「衣玖って少しわがまますぎるんじゃないかなぁ。流石にちょっと、見過ごせない感じなんだけど」
「……総領娘様にだけは言われたくないですね」
遅いとも早いとも言えない朝の一刻、衣玖はたたき起こしたばかりの天子を化粧鏡の前に座らせて、寝ぐせのついたその髪を丁寧にといでやっている。
朝を奏でる天界スズメ達の楽しげな歌が、開放った寝室の窓から青空の光と共に入ってくるけれど、もちろん衣玖はそれを邪魔だとは思わない。
鏡に映る衣玖と天子の顔はどちらもひどいもので、それくらいの爽やかさがあってようやくまともな朝の風景になるのだから。
天子の顔はどうみたってまだ半分寝ているようなつぶれた顔をしているし、衣玖は腹にいくつもの小言を抱えて憮然とした表情をしている。
「なぜでしょうか。わがままな人ほど、ことさら他人をわがまま呼ばわりするんですよね」
パーフェクトで瀟洒なメイドならどんな戯言にも平静としていられるのかもしれないが、衣玖は瀟洒ではないし、もちろん天子のメイドでもない。
「だって衣玖ってば私の言うことちっとも聞いてくれない」
「心外です……というかむしろ腹が立ちますね。私は誰よりも総領娘様のわがままにおつき合いしているはずですが」
「それよ!」
鏡の中の天子が、キッと衣玖を睨んだ。
「へ?」
衣玖の手が止まる。
「何度言っても、衣玖は私の事を『天子』って呼んでくれない」
衣玖は不自然に沈黙した後、初心者が作った蝋細工みたいにぎこちなく笑った。
「そうでしたかね……あぁ、ところで、寝るときはやはりちゃんとナイトキャップを被りませんか。せっかく綺麗な髪の毛をしているのですから」
だがそんな笑顔は人を不快にさせるだけだ。
「ほら、そうやって、ちっとも私の話を聞こうとしないでしょ」
「……総領娘様のわがままに比べれば可愛いものじゃないですか」
「また誤魔化そうとするー! ダメっ! 絶対ダメだからね! 今日こそはきっちりと話をつけるんだから!」
天子は頭をぶんぶんと振って髪とぎの邪魔をする。
「ああもう。動かないでください」
「言う事を聞くまで髪をとがせないわよっ」
「自分でされるのでしたら別にかまいませんけど……。貴方は比那名居家の長女様で、私はただの龍宮の使い。敬称でお呼びするのが普通ですよ」
「だーかーらー、そんなのはどうでもいいって私がいってるでしょう。私が名前で呼べって言ってるんだから、衣玖はその通りにしたらいいのっ」
天子のヘッドバンキングはますます勢いを増して、青い髪が暴風のごとく荒れ狂う。
せっかくといだ髪がまたボサボサだ。
衣玖はヤレヤレと頭を押さえた。
「……わかりました。わかりましたから、もうやめて下さい」
鏡の中で天子の顔が夏のひまわりのようにぱぁっと咲いた。
「ほんと!?」
「ええ。ええ。ですから大人しく前を向いてください。天子様」
天子の顔が見ていて吹き出しそうになるほど歓喜一色に染まっていく。
「衣玖! しかたないわねぇ衣玖! 早くしてね衣玖!」
「はいはいわかりましたから天子様」
シュ、シュ、シュ……
天子の細く柔らかい髪をすべるクシの音と、
フン、フン、フフン……
天子の鼻歌がスズメ達の声よりなお楽しげに、何でもないただの朝の時間を少しだけ特別にする。
「ねぇ衣玖?」
「なんです天子様」
「なんでもないわ衣玖」
「そうですか天子様」
鏡に写った衣玖の顔にもちゃっかり笑顔が浮かんでいる
天子の髪がようやく綺麗になってから、二人は下界の博麗神社に降りた。
霊夢は境内で午前の掃除をしているところだったから少し迷惑そうな顔をしていたけれど、天子はそんな事お構い無し。
しかし、かと言って、霊夢の掃除の手を邪魔するような事はしなかった。
ただ霊夢に聞こえるような場所で、何度も何度も「天子様」という呼び方を衣玖に言わせるのだ。
「下界の空気は緑臭いわねぇ衣玖」
「そうですね天子様」
もう衣玖と呼ばれれば必ず天子様と言わなければならないような空気になってしまっている。
衣玖としては霊夢に見せつけているような気がして…というかそのままなのだが、なんとなく独占欲が満たされる気もしてまんざらではない。
(私に名前で呼ばれる事をこんなに喜んでくれるなんて)
ゾクリ、と獣の衝動とでも言おうか、天子を甘噛みしてやりたいという衝動が脳髄から四肢の先にかけて伝わるが、今のところはまだ自制心が働いている。
霊夢は呼び方が変わっている事に気づいているのかいないのか、どちらにせよまったく興味が無いらしいのだが、そんな霊夢にそれでも必死に『天子様』アピールをしている天子が衣玖はやはり可愛かった。
「あ……」
天子が空の一角を仰いで声をもらした。
二つの人影が博麗神社に向かって飛んでくる。
コウモリの羽を生やした童女と、メイド服を着た銀髪の女。
紅魔館の主・レミリア=スカーレットと、そのメイド・十六夜咲夜だ。
衣玖は顔をしかめた。
タイミングが悪い。
衣玖は紅魔館の連中に特別悪い感情はないのだが、天子とレミリアはあまり仲がよろしくない。
簡単に言ってしまえばわがまま娘同士。
館主であるレミリアはさすがにたんなるわがまま娘というわけではないのだろうが、周りでキーキーと騒がれて黙っている性分ではない。
メイドの咲夜は非常に冷静で物事のあしらいかたを知っている人間ではあるのだが、主の一声があれば一切の合理不合理を捨ててくるらしいので油断できない。
タンッタンッ、と刻みのよい着地音をたてて二人が境内に降りた。
「おはよう霊夢」
「おはよう。吸血鬼なのに朝にも現れるのね」
「そんじょそこいらの吸血鬼とは違うの」
レミリアは霊夢とにこやかに挨拶を交わした後、急にうっとうしそうな顔になって、しかたなく気づいてやったというふうに、チラリと天子を一瞥した。
「天人」
「なにかしら」
早くもギスギスとした空気が二人の間に漂い始める。
すると霊夢がその手に二枚の札を持ち、それを高らかに掲げた。
「あんたら。掃除の邪魔はしないでね」
騒げば喧嘩両成敗だぞ、と言いう事だ。
二人はしかたなく抜きかけた剣を鞘に収める。
天子は衣玖の腕と自分の腕を絡ませて密着し、レミリアは咲夜がさしている傘の中にスススと入っていった。
二組は微妙な距離を保ちながら、それぞれは言葉を交わす事無く、別々に霊夢とおしゃべりをする。
とにもかくにも揉め事るにならなくてよかったと、衣玖はほっとしていた。
だが、
「咲夜。汗を拭いてくれるかしら」
「かしこまりました。お嬢様」
そのやりとりを聞いていた天子の顔が、ニヤリと歪んだ。
衣玖は嫌な予感がした。
「そこな吸血鬼」
なぜか勝ち誇った調子で、天子が言う。
「なんだ天人」
「そこのメイドはあんたの事を『お嬢様』と呼ぶのね」
「それがなんだ」
「ふふん。衣玖?」
天子が意味ありげな目配せを衣玖に送り、よくわからないが衣玖はとりあえず返事をした。
「なんですか。天子様」
すると天子はものすごいドヤ顔をレミリアに向けた。
レミリアは天子の言いわんとしている事がよく分からない様子だが、こんな得意げな顔をされれば、意味は分からずともとりあえず腹が立つだろう。
「咲夜。私にはあの馬鹿が何を言っているかわからない」
「私も今ひとつ理解できかねています。ですがもしかすると……」
「何?」
「私の記憶が確かならば、これまでそこにいる龍宮の使いは天人の事を『総領娘様』と呼んでいたはずです」
「ふむ」
「ですが今は違います。『天子様』と呼んでいます」
「ふんふん」
「名前で呼ぶという事は親密さの証と言います。つまりそういう事かと」
「うん? よく分からないんのだけど」
「自慢、という事かと」
「はぁ?……つまり、咲夜は私の事を『お嬢様』と呼ぶけど、やつらは名前で読んでいると、そういう事?」
「あくまで予想ですが」
「はっ……くだらないわね」
レミリアは未だにドヤ顔をやめない天子を、小馬鹿にしたような表情で嘲笑っていたのだが、
「……」
しばらく黙りんだあと、
「咲夜」
ポツリと言った。
「なんでしょうか。お嬢様」
「あー……」
レミリアは少し視線を迷わせたり、手を足をもぞもぞとさせたりして、それから不自然なほどそっけない声を出した。
「……名前で呼んでみなさいな」
「は?」
「だから。『お嬢様』ではなく。ほら。名前で。レミリア」
「それはできません」
きっぱりと咲夜が言った。
レミリアは最愛の飼い犬に噛み付かれた哀れな飼い主のような顔をした。
「な、なんでよ!」
「私は一介のメイド長。館の主であるお嬢様の名前をお呼びすることなどとてもできません」
「わ、私がいいっていってるのよ?」
「メイドの法に反します」
「主の命令に逆らう方が不忠でしょうが!」
ああどこかで聞いた会話だなー、と衣玖が思っていると、腕にくっついている天子がますます厭味ったらしい声で、レミリア達に聞こえるように言った。
「あらー見て衣玖。あの二人はなんだが喧嘩をしているみたいねぇ。仲が悪いのかしらねぇ」
「ですが喧嘩をするほど、とも言いますよ。天子様」
「くっ……!」
レミリアが今にも噛みいてきそうな目で二人を睨む。
できれば私を巻き込まないでくれ、というのが衣玖の本音なのだが。
「咲夜!お願いだから私の事を『レミリア』と呼んで!」
「申し訳ありません。お嬢様」
「お願いよ咲夜ぁ!」
「ぷぷぷー!くすくすっ!」
「天人貴様このォッ!」
とうとう我慢ならなくなったレミリアが天子に対して地対地バッドレディスクランブルの姿勢に入った時である。
真横から飛んできた座布団大のでかいお札が、問答無用でレミリアをふっ飛ばした。
同時に衣玖の腕にしがみついていた天子も同じく特大のお札に吹っ飛ばされて、衣玖は腕を持って行かれそうになる。
境内に転がった二人が目を白黒させながら体を起こすと、
「境内で暴れるな」
札を投げたままの姿勢の霊夢が、ジト目でそう言いつけた。
レミリアと天子は怯えながらトボトボと保護者のもとへと戻っていった。
境内わきの石段に腰かけながら、衣玖は天子の服についた汚れを払ってやる。
少しはなれた場所で同じような事をしているレミリアと咲夜の方から、
「いいでしょ?」とか「いじわる!」とかいう声が時々聞こえてきたが、天子も流石に懲りたのかそれを笑ったりはしない。
紅魔館に戻った後、咲夜は苦労するのだろうなと想像して衣玖は同情した。
いや、あの瀟洒なメイドの事だから自分などより遥かに上手くあしらってのけるのかもしれないが。
「はふぅ……」
天子に気づかれないように、衣玖はこっそりと熱い溜息を吐いた。
わがまま娘に振り回される冷静な付き添い、という役割を演じてはいるが、衣玖は衣玖で、内から湧き出る衝動と必死に戦っていたのである。
「大丈夫ですか。天子様」
天子の名前を呼ぶたびに、衣玖の心臓が鼓動を早めていく。
「もうダメっ。我慢できない!」
衣玖は膝まずいて夜空に叫んだ。
草原に吹く冷たい夜風が、慰めるようにその頬を撫でる。
人が見れば何事かと首をかしげる光景ではあるが、天界の端に位置する人気のない草原地帯なのだから、夜になればなおのこと、衣玖の奇行が目撃される事はない。
衣玖はそのまま前のめりに倒れこみ、そして体全身をドリルにして、心のままにあたりを転げ回った。
「てんしてんしてんしぃぃぃぃぃぃ!!」
狂ったように叫びながら服が汚れるのも構わずに草むらを転げまわる様子は、まさに狂っている。
「はぁ、はぁ……」
ようやく回転をやめた衣玖は地に寝そべったまま天の月を仰ぎ見る。
月の光に照らされたその顔には、腹を減らした虎が小鹿を目の前にした時にするような、見るものがゾクリとする獰猛な笑みがあった。
「……総領娘様」
そう呟いて、衣玖はもう一度草の上で体をゆっくりと一回転させる。
月の光がもう一度その顔を照らした時、そこにあるのは、少しすましたような、ツンとしたような、それでいて柔らかい感じがする、いつもの衣玖の顔だった。
ムクリと起き上がる。
「うーん。一日も耐えられないとは……」
天子の顔を思い浮かべながら、名前を呟いてみる。
「天子様」
言うと同時、熱い塊がガツンと衣玖の頭を殴った。
というよりも、脳の奥底から灼熱の波が広がっていく感覚だろうか。
かつて鬼の酒をこっそり盗み飲んだ時に味わった、己の好奇心を後悔するほどの火。
その感じに似ている。
天子の色んな表情の顔が、同時にいくつも重なって、衣玖の頭の中いっぱいに広がっていく。
鼓動の速さが大変な事になっている気がするが、天子の事ばかりに意識が向いて、よく分からなかった。
「私としたことが……」
頬に手を添えてみると、とても平静とは言えない程に熱くなっている。
「やはり『総領娘様』とお呼びするしかありません」
これはもう今に始まった事ではないのだが、天子の事を名前で呼ぶと、衣玖はどうにも冷静でいられなくなってしまう。
天子という存在を自分だけものにした気になってしまう、と言うと、ただ名前で呼んだにすぎないのに大げさな、という感じはするのだが、しかしどうにもそんな気になってしまうのだから仕方がない。
天子様という呼び方がなかなか定着しないのは、そのためだった。
「また何やかんや言われるでしょうねぇ……」
かといってこのまま無理に『天子』と呼び続けていると、いつなんどき理性が消し飛んで天子を押し倒してしまうか分からない。
それはそれで良いかも、などと考えてしまう己の頭を冷やすために、衣玖はけっこうな時間、天界のすみっこで夜空を見上げていた。
「おはよう! 衣玖!」
翌朝。
祭りか何かの最中だったかと勘違いしてしまいそうなほど楽しげな天子の声が衣玖を叩き起こした。
「んむぅ」
焦点の定まらない目をこすり、大きく伸びをしたあと体を起こす。
一応周りを確認してみるが、やはりここは衣玖の寝室であって、祭りの最中にうたた寝をしてしまったわけではない。
窓から入ってくる朝日や天界スズメ達の声も、寝室で迎えるいつもの朝だと証明してくれている。
強いていつもと違う事はと言えば、ベットに腰掛けた天子の笑顔が、ギラギラと、いわば8月の太陽みたいに衣玖を照りつけている事だ。
時計を見ると、まだ朝の六時。
天子が衣玖の家を訪ねてくる事は珍しくないが、こんな時間にやってくる事は今までなかった。
天子の心はいつもとは違う特別な時間を過ごしているのかもしれない。
「お早いですねぇ。おはようございます」
寝ぼけた頭を、ぺこりと下げる。
昨晩、ようやく家に戻った時はもう深夜2時をすぎてしまっていた。
それからお湯を浴び、就寝前のお肌手入れをしたのだから、寝入ったのは三時過ぎだろう。
10時間睡眠を心がけている衣玖にとっては、辛い朝だ。
「衣玖ってばひどい顔ねぇ。洗ってきなさいよ」
「そうですねぇ。そうしましょう」
のそりとベッドから下りて、ぺったらぺったらと洗面台に向かう。
バシャバシャと顔を洗った後、洗面台の鏡に映っているぬぼーっとした己の寝起き顔に向けて、衣玖は自問した。
「さぁ。どうしましょう」
『おはようございます天子様』、というべき所を、衣玖はわざと『おはようございます』とだけ言った。
さきの会話においてはそれほど不自然でもなかったけれど、いつまでも逃げられるものではないだろう。
今日も天子は、『天子様』という衣玖の言葉を求めてくるに違いない。
確実に何度も何度も。
「んぬぬ……ずるずるとごまかし続けるよりは。うん。スパっとやってしまったほうがいいでしょう」
衣玖はパンパンッと自分の頬を叩いく。
眠っていた表情筋がようやく目覚め、それとともに、天子の癇癪を受け止められるぐらいの気合も湧いてくる。
よしっ、と一つ、腹筋に力をいれた。
そうして衣玖が洗面室から台所にでた時である。
衣玖は信じられないものを見た。
天子が台所にたっている!
包丁を握り、まな板で桃の皮を向いているのだ。
衣玖の知る限り、天子の世界に置いて御飯とは『用意されるもの』であり『用意するもの』ではなかったはずだ。
天地がひっくり返るほどとは言わずとも、魔理沙が女言葉を使ったというぐらいの驚きはある。
固まっている衣玖の気配に気付いた天子が振り返って、にこっと笑った。
「衣玖」
「あ、あの……」
天子様、と呼びかえしてほしかったのだろうが、この時衣玖は本気でその事を忘れていた。
今まで天子がほとんど見せたことのない、なんというか、通俗的な女の子らしさ、のようなものがその笑顔にサンサンと輝いているのだ。
正直なところ、見とれてしまった。
「……もしかして私に朝御飯を準備してくれているのですか?」
天子にとっても、名前うんぬんに拘る気持ちより、いつもと違う自分が照れくさいという気持ちが強いのだろう。
えへへぇ、とやけに可愛らしく笑い、テーブルに座るよう衣玖に勧めた。
「もぉ。そんなに驚かなくてもいいじゃないの衣玖ったら」
「え、えぇ。すみませんつい」
向い合って座り、同じ皿の桃をつつく。
「どう衣玖。結構上手く皮をむけているでしょ」
「……そうですね。やればできるのですよ。もったいない」
「私がやらなくても、他の誰かがやってくれるんだもん。そうでしょう?」
「そうではありますが」
「んー……」
天子は急にそわそわとしだして、時折チラチラと衣玖に目配せしながら、恥ずかしそうに言った。
「まぁ……衣玖にはそんな召使いはいないんだし。どうしてもって言うなら、時々私がお手伝いしてあげてもいいかな?とは思うんだけど。ねぇ衣玖?」
「そ、それは嬉しいですね」
天子がそんな事を言うなんて、今までは絶対になかった事だ。
むしろ、「明日から私の御飯を作りにきてもいいわよ」と言ってのけるのが天子なのに。
名前で呼ばれる事が天子にとってこれほど大きな事だったのか、とあらためて驚く。
同時に衣玖は猛烈な罪悪感に襲われていた。
『総領娘様』呼んだ時に天子がどんな顔をするのだろうかと考えて胸が痛むのだ。
悲しむだろうか。
怒るだろうか。
裏切られたと思うのだろうか。
出来ればこのまま天子様と呼び続けていたいけれど、それでは理性が持たない。
衣玖は、覚悟を決めた。
「是非お願いしたいです」
それから一つ間を置いて、
「総領娘様」
はっきりと、そう言った。
「え……」
天子はきょとんとした顔。
衣玖は天子の雷を予想して身構える。
しかし意外な事に天子は、ぷっ、と笑ったのだ。
予想と違う天子の反応に、衣玖は戸惑う。
だが、
「衣玖ってば、今までのクセが抜けてないのね。ちゃんと名前で呼んでくれないと、嫌よ」
「うう……」
衣玖は胸を押さえた。
裏表の無い信頼ほどこういう時に辛いものはない。
痛みから逃げるように衣玖は一気にまくし立てた。
「総領娘様! 正直に申し上げます。やはりお名前で呼ぶ事はできません。その、無理です」
天子の顔を見て告げる事はできなかった。
けれど、数秒待っても天子が何も言わないので、衣玖は不安になってチラチラと顔色を伺う。
「……」
天子の表情には、失望の色がありありと見て取れた。
予想していたとは言え衣玖はひどく後ろめたい気持ちにさせられる。
例え話ではあるが、自分の子どもの誕生日に『今日だけは早く帰ってくるから』と約束して出勤した両親が結局いつも通りの遅い時間に帰宅してきたとしたら、親を信じてその帰りを待つていた子どもはこんな顔をしているのではないか。
「衣玖の……嘘つき。わかったって昨日言ったじゃん」
「……申し訳ありません」
いつもの様にしばらく適当に調子を合わせておけばよい、という考えだったのだ。
誤算だったのは、天子がこんなに喜んでくれた事と、その天子が可愛すぎて己が一日と耐えていられなかった事。
「もういいっ」
「……すみません」
責められるのは分かっていたから、それには耐える事ができる。
けれど、天子が奥歯を噛み締めながら言い出した事は、衣玖が全く思ってもいない話だった。
「衣玖が私の名前を呼んでくれないのなら。私も衣玖の事をもう名前でよばない」
「……え?」
「龍宮の使い、って呼ぶから」
「え?」
死角からの一撃。
衣玖は何が起こったのか理解できず一瞬思考が止まってしまう。
天子は椅子から立ち上がる。
「早起きして眠いから寝る。ベットを借りるから。龍宮の使い」
「そ、総領娘様」
天子がキッと衣玖を睨んだ。
今このタイミングでその呼び方をすべきではなかったのだ。
「おやすみ。龍宮の使い」
天子はそう言い捨てて衣玖に背を向け、寝室へと繋がる廊下の方に歩いていく。
「あ、あの、待ってください!」
天子は振り向かなかった。
衣玖の喉が嘘みたいにカラカラに乾いていく。
「そんな」
『龍宮の使い』
衣玖という個性のほとんどを無視した、ひどい呼び方だ。
ズキリ……と胸が痛む。
龍宮の使いというカテゴリーに当てはまる者は、衣玖意外にも大勢いる。
その大勢の中で、たまたま目の前にいた相手を指すだけの、冷たい呼びかけ。
そこに衣玖という個人への興味は、一切みてとれない。
ドクン……心臓が跳ねる。
私はこんなに天子を想っているのに、天子は私をその他大勢と一緒にしただと!
許せない。
そんな事は絶対に許さない。
衣玖はたったこれだけの出来事で、思考のコントロールを失いかけていた。
焦りによるものか、悲しみによるものか、それは分からない。
とにかく、例え天子が本気でなかったにせよ『龍宮の使い』と呼ばれる事は、衣玖の心を驚くほど大きく動揺させた。
理性を失った時、それにとって変わる原始的思考の中で最も強いものは攻撃である。
己が周囲の世界に影響をもたらすための、もっとも端的な行動様式。
暴力的な感情が衣玖の心を染めた
「そんなのダメっ」
衣玖は獰猛な肉食獣のように翔ける。
鋭い目が定めた獲物は、去っていく天子の背中。
ダッダッダッダッ!!
足音に天子が振り向く。
「!?」
衣玖は一言の間も天子に与えなかった。
火事場の馬鹿力みたいなものか、角を突き上げる闘牛を連想させる勢いで天子の体を軽々と肩に担ぎ上げ、そのままドタドタと寝室へ走っていく。
「なによ!おろしなさいよ!」
衣玖はその言葉に従うように、天子をベットに放りなげた。
「きゃあ!?」
ドスンと天子がベットに跳ねる。
そして衣玖はベットに横たわる天子に、虎のごとく飛びかかった。
「ちょっ、何するのよ!離しなさいよ。龍宮の使い!」
「…っ!このわがまま娘っ!」
天子の不要な一言が、衣玖をますます猛らせる。
衣玖は普段の様子からは想像しがたいほどの粗々しい力で、抵抗する天子を組み伏せていった。
「ハァ。ハァ」
決着がつくのにそう長い時間はかからなかった。
衣玖は仰向けになった天子に馬乗りになって、その両手を押さえつけている。
「……離してよ」
天子は軽蔑した目で衣玖を睨む。
衣玖は圧倒的優位な姿勢にあるというのに、怯えた子どものような顔をしている。
「名前で呼んでください」
「……は?」
「名前で、呼んでください!」
「は! 都合がいいじゃない。私の事は名前で呼んでくれないくせに、自分だけは名前で?それこそわがままじゃないの? 龍宮の使い!」
「その呼び方をやめてっ!!」
完全に頭に血がのぼった衣玖は、天子の首筋に噛み付いた。
「痛っ!」
思い切り噛み付いたわけではなけれど、歯型が残る程度には力がこもっている。
それは衝動的な行為で、何故噛み付いたのか衣玖自信はっきりとは分かっていない。
ただ衣玖の甘噛みは二人の最も親密なスキンシップだった。
その幸せな時間を取り戻したいという願いと、衣玖を絡めとっている攻撃衝動がないまぜになっているのかもしれない。
「痛い!痛いってば!」
「名前を言ってくださいっ……名前でっ……」
龍宮の使いと呼ばれるたびに、衣玖は天子が他人になってしまったような恐怖に襲われる。
首筋。
耳たぶ。
頬。
下唇と顎の間。
鎖骨。
肩。
脇の下。
衣玖は天子の弱い部分を次々と噛んでいった。
だんだんと抵抗する衣玖の力が弱くなっていき、それからは、抑えていた手を離し天子の服をたくし上げて、脇腹とヘソのくぼみを噛んだ。
天子は逃げなかった。
「衣玖の……馬鹿」
天子が震える声で小さく呟いた。
だが衣玖の耳には自分の荒い息遣いしか聞こえていない。
数分後。
正気に戻った衣玖はベットに正座させられ、仁王立ちになった天子が腕を組んでそれを見下ろしている。
窓から聞こえる天界スズメ達の歌が、虚しい。
「少しは私の気持ちがわかったかしらね」
「……は、はい」
衣玖は頭を垂れたまま、情けない声で言う。
「あの、手を解いてくださいませんか……」
衣玖の手は羽衣によって後ろ手にきつく縛られている。
「ダメ。また襲いかかってくるかもしれないでしょ。ああ痛かった」
「申し訳ありません……」
「時々変態になるのは知ってたけど、こんな乱暴者だったとは知らなかったわ。ねぇ、龍宮の使いさん」
衣玖の顔が歪んだ。
天子は羽衣がほどけていないか一応確認する。
それから衣玖の前に膝をついて、言った。
「こうやって呼ばれるの、嫌?」
「……はい。名前で呼んでもらえないと、まるで、どうでもいい者だと思われているみたいです」
うんうん、と天子は満足気にうなずいた。
「私が名前で呼んで欲しいという気持ち、分かるわよねぇ」
「……ですが、私達は昔から『衣玖』『総領娘様』と親しみを込めて呼び合ってきたんです。今さら私が『龍宮の使い』と呼ばれる事は、私が総領娘様を『総領娘様』と呼ぶ事とは、全然意味が違うじゃないですか……」
天子は、はぁぁぁと大きく一つ溜息をついた。
「衣玖、この後に及んでまだそんなわがままを言うの? 私を押し倒して、体中歯型だらけにしておいて……うわっ!?」
いきなり衣玖が腰を上げて天子に体を擦り付ける。
抱きつこうとしたのかもしれないが、衣玖は後ろ手に縛られているから、ほとんど体当たりみたいな格好になっている。
「やっと。やっと名前を呼んでくれましたねっ!」
「ああもう……。ね。嬉しいんでしょ。だったら衣玖だって、四の五の言わずに私の事を『天子』と呼んでくれたらいいじゃない!」
「でも私だって、理由も無しにわがままで拒んでいるわけではないんですよ」
「じゃあなんでなのよ」
「……興奮してしまうのです」
「はぁ?」
天子が、何言ってんだオメェという顔をした。
「名前で呼ぶと、興奮してしまうのです。それこそ、こうやって手をしばれていないと先程のように跳びかかってしまいそうな……」
「……」
天子は何と言うべきか分からない様子だ。
衣玖はその顔になんともいえない恥ずかしさを感じる。
己の恥部とも言える部分を明かしているのだから、当然なのだが。
「頭の中が総領娘様の事でいっぱいになって、わけがわからなくなるんです」
「……」
じぃっと、天子の大きな瞳が衣玖の目を覗き込んだ。
「よくわからないけど……。私の事がどうでもいいから、名前で呼んでくれないわけじゃあないのね」
「もちろんですよ!」
「何度頼んでも衣玖が名前で呼んでくれないから、ひょっとしてそうなのかと少し不安になった時もある」
「そんなまさか。むしろ逆です」
「……衣玖の変態」
天子は、衣玖の後ろに回ってその手を縛っている羽衣をといだ。
そして、少し顔を赤くしながら、ピコンッ、と衣玖にデコピンをする。
「名前で呼ぶと興奮する?ワケ分かんない。人を不安にさせておいて……」
「は。は。は……ごめんなさい、総領娘様」
ぺこり、と衣玖が頭を下げる。
何はともあれ、名前うんぬんに起因した誤解と揉め事は収まった。
なんともあっけないが、誤解や行き違いというものは、いざ解決してしまえば何でも無い事なのだろう。
二人とも息をついて、ベットの上で体を崩した。
窓から挿し込む朝日が、二人の顔を照らす。
そうだ。
まだ朝なのだ。
すでに一日分の騒ぎを体験したような気でいた衣玖は、それが何だか可笑しかった。
「それじゃあさ。何かあだ名を考えてよ」
「え?」
「名前の変わりにそれで我慢するから」
「あだ名ですか……。『オテンバさん』とか」
「そんなの嫌よ……。『ゆかりん』とかそういう感じのでいいわよ」
「『てんこりん』とかですか?それはちょっと……あっ」
「何か思いついた?」
「ええ」
衣玖はにゅふにゅふと奇妙にとろけた顔でニヤつきながら、天子ににじり寄っていく。
その様子に若干警戒している天子の耳もとに衣玖が手をあてて、ぼそっと囁いた。
その瞬間、天子の顔があっというまに真っ赤に爆発した。
「な、何よそれ!名前で呼ぶよりよっぽど恥ずかしいじゃない」
「うふふ、私はそうでもありません」
「おかしいわよ衣玖!」
「ひどいです」
両手で頬を抑えながらアワアワとしている天子を捕まえて、衣玖はその耳元でもう一度先程の言葉を言った。
「や、やめて!恥ずかしい!」
「そうですか?私はとても気に入りました。これからは二人の時はいつもこうお呼びいたします」
ぴー、っと天子の耳から蒸気が吹き出した。
「いい!もういいから!今まで通り『総領娘様』でいいから!」
天子はディーゼル天人となってベットから……というより衣玖の側から逃げ出そうとする。
だが衣玖はベットの上を這って行く天子を逃がしはせず、天子の背中に覆いかぶさりベットに押し倒した。
そうしてもう一度、天子の耳元に口をあてて、息を吹きかけながらゆっくりと囁く。
『私の可愛い総領娘様』
「やめてーー!!」
天界スズメ達の歌に混じって、天子の桃色の悲鳴が空に響いた。
それから数日後。
衣玖と天子が博麗神社の宴会に参加していた時の事。
「おい、天人」
天子の背後にそう声をかけるのはレミリア。
「何よ」
焼き鳥のクシを咥えながら、天子が振り向く。
偉そうに顎を上げて天子を見下ろしているレミリアと、その隣に静かに佇んでいる咲夜。
天子は肉の無くなったクシをかじりながらレミリアを睨み返す。
ぎゃーぎゃーと皆が宴会の酒に騒ぐ中、ここだけ、独特のピリピリとした空気が漂っている。
「はしたないですよ」
天子の隣にいた衣玖がくわえクシを注意した。
「この間はよくも私の事をコケにしてくれたな」
「さぁ。そうだったっけ?」
「だがもうそうはいかんぞ……咲夜」
自信ありげな顔をしているレミリアは、顎をくいっと上げて、咲夜に何事か合図をした。
咲夜は疲れ切ったように大きく溜息をついた後、必要以上にハキハキと口を開いた。
衣玖はなんとなくその仕草に親近感を覚えた。
「なんでございましょうか」
そして続けて、
「レミリア様」
と言った。
「ははははっ!」
レミリアのドヤ顔である。
衣玖と天子は、ぽかぁんとした顔でそれを見ていた。
情けない顔をしている咲夜と、してやったりという顔のレミリアが並んでいるのはなんとも滑稽な眺めだ。
いかな紅魔館のほこるパーフェクトメイドといえども、主のわがままには逆らえなかったようだ。
「衣玖」
と天子が言う。
「はい。総領娘様」
と衣玖が答えた。
「ん?」
レミリアが顔をしかめる。
衣玖の天子に対する呼び方が変わっているのに気付いたのだろう。
「私思った。呼び方なんてどうでもいいのね。お互いの心が通じ合っている事が、一番大切なのよ」
「その通りですね。総領娘様」
二人はそう言って、レミリアの隣にいる咲夜の顔を見た。
私はこんな所で何をしているんだろう、と言いたげな渋い顔をしている。
子どもじみたわがままに無理やり付き合わされて、心が疲れているのだろう。
経験があるので衣玖にはよく分かる。
「え……ちょ……」
レミリアは今しがたまで咲夜のその表情に気づいていなかった。
「さ、咲夜。どうしたの」
「……なんでもありません。さあお嬢様。満足されたのならもういきましょう」
そう言って、主をおいて咲夜はその場から立ち去っていく。
「さ、咲夜! あれっ、呼び方が元に戻って……ああ! 待ってったら咲夜!」
レミリアは館の主とは思えない声を出して、咲夜の後を追いかけていった。
ふふふ、とお互いの顔を見合わせて笑う衣玖と天子。
衣玖はそんな天子の笑顔を見ているうちに、どれからかってやろうという気分になって、天子の耳元に手をあて、そっと天子のあだ名呟く。
ボフン!と天子の顔が音をたててゆでダコになった。
「ば、馬鹿!人の入るところではやめて!」
天子がそう叫びながら、ぐいっと酒を煽る。
衣玖はそれを見てまた笑った。
顔が赤いのは酒のせいだと言うつもりなのかもしれないが、こんなに真っ赤になるまで飲めるほど、天子は酒を好きではない。
「……総領娘様にだけは言われたくないですね」
遅いとも早いとも言えない朝の一刻、衣玖はたたき起こしたばかりの天子を化粧鏡の前に座らせて、寝ぐせのついたその髪を丁寧にといでやっている。
朝を奏でる天界スズメ達の楽しげな歌が、開放った寝室の窓から青空の光と共に入ってくるけれど、もちろん衣玖はそれを邪魔だとは思わない。
鏡に映る衣玖と天子の顔はどちらもひどいもので、それくらいの爽やかさがあってようやくまともな朝の風景になるのだから。
天子の顔はどうみたってまだ半分寝ているようなつぶれた顔をしているし、衣玖は腹にいくつもの小言を抱えて憮然とした表情をしている。
「なぜでしょうか。わがままな人ほど、ことさら他人をわがまま呼ばわりするんですよね」
パーフェクトで瀟洒なメイドならどんな戯言にも平静としていられるのかもしれないが、衣玖は瀟洒ではないし、もちろん天子のメイドでもない。
「だって衣玖ってば私の言うことちっとも聞いてくれない」
「心外です……というかむしろ腹が立ちますね。私は誰よりも総領娘様のわがままにおつき合いしているはずですが」
「それよ!」
鏡の中の天子が、キッと衣玖を睨んだ。
「へ?」
衣玖の手が止まる。
「何度言っても、衣玖は私の事を『天子』って呼んでくれない」
衣玖は不自然に沈黙した後、初心者が作った蝋細工みたいにぎこちなく笑った。
「そうでしたかね……あぁ、ところで、寝るときはやはりちゃんとナイトキャップを被りませんか。せっかく綺麗な髪の毛をしているのですから」
だがそんな笑顔は人を不快にさせるだけだ。
「ほら、そうやって、ちっとも私の話を聞こうとしないでしょ」
「……総領娘様のわがままに比べれば可愛いものじゃないですか」
「また誤魔化そうとするー! ダメっ! 絶対ダメだからね! 今日こそはきっちりと話をつけるんだから!」
天子は頭をぶんぶんと振って髪とぎの邪魔をする。
「ああもう。動かないでください」
「言う事を聞くまで髪をとがせないわよっ」
「自分でされるのでしたら別にかまいませんけど……。貴方は比那名居家の長女様で、私はただの龍宮の使い。敬称でお呼びするのが普通ですよ」
「だーかーらー、そんなのはどうでもいいって私がいってるでしょう。私が名前で呼べって言ってるんだから、衣玖はその通りにしたらいいのっ」
天子のヘッドバンキングはますます勢いを増して、青い髪が暴風のごとく荒れ狂う。
せっかくといだ髪がまたボサボサだ。
衣玖はヤレヤレと頭を押さえた。
「……わかりました。わかりましたから、もうやめて下さい」
鏡の中で天子の顔が夏のひまわりのようにぱぁっと咲いた。
「ほんと!?」
「ええ。ええ。ですから大人しく前を向いてください。天子様」
天子の顔が見ていて吹き出しそうになるほど歓喜一色に染まっていく。
「衣玖! しかたないわねぇ衣玖! 早くしてね衣玖!」
「はいはいわかりましたから天子様」
シュ、シュ、シュ……
天子の細く柔らかい髪をすべるクシの音と、
フン、フン、フフン……
天子の鼻歌がスズメ達の声よりなお楽しげに、何でもないただの朝の時間を少しだけ特別にする。
「ねぇ衣玖?」
「なんです天子様」
「なんでもないわ衣玖」
「そうですか天子様」
鏡に写った衣玖の顔にもちゃっかり笑顔が浮かんでいる
天子の髪がようやく綺麗になってから、二人は下界の博麗神社に降りた。
霊夢は境内で午前の掃除をしているところだったから少し迷惑そうな顔をしていたけれど、天子はそんな事お構い無し。
しかし、かと言って、霊夢の掃除の手を邪魔するような事はしなかった。
ただ霊夢に聞こえるような場所で、何度も何度も「天子様」という呼び方を衣玖に言わせるのだ。
「下界の空気は緑臭いわねぇ衣玖」
「そうですね天子様」
もう衣玖と呼ばれれば必ず天子様と言わなければならないような空気になってしまっている。
衣玖としては霊夢に見せつけているような気がして…というかそのままなのだが、なんとなく独占欲が満たされる気もしてまんざらではない。
(私に名前で呼ばれる事をこんなに喜んでくれるなんて)
ゾクリ、と獣の衝動とでも言おうか、天子を甘噛みしてやりたいという衝動が脳髄から四肢の先にかけて伝わるが、今のところはまだ自制心が働いている。
霊夢は呼び方が変わっている事に気づいているのかいないのか、どちらにせよまったく興味が無いらしいのだが、そんな霊夢にそれでも必死に『天子様』アピールをしている天子が衣玖はやはり可愛かった。
「あ……」
天子が空の一角を仰いで声をもらした。
二つの人影が博麗神社に向かって飛んでくる。
コウモリの羽を生やした童女と、メイド服を着た銀髪の女。
紅魔館の主・レミリア=スカーレットと、そのメイド・十六夜咲夜だ。
衣玖は顔をしかめた。
タイミングが悪い。
衣玖は紅魔館の連中に特別悪い感情はないのだが、天子とレミリアはあまり仲がよろしくない。
簡単に言ってしまえばわがまま娘同士。
館主であるレミリアはさすがにたんなるわがまま娘というわけではないのだろうが、周りでキーキーと騒がれて黙っている性分ではない。
メイドの咲夜は非常に冷静で物事のあしらいかたを知っている人間ではあるのだが、主の一声があれば一切の合理不合理を捨ててくるらしいので油断できない。
タンッタンッ、と刻みのよい着地音をたてて二人が境内に降りた。
「おはよう霊夢」
「おはよう。吸血鬼なのに朝にも現れるのね」
「そんじょそこいらの吸血鬼とは違うの」
レミリアは霊夢とにこやかに挨拶を交わした後、急にうっとうしそうな顔になって、しかたなく気づいてやったというふうに、チラリと天子を一瞥した。
「天人」
「なにかしら」
早くもギスギスとした空気が二人の間に漂い始める。
すると霊夢がその手に二枚の札を持ち、それを高らかに掲げた。
「あんたら。掃除の邪魔はしないでね」
騒げば喧嘩両成敗だぞ、と言いう事だ。
二人はしかたなく抜きかけた剣を鞘に収める。
天子は衣玖の腕と自分の腕を絡ませて密着し、レミリアは咲夜がさしている傘の中にスススと入っていった。
二組は微妙な距離を保ちながら、それぞれは言葉を交わす事無く、別々に霊夢とおしゃべりをする。
とにもかくにも揉め事るにならなくてよかったと、衣玖はほっとしていた。
だが、
「咲夜。汗を拭いてくれるかしら」
「かしこまりました。お嬢様」
そのやりとりを聞いていた天子の顔が、ニヤリと歪んだ。
衣玖は嫌な予感がした。
「そこな吸血鬼」
なぜか勝ち誇った調子で、天子が言う。
「なんだ天人」
「そこのメイドはあんたの事を『お嬢様』と呼ぶのね」
「それがなんだ」
「ふふん。衣玖?」
天子が意味ありげな目配せを衣玖に送り、よくわからないが衣玖はとりあえず返事をした。
「なんですか。天子様」
すると天子はものすごいドヤ顔をレミリアに向けた。
レミリアは天子の言いわんとしている事がよく分からない様子だが、こんな得意げな顔をされれば、意味は分からずともとりあえず腹が立つだろう。
「咲夜。私にはあの馬鹿が何を言っているかわからない」
「私も今ひとつ理解できかねています。ですがもしかすると……」
「何?」
「私の記憶が確かならば、これまでそこにいる龍宮の使いは天人の事を『総領娘様』と呼んでいたはずです」
「ふむ」
「ですが今は違います。『天子様』と呼んでいます」
「ふんふん」
「名前で呼ぶという事は親密さの証と言います。つまりそういう事かと」
「うん? よく分からないんのだけど」
「自慢、という事かと」
「はぁ?……つまり、咲夜は私の事を『お嬢様』と呼ぶけど、やつらは名前で読んでいると、そういう事?」
「あくまで予想ですが」
「はっ……くだらないわね」
レミリアは未だにドヤ顔をやめない天子を、小馬鹿にしたような表情で嘲笑っていたのだが、
「……」
しばらく黙りんだあと、
「咲夜」
ポツリと言った。
「なんでしょうか。お嬢様」
「あー……」
レミリアは少し視線を迷わせたり、手を足をもぞもぞとさせたりして、それから不自然なほどそっけない声を出した。
「……名前で呼んでみなさいな」
「は?」
「だから。『お嬢様』ではなく。ほら。名前で。レミリア」
「それはできません」
きっぱりと咲夜が言った。
レミリアは最愛の飼い犬に噛み付かれた哀れな飼い主のような顔をした。
「な、なんでよ!」
「私は一介のメイド長。館の主であるお嬢様の名前をお呼びすることなどとてもできません」
「わ、私がいいっていってるのよ?」
「メイドの法に反します」
「主の命令に逆らう方が不忠でしょうが!」
ああどこかで聞いた会話だなー、と衣玖が思っていると、腕にくっついている天子がますます厭味ったらしい声で、レミリア達に聞こえるように言った。
「あらー見て衣玖。あの二人はなんだが喧嘩をしているみたいねぇ。仲が悪いのかしらねぇ」
「ですが喧嘩をするほど、とも言いますよ。天子様」
「くっ……!」
レミリアが今にも噛みいてきそうな目で二人を睨む。
できれば私を巻き込まないでくれ、というのが衣玖の本音なのだが。
「咲夜!お願いだから私の事を『レミリア』と呼んで!」
「申し訳ありません。お嬢様」
「お願いよ咲夜ぁ!」
「ぷぷぷー!くすくすっ!」
「天人貴様このォッ!」
とうとう我慢ならなくなったレミリアが天子に対して地対地バッドレディスクランブルの姿勢に入った時である。
真横から飛んできた座布団大のでかいお札が、問答無用でレミリアをふっ飛ばした。
同時に衣玖の腕にしがみついていた天子も同じく特大のお札に吹っ飛ばされて、衣玖は腕を持って行かれそうになる。
境内に転がった二人が目を白黒させながら体を起こすと、
「境内で暴れるな」
札を投げたままの姿勢の霊夢が、ジト目でそう言いつけた。
レミリアと天子は怯えながらトボトボと保護者のもとへと戻っていった。
境内わきの石段に腰かけながら、衣玖は天子の服についた汚れを払ってやる。
少しはなれた場所で同じような事をしているレミリアと咲夜の方から、
「いいでしょ?」とか「いじわる!」とかいう声が時々聞こえてきたが、天子も流石に懲りたのかそれを笑ったりはしない。
紅魔館に戻った後、咲夜は苦労するのだろうなと想像して衣玖は同情した。
いや、あの瀟洒なメイドの事だから自分などより遥かに上手くあしらってのけるのかもしれないが。
「はふぅ……」
天子に気づかれないように、衣玖はこっそりと熱い溜息を吐いた。
わがまま娘に振り回される冷静な付き添い、という役割を演じてはいるが、衣玖は衣玖で、内から湧き出る衝動と必死に戦っていたのである。
「大丈夫ですか。天子様」
天子の名前を呼ぶたびに、衣玖の心臓が鼓動を早めていく。
「もうダメっ。我慢できない!」
衣玖は膝まずいて夜空に叫んだ。
草原に吹く冷たい夜風が、慰めるようにその頬を撫でる。
人が見れば何事かと首をかしげる光景ではあるが、天界の端に位置する人気のない草原地帯なのだから、夜になればなおのこと、衣玖の奇行が目撃される事はない。
衣玖はそのまま前のめりに倒れこみ、そして体全身をドリルにして、心のままにあたりを転げ回った。
「てんしてんしてんしぃぃぃぃぃぃ!!」
狂ったように叫びながら服が汚れるのも構わずに草むらを転げまわる様子は、まさに狂っている。
「はぁ、はぁ……」
ようやく回転をやめた衣玖は地に寝そべったまま天の月を仰ぎ見る。
月の光に照らされたその顔には、腹を減らした虎が小鹿を目の前にした時にするような、見るものがゾクリとする獰猛な笑みがあった。
「……総領娘様」
そう呟いて、衣玖はもう一度草の上で体をゆっくりと一回転させる。
月の光がもう一度その顔を照らした時、そこにあるのは、少しすましたような、ツンとしたような、それでいて柔らかい感じがする、いつもの衣玖の顔だった。
ムクリと起き上がる。
「うーん。一日も耐えられないとは……」
天子の顔を思い浮かべながら、名前を呟いてみる。
「天子様」
言うと同時、熱い塊がガツンと衣玖の頭を殴った。
というよりも、脳の奥底から灼熱の波が広がっていく感覚だろうか。
かつて鬼の酒をこっそり盗み飲んだ時に味わった、己の好奇心を後悔するほどの火。
その感じに似ている。
天子の色んな表情の顔が、同時にいくつも重なって、衣玖の頭の中いっぱいに広がっていく。
鼓動の速さが大変な事になっている気がするが、天子の事ばかりに意識が向いて、よく分からなかった。
「私としたことが……」
頬に手を添えてみると、とても平静とは言えない程に熱くなっている。
「やはり『総領娘様』とお呼びするしかありません」
これはもう今に始まった事ではないのだが、天子の事を名前で呼ぶと、衣玖はどうにも冷静でいられなくなってしまう。
天子という存在を自分だけものにした気になってしまう、と言うと、ただ名前で呼んだにすぎないのに大げさな、という感じはするのだが、しかしどうにもそんな気になってしまうのだから仕方がない。
天子様という呼び方がなかなか定着しないのは、そのためだった。
「また何やかんや言われるでしょうねぇ……」
かといってこのまま無理に『天子』と呼び続けていると、いつなんどき理性が消し飛んで天子を押し倒してしまうか分からない。
それはそれで良いかも、などと考えてしまう己の頭を冷やすために、衣玖はけっこうな時間、天界のすみっこで夜空を見上げていた。
「おはよう! 衣玖!」
翌朝。
祭りか何かの最中だったかと勘違いしてしまいそうなほど楽しげな天子の声が衣玖を叩き起こした。
「んむぅ」
焦点の定まらない目をこすり、大きく伸びをしたあと体を起こす。
一応周りを確認してみるが、やはりここは衣玖の寝室であって、祭りの最中にうたた寝をしてしまったわけではない。
窓から入ってくる朝日や天界スズメ達の声も、寝室で迎えるいつもの朝だと証明してくれている。
強いていつもと違う事はと言えば、ベットに腰掛けた天子の笑顔が、ギラギラと、いわば8月の太陽みたいに衣玖を照りつけている事だ。
時計を見ると、まだ朝の六時。
天子が衣玖の家を訪ねてくる事は珍しくないが、こんな時間にやってくる事は今までなかった。
天子の心はいつもとは違う特別な時間を過ごしているのかもしれない。
「お早いですねぇ。おはようございます」
寝ぼけた頭を、ぺこりと下げる。
昨晩、ようやく家に戻った時はもう深夜2時をすぎてしまっていた。
それからお湯を浴び、就寝前のお肌手入れをしたのだから、寝入ったのは三時過ぎだろう。
10時間睡眠を心がけている衣玖にとっては、辛い朝だ。
「衣玖ってばひどい顔ねぇ。洗ってきなさいよ」
「そうですねぇ。そうしましょう」
のそりとベッドから下りて、ぺったらぺったらと洗面台に向かう。
バシャバシャと顔を洗った後、洗面台の鏡に映っているぬぼーっとした己の寝起き顔に向けて、衣玖は自問した。
「さぁ。どうしましょう」
『おはようございます天子様』、というべき所を、衣玖はわざと『おはようございます』とだけ言った。
さきの会話においてはそれほど不自然でもなかったけれど、いつまでも逃げられるものではないだろう。
今日も天子は、『天子様』という衣玖の言葉を求めてくるに違いない。
確実に何度も何度も。
「んぬぬ……ずるずるとごまかし続けるよりは。うん。スパっとやってしまったほうがいいでしょう」
衣玖はパンパンッと自分の頬を叩いく。
眠っていた表情筋がようやく目覚め、それとともに、天子の癇癪を受け止められるぐらいの気合も湧いてくる。
よしっ、と一つ、腹筋に力をいれた。
そうして衣玖が洗面室から台所にでた時である。
衣玖は信じられないものを見た。
天子が台所にたっている!
包丁を握り、まな板で桃の皮を向いているのだ。
衣玖の知る限り、天子の世界に置いて御飯とは『用意されるもの』であり『用意するもの』ではなかったはずだ。
天地がひっくり返るほどとは言わずとも、魔理沙が女言葉を使ったというぐらいの驚きはある。
固まっている衣玖の気配に気付いた天子が振り返って、にこっと笑った。
「衣玖」
「あ、あの……」
天子様、と呼びかえしてほしかったのだろうが、この時衣玖は本気でその事を忘れていた。
今まで天子がほとんど見せたことのない、なんというか、通俗的な女の子らしさ、のようなものがその笑顔にサンサンと輝いているのだ。
正直なところ、見とれてしまった。
「……もしかして私に朝御飯を準備してくれているのですか?」
天子にとっても、名前うんぬんに拘る気持ちより、いつもと違う自分が照れくさいという気持ちが強いのだろう。
えへへぇ、とやけに可愛らしく笑い、テーブルに座るよう衣玖に勧めた。
「もぉ。そんなに驚かなくてもいいじゃないの衣玖ったら」
「え、えぇ。すみませんつい」
向い合って座り、同じ皿の桃をつつく。
「どう衣玖。結構上手く皮をむけているでしょ」
「……そうですね。やればできるのですよ。もったいない」
「私がやらなくても、他の誰かがやってくれるんだもん。そうでしょう?」
「そうではありますが」
「んー……」
天子は急にそわそわとしだして、時折チラチラと衣玖に目配せしながら、恥ずかしそうに言った。
「まぁ……衣玖にはそんな召使いはいないんだし。どうしてもって言うなら、時々私がお手伝いしてあげてもいいかな?とは思うんだけど。ねぇ衣玖?」
「そ、それは嬉しいですね」
天子がそんな事を言うなんて、今までは絶対になかった事だ。
むしろ、「明日から私の御飯を作りにきてもいいわよ」と言ってのけるのが天子なのに。
名前で呼ばれる事が天子にとってこれほど大きな事だったのか、とあらためて驚く。
同時に衣玖は猛烈な罪悪感に襲われていた。
『総領娘様』呼んだ時に天子がどんな顔をするのだろうかと考えて胸が痛むのだ。
悲しむだろうか。
怒るだろうか。
裏切られたと思うのだろうか。
出来ればこのまま天子様と呼び続けていたいけれど、それでは理性が持たない。
衣玖は、覚悟を決めた。
「是非お願いしたいです」
それから一つ間を置いて、
「総領娘様」
はっきりと、そう言った。
「え……」
天子はきょとんとした顔。
衣玖は天子の雷を予想して身構える。
しかし意外な事に天子は、ぷっ、と笑ったのだ。
予想と違う天子の反応に、衣玖は戸惑う。
だが、
「衣玖ってば、今までのクセが抜けてないのね。ちゃんと名前で呼んでくれないと、嫌よ」
「うう……」
衣玖は胸を押さえた。
裏表の無い信頼ほどこういう時に辛いものはない。
痛みから逃げるように衣玖は一気にまくし立てた。
「総領娘様! 正直に申し上げます。やはりお名前で呼ぶ事はできません。その、無理です」
天子の顔を見て告げる事はできなかった。
けれど、数秒待っても天子が何も言わないので、衣玖は不安になってチラチラと顔色を伺う。
「……」
天子の表情には、失望の色がありありと見て取れた。
予想していたとは言え衣玖はひどく後ろめたい気持ちにさせられる。
例え話ではあるが、自分の子どもの誕生日に『今日だけは早く帰ってくるから』と約束して出勤した両親が結局いつも通りの遅い時間に帰宅してきたとしたら、親を信じてその帰りを待つていた子どもはこんな顔をしているのではないか。
「衣玖の……嘘つき。わかったって昨日言ったじゃん」
「……申し訳ありません」
いつもの様にしばらく適当に調子を合わせておけばよい、という考えだったのだ。
誤算だったのは、天子がこんなに喜んでくれた事と、その天子が可愛すぎて己が一日と耐えていられなかった事。
「もういいっ」
「……すみません」
責められるのは分かっていたから、それには耐える事ができる。
けれど、天子が奥歯を噛み締めながら言い出した事は、衣玖が全く思ってもいない話だった。
「衣玖が私の名前を呼んでくれないのなら。私も衣玖の事をもう名前でよばない」
「……え?」
「龍宮の使い、って呼ぶから」
「え?」
死角からの一撃。
衣玖は何が起こったのか理解できず一瞬思考が止まってしまう。
天子は椅子から立ち上がる。
「早起きして眠いから寝る。ベットを借りるから。龍宮の使い」
「そ、総領娘様」
天子がキッと衣玖を睨んだ。
今このタイミングでその呼び方をすべきではなかったのだ。
「おやすみ。龍宮の使い」
天子はそう言い捨てて衣玖に背を向け、寝室へと繋がる廊下の方に歩いていく。
「あ、あの、待ってください!」
天子は振り向かなかった。
衣玖の喉が嘘みたいにカラカラに乾いていく。
「そんな」
『龍宮の使い』
衣玖という個性のほとんどを無視した、ひどい呼び方だ。
ズキリ……と胸が痛む。
龍宮の使いというカテゴリーに当てはまる者は、衣玖意外にも大勢いる。
その大勢の中で、たまたま目の前にいた相手を指すだけの、冷たい呼びかけ。
そこに衣玖という個人への興味は、一切みてとれない。
ドクン……心臓が跳ねる。
私はこんなに天子を想っているのに、天子は私をその他大勢と一緒にしただと!
許せない。
そんな事は絶対に許さない。
衣玖はたったこれだけの出来事で、思考のコントロールを失いかけていた。
焦りによるものか、悲しみによるものか、それは分からない。
とにかく、例え天子が本気でなかったにせよ『龍宮の使い』と呼ばれる事は、衣玖の心を驚くほど大きく動揺させた。
理性を失った時、それにとって変わる原始的思考の中で最も強いものは攻撃である。
己が周囲の世界に影響をもたらすための、もっとも端的な行動様式。
暴力的な感情が衣玖の心を染めた
「そんなのダメっ」
衣玖は獰猛な肉食獣のように翔ける。
鋭い目が定めた獲物は、去っていく天子の背中。
ダッダッダッダッ!!
足音に天子が振り向く。
「!?」
衣玖は一言の間も天子に与えなかった。
火事場の馬鹿力みたいなものか、角を突き上げる闘牛を連想させる勢いで天子の体を軽々と肩に担ぎ上げ、そのままドタドタと寝室へ走っていく。
「なによ!おろしなさいよ!」
衣玖はその言葉に従うように、天子をベットに放りなげた。
「きゃあ!?」
ドスンと天子がベットに跳ねる。
そして衣玖はベットに横たわる天子に、虎のごとく飛びかかった。
「ちょっ、何するのよ!離しなさいよ。龍宮の使い!」
「…っ!このわがまま娘っ!」
天子の不要な一言が、衣玖をますます猛らせる。
衣玖は普段の様子からは想像しがたいほどの粗々しい力で、抵抗する天子を組み伏せていった。
「ハァ。ハァ」
決着がつくのにそう長い時間はかからなかった。
衣玖は仰向けになった天子に馬乗りになって、その両手を押さえつけている。
「……離してよ」
天子は軽蔑した目で衣玖を睨む。
衣玖は圧倒的優位な姿勢にあるというのに、怯えた子どものような顔をしている。
「名前で呼んでください」
「……は?」
「名前で、呼んでください!」
「は! 都合がいいじゃない。私の事は名前で呼んでくれないくせに、自分だけは名前で?それこそわがままじゃないの? 龍宮の使い!」
「その呼び方をやめてっ!!」
完全に頭に血がのぼった衣玖は、天子の首筋に噛み付いた。
「痛っ!」
思い切り噛み付いたわけではなけれど、歯型が残る程度には力がこもっている。
それは衝動的な行為で、何故噛み付いたのか衣玖自信はっきりとは分かっていない。
ただ衣玖の甘噛みは二人の最も親密なスキンシップだった。
その幸せな時間を取り戻したいという願いと、衣玖を絡めとっている攻撃衝動がないまぜになっているのかもしれない。
「痛い!痛いってば!」
「名前を言ってくださいっ……名前でっ……」
龍宮の使いと呼ばれるたびに、衣玖は天子が他人になってしまったような恐怖に襲われる。
首筋。
耳たぶ。
頬。
下唇と顎の間。
鎖骨。
肩。
脇の下。
衣玖は天子の弱い部分を次々と噛んでいった。
だんだんと抵抗する衣玖の力が弱くなっていき、それからは、抑えていた手を離し天子の服をたくし上げて、脇腹とヘソのくぼみを噛んだ。
天子は逃げなかった。
「衣玖の……馬鹿」
天子が震える声で小さく呟いた。
だが衣玖の耳には自分の荒い息遣いしか聞こえていない。
数分後。
正気に戻った衣玖はベットに正座させられ、仁王立ちになった天子が腕を組んでそれを見下ろしている。
窓から聞こえる天界スズメ達の歌が、虚しい。
「少しは私の気持ちがわかったかしらね」
「……は、はい」
衣玖は頭を垂れたまま、情けない声で言う。
「あの、手を解いてくださいませんか……」
衣玖の手は羽衣によって後ろ手にきつく縛られている。
「ダメ。また襲いかかってくるかもしれないでしょ。ああ痛かった」
「申し訳ありません……」
「時々変態になるのは知ってたけど、こんな乱暴者だったとは知らなかったわ。ねぇ、龍宮の使いさん」
衣玖の顔が歪んだ。
天子は羽衣がほどけていないか一応確認する。
それから衣玖の前に膝をついて、言った。
「こうやって呼ばれるの、嫌?」
「……はい。名前で呼んでもらえないと、まるで、どうでもいい者だと思われているみたいです」
うんうん、と天子は満足気にうなずいた。
「私が名前で呼んで欲しいという気持ち、分かるわよねぇ」
「……ですが、私達は昔から『衣玖』『総領娘様』と親しみを込めて呼び合ってきたんです。今さら私が『龍宮の使い』と呼ばれる事は、私が総領娘様を『総領娘様』と呼ぶ事とは、全然意味が違うじゃないですか……」
天子は、はぁぁぁと大きく一つ溜息をついた。
「衣玖、この後に及んでまだそんなわがままを言うの? 私を押し倒して、体中歯型だらけにしておいて……うわっ!?」
いきなり衣玖が腰を上げて天子に体を擦り付ける。
抱きつこうとしたのかもしれないが、衣玖は後ろ手に縛られているから、ほとんど体当たりみたいな格好になっている。
「やっと。やっと名前を呼んでくれましたねっ!」
「ああもう……。ね。嬉しいんでしょ。だったら衣玖だって、四の五の言わずに私の事を『天子』と呼んでくれたらいいじゃない!」
「でも私だって、理由も無しにわがままで拒んでいるわけではないんですよ」
「じゃあなんでなのよ」
「……興奮してしまうのです」
「はぁ?」
天子が、何言ってんだオメェという顔をした。
「名前で呼ぶと、興奮してしまうのです。それこそ、こうやって手をしばれていないと先程のように跳びかかってしまいそうな……」
「……」
天子は何と言うべきか分からない様子だ。
衣玖はその顔になんともいえない恥ずかしさを感じる。
己の恥部とも言える部分を明かしているのだから、当然なのだが。
「頭の中が総領娘様の事でいっぱいになって、わけがわからなくなるんです」
「……」
じぃっと、天子の大きな瞳が衣玖の目を覗き込んだ。
「よくわからないけど……。私の事がどうでもいいから、名前で呼んでくれないわけじゃあないのね」
「もちろんですよ!」
「何度頼んでも衣玖が名前で呼んでくれないから、ひょっとしてそうなのかと少し不安になった時もある」
「そんなまさか。むしろ逆です」
「……衣玖の変態」
天子は、衣玖の後ろに回ってその手を縛っている羽衣をといだ。
そして、少し顔を赤くしながら、ピコンッ、と衣玖にデコピンをする。
「名前で呼ぶと興奮する?ワケ分かんない。人を不安にさせておいて……」
「は。は。は……ごめんなさい、総領娘様」
ぺこり、と衣玖が頭を下げる。
何はともあれ、名前うんぬんに起因した誤解と揉め事は収まった。
なんともあっけないが、誤解や行き違いというものは、いざ解決してしまえば何でも無い事なのだろう。
二人とも息をついて、ベットの上で体を崩した。
窓から挿し込む朝日が、二人の顔を照らす。
そうだ。
まだ朝なのだ。
すでに一日分の騒ぎを体験したような気でいた衣玖は、それが何だか可笑しかった。
「それじゃあさ。何かあだ名を考えてよ」
「え?」
「名前の変わりにそれで我慢するから」
「あだ名ですか……。『オテンバさん』とか」
「そんなの嫌よ……。『ゆかりん』とかそういう感じのでいいわよ」
「『てんこりん』とかですか?それはちょっと……あっ」
「何か思いついた?」
「ええ」
衣玖はにゅふにゅふと奇妙にとろけた顔でニヤつきながら、天子ににじり寄っていく。
その様子に若干警戒している天子の耳もとに衣玖が手をあてて、ぼそっと囁いた。
その瞬間、天子の顔があっというまに真っ赤に爆発した。
「な、何よそれ!名前で呼ぶよりよっぽど恥ずかしいじゃない」
「うふふ、私はそうでもありません」
「おかしいわよ衣玖!」
「ひどいです」
両手で頬を抑えながらアワアワとしている天子を捕まえて、衣玖はその耳元でもう一度先程の言葉を言った。
「や、やめて!恥ずかしい!」
「そうですか?私はとても気に入りました。これからは二人の時はいつもこうお呼びいたします」
ぴー、っと天子の耳から蒸気が吹き出した。
「いい!もういいから!今まで通り『総領娘様』でいいから!」
天子はディーゼル天人となってベットから……というより衣玖の側から逃げ出そうとする。
だが衣玖はベットの上を這って行く天子を逃がしはせず、天子の背中に覆いかぶさりベットに押し倒した。
そうしてもう一度、天子の耳元に口をあてて、息を吹きかけながらゆっくりと囁く。
『私の可愛い総領娘様』
「やめてーー!!」
天界スズメ達の歌に混じって、天子の桃色の悲鳴が空に響いた。
それから数日後。
衣玖と天子が博麗神社の宴会に参加していた時の事。
「おい、天人」
天子の背後にそう声をかけるのはレミリア。
「何よ」
焼き鳥のクシを咥えながら、天子が振り向く。
偉そうに顎を上げて天子を見下ろしているレミリアと、その隣に静かに佇んでいる咲夜。
天子は肉の無くなったクシをかじりながらレミリアを睨み返す。
ぎゃーぎゃーと皆が宴会の酒に騒ぐ中、ここだけ、独特のピリピリとした空気が漂っている。
「はしたないですよ」
天子の隣にいた衣玖がくわえクシを注意した。
「この間はよくも私の事をコケにしてくれたな」
「さぁ。そうだったっけ?」
「だがもうそうはいかんぞ……咲夜」
自信ありげな顔をしているレミリアは、顎をくいっと上げて、咲夜に何事か合図をした。
咲夜は疲れ切ったように大きく溜息をついた後、必要以上にハキハキと口を開いた。
衣玖はなんとなくその仕草に親近感を覚えた。
「なんでございましょうか」
そして続けて、
「レミリア様」
と言った。
「ははははっ!」
レミリアのドヤ顔である。
衣玖と天子は、ぽかぁんとした顔でそれを見ていた。
情けない顔をしている咲夜と、してやったりという顔のレミリアが並んでいるのはなんとも滑稽な眺めだ。
いかな紅魔館のほこるパーフェクトメイドといえども、主のわがままには逆らえなかったようだ。
「衣玖」
と天子が言う。
「はい。総領娘様」
と衣玖が答えた。
「ん?」
レミリアが顔をしかめる。
衣玖の天子に対する呼び方が変わっているのに気付いたのだろう。
「私思った。呼び方なんてどうでもいいのね。お互いの心が通じ合っている事が、一番大切なのよ」
「その通りですね。総領娘様」
二人はそう言って、レミリアの隣にいる咲夜の顔を見た。
私はこんな所で何をしているんだろう、と言いたげな渋い顔をしている。
子どもじみたわがままに無理やり付き合わされて、心が疲れているのだろう。
経験があるので衣玖にはよく分かる。
「え……ちょ……」
レミリアは今しがたまで咲夜のその表情に気づいていなかった。
「さ、咲夜。どうしたの」
「……なんでもありません。さあお嬢様。満足されたのならもういきましょう」
そう言って、主をおいて咲夜はその場から立ち去っていく。
「さ、咲夜! あれっ、呼び方が元に戻って……ああ! 待ってったら咲夜!」
レミリアは館の主とは思えない声を出して、咲夜の後を追いかけていった。
ふふふ、とお互いの顔を見合わせて笑う衣玖と天子。
衣玖はそんな天子の笑顔を見ているうちに、どれからかってやろうという気分になって、天子の耳元に手をあて、そっと天子のあだ名呟く。
ボフン!と天子の顔が音をたててゆでダコになった。
「ば、馬鹿!人の入るところではやめて!」
天子がそう叫びながら、ぐいっと酒を煽る。
衣玖はそれを見てまた笑った。
顔が赤いのは酒のせいだと言うつもりなのかもしれないが、こんなに真っ赤になるまで飲めるほど、天子は酒を好きではない。
面白かったです
何気に猛獣使いの才を持つわがまま娘、比那名居 天子。
目まぐるしく攻守を逆転させる二人から目が離せません。
なによりどちらも可愛らしいしね!
あ、ピエロ状態のレミちゃんもこれはこれで良し!
なんというかわいらしいお二人さんなんでしょうか!
衣玖さんの多少(?)のはじけっぷりがまたすばらしい。
良いお話、楽しませていただきました。
星界の続編はいつになるんでしょうねえ…
てんこあいしてる。
衣玖さんの発言を真似すれば天子は倒せるんでs(殴
咲夜さんに同情。でも渋い顔しちゃダメだよ!
美味しゅうございました。
あと霊夢、座布団大のお札投げるって準備余過ぎるだろ。
GJですっ!