幻想の音。
非自然的音とも言われるソレを聴くことが、私は好きだ。
私が召喚して使っているキーボードは不思議なものでそのような幻想の音が多数収められており、私は合奏時にドラムやピアノサウンドを鳴らす以外にそういった自然に無い音を出すことでアンサンブルに独特のファンタジーっぽさを加味する役割も負っている。
例えばそれは、春に春告精が飛ぶ時のフヨフヨという平和な音、夏に太陽が強く照る時のカッという烈しい音、秋に雨の降る時のサラサラという静かな音、冬に湖面が凍った時のキィンという鋭い音。
自然より人々が着想を得て生みだしたこれらの音は、しかし現実に聞こえることはなく、あくまで幻想の音でしかない。
そんな音をキーボードから発することにより、私達の合奏は聴く者に豊かな情景をダイレクトにイメージさせる音楽となるのだ。
しかし、そういった楽団員としての役割に関係無く、私は幻想の音を聴くのが好きだったりする。
なぜかと問われても、……ちゃんとした答えは自分でも分かっていない。
随分と昔、ルナサ姉さんにその理由を問われて「現実に聞くことができない音を聴くことができた時に、自分だけの宝物を見つけたようなドキドキを味わえるから」と答えたことがあった。その時は何故か姉さんに頭を撫でられ、それがすごく子供扱いしてるように感じられて、つい喧嘩をしてしまったんだっけ。
まぁ、今から見たら、なんとも子供っぽい回答だなぁと自分でも思うわけなんだけれど。
もっとも、そんな子供っぽい、初期衝動のような“なにか”が重要なファクターとなっているとも今の私は考えている。幼いころの考えが全部見当違いだなんて考える程、私はガキじゃないしね。
しかし、そうやって少し穿った考えを巡らせてみても、自分のこの気持ちの正体は依然として不明のまま。どうにもスッキリした答えは出てこない。
なぜ、私は幻想の音を聴くのが好きなのか。
私が各地に赴いて音楽を鳴らしているのは、それの答えを探したいからなのかもしれない。
でも正直言って、その答えは見つからないんじゃないかなぁ、という気持ちもある。
それに加え、見つからなくても別にいいや、とも思っていたりする。
なぜなら、たとえその答えが見つかることがなくても聞こえてくる幻想の音は変わることなく素敵なものだからだ。
例えば、先程のカフェーで早苗が去り際に見せた笑顔に私は確かに“サラリ”という薫風の吹く心地の良い音を聞いた。
現実に鳴る筈がないその音は、だがしかしメルラン姉さんのトランペットの音がけたたましく鳴り響いていたあの店内で、確かに聴こえたんだ。
その音が素敵だ、と思う理由が分からずとも、その音が素敵だと思う心に瑕疵が生じることなんてない。
その心に嘘があるはずもない。
ただ少し、気になっているだけなんだ。
雨の中でのライブ。
それはこれまで経験したことのないシチュエーションだ。
そんな特殊な条件下なら、もしかしたらこの気持ちの正体の手掛かりが掴めるかもしれない。
なんてことを、ぼんやりと考えた。
目の前の景色から“キラキラ”という気持ちの良い音が聞こえる。
霧が立ち込める湖は雲間から差し込んだ柔らかな陽の光を反射して静かに輝いており、なんとも綺麗だった。
「こんな調子で、ライブの時も晴れれば良いのにねー」
と、湖を眺めながらぼんやりと言うのはメルラン姉さん。
私もその思いには全面的に同感だ。
しかし、今日の天気予報は「午後から夜にかけての降水確率が60%」というデータを示している。楽観をしてはいけない。
「今は晴れているけれど、どうにも気圧のブレが大きいわ。もう少ししたら一雨来るかもね」
少しだけ晴れ間が覗いた空を見て、隣でムラサが言った。
「流石は船長。空模様を読めるなんて、とっても助かるわぁ」
「最近ようやく地底にいた頃のブランクを克服できたところだから、まだ百発百中というわけじゃないけれど。でも、今日の天気は分かりやすいわ。基本的にはただの曇天だけど、昼過ぎと日没付近の時間帯で二度、強い雨が降るでしょう」
「あらら。そうなのねー」
「……フフっ」
ん?
メルラン姉さんと話していたムラサが唐突に笑い始めた。
どうしたんだろ。
「あー、ごめんなさい。……いやね、貴方達、湖を見てぼんやりする顔がそっくりだなぁ、って思ってさ。やっぱり姉妹ねぇ」
そう言って、またフフフッと笑った。
むぅ。
三枚先の未来まで計算して動くこの頭脳明晰な私が幻想郷のミス・フリーインプロヴィゼーションたるメルラン姉さんとそっくりだなんて、ひどく心外である。
「似てないよ」
「ん、そう? 私から見れば、こう、目元がふにゃーってなるところなんてそっくりに――」
「似てないってば!」
「あら、ごめんなさいねムラサ。リリカってば、まだまだ反抗期を抜けてなくてねぇ」
「あぁ、そういうこと。分かったよ。私の配慮が足りなかったね。ごめんねリリカ」
ちょ、こいつら、誰を子供扱いしてるんだ。
反抗とか、そういうんじゃないっつーのッ。
なんだよムラサ。そのニヤニヤした顔は。
腹立つなー、もう。
「まぁまぁリリカ、落ち着いてー。ルナサ姉さんの準備ができるまではやることもないんだし、ぼんやりしちゃうのも仕方が無いわよー」
論点がズレてるよ、メルラン姉さん。
まったくもう。この姉と一緒の顔だなんて、誰が認められようか。
「まぁ、これが最後のブレイクタイムだろうね。ルナサの着替えが終わったら、そこからは休み無しにビシバシいくよ。舟幽霊のプライドに賭けて、全力でルナサの顔を水と触れ合せてあげよう!」
うおっと、ムラサが尋常じゃないやる気だ。
けれどなんでそんなに気合を入れてアンカーの素振りをしてるんだ。
うーん。心から協力してくれようとしているムラサには悪いが、舟幽霊の全力というのはどうしたってルナサ姉さんに余計なトラウマを植え付けるだけのような気がするんだけど。
「あぁ、腕がなるわ! 久しぶりに私の“水難事故を引き起こす程度の能力”を全力で発揮できるのね!」
ちょっと待てコラ。
「っと、ごめんなさい。久しぶりの水仕事でちょっとテンションが上がっちゃったわ。今の発言は聞かなかったことにして。……今のがもし聖の耳に入った日には、3ナムサンは確実だわ」
身体をブルルと震わせてムラサが言った。
ナムサンなるものの正確な実態は知らないが、風の噂で1ナムサンは約2トンと聞いたことがある。
……あまり深く首を突っ込まない方が良さそうだ。
「まぁ、色々不安点はあるけど、ムラサの水属性っぷりには期待をしてるよ。ルナサ姉さんと水をくっつけるキューピット役は任せたからね」
「大役をしかと承ったわ。この郷には水場が少ないからこれまではあんまり本領を出せなかったんだけれど、今日は全開でいくわよー」
果たしてどうなるやら。
カフェーにいた時から薄々気付いていたけど、この舟幽霊は紳士的な外面に反して結構ダメな幽霊だ。落ち着いたポーズを常に見せつつも考えていることは大抵箸にも棒にもかからないことばかりなのである。
ボケかツッコミかで言えば、確実にボケだ。しかも自分が常識霊だと思っているクチのボケだ。
水を扱う者ではあるのでこの特訓の段では頼りにしてはいるが、いつぶっ飛んだ行動をしだすかは分かったもんじゃない。いつでも飛びだせるよう、私は心構えをしておいた方が良いだろう。
ルナサ姉さんの特訓のコーチ役を申し出てくれたことには素直に感謝をしたいが、その内容がどのようなものかはまるで未知数の事なのだ。
「っていうかムラサさぁ、ここまで私達に付き合ってくれていいの?」
「気を遣わなくてもいいわよ。私は久しぶりに水仕事ができてハッピー、貴方達は雨に打ち勝つ修行ができてハッピー。それだけのことじゃない」
「それはそうなんだけど、……ムラサ、お寺の仕事とかは大丈夫なの?」
「私の仕事はそんなに無いのよ。船を出す時以外はちょっとした雑務があるくらい。だから私の心配なんてしなくていいわ」
ふむ。どうやらムラサは寺の仲間からもダメ幽霊として扱われているようだ。まぁ、そんな気はしていた。あんな有名な寺に住んでいながらこんな日中にフラフラと里を歩いてるなんて、余程仕事が無い者じゃないとできない所業だ。だいたい、今の口振りだと“船を出す時は忙しい”とでも言いたげだったが、あの船の運転は基本オートマチック。つまり、運行時でも仕事なんて船内の見回りくらいしかない筈なのである。
あぁ、なんとなく分かった。
ムラサは、今流行りの自宅警備員というヤツなんだな。
いや、けれどコイツは堂々と里を歩いたり湖まで足を延ばしたりしているんだ。この幽霊を自宅警備員なんて言ったら、全国にいらっしゃる自宅警備員のプロの方々に失礼だろう。
「……ちょっと、なんでそんな悲しそうな顔でこっちを見てるのよ」
いけない。ついつい思っていることを表情に出してしまったようだ。
「い、一応言っておきますけど、郷のパトロールだって私の仕事なんですからね! 今日は人里を見回ってるところで偶然困ってる貴方達を見つけて、それで協力をしようとしているのですから、言うなれば今も私は仕事中なのです!」
そんないきなり丁寧語で言われても困る。
体裁は良いが、結局今のセリフを分かりやすく訳すと“私の仕事は正義の味方です”だ。手に負えない。今すぐ脳のお医者さんを呼んで来るべきか。
「メルランッ! この子、見ててなんだか凄くイライラするんだけど、殴っていい!?」
「柄杓で? それともアンカーで?」
「アンカーで!!」
「ならいいわー」
「っしゃあ!!」
えっ、ちょ、えッ? メルラン姉さん!?
そこは「ならダメー」って言うところでしょう!?
なんで自称正義の味方にゴーサインを出しちゃうのよ! 何をしでかすか分かったもんじゃないのに!
「喰らいなさいリリカ! キャプテンコレダー!!」
ちょ、待っ、避けきれな――!
「……なにをやっているのよ」
瞬間、控えめに弦を弾いたような凛とした声が鳴った。
「ルナサ姉さん! ナイスタイミング――ッ!?」
振り向いた先には木陰から出てきたばかりのルナサ姉さんが立っていた。
旧型スクール水着を着て。
「えぇええええええええええっ!?」
や、ちょ、スク水って、えぇええええ!?
な、なんでスク水なの? どういうことなの?
「……流石はアリスだ。あの短時間でここまで私の体格に合った水着を作ってくれるなんて、本当に見事。ところでリリカ、何をそんなに驚いてるの?」
いや、そりゃ普通は驚くってば……。
カフェーを出た私達は水浴びをするのに適した着衣を持っていなかったルナサ姉さんに水着を買ってあげる為、まず里の服屋に赴いた。そこで偶然アリスと出会い、事情を話したところ「分かったわ。二十分程時間をくれれば、私が水着を用意してあげるわ」と言ってくれて、そしてアリス邸にて本当に二十分で水着をこしらえてくれたのだ。丁寧に梱包された水着を手渡すアリスが代金を支払おうとした時にクールに言った「ただ私が作ってみたかった服があっただけだから作ってみただけ。お代なんていらないわよ」というセリフに、私は思わず感動すらしてしまったものだ。
その感動を返して欲しい。
スク水を二十分で作り上げるという技術は本当に凄いと思う。けどそれはきっと、日々の修行の成果であるわけで。つまり、アリスは毎日ひとり家に籠ってスク水作りに精を出していたというわけで……。
なんだか、アリスに友達がいない理由が分かった気がした。
「……リリカ、だいじょうぶ?」
ふと気付くと、目の前には心配そうにこちらを見つめるルナサ姉さんの姿があった。
丸首から覗く白い肌と濃い紺色をしたスクール水着が織り成す色彩のコントラストに思わず目を見張る。
それより視線を少し下に向けると柔らかい陵丘がピッチリとした水着によって慎ましくも確かにその存在を主張させており、さらに下へと見進めれば抱き締めると折れてしまうのではないかと危惧してしまう程に細い腰が紺色によって締められていた。視野を広くとって全体を見てみると、ざらざらとした生地の水着がスラリと伸びる手足のキメの細かさをより一層引き立てていて、お人形さんのように華奢なルナサ姉さんの肢体の美しさを芸術の域にまで昇華し、それでいて“オトナじゃないけど子供でもない”というガラスの如く壊れやすい思春期特有の扇情的魅力を有しているその姿に私はおもわず――
「……そんなに見られると、その、恥ずかしいんだけど」
ハぅッ!?
いけないいけない危ない危ない。思わず見惚れてしまっていた。
いや……、だがしかし、なんというか、
「ルナサ姉さん、似合ってるよ。すごくカワイイ」
「……ありがとう、リリカ」
そう言って照れながらもニコリと微笑むスク水姿のルナサ姉さんの可愛さときたら!
いやぁ、スクール水着。完璧に侮ってたわー。
きっと私のようなチンチクリンが着てもただ野暮ったくなるだけで、メルラン姉さんのようなスタイルの良い女の子が着ても単純にいやらしくなっちゃうだけなんだろうけれど、繊細なプロポーションを有するルナサ姉さんが着たらこんなに愛らしくなっちゃうものなんだね。これは目から鱗だったなー。
ここまでを見越してスクール水着を作ったというのならアリスのデザインセンスはきっと半端じゃないんだろう。
伊達にひとりでずっと手芸ばかりやってきたわけじゃない、ということか。
どうやら私は独女の力を侮り過ぎていたようだ。反省しよう。
「さて、どうやら準備は整ったようだし、そろそろ始めようか!」
「……うん、よろしく頼むよ、ムラサ」
そして傍に寄ってきたムラサは、コホンと一つ咳を挟み、「よーしそれじゃー」と気合を入れた。
さぁ、いよいよ特訓の開始だ
「私が訓練教官のキャプテン・ムラサである! 話しかけられたとき以外は口を開くな!口で×××たれる前と後にサーと言え! 分かった、ウジ虫!」
「いや、そーいうのはいいから」
私はグランドピアノをムラサの頭にヒットエンドラン。
「な、なにするのよリリカ! ちょっとしたお約束でしょう!?」
「お約束なんて気が回せるんだったら、その分さっさと進行してよ。限られた尺の中でわざわざ使い古された芸をするヤツに仕事をさせる程この業界は甘くないんだよ?」
霊としてはムラサの方が先輩であっても、芸能者としての場数は私の方が遥かに踏んでいることは確実なのだ。下らないおふざけにダメ出しするのは当然のことである。
つーか、さっさと始めろや。
「まぁいっか。それじゃルナサ。ここからは真面目に、ビシバシいくわよ」
「……さ、サー。分かったよ、サー」
いや、ルナサ姉さん。そんな素直に従わなくていいから……。
「それではさっそく、湖に入ってみましょうか」
言って、ムラサはトコトコとルナサ姉さんの背を湖へと押し進める。
ルナサ姉さんはもちろん泳ぐことなどできない。しかし、陸上においてもフヨフヨと浮いていられる騒霊である私達は立ち泳ぎなどをせずとも思うがままに水中に浮かぶことが可能だ。
姉さんを入水させることに対しては、なんの不安も無い。
一瞬だけ顔をしかめた姉さんではあるが、それ以外にこれといった拒否反応を表すこともなくジャブンと湖に身を飛び込ませた。
なかなか順調じゃん。
「……思っていたより大丈夫かもしれない」
一旦は全身を水中に沈ませたルナサ姉さんがスゥっと浮上し、そして肩から上だけを水面から覗かせてポツリと言った。
「頑張って、ルナサ姉さーん」
顔面に拭いきれないだけの水滴を付けながらも、その表情にはこれといって嫌がる素振りは見えない。
その姿に、ルナサ姉さんの覚悟の強さを思い知った。
「姉さん、その状態から目を開けられる?」
「……うん、大丈夫」
そして、ゆっくりと目を開いてこちらを見る。
前髪から水滴がポタポタと落ちるその顔には、コンプレックスなんて微塵も感じられないように思えた。
……これは、案外簡単にいけるんじゃないの?
今の時点で、こうやって顔を水につけても目を開けることができるんだ。ライブ中のハイになってる状態ならばそれこそ雨が目に入ろうと意に介さず合奏をやり通すことができるんじゃないだろうか。
なんて、希望的観測に胸を膨らませていたその瞬間。
ザブンと。
ルナサ姉さんが水の中に吸い込まれて、消えた。
って、……え?
「――なっ!!?」
な、なにが起こった!? 足をつったんだろうか! それともまさか、水中に潜む妖怪に襲われたのか!?
周りを見れば隣ではメルラン姉さんが暴れん坊将軍が峰打ちの乱舞をする際のテーマ曲を吹いているってコラ今はそんな場合じゃないでしょ!! そしてムラサは……、あれ?
どこにも、いない!?
「まさかあの舟幽霊!」
叫んで私は湖にダイブ。
冷えた水を掻き進み、現在進行形で水中の奥深くに引きずり込まれていっているルナサ姉さんの姿を確認すれば、その足はやはり、舟幽霊ムラサの手によって掴まれていた。
「ばびびべんばぼぼぼべぶばぶうべいばぁああああああああああああ!!」
「なにしてんだこのボケ舟幽霊がぁああああああああああああ!!」という私の心からのメッセージは水中であってもしっかりと伝わったのだろう。残念船長はルナサ姉さんから離れ、そして焦りながらも両手を頭上に挙げている。その素直な姿勢に敬意を込めて、私は全力でパイプオルガンを投げ込んであげた。
そして、キュッと目を瞑ったルナサ姉さんを抱え、陸へと上がる。
「ぷはぁっ!」
あぁもう。なにしてくれてんだあの舟幽霊は。スク水の優等生系美少女を相手に突発のホラー展開をカマすなんてどんなC級ムービーだよ。ニッチ過ぎてちっとも笑えないわ。
見ればルナサ姉さんは草の上に座ってひとり静かに膝を抱えていた。
ちくしょう、さっきまでは明るい雰囲気ができあがってたの、たった一瞬で鬱状態になっちゃっている。
傍に寄ると、ルナサ姉さんは「大きな空を……、眺めたら……、黄色い雲が……、飛んでいた……」と、現実逃避をバッチリにキメた日曜日の様相を呟いていた。
マズイ。これは非常にキている。
道行く人々に見られたら親切心から救急車を呼ばれてしまうことが必至な程に顔が蒼い。
パーフェクトにブルーマンデーだ。
「ちょっとリリカ、なにするのよー」
湖面から残念船長がたんこぶを撫でながら顔を出した。
「なにするのよ」なんてこっちのセリフだ。スク水の姉さんを抱えることができるというシチュエーションを私に用意してくれた以外に今の行動に褒めるべきポイントなんて微塵も無かったことは誰の目にも明らかだろう!
ここは一つ怒鳴りでもしないと私の気が済みそうにない!
「なにするのよ、じゃないわよ! 見なさいよ、スク水を着て全身から水を滴らせながら体育座りをするルナサ姉さんのこの姿を! ひどく興奮するでしょう!?」
「なに言ってるのよ貴方」
イケナイ。つい心の声が出てしまった。
ちょっと落ち着こうか、私。
丁度良いタイミングでメルラン姉さんの暴れん坊演奏も終わったことだしね。っていうか、自分の姉がピンチの時にマツケンがハッスルする時の曲を吹くなんて、メルラン姉さんは本当に何を考えてるんだか。
「それで? いきなり姉さんを溺れさせるなんて、どういうつもりなのよ」
「あのねぇ、別に私はふざけてやったわけじゃないのよ?」
言って、ムラサは陸に上がり、ルナサ姉さんに近付いて、
「ルナサ、ちょっと失礼するわよ」
柄杓に溜まっていた水をパチャリと姉さんの顔めがけて振り撒いた。
「ぅぁ」
「どう、目に水が入るの、まだ我慢できない程嫌かしら?」
「……嫌じゃ、ない。水中に引き込まれるのに比べれば、全然マシ」
「それなら良かったわ」
そして舟幽霊はこちらを見てニッと笑った。
「まだ私が人間で、そして子どもだった頃は私も水に顔をつけるのが嫌いだったの。けれど、そうやってウダウダしてる時に親に海へと叩き落とされてねぇ。あの時は本当に死ぬかと思ったけど、それを一回経験してみると大抵のことは我慢できるようになっちゃったのよ」
むぅ、よく分かんないけど一種のショック療法みたいなものなのだろうか。湖で泳いでいたら突然幽霊に足を掴まれて沈められた、なんて普通の人ならもう二度と水場に近寄らないことを決意するレベルのトラウマにしかならないように思えるんだけど。
でもまぁ、実際にルナサ姉さんはそれで水に対する耐性を身に付けたようだし、良しとしようか。
「ふむ……」
見ればムラサはとても真剣な顔で何事かを考えている。
彼女は残念船長である前に舟幽霊、ということか。水に対する知識は私よりも遥かに多く持っているのは確かだろう。
ここは彼女を信じ、ルナサ姉さんを任せるとしようか。
私は応援するだけの立場に徹しよう。
「リリカ、そんな格好のままでいると、風邪をひくわよー」
と、そんなことを考えていたらメルラン姉さんが声をかけてくれた。
そしてようやく、私は今の自分の状態に気付いた。
「あー、せっかくの衣装がビショビショ……」
思わず飛び込んでしまったが、今の私は本番用の衣装を着たままだったのだ。
もちろん全身はずぶ濡れで、衣装は水を吸って重い。
まったく、ムラサめ。訓練の一環だというんなら、そういうことは事前に教えてくれれば良かったのに。どうすんだよ、この服。
うーん。
「……メルラン姉さん。なんか、服を乾かすのに丁度良い魔法って使えたりしないー?」
「使えるわよー」
え、マジで?
適当に言ってみたんだけど、まさか本当に使えるとは。流石はプリズムリバー家最強の魔法の使い手だ。こちらの想像を容易く超えてくれる。
正直、これはかなり嬉しい。
ライブ直前に濡れ鼠になって風邪をひいちゃいました、なんて全然笑えないしね。
「じゃあお願いしていいかなー」
「了解したわー」
ありがたい。これはマジでありがたい。
「いやー、助かったよ。メルラン姉さんの魔法のバリエーションはすごいねー」
「ふふっ、おだてても何も出ないわよ? それじゃいくわよー。ベギラゴン!」
うわぁ、凄い熱閃だなぁ、これなら水に浸した洋服だってすぐに乾くどころか消し炭になっちゃうぞぉっておぃいいいいい!?
「ちょ、危なッッッ!!」
「おぉー、ナイスグレイズ」
放たれた熱閃は大気を燃やしながら私の右肩5センチ先を駆け抜けていった。
「ナイスグレイズ、じゃないでしょ! っていうか私もよく避けれたな!」
「やるわねリリカ。流石は私の自慢の妹だわ」
「え、な、なんで!? なんでいきなり自慢の妹にベギラゴンを撃ったの!? ベギラゴンは決して“服を乾かすのに丁度良い魔法”なんかじゃないよ!?」
「今のはメラゾーマではない。メラだ!」
「ベギラゴンだよね! メルラン姉さんは今確かにベギラゴンって言ったよね! ねぇ、なんで!? なんでメルラン姉さんはそんなに自由なの!?」
「んー、だってねぇ」
スッとメルラン姉さんが差した指の先を見ると、そこではルナサ姉さんがムラサの柄杓から振り撒かれる水を一生懸命に耐えていた。
「真面目な姉さんの性格上、私達が特訓をジッと見守ったり声を出して応援してあげたりするのは良くないと思うのよ。“私の特訓に妹たちを付き合わせている”なんて考えて変に緊張しちゃうのが姉さんなんだから、私達は極力姉さんに意識を集中しないでいるべきだわ」
む、むぅ……。
確かに、そうだ。メルラン姉さんの言っていることは正しい。
私達がルナサ姉さんの特訓を静かに見守ったところでそれはプレッシャーにしかならないはずだ。ならば私達は自由に遊んでいた方が、ルナサ姉さんとしても気が楽だろう。
「つまり私がベキラゴンを放ったのは、ひとえに姉さんの為なのよ!」
でもそれは違うと思う。絶対に違うと思う。
けれど、まぁ、ルナサ姉さんに意識を集中しないという考えには賛成。
それならばなにか手を動かしてた方が気も紛れるのも確かだろう。
そのことを考えた上で私にちょっかいを出してきたというのなら、やはりこの姉は侮れない。
メルラン姉さんは直感的に理に適った行動をとることが多々ある。
今のも結局はそういったことだったんだろう。
見れば、メルラン姉さんは「ファイガってどうやって撃つんだっけー」と、なにやら不穏なことを呟いて掌をニギニギしていた。
……理に適った行動をとることが多々あるんだけれど、それ以上にフリーダムな行動をとりまくるのがメルラン姉さんなんだ。うん。そんなことは、私は誰よりも知ってる。
まったくもう。
とりあえず、この服は自分で乾かすとしようか。
「しょうがないなー。面倒だけど衣装は自分でどうにかする。もう絶対メルラン姉さんなんかには頼まないからね」
「あらら、リリカに嫌われちゃったわ」
なんで笑顔のままでそんなセリフを言うかな、この姉は。ホントにさぁ。
まぁいいや。こうなったら素直に服を脱いで自分で乾かすしかない。
簡単な送風の魔法なら私だって使える。
パッパと脱いでパッパと終わらせちゃおう。
この辺りに男の人がいるわけでもないしね。
今、湖畔にいるのは私達と妖精ぐらいだ。なんとも平和なものである。
そういえば、と思い見てみれば、案の定ムラサもびしょ濡れの姿となっていた。しかし、そんな自身の状態をそのままにルナサ姉さんのコーチ役を休まずに続けている彼女はやはり真摯な舟幽霊なのだろう。熱心にルナサ姉さんにアドバイスをする顔はとても真剣だった。そして下着の色は初夏らしいペールミントグリーンだった。
もっと透けない色を選べばいいのに。
なんてことを思い、そして服を脱ぎ、ドロワとキャミだけの格好になって衣装に魔法の風をあてる。
隣ではメルラン姉さんがメラとヒャドを混ぜ合わせて遊んでいた。
なにやってんだよこの姉はもう……。
向こうから、ルナサ姉さんとムラサが特訓をする声が聞こえる。
私はそれとなくその音に耳を傾けた。
特訓するふたりにこっそりと意識を向け、時折近くで遊んでいるメルラン姉さんに目を向ける。そうして、風を吹かせ、衣装の水気をゆっくりと丁寧に蒸発させていく。
赤い洋服がユラユラと風に流れ、私の髪もサワサワと揺れる。
そんな、柔らかな日差しの午後。
不思議に平和だな、と、
ぼんやりと思った。
その時、空の向こうから大きな黒雲が迫って来るのが見えた。
うーん。ついに来ちゃったか。
だがまぁ、これはあくまで想定の範囲内のこと。それをクリアーするためにルナサ姉さんは今がんばっているんだ。私にできることはと言えばルナサ姉さんの特訓が成功するように祈ることくらいなのだから、悲観的になってはいけない。
ちらりと、特訓中のふたりに目を向ける。
今はルナサ姉さんは湖には入らず、平らな岩の上で仰向けになっていた。
そこに、ムラサが柄杓の水をチョロチョロと垂らしている。
「ほーら、ドンドン水がかかっちゃうよー?」
「……く、うぅ」
「ほらほら、閉じちゃダメでしょ? さぁ、開いて?」
「……う、うん」
「よしよし、よくできました。それじゃご褒美に、もっともっとかけちゃうよー?」
「うぁ……!」
傍で聞いてるだけじゃなんかのプレイとしか思えないけれど、ふたりはあくまで真面目なのだ。
グッと力を込めて目を見開くルナサ姉さんの姿はどこまでも健気。一方、柄杓を傾けるムラサの顔も非常に深みのある思案顔で、真剣な心構えを意識せずとも読み取れる。
あくまも、真面目なのだ。
「リリカ? なんでお顔が真っ赤なのー?」
メルラン姉さん、うるさい。
「姉さんは頑張ってるわねぇ。そして、ムラサは流石ね。あの顔はきっと」
そしてメルラン姉さんは目を薄く開いて言った。
「気付いているわね」
気付いている?
はて、何を?
と、そう問いかけようとしたが、しかしメルラン姉さんは既にトランペットに口をつけていて質問することはできなかった。
そして、メロディーを鳴らす。
吹いている曲は『スロウレイン』。つい最近の日本のロックバンドの楽曲だ。
これといって好きな曲じゃないので歌詞や譜面までは覚えていないけど。
私には分からなかった。
メルラン姉さんがなぜ唐突にこのイマドキの楽曲を吹き始めたのか。
ギターサウンドのロックミュージックを管楽器で吹くことになんの意味があるのか。
このアップテンポな曲にどんな想いを籠めているのか。
まったく本当に、メルラン姉さんは自由過ぎる。
私にはメルラン姉さんの考えなんてちっとも分からなかった。
瞬間。
天上にて、雷の鳴る音が轟いた。
そして、
パタ、
パタパタパタ、
と。
ついに、
天から降る雨が大地を、湖面を、そして私達を叩き始めた。
「リリカ、濡れちゃうわよー。バリアを張るから、早く服を着てこっちに来なさーい」
木陰に退避していたメルラン姉さんが言う。トランペットもいつの間に片付けていたのやら、今では完璧に防雨の態勢だ。この姉は存外に抜け目が無い。
生乾きの衣装を急いで着込み、私はそんなメルラン姉さんの傍へと走った。
そしてパッと、球状のバリアが張られる。
「ムラサの予報は大当たりね。本当に一雨来ちゃったわ」
「そだね」
……正直に言えば、あまり当たってほしくなかった予報だ。
ムラサはさっき「昼過ぎと日没付近の時間帯で二度、強い雨が降る」と言った。
今降っているのはもちろん昼過ぎの雨。
それが降ったということは、日没の頃にも雨が降るということもほぼ確定なんだろう。
それはつまり、“ライブの終盤で絶対に雨が降る”ということ。
いざその現実を突き付けられるとやはり、戸惑ってしまう。
「不安がらなくてもいいわよ、リリカ。今この雨が降ってくれたのはラッキーなことだわ。姉さんが今の内に雨に慣れてくれれば万事がオーケーだもの」
まぁ、それもそうか。
本番でいきなり降られるよりは今の内に一旦降ってくれた方が確かに安心できる。
特訓をしているルナサ姉さんには恵みの雨、ということになるのかな。
流石はメルラン姉さんだ。ポジティブシンキングが上手い。
「ルナサ、大丈夫?」
「……頑張る」
見れば、湖の傍ではルナサ姉さんが天を仰いでいた。
しかし、やはり雨が怖いのか、目を開けることは難しいようである。
薄目を開けてはキュッと瞑る。そんな動作を何度も繰り返していた。
そんなルナサ姉さんを虐めるかのように雨脚は更に強さを増していく。風だって出てきた。天では雷光が次から次へと生まれ、轟音が鳴り止む様子はまったく見受けられない。
こんなんじゃ、ルナサ姉さんじゃなくたって目を開けていられないだろう。
それでもルナサ姉さんは挫けずに、雨に挑んでいた。
……ホントに、凄い根性だなぁ。
と、見ればムラサがこちらに向かって飛んで来ている。
水のスペシャリストであるムラサも流石にこの天気には我慢できなかったのだろうか。
「あーもう、なんて激しい通り雨よ。この郷でこんなに酷い崩れ方は珍しいわ」
そう言って、メルラン姉さんのバリアの中に入った。
「おつかれムラサ。ホントに凄い雨風だね」
「まったくよ。私は一回休憩。けど、こんな状況でも休みを入れないなんてルナサは本当に真面目ね」
「まぁ、それがルナサ姉さんだから」
「ふむ」
髪を絞り、服を絞り、そしてムラサは一息を入れて、私とメルラン姉さんを見た。
「ねぇ。もし良かったらでいいんだけどさ」
そして言う。
「なんでルナサがあんなに雨が嫌いなのか、教えてもらっていい?」
うん?
ルナサ姉さんが、雨を、嫌っている?
はて、姉さんは水が目に入るのを嫌っている筈で、雨を嫌っている、と言うとそれは少しニュアンスが異なってくるが。
ムラサはいったい何を考えているんだ?
「さっきからルナサを見てて分かったんだけど、彼女は水が怖いわけじゃない。水が目に入るのは確かに嫌がってはいたけど、そんなのは一般人と同じレベル。訓練をしたらすぐに我慢できるようになったわ。彼女、今では普通に水中で目を開けられるわよ」
そう言ってムラサはこちらから視線を外し、ルナサ姉さんを見た。
追って、私もルナサ姉さんに目を向ける。
「けどね。なぜか“上から降ってくる水”だけには弱いの。真正面から水をぶち撒けられるのには我慢できるのに、頭上からゆっくりと垂らされる水には拒否反応を示すのよね」
天に顔を向けたルナサ姉さんは、だがしかし目を開けずに、何かに耐えるように直立していた。
「そこから推測できることは一つ。ルナサは雨が苦手、ということよ。どう、正解?」
再びこちらの眼を見るムラサ。
だがしかし、これはなんと答えるべきか。
正解? などと言われても困る。私だってそんなことは知らない。
しかし、不正解と言うのも気が引けるわけで――
「正解よ、ムラサ。流石ね」
メルラン姉さんが、いつもの調子で、当然のように答えた。
って、え?
や、待って。
ちょっと待って。
え、なにこれ。
どーいうこと?
ふたりが言っていることが、分からないんだけど。
この私が蚊帳の外? え?
いったいなにが進行してるの?
その時、メルラン姉さんが私の帽子を取って、
クシャリと、私の髪を撫でた。
「私達、騒霊三姉妹は、もともとはレイラっていう一人の人間の魔法から生まれたの」
ドクンと、心臓が跳ねた。
レイラ。
私達三姉妹の生みの親であると同時に、大切な妹。
「今でこそ私達は音楽活動に命を賭ける騒霊だけど、昔は全然そんなことはなくて、レイラと一緒に平和に暮らしているだけの存在だったの。あの頃はのんびりしてて、楽しい毎日だったわね」
去っていった家族の面影を騒霊に求めたか弱い少女。
ただの騒霊を自分の家族として愛した、誰よりも強い少女。
「けど、レイラはもちろん人間だから、私達と違って歳をとるのよね。享年は六十二歳。あの子らしい、静かな往生だったわ。月が綺麗で、雲が少しだけ浮かんでて、優しい風が吹いていて。あの夜のことは今でも鮮明に覚えてるわ」
少女は当たり前のように歳をとった。
けれども、彼女が私達の大切な妹であることに変わりは無かった。
少女は当たり前のように死んだ。
それでも、彼女が私達の大切な妹であることに変わりは無かった。
そんな夜の事を誰が忘れるだろうか。
「そんな夜、だったんだけどね」
あぁ、そうか。
そういうことだったのか。
ようやく、分かった。
「レイラを埋葬する時になって、いきなり雨が降ってきたの」
静かな夜は長くは続かず、天は唐突に泣きだした。
その中で私はワンワンと泣いた。メルラン姉さんだって泣いた。
もちろん、ルナサ姉さんも泣いていた。
「雨が、降っていたの」
人よりずっと素直で繊細で、そして優しいルナサ姉さんがあの夜をどんな想いで過ごしたのか。
雨に打たれながら土を掘ったあの時のルナサ姉さんの気持ちは。
雨を浴びながらレイラを埋めたあの時のルナサ姉さんの心境は。
雨を仰ぎながらルナサ姉さんが心に刻んでしまったイメージは。
雨を仰ぎながらルナサ姉さんが胸に抱いてしまったダメージは。
それを思うと、ギシリと心臓が軋んだ。
「……そうだったんだ」
受け止めるように、ムラサは静かに答えた。
「ねぇ、一つ聞いていい? もしかしたら貴方達に対してとても失礼な質問かもしれないけれど、答えて」
そして、ゆっくりとこちらを向き、問う。
「貴方達はあくまで騒霊。そのレイラという人間の少女の想いから生まれた、ちっぽけな霊。今の私の様な妖怪化した霊でもなければ、昔の私の様な縛霊とも異なる。もちろん幽霊でもないし、怨霊でもなく、当然亡霊でもない。そうよね?」
こちらを見る目に射抜くような鋭い眼光が見えた。
それを受けて私はただ、コクリと頷く。
「ならば、貴方達が今ここに存在してるのは……ハッキリ言って、おかしいわ。レイラさんという貴方達が存在するための大本がいなくなったのに貴方達が消えないでいるというのは、ありえないことなのよ」
もちろんそんなことは分かっている。
私達はレイラが生み出したポルターガイスト。
言ってしまえば、レイラの霊能力でしかない存在なんだ。
ホースから噴き出る水は、ホースが消失してしまうと当然存在できなくなる。
言うまでもないことだ。
私達は本来、とっくに消えているべき存在なのである。
「ねぇ、教えて。貴方達は、どうして今も、そんなに元気に生きていられるの?」
“元気に生きていられるの?”か。それは私達の正体を熟知している者でないと言えない言葉だろう。
大抵の者は私達をただの幽霊と勘違いし死後の存在だと思っている。だから“生きる”なんて言葉を私達に使う者は本当に稀だ。
そんな言葉を私達に向けて言い放った、目の前の舟幽霊。村紗水蜜。
彼女の表情はどこまでも鋭利で、まさに真剣の様相であった。
探し続けていた答えを私達に求めている。
そのような、ある種のすがる様な必死さが、彼女の言葉の内から垣間見えた。
「レイラがいなくなった時にどうして私達も消えなかったのか。……その理由は、実は私達にも分からないの
そんなムラサの想いを受けて、メルラン姉さんはいつも以上に優しく言葉を紡ぐ。
「レイラが亡くなってしばらく経っても一向に身体がそのままで、その時は私達も随分と驚いたわ。でもまぁ、遅かれ早かれ消えてしまうだろうことはなんとなく理解していた。だから、消えてしまうまでは騒霊らしく存分に騒いでやろう! なんて考えたのよね」
懐かしいあの頃を思い出して、姉さんはフフッと笑った。
「けど、それが随分と面白くてねぇ。より騒がしくするにはどうすればいいか、より面白くするにはどうすればいいか、より多くの者に衝撃を与えるにはどうすればいいか。そんなことを考えてる内に、私達はすっかり音楽にハマっちゃったのよ」
そんな姉さんを見つめるムラサの目が、少しだけ柔らかくなった。
「そうして、ライブをして、家に帰って練習して、またライブをして、練習して。そんな毎日を送っていたら、いつのまにかこんなに長生きしてたというわけ」
メルラン姉さんは誇るように腕を大きく広げた。
その顔には眩いばかりの笑顔。
誰にも覆しようのないハッピーを溢れんばかりに浮かべて、そして、
「レイラという私達の存在理由は消えた。けれど、今の私達には!」
太陽のように、元気に言った。
「音楽があるのよ!」
光が輝く音が鳴った。
発生源はもちろんメルラン姉さん。
その音があまりに面白くて、けれどもすごく綺麗で、私は思わず泣きそうになってしまった。
「だから、私達はこんなに元気に生きていられるのだと思うわ。……この答えで、満足して頂けたかしらー?」
理由も根拠も霊的力学もまったく無視して言い放ったその言葉には、しかし何よりも重い説得力がある。そう直感させるだけのエネルギーが、メルラン姉さんには確かにあった。
そしてそれを見ていたムラサが、光源を見るような顔をして笑った。
「なるほど。存在理由が消えた後に新たな存在理由を見つけた、ってことか」
満足した。
そんな表情で、ウンウンと頷いている。
「もっとも、ムラサは最初から分かってたようだけどねー」
「もう、そんな意地悪を言わないでよ。実際に貴方達の口から聞くことに意味があったんだから」
ムラサは最初から分かっていた?
はて、どういうことだろうか。
「……元々ね。舟幽霊の私がこの世に存在していた理由は“人間を海に沈めたい”っていう暗い欲望によるものだったの。自分が死んだ場所にずっと縛られるのは苦しかったけど、やりがいのあることだと思って何度も何度も舟を沈めたわ。自分はそういう存在でしかないって、本心から思ってたからね」
私の疑問を読み取ったのか、ムラサは唐突に語り始めた。
「けれど、そんなことの全てが聖と出会って変わった。業の深い存在理由から私を解き放ってくれた。……まぁつまり、私も貴方達と同様に、一度存在する理由を失った霊なのよ」
目を閉じて語るその顔は、暗い過去を思い出して後悔しているようで、
けれど、それを過去のものとしてくれた出会いにどこまでも感謝をしているようで、
私には表現しきれない、苦しそうな、泣きそうな、幸せそうな、そんなとても深い表情をムラサはしている。
「本当なら、聖に出会った時に私は消えるべきだったんだろうね、私は。けれど、つい“この方の為に働きたい!”なんて思っちゃってさ。そんなこんなで、私は今でも元気にこの世にいるわけ」
存在理由を一度は失ったけれど、その後に強い衝動を得て、それを理由にこの世に存在をし続ける。
結局、ムラサはそのようなシンパシーを私達に対して抱いていたんだろう。
もっとも、そんな風にセカンドライフを過ごしている者は、この郷では決して珍しくはない。
元々は恐ろしい妖怪だったが今では郷で悠々自適な生活をしている、なんて者は数え切れないほど多くいる。
それが、この幻想郷という地なのだから。
「けどさ。正直、……ちょっと不安なのよね」
突然、ムラサが悲しそうな声で言った。
こちらを見る顔は笑顔。けれど、眉は下がり目には力がなく、寂しい印象しか見受けられない表情であった。人生に疲れた人間の顔に似ているかもしれない。
「この郷は本当に平和なの。人と妖怪が憎しみあうことなんて無く、一定のルールの下で誰もが元気に遊べて、誰もが元気に生きられる。人も妖怪も関係無く、宴会では好きに飲み食いしてライブでは大声を出せる。聖が望んだカタチとは違うけれど、この郷ではまさしく人妖が平等に生きているわ」
笑顔によって閉じられた目は、私やメルラン姉さんではなく雨に向けられている。
なんとなくそんな気がした。
「……あまりにも平和過ぎてね。私が聖のためにやってあげられることが、無いのよ」
言って、頭を振った。
「あぁ、言わなくても大丈夫よ。この郷はとても素敵な場所だし、それに不満を漏らすことが最低だってことも分かってる。……ただ、どうしても、さ」
フッと、笑顔と言うにはあまりに寂しい顔で、
「なんで私はここにいるんだろう、って。私が存在する意味なんか無いんじゃないか、って。考えちゃうのよね」
ムラサは言った。
「なぜ自分はここにいるのか」という自己のアイデンティティーへの悩みは、人間ならば二、三十年も生きれば抱くこともなくなるものだろう。
けれど、私達、霊という存在は“想いが強大だからこそこの世にいられる”存在。
その想いが揺らぐことは直接、この世からの消滅へと繋がってしまう。
ただの青臭い悩みなどではない。
それはとても深刻な問題なんだ。
私達姉妹もかつて説教垂れの閻魔に存在理由を問われ、少し考えさせられたことがあった。
だから、彼女の気持ちはよく分かる。
「でも、貴方達の話を聞いてたら元気になった。理由云々で悩んでる暇があったら自分が愛するモノに力を注げ、ってことよね」
たぶんメルラン姉さんはそんな高尚な事なんて言ってないと思う。
私達は本当に単純に、やりたい事をやり続けただけなんだ。
閻魔に「お前ら、のんびりしてたらいつか簡単に消えちゃうよ」なんて内容の説教をされて、消えないために何ができるかと色々と考えた時も、至った結論は「ライブに出かけてもっといろんなヤツに私達の演奏を聴かせよう!」というものだった。
たぶん、人生なんてそんなもんなんじゃないだろうか。
私達のような霊に人生って単語が合うのかどうかは知らないけど。
たぶん、そんなもんなんじゃないかな。
あぁ、思い出した。
『スロウレイン』の歌詞。
サビの部分だけだけど、
「――その世界の雨は透明で、その未来の果てを祈っている。生まれた意味の一粒も、無くさぬように祈っている」
確か、こんな感じだった筈だ。
うーん。やっぱり、私はイマイチこの歌は好きじゃない。
生まれた意味なんて、そんな大切なものじゃないと思うんだよねぇ。
大切なのは、今何をしているか、でしょ。
生まれた意味に縛られて今したいことができないなんて、私はゴメンだね。
「ちょっと、リリカー。そんな思いっきり歌っちゃったら、結界の向こうから怖い人達が来ちゃうでしょー」
……まったく、メルラン姉さんってば。
笑顔でそんなセリフを言っても説得力が無いでしょ?
本心がバレバレだよ。
仕方ないなぁ、もう。
「私達は鳴らしたい時に鳴らし、歌いたい時に歌う。それだけでしょ。それでもしジャスラックが集金に来るってんなら、その時は何万だって払ってあげるわよ」
姉さんだってそう考えてる癖に、わざわざ私に言わせるなんてさ。
この姉はホント、自由なんだから。
「ふふ。流石は、私の自慢の妹だわ」
なんて言うメルラン姉さんの表情はキラッキラの笑顔。
でも別に、こんなことは褒められるまでのことじゃない。
私達にしてみれば当たり前のこと。
鳴らしたい時に鳴らし、歌いたい時に歌う。
うん。
この上なく、当たり前のことだ。
「……なんていうか、貴方達は本当に凄いわねぇ」
そんな私達を見て、ムラサは見惚れるように笑った。
けどねぇ。
そう言ってくれるのは嬉しいんだけどさ、
そんなことはないよ。
本当に、全然そんなことはないんだよ、ムラサ。
私達はちっとも凄くなんてない。
私達はやりたいことをやり続けただけで、凄いことなんてなんにもしてない。
そんな、好き放題やり続けていた騒霊の私達が消えていないんだから、ムラサが不安がることなんて何も無いんだよ。
そう言おうとして、しかし、私はそのセリフを飲み込む。
なんていうか、ソレはひどく安っぽい。
私のような百歳ちょっとのガキが千年近く霊として存在し続けたムラサにこんな言葉を贈ったところで、はたしてどんな意味があるだろう。
だいたい、説法ならば彼女が敬愛する聖の方が余程上手にやってくれる筈だ。私如きがベラベラ喋ってどうするっていうんだ。
私に、いや、私達にできることはそんなことじゃない。
私達は、言葉よりもストレートに心に響くものを知っている。
私達には、私達だからこそムラサに贈れるものがある。
「ムラサ。あなたを、今日のライブに招待するよ」
私はムラサの眼を見て宣言した。
「ん? 私、元々貴方達のライブを見に行くつもりだったんだけど……」
そして、そんな暢気なリアクションに、ガクッと肩を落とす。
うーん。カッコつかないなぁ……。
「あぁ、いや、そうじゃなくてー。招待席っていう、お金を支払わなくても座れる良い席があるのよ。そこにムラサを招待してあげるってこと」
「あら、そういうことだったのね。その席って、仲間も連れて行っていいの?」
「全然オッケー。まだ十席くらいは空いてる筈だから、ジャンジャン連れて来ちゃって」
「本当? それは嬉しいわね。なら、寺の皆を連れて聴きに行くわ」
そう言って、私の手をシェイクするムラサ。
こんなに喜ばれるなんて、嬉しいことだ。
「期待してて。最高のライブってやつを見せてあげるよ」
「ハードル上げるわねぇ。ま、存分に期待させてもらうわ」
ハードルなんて関係無い。
私達はただ最高の音楽を演奏したいだけ。
それだけなんだ。
ただ、今日は雨天決行というちょっと特別なシチュエーションというだけで、他は何も変わらない。
それが、私達プリズムリバー楽団なんだ。
見れば、雨脚は少しずつ弱くなっていっていた。
その雨の中で、ルナサ姉さんはひとり立って、ジッと天を見つめていた。
もしかしたら泣いているのかもしれない、と私は思った。
ルナサ姉さんの頬を流れる滴があまりに熱いもののように感じられたからだろうか。
その姿は儚く、そして強い。
雨なんかに私達の音楽は止められない。
そう主張するように、ルナサ姉さんはうろたえることなく、ただジッと立って、そして天を見つめていた。
旧型スクール水着を着て。
「――プッ、ククっ」
思わず笑ってしまった。
や、ルナサ姉さん。カワイイんだけれど、シリアスなこと考えてる時にその格好はちょっと勘弁だわ。
いや、もちろんカワイイんだけどね?
あーもう。カッコつかないなぁ。
でもまぁ、それはそれで私達らしいか。
やりたい放題をやってきた私達が誰から見てもカッコいい存在なわけがないんだし。
けれど、
ステージの上では、存分にカッコつけさせてもらうからね?
「さて、天気がマシになったことだし、私はルナサのコーチングに戻ろうかな」
そう言って、ムラサはルナサ姉さんのところへと飛んでいった。
それに気付いたルナサ姉さんがこちらを見て、ニコッと笑った。
旧型スクール水着を着て。
なんかもう、私は笑うしかなかった。
そして隣では、メルラン姉さんが『Singin' in the Rain』をトランペットで吹いていた。
そんな午後の時間が、ゆっくりと流れていた。
♪♪♪♪
そして、ついに、
ライブの時は来た。
ちょwwww
次を読んで来ます!
作者さんが描きたい部分を肥大化させて描いてる様は清々しくて気持ちいい
それで読み手までが作者さんと同じように楽しめるかどうかは、また別なんだけど
やっぱ趣味の書き物とはこうあるべきだと再認識してしまった
次に行ってきます。評価は最後に