熱気は上昇すると、さとり様に教わったはずなのに。今日の地底は、地上の酷暑が滴り落ちてくるかのようだった。地霊殿を一歩出ると、夏がもっと押し寄せてきた。空気が吐く息のようにぬるい、呼吸をしたくない。下着が肌にへばりつく。雪だるまを抱っこしたい。
さとり様は金属門を開け、贔屓にしている妖怪の調律師を礼で送った。相手は上機嫌だった。報酬と冷やし緑茶が好かったのだろう。
「長時間ありがとうございました。換気と湿気に用心ですね、了解です。また半年ほど後に」
垂れるねじれ髪が暑そうだった。見送りを終えると、さとり様は上衣を脱いだ。ブラウスを肘まで巻き上げても足りないのか、
「ええ全然足りないわ。お燐、おもてなしお疲れ様。シャワー浴びてかき氷にしましょう。おくう達もへばって休んでるわ」
着替えを取ってきて、二人で午後の大浴場コースになった。灼熱地獄の加熱なしの、涼しい地下水を浴びた。汗の膜が剥がれ落ちる。冷水で泡立ちは悪いけれど、石鹸や洗髪液も使う。さとり様が赤毛を洗ってくれた。林檎のような瞳を胸に下げて、あたいの心を読んでいる。欲しいところに手が来る。猫耳の裏も後ろ髪の生え際も、気持ちがいい。
「にゃー。旧地獄が極楽です」
「安上がりな極楽ね」
冷たい雨が白泡を流していく。水音で生き返る。定期的な手入れの最中は、団扇の風音や氷の割れる音も邪魔物だった。僅かな音程と残響のずれも許されない、非常に繊細な楽器だから。音楽室全体が、個々の弦のように張り詰めていた。余計に熱を感じる五時間だった。
「さとり様、河童にあれの改造を依頼してみませんか。おくうの核融合の電力で、自動の整備とチューニングができるそうですよ。精度も完璧。調律のひとは嫌がるかもしれませんけど」
「便利そうだけれど、今のままでいいわ。外れない音色はどこか違う」
あたいの定番髪、二つ分けの三つ編みが結われていた。さとり様の手は、あたいよりも小さくて頼りない。しかし器用に、お下げやお菓子やおめかし服を作っていく。触れ方は、命あるものに対するかのように丁寧。真心があって好きだ。
「誰だってできることよ。お燐、私の髪の毛お願い」
誰にも真似できない手と心で、さとり様はピアノを弾く。
泡水を避けて、さとり様はこいし様のいる上の世界を仰いでいた。暑気に滅入って、そろそろ帰ってくるだろう。直したての音に出迎えられる。
「おかえりくらい、何度でも言うのにね」
紫陽花色の短髪を、どうにかまとめてポニーテールにした。首周りが軽いと好評だった。袖のない白のワンピースとざっくり編みの空色カーディガンで、すっかり七月仕様。あたいも桃金魚の浴衣で、髪色の暑苦しさを追い払った。
厨房はペットのかき氷屋さんになっていた。手動の器械が、氷を粗い雪山にしていく。水の白雪、紅茶雪、抹茶雪と珈琲雪。冷やし固める段階で、ほんのり甘味がついている。味と色のある氷柱を作り始めたのは、さとり様だった。シロップのかけ過ぎでお腹を壊さないかと、あたい達を心配して。現在では、夏季のおやつとして定着している。
「紅茶氷を小盛りでひとつ。輪切りのレモンを載せてくださいな。お燐は珈琲がいいそうよ、ミルクをあっさりかけて」
幼い火焔猫達が、代わりばんこに氷器の輪を回していた。地獄鴉の子供衆も、せっせと注文に応えていく。お店屋さんごっこだ。あたいやおくうも、人型化を果たせた頃にやっていた。さとり様は我が子を見守るように、目元を緩めていた。
食べる空間に困るほどの、繁盛振りだった。おくうが冷えた石床に頬を当てて、抹茶白玉の氷を混ぜていた。薄着でマントを羽織っていない。翼を扇にしている。あたい達に手を振って、
「楽器屋さん終わったの?」
「とっくに。行儀悪しない、起きた起きた」
「うにゅ、ひんやりだった」
ピアノが聴きたいと、無邪気にねだってきた。
「演奏部屋に行きましょう。ここはますます混むわ」
「零さないでね」
台所喫茶を抜けて、廊下奥の防音扉をくぐった。天井の高い一室に、中型のグランドピアノ。桜桃がかった焦げ茶の木色。さとり様は壁の湿度計の目盛を調べていた。良好らしい。
この一台は、あたい達より古くから地霊殿にいる。さとり様達の、人生一の買い物だったそうだ。お金で得られる中では。
亜麻布のソファに三人身体を沈めて、氷菓子を掬った。霜柱を崩すような音が、奏楽の前座。融けないうちに口で融かした。牛乳少なめのカフェオレ味。一口貰ったさとり様のは、甘酸っぱいレモンティー。おくうのは、旧都の縁日の宇治金時風。
地の底で蝉は鳴かず、鬼の花火はまだ上がらない。けれども季節は燃えていて、不思議な気分になった。何と言い表せばいいのだろう。嬉しいや悲しい、どきどきやぴかぴかで大人しくならないものもある。辞書は薄っぺらい。硝子の器の表面が、水滴で埋まる。
「だから音楽にするの」
「そうでした」
「おくう、どんな曲がいい? お昼寝の曲ね」
さとり様は匙の両手を合わせ、ピアノに向かっていった。屋根を立てて、蓋を上げる。譜面台に楽譜はない。外の有名なものは棚に写しが入っているけれど、さとり様は用いない。読心の旋律と即興で、一回きりの生の楽曲にしていく。
八十八の鍵盤を、低音部から順番に下ろしていた。一音を生むまでの、重みと間が大事なのだという。
「見違えるよう。聴き違えるかしら、この場合」
調律点検の妖怪は、いい仕事をしていった。
二音、三音、溶かすように和音を奏でる。おくうの求める響きに沿って、鍵を細い指が滑った。
さとり様は、白鍵も黒鍵も勢いで叩かない。お昼寝の曲でも、お祭りの曲でも。絵の具を溶いた水のように、かすかな色の音をつくる。静かな室内で、単一のシやファがメロディになる。
高音の雫の隙間が狭まって、複数音が応える。序が開けて、左手が仲間になった。さりげない、品のいい飾りつけをする。
歌はつかないけれど、唇が詩を唱えるように動いている。
自由自在や縦横無尽、技巧派とは言えない。考えあぐねてか、同音を弱く連打するときもある。
お気に入りのものを集める、巣の雛鳥を思わせる曲だった。
おくうは羽を休めて、素直な感想を話した。
「さとり様は下手になったよね」
「こら、おくう」
声も内面も筒抜けなのに。演奏者のさとり様は、気にせずおくうのリクエストを弾いている。
私の膝を引き寄せて、正直者の親友は頭を預けた。浴衣の金魚紋が皺になって跳ねる。
「下手だけど聴いてたい。このあたりがぎゅーってなる。お燐は違う?」
胸を押さえて、おくうはあたいを曇りなく見た。
「違わないよ」
さとり様の音を受けると、さとり様の心境を視ている気になる。あたいが覚りになったかのように、伝わってくる。
ピアノは、あたい達の第三の瞳だった。
最初に、西洋系の妖怪の心を二人で捉えた。焼き菓子でできたような夢のある屋敷と、未見未聴の楽器の数々。竪琴、弦と弓、銀の横笛。さとり様とこいし様は、古ピアノに心を奪われた。読んだ音は高低も陰影も様々、あれだけ大きければ一緒に弾ける。地面に鍵盤を描いて、ひっそり連弾をしていた。
地下に洋風の住居は手に入ったけれど、あの巨大な楽器はない。旧都は和風の鳴り物が主流で、鉄琴やカスタネットもそうそう出回らない。調音の達人を頼って、店から店へ。寂れた古物店の秘蔵庫で出会った。外界から入った一級品で、値は張った。是非曲直庁の俸給の貯金をはたいて、地霊殿に連れ帰った。
前は他人の完成曲を使用していた。覚り同士、想念で息を合わせて。一糸乱れぬ調和は、一流のコンサートのようだけれど、怖かった。その頃のさとり様は、今ほど話しやすくなかった。作る食べ物も服も、機械めいていた。さとり様がいなかった。
次第に姉妹の演奏会は行われなくなり、こいし様の目はピアノの肌よりも暗くなった。
さとり様は、独りの部屋に鍵をかけるのかと思った。
逆に、窓と扉が開いた。
知らない曲が、廊下と庭に届いた。可愛げがあって、浮いて潜って、途切れた。新入りのペットが忍び込んだのか。おくうと様子を見に行くと、さとり様が鍵盤を沈めていた。楽譜を広げずに。あたい達に気付かないほど、集中していた。さとり様のピアノは、おくうの評するように稚拙になった。拙くて、優しくなった。さとり様本人も。
怨霊異変後、あたいはさとり様にピアノを習い始めた。ドレミと指の運動、五線譜の読み方、花星蝶の片手曲、両手の練習曲。連弾の相方への道は遠い。
演奏記号の強弱の説明は、深く記憶に残っている。
この子は何でも与えられる。奏者が誤らなければ。読むと送るの差はあるけれど、ピアノは覚りなの。音の強さは想いの強さ。こころは五感のように訪れる。中でも音楽は近い。語って、さとり様はシの鍵に指を落とした。短旋律を、右手のみで緩やかに打つ。
「今のが標準。とりあえず基本の六つを教えるわ」
鍵盤で指骨を叩き折るように、フォルティッシモ。動作や弾幕に出るほどの、激しい感情。尻尾が痺れた。
生気たっぷりに押し込んで、フォルテ。叫びたい、力に溢れた情。
活力を持たせて、メゾフォルテ。心の浅瀬に、飛沫を散らして浮かぶ。
幾分淑やかに、メゾピアノ。水面下で、情感の枠線を揺らしている。
他の鍵に指を包まれるような、柔らかいピアノ。腕と手を濡らして、何とか言語化できる声。
「最後に、ピアニッシモ」
羽毛の重さで自然にへこむように、密やかに弾き鳴らした。さとり様の多用する強度だった。
「深奥にあって、言の葉では的確に表現できない。ありのままを視て、聴くしかない。でも、一番大切なこころはいつもここにある」
淋しい解釈だった。該当する語がないのでは、あたい達はさとり様をきちんと解れない。こいし様も、黒い眼では辿り着けない。素を覚れるのは、さとり様だけ。繋がらない二重奏だ。
さとり様は、辛いことではないと反論した。言葉で無理ならば、舌や耳を橋にすると。小雨のテンポで、音の波紋をつくっていた。
「私達は、能力に甘えていたのかもしれないわ。読むのが自分だと勘違いして、伝えることを怠けた」
二個飛ばし、五個飛ばし。奔放な音遊びを、始まりの楽線でひとつにする。ピアノ椅子の高音側に座るあたいに、さとり様はお姉さんのように話しかけた。
「私は胸の内を音にする。貴方達に伝わるように。一から十まで解れなくてもいい。接することを諦める方が淋しい」
言い終える際、目線が下がった。あたいの場所は、こいし様の場所だった。伝えたそうだった。エントランスの剥製になる覚悟でこいし様に進言すると、
「もうわかるよ。私も考えてます。次のお姉ちゃんとの演奏を待ってて」
爪先で半円に踊り、気配をとろかした。
ただ弾くのと、目的や心を籠めて弾くのとでは何かが異なる。おくうが訴えるように、胸がぎゅーっとくすぐったくなる。安らぎや、涼やかな空想の細風を覚える。狂いのない電子調律じゃなくていい。欠けたところのある、ひとが宿っている。
強過ぎず、全くの無にもならない。氷片のように消えそうな奏音を、さとり様は弾き澄ます。目の覚める技術や先人の音譜がなくても、こっちの方がさとり様らしい。
膝枕で寛ぐおくうを寝かせて、右手だけでも参加したいなと考えた。珈琲氷の食器をテーブルにそっと置いた。着物のたすきになるものを捜そうとして、四角い卓に両眼を戻した。
深皿が、四つあった。あたいとおくうとさとり様と、
「ただいま」
「飛び入りの前に言いなさい」
「ピアノで言ったもん。元気になったね、この子」
「その口は何のためにあるの」
「ミルクティーかき氷を平らげるため」
こいし様。銀髪を下方で二つ結いにして、黒のサンドレスを纏っていた。姉妹で並ぶと、洒落た小公演のようだった。おくうが手を叩いて迎えた。
「おくうのお昼寝の曲? お姉ちゃん左ずれて、私が上やる」
「身勝手な乱入ね。多重音を喧嘩させないで、大きさは」
「メゾピアノからピアニッシモ周辺。ペダル二つやってね」
姉と妹の連弾は、いつ以来だろう。楽器付属の精密機械はいない。どちらも読心ができないから、音響が食い違う。互いが互いの、最深の音を聴き取って返している。これが初めての、本当の二人弾きかもしれない。
こいし様のピアノは、表情が豊かになっていた。同じ節でも、巫女のお姉さんの浮揚や、魔法使いのお姉さんの星屑、天狗の綾風や高空の船に幻視するものが変わった。こいし様の小鳥のような放浪を、耳で追っていた。親しいひとの傍を移り飛ぶ。その中に、私達もいた。
「こいし様も下手になった」
鴉羽で調子をつけながら、おくうが呟いた。
「下手だけど楽しい。ひやっとしたり、ふわっとしたりする」
「そうだね」
こいし様は、音の枝葉を伸ばしていた。空白期間の所為で、指が機敏に働かないけれど。
「サボると死神になるわよ」
「紅魔館で借りてたよ。騒霊楽団にもお世話になったし、河童の巻物ピアノもやった」
「帰ってきなさい」
練習を継続していたさとり様が、アドリブの軸を担った。輪唱のように、こいし様が続く。
さとり様のように、こいし様も与えようとしている。接触した人物事象を、音調にして。
寝たくないなと、おくうが全身で欠伸をした。
「きらきらしたものがたくさんあるよ。泣きたいことでしょ、笑い飛ばしたことでしょ、またやろうとしたこと、何倍も嬉しいこと、わくわくすること、ぎゅっとしたいこと、後はわかんない」
「音の流れを引いて。視ようよ」
曲は開かれている。こいし様の黒い視界も、徐々に。ピアノは偽らない。さとり様の赤い視界も。
早く追いつきたかった。鍵盤に見立てたテーブルの端で、両手の運指をしていた。おくうが純粋な声で、歌詞のない歌を添えた。器のスプーンが鈴のように答えた。
「お姉ちゃん、おかえり言って」
「ピアノで百回は言いました」
「そのお口は何のためにあるの」
「貴方達を散々叱って、散々可愛がるため」
お燐達とずっと待っていたと、白黒鍵が小声でたしなめた。
さとり様がこいし様と、一音を同時に押し下げた。
シャワーと甘いみぞれ雪、さとり様の髪。おくうの羽団扇、澄んだ歌声。こいし様の帰還、ただいまとおかえりとお昼寝。地霊殿の大先輩の、グランドピアノ。あたいの夏には、無数の好物がある。
好きのこころは、さとり様のピアニッシモに似ていた。
さとり様は金属門を開け、贔屓にしている妖怪の調律師を礼で送った。相手は上機嫌だった。報酬と冷やし緑茶が好かったのだろう。
「長時間ありがとうございました。換気と湿気に用心ですね、了解です。また半年ほど後に」
垂れるねじれ髪が暑そうだった。見送りを終えると、さとり様は上衣を脱いだ。ブラウスを肘まで巻き上げても足りないのか、
「ええ全然足りないわ。お燐、おもてなしお疲れ様。シャワー浴びてかき氷にしましょう。おくう達もへばって休んでるわ」
着替えを取ってきて、二人で午後の大浴場コースになった。灼熱地獄の加熱なしの、涼しい地下水を浴びた。汗の膜が剥がれ落ちる。冷水で泡立ちは悪いけれど、石鹸や洗髪液も使う。さとり様が赤毛を洗ってくれた。林檎のような瞳を胸に下げて、あたいの心を読んでいる。欲しいところに手が来る。猫耳の裏も後ろ髪の生え際も、気持ちがいい。
「にゃー。旧地獄が極楽です」
「安上がりな極楽ね」
冷たい雨が白泡を流していく。水音で生き返る。定期的な手入れの最中は、団扇の風音や氷の割れる音も邪魔物だった。僅かな音程と残響のずれも許されない、非常に繊細な楽器だから。音楽室全体が、個々の弦のように張り詰めていた。余計に熱を感じる五時間だった。
「さとり様、河童にあれの改造を依頼してみませんか。おくうの核融合の電力で、自動の整備とチューニングができるそうですよ。精度も完璧。調律のひとは嫌がるかもしれませんけど」
「便利そうだけれど、今のままでいいわ。外れない音色はどこか違う」
あたいの定番髪、二つ分けの三つ編みが結われていた。さとり様の手は、あたいよりも小さくて頼りない。しかし器用に、お下げやお菓子やおめかし服を作っていく。触れ方は、命あるものに対するかのように丁寧。真心があって好きだ。
「誰だってできることよ。お燐、私の髪の毛お願い」
誰にも真似できない手と心で、さとり様はピアノを弾く。
泡水を避けて、さとり様はこいし様のいる上の世界を仰いでいた。暑気に滅入って、そろそろ帰ってくるだろう。直したての音に出迎えられる。
「おかえりくらい、何度でも言うのにね」
紫陽花色の短髪を、どうにかまとめてポニーテールにした。首周りが軽いと好評だった。袖のない白のワンピースとざっくり編みの空色カーディガンで、すっかり七月仕様。あたいも桃金魚の浴衣で、髪色の暑苦しさを追い払った。
厨房はペットのかき氷屋さんになっていた。手動の器械が、氷を粗い雪山にしていく。水の白雪、紅茶雪、抹茶雪と珈琲雪。冷やし固める段階で、ほんのり甘味がついている。味と色のある氷柱を作り始めたのは、さとり様だった。シロップのかけ過ぎでお腹を壊さないかと、あたい達を心配して。現在では、夏季のおやつとして定着している。
「紅茶氷を小盛りでひとつ。輪切りのレモンを載せてくださいな。お燐は珈琲がいいそうよ、ミルクをあっさりかけて」
幼い火焔猫達が、代わりばんこに氷器の輪を回していた。地獄鴉の子供衆も、せっせと注文に応えていく。お店屋さんごっこだ。あたいやおくうも、人型化を果たせた頃にやっていた。さとり様は我が子を見守るように、目元を緩めていた。
食べる空間に困るほどの、繁盛振りだった。おくうが冷えた石床に頬を当てて、抹茶白玉の氷を混ぜていた。薄着でマントを羽織っていない。翼を扇にしている。あたい達に手を振って、
「楽器屋さん終わったの?」
「とっくに。行儀悪しない、起きた起きた」
「うにゅ、ひんやりだった」
ピアノが聴きたいと、無邪気にねだってきた。
「演奏部屋に行きましょう。ここはますます混むわ」
「零さないでね」
台所喫茶を抜けて、廊下奥の防音扉をくぐった。天井の高い一室に、中型のグランドピアノ。桜桃がかった焦げ茶の木色。さとり様は壁の湿度計の目盛を調べていた。良好らしい。
この一台は、あたい達より古くから地霊殿にいる。さとり様達の、人生一の買い物だったそうだ。お金で得られる中では。
亜麻布のソファに三人身体を沈めて、氷菓子を掬った。霜柱を崩すような音が、奏楽の前座。融けないうちに口で融かした。牛乳少なめのカフェオレ味。一口貰ったさとり様のは、甘酸っぱいレモンティー。おくうのは、旧都の縁日の宇治金時風。
地の底で蝉は鳴かず、鬼の花火はまだ上がらない。けれども季節は燃えていて、不思議な気分になった。何と言い表せばいいのだろう。嬉しいや悲しい、どきどきやぴかぴかで大人しくならないものもある。辞書は薄っぺらい。硝子の器の表面が、水滴で埋まる。
「だから音楽にするの」
「そうでした」
「おくう、どんな曲がいい? お昼寝の曲ね」
さとり様は匙の両手を合わせ、ピアノに向かっていった。屋根を立てて、蓋を上げる。譜面台に楽譜はない。外の有名なものは棚に写しが入っているけれど、さとり様は用いない。読心の旋律と即興で、一回きりの生の楽曲にしていく。
八十八の鍵盤を、低音部から順番に下ろしていた。一音を生むまでの、重みと間が大事なのだという。
「見違えるよう。聴き違えるかしら、この場合」
調律点検の妖怪は、いい仕事をしていった。
二音、三音、溶かすように和音を奏でる。おくうの求める響きに沿って、鍵を細い指が滑った。
さとり様は、白鍵も黒鍵も勢いで叩かない。お昼寝の曲でも、お祭りの曲でも。絵の具を溶いた水のように、かすかな色の音をつくる。静かな室内で、単一のシやファがメロディになる。
高音の雫の隙間が狭まって、複数音が応える。序が開けて、左手が仲間になった。さりげない、品のいい飾りつけをする。
歌はつかないけれど、唇が詩を唱えるように動いている。
自由自在や縦横無尽、技巧派とは言えない。考えあぐねてか、同音を弱く連打するときもある。
お気に入りのものを集める、巣の雛鳥を思わせる曲だった。
おくうは羽を休めて、素直な感想を話した。
「さとり様は下手になったよね」
「こら、おくう」
声も内面も筒抜けなのに。演奏者のさとり様は、気にせずおくうのリクエストを弾いている。
私の膝を引き寄せて、正直者の親友は頭を預けた。浴衣の金魚紋が皺になって跳ねる。
「下手だけど聴いてたい。このあたりがぎゅーってなる。お燐は違う?」
胸を押さえて、おくうはあたいを曇りなく見た。
「違わないよ」
さとり様の音を受けると、さとり様の心境を視ている気になる。あたいが覚りになったかのように、伝わってくる。
ピアノは、あたい達の第三の瞳だった。
最初に、西洋系の妖怪の心を二人で捉えた。焼き菓子でできたような夢のある屋敷と、未見未聴の楽器の数々。竪琴、弦と弓、銀の横笛。さとり様とこいし様は、古ピアノに心を奪われた。読んだ音は高低も陰影も様々、あれだけ大きければ一緒に弾ける。地面に鍵盤を描いて、ひっそり連弾をしていた。
地下に洋風の住居は手に入ったけれど、あの巨大な楽器はない。旧都は和風の鳴り物が主流で、鉄琴やカスタネットもそうそう出回らない。調音の達人を頼って、店から店へ。寂れた古物店の秘蔵庫で出会った。外界から入った一級品で、値は張った。是非曲直庁の俸給の貯金をはたいて、地霊殿に連れ帰った。
前は他人の完成曲を使用していた。覚り同士、想念で息を合わせて。一糸乱れぬ調和は、一流のコンサートのようだけれど、怖かった。その頃のさとり様は、今ほど話しやすくなかった。作る食べ物も服も、機械めいていた。さとり様がいなかった。
次第に姉妹の演奏会は行われなくなり、こいし様の目はピアノの肌よりも暗くなった。
さとり様は、独りの部屋に鍵をかけるのかと思った。
逆に、窓と扉が開いた。
知らない曲が、廊下と庭に届いた。可愛げがあって、浮いて潜って、途切れた。新入りのペットが忍び込んだのか。おくうと様子を見に行くと、さとり様が鍵盤を沈めていた。楽譜を広げずに。あたい達に気付かないほど、集中していた。さとり様のピアノは、おくうの評するように稚拙になった。拙くて、優しくなった。さとり様本人も。
怨霊異変後、あたいはさとり様にピアノを習い始めた。ドレミと指の運動、五線譜の読み方、花星蝶の片手曲、両手の練習曲。連弾の相方への道は遠い。
演奏記号の強弱の説明は、深く記憶に残っている。
この子は何でも与えられる。奏者が誤らなければ。読むと送るの差はあるけれど、ピアノは覚りなの。音の強さは想いの強さ。こころは五感のように訪れる。中でも音楽は近い。語って、さとり様はシの鍵に指を落とした。短旋律を、右手のみで緩やかに打つ。
「今のが標準。とりあえず基本の六つを教えるわ」
鍵盤で指骨を叩き折るように、フォルティッシモ。動作や弾幕に出るほどの、激しい感情。尻尾が痺れた。
生気たっぷりに押し込んで、フォルテ。叫びたい、力に溢れた情。
活力を持たせて、メゾフォルテ。心の浅瀬に、飛沫を散らして浮かぶ。
幾分淑やかに、メゾピアノ。水面下で、情感の枠線を揺らしている。
他の鍵に指を包まれるような、柔らかいピアノ。腕と手を濡らして、何とか言語化できる声。
「最後に、ピアニッシモ」
羽毛の重さで自然にへこむように、密やかに弾き鳴らした。さとり様の多用する強度だった。
「深奥にあって、言の葉では的確に表現できない。ありのままを視て、聴くしかない。でも、一番大切なこころはいつもここにある」
淋しい解釈だった。該当する語がないのでは、あたい達はさとり様をきちんと解れない。こいし様も、黒い眼では辿り着けない。素を覚れるのは、さとり様だけ。繋がらない二重奏だ。
さとり様は、辛いことではないと反論した。言葉で無理ならば、舌や耳を橋にすると。小雨のテンポで、音の波紋をつくっていた。
「私達は、能力に甘えていたのかもしれないわ。読むのが自分だと勘違いして、伝えることを怠けた」
二個飛ばし、五個飛ばし。奔放な音遊びを、始まりの楽線でひとつにする。ピアノ椅子の高音側に座るあたいに、さとり様はお姉さんのように話しかけた。
「私は胸の内を音にする。貴方達に伝わるように。一から十まで解れなくてもいい。接することを諦める方が淋しい」
言い終える際、目線が下がった。あたいの場所は、こいし様の場所だった。伝えたそうだった。エントランスの剥製になる覚悟でこいし様に進言すると、
「もうわかるよ。私も考えてます。次のお姉ちゃんとの演奏を待ってて」
爪先で半円に踊り、気配をとろかした。
ただ弾くのと、目的や心を籠めて弾くのとでは何かが異なる。おくうが訴えるように、胸がぎゅーっとくすぐったくなる。安らぎや、涼やかな空想の細風を覚える。狂いのない電子調律じゃなくていい。欠けたところのある、ひとが宿っている。
強過ぎず、全くの無にもならない。氷片のように消えそうな奏音を、さとり様は弾き澄ます。目の覚める技術や先人の音譜がなくても、こっちの方がさとり様らしい。
膝枕で寛ぐおくうを寝かせて、右手だけでも参加したいなと考えた。珈琲氷の食器をテーブルにそっと置いた。着物のたすきになるものを捜そうとして、四角い卓に両眼を戻した。
深皿が、四つあった。あたいとおくうとさとり様と、
「ただいま」
「飛び入りの前に言いなさい」
「ピアノで言ったもん。元気になったね、この子」
「その口は何のためにあるの」
「ミルクティーかき氷を平らげるため」
こいし様。銀髪を下方で二つ結いにして、黒のサンドレスを纏っていた。姉妹で並ぶと、洒落た小公演のようだった。おくうが手を叩いて迎えた。
「おくうのお昼寝の曲? お姉ちゃん左ずれて、私が上やる」
「身勝手な乱入ね。多重音を喧嘩させないで、大きさは」
「メゾピアノからピアニッシモ周辺。ペダル二つやってね」
姉と妹の連弾は、いつ以来だろう。楽器付属の精密機械はいない。どちらも読心ができないから、音響が食い違う。互いが互いの、最深の音を聴き取って返している。これが初めての、本当の二人弾きかもしれない。
こいし様のピアノは、表情が豊かになっていた。同じ節でも、巫女のお姉さんの浮揚や、魔法使いのお姉さんの星屑、天狗の綾風や高空の船に幻視するものが変わった。こいし様の小鳥のような放浪を、耳で追っていた。親しいひとの傍を移り飛ぶ。その中に、私達もいた。
「こいし様も下手になった」
鴉羽で調子をつけながら、おくうが呟いた。
「下手だけど楽しい。ひやっとしたり、ふわっとしたりする」
「そうだね」
こいし様は、音の枝葉を伸ばしていた。空白期間の所為で、指が機敏に働かないけれど。
「サボると死神になるわよ」
「紅魔館で借りてたよ。騒霊楽団にもお世話になったし、河童の巻物ピアノもやった」
「帰ってきなさい」
練習を継続していたさとり様が、アドリブの軸を担った。輪唱のように、こいし様が続く。
さとり様のように、こいし様も与えようとしている。接触した人物事象を、音調にして。
寝たくないなと、おくうが全身で欠伸をした。
「きらきらしたものがたくさんあるよ。泣きたいことでしょ、笑い飛ばしたことでしょ、またやろうとしたこと、何倍も嬉しいこと、わくわくすること、ぎゅっとしたいこと、後はわかんない」
「音の流れを引いて。視ようよ」
曲は開かれている。こいし様の黒い視界も、徐々に。ピアノは偽らない。さとり様の赤い視界も。
早く追いつきたかった。鍵盤に見立てたテーブルの端で、両手の運指をしていた。おくうが純粋な声で、歌詞のない歌を添えた。器のスプーンが鈴のように答えた。
「お姉ちゃん、おかえり言って」
「ピアノで百回は言いました」
「そのお口は何のためにあるの」
「貴方達を散々叱って、散々可愛がるため」
お燐達とずっと待っていたと、白黒鍵が小声でたしなめた。
さとり様がこいし様と、一音を同時に押し下げた。
シャワーと甘いみぞれ雪、さとり様の髪。おくうの羽団扇、澄んだ歌声。こいし様の帰還、ただいまとおかえりとお昼寝。地霊殿の大先輩の、グランドピアノ。あたいの夏には、無数の好物がある。
好きのこころは、さとり様のピアニッシモに似ていた。
ところどころに挟まれるさとりとこいしの会話が素敵でした
いいが今地霊書いてるから飲み込まれそうだな
『外れない音色はどこか違う』
この言葉がとても印象的で深さを感じました。
どこまで悟ればこの言葉が出るんでしょうか。
少し広くて風通しのいい部屋に、ほんの少しだけ奮発したピアノが置いてある。
温度は高いのだけれど、からりとして風が通っているのであまり暑さは感じない。
そんな中で、ピアノの蓋を開けて鍵盤をひとつ―――ちょっと高めのソの音とかが良いだろうか―――ポーンと鳴らす。
湿度が低いので音は濁らず、風と一緒に流れていくみたい。
いいですよね、ピアノ。
実家に置きっぱなしなので最近はもっぱら電子ピアノですが、時々無性に弾きたくなって里帰りする羽目になります。
非常に和む古明地姉妹でした
人生を投げ出して死んでしまいたくなるくらい素敵な話だった
こんな感想しか抱けないくらい、すばらしかった
拙いものだが受け取って欲しい
派手さもインパクトも無い、けれどそれゆえに、どこまでも優しい音。
それを奏で、聴き、そして紡いでいく地霊殿の四人。
そんな彼女たちのお話を読んだ後に自分の心を満たした残響の名前はきっと幸福感である筈なのですが、そんな三文字の言葉では言い表せない程の繊細な感情がどうにも胸中に浮かんでいて、それが掴み切れず……、恥ずかしながら、自分の今の心持ちを言葉にすることができません。
そのような、言葉に出来ない感情を表象させる演奏風景を、言葉で以って表現しきった作者様に、心からの拍手を。
素晴らしい作品を読ませて頂き、本当にありがとうございました。
>さとりとこいしの会話
心に溶けるといいなぁと思います。声で話している部分と、音楽による会話と。
>今地霊書いてるから飲み込まれそう
どうか、楽しんでお書きください。この猛暑ですゆえ、お水は飲み込んでください。
>『外れない音色はどこか違う』
このお話のさとりなら、こう答えるのではないかなぁと頭に浮かびました。変化する、不完全な心を視て弾きたいからこそ。
>いいですよね、ピアノ
>またピアノが弾きたくなりました
生きた音がして、好きです。上手な方が羨ましいです。
地霊殿四人のテーマ曲は、皆ピアノの部分が強く印象に残りました。屋敷に一台ピアノがある気がして、キーを打ちました。ありそうだな、と思っていただければ幸いです。
>拙いものだが受け取って欲しい
全然拙くなどありません、恐縮です。何かを伝えようとする意思があって、その何かが大変喜ばしいことで。有難く思います。
>自分の今の心持ちを言葉にすることができません
率直なご感想、ありがとうございます。言語化困難な心情も、大事にしてくださると嬉しいです。作中でさとりが教えた、ピアニッシモのこころです。
深山さんの地霊殿はやっぱり最高だ…
とても穏やかで優しく、行間から音楽が聞こえるほど素敵な話でした。
作中で流れているのはさとりの自作曲やクラシックの名曲なのだと思いますが、
自分たちのテーマ曲でピアノと戯れるさとりやこいしなんかも想像すると微笑ましい気持ちになります。
熱い夏に涼しい風が吹き込んだ気持ちのいい地霊殿でした。
読み返してみるとそうでもないのですが……初見だとなかなか話に入っていけなかった。何ででしょう。
あくまで私個人の感想ですが。
物語の展開は好きです。
特に後半の、さとりとこいしがピアノを弾いて、みんなでそれを聞いてという情景はとても綺麗で絵になっていると思いました。ピアニッシモのさとりの解釈ははっとさせられたし、さとりとこいしの会話はユーモアで洒落てて素敵。良いお話でした。
音楽は、いいものですね。
素敵な地霊殿を拝見出来ました
ピアノを私は習ってるんですが本当に上手な人は音をメロディーに変えれるんですよね。自分もそうなれるようがんばろうって思いました