かたん、ことん。
列車が揺れる。
かたん、ことん。
どこかへ向かって。
◆
――わたしはどこへいくのだろうか。
◆
「――あ」
小さく、うめく。
首を起こす。どうやら眠っていたらしい。
東風谷早苗は流れていく景色を眺めながら、そう思った。汗ばんだ肌に車内のクーラーが涼しかった。
どれくらい寝ていたのだろう、と思いを巡らせながら窓の外を見ると、遠くに夕日が見えた。
ああ、本当にどのくらい寝ていたんだろう。
ぐるりと車内を見渡せば、すでに客は少なく、きっと残っているのは私たちだけだろう。
そう、思った。
思って、ふと、太ももに暖かなものを感じた。視線を落すと、きら、と光るものが目に入った。金色の髪を、太ももの上で広げたその姿は、早苗のよく知っている人物だ。
ゆっくりと、汗ばんだ髪を撫でた。
「諏訪――」
名前を、ゆっくりと、ゆっくりと呼ぶ。起こすように、起こしてしまわぬように。矛盾を孕んだ声。起きて欲しいけれど、このまま寝かせてあげたい。そんな声。
「――諏訪子様」
小さく肩を揺すってみる。
起きない。
すぅ、すぅ、と小さな寝息をたてて眠っている。
子供のように、小さく体を丸めて。
はぁ、と早苗は嘆息した。
このまま起きなければ、どこまで行くのか分からないのに。……だがしかし、ここはいったいどこなのだろうか。早苗は過ぎていく景色に、自分の見覚えのあるものを探そうと必死になって窓の外を見た。
けれど分からない。知らない。ここは、どこだ。なんにせよ、諏訪子が起きなければ、なんにもならないのではないのだろうか。
ちょっと強めに揺すってみても、諏訪子は起きなかった。
早苗はため息を吐いて、窓の外を見た。
私はどこまで行けばいいんでしょうか。
いつかどこかで聞いたような。そんなことを思い出した。
かたん、ことん。
かたんことん。
列車が走る。
走る。
どこまでも。
◆
――早苗はどこまでいきたい?
◆
小さな頃、早苗は神様に会ったことがある。
小さい頃の、いつだったかは忘れてしまったけれど、早苗は確かに神様に会ったのだ。
早苗から見れば、お姉ちゃん、と呼べるくらいの背丈の人だった。早苗にとって珍しい――といっても自身の緑がかった髪も周りから見れば珍しかったのだが――金色の髪を持った人だった。
初めて見たとき、早苗は不良かと思ったぐらいだ。
神社に不良がいる! そう思った早苗は、どうしたことか、その人物に話しかけたのだった。その人は早苗の持っていた不良のイメージである、暴力的だったりするのと全然違っていた。なにをすることもなく、ただ、ぼうっと神社の石段に立っていた。空を見ているように見えた。雲一つない青空を。
時折、蛙を見つけると、しゃがみこんでは手に乗せてみたりしていた。そして笑顔でくすぐってやった。蛙は少しも嫌がらずに、身を任せて、静かにゲコ、と喉を震わせる。
早苗はなんとなく、なんとなくだが、優しそうな人だと思った。
だから、話しかけた。
こつん、こつん、と石畳を打ち鳴らしながら近づいて、
「あの!」
大きく息を吸って、話しかけた。
「ん?」
その人は早苗の声に反応すると、ゆっくりと首を回して、きょろきょろと辺りを見回してから視線を下ろした。見上げる小さな早苗に気がついて、その人は小さく笑った。そうして、
「お前さんは、私が見えるのかい?」
と、聞いてきた。
早苗はわけが分からなかった。見えたのだから話しかけたのだ。ここにいたから見えたのだ。だからこう返した。
「見えるよ? お姉さんはなにをしてるの?」
それを聞くと、その人は小さく喉を震わせたのだった。笑って、笑って、
「そっか、見えるのか」
と、小さく呟いた。そうして蛙を手の平から逃がしてやった。小さく手を振って、ばいばい、と小さく口を動かした。
そして腰に両手を当てて、早苗に答える。
「わたしは、空を見ていたのさ。蛙と遊んでいたのさ」
「かえる?」
「うん。かわいいじゃないか」
「そう、かなぁ」
触ったときの感触を思い出して、早苗は少し顔を歪ませた。
「なんだい。お前さんも蛙が苦手なのかい?」
「だって、なんかぬめぬめするんだもん」
「そりゃあ、そうさ。蛙だもの」
くっくっく、と喉を鳴らす。
「ふぅん?」
空を見て、蛙と遊ぶお姉さん?
早苗は心の中で、なんだか面白い人だな、と思った。同時に、よく笑う人だ、と思った。
そうしてから、早苗はようやく一番最初の質問を疑問に思った。わたしが見えるかなど、普通の人間は言わないだろう。だってそこにいるんだから。だったらこの人は普通の人じゃないのかな。
幽霊……?
だったら面白いんだけどなぁ。
くすくす笑いながら、それを聞いてみた。
「お姉さん、いちばん初めのあれ、ってどういうことなの?」
「わたしが見えるか、てやつ?」
「うんそう、それ」
「ああ――」
そう言って、その人は空を見上げた。そのときにはなんにもいなかったように思う。きっとそうだった。だけどその人は、なにかを見たのだろうか。くす、と小さく微笑んだ。
「わたしはね、神様だよ」
「かみさま?」
「そう、この神社のね」
「八坂さま?」
「違う違う。そっちじゃないほう。そうだなぁ、裏の神、とでも言うかなんというか」
腕組みをして、その人はどう説明したものか、と考えていたように思う。んー、とうなってから、早苗を見下ろした。そうして、うん、と小さく頷き、
「ま、この神社の真の神だな。うん。お前さんの家ならきっと分かるだろうよ」
「ふぅ、ん?」
きっと、な。
そう笑うとその人――神様はいつの間にか消えていた。早苗がいくら周りを見渡そうとも、神様は見つからなかった。
早苗は、家に帰って、聞いてみよう、と思った。
お婆ちゃんならきっとなにか知ってるに違いない。考えて、走った。家まで一直線に走って帰った。疑問はあったけど、そんなことよりも言いたかったのだ。お婆ちゃんに報告したかったのだ。
――――私はかみさまにあったんだ。
ふるり、と体を震わせた。
げこげこと蛙が鳴いていた。ふと気がつけば、あんなに晴れていた空は、もう黒い雲が覆っていた。夕立でも来そうだな。早く帰らないと、と早苗は走る足をいっそう速めた。
そうして、早苗が家に帰ると同時に、雨が降り出した。
しとしとと雨が降っている。
お婆ちゃんに聞くと、それはきっと洩矢の神に違いない、と教えてくれた。お婆ちゃんは遠い遠い昔に、あの神様と会ったことがあったらしい。もう記憶も薄れてきていて、頼りないけどね、と言って、話を締めくくった。
早苗はその言葉にわくわくと胸を躍らせた。
だってあの人は、本当に神様だったのだ。
パジャマ姿でベッドの上をごろごろと転がった。枕を抱きしめて転がった。
転がって、布団に顔を埋めた。
明日、また会えるかな。かちこちと鳴る目覚まし時計を見ながら、早苗は小さく思った。蛙の顔をした目覚まし時計。なんとなくお気に入り。かちかちかち、と目覚ましをセットする。明日は早く起きよう。学校は休みだけど、早く起きよう。起きて、あの場所に行って、もしまた神様がいたら、お話しよう。
お話がしたかった。何故だかとっても話してみたかった。。
欠伸を手で押さえて、外の音に耳を傾けた。雨の音。蛙の鳴き声。あの神様も混じって鳴いていたりして、なんて想像をし、早苗は部屋の電気を消した。
早く起きよう。
◇
――どこか遠くへ行きたいな。
◇
かたん、ことん。
そういえば、と早苗は流れる景色に目を細めながら思った。
あのときのお婆ちゃんはいったい誰だったのだろうか。早苗のお婆ちゃんは早苗が生まれる随分前に亡くなっている。
あのときの自分はどうしてお母さんやお父さんに聞こう、という考えが浮かばずに、お婆ちゃんに聞いてみよう、などと思ったのだろうか。
そして死んだ人間に、どうして聞けたのだろうか。
いったい誰が答えてくれたのだろうか。
早苗は、今、ようやく疑問に思った。あのときのお婆ちゃんは誰だったのだろうか。そして、さらに言えば、あのときのお婆ちゃんの顔がまったく思い出せない。
ただ、記憶に残ってるのは、そういう話を聞いた、という出来事のみ。
あれは――誰だったのかな?
諏訪子様なら知ってるかなぁ。諏訪子の髪の毛を触って、枝毛を見つけては解きながら思う。金色の髪が太陽の光を反射して、きらきら輝いた。
枝毛を見つけて、ぷつんと解す。
「諏訪子様」
小さく身じろぎする。
けれども起きそうな気配はまったくない。緩くつぶられた目蓋。ぎゅっと握り締められた手が、早苗のスカートの端を掴んでいる。
早苗は、くす、と小さく微笑んだ。
「どこにも行きやませんよ」
言って、髪を撫でる。そうしてあげると、安心したように手の力を緩めるのだ。スカートから手を外して、早苗は諏訪子のスカートの裾を直した。
窓の外の景色は移り変わるばかり。
この列車はどこへ向かっているのだろうか。
分からない景色。知らない景色。
足をゆったりぶらつかせながら、早苗は小さな諏訪子の体の位置を、ちょっとだけ直して、寝やすいようにしてあげた。
小さな体。
いつの間に、私は背を追い越してしまったのだろうか。早苗が小さな頃は、お姉ちゃん、と呼んでいたのに、今では妹のように見える。
そんなことを言うと、きっと諏訪子は怒るだろう。今だって、早苗は妹みたいなもんさ、と言って、かわいらしく腰に手を当てて怒るのだ、きっと。
早苗は自然と頬が緩むのを感じた。
手を当てて、汗で肌がべとべとなのを感じた。とりあえず帰ったらお風呂入ろう。でもまずは起きてもらわないと話にならない。
これまでよりも強く強く揺すってみても、諏訪子は起きる気配もなかった。
ため息。
「私はこのまま、どこに行くのでしょうか?」
小さく声に出してみたけれど、なにも変わらない。いくら奇跡を操る力があったって、列車の進行方向を変更するなんてできやしない。ましてや家まで突っ走ってもらうなんて無茶だ。そんなのはただの暴走列車だ。
ごきごきと首を回す。
どのくらいここに座っているんだろう。
そろそろ家に帰らないと、神奈子様が心配するんじゃないのだろうか。
じっと窓の外を見ながら、そう思った。
そういえば、もしかしたら、あのお婆ちゃんは神奈子様だったのではないのだろうか、なんて冗談みたいなことを思いついて、早苗はなんとなく頬をかいた。
◆
――とおく?
◆
次の日、あの石段をジャンプ混じりに上っていくと、階段に腰掛けた神様の姿が見えた。昨日の雨で濡れている石段を気にもせずに、座っている。指の先に蛙を乗せて、一緒にげこげこと歌っていた。あは、と笑ってしまった。だってあんまりにも似合っていたんだから。早苗は疲れなど忘れて、一気に石段を駆け上った。
そのとき、朝露に湿った葉っぱから雫が垂れて早苗の背中に入り込んだ。思わずまぬけな声をあげて、体をびくんと硬直させた。
その声に気づいてか、神様は顔をあげた。おや、と目を見開いて早苗を見る。さっきまでの声と不自然に硬直した体勢を見て、神様は笑い声をあげた。
大きく大きく、豪快に笑って、神様は小さく手を振った。蛙を片方の手に乗せたまま。
早苗は頬を真っ赤に染めて、階段を緩やかに、そして木の枝が出ていないところを選んで上っていく。もうあんなことにはならないぞ、と意気込んで上っていった。
神様はその様子を微笑ましげに見ていた。
早苗は最上段、つまり神様の隣に到達して、膝に手をついて大きく息をした。ぜぇぜぇはぁはぁと荒い呼吸。汗に濡れた額が、全然嬉しくない。
すっ、と神様が手拭いを取り出すと、早苗は顔中を強引に拭かれた。一息ついてから早苗はようやく神様に向き合えた。
「えー……と、洩矢のかみさま? であってる?」
すると神様は大仰に手を振って、早苗の額に指を突きつける。蛙が落っこちて、神様はごめんね、と謝った。
「正解。誰から聞いたのよ?」
「んー、お婆ちゃん」
「そうかい、お婆ちゃんか!」
ぱしん、と手を打ち鳴らすと、神様は空を見上げた。にやりと笑って、小さくなにか言葉を呟いた気がするけど、早苗には聞こえなかった。
「あの……洩矢のかみさまって呼べばいいのかな?」
「いんや、わたしにもちゃんと名前があるんだ。そっちで頼むわ」
「うん」
「覚えておきなよ。洩矢諏訪子っていうんだよ」
あそこの湖と同じ名前さ、と諏訪湖のほうを指差した。
「洩矢、諏訪子。諏訪さま?」
「うん。ところでお前さんの名前はなんていうの?」
「私……?」
「そう」
「東風谷、早苗」
「ああ、通りで」
「えっ?」
「いや、なんでもないよ。それにしたって、今日はいったいどうしたのよ? こんなに早く、そんなに汗かいて」
「あの、ね」
早苗は息を吸い込んだ。そうでもしないと興奮に押し流されて言えないと思ったから。心臓がばくばくいってるのが分かる。
だって、空想の存在で、両親が語っていただけの存在だった神様と、話しているのだ。さっき走ったせいで心臓が鳴っているのか、どうだかの区別もつかない。
「お話とか、しにきたの」
「話? わたしと?」
「うん」
早苗はこっくりと頷いた。
「そっか。でもさ、今日はちょっと暑いよねぇ」
手で日差しを遮って、空を見上げる。唐突な返事に、早苗は困惑しながら頷く。
「だからさ、アイスでも食べながら話そうよ」
ね、と神様――諏訪子は、にやりと笑った。早苗は、また石段を下りるのか、とげんなりしながら遥か遠くの地面を見下ろした。
その間に、諏訪子は早苗の後ろに回ると、その足と背中に手を回して、ひょい、と軽々抱き上げる。
「わぁっ!」
「いくよー!」
はぇ? と早苗が呟く瞬間に、諏訪子は思いっきり地面を踏みしめ、跳んだ。木や枝よりも、高く高く跳んだ。早苗は小さく息を飲み込んだ。風がごうごうと吹き抜けていく。髪を揺らしていく。景色が後ろに飛んでいく。風が冷たい。暑いはずの空気が違った。世界が変わったように思えた。
そこから、街がよく見えた。
早苗はこんな高いところまで来たことはもちろんない。高くから見る街は、いつもと違う。高くて、遠くて、息を飲むくらい近くて、自分なんてちっぽけだと思えて、だけど自分はここにいると思えた。そんなぐるぐるした思考。わけが分からなくて。でも単純にすごいと思った。
ひょう、と落ちる。
風を切って、落ちる。
高くから、落ちて落ちて、あわや地面にぶつかるというところで早苗は目を閉じた。ぎゅっと閉じて、だけども衝撃はなかった。そおっと目を開けると、諏訪子が微笑んでいた。
「ほら、アイスでも買いなよ。どれでもいいよ」
見ればそこに小さな商店があった。
しゃり。
ちょうど木陰になっている公園のベンチの上で、口の中にソーダ味の冷たさが弾けた。キーン、と頭痛が走り、早苗は頭を押さえる。隣に座る諏訪子がメロンソーダ味のアイスキャンディーを舐めながら、くす、と笑った。
「そう急ぐな。食べ物はどこにもいかないよ」
「だって溶けちゃうもん」
拗ねたように言う。諏訪子は、ぽかんとして、
「ああ、それも、そうだったな」
と、首を捻って笑うのだった。
早苗が幸せそうにアイスを頬張るのをじっと眺めて、微笑んでいた。自分のアイスを舐めながら、諏訪子は早苗の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「わぁ! なにするの!?」
「いんや、ちょっとな」
くしゃくしゃ。髪をかき混ぜ、枝毛を見つけては解いてやった。早苗はされるがままになって、そのままアイスを口に入れた。
――しゃり。
くすくす笑いながら、諏訪子もアイスを口に入れて、噛み砕いた。頭痛が襲って、思わず撫でるのをやめて、自分の額を押さえた。
「くぅ」
苦しそうな声をあげていると、早苗は笑った。半分涙目で諏訪子は早苗に目をやった。手を口に当てて押さえるようにして笑っている。
「おっかしい! かみさまでもそうなるんだ!」
「――どんなやつでもこうなるさ。夏の風物詩だよ、ホント」
「だね」
しばらく一緒にしゃりしゃりとアイスを食べていた。
木陰を風が流れていく。ざぁざぁと葉っぱが音をたてるたびに、早苗は心の中を風が通っていくような気持ちになった。胸が、すぅっとするような気持ち。
きっとあんまりにもアイスが美味しかったからだ。
早苗は諏訪子を、ちらっと見た。
会ってからまだそんなに時間がたってないのに、何故だか随分前から知っているように思える。早苗は諏訪子のことをお姉ちゃんみたい、と思った。ずっと長い間を過ごしてきたお姉ちゃんみたいに。
一人っ子だから、そういうのはよく分からないけど。
食べ終わってから、諏訪子は言った。
「さ、話そうよ」
早苗は目をぱちくりとさせた。
「おいおい、早苗が言ったんだよ、話したいってさ」
ぽん、と手を叩く早苗。呆れ顔の諏訪子。
「んーとね、いっぱいあるの。とーってもいっぱい。それでもいい?」
「ああ、いいよ」
「それじゃあね――――」
そうして早苗はたくさんのことを話した。
学校のこと。友達のこと。勉強のこと。最近のテレビのこと。家のこと。両親のこと。自分のこと。好きなもの。嫌いなもの。食べ物のこと。スポーツのこと。この間買った本の感想。神社のこと。お母さんが買ってきた安眠枕のこと。昨日のこと。よく分からないこと。諏訪子のこと。
取りとめのない話が続いた。
早苗は、ときに身振り手振りを交えて、楽しそうに話した。諏訪子もそれを楽しそうに聞いて、関心して、ときに驚いて、ときに深く頷いた。
早苗には、諏訪子が他人に思えなかった。初めて会ったときから、何故か家族みたいに感じたのだ。お母さんみたいで、お姉ちゃんみたいな感じ。早苗はよく分からなかった。
でも、なんだか安心して、話せた。
なんでも話せるような気がしてくるのだ。まるで、家族に話すかのような気軽さで、話すことができた。
「え、じゃあ諏訪さまはここから出れないの?」
「だねぇ。一応、わたしはこの土地の神様だしね。離れづらいというべきかな……全部あいつ任せだしなぁ」
ぼそ、と最後のところは聞こえないように呟いた。
「んー? だったらどこかへ行きたいなぁ、とかないの?」
「いきたいところはあるよ。けれど、どこへいきたいのかなぁ、って思っちゃってさ」
木漏れ日が揺れて、だからだろうか、早苗には少し悲しそうに見えた。表情はなに一つ変わらないはずのに、早苗はそう思った。
「早苗は――」
早苗の頭に手の平を乗せて、目線を合わせて諏訪子は問いかける。
「早苗は、どこにいきたい?」
「私?」
「うん」
んー、と空を見て、眩しくって目を閉じて、どこがいいかな、と考えて、
「とおく!」
と答えた。
「遠く?」
「うん。遠いところに行きたいな」
どこか遠くを見ながら、早苗は言う。遠いところ。住んでる街を離れて、遠くへ行ってみたい。まだ見たことのない場所に行ってみたい。早苗はそう思った。
「まだ見たことないものとか見たいかも」
諏訪子は小さく喉を震わせた。笑っているように思えた。
「じゃあさ」
「うん」
「わたしもいつかそこに、連れてってくれよ」
「うん!」
にっこりとした笑顔に、諏訪子は思わずして笑いが漏れた。ベンチに背を仰け反らせて、笑った。額に手を当てて、空を見上げ、笑った。
「じゃあ、いつか、頼むよ?」
「りょうかいです!」
ぴし、と早苗が敬礼したのを見て、諏訪子は「早苗、そのポーズの意味とか知らないだろうが」とか言って、また笑った。
早苗は小さく頬を染めて、くすり、と笑った。
◇
――そう。まだ見たことのない場所に。
◇
「んぅ」
身をよじって、諏訪子は小さく欠伸をした。目をぐしぐしと擦りながら、辺りをきょろきょろと見回した。そして、自分が列車の中にいることを確認して、早苗がすぐ近くにいることを確認した。
「ようやく起きましたか、諏訪子様」
「あぁ、おはよう」
「もう夕方ですよ」
「や、ごめんごめん」
ため息を一つ吐いて、早苗は諏訪子の頬に手をやった。
「まったく。今、どこにいるかも分からないんですよ? それなのにのん気に寝てしまって」
「いやいや、早苗が先に寝ちゃったんだよ?」
「はい!? 私がですか?」
自分を指差して、飛び上がるようにして驚いた。かたかたかた、とクーラーの音が小さく響く。
そういえば、と回想してみると、自分が列車に乗った記憶がまったくなかった。あれ? と頭を抱えてうーんと考えてみても、そんな記憶は本当に見つからなかったのだ。
「あー? 私はいつこの電車に乗ったんでしょうか?」
諏訪子はくっくっく、と喉を震わせた。
「憶えてないよなぁ。わたしが寝ちゃった早苗と一緒に駅で待ってたらね、駅員さんがやってきたのよ。わたしは笑いながら言ってやってわ。姉が寝てしまったんです。年上なのにみっともないですねぇ、ってさ」
その後、駅員さんに協力してもらって、来たときとは別のルートで帰れる電車に乗せてもらったのさ、と締めくくった。
早苗は恥ずかしさに顔を紅くした。頬が熱を持っているのが分かる。
それが本当の話だったのなら、恥ずかしいどころではない。
そこで、疑問が一つ現れた。
「あの、諏訪子様」
「なんだい?」
「普通の人にも見えるのですね」
「ああ、ちょっと頑張った。見えるように意識したのさ」
「そうですか」
早苗は、諏訪子の髪の毛を弄くりながら話す。
「ということは、私のときは」
「――ああ、懐かしい話だね。あのときは意識してなかったからさ。吃驚しちゃったよ」
本当だよ? と小首を傾げる諏訪子に、そうですか、と小さく返した。
そして、二人揃って、窓の外を眺めた。
ちょうど遠くに夕日が沈んでいくのが見える。流れている木々の隙間から、きらきらと光っているのが見えた。
「諏訪子様」
「ん?」
「私、諏訪子様が起きなかったら、どこまで行ってしまうんだろうな、って不安だったんです」
「しょうがなかったんだ。早苗、起きなかったし。わたしも眠かったしで」
「別に構いませんけど……このまま、どこかへ行ってしまうのもいいかな、とも思ってたんです」
「ふぅん」
「諏訪子様は、今、どこへ行きたいですか?」
「わたしが?」
「はい」
腕組みをしてしばらく考えて、んーっと窓の外を見て、諏訪子は言った。
「とりあえずさ」
「はい」
「家に帰りたいな、今は」
早苗は、ぽかんとした後に、くすくすと笑って、
「ですね」
と、だけを言った。
だんだんと見覚えのある景色が、窓の外に見えてきた。
かたん、ことん。列車が揺れる。
家に帰ったら、なにをしよう。
まず話そう。神奈子様に、今日行ったところの話を聞かせてあげよう。いっぱいいっぱい話してあげよう。
そう、考えた。
かたん、ことん。列車が揺れる。
◆
――それでどうするんだい?
――誰かに話してあげるんだ。私の思い出。
◇
[了]
列車が揺れる。
かたん、ことん。
どこかへ向かって。
◆
――わたしはどこへいくのだろうか。
◆
「――あ」
小さく、うめく。
首を起こす。どうやら眠っていたらしい。
東風谷早苗は流れていく景色を眺めながら、そう思った。汗ばんだ肌に車内のクーラーが涼しかった。
どれくらい寝ていたのだろう、と思いを巡らせながら窓の外を見ると、遠くに夕日が見えた。
ああ、本当にどのくらい寝ていたんだろう。
ぐるりと車内を見渡せば、すでに客は少なく、きっと残っているのは私たちだけだろう。
そう、思った。
思って、ふと、太ももに暖かなものを感じた。視線を落すと、きら、と光るものが目に入った。金色の髪を、太ももの上で広げたその姿は、早苗のよく知っている人物だ。
ゆっくりと、汗ばんだ髪を撫でた。
「諏訪――」
名前を、ゆっくりと、ゆっくりと呼ぶ。起こすように、起こしてしまわぬように。矛盾を孕んだ声。起きて欲しいけれど、このまま寝かせてあげたい。そんな声。
「――諏訪子様」
小さく肩を揺すってみる。
起きない。
すぅ、すぅ、と小さな寝息をたてて眠っている。
子供のように、小さく体を丸めて。
はぁ、と早苗は嘆息した。
このまま起きなければ、どこまで行くのか分からないのに。……だがしかし、ここはいったいどこなのだろうか。早苗は過ぎていく景色に、自分の見覚えのあるものを探そうと必死になって窓の外を見た。
けれど分からない。知らない。ここは、どこだ。なんにせよ、諏訪子が起きなければ、なんにもならないのではないのだろうか。
ちょっと強めに揺すってみても、諏訪子は起きなかった。
早苗はため息を吐いて、窓の外を見た。
私はどこまで行けばいいんでしょうか。
いつかどこかで聞いたような。そんなことを思い出した。
かたん、ことん。
かたんことん。
列車が走る。
走る。
どこまでも。
◆
――早苗はどこまでいきたい?
◆
小さな頃、早苗は神様に会ったことがある。
小さい頃の、いつだったかは忘れてしまったけれど、早苗は確かに神様に会ったのだ。
早苗から見れば、お姉ちゃん、と呼べるくらいの背丈の人だった。早苗にとって珍しい――といっても自身の緑がかった髪も周りから見れば珍しかったのだが――金色の髪を持った人だった。
初めて見たとき、早苗は不良かと思ったぐらいだ。
神社に不良がいる! そう思った早苗は、どうしたことか、その人物に話しかけたのだった。その人は早苗の持っていた不良のイメージである、暴力的だったりするのと全然違っていた。なにをすることもなく、ただ、ぼうっと神社の石段に立っていた。空を見ているように見えた。雲一つない青空を。
時折、蛙を見つけると、しゃがみこんでは手に乗せてみたりしていた。そして笑顔でくすぐってやった。蛙は少しも嫌がらずに、身を任せて、静かにゲコ、と喉を震わせる。
早苗はなんとなく、なんとなくだが、優しそうな人だと思った。
だから、話しかけた。
こつん、こつん、と石畳を打ち鳴らしながら近づいて、
「あの!」
大きく息を吸って、話しかけた。
「ん?」
その人は早苗の声に反応すると、ゆっくりと首を回して、きょろきょろと辺りを見回してから視線を下ろした。見上げる小さな早苗に気がついて、その人は小さく笑った。そうして、
「お前さんは、私が見えるのかい?」
と、聞いてきた。
早苗はわけが分からなかった。見えたのだから話しかけたのだ。ここにいたから見えたのだ。だからこう返した。
「見えるよ? お姉さんはなにをしてるの?」
それを聞くと、その人は小さく喉を震わせたのだった。笑って、笑って、
「そっか、見えるのか」
と、小さく呟いた。そうして蛙を手の平から逃がしてやった。小さく手を振って、ばいばい、と小さく口を動かした。
そして腰に両手を当てて、早苗に答える。
「わたしは、空を見ていたのさ。蛙と遊んでいたのさ」
「かえる?」
「うん。かわいいじゃないか」
「そう、かなぁ」
触ったときの感触を思い出して、早苗は少し顔を歪ませた。
「なんだい。お前さんも蛙が苦手なのかい?」
「だって、なんかぬめぬめするんだもん」
「そりゃあ、そうさ。蛙だもの」
くっくっく、と喉を鳴らす。
「ふぅん?」
空を見て、蛙と遊ぶお姉さん?
早苗は心の中で、なんだか面白い人だな、と思った。同時に、よく笑う人だ、と思った。
そうしてから、早苗はようやく一番最初の質問を疑問に思った。わたしが見えるかなど、普通の人間は言わないだろう。だってそこにいるんだから。だったらこの人は普通の人じゃないのかな。
幽霊……?
だったら面白いんだけどなぁ。
くすくす笑いながら、それを聞いてみた。
「お姉さん、いちばん初めのあれ、ってどういうことなの?」
「わたしが見えるか、てやつ?」
「うんそう、それ」
「ああ――」
そう言って、その人は空を見上げた。そのときにはなんにもいなかったように思う。きっとそうだった。だけどその人は、なにかを見たのだろうか。くす、と小さく微笑んだ。
「わたしはね、神様だよ」
「かみさま?」
「そう、この神社のね」
「八坂さま?」
「違う違う。そっちじゃないほう。そうだなぁ、裏の神、とでも言うかなんというか」
腕組みをして、その人はどう説明したものか、と考えていたように思う。んー、とうなってから、早苗を見下ろした。そうして、うん、と小さく頷き、
「ま、この神社の真の神だな。うん。お前さんの家ならきっと分かるだろうよ」
「ふぅ、ん?」
きっと、な。
そう笑うとその人――神様はいつの間にか消えていた。早苗がいくら周りを見渡そうとも、神様は見つからなかった。
早苗は、家に帰って、聞いてみよう、と思った。
お婆ちゃんならきっとなにか知ってるに違いない。考えて、走った。家まで一直線に走って帰った。疑問はあったけど、そんなことよりも言いたかったのだ。お婆ちゃんに報告したかったのだ。
――――私はかみさまにあったんだ。
ふるり、と体を震わせた。
げこげこと蛙が鳴いていた。ふと気がつけば、あんなに晴れていた空は、もう黒い雲が覆っていた。夕立でも来そうだな。早く帰らないと、と早苗は走る足をいっそう速めた。
そうして、早苗が家に帰ると同時に、雨が降り出した。
しとしとと雨が降っている。
お婆ちゃんに聞くと、それはきっと洩矢の神に違いない、と教えてくれた。お婆ちゃんは遠い遠い昔に、あの神様と会ったことがあったらしい。もう記憶も薄れてきていて、頼りないけどね、と言って、話を締めくくった。
早苗はその言葉にわくわくと胸を躍らせた。
だってあの人は、本当に神様だったのだ。
パジャマ姿でベッドの上をごろごろと転がった。枕を抱きしめて転がった。
転がって、布団に顔を埋めた。
明日、また会えるかな。かちこちと鳴る目覚まし時計を見ながら、早苗は小さく思った。蛙の顔をした目覚まし時計。なんとなくお気に入り。かちかちかち、と目覚ましをセットする。明日は早く起きよう。学校は休みだけど、早く起きよう。起きて、あの場所に行って、もしまた神様がいたら、お話しよう。
お話がしたかった。何故だかとっても話してみたかった。。
欠伸を手で押さえて、外の音に耳を傾けた。雨の音。蛙の鳴き声。あの神様も混じって鳴いていたりして、なんて想像をし、早苗は部屋の電気を消した。
早く起きよう。
◇
――どこか遠くへ行きたいな。
◇
かたん、ことん。
そういえば、と早苗は流れる景色に目を細めながら思った。
あのときのお婆ちゃんはいったい誰だったのだろうか。早苗のお婆ちゃんは早苗が生まれる随分前に亡くなっている。
あのときの自分はどうしてお母さんやお父さんに聞こう、という考えが浮かばずに、お婆ちゃんに聞いてみよう、などと思ったのだろうか。
そして死んだ人間に、どうして聞けたのだろうか。
いったい誰が答えてくれたのだろうか。
早苗は、今、ようやく疑問に思った。あのときのお婆ちゃんは誰だったのだろうか。そして、さらに言えば、あのときのお婆ちゃんの顔がまったく思い出せない。
ただ、記憶に残ってるのは、そういう話を聞いた、という出来事のみ。
あれは――誰だったのかな?
諏訪子様なら知ってるかなぁ。諏訪子の髪の毛を触って、枝毛を見つけては解きながら思う。金色の髪が太陽の光を反射して、きらきら輝いた。
枝毛を見つけて、ぷつんと解す。
「諏訪子様」
小さく身じろぎする。
けれども起きそうな気配はまったくない。緩くつぶられた目蓋。ぎゅっと握り締められた手が、早苗のスカートの端を掴んでいる。
早苗は、くす、と小さく微笑んだ。
「どこにも行きやませんよ」
言って、髪を撫でる。そうしてあげると、安心したように手の力を緩めるのだ。スカートから手を外して、早苗は諏訪子のスカートの裾を直した。
窓の外の景色は移り変わるばかり。
この列車はどこへ向かっているのだろうか。
分からない景色。知らない景色。
足をゆったりぶらつかせながら、早苗は小さな諏訪子の体の位置を、ちょっとだけ直して、寝やすいようにしてあげた。
小さな体。
いつの間に、私は背を追い越してしまったのだろうか。早苗が小さな頃は、お姉ちゃん、と呼んでいたのに、今では妹のように見える。
そんなことを言うと、きっと諏訪子は怒るだろう。今だって、早苗は妹みたいなもんさ、と言って、かわいらしく腰に手を当てて怒るのだ、きっと。
早苗は自然と頬が緩むのを感じた。
手を当てて、汗で肌がべとべとなのを感じた。とりあえず帰ったらお風呂入ろう。でもまずは起きてもらわないと話にならない。
これまでよりも強く強く揺すってみても、諏訪子は起きる気配もなかった。
ため息。
「私はこのまま、どこに行くのでしょうか?」
小さく声に出してみたけれど、なにも変わらない。いくら奇跡を操る力があったって、列車の進行方向を変更するなんてできやしない。ましてや家まで突っ走ってもらうなんて無茶だ。そんなのはただの暴走列車だ。
ごきごきと首を回す。
どのくらいここに座っているんだろう。
そろそろ家に帰らないと、神奈子様が心配するんじゃないのだろうか。
じっと窓の外を見ながら、そう思った。
そういえば、もしかしたら、あのお婆ちゃんは神奈子様だったのではないのだろうか、なんて冗談みたいなことを思いついて、早苗はなんとなく頬をかいた。
◆
――とおく?
◆
次の日、あの石段をジャンプ混じりに上っていくと、階段に腰掛けた神様の姿が見えた。昨日の雨で濡れている石段を気にもせずに、座っている。指の先に蛙を乗せて、一緒にげこげこと歌っていた。あは、と笑ってしまった。だってあんまりにも似合っていたんだから。早苗は疲れなど忘れて、一気に石段を駆け上った。
そのとき、朝露に湿った葉っぱから雫が垂れて早苗の背中に入り込んだ。思わずまぬけな声をあげて、体をびくんと硬直させた。
その声に気づいてか、神様は顔をあげた。おや、と目を見開いて早苗を見る。さっきまでの声と不自然に硬直した体勢を見て、神様は笑い声をあげた。
大きく大きく、豪快に笑って、神様は小さく手を振った。蛙を片方の手に乗せたまま。
早苗は頬を真っ赤に染めて、階段を緩やかに、そして木の枝が出ていないところを選んで上っていく。もうあんなことにはならないぞ、と意気込んで上っていった。
神様はその様子を微笑ましげに見ていた。
早苗は最上段、つまり神様の隣に到達して、膝に手をついて大きく息をした。ぜぇぜぇはぁはぁと荒い呼吸。汗に濡れた額が、全然嬉しくない。
すっ、と神様が手拭いを取り出すと、早苗は顔中を強引に拭かれた。一息ついてから早苗はようやく神様に向き合えた。
「えー……と、洩矢のかみさま? であってる?」
すると神様は大仰に手を振って、早苗の額に指を突きつける。蛙が落っこちて、神様はごめんね、と謝った。
「正解。誰から聞いたのよ?」
「んー、お婆ちゃん」
「そうかい、お婆ちゃんか!」
ぱしん、と手を打ち鳴らすと、神様は空を見上げた。にやりと笑って、小さくなにか言葉を呟いた気がするけど、早苗には聞こえなかった。
「あの……洩矢のかみさまって呼べばいいのかな?」
「いんや、わたしにもちゃんと名前があるんだ。そっちで頼むわ」
「うん」
「覚えておきなよ。洩矢諏訪子っていうんだよ」
あそこの湖と同じ名前さ、と諏訪湖のほうを指差した。
「洩矢、諏訪子。諏訪さま?」
「うん。ところでお前さんの名前はなんていうの?」
「私……?」
「そう」
「東風谷、早苗」
「ああ、通りで」
「えっ?」
「いや、なんでもないよ。それにしたって、今日はいったいどうしたのよ? こんなに早く、そんなに汗かいて」
「あの、ね」
早苗は息を吸い込んだ。そうでもしないと興奮に押し流されて言えないと思ったから。心臓がばくばくいってるのが分かる。
だって、空想の存在で、両親が語っていただけの存在だった神様と、話しているのだ。さっき走ったせいで心臓が鳴っているのか、どうだかの区別もつかない。
「お話とか、しにきたの」
「話? わたしと?」
「うん」
早苗はこっくりと頷いた。
「そっか。でもさ、今日はちょっと暑いよねぇ」
手で日差しを遮って、空を見上げる。唐突な返事に、早苗は困惑しながら頷く。
「だからさ、アイスでも食べながら話そうよ」
ね、と神様――諏訪子は、にやりと笑った。早苗は、また石段を下りるのか、とげんなりしながら遥か遠くの地面を見下ろした。
その間に、諏訪子は早苗の後ろに回ると、その足と背中に手を回して、ひょい、と軽々抱き上げる。
「わぁっ!」
「いくよー!」
はぇ? と早苗が呟く瞬間に、諏訪子は思いっきり地面を踏みしめ、跳んだ。木や枝よりも、高く高く跳んだ。早苗は小さく息を飲み込んだ。風がごうごうと吹き抜けていく。髪を揺らしていく。景色が後ろに飛んでいく。風が冷たい。暑いはずの空気が違った。世界が変わったように思えた。
そこから、街がよく見えた。
早苗はこんな高いところまで来たことはもちろんない。高くから見る街は、いつもと違う。高くて、遠くて、息を飲むくらい近くて、自分なんてちっぽけだと思えて、だけど自分はここにいると思えた。そんなぐるぐるした思考。わけが分からなくて。でも単純にすごいと思った。
ひょう、と落ちる。
風を切って、落ちる。
高くから、落ちて落ちて、あわや地面にぶつかるというところで早苗は目を閉じた。ぎゅっと閉じて、だけども衝撃はなかった。そおっと目を開けると、諏訪子が微笑んでいた。
「ほら、アイスでも買いなよ。どれでもいいよ」
見ればそこに小さな商店があった。
しゃり。
ちょうど木陰になっている公園のベンチの上で、口の中にソーダ味の冷たさが弾けた。キーン、と頭痛が走り、早苗は頭を押さえる。隣に座る諏訪子がメロンソーダ味のアイスキャンディーを舐めながら、くす、と笑った。
「そう急ぐな。食べ物はどこにもいかないよ」
「だって溶けちゃうもん」
拗ねたように言う。諏訪子は、ぽかんとして、
「ああ、それも、そうだったな」
と、首を捻って笑うのだった。
早苗が幸せそうにアイスを頬張るのをじっと眺めて、微笑んでいた。自分のアイスを舐めながら、諏訪子は早苗の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「わぁ! なにするの!?」
「いんや、ちょっとな」
くしゃくしゃ。髪をかき混ぜ、枝毛を見つけては解いてやった。早苗はされるがままになって、そのままアイスを口に入れた。
――しゃり。
くすくす笑いながら、諏訪子もアイスを口に入れて、噛み砕いた。頭痛が襲って、思わず撫でるのをやめて、自分の額を押さえた。
「くぅ」
苦しそうな声をあげていると、早苗は笑った。半分涙目で諏訪子は早苗に目をやった。手を口に当てて押さえるようにして笑っている。
「おっかしい! かみさまでもそうなるんだ!」
「――どんなやつでもこうなるさ。夏の風物詩だよ、ホント」
「だね」
しばらく一緒にしゃりしゃりとアイスを食べていた。
木陰を風が流れていく。ざぁざぁと葉っぱが音をたてるたびに、早苗は心の中を風が通っていくような気持ちになった。胸が、すぅっとするような気持ち。
きっとあんまりにもアイスが美味しかったからだ。
早苗は諏訪子を、ちらっと見た。
会ってからまだそんなに時間がたってないのに、何故だか随分前から知っているように思える。早苗は諏訪子のことをお姉ちゃんみたい、と思った。ずっと長い間を過ごしてきたお姉ちゃんみたいに。
一人っ子だから、そういうのはよく分からないけど。
食べ終わってから、諏訪子は言った。
「さ、話そうよ」
早苗は目をぱちくりとさせた。
「おいおい、早苗が言ったんだよ、話したいってさ」
ぽん、と手を叩く早苗。呆れ顔の諏訪子。
「んーとね、いっぱいあるの。とーってもいっぱい。それでもいい?」
「ああ、いいよ」
「それじゃあね――――」
そうして早苗はたくさんのことを話した。
学校のこと。友達のこと。勉強のこと。最近のテレビのこと。家のこと。両親のこと。自分のこと。好きなもの。嫌いなもの。食べ物のこと。スポーツのこと。この間買った本の感想。神社のこと。お母さんが買ってきた安眠枕のこと。昨日のこと。よく分からないこと。諏訪子のこと。
取りとめのない話が続いた。
早苗は、ときに身振り手振りを交えて、楽しそうに話した。諏訪子もそれを楽しそうに聞いて、関心して、ときに驚いて、ときに深く頷いた。
早苗には、諏訪子が他人に思えなかった。初めて会ったときから、何故か家族みたいに感じたのだ。お母さんみたいで、お姉ちゃんみたいな感じ。早苗はよく分からなかった。
でも、なんだか安心して、話せた。
なんでも話せるような気がしてくるのだ。まるで、家族に話すかのような気軽さで、話すことができた。
「え、じゃあ諏訪さまはここから出れないの?」
「だねぇ。一応、わたしはこの土地の神様だしね。離れづらいというべきかな……全部あいつ任せだしなぁ」
ぼそ、と最後のところは聞こえないように呟いた。
「んー? だったらどこかへ行きたいなぁ、とかないの?」
「いきたいところはあるよ。けれど、どこへいきたいのかなぁ、って思っちゃってさ」
木漏れ日が揺れて、だからだろうか、早苗には少し悲しそうに見えた。表情はなに一つ変わらないはずのに、早苗はそう思った。
「早苗は――」
早苗の頭に手の平を乗せて、目線を合わせて諏訪子は問いかける。
「早苗は、どこにいきたい?」
「私?」
「うん」
んー、と空を見て、眩しくって目を閉じて、どこがいいかな、と考えて、
「とおく!」
と答えた。
「遠く?」
「うん。遠いところに行きたいな」
どこか遠くを見ながら、早苗は言う。遠いところ。住んでる街を離れて、遠くへ行ってみたい。まだ見たことのない場所に行ってみたい。早苗はそう思った。
「まだ見たことないものとか見たいかも」
諏訪子は小さく喉を震わせた。笑っているように思えた。
「じゃあさ」
「うん」
「わたしもいつかそこに、連れてってくれよ」
「うん!」
にっこりとした笑顔に、諏訪子は思わずして笑いが漏れた。ベンチに背を仰け反らせて、笑った。額に手を当てて、空を見上げ、笑った。
「じゃあ、いつか、頼むよ?」
「りょうかいです!」
ぴし、と早苗が敬礼したのを見て、諏訪子は「早苗、そのポーズの意味とか知らないだろうが」とか言って、また笑った。
早苗は小さく頬を染めて、くすり、と笑った。
◇
――そう。まだ見たことのない場所に。
◇
「んぅ」
身をよじって、諏訪子は小さく欠伸をした。目をぐしぐしと擦りながら、辺りをきょろきょろと見回した。そして、自分が列車の中にいることを確認して、早苗がすぐ近くにいることを確認した。
「ようやく起きましたか、諏訪子様」
「あぁ、おはよう」
「もう夕方ですよ」
「や、ごめんごめん」
ため息を一つ吐いて、早苗は諏訪子の頬に手をやった。
「まったく。今、どこにいるかも分からないんですよ? それなのにのん気に寝てしまって」
「いやいや、早苗が先に寝ちゃったんだよ?」
「はい!? 私がですか?」
自分を指差して、飛び上がるようにして驚いた。かたかたかた、とクーラーの音が小さく響く。
そういえば、と回想してみると、自分が列車に乗った記憶がまったくなかった。あれ? と頭を抱えてうーんと考えてみても、そんな記憶は本当に見つからなかったのだ。
「あー? 私はいつこの電車に乗ったんでしょうか?」
諏訪子はくっくっく、と喉を震わせた。
「憶えてないよなぁ。わたしが寝ちゃった早苗と一緒に駅で待ってたらね、駅員さんがやってきたのよ。わたしは笑いながら言ってやってわ。姉が寝てしまったんです。年上なのにみっともないですねぇ、ってさ」
その後、駅員さんに協力してもらって、来たときとは別のルートで帰れる電車に乗せてもらったのさ、と締めくくった。
早苗は恥ずかしさに顔を紅くした。頬が熱を持っているのが分かる。
それが本当の話だったのなら、恥ずかしいどころではない。
そこで、疑問が一つ現れた。
「あの、諏訪子様」
「なんだい?」
「普通の人にも見えるのですね」
「ああ、ちょっと頑張った。見えるように意識したのさ」
「そうですか」
早苗は、諏訪子の髪の毛を弄くりながら話す。
「ということは、私のときは」
「――ああ、懐かしい話だね。あのときは意識してなかったからさ。吃驚しちゃったよ」
本当だよ? と小首を傾げる諏訪子に、そうですか、と小さく返した。
そして、二人揃って、窓の外を眺めた。
ちょうど遠くに夕日が沈んでいくのが見える。流れている木々の隙間から、きらきらと光っているのが見えた。
「諏訪子様」
「ん?」
「私、諏訪子様が起きなかったら、どこまで行ってしまうんだろうな、って不安だったんです」
「しょうがなかったんだ。早苗、起きなかったし。わたしも眠かったしで」
「別に構いませんけど……このまま、どこかへ行ってしまうのもいいかな、とも思ってたんです」
「ふぅん」
「諏訪子様は、今、どこへ行きたいですか?」
「わたしが?」
「はい」
腕組みをしてしばらく考えて、んーっと窓の外を見て、諏訪子は言った。
「とりあえずさ」
「はい」
「家に帰りたいな、今は」
早苗は、ぽかんとした後に、くすくすと笑って、
「ですね」
と、だけを言った。
だんだんと見覚えのある景色が、窓の外に見えてきた。
かたん、ことん。列車が揺れる。
家に帰ったら、なにをしよう。
まず話そう。神奈子様に、今日行ったところの話を聞かせてあげよう。いっぱいいっぱい話してあげよう。
そう、考えた。
かたん、ことん。列車が揺れる。
◆
――それでどうするんだい?
――誰かに話してあげるんだ。私の思い出。
◇
[了]
ありがとうございました。
たぶん真冬に読んでも、真夏の暑さを肌に感じるだろう描写がステキでした。
あぁ、なんだろう。どこまでも遠くへ旅したい気持ち。
こういう雰囲気の話大好きです。
列車に乗ってる現在は幻想入りする前でしょうか?
現在の描写と神奈子との出会いが欲しかったです