長い髪が手のひらから、さらさらと滑り落ちる。
滑らかで指通りの良い彼女の髪を片手で掬っては、細かな砂を零すかのようにさらさらと流す。飽きもせずに私はその動作を繰り返した。私のくせの強い髪とはまったく違うまっすぐな髪。
寝台の上で小さく丸まり、ゆったりとした寝息を立てる彼女に、やめて下さい、と苦笑まじりにとがめられる恐れはない。すうすうという健康的な息遣いと、髪を滑らせる僅かな音だけが室内に控えめに、密やかに響く。夜の静けさの中でなければ気付かないほどの、音。
寝台の端に足を組んで座り、しばらく無心で手を動かした。飽きることはなかった。ただ、髪を掬うたびに胸の内に巣食う彼女への想いがどうしようもなく強くなっていくのを感じた。
深く息を吐き出して、籠る熱を冷やす。そんなことでは効果がないことが分かって、私はそっと彼女の髪から手を離すと、自分の髪をくしゃりと掻き上げた。その途端、手のひらに移った彼女の匂いを敏感に嗅ぎとってしまい、弾かれたように慌てて立ち上がった。
全身の意識という意識、神経という神経が、痛いほど右手に集中するのが分かる。けれどここで、例えば手のひらを鼻に押し当てるようなことをしてしまうと、変態行為になるという自覚があるため、ぐっと堪えた。不自然に汗ばみ、熱を持つ手を握ったり開いたりして、その衝動を押しとどめた。
「……そうだ。カーテン、閉めないとね」
思考を切り替えたくて呟いた言葉が空々しく、言い訳がましく聞こえて、自分の部屋の中にいるというのに酷く居た堪れなくなる。紅魔館のメイド長という役をお嬢様に仰せつけられた時から、メイド達の中で特別広い部屋を与えられた。一人では広すぎる部屋に今は彼女と二人きりだ。
広い部屋にしては控えめな窓へと足音を立てぬように近付くと、窓硝子に己の顔が映った。傍目には無表情に映るであろう、冷えた表情。内心の葛藤も堪え切れないほどの熱も、決して面に出すことのない鉄壁の仮面。それが私の強みでもあり、同時に弱みでもあった。
己の顔から窓の外へと視線を移せば、黒々とした山の稜線が浮かび上がる。その上には闇に沈んだ空と無数の星々。微動だにしない硝子越しの風景は絵画のようで、酷く現実味がない。さっき、彼女と一緒にグラスを傾けながら眺めた時は、満点の星空を、限りなく黒に近い紺色の空を、何か特別なもののように、ロマンチックに感じたけれど、その感覚も最早消え失せていた。
その感覚の変化にぞっとする。美しいと、確かに心惹かれたはずなのに、彼女と一緒でなければ何の意味もない。何の感慨も湧かない。それはきっと、世界の鮮やかさを、色彩の楽しみ方を彼女が教えてくれたからで、美しさを感じる瞬間には必ず彼女がいたから、その美しさに彼女がプラスされて初めて、私は私の感覚で、美しさを感じることが出来るからだろう。
外界と隔てるかのように紺色のカーテンを引くと、部屋に満ちる静寂がより深く、濃密になった気がした。彼女しか目に入らなくなる。まるで何もない箱の中に二人で閉じ込められたみたいに、相手の存在に全神経を集中させてしまう。熱に浮かされたように感じるのは、さっきまで彼女と、箍を外すかのようにジントニックを飲んでいたからだろう。けれど頭の芯は冷静だった。
私と彼女は月に幾度となくお互いの部屋を行き来するような仲で、日々繰り返されていくあまり代わり映えのしない日常について語り合いながら、二人だけの時間を過ごしてきた。これからも続いて行くであろう日常に不満はないけれど、やっぱり変化は、欲しい、と思った。
今まで特別に変化を求めたことのない私がそんな欲求を持つというのは新鮮で、私はそんな囃し立てるような、急き立てるような感覚を半ば持て余していた。ただ、否が応でも、傍に近寄れば近寄るほど強引なまでに引かれ合う磁石のように、その欲求に導かれるまま走るしかなかった。
静かに歩みを進めて、寝台で眠る彼女を見下ろした。相変わらず幸福そうに寝息を立てていて、世界の穏やかさと温かさを一身に受けているような姿に、小さく笑みが零れる。
欲を持つというのは、冷たい身体に熱が灯るような感覚で悪いものではなかった。乾いた身体にアルコールを流し込むかのようなひりひりとした熱に突き動かされながらも、自分が今までとは違う別の何かに変わっていくような気がして気分が高揚した。止まっていた時間が動き出すかのように、感情の波が奔流となって身の内で荒れ狂う。様々な色を乗せて……。
「美鈴」
低く呟いた言葉は呪文のように私の心を揺り動かす。もちろん返事はなく、静寂が戻る。
彼女をひたりと見据えたまま寝台に脚を乗せて、手をついて身体を屈めた。顔にかかる髪をそっと指で耳の後ろにかけると、指先で睫毛をくすぐった。さりさりとした感触が伝わる。けれど、一向に目覚める気配はない。当然だ。あれはただのジントニックではなかったのだから。
「美鈴」
僅かに開かれた唇に、そっと口付ける。ほんの数秒、その間に目まぐるしく思考が切り替わる。柔らかく繊細な感触に感慨深くなり、唇を合わせただけなのに奪ってやったという達成感が溢れ、今ここで美鈴に目覚めて欲しいとも、目覚めて欲しくないとも思い、これが想いを遂げた後での行為なら、どれほど良いだろうと思う。ほんの僅かな罪悪感は、時を止めなかったのだからまだ良いだろう、と自己弁護をすることで押しとどめた。と言っても、結局は、私自身が時の流れの中で美鈴を感じたかっただけなのだけれど……。
欲。私の行動は、結局はすべてこの一言で片付けられる。
本当なら、この後少し身体に触れてやろうと思っていたのだけれど、予想以上に思考が熱に侵され、気持ちが昂っている自分に気付いて、ぐっと押しとどめた。ほんの少しの欲が、今は百にも千にも膨れ上がりそうだったから。ただ触れるだけでは終わらないような気がした。
冷えて凝った心の氷を融かされて、流れとなった想いが、彼女を侵す。
何でこんなにも好きになってしまったのかと言えば、日の光が似合う人懐こさと和やかさを持つところや、冷徹だと思われがちな私にも声をかけてくれたところや、メイド長である私を立てて一歩引いてくれているところや、自然の美しさを教えてくれたところや、癖のない緋色の長い髪に目を奪われたところや……と、挙げていくと切りがない。そんなふうに心惹かれた相手が、他の誰かのものになるなんてことは、決して許せなかった。許せない以上は、しっかりと自分の傍に置いておかなければならないし、私が彼女と最も親しい人物になる必要があった。
でも、彼女にとって最も親しいポジションにまで登りつめても、私は満足出来なかった。同時に不安だった。何の縛りもなく、いとも簡単に解消出来る関係。私は、その先にある関係を求めた。
自分勝手であることは百も承知だけれど、自分にとってこれほど勝手が許される相手はいない。遠慮せずに自分の意思を通せる相手はいない。庇護欲と嗜逆性を同時に掻きたてられる相手はいない。そんな都合の良い相手が誰かのものになるなんて耐えられない。この想いを愛と呼んで良いものかは分からなかったけれど、傍に置きたいという欲が、身体に触れたいという欲にまで発展した時点で、友情めいたものから愛情へと変わったんだと思う。それはきっと、より密接な関係を求めた結果だ。
意識のない相手に唇を重ねたからと言って、二人の関係が発展するわけではない。
けれども、私の想いは、欲は、次のステップへと移行したことは確かだった。
一段一段、自分の求めるもののハードルが高くなっていく。それをクリアしていくのは楽しい。彼女が誰かのものになる前に、私が彼女を手に入れるという焦燥に駆られながらのオリエンテーリングは、今や日常と化してしまったどんな仕事よりもやりがいがある。今日は横道に逸れて、眠る彼女の唇を奪った。最後にもう一度、と唇を重ねると、身体中がその先をせがむ。目的だった行為が、さらなる行為の通過点になり下がっている。自分の欲深さに呆れるとともに、面白い、と思った。
身体を起こすと、寝台の端に腰かけて、さて、この後どうしようか、と考えた。
薬を少しずつ、多量に飲ませたから、きっと朝まで目覚めないだろう。ならば勢いに任せて添い寝をするという選択肢もある。万一、彼女が先に目覚めたとしても、いかようにも言い訳はきく。こういう時が、同性である強みだろう。彼女に触れながら眠るのも、悪くない。
……でも、と私は腕を組んだ。
目覚めた時に、より罪悪感を刺激するのは、申し訳なさを感じさせるのは、と考えて、ソファで眠ることにした。そういう“親切そうな行為”の蓄積は大切だ。後に相手を制しやすくなる。
今一度、今度は目尻に恭しく口付けると、タオルケットの乱れを直して立ち上がった。
名残惜しさを感じて、さらさらと髪を梳いた時に零した温かなため息は、目的を遂げて嗜逆性が身を潜めたためと、その入れ換わりに表層に上った、深い最悪感のためだった。
愛してる、と告げた言葉はどこか言い訳めいていて、苦笑しながら踵を返した。
後は、何も考えずに眠れば良い。彼女が目覚めるまで……。
滑らかで指通りの良い彼女の髪を片手で掬っては、細かな砂を零すかのようにさらさらと流す。飽きもせずに私はその動作を繰り返した。私のくせの強い髪とはまったく違うまっすぐな髪。
寝台の上で小さく丸まり、ゆったりとした寝息を立てる彼女に、やめて下さい、と苦笑まじりにとがめられる恐れはない。すうすうという健康的な息遣いと、髪を滑らせる僅かな音だけが室内に控えめに、密やかに響く。夜の静けさの中でなければ気付かないほどの、音。
寝台の端に足を組んで座り、しばらく無心で手を動かした。飽きることはなかった。ただ、髪を掬うたびに胸の内に巣食う彼女への想いがどうしようもなく強くなっていくのを感じた。
深く息を吐き出して、籠る熱を冷やす。そんなことでは効果がないことが分かって、私はそっと彼女の髪から手を離すと、自分の髪をくしゃりと掻き上げた。その途端、手のひらに移った彼女の匂いを敏感に嗅ぎとってしまい、弾かれたように慌てて立ち上がった。
全身の意識という意識、神経という神経が、痛いほど右手に集中するのが分かる。けれどここで、例えば手のひらを鼻に押し当てるようなことをしてしまうと、変態行為になるという自覚があるため、ぐっと堪えた。不自然に汗ばみ、熱を持つ手を握ったり開いたりして、その衝動を押しとどめた。
「……そうだ。カーテン、閉めないとね」
思考を切り替えたくて呟いた言葉が空々しく、言い訳がましく聞こえて、自分の部屋の中にいるというのに酷く居た堪れなくなる。紅魔館のメイド長という役をお嬢様に仰せつけられた時から、メイド達の中で特別広い部屋を与えられた。一人では広すぎる部屋に今は彼女と二人きりだ。
広い部屋にしては控えめな窓へと足音を立てぬように近付くと、窓硝子に己の顔が映った。傍目には無表情に映るであろう、冷えた表情。内心の葛藤も堪え切れないほどの熱も、決して面に出すことのない鉄壁の仮面。それが私の強みでもあり、同時に弱みでもあった。
己の顔から窓の外へと視線を移せば、黒々とした山の稜線が浮かび上がる。その上には闇に沈んだ空と無数の星々。微動だにしない硝子越しの風景は絵画のようで、酷く現実味がない。さっき、彼女と一緒にグラスを傾けながら眺めた時は、満点の星空を、限りなく黒に近い紺色の空を、何か特別なもののように、ロマンチックに感じたけれど、その感覚も最早消え失せていた。
その感覚の変化にぞっとする。美しいと、確かに心惹かれたはずなのに、彼女と一緒でなければ何の意味もない。何の感慨も湧かない。それはきっと、世界の鮮やかさを、色彩の楽しみ方を彼女が教えてくれたからで、美しさを感じる瞬間には必ず彼女がいたから、その美しさに彼女がプラスされて初めて、私は私の感覚で、美しさを感じることが出来るからだろう。
外界と隔てるかのように紺色のカーテンを引くと、部屋に満ちる静寂がより深く、濃密になった気がした。彼女しか目に入らなくなる。まるで何もない箱の中に二人で閉じ込められたみたいに、相手の存在に全神経を集中させてしまう。熱に浮かされたように感じるのは、さっきまで彼女と、箍を外すかのようにジントニックを飲んでいたからだろう。けれど頭の芯は冷静だった。
私と彼女は月に幾度となくお互いの部屋を行き来するような仲で、日々繰り返されていくあまり代わり映えのしない日常について語り合いながら、二人だけの時間を過ごしてきた。これからも続いて行くであろう日常に不満はないけれど、やっぱり変化は、欲しい、と思った。
今まで特別に変化を求めたことのない私がそんな欲求を持つというのは新鮮で、私はそんな囃し立てるような、急き立てるような感覚を半ば持て余していた。ただ、否が応でも、傍に近寄れば近寄るほど強引なまでに引かれ合う磁石のように、その欲求に導かれるまま走るしかなかった。
静かに歩みを進めて、寝台で眠る彼女を見下ろした。相変わらず幸福そうに寝息を立てていて、世界の穏やかさと温かさを一身に受けているような姿に、小さく笑みが零れる。
欲を持つというのは、冷たい身体に熱が灯るような感覚で悪いものではなかった。乾いた身体にアルコールを流し込むかのようなひりひりとした熱に突き動かされながらも、自分が今までとは違う別の何かに変わっていくような気がして気分が高揚した。止まっていた時間が動き出すかのように、感情の波が奔流となって身の内で荒れ狂う。様々な色を乗せて……。
「美鈴」
低く呟いた言葉は呪文のように私の心を揺り動かす。もちろん返事はなく、静寂が戻る。
彼女をひたりと見据えたまま寝台に脚を乗せて、手をついて身体を屈めた。顔にかかる髪をそっと指で耳の後ろにかけると、指先で睫毛をくすぐった。さりさりとした感触が伝わる。けれど、一向に目覚める気配はない。当然だ。あれはただのジントニックではなかったのだから。
「美鈴」
僅かに開かれた唇に、そっと口付ける。ほんの数秒、その間に目まぐるしく思考が切り替わる。柔らかく繊細な感触に感慨深くなり、唇を合わせただけなのに奪ってやったという達成感が溢れ、今ここで美鈴に目覚めて欲しいとも、目覚めて欲しくないとも思い、これが想いを遂げた後での行為なら、どれほど良いだろうと思う。ほんの僅かな罪悪感は、時を止めなかったのだからまだ良いだろう、と自己弁護をすることで押しとどめた。と言っても、結局は、私自身が時の流れの中で美鈴を感じたかっただけなのだけれど……。
欲。私の行動は、結局はすべてこの一言で片付けられる。
本当なら、この後少し身体に触れてやろうと思っていたのだけれど、予想以上に思考が熱に侵され、気持ちが昂っている自分に気付いて、ぐっと押しとどめた。ほんの少しの欲が、今は百にも千にも膨れ上がりそうだったから。ただ触れるだけでは終わらないような気がした。
冷えて凝った心の氷を融かされて、流れとなった想いが、彼女を侵す。
何でこんなにも好きになってしまったのかと言えば、日の光が似合う人懐こさと和やかさを持つところや、冷徹だと思われがちな私にも声をかけてくれたところや、メイド長である私を立てて一歩引いてくれているところや、自然の美しさを教えてくれたところや、癖のない緋色の長い髪に目を奪われたところや……と、挙げていくと切りがない。そんなふうに心惹かれた相手が、他の誰かのものになるなんてことは、決して許せなかった。許せない以上は、しっかりと自分の傍に置いておかなければならないし、私が彼女と最も親しい人物になる必要があった。
でも、彼女にとって最も親しいポジションにまで登りつめても、私は満足出来なかった。同時に不安だった。何の縛りもなく、いとも簡単に解消出来る関係。私は、その先にある関係を求めた。
自分勝手であることは百も承知だけれど、自分にとってこれほど勝手が許される相手はいない。遠慮せずに自分の意思を通せる相手はいない。庇護欲と嗜逆性を同時に掻きたてられる相手はいない。そんな都合の良い相手が誰かのものになるなんて耐えられない。この想いを愛と呼んで良いものかは分からなかったけれど、傍に置きたいという欲が、身体に触れたいという欲にまで発展した時点で、友情めいたものから愛情へと変わったんだと思う。それはきっと、より密接な関係を求めた結果だ。
意識のない相手に唇を重ねたからと言って、二人の関係が発展するわけではない。
けれども、私の想いは、欲は、次のステップへと移行したことは確かだった。
一段一段、自分の求めるもののハードルが高くなっていく。それをクリアしていくのは楽しい。彼女が誰かのものになる前に、私が彼女を手に入れるという焦燥に駆られながらのオリエンテーリングは、今や日常と化してしまったどんな仕事よりもやりがいがある。今日は横道に逸れて、眠る彼女の唇を奪った。最後にもう一度、と唇を重ねると、身体中がその先をせがむ。目的だった行為が、さらなる行為の通過点になり下がっている。自分の欲深さに呆れるとともに、面白い、と思った。
身体を起こすと、寝台の端に腰かけて、さて、この後どうしようか、と考えた。
薬を少しずつ、多量に飲ませたから、きっと朝まで目覚めないだろう。ならば勢いに任せて添い寝をするという選択肢もある。万一、彼女が先に目覚めたとしても、いかようにも言い訳はきく。こういう時が、同性である強みだろう。彼女に触れながら眠るのも、悪くない。
……でも、と私は腕を組んだ。
目覚めた時に、より罪悪感を刺激するのは、申し訳なさを感じさせるのは、と考えて、ソファで眠ることにした。そういう“親切そうな行為”の蓄積は大切だ。後に相手を制しやすくなる。
今一度、今度は目尻に恭しく口付けると、タオルケットの乱れを直して立ち上がった。
名残惜しさを感じて、さらさらと髪を梳いた時に零した温かなため息は、目的を遂げて嗜逆性が身を潜めたためと、その入れ換わりに表層に上った、深い最悪感のためだった。
愛してる、と告げた言葉はどこか言い訳めいていて、苦笑しながら踵を返した。
後は、何も考えずに眠れば良い。彼女が目覚めるまで……。