近頃、パチュリー様は海について書かれた本を好まれる。
「パチュリー様、海を見てみたいと思いませんか?」
「残念ね、幻想郷に海は無いわ」
「……わかりました、訂正します。もしも、幻想郷に海があったら、出かけてみたいと思いませんか?」
「きっと思わないわね」
パチュリーは本の挿絵をめくりながら、即答する。頁の中では、煌くさざ波が岸辺へと打ち寄せ、その下の青く透き通った海中に魚たちが遊んでいた。
「私は、本の中の海で十分よ。図書館では、座っていても世界中の英知が手に入るもの」
窓からさす月明かりに、パチュリーの横顔が透き通るように白く映える。
その眺めは綺麗だけれども、どこか不安をかきたてられるほど儚げだった。
もう何日、この人は眠っていないのだろう。
「……私は、本の中ではない、本物の海を見たいです。一度だけでいいから」
主の体を気遣って、小悪魔はせめて安眠を呼ぶと言われるカモミールでハーブティーを淹れる。
薄闇の中に立ち上る、ほのかに甘い香りを主のもとへ運ぶ。
「パチュリー様の夢中になる海を、あなたと一緒に見てみたい」
開いた頁の中には、幻想的な青を湛える海が広がっていた。かすかなエメラルド色を帯びた青は、古びた紙に描かれ、ところどころ絵の具が色あせていた。パチュリーの指先が、本の中の海へ愛しげに触れる。
「あなたがそう言うなら、今度、試験管の中に海を作ってあげることはできるわ」
その答えに、小悪魔は少しだけ寂しくなった。
パチュリーは細い吐息をついて、本を閉じた。さらりと衣擦れの音を立てて、小悪魔のほうを振り返る。
「……でも、きっとあなたが求めているものはそうじゃないのね。不出来な主でごめんなさい」
壊れ物を扱うように髪を撫でてくれる、主の手の優しさに甘えて目を閉じる。
小悪魔は首を振って、海の話題を打ち切った。
「気になさらないでください。そうできたらいいなって思った、ただ、それだけですよ。……そういえば、パチュリー様、ご存知ですか?最近、門番さんが中国四千年の歴史から新しい寝方を編み出して、あのメイド長にもう三日もバレてないんですって……」
いつものように他愛も無いことを喋れば、パチュリーは、かすかにうなずきながら聞いてくれる。
それでいい。小悪魔は、主に悲しい顔をさせたい訳ではなかった。
パチュリーがまた、海の本に目を落とした。とたんに、目に見えない透明なカーテンが引かれ、隔てられたような気がした。主の関心が小悪魔のお喋りから、本の中に描かれた海の中にしだいに滑り落ちていくのが、手に取るようにわかった。
「……おやすみなさい、パチュリー様」
小悪魔は読書の邪魔にならないように、最後は囁くように話を終わらせる。そっと礼をして、足音を立てないように離れて
いく。パチュリーは本に夢中で、気づいてもいないだろう。本の横に置かれたハーブティーは、手がつけられずに冷めていく。
……海が見たい、と我がままを言ったのは、主と同じ景色を見つめたいからだ。パチュリーの紫色の瞳に映るものは、文字と理論で織り上げられたまぼろしの海。色あせた青で彩られた、絶滅したはずの魚が泳ぐ、書物の中の海だった。本の中に入り込むことができないように、小悪魔が入る隙がない景色を、一人きり飽きず見つめ続けている。
それが、小悪魔には少しだけ寂しい。
ひんやりと冷たいシーツの上に身を投げ出しても、その夜は眠れなかった。見慣れたはずの天井は、窓からさす月光に青く染まり、湖に揺らめく光が映りこんでいた。まるで、深い海の底から、まぶしい水面を見上げているようだった。
あのひとに、本物の青い海を見せてあげられたらいいのに。
一向に訪れない眠気を待ちながら、小悪魔はまぶたを閉じる。
潮風に長い髪をなびかせながら、パチュリーが青い水平線を背に微笑んでいる。
そのくちびるが動き、綺麗ね、と言った。
嘘だ、まどろみの中で小悪魔は思う。主はそんな陳腐な事を言わない。もっと小難しく、衒学的に感情を表現する。それは余人には理解できないだろう主の照れ隠しで、そんな癖すら愛していた。だけど海を見たときに、パチュリーが口にするだろう台詞が出てこない。それは小悪魔の想像力の限界で、だからこの少女は願望を投影しただけの、まやかしにすぎないのだ。
綺麗ね。
否定する理性を裏切って、隣でパチュリーが微笑みかける。波間にあかるい陽光が砕けて、銀色に煌く海を眺めながら、夢見るような声色で。
もしも、主がそう仰ってくれたら。肩を並べて、同じ景色を共有できたら。
きっとそれだけで、この心は満たされるのに。
◇ ◆ ◇
紅魔館の午後は、まどろみの時間だ。ここは、夜にめざめる吸血鬼の住処だから。
広々としたホールも、真紅の絨毯が長く伸びた廊下も、主の眠りを守るように、ひっそりと静まり返っていた。
コツコツと足音を響かせて、小悪魔は階段を下る。
階段の隅には、昼でもぬぐいきれない闇が、とろりと吹き寄せられている。
巨大な樫の扉を開くと、古びた紙の匂いに包まれた。本の匂いを吸い込むと、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
愛すべき自分の仕事場では、今日も一日、司書の仕事が待っている。
見上げると本棚が、森のように息づいていた。
この図書館は、どんな夢を見るのだろう。
図書目録片手に補修の必要な本を探しながら、小悪魔は、ふとそんな事を思う。
見渡す限りの本棚には、古今東西のあらゆる国の知識が集っている。めくるめく知の誘惑に満ちた宝蔵、過去の知識人たちの記憶のゆりかご。小悪魔は、大図書館を形容する言葉を思い浮かべる。
だとしたら、どんな夢でもお手の物だろう。
ヴワル大図書館は夢をみる。もしかしたら、遠い昔の海の夢すらも、その眠りに紛れているのかもしれない。
心を空想に遊ばせながら、小悪魔の指は、古書の表紙をすべり、革の痛みを探る。
表紙の角に触れると、ポロポロと赤い革屑がこぼれた。革の張替えが必要だ。机の棚を開くと、色も肌触りもさまざまな革の切れ端が顔をのぞかせた。
一つ、悪戯を思いついた。
◇ ◆ ◇
大図書館の本の森に棲むのは、文字を食べる本の虫。もといパチュリー・ノーレッジ。
「そんなに近づけて読むと、目が悪くなりますよ」
言葉と一緒に伸びてきた指が、本を優しく引きはがした。パチュリーは深い夢から醒めたように、ゆっくりと瞬きをする。精密な理論で織り上げたまぼろしの底から、意識がすうっと現実に浮かび上がってくる。
「返してちょうだい、読みかけなの」
宙に浮く本を求めて、真っ白な指がひらひらと、蝶のように暗がりを舞う。
パチュリーの手の届かないところへ本を隔離しておいて、小悪魔が提案する。
「すこし息抜きしましょうよ」
「本を読まないと、逆に息が詰まるわ」
パチュリーは、自他ともに認める立派な活字中毒者だった。
呼吸をするように文字を追い、乾いたスポンジが水を吸うように知識に身を浸す。放っておかれれば寝食も忘れて、夢中で本を読んでいる。
ふあ、とパチュリーの唇から軽いあくびが漏れた。今日で何日、まともに眠ってないのだろうか。数えかけて、どうでもよくなって忘れた。気がつけば、うつらうつら、夢の中を漂っている。起きては本を読み、疲れては眠り、また夢の中で本を読む。そこはとても居心地のいい場所、誰も入ってこられない、ひとり遊びの箱庭だ。
けれど、小悪魔が本を閉じてしまった。
「午後のお薬の時間ですよ」
右手には取り上げた魔道書、左手には喘息の薬。
「……もう、そんな時間なの?」
パチュリーが持病を思い出すと、喘息の発作が軽くのどをくすぐった。引きつり始めた気管を、薬でなだめなくては。
見つめる先で、小悪魔の手がきらきらと輝く粉末を、冷たい水に溶かし始めた。硝子のマドラーで念入りにかき混ぜて、窓からさしこむ明かりに透かし見る。薬を扱うときには、実験の手伝いをするときの癖が出る。そんなささやかな仕草に、隣で過ごした時間の長さを思った。
手渡された薬を、パチュリーは一気にのどの奥に流し込む。むせると、たちまち心得た手が背中をさすった。
「もういいわ。……いつもありがとう」
一息つくと、パチュリーは顔を上げる。こんなときでも、無意識に読み物を求めてしまうのか。
机の片隅に置かれたカレンダーの書き込みに目がとまった。
午後三時、水中庭園で待ち合わせ。
文字の後ろには、ご丁寧にハートが書き込んであった。頭の足りないメモを、パチュリーは無表情のまま、見なかったことにした。
「そういえば、頼んでおいた本は用意できたかしら?」
水を向けると、小悪魔はすぐに持ってきた。古生代の海を描いた、あざやかな挿絵いりの本だった。
「最近のパチュリー様、海を扱った本がお気に入りですね」
「毎日暑いからね」
それに今まで知らなかったことを知るのは、いつだって刺激的だ。今日は、魚の進化の歴史をたどろうか。つかみどころの
ない水を切って泳ぐのに最適化した形を獲得していく過程は楽しそうだ。色鮮やかに、毒を持ち、餌を変え、生き残るための戦略は多種多様で面白い。
それとも、貝に海月、骨を持たない形を選んだ生き物を愛でようか。柔らかな鰭は、水中でどう動くのだろう。きっと天女が青空に羽衣をたなびかせるように、それは優美な眺めだろう。
本を出したのに、珍しくぐずぐずとそばに立っている小悪魔を、パチュリーは眠そうな横目で見やる。
「まだ何かあるの?」
待ってました、とばかりに小悪魔が笑顔になる。
コトン、と軽い音を立ててテーブルに置かれたのは、光沢のある白い貝殻だった。
パチュリーは手にとって、貝殻の内側の虹色の膜をながめて、潮騒の音がきこえないかと耳元にあてた。
「貝殻なんて、珍しいわね。どこで拾ったの?」
「湖のほとりで。ねえパチュリー様、海は長い年月をかけて移動していくそうですね。きっと、幻想郷にも昔は海があったんですね」
「遠い昔には、あったでしょうね。何万年も昔の話よ」
「じゃあ地下の図書館は、水浸しですね?」
「防水の魔法をかけなきゃね。そばの湖は海底の名残よ。底を掘ってごらん、魚の化石の一つくらい出てくるんじゃない?」
小悪魔は生意気にも、遠くを見るまなざしをした。
「一度でいいからこの目で、青い海を見てみたいものです」
「湖を何十倍も大きくしたようなものでしょうね。それと、塩辛く」
「そんなことないですよ。湖と海はきっと別物です」
「見たことも無いくせに、何を根拠にそう言えるの。たった二文字の違いじゃない」
「わかってませんね、海にはロマンがあるんです」
「私と一緒に出かけたいくらい?」
「……無理とわかってるから、もういいんです」
しゅんと肩を落とす小悪魔に、柄にもなくお節介を焼きたくなって、パチュリーは頁をめくった。
「一緒に海に出かけることはできないけど……代わりに、一緒に海の本を見ることならできるわ。どうかしら?」
パチュリーの提案に、少しだけ驚いたように瞳を丸くして、それから小悪魔は、はにかんで笑った。
「よろこんで」
挿絵を眺めて、絶滅してしまった古生代の魚たちを指差し、これは何、あれは何と尋ねる小悪魔は、好奇心に赤い瞳をきらきらと輝かせていた。微笑ましくなって、パチュリーは思う。
「今日は子どもみたいね」
頁をめくるうちに、しだいに、眠気がさしてきた。少しだけ、あと少しだけ、と思いながらも、あまりに小悪魔が楽しそうなので、何も言えなくなる。この本を読み終わったら、仮眠をとろう。
パチュリーのまぶたが、とろとろと下がっていく。夢うつつの中で、囁きが聞こえた。
「私が貴女に、青い海を見せてさしあげます」
◇ ◆ ◇
午後三時の鐘が鳴った。
うとうとしていたパチュリーは、目をこすりながら身を起こした。いつの間にか、寝入ってしまったらしい。机の上には、読みかけの海の本が広げられていた。周りを見回して、パチュリーの眠たげな細い瞳が、大きく見開かれる。
扉の隙間から水が流れ込んでくる。床がきらきらと輝く水溜まりに変わっていく。透明な水が足にまとわりつき、スカートを揺らす。白糸の滝が本棚から何本も筋を作って落ちてくる。本の頁の色が濃くなってきて初めて、濡れていることに気づき、慌てて空中に避難させた。
水が浸食してくる。
パチュリーは椅子に座ったままみじろぎもせず、呆然と見守っていた。外は雨だっただろうか。それにしても雨漏りのしすぎだろう。屋根でも抜けたか。くだらない事を考えているうちに、みるみるうちに水嵩は増えて、パチュリーの肩を超えた。
いつの間にか、図書館は揺らめく水の中に没していた。
息が続くかどうかの心配も忘れて、パチュリーは目の前の眺めにただ目を見張った。
手のひらにすくってこぼすとき、水は無色透明だ。それなのに、積み重なるとうっすらと青色を帯びる。
だとすればこの景色は、この青色は、気の遠くなるほどの水を重ね合わせたに違いない。
一面、めまいを覚えるような青。
飲み込まれそうだった。
「パチュリー様」
呼びかけられて、思考を停止させたまま、機械的に振り返る。
いつの間にそこに立っていたのか、青を背後に従えて、小悪魔がお辞儀をしてみせる。
「ようこそ、水中庭園へ」
ようやく日常が戻ってきた。パチュリーはため息をついた。息をつくと、こぽりと銀色の泡が口元から立ち上る。
「……午後三時ね。待ち合わせの時間ぴったりってわけ」
「お見通し、ですね」
「カレンダーのハートマーク。デートの相手は私でいいのかしら」
小悪魔の笑顔が、その答えだった。
はるか頭上を見たこともない海水魚が泳ぎまわっている。水流がパチュリーの長い髪を揺らし、天窓から水を透かして、ゆらぐ光の輪が届く。青い海中では不思議と息ができた。ためしに手の甲をつねってみる。痛くない。
「……それで?どうしてこんな事を思いついたのかしら?」
悪戯が見つかった子供のように無邪気に、小悪魔は赤い舌を出す。ポケットから貝殻を取り出して見せた。
「いつも同じじゃ刺激が足りなくて、悪戯したくなっちゃうんです。退屈な毎日に一匙の驚きを。なにせ私は小悪魔ですもの。わかってくれますよね、親愛なるパチュリー様」
パチュリーは腕組みをして、なかば本気で思案した。
「あなたはちょっと、躾が足りないようね。もっと厳しくするべきかしら?」
「難しいお話も、お説教も後で聞きます。それよりも、ね、綺麗な景色でしょう?」
うながされて、周りの景色に目を向ける。図書館から出ないパチュリーには、おそらく一生見ることが無かったであろう青い海中が広がっていた。珊瑚と海草の森に、色鮮やかな尾びれをなびかせた魚たちが集っている。朽ちかけた船を寝床に、小さな蟹が顔を出し、慌てて引っ込んだ。小悪魔の手の上の白い貝殻は、海の青に染められて、どこか嬉しそうに見えた。癪にさわるが、認めざるを得ない。美しい眺めだった。
「ええ、とても綺麗ね」
「よかった。この景色をあなたと見たかった。あなたを魅了してやまない水の世界を見せてあげたかったんです。たとえ夢でも」
他人の夢を操る、あるいは入り込むのは、小悪魔たちの得意とするところだった。ましてここは、英知の集う図書館なのだから、たとえその方法を知らない者でも、探せばやり方くらいすぐ見つかるだろう。悪知恵をつけなきゃいいけど、とパチュリーは考える。
「……お節介な従者もいたものね」
「せっかくの水中デートです。楽しみましょう、パチュリー様」
さしのべた手に手を重ねて、二人は海中と化した図書館を周りはじめた。
あれは何、これは、と小悪魔の楽しげな声が響く。そのいちいちに、律儀に答えるパチュリーの声が応じた。
◇ ◆ ◇
目を覚ますと夕方だった。
開かれたままの本の頁が大写しに目に飛び込む。こてん、と頭をたおすと、テーブルの隣に、小悪魔が突っ伏して眠っていた。むにゃむにゃと幸せそうに寝言をつぶやいている。つながれた手に目をとめると、ぼんやりと青い海の夢を思い出した。魚たちの泳ぐ図書館。本当なら悪夢だわ、とひとりごちる。
重たく感じる身を起こすと、喘息の薬に混ぜられた睡眠薬が合わなかったのか、鈍い頭痛がした。
◇ ◆ ◇
「おはようございます、パチュリー様。あまり眠ってらっしゃらないから、心配したんですよ。いい夢は見られましたか?」
鈍く続く頭痛に苦しみながら、パチュリーはうめくように答える。
「……手段の是非を問わないのは、小悪魔らしいじゃないの。頭が痛いわ。私が喘息持ちで脆弱なこと、あなたは喜んでるのでしょう」
からかいやすくて、と続けようとしたところ、ズキッと刺した痛みにさえぎられた。優しくなだめるように頭をなでながら、小悪魔が言葉の後をひきとる。
「……ええ、感謝していますよ。パチュリー様の体が弱いために、図書館の整理に、ときには自分の世話さえも、誰かの手助けを必要とすること。あなたが何でも一人でこなせるような完璧な魔女でなくてよかった。だって、そのお陰で私はあなたのお傍に居られるのですから」
「パチュリー様、海を見てみたいと思いませんか?」
「残念ね、幻想郷に海は無いわ」
「……わかりました、訂正します。もしも、幻想郷に海があったら、出かけてみたいと思いませんか?」
「きっと思わないわね」
パチュリーは本の挿絵をめくりながら、即答する。頁の中では、煌くさざ波が岸辺へと打ち寄せ、その下の青く透き通った海中に魚たちが遊んでいた。
「私は、本の中の海で十分よ。図書館では、座っていても世界中の英知が手に入るもの」
窓からさす月明かりに、パチュリーの横顔が透き通るように白く映える。
その眺めは綺麗だけれども、どこか不安をかきたてられるほど儚げだった。
もう何日、この人は眠っていないのだろう。
「……私は、本の中ではない、本物の海を見たいです。一度だけでいいから」
主の体を気遣って、小悪魔はせめて安眠を呼ぶと言われるカモミールでハーブティーを淹れる。
薄闇の中に立ち上る、ほのかに甘い香りを主のもとへ運ぶ。
「パチュリー様の夢中になる海を、あなたと一緒に見てみたい」
開いた頁の中には、幻想的な青を湛える海が広がっていた。かすかなエメラルド色を帯びた青は、古びた紙に描かれ、ところどころ絵の具が色あせていた。パチュリーの指先が、本の中の海へ愛しげに触れる。
「あなたがそう言うなら、今度、試験管の中に海を作ってあげることはできるわ」
その答えに、小悪魔は少しだけ寂しくなった。
パチュリーは細い吐息をついて、本を閉じた。さらりと衣擦れの音を立てて、小悪魔のほうを振り返る。
「……でも、きっとあなたが求めているものはそうじゃないのね。不出来な主でごめんなさい」
壊れ物を扱うように髪を撫でてくれる、主の手の優しさに甘えて目を閉じる。
小悪魔は首を振って、海の話題を打ち切った。
「気になさらないでください。そうできたらいいなって思った、ただ、それだけですよ。……そういえば、パチュリー様、ご存知ですか?最近、門番さんが中国四千年の歴史から新しい寝方を編み出して、あのメイド長にもう三日もバレてないんですって……」
いつものように他愛も無いことを喋れば、パチュリーは、かすかにうなずきながら聞いてくれる。
それでいい。小悪魔は、主に悲しい顔をさせたい訳ではなかった。
パチュリーがまた、海の本に目を落とした。とたんに、目に見えない透明なカーテンが引かれ、隔てられたような気がした。主の関心が小悪魔のお喋りから、本の中に描かれた海の中にしだいに滑り落ちていくのが、手に取るようにわかった。
「……おやすみなさい、パチュリー様」
小悪魔は読書の邪魔にならないように、最後は囁くように話を終わらせる。そっと礼をして、足音を立てないように離れて
いく。パチュリーは本に夢中で、気づいてもいないだろう。本の横に置かれたハーブティーは、手がつけられずに冷めていく。
……海が見たい、と我がままを言ったのは、主と同じ景色を見つめたいからだ。パチュリーの紫色の瞳に映るものは、文字と理論で織り上げられたまぼろしの海。色あせた青で彩られた、絶滅したはずの魚が泳ぐ、書物の中の海だった。本の中に入り込むことができないように、小悪魔が入る隙がない景色を、一人きり飽きず見つめ続けている。
それが、小悪魔には少しだけ寂しい。
ひんやりと冷たいシーツの上に身を投げ出しても、その夜は眠れなかった。見慣れたはずの天井は、窓からさす月光に青く染まり、湖に揺らめく光が映りこんでいた。まるで、深い海の底から、まぶしい水面を見上げているようだった。
あのひとに、本物の青い海を見せてあげられたらいいのに。
一向に訪れない眠気を待ちながら、小悪魔はまぶたを閉じる。
潮風に長い髪をなびかせながら、パチュリーが青い水平線を背に微笑んでいる。
そのくちびるが動き、綺麗ね、と言った。
嘘だ、まどろみの中で小悪魔は思う。主はそんな陳腐な事を言わない。もっと小難しく、衒学的に感情を表現する。それは余人には理解できないだろう主の照れ隠しで、そんな癖すら愛していた。だけど海を見たときに、パチュリーが口にするだろう台詞が出てこない。それは小悪魔の想像力の限界で、だからこの少女は願望を投影しただけの、まやかしにすぎないのだ。
綺麗ね。
否定する理性を裏切って、隣でパチュリーが微笑みかける。波間にあかるい陽光が砕けて、銀色に煌く海を眺めながら、夢見るような声色で。
もしも、主がそう仰ってくれたら。肩を並べて、同じ景色を共有できたら。
きっとそれだけで、この心は満たされるのに。
◇ ◆ ◇
紅魔館の午後は、まどろみの時間だ。ここは、夜にめざめる吸血鬼の住処だから。
広々としたホールも、真紅の絨毯が長く伸びた廊下も、主の眠りを守るように、ひっそりと静まり返っていた。
コツコツと足音を響かせて、小悪魔は階段を下る。
階段の隅には、昼でもぬぐいきれない闇が、とろりと吹き寄せられている。
巨大な樫の扉を開くと、古びた紙の匂いに包まれた。本の匂いを吸い込むと、不思議と気持ちが落ち着いてくる。
愛すべき自分の仕事場では、今日も一日、司書の仕事が待っている。
見上げると本棚が、森のように息づいていた。
この図書館は、どんな夢を見るのだろう。
図書目録片手に補修の必要な本を探しながら、小悪魔は、ふとそんな事を思う。
見渡す限りの本棚には、古今東西のあらゆる国の知識が集っている。めくるめく知の誘惑に満ちた宝蔵、過去の知識人たちの記憶のゆりかご。小悪魔は、大図書館を形容する言葉を思い浮かべる。
だとしたら、どんな夢でもお手の物だろう。
ヴワル大図書館は夢をみる。もしかしたら、遠い昔の海の夢すらも、その眠りに紛れているのかもしれない。
心を空想に遊ばせながら、小悪魔の指は、古書の表紙をすべり、革の痛みを探る。
表紙の角に触れると、ポロポロと赤い革屑がこぼれた。革の張替えが必要だ。机の棚を開くと、色も肌触りもさまざまな革の切れ端が顔をのぞかせた。
一つ、悪戯を思いついた。
◇ ◆ ◇
大図書館の本の森に棲むのは、文字を食べる本の虫。もといパチュリー・ノーレッジ。
「そんなに近づけて読むと、目が悪くなりますよ」
言葉と一緒に伸びてきた指が、本を優しく引きはがした。パチュリーは深い夢から醒めたように、ゆっくりと瞬きをする。精密な理論で織り上げたまぼろしの底から、意識がすうっと現実に浮かび上がってくる。
「返してちょうだい、読みかけなの」
宙に浮く本を求めて、真っ白な指がひらひらと、蝶のように暗がりを舞う。
パチュリーの手の届かないところへ本を隔離しておいて、小悪魔が提案する。
「すこし息抜きしましょうよ」
「本を読まないと、逆に息が詰まるわ」
パチュリーは、自他ともに認める立派な活字中毒者だった。
呼吸をするように文字を追い、乾いたスポンジが水を吸うように知識に身を浸す。放っておかれれば寝食も忘れて、夢中で本を読んでいる。
ふあ、とパチュリーの唇から軽いあくびが漏れた。今日で何日、まともに眠ってないのだろうか。数えかけて、どうでもよくなって忘れた。気がつけば、うつらうつら、夢の中を漂っている。起きては本を読み、疲れては眠り、また夢の中で本を読む。そこはとても居心地のいい場所、誰も入ってこられない、ひとり遊びの箱庭だ。
けれど、小悪魔が本を閉じてしまった。
「午後のお薬の時間ですよ」
右手には取り上げた魔道書、左手には喘息の薬。
「……もう、そんな時間なの?」
パチュリーが持病を思い出すと、喘息の発作が軽くのどをくすぐった。引きつり始めた気管を、薬でなだめなくては。
見つめる先で、小悪魔の手がきらきらと輝く粉末を、冷たい水に溶かし始めた。硝子のマドラーで念入りにかき混ぜて、窓からさしこむ明かりに透かし見る。薬を扱うときには、実験の手伝いをするときの癖が出る。そんなささやかな仕草に、隣で過ごした時間の長さを思った。
手渡された薬を、パチュリーは一気にのどの奥に流し込む。むせると、たちまち心得た手が背中をさすった。
「もういいわ。……いつもありがとう」
一息つくと、パチュリーは顔を上げる。こんなときでも、無意識に読み物を求めてしまうのか。
机の片隅に置かれたカレンダーの書き込みに目がとまった。
午後三時、水中庭園で待ち合わせ。
文字の後ろには、ご丁寧にハートが書き込んであった。頭の足りないメモを、パチュリーは無表情のまま、見なかったことにした。
「そういえば、頼んでおいた本は用意できたかしら?」
水を向けると、小悪魔はすぐに持ってきた。古生代の海を描いた、あざやかな挿絵いりの本だった。
「最近のパチュリー様、海を扱った本がお気に入りですね」
「毎日暑いからね」
それに今まで知らなかったことを知るのは、いつだって刺激的だ。今日は、魚の進化の歴史をたどろうか。つかみどころの
ない水を切って泳ぐのに最適化した形を獲得していく過程は楽しそうだ。色鮮やかに、毒を持ち、餌を変え、生き残るための戦略は多種多様で面白い。
それとも、貝に海月、骨を持たない形を選んだ生き物を愛でようか。柔らかな鰭は、水中でどう動くのだろう。きっと天女が青空に羽衣をたなびかせるように、それは優美な眺めだろう。
本を出したのに、珍しくぐずぐずとそばに立っている小悪魔を、パチュリーは眠そうな横目で見やる。
「まだ何かあるの?」
待ってました、とばかりに小悪魔が笑顔になる。
コトン、と軽い音を立ててテーブルに置かれたのは、光沢のある白い貝殻だった。
パチュリーは手にとって、貝殻の内側の虹色の膜をながめて、潮騒の音がきこえないかと耳元にあてた。
「貝殻なんて、珍しいわね。どこで拾ったの?」
「湖のほとりで。ねえパチュリー様、海は長い年月をかけて移動していくそうですね。きっと、幻想郷にも昔は海があったんですね」
「遠い昔には、あったでしょうね。何万年も昔の話よ」
「じゃあ地下の図書館は、水浸しですね?」
「防水の魔法をかけなきゃね。そばの湖は海底の名残よ。底を掘ってごらん、魚の化石の一つくらい出てくるんじゃない?」
小悪魔は生意気にも、遠くを見るまなざしをした。
「一度でいいからこの目で、青い海を見てみたいものです」
「湖を何十倍も大きくしたようなものでしょうね。それと、塩辛く」
「そんなことないですよ。湖と海はきっと別物です」
「見たことも無いくせに、何を根拠にそう言えるの。たった二文字の違いじゃない」
「わかってませんね、海にはロマンがあるんです」
「私と一緒に出かけたいくらい?」
「……無理とわかってるから、もういいんです」
しゅんと肩を落とす小悪魔に、柄にもなくお節介を焼きたくなって、パチュリーは頁をめくった。
「一緒に海に出かけることはできないけど……代わりに、一緒に海の本を見ることならできるわ。どうかしら?」
パチュリーの提案に、少しだけ驚いたように瞳を丸くして、それから小悪魔は、はにかんで笑った。
「よろこんで」
挿絵を眺めて、絶滅してしまった古生代の魚たちを指差し、これは何、あれは何と尋ねる小悪魔は、好奇心に赤い瞳をきらきらと輝かせていた。微笑ましくなって、パチュリーは思う。
「今日は子どもみたいね」
頁をめくるうちに、しだいに、眠気がさしてきた。少しだけ、あと少しだけ、と思いながらも、あまりに小悪魔が楽しそうなので、何も言えなくなる。この本を読み終わったら、仮眠をとろう。
パチュリーのまぶたが、とろとろと下がっていく。夢うつつの中で、囁きが聞こえた。
「私が貴女に、青い海を見せてさしあげます」
◇ ◆ ◇
午後三時の鐘が鳴った。
うとうとしていたパチュリーは、目をこすりながら身を起こした。いつの間にか、寝入ってしまったらしい。机の上には、読みかけの海の本が広げられていた。周りを見回して、パチュリーの眠たげな細い瞳が、大きく見開かれる。
扉の隙間から水が流れ込んでくる。床がきらきらと輝く水溜まりに変わっていく。透明な水が足にまとわりつき、スカートを揺らす。白糸の滝が本棚から何本も筋を作って落ちてくる。本の頁の色が濃くなってきて初めて、濡れていることに気づき、慌てて空中に避難させた。
水が浸食してくる。
パチュリーは椅子に座ったままみじろぎもせず、呆然と見守っていた。外は雨だっただろうか。それにしても雨漏りのしすぎだろう。屋根でも抜けたか。くだらない事を考えているうちに、みるみるうちに水嵩は増えて、パチュリーの肩を超えた。
いつの間にか、図書館は揺らめく水の中に没していた。
息が続くかどうかの心配も忘れて、パチュリーは目の前の眺めにただ目を見張った。
手のひらにすくってこぼすとき、水は無色透明だ。それなのに、積み重なるとうっすらと青色を帯びる。
だとすればこの景色は、この青色は、気の遠くなるほどの水を重ね合わせたに違いない。
一面、めまいを覚えるような青。
飲み込まれそうだった。
「パチュリー様」
呼びかけられて、思考を停止させたまま、機械的に振り返る。
いつの間にそこに立っていたのか、青を背後に従えて、小悪魔がお辞儀をしてみせる。
「ようこそ、水中庭園へ」
ようやく日常が戻ってきた。パチュリーはため息をついた。息をつくと、こぽりと銀色の泡が口元から立ち上る。
「……午後三時ね。待ち合わせの時間ぴったりってわけ」
「お見通し、ですね」
「カレンダーのハートマーク。デートの相手は私でいいのかしら」
小悪魔の笑顔が、その答えだった。
はるか頭上を見たこともない海水魚が泳ぎまわっている。水流がパチュリーの長い髪を揺らし、天窓から水を透かして、ゆらぐ光の輪が届く。青い海中では不思議と息ができた。ためしに手の甲をつねってみる。痛くない。
「……それで?どうしてこんな事を思いついたのかしら?」
悪戯が見つかった子供のように無邪気に、小悪魔は赤い舌を出す。ポケットから貝殻を取り出して見せた。
「いつも同じじゃ刺激が足りなくて、悪戯したくなっちゃうんです。退屈な毎日に一匙の驚きを。なにせ私は小悪魔ですもの。わかってくれますよね、親愛なるパチュリー様」
パチュリーは腕組みをして、なかば本気で思案した。
「あなたはちょっと、躾が足りないようね。もっと厳しくするべきかしら?」
「難しいお話も、お説教も後で聞きます。それよりも、ね、綺麗な景色でしょう?」
うながされて、周りの景色に目を向ける。図書館から出ないパチュリーには、おそらく一生見ることが無かったであろう青い海中が広がっていた。珊瑚と海草の森に、色鮮やかな尾びれをなびかせた魚たちが集っている。朽ちかけた船を寝床に、小さな蟹が顔を出し、慌てて引っ込んだ。小悪魔の手の上の白い貝殻は、海の青に染められて、どこか嬉しそうに見えた。癪にさわるが、認めざるを得ない。美しい眺めだった。
「ええ、とても綺麗ね」
「よかった。この景色をあなたと見たかった。あなたを魅了してやまない水の世界を見せてあげたかったんです。たとえ夢でも」
他人の夢を操る、あるいは入り込むのは、小悪魔たちの得意とするところだった。ましてここは、英知の集う図書館なのだから、たとえその方法を知らない者でも、探せばやり方くらいすぐ見つかるだろう。悪知恵をつけなきゃいいけど、とパチュリーは考える。
「……お節介な従者もいたものね」
「せっかくの水中デートです。楽しみましょう、パチュリー様」
さしのべた手に手を重ねて、二人は海中と化した図書館を周りはじめた。
あれは何、これは、と小悪魔の楽しげな声が響く。そのいちいちに、律儀に答えるパチュリーの声が応じた。
◇ ◆ ◇
目を覚ますと夕方だった。
開かれたままの本の頁が大写しに目に飛び込む。こてん、と頭をたおすと、テーブルの隣に、小悪魔が突っ伏して眠っていた。むにゃむにゃと幸せそうに寝言をつぶやいている。つながれた手に目をとめると、ぼんやりと青い海の夢を思い出した。魚たちの泳ぐ図書館。本当なら悪夢だわ、とひとりごちる。
重たく感じる身を起こすと、喘息の薬に混ぜられた睡眠薬が合わなかったのか、鈍い頭痛がした。
◇ ◆ ◇
「おはようございます、パチュリー様。あまり眠ってらっしゃらないから、心配したんですよ。いい夢は見られましたか?」
鈍く続く頭痛に苦しみながら、パチュリーはうめくように答える。
「……手段の是非を問わないのは、小悪魔らしいじゃないの。頭が痛いわ。私が喘息持ちで脆弱なこと、あなたは喜んでるのでしょう」
からかいやすくて、と続けようとしたところ、ズキッと刺した痛みにさえぎられた。優しくなだめるように頭をなでながら、小悪魔が言葉の後をひきとる。
「……ええ、感謝していますよ。パチュリー様の体が弱いために、図書館の整理に、ときには自分の世話さえも、誰かの手助けを必要とすること。あなたが何でも一人でこなせるような完璧な魔女でなくてよかった。だって、そのお陰で私はあなたのお傍に居られるのですから」
これを夏とするならば残り三季も書いてほしいですね。
>>この蒸し暑さも、早く過ぎればいいのに!
まったくもってそのとおり。夏より冬、冬より春秋です。
ゆったりとした流れの空気が感じられた、よい話でした。
いいお話でした。