なんだから、こういうときってお見舞いするもんなんだよね、うん、パルスィが言ってた。でもさとり様がしばらく寝かせてあげなさいっていうから、仕方なく外へ出る。目的地は旧都で良いか。
「おや、今日は一人か。猫のお嬢ちゃんは居ないみたいだね」
お燐が遊んでくれないから、退屈だったし。威勢の良い音が響く町の中をぶらぶらしてたら勇儀が手を挙げて近寄ってくる。だからちょうど良いと思って、挨拶してからお見舞いには何が良いか聞いてみた。パルスィと同じ鬼の種族だからきっと果物なんだろうなって思ったんだけど。
「ん? 見舞い? 酒だろ、普通」
「あ、お燐甘いお酒好きかも」
お酒だって。
体がポカポカするからちょうど良いんだろうなって、そう思ったら。
「……この馬鹿の言うことは聞かないようにね。果物か飲み物にしなさい」
いきなり横の家からパルスィが飛び出て、間に入ってきた。じーっと細い目で勇儀を睨んでたけど、なんでかな。
「古来より酒は百薬の長と言ってだな」
「うるさい、あなたは黙ってて」
たった一言で、収めちゃう。私よりも少し背の高い勇儀は力ならすごいらしいんだけど、パルスィの前だとその凄さがあんまりわからなくなる。こういうの天敵って言うのかな。さとり様に今度聞いてみよう。
「私達のことはいいから、ほら、これで何か好きそうなもの買ってあげなさいって」
私がそんな二人を見て思わず笑ってたら、パルスィが、ずぃって私を下から覗き込んできた。何かなって首を傾げてたら手を捕まれたよ。
「それと、雨に当たったら、ちゃんと服を乾かしてからお出かけするように、す、透けてるから、ほんのちょっと……」
「はっはっは、お前何人の見て恥ずかしがって……」
「せぃっ!」
「げふっ!」
一升瓶をぐいって傾けた途端に、パルスィお姉さんの見事な肘打ちが突き刺さる。ぽんっと後ろから肩に手を置きに行ったところで、綺麗に。タイミング、だっけ? それがばっちりで、勇儀を軽く怯ませた。旧都最強って言うと勇儀が出てくること多いんだけど、やっぱりパルスィの方が強いのかな? よくわかんないや。
「じゃあ、気を付けてね」
「余ったら、酒のツマミよろしく」
そんな二人と軽く手を振って別れて、旧都の果物屋さんに向かうよ。地上との出入りが自由になって大分経ったからもう当たり前~、って感じなんだけどね。実は今まで地底には果物屋さんなんてなかったんだよ。八百屋さんくらいかな。だから、初めて西瓜とか食べたら、すっごい甘くて、美味しくて。
あ、そうだ、西瓜にしよう。置いてなかったら、め、め、めもん? もろん? そんな感じのヤツか、さくらんぼにしよう。それがなかったらとにかく甘いヤツ。
「酸っぱい果物嫌いだもんね、猫だから当然って怒るけど」
好き嫌いは駄目だよね。
少し前、だったかな。私にはなんでも食べろって言う癖に、都合が悪くなったらコレなんだもん。私、化け猫属性だから無理、って。じゃあ私も化け烏属性だって言ったら。
「烏って何でも食べるじゃん」
きっぱり言い切られた。
なんか、悔しい……
悔しいから、きんけつけい……かんけつけい? ……あ、柑橘系の果物でも買っちゃおうかなって思ったけど、もうそっちの果物は時期が違うって言われたから、仕方なくサクランボにした。
西瓜はまだ早いって。
「そういえばそんな鬼さんもいたっけ、角が二本の」
どうでも良いことを考えて、袋に入ったサクランボを手に地霊殿へと戻って。さとり様にえっへん、いいでしょ~って自慢してから、お燐と一緒にサクランボを食べた。
そのとき、ちょっと布団に黒い毛が一杯付いてるの見付けて。
何それ? って、思わず口から出た。
自分でもびっくりするくらい早かったよ。こいし様で言う無意識ってやつかも。それくらい、白いシーツの上にびっしりだったから。悪い病気なのかなって思った。そう思ったら凄く怖くて、自分でもあれ? って思うくらい、口が勝手に動いてた。
でも、お燐は、眉毛の先を垂らして、困った風に笑うんだよ。なんでもないよって。
「こほっ……、冬毛が抜ける時期だからねぇ、仕方ないよ」
あ、そっか。
もう梅雨が終わったら夏だもんね。もこもこの毛のままじゃ、熱くて困るもんね。私烏だからそういうのあんまりわからないんだけど、お燐とか橙って化け猫の妖怪ってこの時期になると毛が抜けやすくなるんだって。藍っていうちょっと怖い狐のお姉さんも困ってるって言ってた。特に家の中の掃除が。
「枕とか出来ないかな?」
「あはは、自分で言うのもなんだけど。黒猫の枕って呪われた道具っぽくないかい?」
「そんなことないよ。お燐といつも一緒って感じだし! そっちのが良い夢見られそうだよ? 眠ってても遊んでられるかも」
「せめて夢の中くらい遊んであげられれば良いんだけどねぇ」
「気にしないでよ。私ちゃんと待ってるから。そしたら地上に行こうね、西瓜畑でおっきなの貰っちゃおう」
「……それ、たぶん犯罪」
「ええ? 落ちてるのに!?」
「いや、見た目は落ちてるんだけどね……、お空、あれはね、“畑”って言ってね」
「ふむふむ……」
ちょっと元気がない声だったけど、お燐は私と一緒にいるときだけ笑顔で居てくれた。本当は苦しいのかも知れないんだけど、私、もっと笑顔が見たくて、話を続けようとしたんだ。
でもね、廊下から声がして。
「お燐、お医者様がいらっしゃいましたよ」
「あ、はぁ~い。わかりました。ごめんね、お空、また明日話をしようね」
「……うんっ♪ わかったよ」
今から診て貰うんなら仕方ないね。
私はお燐に手を振って、赤と青の変な服のお医者さんの横をすり抜けた。後は自分の部屋に急ぐだけ。今日は早く寝て、明日一杯お燐とお話したいから。
少しでも長く遊びたいから、部屋に入ってすぐベッドに飛び乗って。枕をぎゅっとした。布団もぎゅっとした。
よくわからないんだけど、何かを抱きしめていたくて。
力一杯、ぎゅっとした。
かっくれんぼ。
かっくれんぼ。
今日も楽しくお燐とかくれんぼだよ。
梅雨の終わりまで長引いたお燐の夏風邪は、もう“良い”ってお医者さんが言ったらしいから、治ったみたい。
だからね、灼熱地獄で温度の調整が終わった後は、お燐と一緒に遊ぶ時間。病気で体を動かせなかったから、もう、地上とか飛びまくっちゃうぞ、おーっ! って、叫びたいくらいなのに。肝心のお燐がすぅ~ぐにどっか行っちゃうの。
「今日は地上だね、たぶん!」
だから、きっとかくれんぼなんだろうなって、思って。お燐が居そうなところに私が出かけるの。この前西瓜のお話したから、食いしん坊のお燐はきっとそっちにいっちゃったかなぁ。とか、いやいや、それとも死体がありそうな人里の周りにでもいったかなぁ、とか。こうやって、推理しながら森の中とかを飛ぶんだ。
本当は声で呼びたいんだけど、それじゃあかくれんぼにならないしね。降参したら大声で呼ぶことにするよ。
だって、お燐って。
『困ったことがあったら、叫んで良いよ。絶対あたいが飛んでいくから』
昔、そんな約束を私としちゃったからね。逃げられないんだよ、ふっふっふ。
「今日も絶対みつけてやるんだからね!」
意気込んで、制御棒を振り回した。でもね、森の中だってこと忘れてて、がい~んって、木の幹に当たって痺れちゃった。当たった方のおっきな木の方は……
なんだか半分くらい折れ曲がってるけど、いいよね、たぶん。
めきめき、とかいいながら幹を裂いて倒れていってるけど、
「にゃ、ぎにゃぉぅっ!」
なんだか聞き覚えのある声と、緑色の服が、木と一緒に風景のなかを流れて行くけど。きっとこれが自然の摂理ってやつ……
「お燐っ!」
「ば、馬鹿お空! いきなり何するのよ!」
「えっへへ~っ! み~つけたっ!」
「うわ、なんで毎日見つかっちゃうのかねぇ」
「そりゃあ、私達が親友だからだよ!」
「……ごめん、それ、ちょっと照れる」
木の枝の上に座ってただけなのかな、台車も何も持ってないお燐はちょっと恥ずかしそうに頬を掻いて、私の側に座ってくる。
どこか遊びに行こうか?
って尋ねても、このままの方がいいよ。だって暑いと汗かくし。とか、もう駄目だね、ごろごろモードだね。
座ってたと思ったら、もう葉っぱの上でだらしなく横になる。そんなお燐の背中をつんつんっと指で押しながら、私はお願いをする。
「ねぇねぇ、お燐。今度出掛けるときはちゃんと教えてよ。かくれんぼも楽しいけどさ」
「……かくれんぼ、か」
「違うの?」
「ん、たぶん合ってる、かな? ちょっとだけ隠れたい気分だったりするからねぇ
「よくわからないけど、とにかくっ! ちゃんと教えて!」
「うんうん、わかってるって」
「嘘だ~、また嘘吐くんだ~」
「んふふ~、どうだかねぇ?」
うん、たぶん嘘なんだ。
だって、もう十回以上言ってるんだもん。何も言わないで出掛けるお燐へのお願いを。
でもね、駄目なんだ。お燐はね、やっぱり一人で出掛けちゃうんだよ。
「いってきますっ」
って、いつもの挨拶をしないで。私の知らない間に出て行くんだ。さとり様も全然止めようとしない。
どこにいったの? って尋ねたら、さぁ? って。なんでかな。ちょっと困った風に言うんだよ。こんなこと思うと、そんなわけないじゃん馬鹿って、お燐に叱られそうなんだけど、凄く泣きそうに見えるんだよ。
何かを我慢してる風な、変な感じ。
それが何かわからないから、私はこうやってお燐とかくれんぼして、また帰るんだ。正直言うとね、ちょっと苦しいって言うか、よくわかんないけど嫌って言うか。
「今度嘘吐いたら、尻尾の毛抜いちゃうよ?」
「あ~、今ちょっと抜けやすいから、それは困るかな」
あ、まだ冬毛抜けきってないんだ、お燐。
なんだかんだ言って、体が小さいからかな? そういうところが……
「……子供っぽいとか思ったね?」
「うん、思った!」
「口聞いてあげない」
「えぇぇぇっ!」
その後、本当にぷいって背中を向けて、何もしゃべらなくなっちゃった、尻尾をゆっくり上下させてるところだけ見たら、そうじゃないってわかる。私をからかってるだけなんだなって。
だから私も、悪戯。
尻尾の毛をえいって、指で掴んで軽く引っ張ってみる。止めさせようとお燐が慌てて振り返るけどもう遅い。さっき言ってたとおり、簡単に尻尾の毛はぬけちゃって。見慣れたものより短い毛が私の指の中に残った。
「お空、だから抜けやすいっていったのに、あたい帰る」
「ごめんって、ね、ね? 人里とか見て回ろうよ~、乗せてあげるから」
「んー、まあ、お空がそれでいいなら」
「はい、けって~♪」
なんとか機嫌を直してくれたお燐と一緒に、私は薄暗い森を抜ける。約束どおりお燐が腰掛けられるように。速さ変えたり角度を考えたり、少しでも揺れないように。羽で空気を叩く。でも予想より軽い力で楽に飛べたのがびっくりだったかな。
あれ? お燐痩せた? とか。思っちゃった。
あ、わかった。そういうことだったんだ。
「さとり様には内緒にしてあげるからね」
美味しい物が地底に増えたから、それで太っちゃって。こっそり痩せるつもりだったのか。だから私に何も言わなかったんだ。
「……心の中読まれたら終わりだとおもうけど」
「あ、それもそっか!」
さとり様が困ってたのも仕方ないことだね。お燐の心が読めてどう反応して良いかわからなかったから。だって、最近さとり様もちょっとふっくらしてきて……、て、こんなこと考えたらご飯の量減らされちゃうかも。
「私は応援するから、困ったらいつでも呼んでよ」
「ああ、そうさせてもらうよ。ごめんね、お空。心配掛けて」
風邪でごろごろしてたから、太ったって素直に言ってくれればよかったのに。もう、お燐は変はところで意地っ張りなんだから。
……あれ?
でも、太ったら今、軽いはずなかったりするのかな?
ちょっと変、かな。
考えれば考えるほどよくわからなくなって、私は何も考えずに空を飛んだ。それから一杯、一杯お燐と遊んだんだけど、遊んだはずなんだけど。なんでかな。全然頭の中に残ってないの。
その日の記憶で残ったのは、ただいま、って地霊殿に戻って挨拶したときに。
「また、戻って来ちゃいました」
「ええ、おかえりなさい。お燐」
二人がいつもみたいに挨拶をした風景。
たったそれだけが、鮮明に残った。
「お燐はね、ずっと探し物をしているのよ」
次の日、やっぱりお燐が約束を破って出掛けちゃったから追い掛けようとしたら、さとり様に呼び止められた。
「探し物?」
「そう、決して体重などを気にしてはいないの」
「そっかー、じゃあ行ってきます!」
「待ちなさい、お空。一体どこに行こうというの?」
「え? お燐のところですよ?」
「邪魔をしてはいけないわ、あの子にとってとても大切なことなのだから」
もう、さとり様ったら私をなんだと思ってるんだろう。そんなお話を聞いたら邪魔するなんてできるはずないのに。
「じゃあ、何をしに行くの?」
あ、そっか、さとり様は心が読めるから考えるだけで良いんだ。えっと、
『探し物のお手伝いに、きっと二人で探した方が早いから』
「そう、でも、それが何かお空は知らないでしょう?」
『お燐に聞くから大丈夫です!』
なんでだろう。
普通にさとり様が聞いてるだけなのに、心の奥でモヤが広がっていく。なんだか、行っちゃ駄目って言われてるみたいで、私の中の嫌な何かが溢れてくる。
「……何を探しているか。それ自体、お燐が理解していなかったら?」
「え?」
でも、そんな黒い霧を少しだけ追い払ったのもさとり様の言葉だった。だって、さとり様らしくない変な言葉だったから。探し物がわからないのに探すなんて、ありえないもん。
「でも、思い出してご覧なさいお空、あなたが毎日お燐を追い掛けていたとき、毎日全然違う場所だったでしょう? 同じ場所に出掛けた日なんてあった?」
そういえば、と。私は昨日までのことを思い出す。
花畑に、人里の近く、妖怪の山、それに霧の湖、あとは地底とか……
「もし探し物がわかっているのなら、気候も風景も全然違うところを探すかしら? 花や植物でも生えているところが全然違うものもあるでしょう?」
「うにゅぅ……」
どんどん訳がわからなくなる。
だって、お燐、地底でもいろんなところで隠れてたし、わからないものを探すなんて、あり得ないと思うよ。
なんていうか、うん。
そうだよ、幻想郷と地底の全部を見て回ってるような、そんな感じ。
でも……でも、ですよ、さとり様。
「やっぱり一人は、寂しいですよ! 困ってるときこそ友達が側にいないと駄目って、さとり様も言ってたじゃないですか!」
私、ちょっと他のペットより馬鹿だから……わからないんです。
探すなって、言う方が無理なんですよ。
私は背中に聞こえるさとり様の声を振り切って、外へ出た。お燐の姿を探して、地底も地上も飛び回った。だけど、見つからない。焦りのせいで目が曇ったからかな、手がかり一つ見つからない。
「あ……」
探して、探して、探し回って。
ふと見上げたときには、世界は茜色で、地面も、空も、私も。真っ赤になってた。一日の終わりを告げる地上の鴉の群れが鳴きながら山へと帰り、私にも時間を教えてくれる。もう戻る時間だよ、って。
仕方ないから、私は最近地上の八百屋に並び始めた西瓜を一つだけ買って、落とさないように慎重に運んだ。お燐や、さとり様や、こいし様。地霊殿のみんなで食べるために。
なのに、その日。
お燐は帰ってこなかった。
「探していたモノを見付けたのかも知れませんね……」
さとり様が目蓋を伏せて何か言ってたけど、ごめんなさい、全然頭の中に入りませんでした。
だって、お燐がね。戻ってこないんだもん。一日だけだと思ったら、三日も。大切な台車を自分の部屋の中に置いて、帰ってこないんだもん。今日の朝食は大好きなハンバーグだったけど、味なんてしなかった。早く口の中に入れて、灼熱地獄の調整作業をすぐ終わらせて、お燐を探しに行く。たったそれだけが最近の私の目的。行儀が悪いって怒られたけど、仕方ないよね。友達のためだもん。
お仕事さっさと終わらせて、
「や、お空、久しぶり」
そうだよ、そんな軽い口調で挨拶するお燐を……
「…………えええええええええええええっ!?」
なんで居るのっ。
あんなに、あんなに探したのにっ。
私の大声が洞窟の中に何度も響く中で、音が直撃したお燐は耳を押さえてふらふらと、頭を回す。
「いやぁ、やっぱり効くねぇ、お空の大声」
灼熱地獄の中心まで行く途中、中庭の穴から少しあるいたところの岩陰で何か動いたと思ったら、お燐が腰を下ろしてた。ごつごつした岩肌に背中を預けて、申し訳なさそうに笑ってた。
「ごめんね、ちょっとだけ迷っちゃって」
「知らないところに行くからだよ!」
「いや、そういう“迷う”じゃないんだけどねぇ……はは、お空らしいね」
「あ~、そんな笑顔で誤魔化そうとしてる! 駄目だからね、約束何回も破ったんだから、絶対許さないんだからね」
私が怒鳴っても、お燐は困った顔を続けて、ごめんって言った。でも、何か違う。お燐の声に違和感があるの。
私よりもちょっと低いけど綺麗な声、それがお燐の音のはずなのに。今日は、掠れてる気がする。布団で寝てたときよりも、酷いくらい。よく見たら、自分の体の脇辺りを両腕で抱いて、ちょっとだけ震えてる。寒いのかな?
あ、ってことは。
「わかった! 夏風邪ってヤツにまた掛かっちゃったんだね。だからまた布団から出られなくなると思って帰ってこなかったんでしょ。探し物もできなくなるから」
「探し物……さとり様から聞いたの?」
「うん、お燐はきっとすっごく大事な何かを探してるって言ってた」
「あはは、いつもはほっといてくれるのにさ、こういうときだけは本当にお節介なんだから、さとり様は。もう少しだけ内緒にしてくれればいいのに」
「んー、よくわからないんだけどさ、えいっと」
私はお燐の横に腰掛けて、背中を岩壁にくっつけた。それからお燐を驚かせないように背中へ羽を回してみる。それに気付いてくれて、羽でくるみやすいように体を寄せてくれた。やっぱり寒かったんだね。灼熱地獄の入り口近くだとあんまり外と温度変わらないし。
「あったかいね……ありがと、お空」
「どういたしまして、熱っぽいなら無理しなくて良いよ。私も探し物手伝――」
あれ? 冷たい?
寒気がするって事は熱があるからだと思ったのに……
私が首を傾げたり、目蓋を何回も閉じたり開いたりしていると、お燐がまた笑いながら私を見上げてきた。
体を預けながら、瞳をまっすぐ向けてつぶやく。
「さがしもの、みつかったからいい」
「え、本当に?」
「うん、最初からわかってたんだけどね、“さがしもの”なんてする必要なんてなかったんだって。あたいってちょっとだけ我が侭だけど、さすがに迷惑かなって思っちゃってね。遠慮してたから、 その場所に足を踏み入れられなかった」
「それって、ナニナニ? お花畑とか、果物の一杯なってる森とか?」
「ん、もっと素敵な場所」
「……死体が一杯落ちてたりする?」
「ソレも良いけど、もっともっと素敵な場所」
「えー、それよりも好きなモノってありえないよ!」
「あるよ、そこにいるだけで、あたいはすっごい幸せなんだ」
どきって、した。
元気がなさそうで、ちょっぴりやつれて見えるお燐が私に向けて来た顔が、そんな微笑みがびっくりするほど綺麗で。凄く満ち足りてる感じだったから、何も言えなかった。何も言えなかったから、私は天井を見る。
なんだか、心の中がきゅっと締め付けられて見続けられなかったから。燃える紅色に照らされた壁は純粋な闇色じゃなくて、薄暗く深い赤。宝石みたいな石もいくつか張り付いているから、そこだけ綺麗に輝いていて、
「太陽が沈みかけの空、みたいだよね。キラキラが星みたい」
「へぇ、言うようになったね。岩盤がそう見えるか」
「へへ~、当然だよ」
「おみそれしました、お空様」
薄暗い、夕日に照らされた世界よりもずっと暗い世界。
それでも、足下は赤く燃え、水面が弾ける度に火の粉が飛んだ。
「……不思議だね、お燐」
「何が?」
「私、地底から出たことがなかったから、自分の名前に空ってついてるのに全然知らなかった。だから地上ってところもこことあんまり変わらないと思ってた。みんなは地底よりも明るいとか綺麗だって言うけど、私、みんなを苛めた悪い人たちの世界が綺麗なはずないって思い込もうとしてた」
水面から飛んだ赤い光は、ゆらゆらって、もやに揺れながら淡く光る。なんでかな、それを見てるだけで、あのときの気持ちが溢れて来た。
「でもね、地上に出たら、違うってわかった。飛び上がって地面を見下ろしただけで、涙がでちゃった。悔しくて、でも、凄いって気持ちが溢れて。よくわかんないけど、泣いちゃってた」
初めて地上に出たときの、あの緑の世界。
透き通る青色の中を流れる、ふわふわした白いもの。その中を私と同じ翼を持ったみんなが飛び回ってて……
「最初の日は凄かったよね。私が我慢できずにおもいっきり飛び回ったら、天狗の人とか、巫女さんとか一杯付いてきて、みんなで追いかけっこしたっけ」
「あんたがはた迷惑なことするからだよ。炎を全身に纏ったまま森の中を飛んだりしただろう? 山火事とか大量発生で、後始末にどれだけ苦労したか……」
「えー、お燐だってはしゃいでたじゃない」
「あたいは火車の責務である死体を集めてただけだよ、地上産の。いやぁ、質が違って凄く楽しかったねぇ」
あれ、でも、なんでこんなこと急に思い出したんだろう。
思い出を話しつつ、私に体を預けてくるお燐の横顔を見て、またコポコポと音を鳴らす沼地を見て、やっと思い出した。
そうだ、あのゆらゆらする火の粉に似てるのがあったんだ。
「そうやって地上で遊びすぎて、さとり様から一日追い出されちゃったんだよね」
「……あれは結局温泉を作る口実だったみたいだけどね、びっくりさせてやろうって。勇儀お姉さんも協力してたから……、鬼の大工は仕事が速くて、帰ったら出来てたけど」
「うんうん、それのとき初めて地上で朝まで過ごしたよ」
「お空はさとり様に捨てられたって、うるさかったけど……」
「え、ち、違うよ。何言ってるの。あれはお燐の気持ちを和ませようっていう私の心遣い! 嘘泣きだもん!」
「……はいはい、そういうことにしといてあげる」
ちょっと恥ずかしいけど、確かに私は泣いてた。
綺麗だって思ってた地上の景色が、夜の闇に隠れたみたいに、目の前がまっくらで、何も見えなくなって。お燐が大丈夫だって言うのに、寝てた動物たちを起こしちゃうくらいうるさく鳴きながら、森の上を飛んでた。
そしたらさ、神様だって言う人間が近付いてきてね。
『深夜も近いというのに、大声を出して飛ぶなんて! 私の睡眠時間をどうしてくれるんですか!』
なんか怒られた。
緑の服の紅白の巫女とはまた別の誰かに通せんぼされて、注意された。夜に騒いじゃいけないって。でも、私が泣いてるのを見たら、その緑色の巫女の人が急に優しい顔になって手招きしてきた。
連れてきてくれたのは、妖怪の山って場所らしくて、その神様っぽい巫女さんも暮らしてるらしい。お燐は途中で警戒して、引き返そうって何度も私に耳打ちしてきたけど、不思議と戻る気になれなかった。
この巫女の人が私達を退治するとは思えなかったから。
「そういえば、そこで見付けたんだったねぇ、あいたっ」
こつんって、少し体を起こそうとしたお燐がバランスを崩して岩に頭を打ち付けてしまう。そういえば、あのときも、巫女さんに連れられて到着した川原で、警戒しすぎたお燐は足を滑らせて頭をぶつけてたっけ。
私は泣くのも忘れて、水の流れる音と丸い石が並んでる初めての光景を楽しんでいたけど、巫女の人は言うんだよ。
『これから奇跡を見せてあげましょう』って。真剣な顔で。
その瞬間だったよ。
真っ暗だった夜の川原が、ざわついたのは。
うるさいわけじゃないんだよ、でもね、なんだろう。何かが目覚めた感じ。そんな不思議な感覚の中で、私は目だけを動かして“光”を追ってた。
一つ、二つ。
最初は、控えめに、穏やかに、川の流れに逆らうように。
三つ、四つ、五つ。
それに釣られて、両脇の茂みの中から集まって。
五つ、六つ、七つ……、い~~っっぱいっ
最後は私たちが立つ川原の小石から、木々の隙間から、淡い光が溢れて。私とお燐を覆い隠してしまう。
星が、降ってきたのかと思った。
自分でも馬鹿だなって思うんだけど、あのとき本当に地上の天井にあるキラキラが降ってきたんだって、吸い込まれそうな明かりに手を伸ばしたら。
なんのことはない、小さな黒っぽい虫だった。
『螢って言うんです、この時期に、何故か決まった時間に集まってくるんですよ』
出会った仲間達が毎日遊ぶ場所なんだって、巫女の人は教えてくれた。
こんなに綺麗だと毎日が楽しいね、って私が尋ねたら。
巫女の人は、静かに首を振った。
『この子たちの大半は、あと1週間ほど、7日程度でいなくなってしまいます』
私と同じ、手の平に螢を一匹だけ乗せ、またあの優しい笑顔。最初に神様だって言ってたけど、一杯の光を背負った巫女さんは本当に物語に出てくる女神様みたい。
『でも、その短い期間を精一杯生きる。その潔い美しさが、この圧倒的な光景を生むのです。あなたの涙を止めたのも、この子たちが作り出した奇跡に違いありません』
何も言い返せない。
木を、石を、星々を、全部を飲み込む光の群れを見るのが楽しくて、口を動かすことができない。
そんな一個一個の光たちと。
灼熱地獄の沼地から生まれた火の粉が重なって、私は思い出を振り返ってた。
「ねえねえ、今度もう一回見に行こうよ、さとり様も一緒に」
「……うん、いきたいね」
「そうだよね、行きたいよね。きっとあのときより、ばーって増えちゃったりしてるよ! ふふ~♪ 楽しみだなぁ、あの仲良し虫の光。きっとみんな友達なんだよ」
「友達……」
「お燐?」
なんだかまた元気がなくなったみたい。
楽しそうに話をしてたのに、なんでかな。寒いのかな。体の前からもう一方の羽をお燐に被せてみた。きっと、尻尾とか耳とかまばらに毛が抜けちゃって桃色の皮膚が見えちゃってるし、やっぱり寒いんだよね。
でも、まだ毛の生え替わりが終わってないなんて、駄目だなぁ、お燐。
さっきより私に体を預ける力を強くして、甘えんぼさんみたい。
全然体に力を入れてない感じもするけどね。
「ねえ、お空」
そんなお燐が、身震いさせながら私に話しかけてくる。
今度は見上げないで、地面をみたまま。
耳を力無く倒した状態で、躊躇いがちに口を開いた。
「変なこと、聞いて良い?」
「ん、いいよ」
「怒らない?」
「たぶん、大丈夫」
「そっか、じゃあ、お空の本音を聞かせて欲しいんだけどさ」
倒れていた耳が、少しだけ持ち上がるのと一緒に、消えてしまいそうなお燐の声が、私の耳に届いた。
「あたい……、あたいは……、ちゃんと、お空の友達でいれたかな?」
馬鹿だって思った。
そんなの答えなんて決まり切っているのに、本音で言えって。だから私はちゃんと、正直に答えた。
「ううん、たぶん、違うと思うよ」
「……」
「私とお燐はね、そんなんじゃないよ」
「そ、そっか、うん、そうだよね。あたい、口うるさいばっかりで、お空のこと……全然理解してあげられなかったもんね。あの異変の時も止めようと思えば止められたかも知れないのに、あたい……あたい……」
素直に、心のままに。
違うって答えたら、急にお燐泣き出しちゃって、びっくりした。
「え、えと……、なんで落ち込んでるの?」
「だって……お空が……あたい、を」
「だって違ったもん、本音でって言えって言ったでしょ?」
「言ったけど……言ったけどぉ……」
もぅ、本当にお燐はどうしようもないんだから、“友達じゃない”って言っただけなのにさ。だって私達はね。
「親友」
「……ぇ」
「友達じゃなくて、親友。さとり様も言ってよね、友達よりも凄く仲が良いのをそう呼ぶって。だから私と、お燐は親友」
「……お空、ありが、と……ごめんね、ありがとう……」
本当のことを伝えただけなのに、お燐は声を震わせてた。
たぶん、また泣いてるんだと思うから、私はゆっくり背中をさすってあげた。ちょっとだけ細くなって見える背中を、優しく、穏やかに。
「お燐がいるだけで、毎日すっごいんだよ。ほら、朝起きて何しようって迷うこともないし。お燐と遊ぶの一択って。あ、でも好きなご馳走だと取り合いになっちゃうのが嫌かな」
「ふふ……、本当に、馬鹿なんだから」
「だからね、明日は、お燐が探して場所に遊びに行って、その後夜は螢を見に行く。うん、そうしよ」
「そうだね、明日……さとり様と……こいし様も」
「うん、うん、約束。今度こそ守ってね」
「そうだね……頑張ってみる」
そうだよ、頑張って風邪を治してみんなで遊びに行こう。
西瓜だって準備してあるよ、三日前くらい前のだけど地下水で冷やしてさ。大きい方が私の、ってケンカとかしたりさ。ご飯の前にはちゃんと手を洗えってさとり様に怒られたリさ、こいし様とかくれんぼしたりさ、うん、一杯遊べるよ。
「ねぇ、お空……」
「うん?」
「ちょっとだけ……、膝、貸してくれない?」
「膝枕?」
「うん、きっとお空がやってくたら、凄い元気出ると思うんだ……」
いいよ、それでお燐が元気になるんだったら、いくらでもやってあげる。ほら、頭を乗せて背中を丸くして、楽な格好になっていいんだよ。
うん、私の膝枕で元気になったら、最期にまた一緒に。
あの螢が一杯の川原へ行こう。
会話なんていらないし、お燐が一緒にいてくれればいいから。
お願い、約束してね。
「お空は、暖かいね……」
「太陽みたいだねって、みんなから言われるし。当然だよ」
「うん、うん、やっぱり、あたい……ここが一番好きみたい。お空の側がいいよ……」
「私も、お燐と一緒にいると、ほわってなる」
「あたいも、ほわってなる。たぶん、きっと、これが幸せってやつなんだよ……」
「じゃあ、私も幸せ?」
「うん、幸せ」
もっと、もっと幸せになれるから。
明日はもっと、幸せがやってくるから。
「ごめん、お空。少しだけ……寝るね……もう、みつけたから……ごめんね……」
「うん? ……ん、いいよ。ちゃんと部屋まで送ってあげるから、安心して」
「うん、ありがと」
今日はおやすみ。
明日、遊ぼ。
「明日も……親友でいてくれる?」
「うん、まかせて」
「……ありがと」
お燐は、私の膝の上で静かに目を閉じて、全身から力を抜いたみたいにだらんってなった。探し回って疲れたんだね、うん。
だから今日は部屋まで連れて行ってあげるね。
私は、自分で動くことのなくなったお燐の体をお姫様だっこして、部屋まで運んだ。
そして、さとり様にお燐が帰ってきたことを教えてあげて、もう一回、灼熱地獄まで行った。お仕事途中だったしね。
私も今日はバリバリがんばっちゃって、明日の仕事は少しだけしか残さない。その後は地霊殿に戻って、明日、みんなで遊びに行こうってさとり様に言った。お燐も夏風邪が治ったら一緒に出掛けさせてって、お願いした。
そしたら、さとり様。
なんでか、悲しそうな顔でね。
「そうね……明日……」
それだけしか言わないんだ。いくら話しかけても一緒。“そうね……”って、気のない返事しか返ってこないよ。変なさとり様。
なんかちょっとだけ嫌な感じがしたから、今日は寝ることにした。
本当は寝なくてもいいんだけど、明日のこと考えながら布団に入るのって凄く気持ちいいから。わくわくして、どきどきして。なかなか眠れないけど、凄く楽しいの。
……それで、いつのまにか寝てて、寝坊するんだよね。
今日はみんなでおでかけだ、って。
大きく腕を振って廊下を歩いた。
元気よく、ぶんぶんってね。
で、やっぱり最初は、昨日元気のなかったお燐の様子を見ないと。
私がいつもより少し遅く起きたから、間違いなくお燐は起きてはずだから。
一歩、二歩、って歩数を数えて、角を右に、ほら、お燐の部屋が見えた。あ、今日は部屋の前にさとり様も居る。
あれ? 勇儀も、パルスィも?
ヤマメやキスメ、こいし様まで?
私もびっくりしたけど、私の姿を見て、みんなもちょっとだけ驚いたみたい。
あ、なるほど。さとり様、みんな呼んだんだね。
多い方が楽しいからってだから旧都のみんながここにいるんだ。でも、みんな黒っぽい服装なんて不思議――
「勇儀……さん、お願いします、お空を……」
変だなって、思った瞬間。
聞いたことのない、さとり様の声が聞こえてきた。
胸を押さえて、そのまま血でも吐いちゃうんじゃないかって心配なくらい、苦しそうに声を絞り出した。
「お空を……引き止めて、ください……」
「ああ、わかった……」
さとり様に注目してたら、こんどは勇儀が私に近寄ってきて。
「もし、恨むなら……私を恨みな……」
「え? 勇儀、何、何するのっ!」
いきなり私の後ろに回り込んで、羽交い締めにしてくる。
鬼の力で固定された私の肩は全然動かない。そうやってる間に、右手の制御棒も外された。疑問の声を上げても、誰も答えてくれない。俯くばかりで、誰も答えてくれない、
そんな私の目の前で、一つの箱が運ばれていく。
人が一人入りそうな、長細い木箱がお燐の部屋から出て行く。
中に何が入っているかなんて、私にはわからなかった。
わからなかったけど……
「離してっ! 離してぇぇっっ!!」
アレが運ばれちゃいけないものだっていうのは、わかる。
アレはここにないといけないものなのに。
地霊殿の中にないと、居てくれないと駄目なのに。
みんな、何も言わずにそれを見送ろうとする。静かに、見送ろうとする。
追い掛けたかった、追い掛けて取り戻したかったのに。
勇儀は離してくれない。
パルスィは私を見て、泣いてるだけ。
ヤマメとキスメは、少しでも進もうとする私の足を泣きながら押さえてきて。
こいし様は、無表情のまま箱を見送り、頬だけを濡らした。
「約束したのにっ! 明日出掛けるって、約束したのにっ!」
さとり様は、ただ、瞳を閉じていた。
みんなが泣いているのに、私が叫んでいるのに、静かに瞳を閉じて。
「幸せそうでした」
一言だけ、私に言う。
「あの子は、すごく幸せそうな顔をしていました」
私に、語りかけてくる。
「情を持った猫は、飼い主にその死ぬ姿を晒さないと聞いていました。だから、一人で寂しく命を終えるものだと、誰にも看取られることはないと、そう思っていました」
私に何かを伝えようとする。
「でも……あの子は、一番幸せな“さがしもの”を、最期の居場所を見付けたのでしょう」
大切な何かを、伝えようとする。
「私では……駄目でした。“さがしもの”に成れなかった。最期まで一緒に居たいと思わせることが出来なかった……だから、これは私のミスです。あなたに一番辛い思いをさせた、私の責任……」
我慢していた何かに耐えるように、唇を何度か噛みながら、さとり様は伝えてくれる。
「許してください、お空……許して……」
顔をくしゃくしゃにしながら頭を下げたさとり様の顔から、いくつもの滴が廊下に落ちた。
後から、後から、廊下に落ちる心の欠片。
キラキラ輝く液体から目を離すことができなくて、でも、心のモヤモヤも押さえきることが出来なくて。
「あっ! ま、待て、お空!!」
「きゃぅっ!」
私は、駆け出した。
さとり様の涙を見て、一瞬力を緩めた勇儀の腕をすり抜けて、あの箱を追い掛けるために。足にしがみついていた二人を振りほどき、おもいっきり床を蹴る。頭を下げていたさとり様は反応が遅れて、パルスィも私に追いつかない。こいし様も、ただ、立っているだけ。
ほら、もう少し。
絶対追ってこないと思ってたんだろうね。
箱を運ぶ人たちは、慌てふためいているだけ。
「邪魔だよ! 退いてっ!」
後は、一歩進んで飛び掛かるだけ。
それだけで、手が届く。
あの大事な箱を取り戻すことが出来る。
そう、思ったのに。
――急に、足に何かが当たった。
飛び上がろうとしていたときに邪魔されて、全然違う方向に転んでしまう。
その隙に箱は手の届かない位置まで離れてしまって……
追ってきた勇儀にも背中から押さえつけられた。
「誰か知らないが助かっ……え?」
勇儀が、私を転がした何かにお礼を言おうとして……
また力を緩めた。
だからもう一度身体を起こそうとして顔を上げたら、ソレが目に入る。
「……なん、で?」
だってこんなところにあるはずがない。
入り口から廊下に向かう通路に置いてあるはずがない。
大切な、大切な……
お燐の台車が……
私の目の前に転がっていた。
私がぶつかったせいで、すこし歪んだ台車が、誇らしげに……転がっていた。
『嘘吐いて、ごめんね。でも、親友を止めるのは、あたいの役目だから……』
そんな声が、聞こえた気がして。
私は、もう、何も出来なくなった……
動くことのない私の前で、どんどんと箱は進み……
いつもより静かな廊下だけが、私の前に残った。
>>落とさないように身長に運んだ
「慎重」では?
>>辺だなって思った瞬間
「変だな」
とてもいい作品だと思います。
お空の箱へ駆け寄るところでやられました^^
コメントありがとうございます。
修正させていただきました。
そして残酷なことに、幸せな思い出ってのは、ずっと残るものなんですよね。
きっと、あの子の幸せは、ずっとずっと、とある地底のお屋敷に残り続けるんです。
願はくは、この幻想世界に、ありとあらゆる幸せが永久に残り続け、世界が幸せでつつまれますように。
でもお燐が幸せそうでよかったです。
ところで、読んでる途中から鼻水が止まらない系の不具合があるんですがねぇ…
お燐の最後のセリフがグッときましたわ。